れんだいこの尊徳論、その思想の特質と史的意義考

 (最新見直し2010.06.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
Re::れんだいこのカンテラ時評747 れんだいこ 2010/06/13
 【二宮尊徳、田中角栄の流れを汲む政治こそ我々が待望している政治ではなかろうか】

 2010年、新聞広告にちょくちょく三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」 を見かけるようになった。中曽根元首相が推薦人となってコメントしていたので、どうせ碌でもなかろうと思い無視していた。そのうち気がついた。著者の三戸岡道夫氏と中曽根の間には何の縁故関係がある訳ではなく、例によって中曽根がしゃしゃり出ているだけではなかろうかと。あるいは三戸岡氏を最大限に評価すれば、中曽根の評で売れ行きを伸ばそうとしたのではなく、中曽根に「二宮金次郎伝」 を読ませることで、更には評者にならせることでネオシオニズムエージェントとしての中曽根を逆オルグしているのではないかと。

 実際のところは分からない。いずれにせよ、二宮金次郎その人を知っておくに越したことはないと思い直し、取り寄せ読了した。読んでみての感想は「読んで良かった」。三戸岡氏に謝しておく。同氏は、東京大学法学部卒業、協和銀行入行、副頭取を最後に退職の履歴を持つ著述家であり、二宮金次郎履歴を丹念に検証している。

 読みながら考えた。二宮金次郎考サイトを起こし、その履歴を中山みき伝の中に加えたらどうだろうかと。1787(天明7)年生まれの二宮金次郎の方が1798(寛政10)年生まれの中山みきより12年早く生まれているが、ほぼ同時代を生きており、二宮金次郎の方が実務的な社会改革に乗り出し、中山みきの方が霊能的な社会改革派であったと云う系統の違いはあるが、思想はどちらも共生的で、比較して耳を傾ければ共に味わい深い。この二人が交わることは終生なかったようであるが、仮にもし相会していたら、どんな交わりを結んだだろうかと考えると興味深い。

 そういう思いから、中山みき研究サイトに二宮金次郎考を加え、中山みきの履歴に二宮金次郎の動きをも書き込んで行くことにする。二宮金次郎単独の履歴を辿るより面白いと思うからである。そのうち二宮金次郎思想をも書き加えたいと思う。且つ同時代の農政家・大原幽学履歴をも記すことにする。実にユニークにして有益な試みであろうと自画自賛しておく。

 二宮尊徳の思想は「二宮翁夜話」で知ることができる。弟子の福住正兄(ふくずみまさえ)氏が記したもので、かなり膨大なものとなっている。れんだいこがこれを確認するのに、「尊徳式世直し世の立て替え思想」と位置づけることができるように思われる。同時代の中山みきのそれ、大原幽学のそれと対比させてみれば面白いように思われる。

 思えば、戦後政治家の偉才・田中角栄はこの系譜の者ではなかろうか。小沢一郎も又然り。どういう訳かマスコミは、こういう在地土着的な叡智を持つ有能な政治家を悪罵する。低能の故か、売文売弁しているのかは人次第であろうが、日本政治は基礎から見直ししないいけないのではなかろうか。菅政治の危なさを思うにつき、急がねばならない。菅は聞き分けができると信じている。

 二宮尊徳考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/ninomiyaco/top.html)
 まだサイトアップするには早いのだけれども。日々更新してそのうちサマになるようにする。

 2010.6.13日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評750 れんだいこ 2010/06/17
 【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その1】

 今れんだいこはなぜ二宮尊徳に学ぼうとしているのか。三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」により履歴を知り、「尊徳夜話」を読む進めて行くうちに、これは三戸岡氏ならずとも大いに称揚して行くべしと思うようになった。現下の財政破綻期の日本には特に尊徳思想の処方箋が必要なのではなかろうか。このところ自公政権以来の給付金バラマキ政策が続いているが、れんだいこの理解する尊徳思想によれば邪道なものでしかない。

 れんだいこの理解する尊徳思想によれば、こういう時期にあっては軍事防衛費等々非生産的経費の総量規制に断固たる大ナタを振るい、代わりに民力向上の諸施策に向かわねばならない。あくまでも期すべきは税収の自然増であり、その為の諸施策を講ぜねばならない。その為に真に必要な公共事業を大いに盛んにし、同時に農工商の経営環境を好転させるべく、それを阻害しているものを除去せねばならない。今日的には原始的な財政再建策であるが、基本はこうでなければなるまい。れんだいこの眼には、累積国債と消費税が大きなガンになっているように思われる。これに依拠しない財政策こそ真の政策であり、逆は逆であるように思われてならない。

 目下の問題で云えば、菅政権の消費税増税による財政再建政策は打つ手が逆であり危うい。恐らく、国債累積推進と消費税導入派の口車に乗り、更なる失態を演じようとしているように見える。類は類を呼ぶの法理で云えば、菅も同じ程度の頭脳と云うことであろう。角栄、尊徳先生のツメの垢でも煎じて飲めば多少は効くのだろうが、反角栄、反尊徳政治を目指すことで正義ぶる折柄、漬ける薬はないと云うべきだろう。

 思えば、尊徳思想とは、幕末の黒船渡来以来急ピッチで浸食し始めた西欧思想と云う名の実はネオシオニズム思想に汚染される前の原日本人的土着思想に基づく幕末版社会思想なのではなかろうか。原日本人的土着思想は本来体得感応すべき不文のところ、弟子の手により膨大な教話を遺して明らかにしている点で「尊徳夜話」の価値は高い。且つその思想の質の高みが、混迷窮地に立ち至っている現代日本を脱する処方箋を呈示していると思われる点で、日本総国民の必須指定学習文献とすべきではなかろうか。尊徳思想は学び実践し伝えられて行くべき日本の宝であり、これを絞殺してきた歴史こそ不審の眼で見直さねばならないのではなかろうか。

