第61部 1875年 78才 教祖最初のご苦労、こかんの出直し
明治8年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖最初のご苦労、こかんの出直し」を確認しておく。

 2007.12.1日 れんだいこ拝


【警察官憲の迫害干渉始まる】

 1875(明治8)年、教祖78歳の時、この頃「お道」の教勢が更に発展する。他方で明治維新政府による干渉が予見される雲行きとなりつつあり、行く手が危ぶまれる動きが始まった。それは、慶応時代のそれのように神官、僧侶、医師、山伏などの暴行や、村人の嫌がらせの程度ではなく、国家権力を背景とする警察官憲の迫害干渉であった。「お道」の道程は平坦ではなく、教勢の伸びに応じて又迫害干渉も強まるという「立て合い」の構図となった。

 「明治のご一新」は、表向きは皇政維新を唱え、神ながらの政治を行い、神道を国教として民心を指導し、且つ国民教育に注力する大方針を示してはいたが、本質は「文明開化」の名の下での欧化主義化(より正確には国際ユダ邪化)にあった。その結果、明治政府は、日本より格段に進歩したとされる西欧文明、文化(より正確には国際ユダ邪化式テキスト学問)を吸収することに追われた。それを学習する度合いに応じて「古き良き日本的なるもの」に打撃を加えて行くことになった。明治7年頃までに末端の宗教信仰や行事までを取り締まる細則ができ上がった。この頃からいよいよ国家的統制が猛威を振るい始めることになった。

 政界の雲行き事情に通じない道人は官憲の動きなど知る由もなかったが、教祖は、やがて身に降りかかる弾圧を予見していた。この頃、教祖は、「もう一度こわいところへ行く。案じな」と予言されている。且つ、ひるむことなく毅然として信仰者としての道を歩む「ひながた」を見せられている。迫害を前にして揺るぎがちな道人に対し、神一条の道を通る者の心構えを諭し、「自由自在の親神の守護」を請け負うて励まされた。


(私論.私見) お道弾圧の真因考

 何故に、時の政府が「お道」に対して迫害を加えなければならなかったのか。何故に「お道」信仰が弾圧されねばならなかったのか。これを正面から問う論考が見当たらない。れんだいこがこれを推察しておく。

 要するに根深いところでの政治的思想的な対立だったと考えられる。それは、現象的には、明治維新政府の推し進めようとする宗教政策との対立として立ち現われた。別章「神ながらの道」で分析したが、維新政府の記紀神話に基づく国家神道化の動きが、それと抵触する内容を持つ「お道」教義と相容れず、これが為やがて弾圧を食う運命にあったものと拝察される。

 天理教弾圧は、時の政府の近代天皇制的宗教政策に起因していた。徳川幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することができたのは、各地に蜂起した勤皇の志士逹の活動によったが、彼らの行動理念のその多くは水戸学に発祥する国学者が唱え始めた復古思想に依拠していた。これにより王政復古という大目的が達せられ、新政府が樹立されるや、復古思想は時代を風靡する支配勢力となり、祭政一致、政教一致の天皇親政へと進み、政治も宗教も教育も一切を、我が国固有の「神ながらの道」に即して行うことになった。その「神ながらの道」も、「神ながらの道」と習合して大きな影響を与えてきた儒教、仏教が徹底的に除染せしめられる、一切の夾雑物を交えない、純粋極端な方向に走っていくことになった。

 しかし、この観点だけでは解明できない。明治維新政府の近代天皇制政治化は初期のそれでしかなく、その後の政策は次第に西欧開化(より正確には国際ユダ邪化)させられて行くことになった。これを思えば、明治維新運動とは、尊皇攘夷派と文明開化派が倒幕を宗として奇妙に合従連衡した倒幕運動であった。このことは、倒幕後に於いて両派の抗争が避けられないことを意味する。結果は文明開化派が勝利し、これによって尊皇攘夷を宗とする日本的神道派が排撃されて行くことになった。これに応じて西欧的なキリスト教、ユダヤ教が容教的になった。かくして、「明治維新政府的神ながらの道」と、それとは又別の古神道的教えと通底している「お道」が、正面から衝突する運命となった。「明治維新政府的神ながらの道」と最も非和解的に対立する「元の理」教理を持つ「お道」こそ弾圧の主要対象にされる運命にあった。新政府が樹立されて7年も経過した明治7年に至って迫害が強められた事情にはそういう理由があった、と考えられる。


【教祖最初のご苦労】

 「お道」の教勢がますます伸び拡がり、信者の数もいよいよ多きを加えるこの頃、お屋敷においては中南の門屋の建築が行なわれていた。「お道」のこの動きは取締り当局の目を刺激し、「お道」の動きに呼応して遂に官憲よりの直接の迫害干渉の日を迎えることとなった。

 1875(明治8)年、陰暦8月25日、教祖と秀司に対して、奈良県庁から明日出頭せよとの呼び出し状が寄せられることとなった。教祖、教祖の付添いとして長女おまさ、秀司の代理として辻忠作が出頭することとなった。辻忠作は、「明日の取調べの際の応答如何」を尋ねたとところ、教祖は次のように宣べられている。

 「善悪(良し悪し)とも、神様にお任せするのや」。

 ちなみに、おまさは、安政4年の記述から18年ぶりに登場している。この時期は、おまさが豊田村の福井治助に嫁し「福井おまさ」として過ごした時期になる。おまさは長男の鶴太郎、次男の重吉を生み、福井家の主婦として活躍している。その後、夫婦は離縁し、長男を婚家に残し、次男の重吉を連れてお屋敷帰りしている。その後、教祖81才から90歳までの十年間、中山家の分家として教祖のそばに仕えて、梶本ひさらと共に教祖の身の回りの御用を務めている。分家の普請が完成すると、親族の者たちは「新建(しんたて)のおばやん」と呼び親しんだ。この「おまさの家」は、村田長平の豆腐屋と共に諸国から集まってた来た信者たちの定宿となった。村田が藁ぶきの家を建てて豆腐屋をはじめたのは1883(明治16)年のことであるから、「おまさの家」の方がだいぶん早かったことになる。

