| 第61部 | 1875年 | 78才 | 教祖最初のご苦労、こかんの出直し |
| 明治8年 |

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「教祖最初のご苦労、こかんの出直し」を確認しておく。 2007.12.1日 れんだいこ拝 |
| 【警察官憲の迫害干渉始まる】 |
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1875(明治8)年、教祖78歳の時、この頃「お道」の教勢が更に発展する。他方で明治維新政府による干渉が予見される雲行きとなりつつあり、行く手が危ぶまれる動きが始まった。それは、慶応時代のそれのように神官、僧侶、医師、山伏などの暴行や、村人の嫌がらせの程度ではなく、国家権力を背景とする警察官憲の迫害干渉であった。「お道」の道程は平坦ではなく、教勢の伸びに応じて又迫害干渉も強まるという「立て合い」の構図となった。
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何故に、時の政府が「お道」に対して迫害を加えなければならなかったのか。何故に「お道」信仰が弾圧されねばならなかったのか。これを正面から問う論考が見当たらない。れんだいこがこれを推察しておく。 |
| 【教祖最初のご苦労】 | |
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「お道」の教勢がますます伸び拡がり、信者の数もいよいよ多きを加えるこの頃、お屋敷においては中南の門屋の建築が行なわれていた。「お道」のこの動きは取締り当局の目を刺激し、「お道」の動きに呼応して遂に官憲よりの直接の迫害干渉の日を迎えることとなった。
ちなみに、おまさは、安政4年の記述から18年ぶりに登場している。この時期は、おまさが豊田村の福井治助に嫁し「福井おまさ」として過ごした時期になる。おまさは長男の鶴太郎、次男の重吉を生み、福井家の主婦として活躍している。その後、夫婦は離縁し、長男を婚家に残し、次男の重吉を連れてお屋敷帰りしている。その後、教祖81才から90歳までの十年間、中山家の分家として教祖のそばに仕えて、梶本ひさらと共に教祖の身の回りの御用を務めている。分家の普請が完成すると、親族の者たちは「新建(しんたて)のおばやん」と呼び親しんだ。この「おまさの家」は、村田長平の豆腐屋と共に諸国から集まってた来た信者たちの定宿となった。村田が藁ぶきの家を建てて豆腐屋をはじめたのは1883(明治16)年のことであるから、「おまさの家」の方がだいぶん早かったことになる。 |
| 【こかんの出直し】 | |
| 節というものは種々と立てあってくるものである。教祖拘留中の9.27日(陰暦8.28日)、「若き神」と呼ばれていたこかんが出直した(享年39歳)。ご寝所(しんじょ)となったのは、櫟本の梶本家の上街道(かみかいどう)に面した、乾(いぬい)の隅の四畳半だったと伝えられている。その報せによって、教祖は特別の許可を受けてお帰りになられたが、こかんの臨終に間に合わなかった。こかんは、教祖の説く世界を最も聞き分けし得た「お道」の取次第一人者であった。そのこかんの挫折を前にして教祖の心中いかばかりであったであろうか。 稿本天理教教祖伝によれば、教祖は、冷たくなったわが子の遺骸をなでて、「可愛いそうに、早く帰っておいで」と、優しくねぎらわれたと云う。異聞はこうである。この時、教祖が、信者親戚一門を前にして云い諭されたお言葉は次のようなものであったと伝えられている。
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「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「古き道すじ(その一)」が、高井猶吉氏の「古き道すぢ」を紹介している。これを転載しておく。(※「教団の力」(昭和2年発行、天理教青年会発行)より、高井直吉先生のお話)
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「教組のこかんの遺骸に接しての実際のお言葉」について、この時の様子は次のようにも伝えられおり、真相はこちらの方にあるのではないかと拝察される。その場に居合わせた後の某大教会夫人の談によれば、教祖は、冷たくなったこかんを前にして、