 れんだいこは自今、尊徳思想をもっと学び、れんだいこの時事評論の随所に尊徳思想の諭しを入れて行こうと思い立った。外来思想の警句で味付けする政治評論家が多い今日ではあるが、日本にも内部から自生した勝れた文句があることを知らしめようと思う。外国文明を排する為ではなく、日本文明にも精通してこそ意味があることを知らしめんが為である。日本の自由、自主、自律は言葉から思想から始めねばならぬ。そういう思いから今後、角栄、尊徳思想を広めて見たいと思う。れんだいこ的には、中山みき思想と角栄思想と尊徳思想をミックスさせた政策を生みだして行くのが日本再生の真の処方箋ではなかろうかと思っている。

 以上が総論であるが、尊徳思想をもう少し詳しく概括しておく。尊徳思想の特質は、幕末日本の農事、工事に適用した実践訓話集で、いわば縄文的土着思想の高度性を称揚し、この思想で導かれる穏和的な世直し、世の立て替え思想であると規定できよう。尊徳思想を如実に伝える「尊徳夜話」では全編で、原日本人的土着思想の質の高みからの農事、工事の指導、地域、藩の再建、ひいては世直し、世の立て替えを指南している。これを説く為に時に外来の仏説、儒説、古典中国思想を引用しているが、それらは見事に尊徳思想に焼き直され、咀嚼吸収された上で紡ぎだされている。あるいは時に、神、仏、儒思想の限界をも指摘して、尊徳思想の実践的有効性を自尊している。全て尊徳の経験に裏打ちされた諭しとなり且つ実践の手引きとなっている。ここに尊徳思想の特質がある。これだけの思想、教本を学ばぬ手はなかろう。

 れんだいこは、尊徳思想とは役行者(えんのぎょうじゃ)の幕末再来ではないかと比定している。役行者を知らない方の為に付言しておけば、聖徳太子以来の、最澄、空海に先立つ中間にあって、日本式仏教の型を創造した真の開祖であると規定できる。役行者あればこそ最澄、空海式仏教が生まれ、仏教の日本化としての独特の神仏混淆宗教が創造された。その元一日の開祖の地位にある人物である。二宮尊徳をして、その役行者の幕末版と云えば褒め過ぎだろうか。あながち的外れでもない気がする。少なくとも、二宮尊徳と大原幽学と中山みきを合わせれば、この云いは決して大袈裟ではなかろう。してみれば、今更ながら幕末時には数多くの役行者が生みだされていたことに気づかされる。

 役行者については山伏修験道考」で推敲しているので、興味があれば読めば良かろう。
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/yamabushisyugendoco/yamabushisyugendoco.htm)

 日本史は窮地に陥るやそのつど、類まれなる英明思想とそれを体現する政治家を生みだして乗り切って来た。その源泉はいつも原日本人的土着思想とも云える縄文思想であり、そこから叡智を汲みだして来た。社会状況の違いを踏まえ、古来よりの伝統思想を新しい時代に合わせ、適切な処方箋を生みだして来た。役行者を始祖とする山伏修験道の系譜は、その際の源泉である。れんだいこが山伏修験道に注目する所以であるが、明治維新以降、山伏修験道は弾圧されてきた。その理由をも問わねばなるまい。これについてはいつの日か論じてみたいと思う。

 2010.6.7日 2010.6.17日再編集 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評751 れんだいこ 2010/06/19
 【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その2】

 そういう結構な尊徳思想がありながら、その後の日本は幕末維新−明治維新期に遭遇するや在地土着思想を卑下してかなぐり捨て西欧主義的文明開化の道へ向かった。そのこと自体は時代の趨勢であり非ではないのだが、今から思えば和魂洋才で摂取すべきであったところ、この時期のいわゆるエリート族がこぞって洋魂洋才に向かった。かって我々の先祖が漢学、天竺学導入の際に日本学の枠中に導入し見事に咀嚼したように西欧文明を吸収すれば良かったのに残念ながらできなかった。

 幕末維新−明治維新以来の文明開化は、和魂和学、和魂洋学を捨て洋魂洋学方向へ舵を切った。これにより祖国と民族のアイデンティティーを失ったインテリゲンチュアを粗製乱造して行くことになった。明治以前以降のインテリの質の差はこれによると思われる。これに悩んだ夏目漱石は相当の智者であったと云うことになる。悩まなかったその他大勢のインテリゲンチュアの軽薄性を知るべきではなかろうか。

 洋魂洋学派は概して知能が低い。それが証拠に、文明開化の名の下にテキスト化されていたのが西欧文明一般ではなくネオシオニズム思想に基づく学的体系であったと云うのに、それを見抜けぬままネオシオニズム思想を西欧文明一般であるかの如く錯覚させられたまま吸収して行った。そういう頭脳でしかなかったと云うことであろう。

 これについて、高倉テル著「大原幽学伝」は次のように記している。
 「もとより、外国の新しい知識は、できるだけ多く吸いとらなければならない。いくら吸いとっても、決して多過ぎるということはない。盲目的な国粋主義は、却って日本を誤る。それにも拘わらず日本に生まれたものの真の意義は、あくまでこれを探らなければならない。それこそが、外国の知識を正しく吸い取り、真に血とし肉とすることのできる根本の力であるからだ」。

