101、道徳の本理の諭し
翁曰く、才智勝(すぐ)れたる者は、おおよそ道徳に遠きものなり。文学あれば(深く書物を読み解く学問をした人は)申韓(しんかん)を唱え(中国の戦国時代の韓非子や申不害の刑学、その法の説を話し)、文学なければ三国志、太閤記を引く。論語中庸などには一言も及ばざる物なり。如何となれば、道徳の本理は才智にては解せぬものなればなるべし。この流の人は必ず行い安き中庸を難(かた)しと為(す)るものなり。中庸に、賢者は之に過ぐとあり。うべなり、凡そ世人は、太閤記、三国誌等の俗書を好めども、甚だ宜しからず。さらでだに争気(そうき)盛んに、偽心(ぎしん)萌(きざ)し初(そめ)る若輩の者に、かゝる書を読ましむるは悪し。世人太閤記三国誌等を能く読めば怜利になるなどゝ云うは誤りなり。心すべし。 |
※補講※
中庸 「賢者過之」(けんじゃは、これにすぐ)
(すぐれた者は、中庸を超えて過ぎるという誤りを犯しがちである。) |
尊徳がここで三国志と言っているのは「通俗三国志」のことである。これは、「三国志」を基にして小説風に仕立てた「三国志演義」を翻訳した書物で活劇風に記されている。尊徳は、その「通俗三国志」や太閤記を読むことを全く否定しているのではなく、それらを読む前に、その基本的な思想を解説した論語や中庸などを読んで、心構えや信念、あるいは構想力などを高めて置くべきである、と主張している。
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101、修行の理の諭し
翁曰く、仏者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は、能く修行すべし。その地位に至る時は、国家を利益し、世を救うの外に道なく、世の中に益ある事を勤めるの外に道なし。譬えば山に登るが如し。山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰めれば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し。この場に至りて、仰ぎて弥々高きは只天のみなり。ここまで登るを修行と云う。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。 |
※補講※ |
103、先んずる理の諭し
翁曰く、何程勉強すといえども、何程倹約すといえども、歳暮に差し支える時は、勉強も勉強にあらず、倹約も倹約にあらず。それ先んずれば人を制し、後(おく)るれば人に制せらるという事あり。倹約も先んぜざれば用をなさず、後る時は無益なり。世の人この理に暗し。譬えば千円の身代、九百円に減ると、先ず一年は他借を以て暮す。故に又八百円に減るなり。この時初めて倹約して九百円にて暮す故に又七百円に減る。又改革をして八百円にて暮す。年々この如くなる故、労して功なく、終(つい)に滅亡に陥るなり。この時に至って、我れ不運なりなどゝ云う。不運なるにあらず、後るゝが故に借金に制せられしなり。只この一挙、先んずると後るゝとの違いにあり。千円の身代にて九百円に減らば、速にに八百円に引き去りて暮しを立つべし。八百円に減らば七百円に引き去るべし。これを先んずると云うなり。譬えば難治(なんじ)の腫物(はれもの)の出来たる時は、手にても足にても断然切りて捨つるが如し。姑息に流れ因循(いんじゅん)する時は、終(つい)に死に至り悔いて及ばざるに至る、恐るべし。 |
※補講※ |
104、国家の盛衰存亡の理の諭し
翁曰く、国家の盛衰存亡は、各々利を争うの甚(はなはだ)しきにあり。富者は足る事をしらず、世を救う心なく、有るが上にも願い求めて、己が勝手のみを工夫し、天恩も知らず国恩も思はず。貧者は又何をかして、己を利せんと思えども、工夫あらざれば、村費(そんぴ)の納む可きを滞(とどこお)り、作徳の出すべきを出さず、借りたる者を返さず、貧富共に義を忘れ、願いても祈りても出来難(がた)き工夫(くふう)のみをして、利を争い、その見込の外れたる時は身代限りと云い、大河のうき瀬に沈むなり。この大河も覚悟して入る時は、溺(おぼ)れ死するまでの事はなき故、又浮(うか)み出る事も向うの岸へ泳ぎ付く事も、あるなれども、覚悟なくして、この川に陥る者は、再浮(うか)み出る事出来ず、身を終るなり。愍(あわれ)む可し。我が教えは世上かゝる悪弊を除(のぞ)きて、安楽の地を得せしむるを勤めとす。 |
※補講※ |
105、天下国家、真の利益の諭し