 教祖は何の躊躇もなく、いそいそとお出かけになられた。村役人として足達源四郎が同道した。これが教祖最初の「ご苦労」となられた。折しも秀司とこかんは、二人とも身上の障りで、殊にこかんは危篤の状態であった。教祖は種々と取調べを受けられることとなった。「そもそも天理王命というような神はない」、「一体どこに典拠があるのか」、「なぜ病気が治るのか」などと質問されたようである。教祖は、これに対して一々、明快に諭されたが、当時の役人達の理解の覚束くところではなかったものと思われる。辻忠作は、当時普請中の中南の門屋について経費の出所を尋ねられた。忠作は、「中山様より出された」と答えた。この時の取調べの結果は、12月になって、教祖に対し、25銭の科料に処すと通知が為された。

 教祖は、78歳の時の収監を「最初のご苦労」として以降89歳まで17、8回に及ぶ苦労を味わうことになる。これは史実であり、天理教にとって忝くも有難過ぎる財産ではなかろうか。


【こかんの出直し】
 節というものは種々と立てあってくるものである。教祖拘留中の9.27日(陰暦8.28日)、「若き神」と呼ばれていたこかんが出直した(享年39歳)。ご寝所(しんじょ)となったのは、櫟本の梶本家の上街道(かみかいどう)に面した、乾(いぬい)の隅の四畳半だったと伝えられている。その報せによって、教祖は特別の許可を受けてお帰りになられたが、こかんの臨終に間に合わなかった。こかんは、教祖の説く世界を最も聞き分けし得た「お道」の取次第一人者であった。そのこかんの挫折を前にして教祖の心中いかばかりであったであろうか。

 稿本天理教教祖伝によれば、教祖は、冷たくなったわが子の遺骸をなでて、「可愛いそうに、早く帰っておいで」と、優しくねぎらわれたと云う。異聞はこうである。この時、教祖が、信者親戚一門を前にして云い諭されたお言葉は次のようなものであったと伝えられている。
 「神が強いるのやぜ。それは節やぜ。節から芽が出るぜ」。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「古き道すじ(その一)」が、高井猶吉氏の「古き道すぢ」を紹介している。これを転載しておく。(※「教団の力」(昭和2年発行、天理教青年会発行)より、高井直吉先生のお話)
 古き道すぢ 高井猶吉

 本年もお暑い時分に皆さん御苦労さんです。私はお若い方の様に大きな声が出ません。前の人は聞こえるが、後の人は聞え難(がた)い、止むを得ないから辛抱して貰わなければならぬ。長い話は時間が短いからできませんから、短い処をお話しようと思います。

 皆様も御承知の通り、明治8年、差し紙によって初めて教祖様はお出ましになったが、その時には小寒様はお身上やった。お身上でお休みであったけれども、教祖がお出ましになったその時は大変お身上が悪かった。8年にお出でになった理由を話すると時間がかゝる。この26日の日の、昔の七つ時分に御教祖がお帰りになった。三日間おいでになって居てお帰りになった時に、丁度そこいら、三島辺りにお帰りになる時分に、小寒様は息引取った。丁度御教祖がお這入りになったら息引取った後や。その時に秀司先生が、中山家は苗字帯刀も許された家柄であり、母の里はやはり前川家は苗字帯刀の許された家柄であり、父母共に奈良長谷(はせ)の間に数なき家柄の両親の間に生れて今息引取るに水も一杯貰えんのはどうした因縁や、と大変秀司先生がお嘆きになったそうです。そうすると、御教祖が、『小寒はこれ迄に大分に働きしてあるで、神様は何(なん)かの思召あって迎い取ったのだから嘆くでない』と仰しゃった。

 御承知の通り小寒様は17歳の年に大阪に出て、天理王命と名をお弘めになった、婦人の方はもう17位では恥かしくて人の処に出るのもいやがったけれども、小寒様は17歳の時に大阪に出て辻々で名をお弘めになった。それから此方へは御教祖の方へお話があり、小寒様の方にお出ましがある、両方にお話があった、天の親様が御教祖に入り込んでお話がある時と、小寒様に入り込んでお話がある時と、両方にお下りになったのであります。丁度布留の宮の祭り、秀司先生が、この村の娘達は皆な着物着代えて布留の宮に参るが小寒は可愛想に着て行く着物がないから参る事できぬな、あゝ気の毒やな、と云われたら、小寒様は、私はそら何にも思いませんが、兄さんの青物作って丹波市にお売りに行くのが気の毒に思いますと云った。沢山のものを皆な施して極く困難な時や。その時分からズット秀司先生なり小寒様なりお通りになった。そして明治8年に丁度教祖様がお帰りになる5分間ばかり前に小寒様は息引取った。それから皆な助けて貰って御恩の為と方々から参って来るが参らすことできぬ。政府が許さぬからネエ、何とか足止めさせなければならぬと云うので、山中と云う人は地福寺の人で、この布留の地福寺から明治13年5月に元金剛山地福寺の出張所と云う看板かけて、中には説教所と云う札かけて人が寄る様にせなければ、来たら警察が追い払うから一言の話もできぬ。その時には丁度天は転宅の転、輪は三輪の輪の字で転輪王尊、転輪王如来とも云うし、天理王命とも云うしどっちでも宜しい。その時は天輪王命と云った」。(つづく)

(私論.私見) こかんの出直し時の教祖の御言葉異聞

 「教組のこかんの遺骸に接しての実際のお言葉」について、この時の様子は次のようにも伝えられおり、真相はこちらの方にあるのではないかと拝察される。その場に居合わせた後の某大教会夫人の談によれば、教祖は、冷たくなったこかんを前にして、

 「お前ほどの者が、歪んだ世間の習慣や情けの中で暮らしていて喜べる筈もない。そんなことが判らなかったのか。こうなることがわからなかったのか。どんな事情があろうと、どんな思いがあろうと、私のそばで一緒にやらなければ世界は変わらない。それしか私らの通る道はないことをお前はよくわかっていた筈ではなかったか」