 高倉テルは、大原幽学が指導した「先祖株組合」の画期的意義に言及して述べているのであるが、この観点は広く汎用されるべきではなかろうか。

 かって戦国時代に於いては、バテレンによって布教されたネオシオニズム思想に対し、神主僧侶を知的階級として庶民レベルまでも、その一神絶対教の非を問答して応答し、日本宗教の多神多仏相対教の是を逆に説いている。これにより、バテレン教は他の諸国ほどの広がりを見せなかった。バテレン教の流行るところ多くの神社仏閣が焼き打ちされたが、神主僧侶側は更なる策動を許さなかった。日本の在地土着的な神々信仰は揺らがなかった。

 当時の最高権力者となった豊臣秀吉は英明にもバテレン教の奥に潜む日本植民地化の動きを察知し、宣教師追放令で取り締まった。後継政権の徳川家康も又その政策を継承した。三代家光将軍の時に鎖国が完成するが、長崎の出島での往来のみ許した。何事にも一長一短あるので鎖国是非論は難しいが、日本植民地化の危機を未然に防いだことは確かである。欲を云えば、これで良しとせず、引き続いて世界の事情にアンテナを張り続けるべきであったであろう。ネオシオニズムに対してはそれほど警戒すべきであった。

 それはともかく、かくして太平の世が訪れ約250年続くことになった。その平穏が黒船来航と共に破られた。この時、ネオシオニズムが再上陸したことになる。そういう意味で、幕末の黒船来航は、日本史上初めての過去に例のない日本溶解的目論見を持って登場した異思想の本格的来襲であったことになる。大いに警戒せねばならなかったが、これに気づく者は少なかった。さすがにと云うべきか孝明天皇及びそのブレーンが逸早く的確に見抜き、公武合体による攘夷運動を盛り上げて行った。但し、攘夷運動の精神的支柱として采配を振るおうとしていた孝明天皇は暗殺され、これに呼応した第14代将軍・徳川家茂も毒殺される。当時の朝廷、幕閣内へのネオシオニズム派の容喙を見て取るべきであろう。

 以降、幕末維新、明治維新の底流にこのネオシオニズムが一層浸透し続けて行くことになった。ネオシオニズムの危険性は、在地土着の有能の士を次から次へとテロって行くことでも認められねばならない。今、坂本竜馬ブームであるが、竜馬暗殺はネオシオニズムの線からも洗われねばならない。どういう訳か、ここに目が向かわない詮索ばかりが流行っている。やれ新撰組説、見回り組説、薩摩藩説、紀州藩説、土佐藩説等々があるが、内戦化でひと儲けを企てていた目論見を大政奉還でくじかれたネオシオニズム派による粛清説の線も洗われるべきではなかろうか。

 やがて明治維新を迎えるが、明治維新期の薩長門閥の殆どはネオシオニズムのエージェントである。この時期、維新政府内は在地土着派とネオシオニズム派が暗闘する。征韓論争を経ての西郷派の下野、続く各地での士族の反乱、最後の大決戦たる西南の役に於ける反政府闘争とは、幕末維新以来の継続革命を夢見る在地土着派のネオシオニズム派政権に対する抵抗であったと捉えねばならない。かく捉える史観がなさ過ぎよう。俸禄を失った士族の復古的な不平不満運動などと捉える評は余りに平板化していよう。

 西南の役後の日本は、ネオシオニズム政権により着々と日本帝国主義化の道へ向かわしめられた。薩長門閥政治はこの頃の政治を云う。ネオシオニズム政策の向かうところ必ず国内収奪、海外侵略即ち戦争の道になる。日本は態良くネオシオニズムの駒として使われ始める。日清、義和団事件鎮圧出兵、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、第二次世界大戦へと行きつくことになる。

 時代は明治、大正、昭和へと続く。この間、反戦派の大正天皇は押し込められ、近代史上未曽有の不敬事件が発生している。これにより軍部が著しく台頭し始め、国家予算の半分を軍事費が占めるようになるほど奇形化して行くことになる。ご多分にもれず国債が刷り抜かれ悪循環に陥る。日本帝国主義は国内の疲弊打開と戦果を求めて中国大陸を徘徊し始める。

 ところが歴史は摩訶不思議で、日本帝国主義は定向進化し続け次第に自立化し始め、天皇制イデオロギーのみならず被植民地化されたアジア諸民族の解放まで鼓吹し始める。満州国の建国辺りが節目となるように思われる。これに応じて次第にネオシオニズムとの権益紛争を起すようになる。その挙句として第二次世界大戦に誘いこまれ、やむなく大東亜戦争へ突き進み、結果的に敗戦を余儀なくされる。見ようによっては豚の子戦略で太らされた挙句召しとられた格好となる。明治、大正、昭和20年史の歴史ベクトルはおおよそこのように回転したのではなかろうか。れんだいこ史観によればこういう観方ができる。

 それはともかく、この時代、ネオシオニズムの日本政界壟断の動きは政界上層部のそれであった面が見受けられる。何となれば、一般の人民大衆レベルではこの時期に於いても在地土着的な生活規範が根強く機能していたように思われる。幕末攘夷思想の大本となった水戸学、伝統的な神仏信仰、幕末新宗教、尊徳思想等々が脈々とあるいは細々と活きていたと思われるからである。これを是と見るか非と見るか、その歴史観が問われているように思われる。

 2010.6.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評752 れんだいこ 2010/06/20
 【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その3】