翁曰く、天下国家、真の利益と云うものは、尤も利の少き処にある物なり。利の多きは、必ず真利にあらず。家の為土地の為に、利を興さんと思う時は、能く思慮を尽すべし。 |
※補講※ |
106、農工商の大道の諭し
翁曰く、財宝を産み出して、利を得るは農工なり。財宝を運転して、利を得るは商人なり。財宝を産出し、運転する農工商の大道を、勤めずして而て、富有を願うは、譬えば水門を閉じて、分水を争うが如し。智者のする処にあらざるなり。然るに世間智者と呼ばるゝ者のする処を見るに、農工商を勤めずして、只小智猾(かつ)才を振うて、財宝を得んと欲する者多し。誤まれりと云うべし、迷えりと云うべし。 |
※補講※ |
107、堅き身代の諭し
翁曰く、千円の資本にて、千円の商法をなす時は、他より見て危うき身代と云うなり。千円の身代にて八百円の商法をする時は、他より見て小なれど堅き身代と云う。この堅き身代と云はるゝ処に味わいあり益あるなり。然るを世間百円の元手にて弐百円の商法をするを働きき者と云へり。大なる誤謬(ごびゅう)と云うべし。 |
※補講※ |
108、常人の願いの非の諭し
翁曰く、常人の情願(じょうがん)は、固(もと)より遂(と)ぐべからず。願いても叶(かな)はざる事を願えばなり。常人は皆金銭の少きを憂いて、只多からん事を願う。若し金銭をして、人々願う処の如く多からしめば、何ぞ砂石と異(ことな)らんや。かくの如く金銭多くば、草鞋(わらじ)一足の代、銭一把(は)、旅泊一夜の代、銭一背負(せおい)なるべし。金銭の多きに過ぐるは、不弁利(フベンリ)の到りと云うべし。常人の願望は、かくの如き事多し。願いても叶わず、叶うても益なき事なり。世の中は金銭の少きこそ面白けれ。 |
※補講※ |
109、不止不転循環の理の諭し
翁曰く、仏説面白し、今近く譬えを取て云わゞ、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云うが如し。故に豆粒に向えば、汝は元草の化身なるぞ、疑わしく思わゞ、汝が過去を説いて聞せん、汝が前世は草にして、某の国某の村某が畑に生れて、雨風を凌ぎ炎暑を厭い草に覆(おお)われ、兄弟を間(ま)引きされ、辛苦患難を経て、豆粒となりたる汝なるぞ。この畑主の大恩を忘れず、又この草の恩を能く思いて、早くこの豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂せん事を願え。この豆粒の世は仮の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云うが如し。又草に向えば汝が前世は種なるぞ、この種の大恩に依て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥を吸い露を受け、花を開くに至れり。この恩を忘れず、早く未来の種を願え。この世は苦の世界にして、風雨寒暑の患(うれい)あり。早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵の中に、住する身となれと云うが如し。予、仏道を知らずといえども、おおよそこの如くなるべし。而て世界の百草、種になれば生ずる萌(きざ)しあり、生れば育つ萌しあり。育てば花咲く萌しあり、花さけば実を結ぶ萌しあり、実を結べば落る萌しあり、落れば又生ずる萌しあり。これを不止不転循環の理と云う。 |
※補講※ |
110、一休の歌問答の諭し
宮原瀛洲(えいしゅう)、問いて曰く、一休の歌に「坐禅する祖師の姿は加茂川に ころび流るゝ瓜か茄子か」とあり、歌の意如何。翁曰く、これは盆祭済みて精霊棚(しょうりょうだな)を川に流すを見てよめるなるべし。歌の意は、坐禅する僧を嘲(あざけ)るに似たれども、実は大に誉(ほめ)たるなり。瓜(うり)茄子(なす)の川に流れゆくを見よ、石に当り岩に触れても、障(さわ)りなく痛みなく、沈むといえども、忽ち浮かみ出で沈む事なし。これを如何なる世の変遷に遭遇するも、仏者の障りなく滞(とどこお)りなきを誉て、世上の人の、世変の為に浮瀬に沈むを賤しめ。且つこの世のみならず、来世の事をも含ませたるなるべし。それ鎌倉を見よ、源家も亡び、北条も上杉も亡びて、今跡形(あとかた)もなけれど、その代に建立せる建長、円覚、光明の諸寺は、現に今存在せり。則ちこの意なり、仏は元より世外の物なるが故に、世の海の風波には浮沈せずと云う道理をよめる歌にして別の意あるにはあらざるべし。 |
※補講※
