巻の一

 (最新見直し2010.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「二宮尊徳 『二宮翁夜話』」の「二宮翁夜話 (巻之一)」、「現代語新翻訳 気軽に読みたい人のための 二宮翁夜話 スーパー・マルチ・タレント 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方 中小企業診断士 茂呂戸志夫」の「巻の一」を参照する。ひとまず転載し、追々にれんだいこ風に書き換えて行くことにする。38話あり。

 2010.05.19日 れんだいこ拝


【二宮翁夜話 巻之一目次、福住正兄筆記】

 巻の1

第一話 誠の道の諭し 誠は、天地の間の現実の活動の中にある。それを見出して、人の世のために活用せよ
第二話 天理と人道の違いの諭し 天道と人道、天理には善悪の区別は無い。人道は、人に役立つもの便利なのを善とする
第三話 中庸の諭し 人道は、天理に従い、天理に逆らう
第四話 分限の戒めの諭し 人道は、欲を押さえ、情を制して、努力することで完成する。それが推譲の精神のもととなる
第五話 人道作為の道の諭し 人道は、維持に努めるべき道。天理に従う部分もあるが、殆どが作為の道である
第六話 克苦の諭し 人道は私欲に克って、努力して守るべきもの
第七話 人道の罪人の諭し 傍観者は罪人
第八話 神儒仏合一の諭し 真理に至る入り口は幾つもあるが、真理は一つ
第九話 小を積んで大をなすの道の諭し 物の値段や賃金が高いのは、それだけの力があるからである。それをうまく活用できないで他の国へ出て行くのは、間違っている
第十話 奉仕の精神の諭し 信念に基づいて一生懸命に努力し、決して見返りを求めてはならない
第十一話 分限と中庸の諭し 学問のための空疎な学問ではなく、世の中のためになることを実行できる学問こそ価値がある
第十二話 国家復興の道の諭し  天下国家の安寧と繁栄も自分の足元から
第十三話 吝(リン)か倹かの諭し 倹約や蓄えは、異変や事故に備えるためのもの
第十四話 「積小為大」の諭し 大きなことは、小さなことの集まり
第十五話 基礎より積むべしの諭し 小さなことから始める
第十六話 富国の道への諭し 富ませる元は貯蓄
第十七話 節約の諭し 出を制することが富裕への道
第十八話 神楽芸の諭し 技術を持った大神楽は、儒者に勝る
第十九話 命あってのもの種の諭し 物よりも命を惜しめ
第二十話 先に奉仕すべしの諭し 先に奉仕をすれば、あとからついてくるものがある
第二十一話 自己錬磨の諭し 内に誠があれば外に現れる。現れれば必ず認められる
第二十二話 経験智の諭し ことに長じた人は、ものごとの真(まこと)を外見からでも見分けられる
第二十三話 報徳法方の諭し 人は、事業が社会のために行なわれることを自覚し、それを子孫に伝えて行くことが大事な使命であることを知れ
第二十四話 推譲の教えの諭し 分度を知り、推譲の心を持つことが一家永続の源
第二十五話 店卸しの諭し 決定と注意が、ものごとをうまく運ばせる決め手
第二十六話  万事相対弁証法の諭し  対立するものごとは、本来一体であるが、対応する人の拠って立つ場に応じて、捉え方は変わる
第二十七話 禍福の理の諭し 禍福は表裏一体。人のためになることをすれば福となる
第二十八話 段々の理の諭し 事業においては、易しい部分から取り組む
第二十九話 算用の諭し 天理、天命とはいえ、その影響を変化させることは可能
第三十話 御恩返しに報いるの諭し 薄きに対しても、厚きを以って応えよ
第三十一話 勤惰性情の諭し 言葉の内容にその人の思考方向が見える。常に、善、良、上を志向する考え方を持つ
第三十二話 聖人の奥ゆかしさの諭し 聖人も、自分で聖人とは名乗っていない。他人が認めた結果、そう呼ばれるだけである
第三十三話 家宝取り扱いの諭し 老舗は、過去の人達の努力の上に成り立っている。それを今の自分の力で成り立っていると勘違いするな。また乱世と平時は同じではないから、時代に応じた考え方が必要
第三十四話 権勢謙虚の諭し 家禄や役職上の地位に、他人は頭を下げる
第三十五話 仕法遣い方の諭し 事業の初期に余力が出たときには、貯めることよりも、事業を効果的に進めるために、有効に使うことを考えよ
第三十六話 過ぎたるは及ばざるの諭し 過ぎたるは及ばざるが如し
第三十七話 内省の諭し 他人に意見をする前に、自分の心に意見せよ
第三十八話 仁政の諭し 分を守り、社会に譲ることが、仁徳であり、仁の多い社会は繁栄の道を進む

【二宮翁夜話 巻之一、福住正兄筆記】
 1、誠の道の諭し

 翁曰く、それ誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍(シヨジヤク)もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して忘れず。これぞ誠の道の本体なる。渇して飲み飢えて食らい、労(ツカ)れて寝(いね)さめて起く。皆この類(たぐい)なり。古歌に「水鳥のゆくもかへるも跡たえて されども道は忘れざりけり」(良寛の歌、但し「されども」は「ふれ(経れ)ども」が正しい)といへるが如し。それ記録もなく、書籍(シヨジヤク)もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり。

 それ我が教えは書籍を尊まず。故に天地を以て経文とす。予が歌に「音もなくかもなく常に天地(アメツチ)は書かざる経をくりかへしつ ゝ」とよめり。かくのごとく日々、繰返し繰返してしめさるゝ、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛るる尊き天地の経文を外(ホカ)にして、書籍の上に道を求むる学者輩(ハイ)の論説は取らざるなり。能く々目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり。

 それ世界横の平(タイラ)は水面を至れりとす、竪(タテ)の直(スグ)は、垂針(サゲブリ)を至れりとす。凡そかくの如き万古動かぬ物あればこそ、地球の測量もできるなれ。 これを外にして測量の術あらむや。 暦道の表(ヒヨウ)を立てゝ景(カゲ)を測るの法、 算術の九々の如き、 皆自然の規(ノリ)にして万古不易の物なり。この物によりてこそ、天文も考ふべく 暦法をも算すべけれ。この物を外にせばいかなる智者といへども、 術を施すに方なからん。それ我が道も又然り。

 天言(モノ)いはず、而して、四時(しいじ)行はれ百物成る処の不書の経文、不言の教戒、則ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(ミノ)るが如き、万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤めをなすべきなり。
 ※補講※ 

 論語陽貨「天何言哉、四時行焉、百物生焉」(てんなにをかいうや、しじおこなわれ、ひゃくぶつしょうず)。

 孔子が門人の子貢に、私が何も言わなくとも、自然界に学ぶべき教えはある。言葉だけを頼るな、と言った時の言葉)

 論語中庸「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也」(まことなるものはてんのみちなり、これをまことにするものは、ひとのみちなり。まことなるものは、つとめずしてあたり、おもわずしてえ、しょうようとしてみちにあたる、せいじんなり。これをまことにするものは、ぜんをえらびてかたくこれをとるものなり) 


 尊徳は、この夜話の全編を通して、「論語」、「大學」、「中庸」等からの言葉を用いて色々な説明を行っているが、それらを十分に咀嚼して用いている。書籍に頼りきらないで、且つ書籍の受け売りをしないで、書籍の中で述べていることを参考にして、自身の思想として紡ぎだしている。「夜話」の全編を通して、尊徳の説話において例示されるものは農業の現場の話題を中心としているが、後年(天保十三年)、治水土木技師としての技量を買われて当時の老中水野越前守の意により幕府に登用された事実を見ても、単なる「農」の人だけでなかったことが証明される。尊徳の偉さは、自身の立脚する農の持ち場から、主として当時の社会の財政再建を通しての世直し、世の立て替えを企図していたことに認められる。
 二  天理と人道の諭し

 翁曰く 、それ世界は旋転してやまず。寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬えば銭を遣(や)れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒(さめ)ても、居ても歩行(あるい)ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。ここにて薪をたきへらすほどは、山林にて生木(せいぼく)し、ここで喰い(へらす丈(だけ)の穀物は、田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、 世の中にて減るほどは、 田畑河海山林にて、生育し、生れたる子は、時々刻々年がより、築(つき)たる堤は時々刻々に崩れ、掘りたる堀は日々夜々に埋(うづま)り、葺きたる屋根は日々夜々に腐る。これ即ち天理の常なり。

 然るに人道は、これと異也。 如何(イカン)となれば、風雨定めなく、寒暑往来するこの世界に、毛羽なく鱗介(りんかい)なく、裸体(はだか)にて生れ出で、家がなければ雨露(あめつゆ)が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。ここに於て、人道と云う物を立て、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。よって人道と云い、天理より見る時は善悪はなし。その証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢(カイビャク)のむかしに帰る也。如何となれば、これ則ち天理自然の道なれば也。それ天に善悪なし、故に稲と莠(ハグサ)とを分(わか)たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。 人道はその天理に順(したがう)といへども、その内に各区別をなし、稗(ひえ)莠(はぐさ)を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。ここに到りては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なれば也。人道は譬えば料理物の如く、三倍酢の如く、 歴代の聖主賢臣料理し塩梅 (あんばい)して拵らへたる物也。 されば、ともすれば破れんとす。故に政(まつりごと)を立て、教えを立て、刑法を定め、礼法を制し、 やかましくうるさく、世話をやきて、 漸く人道は立つなり。然(しかる)を天理自然の道と思ふは、大なる誤也、能く思ふべし。

 ※補講※ 

 尊徳は、この説話で、天理と人道を採り上げている。天然自然の摂理である天理を聞き分けすること、天理に合わせて人道を打ち立てることの必要を説いている。但し、人道は、天理をそのままに引きうつすことではないと戒めている。