 日本史上、敗戦が時代を画することになる。これによって戦前戦後の時代区分けをすることになる。ネオシオニズム問題をこの眼で捉えると、戦前はまだ良かった。なぜならネオシオニズムの国家侵略は未だ各界上層部にとどまり、全体では和魂和才派、和魂洋才派が主力だったからである。つまり、洋魂洋才派が権力中枢の一部を占め、残りを和魂洋才派、和魂和才派と云う構図で三者鼎立していたからである。且つ、ネオシオニズム政権が代々政権を御していたとは云え内部は暗闘していた。つまり思うように易々とはネオシオニズム政策を遂行できなかった。

 その戦前日本は世界史的な帝国主義時代の渦に巻き込まれて次第に戦争経済化へ歩を進め始め、詰まるところは各派思惑は違えども洋魂洋才派、和魂洋才派、和魂和才派の三派が戦争政策に一蓮托生し、大政翼賛会体制の下で大東亜戦争に臨み、緒戦優位は束の間で遂にネオシオニズム軍隊たる米英連合軍に完膚無きまでに叩きのめされた。広島、長崎に投下された広域大量市民虐殺の原子爆弾がトドメとなった。

 敗戦により戦後日本が幕開けする。戦勝国は戦勝国の支配を容易にならしめるイデオロギーを注入するのが法理であるからして、戦後日本は、洋魂洋学派の台頭を著しくする。和魂和才派、和魂洋才派を駆逐し洋魂洋学派であらずんば人でなしの風潮を生むことになる。これにより、戦前の皇国史観イズムは戦後民主主義イデオロギーに転換され、これが新たな神祇となった。この時点で日本は洋魂洋学派の支配する国になる筈であった。

 しかしながら歴史は摩訶不思議である。ネオシオニズムのエージェントとして送り込まれたマッカーサー将軍以下、ニューディーラー派と呼ばれる初期のGHQ将校が、「或る種の理想的社会主義国家」を求めて、ネオシオニズムの支配戦略から見ても「行き過ぎ」の左派政策を遂行する。これにより日本左派運動は空前の盛り上がりを見せて行くことになる。この風潮下で戦後憲法が制定され、ネオシオニズムの範疇に納まらない戦後民主主義イデオロギーが育つことになった。

 ところが戦後世界は次第に冷戦化し始め、それと共にマッカーサー政策が掣肘され始める。ニューディーラー派が駆逐され、マッカーサー将軍が左遷され、これにより振り子は再び古典的ネオシオニズムの統制下に戻ることになる。この時代の政権を担ったのが吉田茂率いる自由党であった。この時代に戦後日本は主権を回復する。但し、日米安保条約受け入れを余儀なくされる。これが後々の火種となり今日まで至っている。自由党政治は、洋魂洋学派、和魂洋才派、和魂和才派の三者鼎立を特質としており、これにより再度ネオシオニズム派と在地土着派との水面下抗争が開始されることになる。大ざっぱではあるが、戦後直後のGHQ政治、戦後政党政治の動態をこう捉えるべきではなかろうか。  

 以下、政治闘争の面に特化して見て行くが、実際には政治、経済、文化、思想、競技等々の全戦線で同様の抗争が立ち現われる。これらの全てを確認するのは煩雑になるので政治闘争の面のみ採り上げる。

 戦後間もなくの時代は、廃墟となった戦後日本の再建こそ眼前の政治課題であった。この時、国難に立ち上がり有能な働きを為したのは和魂和才派、和魂洋才派であった。かくして洋魂洋学派と合わせた三派が戦前同様に戦後日本政治を担うことになった。GHQ直接統治後の1950年代、続く1960年代、1970年代の三十年間、戦後日本を統治したのは、和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派が玉石混交する自民党権力であった。

 1955年、政界大編成が行われ、共産党は徳球系から宮顕系へ、社会党は左右両派が合同し、保守系の自由党と民主党が合同し自民党を創出する。これを55年体制と云う。55年体制下では、共産党の政権取り運動が止み、社会党が万年野党運動に堕し、つまり日本左派運動の系譜で政治責任を担う意思と能力を持つ党派が不在となる。成り行き自民党が政府を構成し政治、政局を御して行くことになった。これを自社二代体制とも云う。れんだいこ史観によれば、この背後に働いていたネオシオニズムの国際政治力を見て取る必要があろうと云うことになる。

 自民党政府権力の内部拮抗の中で台頭したのは吉田茂を開祖とするいわば戦後保守内ハト派であった。ここが面白い。この系譜は、吉田茂、池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸と続いて途絶える。この時代に戦後日本は見事に再建復興され、世界史上奇跡と云われる高度経済成長時代を築いた。1970年代半ばの時点で、日本はアメリカに次ぐ国富を持ち、このまま進めば「ツモローイズbP」の勢いを見せつつあった。2010年代の今日の日本が幾ばくかの余命を保っているのは、この時代に蓄えられた国富のお陰である。今それもハゲタカファンドに狙われ次々と蚕食され骨川筋衛門にされてしまった訳ではあるが。もはや郵貯資金、各界の積立資金以外めぼしいものは見当たらない。今それが狙われている。

 この時代の日本を検証せねばならないのではなかろうか。戦後保守内ハト派政治は田中角栄政権時代に頂点に達するが、れんだいこ史観によれば紛うことなき左派政治であった。左派政治と云う表現が嫌な方に対しては人民大衆政治と言い換えても良い。この時期の日本人民大衆は等しく善政のおこぼれに与っている。

 日本列島は各地で都市と農村の有機的結合化に向かっており、今日的な疲弊なぞ有り得べくもない。ほんの例外を除き国債は発行されておらず消費税も導入されていない。日本列島は各地で公共事業に沸き、これにより社会資本が整備され、これを背に大中小零細企業が旺盛に事業展開し、日本はうなりを挙げて技術立国化しつつあった。雇用、医療、年金が確立され、高福祉社会を実現しつつあった。

