第61部 1875年 78才 教祖最初のご苦労、こかんの出直し
明治8年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖最初のご苦労、こかんの出直し」を確認しておく。

 2007.12.1日 れんだいこ拝


【警察官憲の迫害干渉始まる】

 1875(明治8)年、教祖78歳の時、この頃「お道」の教勢が更に発展する。他方で明治維新政府による干渉が予見される雲行きとなりつつあり、行く手が危ぶまれる動きが始まった。それは、慶応時代のそれのように神官、僧侶、医師、山伏などの暴行や、村人の嫌がらせの程度ではなく、国家権力を背景とする警察官憲の迫害干渉であった。「お道」の道程は平坦ではなく、教勢の伸びに応じて又迫害干渉も強まるという「立て合い」の構図となった。

 「明治のご一新」は、表向きは皇政維新を唱え、神ながらの政治を行い、神道を国教として民心を指導し、且つ国民教育に注力する大方針を示してはいたが、本質は「文明開化」の名の下での欧化主義化(より正確には国際ユダ邪化)にあった。その結果、明治政府は、日本より格段に進歩したとされる西欧文明、文化(より正確には国際ユダ邪化式テキスト学問)を吸収することに追われた。それを学習する度合いに応じて「古き良き日本的なるもの」に打撃を加えて行くことになった。明治7年頃までに末端の宗教信仰や行事までを取り締まる細則ができ上がった。この頃からいよいよ国家的統制が猛威を振るい始めることになった。

 政界の雲行き事情に通じない道人は官憲の動きなど知る由もなかったが、教祖は、やがて身に降りかかる弾圧を予見していた。この頃、教祖は、「もう一度こわいところへ行く。案じな」と予言されている。且つ、ひるむことなく毅然として信仰者としての道を歩む「ひながた」を見せられている。迫害を前にして揺るぎがちな道人に対し、神一条の道を通る者の心構えを諭し、「自由自在の親神の守護」を請け負うて励まされた。


(私論.私見) お道弾圧の真因考

 何故に、時の政府が「お道」に対して迫害を加えなければならなかったのか。何故に「お道」信仰が弾圧されねばならなかったのか。これを正面から問う論考が見当たらない。れんだいこがこれを推察しておく。

 要するに根深いところでの政治的思想的な対立だったと考えられる。それは、現象的には、明治維新政府の推し進めようとする宗教政策との対立として立ち現われた。別章「神ながらの道」で分析したが、維新政府の記紀神話に基づく国家神道化の動きが、それと抵触する内容を持つ「お道」教義と相容れず、これが為やがて弾圧を食う運命にあったものと拝察される。

 天理教弾圧は、時の政府の近代天皇制的宗教政策に起因していた。徳川幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することができたのは、各地に蜂起した勤皇の志士逹の活動によったが、彼らの行動理念のその多くは水戸学に発祥する国学者が唱え始めた復古思想に依拠していた。これにより王政復古という大目的が達せられ、新政府が樹立されるや、復古思想は時代を風靡する支配勢力となり、祭政一致、政教一致の天皇親政へと進み、政治も宗教も教育も一切を、我が国固有の「神ながらの道」に即して行うことになった。その「神ながらの道」も、「神ながらの道」と習合して大きな影響を与えてきた儒教、仏教が徹底的に除染せしめられる、一切の夾雑物を交えない、純粋極端な方向に走っていくことになった。

 しかし、この観点だけでは解明できない。明治維新政府の近代天皇制政治化は初期のそれでしかなく、その後の政策は次第に西欧開化(より正確には国際ユダ邪化)させられて行くことになった。これを思えば、明治維新運動とは、尊皇攘夷派と文明開化派が倒幕を宗として奇妙に合従連衡した倒幕運動であった。このことは、倒幕後に於いて両派の抗争が避けられないことを意味する。結果は文明開化派が勝利し、これによって尊皇攘夷を宗とする日本的神道派が排撃されて行くことになった。これに応じて西欧的なキリスト教、ユダヤ教が容教的になった。かくして、「明治維新政府的神ながらの道」と、それとは又別の古神道的教えと通底している「お道」が、正面から衝突する運命となった。「明治維新政府的神ながらの道」と最も非和解的に対立する「元の理」教理を持つ「お道」こそ弾圧の主要対象にされる運命にあった。新政府が樹立されて7年も経過した明治7年に至って迫害が強められた事情にはそういう理由があった、と考えられる。