 と云いなされ、こかんの額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。教祖の無念の思いが伝わってくる逸話である。ちなみに、後の秀司の遺骸に接してのお言葉との違いが興味深い。


【こかん考】
 ここで、こかんの一生について見ておく。思えば、こかんは、教祖神懸かりの天保9年の前年に生まれ、「貧のどん底」時代にあっても不平不満をこぼさず、教祖の教えを聞き分け、教祖の心に添いきってきた娘子であった。苦労の道中に成人して、殊に嘉永6年、父善兵衛出直しの直後に、教祖の言葉を受けて17才の若さで生まれて初めて踏む浪速の町角に「天理王命」の神名を流された。道人の忘れられないこかんの事跡である。その後、道が開き始めて、助けを求めて訪ねる人足が繁くなり始めるや、「小さい神様」として、教祖に代わって日夜尊い親神の教えを取り次ぐ身となった。まさに教祖のかけがえのない片腕ともなっていたこかんであった。こうした時分、一時藤助と世帯を持つことがあったようであるが定かではない。こうして、一人身のまま永年教祖と艱難苦労を共にしていたこかんであったが、明治5年、こかん36才の時、梶本家へ嫁いでいた姉のおはるが産後の患いで亡くなり、梶本惣次郎の後添えを勧められることとなった。秀司夫婦の熱心な勧めと、惣次郎も望み、子供たちもこかんを慕っていたことによりこかんの心は動いた。しかし、教祖はこれに強く反対為された。こかんは世界助けの因縁あるつとめ人衆であり、世界助けの為に「お道」に奉ずるべきである、世情で梶本の家へ行ってしまう気持ちもわからぬではないが、何より「お道」の申し子とでも云うべき存在であり、こかんがいなければ世界助けが遅れるとのお話しが為された。
 月日より 引受けすると ゆうのもな
 元の因縁 あるからのこと
十一号29
 因縁も どうゆう事で あるならば
 人間始め 元の道具や
十一号30
 あれいんで こらほど何も すきやかに
 助かる事を 早く知りたら
十一号33
 それ知らず どふどいなさす このとこで
 養生さして をことおもたで
十一号34
 こんな事 早く知りたる 事ならば
 せつなみもなし 心配もなし
十一号35
 人間は あざないもので あるからに
 月日ゆハれる 事をそむいた
十一号36
 これからハ どんな事でも 月日にハ
 もたれつかねば ならん事やで
十一号37
 どのよふな 事をするにも 月日にて
 もたれていれば 危なげハない
十一号38
 このよふな 結構なるの 道筋を
 知らずにいたが 後の後悔
十一号39
 この先ハ どのよな事を ゆハれても
 月日ゆハれる 事ハ背かん
十一号40

 明治8年夏頃、こかんは死期を悟った。母の待つお屋敷に帰りたいという思いが無性に湧きたった。思えば、教祖と共におつとめをつとめているうちに、互い助け合いの心を定める道々が次々にできた。その世話取りにすべてを注いできたこかんであった。まもなく26日がやって来る。26日は「お道」の例祭である。おつとめを見て出直したい。教祖に会いたい。この思いが、こかんの最後の願いとなった。こうして、危篤状態の中、お屋敷に戻ったものの、教祖は「最初のご苦労」にあそばされており不在であった。こういう状況の中、道人は、こかんの心を思って、警察に捕まるのを覚悟でおつとめをした。神楽面をつけて、それぞれの神の働きそのままに転輪王の心となって互い助けあいの心を定める「甘露台づとめ」を勤めた。こかんは、それを見遣りながら、教祖にお会いすることができぬまま息を引き取った。

【増野鼓雪「小寒子略伝」】
 「こかん様について(その一) 」転載。(原典は「増野鼓雪全集22巻」(昭和4年6月発行、増野鼓雪全集刊行会編、3-29頁)に”小寒子略伝”)
 小寒子略傳
 誕生
 文政11年4月、御教祖31歳の時、乳不足にて困難せる、隣人足達家の幼児を預り、乳を与えて世話し給う中、黒疱瘡と変じたれば、御教祖は神明に祈願し、吾が子二人の生命を捧げ、満願の上は我が身も召させ給えと、御心深く誓い給うた。神は御教祖の至誠を受納し給い、足達家の幼児は日を追うて全快したが、深き誓は年と共に果された。即ち天保元年、二女安子殿の帰幽と、天保6年、四女常子殿の死去は全くこれが為であった。後年、『二人の寿命を一時に迎え取っては気の毒であるから、一度迎え取って又宿し込み、生れた者を又迎え取った』との天啓はこの事情を説明せられたものである。二女の帰幽により御教祖は、大なる感動を心霊に受け給うたのみならず、天保8年10月26日、長男秀司殿の足痛が、修験者市兵衛の祈祷にて平癒したのを見給うて、御教祖の霊性が著しく目醒めて来たのである。末女小寒殿はこうした霊気に満たされた、御教祖の胎教を受けて、天保8年12月15日、この世に誕生あらせられたのである。時、朔風(さくふう。朔は北の意)肌を刺す小寒(しょうかん)の季節であったから、名を小寒と命ぜられた。天啓によれば二女安子殿の再生であるから、小寒殿は三度の更生(そせい、甦生)を得て出産せられたのである。

 前世に於て再度死を以て、御教祖立誓の約を果し給うた小寒殿は、生を現世に受け給うても、決して幸福なる御身ではなかった。二才といえども未だ誕生日も来らぬ、天保9年10月26日に、御教祖に神懸の一大事が現れたので、神意を奉じ給うに専念な御教祖は、吾が子も時には顧み給わぬこともあった。従って小寒殿は母たる御教祖と、神たる御教祖を認められねばならぬ地位に置かれたのである。(つづく)
 幼時
 天保9年10月26日、御教祖に神懸があって、中山家の全財産を貰い受けられる約束が、夫善兵衛殿と神様の間に成立した。神の社である御教祖は、神意の儘に全財産を、世界助けの為に施し給うた。一家は日に日に衰退し家運は時と共に傾いた。小寒殿の幼時はこうした間に、一人の兄、二人の姉と共に過された。物心つかれる頃になって、楽しい遊びから帰った時など、寂れ行く我が家を見て、如何に幼心を痛められたことであろう。しかし如何に家運が傾いたと云え、習うべきものは習い、教ゆべきものは教えねばならなかった。小寒殿は針縫う道は母たる御教祖に習われ、読み書きの道は兄たる秀司殿に学ばれた。聡明なる小寒殿は、一度聞けば直ちに会得せられたと伝えらる。後年、秀司殿の留守には、代って読み書きを村童に教えられたによっても明らかである。