 内治政治に対する有能さは外治政治にも表れた。日中国交回復、日ソ交渉、西欧各国との対等外交、アジア諸国との友邦外交、アラブ諸国との友好親善等々目覚ましい活躍をしている。つまり、日本型社会主義と規定できる質の善政政治に向かっていたことになる。今日からみれば驚きの自主自律外交を展開している。これを日米安保体制下で押し進めた田中政権は、その矛盾故にいずれ手酷いしっぺ返しに遭うことになる。これについては次章で述べることにする。

 興味深いことは、戦後保守内ハト派政治を支援していたのが和魂和才派、和魂洋才派であった。各界の有能士が現われ、阿吽の呼吸で活躍していた。その後の日本は、この有能政治、社会を絞殺して行くことになる。この時活躍したのが洋魂洋学派である。和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派の識別史観で捉えると、こういうことが見えてくる。恐らくこう云う風に捉える史観はなかろう。れんだいこ史観と云う所以がここにある。この史観に照らすと、これまでの善人が悪人に悪人が善人になる。名宰相が売国奴に諸悪の元凶が有能士になる。学問を机上ではなく市井でせねばならない理由がここにある。

 戦後からこの時期まで日本左派運動はかなり隆盛していた。しかしながら、体制転覆ないしは体制批判一辺倒でやり過ごし、日本史上の和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派の暗闘に対して余りにも無頓着であった。否むしろ洋魂洋学派と気脈を通じて和魂和才派、和魂洋才派及びその政治を排撃するのに忙しかった。これに違える例があるとすれば、60年安保闘争の岸政権打倒運動であったであろう。かの闘いにより、洋魂洋学派のネオシオニズム政治を排撃し、その後約二十年間を和魂和才派、和魂洋才派を主流とする政治をもたらした。これに貢献した60年安保闘争の意義、特にブント全学連の闘いは称賛されるに値するように思われる。

 だがしかし、その後の日本左派運動は、穏和派は穏和なりに急進派は急進なりに60年代、70年代を領導した戦後保守主流派のハト派政治時代に最も激しく反政府運動を展開し、タカ派政治時代になると逼塞する。本来は逆にならねばならぬところ、こういう本末転倒的役回りを演ずると云う愚挙を見せている。これをどう総括すべきだろうか。日本左派運動は、この辺りを総括せずんば明日はなかろう。その明日のないままにここ二十年来やり過ごしているように思われる。今一度軌道を転回せねばならないのではなかろうか。この見立てが、れんだいこ史観の本領であるえへん。

 2010.6.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評753 れんだいこ 2010/06/20
 【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その4】

 1976年のロッキード事件は、金権腐敗政治の元凶としての角栄政治の訴追運動として正義ぶられたが、実は戦後世界を支配する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムによる戦後復興してきた和魂和才派、和魂洋才派に対する断固たる鉄槌事件であった。首相辞任後も和魂和才派、和魂洋才派のドンとして日本を未曽有の発展に向けてリードし、政治的影響力を温存していた角栄を標的にして政界追放を狙う国策謀略疑獄事件であった。こう捉えないとロッキード事件の真相が見えてこない。

 この時、ネオシオニズム派の代弁政治評論家として立ち現われた立花以下その他のジャーナリスト、これを提灯したジャーナリズムこそ今日的腐敗の嚆矢であろう。ところが、こういう手合いほど正義ぶる癖があるので始末が悪い。ロッキード事件を廻って未だに角栄の政界追放是認論を説く自称インテリの一群が存在する。「信の置けない評論家」として確認すべきだろう。

 結果的に、この事件騒動を契機に戦後保守内ハト派は政治的地位を追われ、代わりにそれまで冷や飯を食わされてきた戦後保守内タカ派が台頭し我が世の春を謳歌し始めた。1970年代の派閥で云えば、前者が田中派、大平派、後者が福田派、中曽根派、三木派となる。田中派、大平派は落ちぶれ、福田派、中曽根派が主流派に転じ、田中派、大平派の内の日和見派がその配下で利権の裾分けに与るようになる。竹下−金丸派は田中派解体に向けてネオシオニズム派の策動により創成された便宜的派閥であり、その功により約束通り一時ながら権力が与えられたが、用済みとなった時点で冷酷に処分失脚させられた。

 野中幹事長権力はこの時代のものである。今彼が悔いているのか居直っているのかは分からないが、先だっては貴重な官房機密費漏洩証言をして、「政治とカネ」に正義ぶるマスコミに「言論とカネ問題」を突き付けた。これにより政治評論家の売弁売文ぶりがあからさまにされた。今に至るも新聞各社ともこの問題を採り上げていない。そして相変わらず「政治とカネ問題」で小沢派を叩き続けている。キタナイと思うのはれんだいこだけだろうか。これを暴露した野中幹事長の政治的狙いが様々に評されているが、竹下同様に政治的役廻りの軌跡を「われ万死に値す」と評したうえでの贖罪的証言ではなかろうか。れんだいこは、そう解釈している。

 留意すべきは、戦後保守内タカ派が主流派になって以来、戦後日本はバブル経済、国債刷りまくり、重税化方向に誘導され、公共事業の栓が閉められ、他方で貧富格差を生みだしつつある。日本の伝統的「上が下を思い、下が上を思う思いやり」精神が奇形化され、教育が荒廃させられ、世界史上頓馬天狗と云われる経済成長自絞殺時代を築き、今日の無惨な日本へと至っている。この間絞りとれらた国富は天文学的でなものと推定されるが、未だ実態が明らかでない。自衛隊は常時出動でいつの間にか世界各地へ派兵されている。やれ戦争協力金、復興支援金、思いやり予算等々の名目で底なしの軍事出費を強いられ続けている。これで国が逼塞しなければしない方がオカシかろうに。