※ 宮原瀛洲(みやはら えいしゅう、三浦・浦賀の豪商) 大磯宿の川崎屋孫衛門の遠縁に当たることから、知己を得、尊徳の教えと支援を受けて、事業を立て直した。
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111、暴風雨の諭し
翁曰く、天に暴風雨あり。これを防がんが為に四壁(へき)に大木を植え、水勢(せい)の向ふ堤(つつみ)には、牛枠(わく)に蛇籠(じゃかご)を設け、海岸に家あれば、乱杭(らんぐいに柵を掛(か)く。これ皆平日は無用の物なれども、暴風雨あらん時の為に、費用を惜しまずして修理するなり。それ天地にのみ暴風雨あるにあらず、往年大磯駅、その他所々に起りし暴徒乱民は、則ち土地の暴風雨なり。この暴風雨は必ずその地の大家に強く当る事、大木に風の強く当るが如し。地方豪家と呼ばるゝ者、この暴徒の防ぎを為さゞるは危うからずや。瀛洲(えいしゅう)問いて曰く、この予防の法方如何。翁曰く、平日心掛けて米金を蓄わえ、非常災害あらんとする時、これを施与するの外、道なし。敢(あ)えて問う、この予防に備ふる金員、その家の分限に依るといえども、おおよそ何程位備へて相当なるべきや。翁曰く、その家々に取りて第一等の親類一軒の交際費丈(だけ)を、年々この予防の為と、別途にして米麦稗(ひえ)粟(あわ)等を蓄わえ置いて、慈善の心を表わさば必ず免るべし。然りといえども、これはこれ暴徒の予防のみ、慈善に非ず。譬えば雨天の時、傘(からかさ)をさし蓑(みの)を着るに同じ。只ぬれざらんが為のみ。 |
※補講※
※ 「牛枠」(うしわく)河川の水防用に設けられた木材や竹の枠組 その中に石を詰める。
※ 「蛇籠」(じゃかご)河川の水防用に、竹や鉄線で円筒形に長く編んだ駕篭 その中に栗石(大きめの玉石)や砕石を詰めて、水流の方向等の調整用に、流れの中や河原と流れの境界辺りに設置する。
※ 「乱杭」(らんぐい) 河川や海岸の治水のために、水中や河原、海岸などに、特に規則性を持たせずに多数打ち込んだ杭杭の間に、木材を置いて柵としたりする。
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112、暴風に倒れし松の諭し
翁曰く、暴風に倒れし松は、雨露(ウロ)入にて既に倒れんと為る処の木なり。大風に破れし籬(まがき)も、杭(くい)朽繩(くちなわ)腐(くさ)れて、将(まさ)に破れんとする処の籬なり。それ風は平等均一に吹く物にして、松を倒さんと殊更(ことさら)に吹くにあらず。籬(マガキ)を破らんと分て吹くに非らねば、風なくとも倒るべきを、風を待て倒れ破れたるなり。天下の事皆然り。鎌倉の滅亡も、室町の亡滅も、人の家の滅却も皆同じ。 |
※補講※ |
113、不止不転の理、循環の理の諭し
翁曰く、それこの世界咲花は必ず散る。散るといへども又来る春は必ず花さく。春生ずる草は必ず秋風に枯る。枯るといへども又春風に逢(ア)ヘば必ず生ず。万物皆然り、然れば無常と云うも無常に非ず、有常と云も有常に非ず。種と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実となり、実と見る間に、元の種となる。然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、これを仏に不止不転の理と云ひ、儒に循環の理と云う。万物皆この道理に外(はず)るゝ事はあらず。 |
※補講※ |
114、善悪の理の諭し
翁曰く、儒に至善に止るとあり。仏に諸善奉行と云えり。然れどもその善と云う物、如何なる物ぞと云う事、慥(たしか)ならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、その為す処皆違(たが)えり。それ元善悪は一円也。盗人(ぬすびと)仲間にては、能く盗むを善とし、人を害しても盗みさえすれば善とするなるべし。然るに、世法は盗を大悪とす。その懸隔(けんかく)この如し。而して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立てたる物なり。譬えば草木の如き、何ぞ善悪あらんや。この人体よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす。食物になると、ならざるとを以てなり。天地何ぞこの別ちあらん。それ莠草(はぐさ)は、生るも早く茂るも早し、天地生々の道に随(したが)う事、速かなれば、これを善草と云うも不可なかるべし。