【教祖最初のご苦労】

 「お道」の教勢がますます伸び拡がり、信者の数もいよいよ多きを加えるこの頃、お屋敷においては中南の門屋の建築が行なわれていた。「お道」のこの動きは取締り当局の目を刺激し、「お道」の動きに呼応して遂に官憲よりの直接の迫害干渉の日を迎えることとなった。

 1875(明治8)年、陰暦8月25日、教祖と秀司に対して、奈良県庁から明日出頭せよとの呼び出し状が寄せられることとなった。教祖、教祖の付添いとして長女おまさ、秀司の代理として辻忠作が出頭することとなった。辻忠作は、「明日の取調べの際の応答如何」を尋ねたとところ、教祖は次のように宣べられている。

 「善悪(良し悪し)とも、神様にお任せするのや」。

 ちなみに、おまさは、安政4年の記述から18年ぶりに登場している。この時期は、おまさが豊田村の福井治助に嫁し「福井おまさ」として過ごした時期になる。おまさは長男の鶴太郎、次男の重吉を生み、福井家の主婦として活躍している。その後、夫婦は離縁し、長男を婚家に残し、次男の重吉を連れてお屋敷帰りしている。その後、教祖81才から90歳までの十年間、中山家の分家として教祖のそばに仕えて、梶本ひさらと共に教祖の身の回りの御用を務めている。分家の普請が完成すると、親族の者たちは「新建(しんたて)のおばやん」と呼び親しんだ。この「おまさの家」は、村田長平の豆腐屋と共に諸国から集まってた来た信者たちの定宿となった。村田が藁ぶきの家を建てて豆腐屋をはじめたのは1883(明治16)年のことであるから、「おまさの家」の方がだいぶん早かったことになる。

 教祖は何の躊躇もなく、いそいそとお出かけになられた。村役人として足達源四郎が同道した。これが教祖最初の「ご苦労」となられた。折しも秀司とこかんは、二人とも身上の障りで、殊にこかんは危篤の状態であった。教祖は種々と取調べを受けられることとなった。「そもそも天理王命というような神はない」、「一体どこに典拠があるのか」、「なぜ病気が治るのか」などと質問されたようである。教祖は、これに対して一々、明快に諭されたが、当時の役人達の理解の覚束くところではなかったものと思われる。辻忠作は、当時普請中の中南の門屋について経費の出所を尋ねられた。忠作は、「中山様より出された」と答えた。この時の取調べの結果は、12月になって、教祖に対し、25銭の科料に処すと通知が為された。

 教祖は、78歳の時の収監を「最初のご苦労」として以降89歳まで17、8回に及ぶ苦労を味わうことになる。これは史実であり、天理教にとって忝くも有難過ぎる財産ではなかろうか。


【こかんの出直し】
 節というものは種々と立てあってくるものである。教祖拘留中の9.27日(陰暦8.28日)、「若き神」と呼ばれていたこかんが出直した(享年39歳)。ご寝所(しんじょ)となったのは、櫟本の梶本家の上街道(かみかいどう)に面した、乾(いぬい)の隅の四畳半だったと伝えられている。その報せによって、教祖は特別の許可を受けてお帰りになられたが、こかんの臨終に間に合わなかった。こかんは、教祖の説く世界を最も聞き分けし得た「お道」の取次第一人者であった。そのこかんの挫折を前にして教祖の心中いかばかりであったであろうか。

 稿本天理教教祖伝によれば、教祖は、冷たくなったわが子の遺骸をなでて、「可愛いそうに、早く帰っておいで」と、優しくねぎらわれたと云う。異聞はこうである。この時、教祖が、信者親戚一門を前にして云い諭されたお言葉は次のようなものであったと伝えられている。
 「神が強いるのやぜ。それは節やぜ。節から芽が出るぜ」。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「古き道すじ(その一)」が、高井猶吉氏の「古き道すぢ」を紹介している。これを転載しておく。(※「教団の力」(昭和2年発行、天理教青年会発行)より、高井直吉先生のお話)
 古き道すぢ 高井猶吉