 三 中庸の諭し

 翁曰く、それ人道は譬えば、(小川に懸けられた)水車の如し。その形半分は水流に順い、半分は水流に逆(さからい)て輪廻す。丸に水中に入れば廻らずして流るべし。又水を離るれば廻る事あるべからず。それ仏家に所謂(いわゆる)知識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、譬えば水車の水を離れたるが如し。又凡俗の教義も聞かず義務もしらず、私欲一偏に着(ちゃく)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。共に社会の用をなさず、 故に人道は中庸を尊む。水車の中庸は、宜(よろし)き程に水中に入て、半分は水に順い、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり。人の道もその如く天理に順いて種を蒔き、 天理に逆うふて草を取り、欲に随(したがい)て家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり。

 ※補講※ 

 中庸とは「中とは、不偏不倚(ふい、気持ちが片寄らないこと)で、過不及の無いこと、庸とは平常の意味」朱子

 四 分限の戒めの諭し

 翁曰く、それ人道は人造なり。されば自然に行はるゝ処の天理とは格別なり。天理とは、春は生じ秋は枯れ、 火は燥(カワ)けるに付き、 水は卑(ヒキヽ)に流る。昼夜運動して万古易(カハ)らざる是(これ)なり。人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る。故に天道の自然に任すれば、忽に廃(すた)れて行はれず。故に人道は、情欲の侭(まま)にする時は、立たざるなり。譬えば漫々たる海上道なきが如きも、船道(フナミチ)を定め是によらざれば、 岩にふるゝ(座礁する)也。 道路も同じく、己が思ふ侭にゆく時は突当り、言語も同じく、思ふまゝに言葉を発する時は忽ち争(あらそい)を生ずる也。これによりて人道は、欲を押へ情を制し勤め々々て成る物なり。それ美食美服を欲するは天性の自然、これをためこれを忍びて家産の分内(ブンナイ)に随はしむ。身体の安逸奢侈を願ふも又同じ。好む処の酒を扣(ひか)へ、安逸を戒め、欲する処の美食美服を押へ、分限の内を省(はぶい)て有余を生じ、他に譲り向来に譲るべし、是を人道といふなり。

 ※補講※ 

 尊徳は、この説話で、分限の戒めを説いている。分限の戒めとは、欲望の調御を云う。欲を押さえた結果、時間や財産に余裕が出た時には社会へ活用すべしとしている。これを推譲と云う。(推譲に付いては、第七十九話で詳しく述べている)

 五  人道作為の道の諭し

 翁曰く、それ人の賤(いやし)む処の畜道は天理自然の道なり。尊む処の人道は天理に順うといへども 、又作為の道にして自然にあらず。如何となれば、雨にはぬれ日には照られ風には吹かれ、春は青草を喰い秋は木の実を喰い、有れば飽くまで喰い無き時は喰(くらわ)ずに居る。これ自然の道にあらずして何ぞ。居宅を作りて風雨を凌ぎ、蔵を作りて米粟を貯へ、衣服を製して寒暑を障(ささ)へ、四時共に米を喰うが如き。これ作為の道にあらずして何ぞ。自然の道にあらざる明か也。それ自然の道は、万古廃(すた)れず、作為の道は怠れば廃る。然るにその人作の道を誤って、天理自然の道と思ふが故に、願ふ事成らず思ふ事叶はず。終(つい)に我世は憂世なりなどゝいふに至る。それ人道は荒(クワウ)々たる原野の内、土地肥饒にして草木茂生する処を田畑となし、これには草の生ぜぬようにと願ひ、土性瘠薄(セキハク)にして草木繁茂せざる地を 秣場(マグサバ)となして、ここかしこには草の繁茂せん事を願ふが如し。ここを以て、人道は作為の道にして、自然の道にあらず、遠く隔りたる所の理を見るべきなり。

 ※補講※

 尊徳は、この説話で、人道は人が作り上げたものであることを忘れて、天道と同じように既にそこに存在している、と勘違いすることから、欲を制御しないままに、満たされないことへの不満を大きくしていく弊害があると、述べている。人道はあくまでも、天の法則、原理には従うものの、作為に基づくものであるので、それを維持していくには一層の自制と努力が必要となると教えているのである。我々は、ややもすると、自欲、我欲を制御するのを忘れて、今の楽しさ、今の繁栄ばかりを追い求め、後年への配慮を欠くこともある。今、多量のエネルギーを欲しがりながら、他方では、他人が力を尽くしてくれて、かけがえのない地球を守ってくれるのでは、と考えているようなことなのである。それでは未来の人道に、大きな欠陥を残してしまうことになりかねない。また、貪りに似た開発途上国からの物品の輸入活動は、それらの国々の未来を傷つけているかもしれないのである。自制、推譲という行動が必要な時であることを認識させられる。

 六 克苦の諭し

 翁曰く、天理と人道との差別を、能く弁別する人少し。それ人身あれば欲あるは則ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋(うづま)り橋は朽(くち)る。これ則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立(つきたて)、堀はさらひ、橋は掛替(かけかえ)るを以て道とす。かくの如く、天理と人道とは格別の物なるが故に、天理は万古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す。されば人道は勤(つとむ)るを以て尊(とうと)しとし、自然に任ずるを尊ばず。それ人道の勤むべきは、己に克(かつ)の教えなり。己は私欲也。私欲は田畑に譬えれば草なり。克つとは、この田畑に生ずる草を取り捨つるを云う。己に克つは、 我心の田畑に生ずる草をけづり捨て とり捨て、我心の米麦を、繁茂さする勤め也。是を人道といふ。論語に、己に克ちて礼に復(かえ)る、とあるは、この勤めなり。

 ※補講※

論語顔淵「克己復礼為仁」(おのれにかちて、れいにかえるを、じんとなす)

 七 人道の罪人の諭し

 翁常に曰く、人界に居て家根(やね)のもるを坐視し、道路の破損を傍観し、橋の朽ちたるをも憂えざる者は、則ち人道の罪人なり。

 ※補講※

 二宮尊徳は、この説話で、「不作為、無作為の罪」について述べている。

 八  神儒仏合一の諭し 

 翁曰く 、 世の中に誠の大道は只一筋なり。神(シン)と云い 儒と云い仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云うも、同じく入口の小路の名なり。それ何の教え何の宗旨といふが如きは、譬えばここに清水あり、この水にて藍(アイ)を解きて染(そ)むるを紺やと云ひ、 この水にて紫をときて染むるを紫やといふが如し。その元は一つの清水也。紫屋にては我が紫の妙なる事、天下の反物染むる物として、紫ならざるはなしとほこり、紺屋にては我が藍の徳たる洪大無辺也、故に一度この瓶(かめ)に入れば、物として紺とならざるはなしと云が如し。それが為に染められたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に有り難き物はなしと思ひ、紫宗の者は、我宗の紫ほど尊き物はなしと云に同じ。これ皆いわゆる三界城内を、躊躇して出る事あたはざる者也。それ紫も藍も、大地に打こぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰る也。

 そのごとく神儒仏を初め、心学性学等枚挙に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入口の名なり。この入口幾箇(いくつ)あるも至る処は必ず一の誠の道也。これを別々に道ありと思ふは迷ひ也。別々也と教えるは邪説也。譬えば不士山に登るが如し、先達に依て吉田より登るあり、須走(スバシリ)より登るあり、須山より登るあり といへども、その登る処の絶頂に至れば一つ也。かくの如くならざれば真(シン)の大道と云べからず。されども誠の道に導くと云て、誠の道に至らず。無益の枝道に引入るを、これを邪教と云う。誠の道に入らんとして、邪説に欺(あざむか)れて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路に陥るも、世の中少からず、慎まずばあるべからず。     

 ※補講※

三界(さんがい) 三種の迷いの世界(欲界、色界、無色界) 

 九  小を積んで大をなすの道の諭し

 越後国の産にて笠井亀蔵と云者あり。故ありて翁の僕(ボク)たり。翁諭して曰く、 汝は越後の産なり、越後は上国と聞けり、 如何(いか)なれば上国を去りて、他国に来れるや。亀蔵曰く、上国にあらず、田畑高価にして、田徳少し。江戸は大都会なれば、金を得る容易(たやす)からんと思ふて江戸に出づと。翁曰く、 汝過(あやま)てり、 それ越後は土地沃饒(ヨクジヤウ)なるが故に食物多し、食物多きが故に人員多し、人員多きが故に田畑高価なり、田畑高価なるが故に薄利なり。然るを田徳少しと云ふ。少きにあらず、田徳の多きなり、田徳多く土徳(ドトク)尊きが故に、田畑高価なるを下国と見て生国を捨(すて)、 他邦に流浪するは大なる過ちなり。過ちとしらば、速(スミヤカ)にその過ちを改めて、帰国すべし、越後にひとしき上国は他に少し、然るを下國と見しは過ちなり。

 これを今日、暑気の時節に譬へば、蚯蚓(ミヽズ)土中の炎熱に堪兼(タヘカネ)て、土中甚(ハナハダ)熱し、土中の外に出(いで)なば涼しき処あるべし、土中に居るは愚(グ)なりと考へ、地上に出(いで)て照り付られ死するに同じ。それ蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり。然れば何程熱(アツ)しとも、外を願はず、我本性に随ひ、土中に潜みさへすれば無事安穏なるに、 心得違ひして、地上に出(いで)たるが運のつき、迷(マヨヒ)より禍を招きしなり。それ汝もその如く、越後の上国に生れ、 田徳少し、 江戸に出(いで)なば、 金を得る事いと易からんと、思ひ違ひ、自国を捨(すて)たるが迷の元にして、みづから災を招きしなり、 然れば、今日過ちを改めて速(スミヤカ)に国に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤(ツトム)るの外あるべからず、心誠に爰(コヽ)に至らば、おのづから、安堵の地を得る必定なり、 猶(ナホ)迷(まよい)て江戸に流浪せば、詰(ツマ)りは蚯蚓の、土中をはなれて地上に出(いで)たると同じかるべし、 能(よく)この理を悟り過を悔ひ能(よく)改めて、安堵の地を求めよ。然らざれば今千金を与ふるとも、無益なるべし、我(わが)言ふ所必ず違(タガ)はじ。 