米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随う事、甚だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云うも不可なかるべし。然るに只食うべきと、食う可からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出たる、癖(へき)道にあらずして何ぞ。この理を知らずばあるべからず。それ上下貴賤は勿論、貸す者と借りる者と、売る人と買う人と、又人を遣(つか)う者、人に遣わるゝ者に引当て、能く々思考すべし。世の中万般の事皆同じ。彼に善なれば是に悪しく、是に悪きは彼によし。生を殺して喰う者はよかるべけれど、喰わるゝ物には甚だ悪し。然りといえども、既に人体あり、生物を喰わざれば、生を遂(と)ぐる事能わざるを如何せん。米麦蔬菜(そさい)といえども、皆生物にあらずや。予、この理を尽し「見渡せば遠き近きは無かりけり 己々が住処(すみど)にぞある」と詠るなり。されども、これはその理を云るのみ。それ人は米食い虫なり。この米食虫の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖するを善とし、この三ツの物を、損害するを悪と定む。人道にて云う処の善悪は、是を定規とする也。これに基きて、諸般人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立し物なれば、天道とは格別なる事論を待たず。然といえども、天道に違うにはあらず、天道に順(したが)いつゝ違う処ある道理を知らしむるのみ。 |
※補講※
大學「在止於至善」(しぜんにとどまるにあり)(人は最高の善を実行する状態に止まるのを目標とすべし) |
「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)悪をしてはならない、多くの善を実行せよとの意味。 |
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115、天道と人道と異る道理の諭し
翁曰く、世の中、用をなす材木は、皆四角なり。然りといえども、天、人の為に四角なる木を生ぜず。故に満天下の山林に四角なる木なし。又皮もなく骨もなく、鎌鉾(かまぼこ)の如く半片(ぺん)の如き魚(うお)あらば、人の為弁利(べんり)なるべけれど、天これを生ぜず。故に、漫々たる大海に、かくの如き魚一尾もあらざるなり。又籾(もみ)もなく糠(ぬか)もなく、白米の如き米あらば、人の世この上もなき益なれども、天これを生ぜず。故に全国の田地に一粒もこの米なし。これを以て、天道と人道と異る道理を悟るべし、又南瓜(かぼちゃ)を植えれば必ず蔓(つる)あり、米を作れば必ず藁(わら)あり。これ又自然の理也。それ糠(ぬか)と米は一身同体なり。肉と骨も又同じ。肉多き魚は骨も大なり。然るを糠と骨とを嫌い、米と肉とを欲するは、人の私心なれば、天に対しては申し訳なかるべし。然りといへども、今まで喰いたる飯も(す)へれば喰ふ事の出来ぬ人体なれば仕方なし。能々この理を弁明すべし。この理を弁明せざれば、我が道は了解する事難(かた)く、行う事難し。 |
※補講※
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116、悟道者流の悟りの諭し
翁曰く、「咲ばちり ちれば又さき 年毎(としごと)に詠(なが)め尽せぬ花の色々」。困窮に陥り、如何ともすべき様(よう)なくて、売り出す物品を、安い物だと悦(よろこ)んで買い、又不運極(きわま)り拠(よりどころ)なく家を売りて裏店(うらだな)へ引込めば、表店(おもてだな)へ出て目出度しと悦ぶ者、絶えずある世の中なり。「増減は器(うつわ)傾く水と見よ こちらに増せばあちらへるなり」。物価の騰貴に、大利を得る者あれば大損の者あり。損をして悲しむあれば、利を得て悦ぶ者あり。苦楽存亡栄辱(えいじょく)得失、こちらが増すとあちらの減るとの外になし。皆これ自他を見る事能わざる半人足の、寄合(よりあい)仕事なり。「喰えばへり減れば又喰い いそがしや永き保ちのあらぬこの身ぞ」。屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵は石で築くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰い置く事は出来ず、やがて寒さが来るとて、着物を先に着て置くと云う事も出来ぬ人身なり。