 この政治過程に旧主流派の田中派、大平派が指を咥えていた訳ではない。但し、公家集団と云われた大平派からは特段の動きが為されていない。やはり頼りになるのは田中派の系譜である。二階堂派は筋を通したが政界の表舞台からは遠ざけられた。次に乱を求めたのが田中チルドレンであった。田中チルドレンは様々に分岐するが、その主力は小沢派である。小沢政治と田中政治は必ずしも同じではないが、戦後民主主義的統治制度を是として、その受肉化を図ろうとしている点では一致している。ここで仮にれんだいこ史観の如く戦後民主主義的秩序をプレ社会主義的なものと位置づければ、これを擁護しつつ戦後政治を担ってきた政府自民党ハト派は捩れているものの実は左派であったことになる。そういう目で見れば、政府自民党ハト派時代に多くのかっての転向左派が集っていたのも不思議ではなくなる。

 この系譜が現在逼塞させられており、現代政治では唯一小沢派が生き残っている。これに国民新党、社民党が繋がろうとしている。この系譜は左派と云うより或いは日本古来よりの伝統的和合政治の継承派と捉えるべきかも知れない。和魂和学、和魂洋学派であることは間違いない。この灯を消すな、否護れ、否再度政界主流派に転じさせよ、これが日本政治の今後の軌道になるべきであろう。

 さて、その小沢派がかって自民党を飛び出し、政権交代を掲げて細川政権を誕生させ、羽田政権を経て潰えた史実を遺している。小沢派は以来、冷や飯を食い続けてきた。紆余曲折の末、自由党を立ち上げ、更に紆余曲折の末、民主党と合同する。その民主党が昨年の2009年、再度政権交代を実現させ、鳩山政権を誕生させ、つい先ごろ鳩山政権は管政権へと移行した。ところが、鳩山政権から管政権への移行過程で「小沢パージ」が目論まれ、小沢は初めて無役にされた。これが現下の政治情勢である。これをどう読むのかが問われている。小沢派の終わりか、雌伏か、捲土重来があるのかないのか、「小沢パージ」の流れは是か非か等々、論者の見識が問われている。

 もとへ。こうしてロッキード事件以来再び洋魂洋学派にあらずんば人に非ずの時代を迎えているが、これも歴史の摩訶不思議なことに、丁度この時代になって洋魂洋学派の正体が暴露されつつある。かって、幕末維新−明治維新以来、文明開化の名の下に洋学摂取が進んだが、その洋学の実態はまともな西欧学ではなしにかなり歪んだネオシオニズム学の押し付けに他ならなかったことが判明しつつある。1980年代初頭の中曽根政権以来、これに疑問を覚えることなく受容した粗雑な頭脳の者のみが登用され、政財官学報司の上層部に住みつき、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き政治に忠勤するという痴態を晒し続けている。粗雑な頭脳と性悪の者が権力を握って、日本の為にならない政治を為になると勝手に思い込んで権力を行使している。

 こういう政治家は居ない方が国益になるのだが、名宰相、実力派政治家として持て囃される。この時代を如何に止めさせるのかが問われているが、権力中枢の政官財学報司の六者機関中枢がネオシオニズム派に壟断されていることにより、常に事態が逆に喧伝され続けている。これにより、この複雑な政治構造式が解明できず、ネオシオニズム派の我が世の春を許したままの政治が続いている。

 2009年、民主党連合政権による鳩山政権を誕生させ、菅政権へとバトンタッチされたものの、菅政治を見ると新たなネオシオニズム派政治を敷設しつつあるように見える。鳩山政権創出前の公約は「子供手当」を除いて何一つ実行されず、郵政再改革は先送りされ、高速道路無料化公約は、経済刺激策として予定されていたものの経済刺激にならない範囲でのみ部分的に実施されると云う変態政治が罷り通りつつある。唯一実施された「子供手当」も、消費税再値上げの導入の口実として利用されつつある。菅政権は、目前の参院選に、何の必然性もないのに消費税再値上げを政治課題に押し上げ、口先では参院選の勝利を云いながらその実は水を浴びせ民主党敗退のレールを敷きつつある。

 この政治現象をどう評すべきであろうか。れんだいこは、今や国会は、政治を遊びに弄ぶ政治ピエロの巣窟と化しているのではないかと思っている。ネオシオニズム派政治に異議を唱え続ける小沢派政治、国民新党政治、社民党政治が今や僅かの希望である。しかしながら、この三党でさえ、れんだいこのメガネに叶わない。この三党を左バネで補完する真の人民大衆党が必要であると思っている。そういう意味で、左バネとしての新党創出を廻って日本政治は新たな胎動期を迎えていることになる。残念ながら、久しく無為な時間を浪費しつつあると云うことである。この認識を共にせんか。

 2010.6.20日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評754 れんだいこ 2010/06/20
 【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その5】

 さて、ここで尊徳先生の出番となる。漸く戻って来れた。ここまで整理しないと、今なぜ尊徳思想が必要なのかが見えてこなかったからである。今はっきりと云える。ネオシオニズム派により仕掛けられている日本凋落、解体、分割統治の悪夢のワナの仕掛けから抜け出す為の叡智として、今こそ尊徳思想が復権されねばならないのではなかろうか。尊徳思想の目線は人民大衆に厳しいが温かい。人の何たるか、世の何たるかを弁えて、辛い甘いの手綱宜しく日本改造を指針させている。れんだいこが思想だと云う所以である。