 ※補講※

 尊徳は、この説話で、諺にある「隣の糂汰味噌」(となりのじんだみそ、他人の物は何でも自分のよりも良く見える)ということを引き合いにして、軽はずみに自国を捨ててしまってはいけない、と教えている。

 一〇   奉仕の精神の諭し

 翁曰く、 親の子における、農の田畑に於る、我が道に同じ。親の子を育つ。無頼(ブライ)となるといへども養育料を如何せん。農の田を作る、凶歳なれば、肥代(コヤシダイ)も仕付料も皆損なり。それこの道を行はんと欲する者はこの理を弁(わきまえ)るべし、吾始(はじめ)て、小田原より下野(シモツケ)の物井の陣屋に至る。己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ゆだ)ねたり。これ則ちこの道理に基けるなり。

 それ釈(シヤク)氏は、生者必滅の理を悟り、 この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり。只この一理を悟るのみ。それ人、生れ出(いで)たる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり。長生といへども、百年を越(こゆ)るは稀なり、限りのしれたる事なり。 夭(わかじに)と云(いう)も寿(ナガイキ)と云うも、 実は毛弗の論(わずかな違い)なり。譬えば蝋燭に大中小あるに同じ。 大蝋といへども、火の付(つき)たる以上は四時間か五時間なるべし。 然れば人と生れ出(いで)たるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益也。故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり。

 予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」。それこの世は、 我(われ)人(ひと)ともに僅(わずか)の間の仮の世なれば、この身は、かりの身なる事明らかなり。 元のあるじとは天を云う。このかりの身を我身と思はず、生涯一途(ヅ)に世のため人のためのみを思ひ、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道(ミチ)橋(ハシ)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、それのみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我(わが)この身である、といふ心にてよめる也。これ我(ワレ)畢生(ヒツセイ)の覚悟なり。我が道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。
 ※補講※

 尊徳は、この説話で、人の生き方に於ける心構えについて諭している。親が子育てを例に挙げ、見返りを求めてはならないと厳しく戒めている。寿命の例を挙げ、僅かの命を社会に奉仕すべきだと説いている。
 一一 分限と中庸の諭し

 儒学者あり。曰く、孟子は易(やす)し中庸は難(かた)しと。翁曰く、予(われ)文字上の事はしらずといへども、これを実地正業に移して考ふる時は、孟子は難し中庸は易し。いかんとなれば、それ孟子の時道行れず、異端の説盛んなり。故にその弁明を勤めて道を開きしのみ、故に仁義を説いて仁義に遠し、卿等(キミタチ)孟子を易しとし孟子を好むは、己が心に合ふが故なり。卿等(ケイラ)が学問するの心、仁義を行なわんが為に学ぶにあらず、道を蹈(ふま)んが為に修行せしにあらず、只書物上の議論に勝ちさへすれば、それにて学問の道は足れりとせり。議論達者にして人を言い伏すれば、それにて儒者の勤めは立つと思へり。それ聖人の道、豈(あ)に然る物ならんや。聖人の道は仁を勤むるにあり、五倫五常を行ふにあり、何ぞ弁を以て人に勝つを道とせんや。人を言い伏するを以て勤めとせんや。孟子は則ちこれなり。かくの如きを聖人の道とする時は甚だ難道也。容易になし難し、故に孟子は難しといふ也。それ中庸は通常平易の道にして、 一歩より二歩三歩とゆくが如く、近きより遠きに及び、卑(ひきき)より高きに登り、小より大に至るの道にして、誠に行ひ易し。譬えば百石の身代の者、勤倹を勤め五十石にて暮し、五十石を譲りて国益を勤(つとむ)るは、誠に行ひ易し。愚夫愚婦にも出来ざる事なし。この道を行へば、学ばずして、仁なり義なり忠なり孝なり、 神の道、聖人の道、 一挙にして行はるべし、至て行ひ易き道なり、 故に中庸といひしなり。予(われ)人に教ふるに、吾道(わがみち)は分限を守るを以て本とし、分内を譲るを以て仁となすと教ゆ、豈(アニ)中庸にして行ひ易き道にあらずや。

 ※補講※ 

孟子(前372〜289)の時代は、戦国時代。孟子は各地で自説を諸侯に説いたが受け入れてもらえなかった。やむを得ず郷里に戻って、古典の整理と著作に励んだ。五倫とは、人の守るべき五つの倫理、人倫。父子(親)・君臣(義)・夫婦(別)・長幼(序)・朋友(信)。五常とは、一般には、人が常に行うべき正しいこと。仁、義、礼、智、信。また、父(義)母(慈)兄(友)弟(恭)子(孝)。

 「君子之道、辟如行遠必自邇、辟如登高必自卑」(くんしのみちは、たとえばとおきにいくに、かならずちかきよりするがごとく、たとえばたかきにのぼるにかならずひくきよりするがごとし)中庸

尊徳は、この説話で、指導者は、判り易く、実行し易いことを人に説け、と教えている。判り易く説けるということは、実行したことがあるか、実行するために勉強して良く理解した結果である。自分で実行出来ないことは判りやすく説けないのである。後の説話でもたびたび出てくるが、尊徳が良く説いている「積小為大」ということも、「中庸」を原点としているものと考えられる。

世の中には、良く弁が立つ人に出会うと、そのことだけで優秀な人材と思い込んでしまう人が多い。いわゆる、ハレーション効果と言われる現象に、幻惑されてしまうのである。特に、企業の経営者にその傾向が強い。企業活動は、弁論大会ではないのであるから、弁よりも実行力、行動力が大事なのであり、そのことも重々承知しているが、ついつい、自分に無いものに出会うと、それが立派に見えてしまい、惑ってしまうのである。再度、実行力優先ということを確認したいものである。

 一二    国家復興の道の諭し 

 翁曰く、道の行はるるや難(かた)し、道の行れざるや久し、その才ありといへども、その力なき時は行はれず。その才その力ありといへども、その徳なければ又行れず。その徳ありといへども、その位(くらい)なき時は又行れず。然れども是は是大道を国天下に行ふの事なり。その難き勿論なり、 然れば何ぞ、この人なきを憂へんや。何ぞその位(くらい)なきを憂ヘんや。茄子(ナス)をならするは茄子作り能くすべし、馬を肥(こや)すは馬士(マゴ)能(よく)すべし、一家を斉(トヽノ)ふるは亭主能(よく)すべし。 或いは兄弟親戚 相結んで行ひ、或は朋友同志相結んで行ふべし。人々この道を尽し、家々此道を行ひ、村々此道を行はヾ、豈(アニ)国家興復せざる事あらんや。    

 ※補講※ 

尊徳は、この説話で、国家運営であっても、国民一人を最小構成単位として国家が成り立っているのであるから、特別に大きな単位の事ばかり考えるのではなく、小さな単位の集まりと考えて、対処したほうが良いと教えている。

国家というものが、個人の集まりであるという視点から外れた時の政治は、国民の最大厚生の実現という本来目的から外れて、国家が国民を従えるという思考の政治に向ってしまうことを、尊徳は経験から良くわかっている。それは、尊徳が、桜町での業務執行の途上で小田原藩に提出した辞任許可申請に、書かれていることを見ても判る。

尊徳は、この説話では引用していないが、後のところでは、「大學」から、「一家仁なれば、一国仁に興る」を引用し、一家が治められない者に一国が治められる訳は無いとしている。最小単位の一家が正しく治められ、仁が実現していれば、やがてはそれが波及して、国も自動的にそうなるとしているのである。

 一三   吝(リン)か倹かの諭し

 翁曰く、世の中に事なしといへども、変なき事あたはず、これ恐るべきの第一なり。 変ありといへども、これを補ふの道あれば、変なきが如し。変ありて是を補ふ事あたはざれば、大変に至る。古語に、三年の貯蓄(たくわえ)なければ国にあらず、と云えり。兵隊ありといへども、武具軍用備らざればすべきやうなし。只国のみにあらず、家も又然り。それ万(よろづ)の事有余(ユフヨ)無けば、必ず差支へ出来(いでき)て家を保つ事能はず。然るをいはんや、国天下をや。人は云ふ、我が教え、倹約を専らにすと。倹約を専らとするにあらず、変に備えんが爲なり。人は云ふ、我道、積財を勤むと、積財を勤(つとむ)るにあらず、世を救ひ世を開かんが爲なり。古語に、 飲食を薄うして 孝を鬼神(きじん)に致し、衣服を悪(アシ)うして美を黻冕(フツベン)に致し、宮室を卑(いやしう)して力を溝洫(コウイキ<ママ>)に尽すと、 能々(よくよく)この理を玩味せば、吝(りん)か倹か弁を待(また)ずして明かなるべし。  

 ※補講※  

 「菲飲食、而致孝乎鬼神、悪衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、尽力溝洫」

(いんしょくをうすくして、こうをきしんにいたし、いふくをあしくしてびをふつべんにいたし、きゅうしつをひくくしてちからをこうきょくにつくす)(飲食を切り詰めて神々に真心を尽くし、衣服を質素にして祭りの前垂れと冠を立派なものにし、住まいを粗末にして灌漑の水路のために力を尽くす) 論語 泰伯

* 黻冕(フツベン)=礼服の、ひざかけとかんむり。 
* 溝洫(コウイキ)=「コウイキ」とあるが、漢和辞典によれば、「コウキョク」である。田間のみぞ。<ママ>は引用者が付けたもの。  ここに「古語」とあるのは、 『論語』(泰伯篇)にある孔子の言葉。

 一四 「積小為大」の諭し

 翁曰く、大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし、小積りて大となればなり、凡(およそ)小人の常、大なる事を欲して、小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、 出来易き事を勤めず。それ故、 終(つい)に大なる事をなす事あたはず。それ大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。譬えば 百万石の米と雖(いえど)も、粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも、その業(わざ)は一鍬づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(ひトモツコ)の土よりなる事を明かに弁へて、励精(レイセイ)小さなる事を勤めば、大なる事必(かならず)なるべし、小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必ず出来ぬものなり。 