 小寒殿12、3歳の頃には、御教祖の慈悲心は益々強く、人に恵むのを楽しみとし給うた。従って教祖の言行に対して、村人は云うに及ばず、親類縁者も皆狐狸の術となし、御教祖を誹謗する声が四方八方で叫ばれた。幼き小寒殿は、家運の非なるを見て、心を痛められているその上に、母に対する避難の声を聞かねばならぬ、悲しい境遇に生きねばならなかった。しかし若き女が常に持つ、明徹(めいてつ。聡明で物事の道理に通じていること。また、そのさまや、その人)なる直感の働きは、小寒殿をこの窮地から救うて、御教祖の霊醒(れいせい。”醒める”とは、迷いが解ける。物思いが晴れる、という意味)に導いて行った。何故母たる御教祖は、衆人の非難に堪えて、この苦しい道を通られるか。何故全財産を人に与えて、人の助かるのを楽しみとせられるか。小寒殿の心の眼には、それが判然と分って来たのである。

 父善兵衛殿は人の好い、温厚なる方であって、最初は神命を奉じて、唯々(いい)として随うて居られたが、家計日に困難なると、世人の誹謗が盛んなる為、狐狸の類にあらざるかと疑い惑うて、心ならずも御教祖を苦しめ給うこともあった。聡明なる小寒殿は、この父と母との争いの中に立って、他の御兄姉と共に、心苦しい思いを抱いて過されたのである。しかし一度母が神の社であることを自覚せられた小寒殿は、其所に明らかなる解答を得ておられた。小寒殿の心は父たる善兵衛殿より、母たる御教祖の心に力強く引き寄せられて行かれたのは、蓋し(けだし。確信的な推定の気持ちを表わす語)当然のことである。(つづく)
 宣伝
 家計の窮乏も里人の嘲笑も、一家の支持者たる父善兵衛殿の在世中は、堪え忍ぶ道はあった。けれども嘉永6年2月22日、父が白玉楼中(はくぎょくろうちゅう。文芸などに携わる人が死後に行くという楼閣)の人となられてからは、家運は貧のどん底に向って直下し、里人の嘲笑は何の遠慮もなく、残忍な程露骨になった。貧窮の生活は御教祖の心に深く共鳴しておられた小寒殿としては、決して堪え難いものではなかった。けれども猜疑に満ちた眼差し、低い声で語らるゝ罵詈、冷やかな口元に浮べられる嘲笑は、若い女の誇りを持った小寒殿としては、実に苦しき忍従の苦行であったに相違ない。

 しかしその頃、兄秀司殿は、既に33歳の男盛りであったから、父の跡を継がれたが、しばしば大阪へ出懸けられた。当時、長女政子殿も春子殿も既に他家へ縁附いておられたので、小寒殿の従兄弟に当る、忍阪村(おつさかむら)の勇助、又次郎の兄弟を小寒殿の従者として、御教祖は秀司殿を呼びに遣わされた。この時小寒殿は17歳で、未だ普通の女ならば娘盛りであり、羞恥の情に心引かれる年であるが、御教祖の思召を体して、大阪の賑やかな辻々に立ち、南無天理王命と声高く唱えて歩かれた。これ天理王命の名が、大和の地を離れて他国に宣伝された始めである。大阪の人々は小寒殿の、この御布教を見て、狂気せるものと誤り、気の毒がったと云うことである。

 この一事を見ても如何に小寒殿が、青春の血に燃え立つ心を以て、信仰に直進せられたかが伺われる。後年若い神とも二代神とも称えられる身となられたのも、決して偶然ではないのである。(つづく)

※ この挿話は、稿本教祖伝と内容がかなり異なる。稿本教祖伝33-34Pでは次のように記されている。
 「その年、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。~元気に拍子木を打ちながら、生き/\とした声で、繰り返し/\唱える親神の御名に、物珍らしげに寄り集まって来る人の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく、清々しい明るさと暖かな懐かしみとを覚える者もあった」。
 婚約
 父善兵衛殿が帰幽せられてからは、中山家は一段と家計が困難となって来た。遺産の田地三町歩も、安政2年には十年間の年切質として金を借り、慈悲の料に充て給うてからは、最早点(とも)すべき油もない不自由の境涯に陥り給うた。秀司殿が青物の行商に、慣れぬ天秤を肩に村々を歩いて、庄屋敷の紋付さんのあだ名を取られたのも、この頃の出来事である。小寒殿が、月の光をたよりに、糸を紡ぎて、足らぬ家計を助けられたのも、亦この頃の事である。かくして5、6年を過されることとなった。

 ところが小寒殿二十歳前後の頃、御教祖の妹にて忍坂村の西田家へ嫁せられた桑子殿の二男に藤助と云う人があった。御教祖も屡々(しばしば)この西田家へ訪れ給うたので、藤助殿の人となりはよく御承知であった。一方小寒殿は生涯御教祖に附添うて、お世話したいお心があり、御教祖も手離したく思われなかったので、従兄弟(いとこ)の間でもあるから、この藤助殿を小寒殿の養子に迎えられることになり大和地方の慣例に習うて、足入(あしいれ)と云うのをせられたのである。然るに中山家は貧のどん底の生活であり、西田家は当時相当の資産家であり中山家に於て秀司殿や御教祖に仕えることは、非常に苦痛であったのと、小寒殿があまり藤助殿を好まれなかったので、約3年程中山家に居られたが、終(つい)に結婚をせずに帰られることになった。その時、御教祖は、藤助殿に、『何も持たして帰すものがないから八十迄の寿命をつけてやる』と仰せになり、小寒殿に対しては『生涯一人身で通るのやで』と仰せになったと云うことである。小寒殿の独身生活は、この御教祖の御言葉によって決定せられたのであった。(つづく)
 修養
 若き女が憧憬する結婚は、必ずしも幸福であるとは限らない。況んや(いわんや。以下のことは、言うまでもないという意味を表わす。なおさら。まして)霊に目醒(めざ)めた聡明なる小寒殿と、実直で働きものであるが、何の自覚もない藤助殿とが、生涯連れ添うことは不可能である。こうして不縁になった小寒殿の心は、最早夢みる乙女の心ではなかった。現実の苦味を嘗(な)めた勝気な女の心であった。その心を持って小寒殿は、再び信仰に立ち帰られた。一生を神に捧げて、母と共に聖業に従わんと、強い覚悟をせられたのであった。其所には様々な精神的誘惑があったろう。けれども唯(ただ)一筋に、神たる母に仕えるのを楽しみとして他に心を向けられなかった。

