尊徳思想の継承者考

 (最新見直し2010.06.01日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 尊徳没後の尊徳運動を確認しておく。
 

 2010.06.01日 れんだいこ拝


【二宮尊徳の子孫】
 二宮尊行(弥太郎)

 1821(文政4)年、
尊徳の次男として生まれた。長男の徳太郎は生後すぐ没。二宮尊行は、尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。嘉永5年(1852年)4月、近江国大溝藩士三宅頼母の娘ホ子(こうこ)と下野国東郷陣屋で結婚する。慶応4年(1868年)6月、戊辰戦争の戦火が今市に及び母、妻子と相馬藩領内に移った。これにより日光山領の仕法は打ち切られた。明治4年、尊徳夫人(歌子)と尊行没する。

 二宮尊親(金之丞、金一郎)

 1855(安政2).11.16日、二宮尊行の長男。明治4年、父の後を継ぎ家禄700石を給される。明治10年(1877年)報徳農法を民間で実践する為、冨田高慶を社長に興復社が設立され、副社長に斎藤高行が就任するが間もなく尊親が就任した。富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、明治29年に社員と探検隊を組織し、開墾に適した土地を探して周り、ウシシュベツ原野を発見した。明治30年(1897年)第1 期移住民75名とともに北海道豊頃村牛首別(ウシシュベツ)に移住し10年で840haも開墾し、宅地や防風林等も含めて興復農場は1345haにも及ぶ大農場となった。またこの間、母のホ子は、尊親の子徳(とく)を札幌に居を構えて養育した。明治40年(1907年)、開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、妻は報徳婦人会会長となり、尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、「報恩全集」の編纂をした。その後、銀行の取締役、大正6年、福島県立薫陶園園長、大正8年(1918年)、報徳学園2代目校長に就任した。

 富田高英(延之助)

 1858(安政5)年、尊行の次男富田高慶の娘と結婚し高慶の養子となる。高英の娘は、相馬家に嫁いでいる。
  • 尊親の四男二宮四郎は、太平洋戦争後に富士山麓に「富士豊茂開拓農業協同組合」を発足させた。
  • 二宮精三-尊徳の玄孫。

【二宮尊徳の門人】
 二宮尊徳の門人の中で、後に「二宮四大人」と呼ばれることとなる人物は、冨田高慶、福住正兄、斎藤高行、岡田淡山である。それぞれが尊徳思想を説き分けている。明治初年、岡田淡山が「活法経済論」その他を著す。1881年、尊徳の遺徳を慕う一番弟子の富田高慶により伝記「報徳記」が刊行。明治41年、斎藤高行が「二宮先生語録」、以降その他を著す。明治38年、福住正兄が、「二宮翁夜話」、以降その他を著す。
 冨田高慶

 相馬藩士齋藤(富田)嘉隆の次男。相馬藩士。久助。弘道任斎と号する。尊徳の娘婿。文化11年(1814年)生まれ。藩世継の相馬充胤の近侍となるが藩復興の志のもと江戸に出る。天保10年(1839年)6月1日入門。4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。片腕として活躍し、嘉永5年尊徳の娘文子と結婚するが、翌年出産で実家に帰り実家にて母子ともに亡くなった。日光仕法、相馬仕法に従事した。相馬仕法は尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。明治2年、相馬藩家老上席および政治総裁となった。廃藩置県後は、明治10年(1877年)興復社を設立し社長となった。また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。明治23年(1890年)77歳で没する。二宮尊行の次男高英を婿養子とした。
 大友亀太郎

 旧幕府下で札幌村の開拓を指導。札幌開拓の始祖と呼ばれた。
 岡田良一郎

 4大門人の1人。
 齋藤高行

 4大門人の1人。富田高慶の甥。久米之助。弘化2年(1845年)入門。相馬仕法の後半を高慶に代わって指導した。晩年、大原村(南相馬市原町)に隠棲し大原山人と号した。明治27年(1894年)6月、76歳で中村にて没した。
 福住正兄(ふくずみ まさえ)

 1824(文政7).8.21(9.13)非、相模の国大住郡片岡村(現、平塚市)の大名主大沢市左衛門の第五子として生まれた。幼名を大沢政吉というが、四歳のときに父の姉の嫁ぎ先、南金目村の森家の養子となる。1845(弘化2).10(新暦11月)、21歳の時、二宮尊徳に入門。1850(嘉永3).10(新暦11)月、26歳の時、二宮尊徳の下を去り、箱根の温泉旅館晩翠閣福住に婿入りし、第10代当主・福住九蔵(ふくずみくぞう)となる。湯本村名主も歴任する。以来、旅館業の振興、箱根温泉地の振興、報徳社設立、小田原箱根間道路建設などに尽力する。「二宮翁夜話(福住正兄)」。1892(明治25).5.20日、没(享年67歳)。
 新妻助惣