 ※補講※  

 尊徳は、この説話で、「積小為大」の教えを説いている。尊徳の基本的な思想を構成する大事な諭しであるが、時として、これを「塵も積もれば山となる」という風に捉えて、尊徳の思想は、ちまちま、ケチケチとした考えであると批判する人が出てくる。しかし、それは大きな誤りである。尊徳は、総てのものごとは、最小単位から構成されることは間違いの無い事実であるから、その最小単位に眼を向けて、そこからしっかりと組み上げていかなければ、目的とするものごとの完成はおぼつかない、という事を主張しているのである。それが、「積小為大」なのである。一つ前の説話にあるように「ケチ」の教えとは違う。

 一五   基礎より積むべしの諭し

 翁曰く、万巻の書物ありといへども、無学の者に詮(せん)なし、隣家に金貸しありといへども、我に借(カ)る力なきを如何せん、向ひに米屋ありといへども、銭なければ買ふ事はならぬ也。されば書物を読(ヨマ)んと思はゞ、いろはより習ひ初(はじ)むべし、家を興さんと思はゞ、小より積(ツミ)初むべし。この外に術はあらざるなり。  

 ※補講※

初歩から、確実に進めて行くことが大事であると、教えてくれているのである。

 一六 富国の道への諭し   

 翁曰、多く稼いで、銭を少く遣(つか)い、多く薪(たきぎ)を取って焚く事は少くする、これを富国の大本、富国の達道といふ。然(しか)るを世の人これを吝嗇(りんしょく)といひ、又強欲と云う。これ心得違ひなり。それ人道は自然に反して、勤めて立つ処の道なれば貯蓄を尊(とうと)ぶが故なり。それ貯蓄は今年の物を来年に譲る、一つの譲道なり。親の身代を子に譲るも、則ち貯蓄の法に基(もとい)する物なり。人道は言ひもてゆけば貯蓄の一法のみ、故に是を富国の大本、富国の達道と云うなり。

 ※補講※

 一七 節約の諭し 

 翁曰く、米は多く蔵につんで少しづゝ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事は成る丈少くし、衣服は着らるるやうに扱(コシ)らへて、なる丈着ずして仕舞ひおくこそ、家を富(とま)すの術なれ。則ち国家経済の根元なり。天下を富有にするの大道も、その実この外にはあらぬなり。  

  ※補講※

 一八 神楽芸の諭し

 翁、宇津氏の邸内に寓す、邸内稲荷(いなり)社の祭礼(まつり)に大神楽(かぐら)来りて、建物の戯芸(ぎげい)をせり。翁、これを見て曰く、凡(およ)そ事この術の如くなさば、 百事成らざる事あらざるべし。 その場に出(いず)るや少しも噪(サワ)がず、 先(ま)ず体を定めて、両眼を見澄(スマ)して、棹の先に注(チウ)し、脇目も触(フ)らず、一心に見詰め、器械の動揺を心と腰に受け、手は笛を吹き扇を取て舞ひ、足は三番叟(さんバサウ)の拍子を蹈(ふ)むといへども、その ゆがみを見留(ミトメ)て腰にて差引す、その術(ジユツ)至れり尽(ツク)せり、手は舞ふといへども、手のみにして体に及ばず、足は蹈むといへども、足のみにして腰に及ばず、舞ふも躍るも両眼は急度(キツト)見詰め、心を鎮め、体(タイ)を定めたる事、大学論語の真理、聖人の秘訣、この一曲の中に備(ソナハ)れり。然るを之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、この大神楽の術(ジユツ)を賤しむ。儒生の如き、何ぞ国家の用に立(タヽ)んや。嗚呼(アヽ)術は恐るべし、綱渡りが綱の上に起臥して落(おち)ざるも又、これに同じ。能(よ)く思ふべき事なり。

 ※補講※

この説話を通して、尊徳の観察眼の素晴らしさに驚かされる。まず、観察を正しく、細密に行なうことが、総ての問題解決の基本であることを教えられる。

 一九  命あってのもの種の諭し 

 翁曰く、松明(タイマツ)尽(つ)きて、手に火の近付(ちかづく)時は速(すみやか)に捨(すつ)べし、火事あり、危(アヤウ)き時は荷物は捨(ステ)て逃出べし、大風にて船くつがへらんとせば、上荷を刎(ハヌ)べし、甚しき時は帆柱をも伐るべし、この理を知らざるを至愚といふ。 
 ※補講※
  二〇 先に奉仕すべしの諭し 

 川久保民次郎と云者あり、翁の親戚なれども、貧にして翁の僕たり。国に帰らんとして暇(いとま)を乞ふ。翁曰く、それ空腹なる時、他にゆきて一飯をたまはれ。予、庭をはかんと云うとも、決して一飯を振舞ふ者あるべからず。空腹をこらへて、まず庭をはかば或は一飯にありつく事あるべし。これ己を捨てて人に随ふの道にして、百事行はれ難き時に立至るも、行はるべき道なり。我、若年初(ハジメ)て家を持(もち)し時、一枚の鍬(クワ)損じたり。隣家に行(ゆき)て鍬をかし呉(くれ)よといふ。隣の翁曰く、今この畑を耕し菜を蒔かんとする処なり。蒔終らざれば貸し難しといへり。我家に帰るも別に為すべき業(ワザ)なし。予、この畑を耕して進ずべしと云て耕し、菜の種を出されよ、序(ツイデ)に蒔(まき)て進ぜんと云て、耕し且蒔て、後に鍬をかりし事あり。隣翁曰く、鍬に限らず何にても差支(サシツカヘ)の事あらば、遠慮なく申されよ。必ず用達べしといへる事ありき。かくの如くすれば、百事差支なきものなり。汝国に帰り、新(あらた)に一家を持たば、必ずこの(心得あるべし。それ汝未(いまだ)壮年なり。終夜(ヨモスガラ)いねざるも障(サハ)りなかるべし、 夜々寝る暇(ヒマ)を励(はげま)し勤めて、草鞋(ワラジ)壱足或は二足を作り、 明日開拓場に持出し、草鞋の切れ破れたる者に与えんに、受くる人礼せずといへども、 元寝る暇(ヒマ)にて作りたるなれば其分なり、 礼を云人あれば、それだけの徳なり、又一銭半銭を以て応ずる者あれば是又夫丈の益なり、能()くこの理を感銘し、連日おこたらずば、何ぞ志の貫かざる理あらんや、何事か成ざるの理あらんや。われ幼少の時の勤めこの外にあらず、肝に銘じて忘るべからず、又損料を出して、差支の物品を用弁するを甚(ハナハダ)損なりと云人あれど、しからず。それは事足る人の上の事なり、新(あらた)に一家を持つ時は百事差支へあり。皆損料にて用弁すべし、世に損料ほど弁理なる物はなし。且つ安き物はなし、決して損料を高き物、損なる物とおもふ事なかれ。

 ※補講※

二宮尊徳は、この説話で、人との付き合いの中では、こちらが先に相手に奉仕をするようにしていくべきだと教えている。

現代では、「配置薬業」という名称になったが、いわゆる「富山の置き薬」商法がそれである。この商法では、必要な時に直ぐに薬が手に入るということで、商売でありながら、お客さまに感謝をされる、ありがたい立場にあると共に、一度置いてもらえば、それこそ、その家が続く限り、孫子の代までの固定客になってもらえる有り難さの、両方が一気に成立する素晴らしい商法である。現代においても、お客様への信頼を前提とした事業運営を行う企業は、日本ばかりでなく、世界中において、社会に歓迎され、繁栄している。

 二一 自己錬磨の諭し 

 年若きもの数名居れり。翁諭して曰く、世の中の人を見よ。一銭の柿を買ふにも、 二銭の梨子(ナシ)を買ふにも、 真頭(シントウ)の真直(マスグ)なる 瑕(キヅ)のなきを撰(え)りて取るにあらずや。又茶碗を一つ買ふにも、色の好き形の宜(ヨ)きを撰り撫(ナデ)て見、 鳴(ナラ)して音を聞き、撰りに撰りてとるなり。世人皆然り、柿や梨子は買ふといへども、悪(ア)しくば捨(ステ)て可なり、夫(それ)さへも此(かく)の如し。 然れば人に撰(えらば)れて、聟となり嫁となる者、或は仕官して立身を願ふ者、己が身に瑕ありては人の取らぬは勿論の事、その瑕多き身を以て、上に得られねば、上に眼がなひなどゝ、上を悪(アシ)くいひ、人を咎(トガム)るは大なる間違ひなり。 みづからかへり見よ、必(かならず)おのが身に瑕ある故なるべし。  夫(それ)人身の瑕とは何ぞ、 譬(タトヘ)ば酒が好(すき)だとか、酒の上が悪ひとか、放蕩だとか、 勝負事が好きだとか、 惰弱だとか、無芸(ムゲイ)だとか、何か一つ二つの瑕あるべし、買手のなき勿論なり。是を、柿梨子に譬(タトフ)れば真頭(シントウ)が曲りて渋そふに見ゆるに同じ、されば人の買(カハ)ぬも無理ならず、能(よく)勘考すべきなり。古語に、内に誠あれば必(かならず)外に顕(アラ)はるゝ、とあり、瑕なくして真頭の真直(マスグ)なる柿の売れぬと云事、あるべからず、夫(それ)何ほど草深き中にても薯蕷(ヤマイモ)があれば、人が直(スグ)に見付て捨(ステ)てはおかず、又泥深き水中に潜伏する鰻(ウナギ)鰌(ドジヨウ)も、必(かならず)人の見付て捕へる世の中也、されば内に誠有て、外にあらはれぬ道理あるべからず、此道理を能(よく)心得、身に瑕のなき様に心がくべし。  

 ※補講※ 

尊徳は、この説話で、自分を磨いていけば、必ず社会は見出してくれるのであるから、常に勉強、修練に努めるべきであると諭している。尊徳の説くように、果物一つを買うのにも、良く吟味するのであるから、人を雇う際に、あるいは人を登用するに際して、十分な吟味をしてその人の資質や性格などを見抜こうとするのは、当然のことである。特に企業経営にあっては、人件費は、最大のそして継続した費用となるのであるから、機械の購入の時よりも厳しくなって当然であろう。それに対応できるように、知識や技能を高めると同時に、人品骨柄という項目に関しても、十分に高めていくことを意識し、修練していかなければならないのである。