 本年もお暑い時分に皆さん御苦労さんです。私はお若い方の様に大きな声が出ません。前の人は聞こえるが、後の人は聞え難(がた)い、止むを得ないから辛抱して貰わなければならぬ。長い話は時間が短いからできませんから、短い処をお話しようと思います。

 皆様も御承知の通り、明治8年、差し紙によって初めて教祖様はお出ましになったが、その時には小寒様はお身上やった。お身上でお休みであったけれども、教祖がお出ましになったその時は大変お身上が悪かった。8年にお出でになった理由を話すると時間がかゝる。この26日の日の、昔の七つ時分に御教祖がお帰りになった。三日間おいでになって居てお帰りになった時に、丁度そこいら、三島辺りにお帰りになる時分に、小寒様は息引取った。丁度御教祖がお這入りになったら息引取った後や。その時に秀司先生が、中山家は苗字帯刀も許された家柄であり、母の里はやはり前川家は苗字帯刀の許された家柄であり、父母共に奈良長谷(はせ)の間に数なき家柄の両親の間に生れて今息引取るに水も一杯貰えんのはどうした因縁や、と大変秀司先生がお嘆きになったそうです。そうすると、御教祖が、『小寒はこれ迄に大分に働きしてあるで、神様は何(なん)かの思召あって迎い取ったのだから嘆くでない』と仰しゃった。

 御承知の通り小寒様は17歳の年に大阪に出て、天理王命と名をお弘めになった、婦人の方はもう17位では恥かしくて人の処に出るのもいやがったけれども、小寒様は17歳の時に大阪に出て辻々で名をお弘めになった。それから此方へは御教祖の方へお話があり、小寒様の方にお出ましがある、両方にお話があった、天の親様が御教祖に入り込んでお話がある時と、小寒様に入り込んでお話がある時と、両方にお下りになったのであります。丁度布留の宮の祭り、秀司先生が、この村の娘達は皆な着物着代えて布留の宮に参るが小寒は可愛想に着て行く着物がないから参る事できぬな、あゝ気の毒やな、と云われたら、小寒様は、私はそら何にも思いませんが、兄さんの青物作って丹波市にお売りに行くのが気の毒に思いますと云った。沢山のものを皆な施して極く困難な時や。その時分からズット秀司先生なり小寒様なりお通りになった。そして明治8年に丁度教祖様がお帰りになる5分間ばかり前に小寒様は息引取った。それから皆な助けて貰って御恩の為と方々から参って来るが参らすことできぬ。政府が許さぬからネエ、何とか足止めさせなければならぬと云うので、山中と云う人は地福寺の人で、この布留の地福寺から明治13年5月に元金剛山地福寺の出張所と云う看板かけて、中には説教所と云う札かけて人が寄る様にせなければ、来たら警察が追い払うから一言の話もできぬ。その時には丁度天は転宅の転、輪は三輪の輪の字で転輪王尊、転輪王如来とも云うし、天理王命とも云うしどっちでも宜しい。その時は天輪王命と云った」。(つづく)

(私論.私見) こかんの出直し時の教祖の御言葉異聞

 「教組のこかんの遺骸に接しての実際のお言葉」について、この時の様子は次のようにも伝えられおり、真相はこちらの方にあるのではないかと拝察される。その場に居合わせた後の某大教会夫人の談によれば、教祖は、冷たくなったこかんを前にして、

 「お前ほどの者が、歪んだ世間の習慣や情けの中で暮らしていて喜べる筈もない。そんなことが判らなかったのか。こうなることがわからなかったのか。どんな事情があろうと、どんな思いがあろうと、私のそばで一緒にやらなければ世界は変わらない。それしか私らの通る道はないことをお前はよくわかっていた筈ではなかったか」

 と云いなされ、こかんの額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。教祖の無念の思いが伝わってくる逸話である。ちなみに、後の秀司の遺骸に接してのお言葉との違いが興味深い。