 その中でも、れんだいこがハタと膝を叩いたのは、今で云う起業家、経営者の窮状に適宜な立て直し基金を貸し付け、立派な納税者として再登場するよう救援していることである。決して今時の無償給付金の方法は採っていない。何事も一味違うと云うべきだろう。まず民力を向上させ、その納税増を通して国家再建を図ると云うグランドデザインも打ち出しており素晴らしい。現在の日本の政党で、尊徳思想に基づく政治をはっきりと指針させているところはない。あるのはネオシオニズム派の御用聞きの一番手二番手を争う政党ばかりである。これでは幾ら投票権を得たとはいえ、投票に行くことが空しい。

 その尊徳思想は戦前の皇国史観に取り入れられ、皇民教育に利用された経緯があるが為に戦後民主主義時代を迎えるや仕舞いこまれた。戦前は恐らく殆どの小学校に立像されていた二宮金次郎像は、戦後になると意図的故意に取り壊された。よってれんだいこの如く尊徳思想を知らぬままに還暦を迎える者が殆どとなっている。しかし、尊徳思想を知った今、これを称揚せずにはおれない。戦後教育が天皇制皇国史観を説かなくなったことは良いとしても、尊徳思想を消す必要はどこにあったのだろうか。れんだいこには解せない。察するにネオシオニズム思想から見て好ましくなかったと云うことではなかろうか。

 ところで、尊徳と同時代の農政家として大原幽学が居る。尊徳ほど知られていないが大変な人物である。れんだいこ評によれば、尊徳が幕末日本の世直し右派とすれば幽学は左派に位置する。二人は鮮やかな対比を示している。れんだいこには両者とも興味深い。この二人と、もう一人の同時代の天理教教祖・中山みきの生き様とを合わせ、幕末日本に咲いた有能の原日本人的土着思想の質の高みを確認してみたいと思う。

 公認歴史教本はこういうところを教えない。故に自力で学ぶしかない。これらの教学が共にネオシオニズム学といかに対極的なそれであるか、ネオシオニズム学の虚妄に比して如何に有能な実用学であるのか、ネオシオニズム学の闘争理論に比して如何に共生理論であるのか、21世紀時代の学問としてどちらが採り入れられるべきなのか、こういう関心をもって追跡してみたいと思う。

 興味深いことは、日本史は政治舞台の重要な局面になると地霊とも云える縄文的な知性が湧出し回天運動を起し、あるべき姿に戻すことである。最近の例では、戦後日本の再建エネルギーがそうであった。その前には幕末維新を引き起こしている。その前は戦国時代から織田、豊臣、徳川政権への回天である。その前は云々と辿るとキリがないので控えるが、日本はこうして神州としての自律自存を確保してきた。ここで云う神州とは天皇制と云う意味ではない。もっと奥行きが深く天皇制をも包摂する縄文的神州思想と理解した方が正確である。この点でネオシオニズに籠絡された形で始発した近代天皇制をもって天皇制の有るべき姿と勝手に鼓吹する下手な右翼は恥じて口をつむらねばならない。戦後のネオシオニズム化された拝金右翼は云わずもがなである。

 さて、今日本は再び回天運動が要請されているのではなかろうか。既に地霊が動き始めているのではなかろうか。それは間違っても、菅政権が向かおうとしている方向ではない。逆の路線である。れんだいこには、この足音が聞こえる。多くの同志が立ち上がり、かってと同様に倒れ、続くであろう。我々にはこの道しか残されていない。それで良いのではなかろうか。今尊ぶべきは義民思想ではなかろうか。下手なイデオロギーを振り回さず、日本古来のたすけあい精神に則り尊徳思想的経世済民の道を尋ねて行くべきではなかろうか。救国、救民族共同戦線の広域ネットワークを構築し、この難局に立ち向かうべきではなかろうか。消費税増税の道は間違いなく滅びの道であり、ゆめ騙されてはなるまい。

 2010.6.20日 れんだいこ拝

【茂呂戸志夫氏の二宮翁夜話まえがき】
 茂呂戸志夫氏の二宮翁夜話 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方」の「まえがき」を転載しておく。

江戸時代の人で、大名や名だたる武将でもないのに、二宮尊徳ほど人々にその名を知られている人物もいない。しかし、その反面、二宮尊徳は何をしたから有名なのか、実際にどのようなことをした人で、その考え方はどのようなものであったか、ということを正しく知っている人は、名前を知っている人の数と比べると、極端に少なくなる。しかも、知っていると自負している人の知識も、詳しく聞いてみると、伝聞のまた伝聞というような知識の仕入れ方でしかなく、あやふやな知識であることが多いようである。

かく言う私も、大分長い間、二宮尊徳という名前からは、小学校(当時は国民学校)の一年生の時に校庭の一角で見ていた、薪を背負って読書をしながら歩く、石像の二宮金次郎少年の姿しか思い浮かばなかった。そして、その一年生の八月十六日(太平洋戦争終戦の翌日)以後、二宮金次郎という言葉は民主教育の中では全く封印されて、何らの情報も与えられずに成人となって社会に出て来たのであるから、その銅像しか思い浮かべられなかったのである。

二宮尊徳を、深く研究してみたいと考えるようになったのは、二宮尊徳の行動の軌跡が、自分の住んでいる栃木県内に多く残っていることに気がついた時である。そこで文献等を手当たり次第に読み、調べてみたのであるが、伝記の類は、いかにも戦前の銅像の回りに感じていた雰囲気が強く、違和感があったが、その中に見出したのが、福住正兄が著した「二宮翁夜話」であった。