 その頃、御教祖は最も苦しい道を通っておいでになった。前を見ても後を見ても、何の頼りもない暗がりの道すがらであった。しかし御教祖の心中には、沈黙の内に恐ろしい強い霊感が閃いて居た。その胸中の光を以て、暗がりの道を御教祖はずん/\進み給うた。

 独身となられた小寒殿の心は、次第に落付くと共に、思いなき身の心は漸次明澄(めいちょう。明るく、澄んでいること)になって来た。御教祖の一言一句が鏡に映る様に、小寒殿の心に感ぜられて来た。打てば鳴り叩けば響く、同心異体の境にまで進んで行かれたのであった。かく小寒殿が御教祖に奉仕して、実際に精神的の修業をせられたのは、24歳頃から28歳頃迄、約5、6年の間である。この修行を経て、神として人々に奉仕せられる身となられたのである。唯(ただ)惜しむらくはこの間の事実が何ら伝えられて居らぬことで、僅かにその心理を推定するの外ないのである。(つづく)
 若い神
 小寒殿が久しい修行に堪えて、神懸(かみがかり)のある身となられたことは事実であるが、何時頃から如何にして、その地位を得られたのであるかは分らない。唯後年御本席に神懸があって『十年の間若き神と云う』また『若い神小寒と云う十年間と云う』の御言葉によって、帰幽前十年間であったことが分るに過ぎない。帰幽の十年前と云えば、慶応元年であるが、飯降氏が入信せられた時に、小寒殿から御話を承り、後小寒殿から扇の伺を頂かれた事より考えると、その当時既に小寒殿に神懸があったものと思われるのである。

 ところが元治元年と云えば、御教祖が長らくの暗がりの道を通って、曙光(しょこう。夜明けにさしてくる太陽の光。前途に見え始めたかすかな希望)を認められた時であり、本教が人々に伝えられた年である。飯降氏を始め桝井、山中、山澤等の方々が入信せられたのもこの年である。この方々が御教祖の教化を受けられたことは、云う迄もないことであるが、直接には多く小寒殿に接して教を聞かれた様である。何故なら御教祖の御言葉は、予言神秘に充ちておって、初信の者には容易に理解できない節々が、間々(まま。どうかすると。ときどき。おりおり)あったのである。それで小寒殿は多く御教祖と信者の間にあって、取次をせられた点から思うと、御教祖の御言葉を人々に理解できるよう諭されたものと思われる。

 聡明にして優しい小寒殿は、かくしてその霊の因縁である、国狭土命(くにさつちのみこと)のお働きである、継(つな)ぐ理を示されたのであって、これが為に、信者と御教祖の間が強く固く結ばれたのみならず、兄秀司殿と御教祖の間柄も小寒殿のこの物柔かな処置で、一家が事なく治まって行った。(つづく)
 布教
 嘉永6年、小寒殿17歳の時、大阪で神命を唱えられて以来、単独で布教に出られた時はなかった。常に御教祖の膝下にあって、奉仕の生活を送っておられたので、尋ね来る者に神意を取次いで居られたのであった。然るに文久3年以後、所々に信者ができて来たので、時に御教祖を御迎え申す処もあった。しかし大抵は小寒殿が主婦の役をしておられたので、重立(おもだ)った信者が随行する様になっていた。小寒殿の行かれた重なる所を挙げると左の如くである。

 慶応元年8月19日、大豆越村の山中氏から御教祖を御迎えに来たので、御教祖同家へ赴かれ、25日迄一週間滞在し給うた。その時小寒殿は一日遅れて行き二、三日滞在して先へ帰られた。又明治元年にも小寒殿は、御教祖と共にこの山中家へ赴かれたと云うことである。明治3年、平等寺村の小東家へ、御教祖に随伴してお出でになった。同家は明治元年秀司殿の内室(ないしつ。他人の妻を敬って言う語。奥方)となられた松枝殿の実家である。明治5年、御教祖は神命により、75日の断食を行わせらるゝ間に、若井村の松尾市兵衛氏が、病気にて迎えに来たので、御教祖が同家へお越しになり、4日間滞在あらせられた、その時小寒殿も同道せられ、同家に於て神懸があった。明治7年、御教祖の実家である、三味田前川家の”おたき”殿が病気にてお勤めを行わせられた。その時小寒殿も人々と同行せられた。