参考文献 

復刻版 二宮尊徳全集(龍渓書舎刊) 第三十六巻収録 福住正兄選集 「二宮翁夜話」

                  第一巻から第三十五巻の各巻

日本思想大系第五十二巻 二宮尊徳・大原幽学(岩波書店刊)収録 「二宮翁夜話」

岩波文庫 (岩波書店刊) 大學・中庸 、同論語


【報徳社運動】
 尊徳の教えは、明治維新による身分制の解消という大変革を経る中で、安居院庄七、岡田佐平次・良一郎といった実践力のある弟子達を得て、この教えを組織的に推進する「報徳社」を各地につくりあげ、最盛期には1,000社を超え、北海道の開発に多くの貢献をした。特に静岡県は活発であり、この報徳社の連合組織である「大日本報徳社」が掛川市に設立された。


【尊徳思想のその後】
 1881年、尊徳の遺徳を慕う一番弟子の富田高慶により伝記「報徳記」が刊行された。薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は本書に登場する。但し、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。旧藩主相馬充胤(みちたね)から明治天皇に奏覧され、宮内庁、農商務省、大日本農会へと広められた。

 1883(明治16)年、宮内庁版「報徳記」が発行され、知事以上の役職者に配付された。さらに多くの役人にも読ませるため、明治18年には農商務省版も刊行された。

 1889(明治22)年、尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって荒廃した農村を立て直した人物として理解され、従四位を追贈された。

 1891年、作家の幸田露伴が、少年少女向けの「少年文学」の中で、報徳記を基にして子供向けの「二宮尊徳翁」を提示し、後に刊行される。この時の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿が使われた。

 1894年、,内村鑑三は「代表的日本人」の中で、,経済行為の基礎としての道徳を説いた尊徳を肯定的に評価した。 佐々井信太郎編昭和8年発行の岩波文庫「報徳記」(絶版)。

 1900(明治33)年、検定教科書「修身教典」に尊徳が登場。

 1902(明治35)年、幼年唱歌に尊徳が登場。

 1904(明治37)年、明治政府は国民教化の観点から尊徳を顕彰し,、国定修身教科書「尋常小学修身書」に孝行、学問、勤勉、精励、節倹など,多くの徳を備えた人物として二宮を取り上げた。

 1911(明治44)年、尋常小学唱歌には「柴刈り縄ない草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎」と歌われた。

 1924年、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の二宮金次郎像(「負薪読書の金次郎像」)が、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられた。以降、全国の小学校に広がった。尊徳の報徳の教えが、皇国の臣民としての国民意識を高からしめるのに大いに役立ってゆくことになる。

 二宮金次郎の銅像が実際に全国の小学校に建立される要因となったのは、日本が14年戦争に突入したとされる1932−1933((昭和7−8年)頃からで、世の中は正に国家総動員体制に向かい国語教科書も「ハナハト読本」から皇国意識と国威発揚の色濃い「サクラ読本」に変更され、「教育勅語」の徳目と相まって、金次郎の勤勉・倹約等がクローズアップされ、それを促進するため象徴化されることで国策に利用される形で銅像建立が全国展開されるに至った。1937(昭和12)年、金次郎生誕150年に当たることから報徳社の働きもあって銅像建立のピークとなった。1940(昭和15)年、皇紀2600年。

 1941(昭和16).9月、戦局悪化・軍需物資不足に伴い「金属類回収令」が施行され、これに基づき寺の仏具・梵鐘、家庭の鍋・釜はもちろん金次郎の銅像も例外に洩れず鉄砲や大砲の弾等に化けた。

 戦後の一時期,平和と民主主義のシンボルとしての二宮尊徳像が再生し、1円札の肖像案(1946)ともなったが、今日でも勤倹節約の模範人物としてのイメージが強く残っている。

 戦後、二宮像はGHQの指令により廃棄された。但し、1946年、二宮尊徳が占領下の日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されている。これは、二宮尊徳を民主主義の先駆者として評価していたためと思われる。1949年、GHQ新聞課長インボーデン少佐は、「二宮尊徳を語る?-新生日本は二宮尊徳の再認識を必要とする?」を書き、その第1節に日本が生んだ最大の民主主義者と述べている。このことは、GHQ内に二宮尊徳を廻る見解の相違があったことを証左している。

 その後、尊徳運動は進歩的文化人の排斥にあって姿を消した。


【企業経営に生きる】

 尊徳思想は多くの企業経営に生かされている。有名なものでは、真珠の御木本幸吉、トヨタ自動織機の豊田佐吉は、尊徳のやり方に深く影響を受け、技術革新を進めると同時に、事業を手堅く、健全に組み上げ、その社風は、今も継続されている。


【報徳サミット】
報徳の精神は現代にも生き続けており、報徳仕法や二宮尊徳にゆかりのある市町村が毎年集まって報徳サミットを開催している。平成12年2月19日には相馬市を会場として第5回報徳サミットが開催された。

【中国での尊徳運動】

 2003年、中国で、北京大学日本文化研究所が中心となって日本との連携で国際二宮尊徳思想学会が設立されている。2005年、大連市で、大連民族学院の中に中国東北二宮尊徳研究センターが設立されている。





(私論.私見)