【講第1号として天元講始まる】
 この時のこかんの出直しの葬儀を手伝った庄屋敷村の人々が後仕舞いの膳についた席で、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と云う者が出て、講をつくって信仰し始めたのが「天元講」であり天元分教会の始まりとなる。教祖の教えが村方の中で少しずつ理解者を獲得していたことが知れることになる。ちなみに、秀司を中心とした真明講の結成が明治11年であり、してみれば天元講が講の第1号ということになる。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「43、それでよかろう」は次の通り。
 「明治8年9月27日(陰暦8月28日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言うては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかったと、中には涙を流す者さえあった。その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、あなた方も一つ、講を結んで下さったら、どうですかと言った。そこで、村人達は、わし等も村方で講を結ばして頂こうやないかと相談がまとまった。その由を、教祖に申し上げると、教祖は、大層お喜び下された。そこで、講名を何んと付けたらよかろうという事になったが、農家の人々ばかりでよい考えもない。そのうち誰言うともなく、天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろうとのことに、一同、それがよいという事になり、この旨を教祖に伺うと、『それでよかろう』と仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、『これを信心のめどにしてお祀りしなされ』とお下げ下された。こうして天元講ができ、その後は、誰が講元ということもなく毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを始めたのである」。

【こかんの後を仲田と飯降が務める】

 「お道」の取次人第一人者且つ最大の協力者であったこかんを失ったことにより、こかんの後の取次ぎは、仲田と飯降が第一人者として勤めることとなった。教祖は、節ごとに何時も輝かしい芽を出して、教祖の言葉に間違いのない証拠を見せながら、節に対する心構えや、明るい悟りかたをお教え下された。こうして、教祖の態度には、教祖の「ご苦労」という外からの激しい迫害干渉も、こかんの出直しといったこの上もない家庭の不幸を前にしても、何一つとして教祖の行く手を阻むことはできなかった。否、むしろそれらは、却って教祖の活動を一層活発化させ、教勢の伸びへと結果して行き、全てがより一層大きな道の発展をもたらす跳躍台としての役割を果たして行くこととなる。


【教祖の引き続く「ご苦労」とその際の御言葉】

 この後迫害干渉は次第に激化して、教祖は、明治7年から最後の「ご苦労」までの明治19年までの10余年の間、教祖77才から89才までの間、顕著な事実だけを拾っても27、8回に亘って干渉され、警察署や監獄署へ拘引留置される「ご苦労」は御高齢にも拘らず17、8回にも及んだ。世間常識的に信じられないことであろうが、これが史実である。当然のことながら、罪科あってのことではない。教祖が、世界助けの道をお説きになる、不思議な助けが挙がると云うては、拘引されることとなったのである。

 れんだいこは、教祖が、「お道」の弾圧に抗してどのように闘ったか、その様に感動を覚えている。ちなみに、教祖の指導は何も弾圧に限ることではない。我々の日々の生活上の事業上の困難に対する道しるべでもある。これにより普遍的価値を獲得していると思う。

 教祖は、「ご苦労」に際して次のようにお諭しくだされている。時に親神の思し召しを理解できぬ人間心にもどかしさを述べられながらも、頑是ない子どもの所為として受け流し、気に障られることなかった。「親神様の思召しは、時勢の雲行きに構わず伝えていかなければならん、否伝えずにはおられない」の姿勢を一貫させた。官憲の拘引に対しても、これ皆な高山から世界に往還の道をつける匂い掛けの機会として、これを喜び勇んで通ることの肝要を、ひながたでもってお示しくだされた。呼び出し先がいかにいかめしい取り調べの庭であっても、時には孫や子に話しかけるようなやさしさで、また時には聞く人々の身が引き締まるような厳かな御態度で、思召しをお聞かせ下された。このように、如何なる節があろうと布教の手綱を緩めることなく、事態が常に好転していくことを機会ある毎に説き聞かせた。教祖は、かく「ひながた」を示された。道人は、これを教祖こそ「月日のやしろ」におわすという理合いで受け留め、教祖の仰せに添う道を信仰目標(めどう)にして結集した。このことを次のように筆におつけくだされている。

 この道を つけよふとてに しこしらへ
 そばなるもの ハなにもしらすに
五号58
 このとこへ よびにくるのも でてくるも
 神の思惑 あるからの事
五号59
 このところ とめに来るのも 出て来るも
 皆な親神の することや