 右は御教祖と共に外へ出懸けられた重なるものであるが、内にあっては、勤め場所もでき、慶応3年7月23日附で、京都吉田家から、天理王明神の許があったので、参拝する者が多くなった。当時上段の間へ御教祖と小寒殿とが並んで御座(おすわ)りになり、交(かわ)る/\神懸があった。御命日即ち月の26日には、御教祖、小寒殿、秀司殿がお勤めをせられた。又秀司殿の代りに松枝殿が並ばれることもあったが、その時分のお勤めは、たゞ拍子木を叩いて、南無天理王命を繰り返し唱えるに過ぎなかった。その頃小寒殿は当時流行した、勝山と云う髪を結い、十二の菊を三つ置いた、黒の紋付を着ておられた。少し面長な顔に、涼しい張りのある眼で、背のすらりとしたお姿であったと伝えられている。(つづく)
 遺業
 元治元年以来約十年の間は、本教立教の基礎を定められたる時であって、本教としては最も重要なる年限であった。この間御教祖の影身(かげみ。影が体に添うように、常に離れないこと。また、その影)に添うて、その創業を助けられたのが、実に小寒殿と飯降氏とであった。元治元年、神命に依り勤め場所を建築することに決し、9月15日に手斧始めを行い、12月の中旬に落成した。家はできたが支払うべき金がない。当時主婦の立場におられた小寒殿は、その間にあって非常に心痛せられ、「一年もすれば年切質の田地が帰って来るので、その中(うち)一反も売れば返せるから、春迄待って貰う様断って来てくれ」と飯降氏に御依頼になった。同氏は小寒殿の意を体(てい。あることを心にとどめて それを守るように振る舞う)して、材木屋、瓦屋等に断りに行かれたのである。これによっても小寒殿が、如何に勤め場所の建築に、心を労されたかが偲ばれる。

 慶応2年、本教の信徒が漸次増加するのを嫉(ねた)み、秋の頃小泉村の不動院の山伏が、手に白刃を握って弁難に来た時、御教祖に代って小寒殿が対応し、遂にこれを説破せられたのである。

 慶応3年1月より8月に亘(わた)って、御教祖は御神楽歌を御製作になり、同年の冬より明治の初年へかけて、その手振りを教え給うた。然し教えられると云っても、自ら形を示されるのでなく、その意味を以て教えられるので、多くは小寒殿に依って形附けられたとのことである。その証拠には小寒殿御帰幽後、御教祖自ら訂正せられた点があるのによっても明らかである。

 明治2年正月より御教祖が、御筆先を御起草になった。それを小寒殿が『神様がこういうものを御書きになった』と云うて人々に示し、それからその御歌に就いて諄々と教理を諭された。

 明治8年5月、地場の芯を定められる時、小寒殿も御教祖と共に目隠して、中山家の庭を歩かれた。ところが不思議に一点に行くと足が立ち止って歩けない。其所を地場の中心として、甘露台の建設せられる地と定められたのである。

 かく小寒殿は御教祖の片腕となって、何かと心を尽されたのである。従って重要なる事件のある時は、必ず御教祖に添うて身の助けとなり、心の助けとなられたので、御教祖は小寒殿を殊に深く愛せられた様である。(つづく)
 帰幽
 御教祖の三女にして櫟本村の梶本家へ嫁せられた春子殿が、明治4年、三人の子を残して、遂に帰らぬ旅に赴かれた。その翌朝、御教祖は、一人梶本家へ行き給うた。小寒殿が姉春子殿の死を深く痛み給うたのは当然であるが、それにも増して姉の遺子(いし)が、行く末如何になり行くやと、同情の涙に暮れ給うた。その時、梶本家からは、小寒殿を後妻として迎えたき旨申し込まれた。

 その頃、中山家では秀司殿の内室松枝殿が、一家の主婦として万事処理しておられた。従前主婦の地位にあった小寒殿は、最早中山家としては隠居同様の身である。唯御教祖に奉仕して、その世話をせらるゝのみが、為すべき凡(すべ)てであった。梶本家からの申込に対して、御教祖は、『小寒はこの屋敷から出るのやない出すのやない』と仰せられて、極力反対し給うたのである。しかし小寒殿の心は右の様な事情から次第に梶本家へ傾いて行った。御教祖は、最早小寒殿の心を引止むる術なしと観て、遂に『三年の間貸す』と仰せになって、梶本家へ遣られたのである。梶本家に於ける小寒様は、神棚に向って時々扇の伺をなされたり、山伏等の質問に答えられたり、時には神懸もあったとのことであり、その時の扇は今尚梶本家に保存せられている。

 三年の月日は夢の如く過ぎた。御教祖は一日も早く小寒殿の帰られるのを待たせ給うた。けれども既に妊娠しておられた小寒殿は、中山家へ帰るのを好まれず、況(ま)して梶本家では帰す心は更になかったのである。其所に神意と人意との大きい矛盾がある。見許し聞き逃しておられた神様も、遂に心得違いを諭されるべき時が来た。小寒殿は明治8年6月末に至って、流産せられてから病床に親しむ身となられた。病気になっては人力で如何ともする術がない。小寒殿は遂にお地場へ帰って来られたのである。その頃、御教祖は御筆先に於て『月日より社となるを二人とも、別間隔てて置いてもろたら』と仰せになったのである。しかしこれは遂に実現せずに終った。かく小寒殿は再び御地場の人となられたのであるが、その心は元の小寒殿ではなかった。御筆先に於ても『病気ではない心違いや』、『月日受合うてしかと助ける』とも『三日目には外へ出るよう』と、種々様々に御諭しがあったけれども、小寒殿の心は再び取直すことはできなかった。

 同年9月、奈良県庁より取調の筋があるから、秀司殿同道出頭せよとの命があった。御教祖は秀司殿の代理辻氏と共に罷(まか)り出られた所が「妄(みだ)りに衆庶(しゅうしょ)を参拝せしめ人を惑わすは不都合である」と云う理由で、御教祖は三日間、辻氏は五日間拘禁せられた。

 その御教祖の留守中、即ち9月27日、小寒殿は遂に永久の眠(ねむり)に入られた。39年の生涯の長き間、殆ど御教祖の御側を去らず、奉仕の生活を送られたのに、その死に臨んで母の面影にも接せず、冷たき留置所の母上を慕うて、帰幽せらるゝ時の心は、如何に残念なものであったろう。翌日、御教祖が御帰宅になって、既に冷たい小寒殿の額を撫でて『長らくの間よく仕えてくれた、死んでも何処へも行くのやない、蝉(せみ)の抜殻も同じこと、魂はこの屋敷に留まっているのや、又早く帰っておくれ』と仰せられた。そして厚く葬儀を営んで善福寺へ葬り給うた。(つづく)
 予言
 天啓によれば小寒殿は、国狭土命の因縁を持って誕生し給い、39年の永き年月、本教宣布のため、艱難辛苦の道を通られたのである。受難の生涯とは、正に小寒殿の一生を云い現わす言葉である。帰幽後御教祖は屡々(しばしば)、小寒殿に関する御予言をなされた。そのおもなるものを摘録(てきろく)すれば、『今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる』と仰せになり、又『18歳迄は人並に成人するが、18歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも18の姿や』と仰せになった。それから御帰幽になった時、『満三十年経ったら産れて来る』との御言葉があった。明治14年3月、兄秀司殿の御死去の際には、『小寒は先へ死んだが、今度の世ではやっぱり妹として生れさす』との御言葉であった。