「二宮翁夜話」は、多少は著者福住正兄の考え方が混じっているとしても、全体を通した思考方法は一貫していることから、二宮尊徳の思想がしっかりと根底に据えられていると感じられ、尊徳思想に対する信頼性は高いと判断できた。そこで、何度も読み返してみたが、ますます、信頼できる書籍であると、確信した。

その後、「報徳記」を読み、二宮尊徳全集の日記、書簡、桜町、烏山、門人集などの巻を、少しずつ目を通して、「二宮翁夜話」の背景や事実を確認してみたが、「二宮翁夜話」への信頼は高くなるだけであった。

その途上で、大変気になることがあった。それは、二宮尊徳について、その経歴や人となりについて記している書籍の殆どが、「報徳記」を底本としていることである。たしかに「報徳記」は、二宮尊徳への傾倒度が高く、その娘を妻と迎えたほど、二宮尊徳の信頼が厚い高田高慶が著者であるが、その本質は、「読み物」であり、「物語」でしかない。つまり、面白いところは書くが、面白くないところや、著者に都合が良くないところも書かない、という程度のものであるということである。

そのようにして、成り立っている「報徳記」を底本としているということは、いかにも安易であり、おざなりとしか言いようがない。二宮尊徳全集の中の日記や書簡に目を通して、その実証を行なうくらいの注意が必要であったと感じるのである。

また、各種文献において、二宮尊徳は、「農」の人、という捉え方が一般的であったのも、やや不満が残るところである。それは、当時の時代背景と、尊徳の周囲に集まってきた人の職業や地位に、目を向けていないということによる錯誤である。つまり、単純に表面に見える一面だけしか見ていないという間違いを犯しているのである。

当時の主要産業は、支配階級の武士の俸禄が、米の量で表示されることでも判る通り、稲作を中心とした農業であったから、財政再建のためには、農業の隆盛を図る必要があった。そのために、二宮尊徳は、米を初めとした農作物の効率的な収穫量拡大のために努力をしたのである。

そこで彼が行なったのは、作物の栽培方法の効率化だけではなく、農業という産業の効率化を図るための田畑の改良と灌漑施設の整備、農作業や日常生活の快適化に必要な社会資本の整備や個人の住環境の整備、従事する人々の意識改革などである。そこでは、建設土木技術者としての二宮尊徳や、営農指導者としての姿、哲学者、人々の心の矯正に努める教導師、そして、商売の仕方を教える経営コンサルタントとしての二宮尊徳の姿である。つまり、彼は、現在の言葉で言うならば、時代の最先端にいて、何でも出来る人、すなわち「スーパー・マルチ・タレント」なのであるが、そのような捉え方をしている書物は殆ど見当たらなかった。二宮尊徳が、そのようなスーパー・マルチ・タレントであったという理解のもとに、この「二宮翁夜話」を読んでいく時には、随所に出現する博識ぶりも、さもあらんと納得できるのである。

この新翻訳に当たっては、末尾に掲げた参考文献の内、復刻版 二宮尊徳全集(龍渓書舎刊) 第三十六巻収録 福住正兄選集 「二宮翁夜話」を底本とし、日本思想大系第五十二巻 二宮尊徳・大原幽学(岩波書店刊)収録 「二宮翁夜話」を対比本及び参考書として用いた。また、本来、原典には説話ごとの題名はついてないのであるが、読まれる方の手引きとなればと考えて、私が、説話の内容を要約して冠したものであるので、中には、ふさわしく無いものも有るかもしれないが、老婆心から出たものとしてお許しをいただきたい。 

なお、この「二宮翁夜話」と著者について、簡単に紹介すると、次の通りである。この「二宮翁夜話」は、弘化二年に、老中水野越前守の取立てによって既に幕臣となっていた二宮尊徳の門下に入り、嘉永三年までの五年間尊徳の下で働いていた福住 正兄が、随身中に尊徳から受けた教えを書き留めておいたものを、明治三年ころに草稿を作り、明治十七年に「二宮翁夜話」として出版した書物であると言われている。夜話は、全五巻二百三十三話からなる。(続編もあるが、ここでは続編は翻訳の対象としていない。)

 福住 正兄が、書き下ろした文章は、当時の口語体の文章であるが、現代では、そのままの文を読下して理解するのは、なかなか難しいことから、現代の言葉使いに直したのである。
だが、直訳が、必ずしも、福住が伝えようと意図した尊徳の思考の真意を表すとは思えない部分も見られた。その上、各説話とも、尊徳が話したことをそのままに文章化しているので、話が前後したり、輻輳したりしている部分もあり、説話の論旨がはっきり掴みにくい個所もあった。そこで、直訳を避けて、その意味を表現する意訳を採用し、意味をつかみやすくする言葉に置き直している。そのために、標題にあるように、「新翻訳」と表現したものである。

尊徳は、説話の中で、「中庸」「大學」「論語」などの中国古典や、仏経典、その他の書物から多数引用しているので、参考文献等を手がかりとして、出来るだけ原典の原文と、その読み下し文を注釈として記載し、私なりの解説も本文中に差し込んでみた。また、各説話の翻訳文の後に、説話の言わんとしている事項について、私なりに要約した文と、幾ばくかの説明、そして、その説話に対して私が感じたコメントなどを書き添えている。福住と同様に中村藩相馬家家臣の富田高慶、斎藤高行が、同じように尊徳の言葉を書き記し、後年出版している。 





(私論.私見)