 二二  経験智の諭し

 翁曰く、 山芋掘は、山芋の蔓(ツル)を見て芋の善悪(よしあし)を知り、 鰻(ウナギ)釣りは、泥土の様子を見て鰻の居る居らざるを知り、 良農(リヨウノウ)は草の色を見て土の肥痩(コヘヤセ)を知る。みな同じ、いわゆる至誠神の如しと云物にして、永年刻苦経験して、発明するものなり。技芸にこの事多し、侮るべからず。  

  ※補講※ 

※ 「至誠如神」(しせいはしんのごとし)(完璧な誠を持った人の働きは神のようだ) 中庸

 尊徳は、この説話で、この前の説話に続いて、外見は、内部の真実の一部を表現しているのであり、専門家と言われる、それぞれの業務の世界で修練を積んだ人が見れば、ちょっとした行動でその人の能力の全体像が見えてしまうのであるから、その人達を騙そう等としてはならない、と諭しているのである。

 二三   報徳法方の諭し

 翁、多田某に謂(いい)て曰く、我(ワレ)、東照神君の御遺訓と云う物を見しに、曰く、我敵国に生れて、只父祖の仇(アダ)を報ぜん事の願ひのみなりき。祐誉(ユウヨ)が教えに依(よ)りて、国を安んじ民を救ふの天理なる事を知りてより、今日に至れり。子孫長く此志を継ぐべし。若(も)し相背くに於ては、我が子孫にあらず、民はこれ国の本なればなりとあり。然(しか)れば其許(そのもと)が遺言すべき処は、我過(アヤマチ)て新金銀引替御用を勤め、自然増長して驕奢に流れ、御用の種金(タネきん)を遣(つか)ひ込み大借に陥り。身代破滅に及ぶべき処、報徳の方法に因(ヨツ)て、莫大の恩恵を受け、 此(かく)の如く安穏に相続する事を得たり。此報恩には、子孫代々驕奢安逸を厳に禁じ、節倹を尽し身代の半(ナカバ)を推譲(オシユヅ)り、世益を心掛け、貧を救ひ、村里を富(とま)す事を勤むべし、若(もし)此遺言に背く者は、子孫たりといへども、子孫にあらざる故、 速(スミヤカ)に放逐すべし。 婿嫁は速に離縁すべし、我(わガ)家株(カカブ)田畑は、本来報徳法方<ママ>の物なれば也と子孫に遺物(ユイゲン)せば、神君の思召と同一にして、孝なり忠なり仁なり義なり、其子孫、徳川氏の二代公三代公の如く、その遺言を守らば、其(その)功業量るべからず、汝が家の繁昌長久も、又限りあるべからず。能々(よくよく)思考せよ。
    * 報徳法方<ママ>=<ママ>は引用者が付けたものである。

 ※補講※ 

二宮尊徳は、この説話で、事業は社会的存在、というよりは、社会の恩恵を受けて成り立っているものであるから、利益の社会への還元を意識していかなければならない、と諭している。現代の企業人の安易な自己本意の哲学を、尊徳は確実に本気で怒っていることと思われる。

 二四  推譲の教えの諭し

 翁曰、農にても商にても、富家(フカ)の子弟は、業(ギヤウ)として勤むべき事なし。貧家の者は活計の為に、勤めざるを得ず、且(かつ)富を願(ネガ)ふが故に、自ら勉強す。富家の子弟は、譬(タトヘ)ば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆(みな)眼下なり。是に依て分外の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終(ツイ)に滅亡す。天下の富者皆然り。 爰(ココ)に長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只我道(わがみち)推譲の教(オシヘ)あるのみ。富家の子弟、此推譲の道を蹈(フマ)ざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸(バフンダケ)と何ぞ異らん。夫(それ)馬糞茸は季候に依て生じ、幾程もなく腐廃し、世上の用にならず、只徒(イタヅ)らに生じて、徒らに滅するのみ、世に富家と呼ばるゝ者にして、如斯(かくのごとく)なる、豈(アニ)惜しき事ならずや。

  ※補講※ 

 推譲(すいじょう) 尊徳の思想の根幹的考え 詳しくは第七十九話を参照されたい。 

 二五  店卸しの諭し

 翁曰、百事決定(ケツジヤウ)と注意とを肝要とす、如何となれば、何事によらず、百事決定と注意とによりて、事はなる物なり、小事たりといへども、決定する事なく、注意する事なければ、百事悉(コトゴト)く破る、夫(それ)一年は十二ヶ月也、然して月々に米実法(ミノ)るにあらず、只初冬一ヶ月のみ米実法りて、十二月米を喰(クラ)ふは、人々しか決定して、しか注意するによる、是によりて是を見れば、二年に一度、三年に一度実法(みの)るとも、人々其通り決定して注意せば、決して差支(サシツカヘ)あるべからず。 凡(およそ)物の不足は、皆覚悟せざる処に出(いず)るなり、されば人々平日の暮し方、大凡(おおよそ)此位の事にすれば、年末に至て余るべしとか、不足すべしとか、しれざる事はなかるべし。是に心付(づか)ず、うかうかと暮して、大晦日に至り始(はじめ)て驚くは、愚の至り不注意の極(キハマリ)なり。ある飯焚(メシタキ)女が曰(いわく)、一日に一度づゝ米櫃の米をかき平均(ナラ)して見る時は、米の俄(ニハカ)に不足すると云事、決してなしといへり、是(これ)飯焚女のよき注意なり。此(この)米櫃をならして見るは、則(すなわち)一家の店卸(タナオロ)しに同じ、能々(よくよく)決定して注意すべし

  ※補講※  

※ 決定(けつじょう、あることをこうと決めて信じて疑わずに動かさないこと)

 尊徳は、この説話で、ことを進める際には、前以て環境を十分に調査し、対応できる意思決定に基づいた計画を作成し、それを周囲の変化に注意を払いながら確実に実行していけば、殆どのことは乗り切っていけるのであるから、良い計画造りを行なうようにと教えている。

特に,尊徳は,こうと見定めた時に、それに対応するための行動についての意思決定が、重要であると説いている。それは、この後多くの説話に出てくる、天保四年と七年の凶作とそれによる飢饉への対応において、素晴らしい功績を樹立するもととなっているのであるから、まさに説得力のある言葉と言えよう。

ただ゛、一般人は、その意思決定に到達するまでの情報収集、分析・統合、仮説設定という過程を、確実にこなしていく方法を持ち合わせていないことと、分析・統合の際に要求される知識や経験、それに思慮深さも不足していることが多いのであるから、普段から、知識の吸収とそれの実行をの機会を得られるように、進んで業務遂行の場に出て行くことが必要となる。

 二六  万事相対弁証法の諭し 

 翁曰、善悪の論甚(ハナハダ)むづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云(いい)て分つ故に、悪と云物出来るなり、  元(もと)人身の私(ワタクシ)より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪(アレチ)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、^(イ)鹿(シカ)の方にては、 開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、 世法盗(ヌスビト)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん、然(シカ)れば、如何なる物是(これ)善ぞ、如何なる物是(これ)悪ぞ、此理明弁し難し、此理の尤(モツトモ)見安きは遠近なり、遠近と云(いう)も善悪と云も理は同じ、譬(タトヘ)ば杭(クヒ)二本を作り、一本には遠(トホシ)と記し一本には近(チカシ)と記し、此二本を渡して、此杭を汝が身より遠き所と近き所と、二所に立(たつ)べしと云付(いいつく)る時は、速(スミヤカ)に分る也、予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(スミド)にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過る時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、 古語に、遠山(トホキヤマ)木なし、遠海(トホキウミ)波なし、といへるが如し、故に我身に疎き遠近に移して諭す也、夫(それ)遠近は己が居処(ヰドコロ)先(まず)定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必(かならず)なし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆(みな)是(これ)に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(ナカバ)を善とすれば、其半は必(かならず)悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是(これ)成難き事を願ふなり、夫(それ)人生れたるを喜べば、死の悲しみは随(シタガヒ)て離れず、咲(サキ)たる花の必(かならず)ちるに同じ、生じたる草の必(かならず)枯るゝにおなじ。

  涅槃経(ネハンギヤウ)に此(この)譬(タトヘ)あり、 或人の家に容貌(カホカタチ)美麗(ウルハシク) 端正なる婦人 入り来(きた)る、 主人如何なる御人ぞと問(とう)、婦人答て曰、我は功徳天(クドクてん)なり、我至る所、吉祥(キツシヤウ)福徳(フクトクく)無量なり、主人悦んで請(シヤウ)じ入る、 婦人曰、我に随従の婦一人あり、必(かならず)跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾(ダク)す、時に一女来る、容貌(カホカタチ)醜陋(シウロウ)にして至て見悪(ニク)し、如何なる人ぞと問、此女答て曰、我は黒闇天(コクアンてん)なり、我至る処、 不詳<ママ>災害ある無限なりと、 主人是を聞(きき)大に怒(イカ)り、速(スミヤカ)に帰り去れといへば、此女曰、 前に来れる功徳天は我(わが)姉なり、暫くも離(ハナル)る事あたはず、 姉を止(トド)めば我をも止(とど)めよ、我をいださば姉をも出(いだ)せと云、 主人暫く考へて、二人ともに出(いだ)しやりければ、二人連れ立(だち)て出(いで)行きけり、と云事ありと聞けり、是(これ)生者必滅会者定離(えしゃジヤウリ)の譬(タトヘ)なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元(もと)禍と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云(いう)と遠くてよかりしと云也、是を以てしるべし
    * 不詳<ママ>=<ママ>は引用者が付けたものです。