 尚御本席に神懸があるようになってから、時々小寒殿に関することを仰せられたので、是は予言ではないが書き加えておく。

 明治31年7月14日、『さあさぁさぁ元々は十年間と云う、若き神とも云うたやろ、それは古い事で聞分けにならん。若き神と云うた、十年間若き神と云う、このもの一つ順序の理』又『若き神名は小寒これも成らん/\の中、順序通して若き神、づっと以前にくれた』。

 明治31年8月26日刻限『若い神小寒と云う、十年の間と云う、不自由/\難儀の中、こうじゃ/\どこへどうじゃ、余儀なき事情に誘われ、唯一時の所は逃れるに逃れられん事情から、結講に暮されるもの、この道の為苦労難儀さしたこともある』。

 この外にもなお小寒殿や秀司殿の御苦労についての御言葉もあるが、伝記としてはあまり重要でないから省略して置く。又小寒殿自ら御教祖の口を借りて御話せられたものもあって、口伝えにせられているが、これも必要でないから略して置く。(おわり)

※「聞分けにならん」→『聞き分けにゃ分からん』、「これも成らん/\の中」→『これらは成らん/\の中』。天理教近愛分教会さん作成の、おさしづ参照。詳しくは明治31・7・14及び明治31・8・26のおさしづ参照のこと。 
 小寒様御逝去
-*/ぬらせ明治8年9月27日、若き神さんと呼び奉りたる小寒様、御死去被遊(あそばさる)。
れより前、明治5年、姉春子様、赤児をのこしてみまかりし故、その赤児を養育する為に、来てくれとの頼みにより、御教祖様、御許しあらざるに、小寒様は無理にもゆきたいと被仰(おおせられ)、教祖様の御止めに成るを聞かざりしかば、仰せらるゝには、『それでは三年だけやで、三年の後には、赤ききものをきて、上段の間へ坐って、人に拝まれる様になるのやで』と御咄しあり。その時は、何のさとりもなく、もしも、そんな事になる様やったら、どうぞ止めて下されや。わしや(わしゃ)、そんな事かなわぬさかいに、とある人々にたのみたりしと。然るに、梶本様へ行きて、のちぞひ(後添い)同様にくらしけるより、遂に神様の思召にそむき、よぎなくみまかるに立至り、はしなくも人に拝まるゝ様になるとの仰せに帰したり。止めて被下や(くだされや)と、頼みおきたることも何ぞ甲斐あらんや。すべて、神様の仰せにそむく時は、人をたよりにそむけども、一朝神様の意見立腹あらはれたる時は、さきにたよりし人は、何の役にもたゝぬぞかし。神様の仰せ、したがはでやはあるべき。因みに、御咄し有之事をり/\(これあること折々)有り。又御本席様、伊蔵様と申して、その頃櫟本に御住い被遊(あそばされ)ければ、伊蔵様にも、神様御降り御話しあることあり。時には、双方一時に御降りありて、御道の人々うろたへ走りたる事もありしと。その時頃、櫟本に居りて熱心たりし或人の話なり。

【講第1号として天元講始まる】
 この時のこかんの出直しの葬儀を手伝った庄屋敷村の人々が後仕舞いの膳についた席で、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と云う者が出て、講をつくって信仰し始めたのが「天元講」であり天元分教会の始まりとなる。教祖の教えが村方の中で少しずつ理解者を獲得していたことが知れることになる。ちなみに、秀司を中心とした真明講の結成が明治11年であり、してみれば天元講が講の第1号ということになる。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「43、それでよかろう」は次の通り。
 「明治8年9月27日(陰暦8月28日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言うては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかったと、中には涙を流す者さえあった。その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、あなた方も一つ、講を結んで下さったら、どうですかと言った。そこで、村人達は、わし等も村方で講を結ばして頂こうやないかと相談がまとまった。その由を、教祖に申し上げると、教祖は、大層お喜び下された。そこで、講名を何んと付けたらよかろうという事になったが、農家の人々ばかりでよい考えもない。そのうち誰言うともなく、天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろうとのことに、一同、それがよいという事になり、この旨を教祖に伺うと、『それでよかろう』と仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、『これを信心のめどにしてお祀りしなされ』とお下げ下された。こうして天元講ができ、その後は、誰が講元ということもなく毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを始めたのである」。

【こかんの後を仲田と飯降が務める】

 「お道」の取次人第一人者且つ最大の協力者であったこかんを失ったことにより、こかんの後の取次ぎは、仲田と飯降が第一人者として勤めることとなった。教祖は、節ごとに何時も輝かしい芽を出して、教祖の言葉に間違いのない証拠を見せながら、節に対する心構えや、明るい悟りかたをお教え下された。こうして、教祖の態度には、教祖の「ご苦労」という外からの激しい迫害干渉も、こかんの出直しといったこの上もない家庭の不幸を前にしても、何一つとして教祖の行く手を阻むことはできなかった。否、むしろそれらは、却って教祖の活動を一層活発化させ、教勢の伸びへと結果して行き、全てがより一層大きな道の発展をもたらす跳躍台としての役割を果たして行くこととなる。


【教祖の引き続く「ご苦労」とその際の御言葉】

 この後迫害干渉は次第に激化して、教祖は、明治7年から最後の「ご苦労」までの明治19年までの10余年の間、教祖77才から89才までの間、顕著な事実だけを拾っても27、8回に亘って干渉され、警察署や監獄署へ拘引留置される「ご苦労」は御高齢にも拘らず17、8回にも及んだ。世間常識的に信じられないことであろうが、これが史実である。当然のことながら、罪科あってのことではない。教祖が、世界助けの道をお説きになる、不思議な助けが挙がると云うては、拘引されることとなったのである。