 「節から芽が吹く」、「節から芽が出る」。
 「親神が連れていくのや」。
 「このところへ呼びに来るのも 結構なおぼりた宝を掘り出しに来るようなものやで」。
 「神様が、また高山へ匂いがけに行けとおっしゃるで。じきに帰ってくるで。案じなや」。
 「反対するのも可愛いい我が子」。

 こうした尊い「ひながた」を目のあたりにお見せ頂きつつ、お連れ通り頂いていたとはいえ、このような中で信仰生活を続けていくには、信徒にも余程の強靱な信念が必要だった。気の小さな者は、如何に教祖を信じても、不安や恐怖に襲われることもあったであろうが、「ひながた」によって、官憲の弾圧の度毎に親神の思召しを一段と広めていくことになった。今や河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んで行くこととなった。迫害の猛火もいよいよ燃え盛ったが、親神の思召しも又一段と広まる一方となって立て合ったのである。こうした教勢の広がりに連れ、不思議な助けを続出するに連れ、世間のねたみやそねみも増し、「お道」に対する反対攻撃の声も強まって行った。各地から奈良警察署へと苦情が集まり、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられて行くことになった。


【教祖の「ご苦労」時のご様子考】
 この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その二)」を転載しておく。
 どん底の助け

 教祖は御生前度々警察署や監獄へ御拘引になったが、その度毎に例(いつ)もニコ/\として、宛然(さながら)親族か知音(なじみ)の宅(うち)へ遊びに行かれるのと、少しも変った御様子がなく、途中で知った人にでも逢えば『チョット行って来るで』と手軽い挨拶をなさるのを常とせられた。又、監獄や警察署からお帰りの時もその通り、親族か知音(なじみ)の宅からお戻りのように、ニコ/\として門を出られ、出迎えの人々が「さぞ御不自由でござりましたろう」と御挨拶をすると、いつものような陽気な御調子で『イエ/\、何も不自由な事はない、神様の御思召しで又、どん底までたすけに行って来ました』とおうせられ、行く時と同じような御元気で皆と一緒に御帰りになられました。而(そ)して教祖は警察署の拘留室や監獄に留めおかるゝ間も、すべての御挙動(ごようす)が宅に居らるゝ時と少しも変った事はなく、同室の囚人に、ありがたいお話をしてお聞かせになる、牢瘡(ろうがさ、長期間入牢したために生じた瘡)のできている者には、息をかけて癒(なお)しておやりになる、身上に障りのある者には、おさづけをしておやりになる。毎(いつ)も沢山に紙を持っておいでになり、それに悉皆[のこらず]息をかけて、疾病(さわり)の時の用意にとて、囚人に置きみやげになされたということであります。又教祖は如何なる時、如何なる場合でも、集合している信徒の前をお通りにならず、毎(いつ)もその背後(うしろ)を『ごめん/\』というてお腰を屈(かが)めて、お通りになるのが常でありました。(大正六年一月号みちのとも、110~112ページより)
 「私の叔母(山澤ひさ)からよく聞かされましたが、教祖様はこのご苦労の中にあって、実にいつも勇んでいられ、陽気な方だったそうで、よくこの地方に流行った陽気な唄など口ずさまれ『金太郎兵衛が金だらいもって、つるべで水汲んで‥』とか何とかいう唄など唄われたということです。田んぼ道など歩かれるときも、若い者がついて歩かれないほど、まるで飛んで歩かれるように早かったものです。勇み切って歩かれるのでした」。(「教祖の歩かれ方」、昭和十八年十一月号みちのとも「たゞ一すぢに」梶本宗太郎より)。

【「埃を肥にする理、埃を正味にする理」の諭し】
 「埃を肥にする」( 「天理時報」昭和30年10.16日号「日々埃りを払う道」井筒貞彦より)。
 「教祖様が、奈良の監獄をお出ましの時、奈良の人々が、これが庄屋敷の気狂いか、狐つきか、とクソミソに申されました。教祖様は黙ってお屋敷にお帰り遊ばされ、お側の方々に『今日は結構なことやった。沢山の人から肥をかけて頂いて有難かった、結構なことやった』と、埃を肥にする理、埃を正味にする理をお教え下された」。





(私論.私見)