  ※補講※  

対立するものごとは、本来一体であるが、対応する人の拠って立つ場に応じて、捉え方は変わる

涅槃経に、この譬えがある。

ある人の家に、とてもきれいな女性が入ってきた。その家の主人が「どなた様ですか」と尋ねると、その女性は、「私は、功徳天(くどくてん、吉祥天の別称)です。私が行くところはどこでも、吉祥(めでたいこと)、福徳(幸福と利益)が限りなくなります。」と答えた。それを聞いた主人が、喜んで迎え入れようとすると、女性は続けて「もう一人女性が後から来ます。その方も必ず迎え入れてください。」と言った。主人は、それを約束した。

時が経って、やがて一人の女性が来る。しかし、その女性は、容貌が悪く、醜く、みすぼらしい格好をしている。主人は「どなたですか」と聞いた。その女性は、「私は、吉祥天の妹の黒闇天です。私が行くところ総てで、不幸や災害が限りなく起こります。」と答えた。それを聞いた主人は、大変怒って、「すぐ出て行け」と言うが、女性は「前に来た吉祥天は、私の姉です。私たちは離れていては行けないのです。姉を迎え入れられたのなら、私も迎え入れなければならないのです。私を入れてくれないならば、姉も出してください。」と言う。主人はしばらく考えていたが、吉祥天を家から出すことにした。すると、二人は連れ立って出ていった。

ということである。これは、仏教の根本的考え方の一つである生者必滅、会者定離のたとえである。死生は勿論、禍福、吉凶、損得皆同じである。元々、禍と福は一体であり、吉凶もそうである。一つの円を、二つのことが構成しているのである。人は、通って行く所は近くが良いと言い、火事のときは遠くて良かったと言う。つまるところ、ものごとはそれに対応する人の場(場所、立場、考え方、生きてきた環境)によって、別々なものとして捉えられることがある、ということである。

  尊徳は、この説話で、万事相対弁証法の利を諭していることになる。

 二七 禍福の理の諭し

 禍福二つあるにあらず、元来一つなり、近く譬ふれば、庖丁を以て茄子(なす)を切り大根を切る時は、福なり。もし指を切る時は、 禍(ワザハイ)なり、只柄(え)を持て物を切ると、誤(アヤマツ)て指を切るとの違(タガヒ)のみ。それ柄のみありて刃無ければ、庖丁にあらず、刃ありて柄無ければ、又用をなさず、柄あり刃ありて庖丁なり、柄あり刃あるは庖丁の常なり、然して指を切る時は禍とし、菜を切る時は福とす。されば禍福と云も私物にあらずや。水もまた然り、畦(アゼ)を立(たて)て引(ヒケ)ば、田地を肥(コヤ)して福なり、畦なくして引(ひく)ときは、肥(コヘ)土流れて田地やせ、其禍たるや云べからず、只畦有(ある)と畦なきとの違のみ、元同一水にして、畦あれば福(サイハイ)となり、畦なければ禍(ワザハイ)となる、富は人の欲する処なり、然りといへども、己が爲にするときは禍是に随ひ、世の為にする時は福是に随ふ、財宝も又然り、積(ツン)で散(サン)ずれば福となり、積で散ぜざれば禍となる、是人々知らずんばあるべからざる道理なり。

  ※補講※ 

尊徳は、この説話でも、対立概念について、別な例を取り上げて、人道の維持のためにどのようにすれば良いかを諭している。

 二八 段々の理の諭し

 翁曰く、 何事にも変通といふ事あり、しらずんばあるべからず、則権道(ケンどう)なり、夫(それ)難きを先にするは、聖人の教なれども、是は先仕事を先にして、而して後に賃金を取れと云が如き教なり、爰(ここ)に農家病人等ありて、耕(タガヤシ)耘(クサギリ)手後れなどの時、草多き処を先にするは世上の常なれど、右様の時に限りて、草少く至(いたっ)て手易き畑より手入して、至て草多き処は、最後にすべし。是尤も大切の事なり、至て草多く手重(テヲモ)の処を先にする時は、大に手間取れ、其間に草少き畑も、皆一面草になりて、何(イヅ)れも手後れになる物なれば、草多く手重き畑は、五畝や八畝は荒すとも侭(マヽ)よと覚悟して暫く捨置(ステオキ)、草少く手軽なる処より片付(カタヅク)べし。しかせずして手重き処に掛り、時日を費す時は、僅の畝歩の為に、惣体の田畑、順々手入れ後れて、大なる損となるなり、国家を興復するも又此理なり、しらずんばあるべからず、又山林を開拓するに、大なる木の根は、其侭差置て、回りを切り開くべし、而して三四年を経れば、木の根自(オノヅカ)ら朽(クチ)て力を入(いれ)ずして取るゝなり、是を開拓の時一時に掘取らんとする時は労して功少し、百事その如し、村里を興復せんとすれば、必(かならず)抗する者あり、是を処する又此理なり、決して拘(カヽハ)るべからず障(サワ)るべからず、度外に置(オキ)てわが勤を励むべし。

 ※補講※

※ 権道(けんどう)(手段は多少道に外れるが、結果から見ると道にあっている処理方法。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。)

 二宮尊徳は、この説話で、人道に基づいた臨機応変は、決して悪ではないと説いている。その内でも、「積小為大」ということを、業務執行活動に取り入れていくことは、非常に有効なことであるとして勧めている。ここでは、畑の雑草取りという例を挙げて、判りやすく説明をしているが、まさにそのとおりである。

現代においても、一つの大きな単位の仕事を進めて行く時には、手をつけやすい大きさに区分して、一つずつ確実に完成させていく方式を取ると、少しずつではあるが、達成感を味わえて、楽しさが増し、それが次へのチャレンジの活力となっていくなど、動機付けにも有効であり、結果として、全体の完成を早める結果となって、有効な業務処理方法として推奨されている。大きな単位のままに、虫が食ったように手をつけてみても、意欲を減退させる方向にしか進まないことは、多くの人の経験からも立証されている。積小為大は、業務処理の手順として、尊徳も奨励しているものである。決して、「塵も積もれば山となる」ということだけではないのである。

 二九 算用の諭し

 翁曰、今日は則冬至なり、夜の長き則天命なり、夜の長きを憂ひて、短くせんと欲(ホリ)すとも、如何ともすべなし、 是を天と云、而して此行灯(アンドン)の皿に、油の一杯ある、是も又天命なり、此一皿の油、此夜の長(ナガキ)を照すにたらず、是又如何ともすべからず、共に天命なれども、人事を以て、灯心を細くする時は、夜半にして消(キユ)べき灯(トモシビ)も、暁に達すべし、是人事の尽(ツク)さゞるべからざる所以なり、譬ば伊勢詣(いせマウデ)する者東京(エド)より伊勢まで、まづ百里として路用拾円なれば、上下廿日として、一日五十銭に当る、是則天命なり。然るを一日に六十銭づゝ遣(ツカ)ふ時は、二円の不足を生ず、是を四十銭づゝ遣ふ時は二円の有余を生ず、是人事を以て天命を伸縮すべき道理の譬(タトヘ)也。夫此世界は自転運動の世界なれば、決して一所に止らず、 人事の勤惰に仍て、天命も伸縮すべし、たとへば今朝焚(タク)べき薪(タキヾ)なきは、是天命なれども、明朝取来れば則あり、今水桶に水の無きも、則差当(サシアタリ)て天命なり、されども汲(クミ)来れば則あり、百事此道理なり

  ※補講※

 なお、この説話で、江戸を東京と呼び、貨幣単位を円、銭としているのは、「夜話」が出版された明治当時の人々の理解に合致するようにしたためである。尊徳の時代には、地名は江戸であり、貨幣の単位は、両、分、朱、貫、文であった。

 三〇 御恩返しに報いるの諭し

 翁、常陸国青木村のために力を尽されし事は、予が兄大沢勇助が、烏山藩の菅谷某と謀りて、起草し、小田某に托し、漢文にせし、青木村興復起事の通りなれば、今贅(ゼイ)せず。扠(サテ)年を経て翁其近村灰塚(ハイツカ)村の興復方法を扱れし時、青木村、旧年の報恩の爲にとて、冥加(ミヤウガ)人足と唱へ、毎戸一人づゝ無賃にて勤む。翁是を検(ケン)して、後に曰く、今日来り勤る処の人夫、過半二三男の輩(トモガラ)にして、我往年厚く撫育せし者にあらず。是表に報恩の道を飾るといへども、内情如何(イカン)を知るべからず。されば我此冥加人足を出(いだ)せしを悦ばずと、青木村地頭の用人某(ソレガシ)、是を聞(キヽ)て我能(ヨク)説諭せんと云、翁是を止(トヾ)めて曰く、是(これ)道にあらず、縦令(タトヒ)内情如何(イカ)にありとも、彼旧恩を報いん爲とて、無賃にて数十人の人夫を出(いだ)せり、内情の如何を置(オイ)て、称せずばあるべからず、且(かつ)薄(ウスキ)に応ずるには厚(アツキ)を以てすべし、是則道なりとて人夫を招き、旧恩の冥加として、遠路出来(いできた)り、無賃にて我業を助くる、其(その)奇特(キトク)を懇(コン)々賞し、且(カツ)謝し過分の賃金を投与して、帰村を命ぜらる、 一日を隔(ヘダテ)て村民老若を分たず、皆未明より出来(いでき)て、終日休せずして働き賃金を辞して去る、翁又金若干(ソコバク)を贈られたり。

  ※補講※

二宮尊徳は、この説話で、指導者、発注者等、上位の地位に居ると考えられている人は、相手の好意を上回る謝意を持って対応することが、望ましいと教えている。

なお、この説話に登場する「小田」とは、幕吏としての尊徳の上司に当たる、下谷根津に屋敷のあった勘定奉行配下普請組元締 小田又蔵 のことである。弘化四年二月二十四日の日記に高野丹吾が青木村関係の書類を、小田宅に一覧のために持参したところ、しばらく預かりたいといわれたので、置いてきたと記されている。烏山藩元家老菅谷八郎衛門も小田宅に何度か出入りしていることが、日記や菅谷の手控えから覗える。小田又蔵は、漢文の素養があったと見え、菅谷を始めとした何人かが、尊徳の業績を幕府上層部に上奏する事を狙って、その力を借りて書類造りを行なっていたようである。