 れんだいこは、教祖が、「お道」の弾圧に抗してどのように闘ったか、その様に感動を覚えている。ちなみに、教祖の指導は何も弾圧に限ることではない。我々の日々の生活上の事業上の困難に対する道しるべでもある。これにより普遍的価値を獲得していると思う。

 教祖は、「ご苦労」に際して次のようにお諭しくだされている。時に親神の思し召しを理解できぬ人間心にもどかしさを述べられながらも、頑是ない子どもの所為として受け流し、気に障られることなかった。「親神様の思召しは、時勢の雲行きに構わず伝えていかなければならん、否伝えずにはおられない」の姿勢を一貫させた。官憲の拘引に対しても、これ皆な高山から世界に往還の道をつける匂い掛けの機会として、これを喜び勇んで通ることの肝要を、ひながたでもってお示しくだされた。呼び出し先がいかにいかめしい取り調べの庭であっても、時には孫や子に話しかけるようなやさしさで、また時には聞く人々の身が引き締まるような厳かな御態度で、思召しをお聞かせ下された。このように、如何なる節があろうと布教の手綱を緩めることなく、事態が常に好転していくことを機会ある毎に説き聞かせた。教祖は、かく「ひながた」を示された。道人は、これを教祖こそ「月日のやしろ」におわすという理合いで受け留め、教祖の仰せに添う道を信仰目標(めどう)にして結集した。このことを次のように筆におつけくだされている。

 この道を つけよふとてに しこしらへ
 そばなるもの ハなにもしらすに
五号58
 このとこへ よびにくるのも でてくるも
 神の思惑 あるからの事
五号59
 このところ とめに来るのも 出て来るも
 皆な親神の することや

 「節から芽が吹く」、「節から芽が出る」。
 「親神が連れていくのや」。
 「このところへ呼びに来るのも 結構なおぼりた宝を掘り出しに来るようなものやで」。
 「神様が、また高山へ匂いがけに行けとおっしゃるで。じきに帰ってくるで。案じなや」。
 「反対するのも可愛いい我が子」。

 こうした尊い「ひながた」を目のあたりにお見せ頂きつつ、お連れ通り頂いていたとはいえ、このような中で信仰生活を続けていくには、信徒にも余程の強靱な信念が必要だった。気の小さな者は、如何に教祖を信じても、不安や恐怖に襲われることもあったであろうが、「ひながた」によって、官憲の弾圧の度毎に親神の思召しを一段と広めていくことになった。今や河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んで行くこととなった。迫害の猛火もいよいよ燃え盛ったが、親神の思召しも又一段と広まる一方となって立て合ったのである。こうした教勢の広がりに連れ、不思議な助けを続出するに連れ、世間のねたみやそねみも増し、「お道」に対する反対攻撃の声も強まって行った。各地から奈良警察署へと苦情が集まり、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられて行くことになった。


【教祖の「ご苦労」時のご様子考】
 この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その二)」を転載しておく。
 どん底の助け

 教祖は御生前度々警察署や監獄へ御拘引になったが、その度毎に例(いつ)もニコ/\として、宛然(さながら)親族か知音(なじみ)の宅(うち)へ遊びに行かれるのと、少しも変った御様子がなく、途中で知った人にでも逢えば『チョット行って来るで』と手軽い挨拶をなさるのを常とせられた。又、監獄や警察署からお帰りの時もその通り、親族か知音(なじみ)の宅からお戻りのように、ニコ/\として門を出られ、出迎えの人々が「さぞ御不自由でござりましたろう」と御挨拶をすると、いつものような陽気な御調子で『イエ/\、何も不自由な事はない、神様の御思召しで又、どん底までたすけに行って来ました』とおうせられ、行く時と同じような御元気で皆と一緒に御帰りになられました。而(そ)して教祖は警察署の拘留室や監獄に留めおかるゝ間も、すべての御挙動(ごようす)が宅に居らるゝ時と少しも変った事はなく、同室の囚人に、ありがたいお話をしてお聞かせになる、牢瘡(ろうがさ、長期間入牢したために生じた瘡)のできている者には、息をかけて癒(なお)しておやりになる、身上に障りのある者には、おさづけをしておやりになる。毎(いつ)も沢山に紙を持っておいでになり、それに悉皆[のこらず]息をかけて、疾病(さわり)の時の用意にとて、囚人に置きみやげになされたということであります。又教祖は如何なる時、如何なる場合でも、集合している信徒の前をお通りにならず、毎(いつ)もその背後(うしろ)を『ごめん/\』というてお腰を屈(かが)めて、お通りになるのが常でありました。(大正六年一月号みちのとも、110~112ページより)
 「私の叔母(山澤ひさ)からよく聞かされましたが、教祖様はこのご苦労の中にあって、実にいつも勇んでいられ、陽気な方だったそうで、よくこの地方に流行った陽気な唄など口ずさまれ『金太郎兵衛が金だらいもって、つるべで水汲んで‥』とか何とかいう唄など唄われたということです。田んぼ道など歩かれるときも、若い者がついて歩かれないほど、まるで飛んで歩かれるように早かったものです。勇み切って歩かれるのでした」。(「教祖の歩かれ方」、昭和十八年十一月号みちのとも「たゞ一すぢに」梶本宗太郎より)。

【「埃を肥にする理、埃を正味にする理」の諭し】
 「埃を肥にする」( 「天理時報」昭和30年10.16日号「日々埃りを払う道」井筒貞彦より)。
 「教祖様が、奈良の監獄をお出ましの時、奈良の人々が、これが庄屋敷の気狂いか、狐つきか、とクソミソに申されました。教祖様は黙ってお屋敷にお帰り遊ばされ、お側の方々に『今日は結構なことやった。沢山の人から肥をかけて頂いて有難かった、結構なことやった』と、埃を肥にする理、埃を正味にする理をお教え下された」。





(私論.私見)