されば長くは生られぬは天命なり。「腹くちく喰(く)ふてつきひく女子等は 仏にまさる悟りなりけり」。我が腹に食満(みつ)れば寝て居るは、犬猫はじめ心無き物の常情なり。然るに食事を済ますと、直に明日喰うべき物を拵(こしらえ)るは、未来の明日の大切なる事を能く悟る故なり。この悟りこそ人道必用の悟りなれ。この理を能く悟れば、人間はそれにて事足るべし。これ我が教え、悟道の極意なり。悟道者流の悟りは、悟るも悟らざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし。「我といふその大元を尋(たずぬ)れば 食ふと着るとの二つなりけり」。人間世界の事は政事も教法も、皆この二つの安全を計る為のみ。その他は枝葉のみ潤色のみ。 |
※補講※ |
117、増殖の道の諭し
翁曰く、世の中、とかく増減の事に付き、さわがしき事多かれど、世上に云う増減と云うものは、譬えば水を入たる器の、彼方(かなた)此方(こなた)に傾むくが如し。彼方増せば此方へり、此方増せば彼方減るのみ。水に於ては増減ある事なし。彼方にて田地を買て悦べば、此方に田地を売て歎く者あり。只、彼方此方の違いあるのみ。本来増減なし。予が歌に「増減は器(うつわ)傾く水と見よ」と云う通り也。それ我が道の尊(とうと)む増殖の道はそれと異なる也。直(ただち)に天地の化育を賛成するの大道にして、米五合にても、麦一升にても、芋(いも)一株にても、天つ神の積み置かせらるゝ無尽蔵(むじんぞう)より、鍬(くわ)鎌(かま)の鍵を以てこの世上に取出す大道なり、これを真の増殖の道と云う。尊むべし務むべし。「天つ日の恵み積み置く無尽蔵 鍬でほり出せ鎌でかりとれ」。 |
※補講※ |
118、賤女(シヅノメ)賤男(シヅノオ)の諭し
翁曰く、それ日月清明(せいめい)、風雨順時を祈るの念は、天下の祈願所の神官僧侶は、忘るゝ時多かるべし。入作小作の作徳を頼みに、生活を立る、賤女(しずのめ)賤男(しずのお)に至りては、苗代(なわしろ)の時より刈り収むる日までは、片時も忘るゝ暇(ひま)あるべからず。その情、実に憐れむべし。予この情を、歌に述べんと思えども、意を尽す事あたはず。言葉足らざれば、聞こえ難(がた)からんか。「諸共(もろとも)に無事をぞ祈る年毎(としごと)に 種かす里の賤女(しずめ)賤(しず)の男(お)」。 |
※補講※
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119、善因善果、悪因悪果の諭し
翁曰く、善因には善果あり。悪因には悪果を結ぶことは、皆人の知る処なれども、目前に萌(きざ)して、目前に顕(あらわ)るゝものなれば、人々能く恐れ能く謹(つつし)みて、善種を植え悪種を除くべきなれども、如何せん。今日蒔(ま)く種の結果は、目前に萌さず、目前に現れずして、十年廿年乃至四十年五十年の後に現わるゝものなるが故に、人々迷うて懼(おそ)れず、歎(なげか)はしきことならずや。その上に又前世の宿縁あり。如何ともすべからず。これ世の人の迷いの元根なり。しかれども、世の中万般の事物、元因あらざるはなく結果あらざるはなし。一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福皆然り。恐れ慎(つつし)んで迷う事勿(なか)れ。 |
※補講※
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120、虚実の諭し
翁曰く、方今の世の中は虚(うそ)にても、差し支(つか)えなきが如くなれども、これはその相手も、又虚なればなり。虚と虚なるが故に、隙(げき)なく滞(とどこお)りなし。譬えば雲助(くもすけ)仲間の突合(つきあい)の如し。もし虚を以て実に対する時は、直に差し支うべし。譬えば百枚の紙、一枚とれば知れざるが如しといえども、九十九枚目に到りて不足す。百間の繩を五寸切るも同様、九十九間目に到りて、その足らざるを知る。人の身代一日十銭取りて十五銭遣(つか)い、廿銭取りて廿五銭遣う時は、年の暮迄はしれずといえども、大卅日に至りて、その不足あらはるゝなり。虚の実に対すべからざる、この如し。
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※補講※
雲助 江戸時代、宿駅で人足を確保するために、無宿の者を雇っておいて、必要な時に助郷役の代わりに使った。ここでは、街道筋の性質の良くない駕篭かき人夫のこと。 |