 三一 勤惰性情の諭し

  翁曰く、一言を聞ても人の勤惰は分る者なり、東京(エド)は水さへ銭が出ると云は、懶惰(ランダ)者なり、水を売(ウリ)ても銭が取れるといふは勉強人なり、夜は未だ九時なるに十時だと云者は、寝たがる奴(ヤツ)なり、未だ九時前也と云は、勉強心のある奴なり、すべての事、下に目を付け、下に比較(ヒカウ)する者は、必下り向の懶惰者也、たとへば碁を打て遊ぶは酒を飲(ノム)よりよろし、酒を呑むは博奕よりよろしと云が如し。上に目を付け上に比較(ヒカウ)する者は、必上り向なり、古語に、一言以て知とし一言以て不知とす、とあり、うべなるかな。

 ※補講※
※ 「一言以為知、一言以為不知」(一言を以って知とし、一言を以って不知とす。)(一言でも賢い人と判るし、一言でも愚かな人であると判る)論語 子張

二宮尊徳は、この説話で、人が発する言葉は、その人が志向する方向が表れるものである。従って、いつも、上向きの志向を維持すると共に、言葉を発する際には十分注意するようにと教えている。人が発する言葉の意味するところは、常に一つの傾向に沿っていることが多いことは間違いない。このことも、第二十一話に取り上げられた、「誠於中、形於外」(うちにまことなれば、そとにあらわる)の一形態である。

 三二  聖人の諭し

 翁曰、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々天理に随ひ人道を尽して行ふを、他より称して聖人といひしなり。堯舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み、国の為に尽せしのみ、然るを他より其徳を称して聖人といへるなり。諺に、聖人々々といふは誰(タ)が事と思ひしに、おらが隣の丘(キウ)が事か、といへる事あり、 誠にさる事なり。 我昔鳩ヶ谷駅を過し時、同駅にて不士講に名高き三志と云者あれば尋(タヅネ)しに、三志といひては誰(タレ)もしるものなし、能々(よくよく)問尋(といタヅネ)しかば、夫(それ)は横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。

 ※補講※

聖人も、自分で聖人とは名乗っていない。他人が認めた結果、そう呼ばれるだけである

 ※ 三志 小谷庄兵衛 不二講の指導者 従来の富士山信仰を超越して、人の生き方に、社会への謝恩、助け合い、奉仕、という概念を導入し、多くの人達にそれを実践するように説いている。尊徳の桜町での活動の初期に三志の教えを受けた人達が多数協力している。三志も桜町の尊徳を訪ね、尊徳も宇都宮まで出掛けたりして面会している。

 三三 家宝取り扱いの諭し

 下館侯の宝蔵(ハウザウ)火災ありて、重宝(ジユウハウ)天国(アマクニ)の剣(ツルギ)焼けたり、官吏城下の富商中村某(ソレガシ)に謂(イツ)て曰く、如其(カク)焼けたりといへども、当家第一の宝物なり、能(よく)研ぎて白鞘(しらサヤ)にし、蔵に納め置(オカ)んと評議せり、如何(イカン)、中村某焼(ヤケ)たる剣(ケン)を見て曰く、尤の論なれど無益なり、例令(タトヒ)此剣(ケン)焼(ヤケ)ずとも、如此(かく)細し、何の用にか立(たた)ん。然る上に如此(かく)焼(やけ)たるを、今研ぎて何の用にかせん、此侭にて仕舞置べしと云り、 翁声を励(ハゲマ)して曰、 汝大家の子孫に産(ウマ)れ、 祖先の余光に因りて格式を賜り、 人の上に立ちて人に敬せらるゝ、汝にして、右様の事を申すは、大なる過ちなり、汝が人に敬せらるゝは、太平の恩沢なり、今は太平なり、何ぞ剣の用に立(たつ)と立(タヽ)ざるとを論ずる時ならんや。夫(それ)汝自ら省(カヘ)り見よ、汝が身用に立つ者と思ふか、汝はこの天国の焼剣(ヤケミ)と同じく、実は用に立つ者にあらず、只先祖の積徳と、家柄と格式とに仍て、用立(タツ)者の如くに見え、人にも敬せらるゝなり。焼身(ヤケミ)にても細身にても重宝と尊むは、太平の恩沢此剣(ケン)の幸福なり、汝を中村氏と人々敬するは、是又太平の恩徳と先祖の余蔭(ヨイン)なり、 用立(タツ)、用立(タヽ)ざるを論ぜば、汝が如きは捨(ステ)て可なり、仮令(タトヒ)用立(タヽ)ずとも、 当家御先祖の重宝(ジユウハウ)、古代の遺物、是を大切にするは、太平の今日至当の理(リ)なり。我は此剣(ケン)の為に云にあらず、汝がために云なり、能々(よくよく)沈思せよ、往時水府公、寺社の梵鐘(ツリガネ)を取上げて、大砲に鋳(ヰ)替へ玉ひし事あり。 予此時にも、 御処置悪(アシ)きにはあらねども、未だ太平なれば甚(ハナハダ)早し、太平には鐘や手水鉢(テミヅバチ)を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らすべし、 事あらば速(スミヤカ)に取て大砲となす、誰(タレ)か異議を云ん。 社寺ともに悦んで捧ぐべし、 斯(カク)して国は保つべきなり、若(モシ)敵を見て大砲を造る、所謂(イハユル)盗(ヌスビト)を捕へて縄を索(ナ)ふが如しと云んか、然りといへども尋常の敵を防ぐべき備へは、今日足れり、其敵の容易ならざるを見て、我(ワガ)領内の鐘を取て大砲に鋳る、何ぞ遅からんや、 此時日もなき程ならば、大砲ありといへども、必(かならず)防ぐ事あたはざるべし、と云し事ありき、何ぞ太平の時に、乱世の如き論を出(イダ)さんや、斯の如く用立(たた)ざる焼身をも宝とす、況(イハン)や用立べき剣に於てをや、然らば自然宜敷(よろしき)剣(ケン)も出来(イデキ)たらん、されば能(よく)研ぎあげて白鞘(シラサヤ)にし、元の如く、腹紗(フクサ)に包み二重の箱に納めて、重宝とすべし、是汝に帯刀を許し格式を与ふるに同じ、能々(よくよく)心得べしと、中村某叩頭(コウトウ)して謝す。時九月なり、翌朝(ヨクテウ)中村氏発句(ホツク)を作りて或人に示す、其句「じりじりと照りつけられて実法(ミノ)る秋」と、ある人是を翁に呈す、翁見て悦喜(エツキ)限りなし、曰、我昨夜中村を教戒す、定めて不快の念あらんか、怒気内心に満(ミタ)んかと、ひそかに案じたり、然れども家柄と大家とに懼(オソ)れ、おもねる者のみなれば、しらずしらず増長して、終に家を保つ事覚束(オボツカ)なしと思ひたれば、止むを得ず厳に教戒せるなり、然るに怒気を貯へず、 不快の念もなく、 虚心平気に此句を作る、 其器量按外にして、大度見えたり、此家の主人たるに恥(ハヂ)ず、此家の維持疑ひなし、古語に、 我を非として当る者は我師也とあり、 且大禹(タイウ)は善言を拝すともあり、汝等も肝銘(カンメイ)せよ、夫(それ)富家(フカ)の主人は、何を言ても御尤御尤と錆付(サビツク)者のみにて、礪(ト)に出合て研ぎ磨かるゝ事なき故、慢心生ずる也、 譬(タトヘ)ば、 爰(コヽ)に正宗の刀ありといへども、 研ぐ事なく磨く事なく、錆付(サビツク)物とのみ一処におかば、忽(タチマチ)腐れて紙も切れざるに至るべし、其如く、三味線(サミセン)引や太鼓持などゝのみ交り居て、夫も御尤、是も御尤と、こび諂(ヘツラ)ふを悦んで明し暮し、争友(ソウユウ)一人のなきは、豈あやふからざらんや。
 

 ※補講※

 老舗は、過去の人達の努力の上に成り立っている。それを今の自分の力で成り立っていると勘違いするな。また、乱世と平時は同じではないから、時代に応じた考え方が必要

     「非我而当者、吾師也」(われをひとしてあたるものは、わがしなり)(私の非を指摘してくれる人は、私の先生である。) 筍子 修身

※ 「禹聞善言則拝」(うぜんげんをきいてすなわちはいす)(禹は参考になる良いことを聞いて直ちに拝礼をした) 孟子 公孫丑上

 

二宮尊徳は、この説話で、旧家の主が尊敬され、その発言が重要視されるのは、代々築かれてきた信頼の賜物であり、当人の功績を評価してのことではないことを自覚しなければならない、と教えているのである。

※ 中村家は、現在も筑西市(茨城県 旧下館市)に、商家として続いています。

 三四  権勢謙虚の諭し

 翁、高野某を諭して曰く、物各(オノオノ)命(メイ)あり数(スウ)あり、猛火の近づくべからざるも、薪(タキヾ)尽(ツキ)れば火は随(シタガツ)てきゆるなり、矢玉の勢(イキホヒ)、あたる処必(かならず)破り必殺すも、弓勢(ゼイ)つき、薬力(ヤクリヨク)尽(ツク)れば叢(クサムラ)の間に落ちて、人に拾はるゝにいたる、人も其如し、おのれが勢(イキホヒ)、世に行はるゝとも、己(オノレ)が力と思ふべからず、親先祖より伝へ受けたる位禄(イロク)の力と、 拝命したる官職の威光とによるが故なり。夫(そレ)先祖伝来の位禄の力か、職の威光がなければ、いかなる人も、弓勢の尽(ツキ)たる矢、薬力の尽たる鉄炮玉に異ならず、草間に落て、人に愚弄さるゝに至るべし、思はずばあるべからず。

