二宮金次郎の思想考

 (最新見直し2010.05.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 江戸後期の農政家にして報徳主義の創唱者として知られる二宮金次郎(諱は尊徳)の思想を確認しておくことにする。金次郎は身長5尺5、6寸(167〜170cm)、筋骨たくましい偉丈夫であったと伝えられている。「ウィキペディア二宮尊徳」、「二宮尊徳の実像と現在までの影響 東京農工大学客員教授・下荒地勝治」その他を参照する。

 2010.06.01日 れんだいこ拝


【「尋常小学唱歌 二宮金次郎」】
 「尋常小学唱歌 二宮金次郎」は次の通り。(参考:『二宮尊徳資料館』リーフレット・その他、二宮尊徳資料館配布資料より)

1.柴(しば)刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助け弟を世話し 兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎

2.骨身(ほねみ)を惜(お)しまず仕事をはげみ 夜なべ済まして手習(てならい)読書 せわしい中にもたゆまず学ぶ 手本は二宮金次郎

3.家業(かぎょう)大事に費(ついえ)をはぶき 少しの物をも粗末にせず 遂には身を立て人をも救う 手本は二宮金次郎


【「碑文報徳訓」】
 碑文報徳訓(太政大臣従一位大勲位公爵三條實美篆額)
 父母根元在天地令命  (父母の根元は天地の令命に在あり)
 身體根源在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
 子孫相續在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
 父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴ふうきは祖先の勤功に在り)
 吾身富貴在父母積善  (吾身の富貴は父母の積善に在り)
 子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
 身命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
 衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)
 田畠山林在人民勤耕  (田畑山林は人民の勤耕に在り)
 今年衣食住昨年産業  (今年の衣食は昨年の産業に在り)
 来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年の艱難に在り)
 年年歳歳不可忘報徳  (年年歳歳報徳を忘るべからず)

 内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書 下田喜成刻字

【尊徳思想解析】
 これらの領主層から依頼され領主の趣法あるいは主法として行った難村復興事業を行政式仕法というが,そのほか地主,豪農が中心となり,村民の自主的な組織である報徳結社によって報徳の教えを実践する結社式仕法が各地に普及した。

 報徳仕法が成功した要因のひとつは,事前に詳細な調査を行ってプランをたて,領主をはじめ地主,農民の分に応じた消費を規定した「分度」を画定し,余財を自己の将来や他人のために「推譲」することとし,報徳金と称する領主と農民との中間に位置する資金を創設運用したこと,もうひとつは,窮乏する共同体の経済から上昇農民の自立を目指す「勤労」エネルギーを褒賞制度などによってひき出したことである。

 もともと報徳思想は神儒仏3教の折衷より成るが、自然の天道に対し衣食住を生み出す人道を対置し、生産労働と生活規律を重視するなど、民衆の生活意識に根ざす規範を創出した点、農村復興や財政建て直しの為の政策に有効な処方箋を提起していた。これを「尊徳仕法」 と云う。「尊徳仕法」は現在でも十分通じる方法で、数年間の歳入、歳出を算出し、それらのデータを元にして生活の予算を設定する。これによって農民の浪費に歯止めをかけ、又、領主側からの重税に対抗する有効な手段にもなり、荒廃した農村の財政再建をはかった。「入るを計り、出るを制する」。これを「分度」と云う。「二宮仕法」、「報徳仕法」あるいは「興国安民法」などと呼ばれる。非常に具体的で分りやすく日常の生活によく合っていたことから農民に理解された。大自然と人間社会の動きそのものから心理をつかみとった翁の考え方・やり方は、時代を超えて数多くの企業や経営者の中に生き続け、現在も多くの思想が実践されています。その特質は次の点に認められる。

 1、報徳至誠の思想

尊徳は、報徳思想を説いた。報徳とは、過去、現在、未来を貫く「天・地・人の徳」に報いることを云う。人間は万物を育む天地の徳によって生存していることを感謝し、報いる気持ちをもって生きなければならないと説いている。その際の根本は「至誠」にあるとしている。まことの道とは、まっすぐで思いやりのある心のことを云い、これが世を救い、世を益すると説いている。

 2、勤労
 
 二宮尊徳は天道・人道ということを考えています。天道とは春夏秋冬、夜昼、晴天・雨天等、自然の現象を指します。植物は土によって発芽し日光と水の力で生育します。そして、この植物を動物が食べ物とし生きてゆきます。こうした循環が天道です。人道とは、この自然循環の中で、人類は種である米、栄養を貯蔵した大根など、人間の役に立つものをより分け、水、肥料を与え、雑草を除去し、防除し、収穫を多く得ようとしまが、このように人が手を加え自分達の利益のために行うことを言います。人道は、人間の意志がなければ、行われません。この意志を継続して保持し行為していくことが勤労で、熱心に働くことを説いている。す。

 3、積小為大

 毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが後の行いや考え方の基になりました。「大事をなさんと欲せば、小なる事をおこたらず勤べし。小積もりて大となればなり」。

 4、分度

 二宮尊徳は、農村の復興を計画する時、その農村の生産量を過去にさかのぼって調査しています。そして、その地域の生産量を数値で把握し、この現状認識から、生産者、領主の取り分を契約しています。個人についても、それぞれの分限を守り、相応の生活をするということで、収支のバランスをとった生活を勧めています。こうした数値で支出を定めることを分度といっています。まず至誠と勤労をもって収入を増やし、これに見合った支出をするという順番で、計画の策定を重視しているところが、近代の経営を思わせるところです。

 大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。

 5、推譲

分度を確立した上で、それ以上の収入があれば、余剰が出ます。この余剰の一部を将来のために譲ることを推譲といいます。自分の子孫のために譲ることは比較的容易ですが、他人のために譲ることはなかなか難しいことですが、二宮尊徳は、これを推進しました。そうしたことができるためには、心の田「心田」の開発が必要といっていますが、尊徳の周辺にはこうした人物が多く育ちました。そして、こうした推譲金を灌漑事業、に充てた結果、干ばつ・洪水の心配もなくなり自己の作物の収穫量も増え、村や社会が豊かになって自分に還元されるという成功サイクルが実現していきました。その後、尊徳の継承者たちは、尊徳の思想を「報徳運動」として実践し、広めていきました。今も各地にある報徳運動は、尊徳の教えが現代まで続いている実際活動であります。

 6、最初の信用組合

 尊徳翁は藩の使用人や武士達の生活を助けるために、お金を貸し借りできる「五常講」をつくった。信用組合の発祥はドイツといわれていますが、尊徳翁はそれより40年以上も早く信用組合と同じ組織である五常講を制度化し実施したことになる。現在でもこの組合は続いており、「掛川信用組合」として活動している。

 4、自然と環境

 現在、注目されている自然との共生を尊徳翁は百数十年前にすでに実践し、常に自然と環境のバランスを考えていた。

 5、実践

 尊徳は、神道、儒教、仏教の三つを混ぜ合わせて作った飲み薬を連想させる「神儒仏一粒丸」なる思想を生みだしていた。その中でも、神道のウェイトが高く、天の徳、地の徳、人の徳に報いる気持ちを常に持ちながら勤労することを基本精神としている。

 6、人づくり

 「可愛くば、五つ数えて三つ褒め、二つ叱って良き人となせ」。

 世人は蓮の花を愛するも泥を厭う。大根を好んで下肥を嫌がる。私は、こういう人を半人前と云う。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上ない。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさにm半人前の見識そのものである。どうして一人前ということができよう。





(私論.私見)