 ※補講※ 

※ 中村藩 相馬氏が藩主 相馬藩と呼ばれることもある。現福島県相馬市付近

 三五  仕法遣い方の諭し

 同氏は、相馬領内衆に抽(ヌキ)んでゝ、仕法発業(ホツギヤウ)を懇願せし人なり、仍(ヨツ)て同氏預りの、成田坪田二村に開業也、仕法を行ふ僅(ハツカ)に一年にして、分度(ブンド)外の米、四百拾俵を産出(ウミイダ)せり、同氏蔵を建(タテ)て収め貯へ、凶歳の備へにせんとす、翁曰、村里の興復を謀(ハカ)る者は、米金を蔵に収(オサム)るを尊まず、此米金を村里の為に、遣ひ払ふを以て専務とする也。 此遣ひ方の巧拙に依(ヨツ)て、興復に遅速を生ず、 尤(モツトモ)大切なり、凶荒予備は仕法成就の時の事なり、今卿(キミ)が預りの、村里の仕法、昨年発業(ホツギヨウ)なり、是より一村興復、永世安穏の規模を立(たつ)べきなり、先(まヅ)是こそ、此村に取(トリ)て急務の事業なれと云ふ事を、能々協議して開拓なり、道路橋梁(キヤウリヤウ)なり、窮民撫育なり、尤務むべきの急を先にし、又村里のために、利益多き事に着手し、害ある事を除くの法方に、遣(ツカ)ひ払ふべし、急務の事皆すまば、山林を仕立(シタツ)るもよろし、土性転換もよろし、非常飢疫(キエキ)の予備尤(モツトモ)よろし、卿等(キミラ)能々思考すべし。

 ※補講※

積小為大の方式を活用して、小さな組織単位だけで良いから、見本としての単位を選定し、その単位に全力を投入して、思い切ってばっさりと変えれば、少なくともその部分は変革が出来る。他の単位の人達がそれを見れば、変革の可能性について確信を持つようになる。そこで、すぐさま、二倍程度の組織単位部分を対象範囲と決めて、そこに全精力を注いで、素早く変革を行なう。その後もまた、二倍にして変革をするという風に、波紋が広がるように素早く広げていくと、全体の改革に到達することが出来る。ここでは、手をつけた部分は、必ず、ドラスティックに切り替えるということを守れば、間違いなく全体の変革を達成出来る。

 三六 過ぎたるは及ばざるの諭し

 某氏事をなして、過(スグ)るの癖(ヘキ)あり、翁諭して曰、凡(オヨソ)物毎に度(ド)と云事あり、飯(メシ)を炊くも料理をするも、皆宜しき程こそ肝要なれ、我(わが)法方も又同じ、世話をやかねば行れざるは、勿論なれども、世話もやき過(スギ)ると、 又人に厭(イト)はれ、如何(イカニ)して宜しきや分らず、 先(まヅ)捨(ステ)おくべしなどゝ、云に至るもの也、古人の句に、「さき過(スギ)て是さへいやし梅の花」とあり、云得て妙なり、百事過たるは及ばざるにおとれり、心得べき事也。

 ※補講※

※ 過猶不及也(すぎたるはなおおよばざるがごとし)論語 先進

 三七  内省の諭し

 浦賀の人、飯高六蔵、多弁の癖(クセ)あり、暇(イトマ)を乞ふて国に帰らんとす。翁諭して云、汝国に帰らば決して人に説く事を止(トヾ)めよ、人に説く事を止めて、おのれが心にて、己が心に異見せよ、己が心にて己が心に異見するは、柯(カ)を取(トリ)て、柯を伐るよりも近し、元(モト)己が心なればなり。夫(そレ)異見する心は、汝が道心なり、異見せらるゝ心は、汝が人心なり、寝ても覚ても坐しても歩行(アルイ)ても、 離るゝ事なき故、行住坐臥油断なく異見すべし。 若(モシ)己(おのれ)酒を好まば、多く飲む事を止めよと異見すべし、 速(スミヤカ)に止(ヤ)めばよし、止めざる時は幾度(イクタビ)も異見せよ、其外驕奢の念起る時も、安逸の欲起る時も皆同じ。 百事此(かく)の如くみづから戒めば、是(コレ)無上の工夫なり。 此工夫を積んで、 己が身修(ヲサマ)り家斉(トヽノ)ひなば、是己が心己が心の異見を聞(キヽ)しなり、此時に至らば、人汝が説(セツ)を聞く者あるべし、己修(ヲサマツ)て人に及ぶが故なり、己が心にて己が心を戒しめ、己聞(きか)ずば必(かならず)人に説く事なかれ。且汝家に帰らば、商法に従事するならん、土地柄といひ、累代の家業といひ至当なり、去(サリ)ながら、汝売買(バイバイ)をなすとも、必(かならず)金を設(マフケ)んなどゝ思ふべからず、只商道の本意を勤めよ、 商人たる者、商道の本意を忘るゝ時は、 眼前は利を得(ウ)るとも詰り滅亡を招くべし、能(ヨク)商道の本意を守りて勉強せば、財宝は求(モトメ)ずして集り、富栄繁昌量(ハカ)るべからず、必(カナラズ)忘るゝ事なかれ。

 ※補講※

※ 「脩己以安人」(おのれをおさめてもってひとをやすんず)(修行して自分を磨いた後に人を教え、安らかにさせる) 論語 憲問

※ 弘化  天保と嘉永の間の四年間の短い年号 この時期、尊徳は既に幕吏となっていた。

 三八  仁政の諭し

 嘉永五年正月、翁おのが家の温泉に入浴せらるゝ事数日、予が兄大沢精一、翁に随(しかだい)て入浴す。翁、湯桁(ユゲタ)にゐまして諭して曰く、それ世の中汝等が如き富者にして、皆足る事を知らず。飽くまでも利を貪(ムサボ)り、不足を唱ふるは、大人(ダイニン)のこの湯船の中に立ちて、屈(カヾ)まずして、湯を肩に掛けて、 湯船はなはだ浅し、 膝にだも満たずと罵るが如し。モシ湯をして望みに任せば、小人(シヨウニン)童子(ドウジ)の如きは、入浴する事あたはざるべし。これ湯船の浅きにはあらずして、己(おのれ)が屈まざるの過(アヤマチ)なり、能くこの此過(アヤマチ)を知りて屈(カヾ)まば、湯忽(タチマチ)肩に満ちて、おのづから十分ならん。何ぞ他に求むる事をせん。世間富者の不足を唱(トナフ)る、何ぞこれに異らん。それ分限(ブンゲン)を守らざれば、千万石といへども不足なり。一度過分の誤を悟(サトリ)て分度を守らば、有余(ユウヨ)おのづから有て、人を救ふに余(アマリ)あらん。それ湯船は大人(ダイニン)は屈(カヾ)んで肩につき、小人(シヨウニン)は立て肩につくを中庸とす。百石の者は、五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は、五百石に屈んで五百石の有余を譲る、 是を中庸と云べし。 若(モシ) 一郷(いっキヤウ)の内一人、 此道を蹈(フ)む者あらば、 人々皆分(ブン)を越(コユ)るの誤(アヤマリ)を悟らん、人々皆此誤を悟り、分度を守りて克(ヨク)譲らば、一郷富栄にして、和順ならん事疑ひなし、古語に、一家仁なれば一国仁に興(オコ)る、といへり、能(ヨク)思ふべき事なり、夫(そレ)仁は人道の極(キヨク)なり、儒者の説甚(ハナハダ)むづかしくして、用をなさず、 近く譬(タトフ)れば、此湯船の湯の如し、是を手にて己(オノレ)が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也、是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る、 少(スコシ)く押せば少(スコシ)く帰り、強く押せば強く帰る、是天理なり、 夫(それ)仁と云(いい)義と云(いう)は、向(ムカフ)へ押す時の名なり、我(ワガ)方へ掻く時は不仁となり不義となる、慎まざるべけんや、古語に、己(オノレ)に克(カツ)て礼に復(カヘ)れば天下仁に帰す、仁をなす己による、人によらんや、とあり、己とは、手の我方(ワガヽタ)へ向く時の名なり、礼とは、我手を先の方に向くる時の名なり、   我方へ向けては、仁を説くも義を演(ノブ)るも、皆無益なり、能(よく)思ふべし、夫(ソレ)人体(ニンタイ)の組立(クミタテ)を見よ、 人の手は、我方(ワガカタ)へ向きて、 我為に弁利に出来(デキ)たれども、 又向ふの方へも向き、向ふへ押すべく出来(デキ)たり、是人道の元(モト)なり、鳥獣(トリケモノ)の手は、是に反して、只我方(ワガカタ)へ向きて、我に弁利なるのみ、されば人たる者は、他(タ)の爲に押すの道あり、然(シカ)るを我が身の方に手を向け、我為に取る事而已(のみ)を勤めて、先(サキ)の方に手を向けて、他の為に押す事を忘るゝは、人にして人にあらず、則(スナハチ)禽獣なり、豈(アニ)恥かしからざらんや、只恥かしきのみならず、天理に違(タガ)ふが故に終(ツイ)に滅亡す、 故に我(われ)常に奪ふに益(エキ)なく譲るに益あり、譲るに益あり奪ふに益なし、是(これ)則(すなわち)天理也と教ふ、能々(よくよく)玩味すべし 二宮翁夜話 巻之一  終

 ※補講※  

 ※ 「一家仁、一国興仁」(いっかじんなれば、いっこくにじんおこる)(指導者がわが家を仁徳で満たせば、その指導者の下にある一帯が仁徳で満たされる)大学 

 ※ 「克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉」(おのれにかちてれいにかえればじんをなす、いちにちおのれにかちてれいにかえれば、てんかじんにきす、じんをなすことおのれによる、しこうしてひとによらんや)(自分に打ち克って世の中の本質に従えば、仁が行なえる。一日でも世の中の本質に立ち返れば、世界中が仁で満たされる。仁を行うのは自分だ、どうして人頼みにできようか)論語 顔淵 

   8. 「GAIA」 というホームページに二宮尊徳翁についてのページがあり、尊徳翁を理解する上でたいへん参考になります。ぜひご覧ください。






(私論.私見)