と云いなされ、こかんの額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。教祖の無念の思いが伝わってくる逸話である。ちなみに、後の秀司の遺骸に接してのお言葉との違いが興味深い。 |
| 【講第1号として天元講始まる】 | |
| この時のこかんの出直しの葬儀を手伝った庄屋敷村の人々が後仕舞いの膳についた席で、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と云う者が出て、講をつくって信仰し始めたのが「天元講」であり天元分教会の始まりとなる。教祖の教えが村方の中で少しずつ理解者を獲得していたことが知れることになる。ちなみに、秀司を中心とした真明講の結成が明治11年であり、してみれば天元講が講の第1号ということになる。
稿本天理教教祖伝逸話篇「43、それでよかろう」は次の通り。
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| 【こかんの後を仲田と飯降が務める】 |
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「お道」の取次人第一人者且つ最大の協力者であったこかんを失ったことにより、こかんの後の取次ぎは、仲田と飯降が第一人者として勤めることとなった。教祖は、節ごとに何時も輝かしい芽を出して、教祖の言葉に間違いのない証拠を見せながら、節に対する心構えや、明るい悟りかたをお教え下された。こうして、教祖の態度には、教祖の「ご苦労」という外からの激しい迫害干渉も、こかんの出直しといったこの上もない家庭の不幸を前にしても、何一つとして教祖の行く手を阻むことはできなかった。否、むしろそれらは、却って教祖の活動を一層活発化させ、教勢の伸びへと結果して行き、全てがより一層大きな道の発展をもたらす跳躍台としての役割を果たして行くこととなる。 |
| 【教祖の引き続く「ご苦労」とその際の御言葉】 | |||||||||||
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この後迫害干渉は次第に激化して、教祖は、明治7年から最後の「ご苦労」までの明治19年までの10余年の間、教祖77才から89才までの間、顕著な事実だけを拾っても27、8回に亘って干渉され、警察署や監獄署へ拘引留置される「ご苦労」は御高齢にも拘らず17、8回にも及んだ。世間常識的に信じられないことであろうが、これが史実である。当然のことながら、罪科あってのことではない。教祖が、世界助けの道をお説きになる、不思議な助けが挙がると云うては、拘引されることとなったのである。 教祖は、「ご苦労」に際して次のようにお諭しくだされている。時に親神の思し召しを理解できぬ人間心にもどかしさを述べられながらも、頑是ない子どもの所為として受け流し、気に障られることなかった。「親神様の思召しは、時勢の雲行きに構わず伝えていかなければならん、否伝えずにはおられない」の姿勢を一貫させた。官憲の拘引に対しても、これ皆な高山から世界に往還の道をつける匂い掛けの機会として、これを喜び勇んで通ることの肝要を、ひながたでもってお示しくだされた。呼び出し先がいかにいかめしい取り調べの庭であっても、時には孫や子に話しかけるようなやさしさで、また時には聞く人々の身が引き締まるような厳かな御態度で、思召しをお聞かせ下された。このように、如何なる節があろうと布教の手綱を緩めることなく、事態が常に好転していくことを機会ある毎に説き聞かせた。教祖は、かく「ひながた」を示された。道人は、これを教祖こそ「月日のやしろ」におわすという理合いで受け留め、教祖の仰せに添う道を信仰目標(めどう)にして結集した。このことを次のように筆におつけくだされている。
こうした尊い「ひながた」を目のあたりにお見せ頂きつつ、お連れ通り頂いていたとはいえ、このような中で信仰生活を続けていくには、信徒にも余程の強靱な信念が必要だった。気の小さな者は、如何に教祖を信じても、不安や恐怖に襲われることもあったであろうが、「ひながた」によって、官憲の弾圧の度毎に親神の思召しを一段と広めていくことになった。今や河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んで行くこととなった。迫害の猛火もいよいよ燃え盛ったが、親神の思召しも又一段と広まる一方となって立て合ったのである。こうした教勢の広がりに連れ、不思議な助けを続出するに連れ、世間のねたみやそねみも増し、「お道」に対する反対攻撃の声も強まって行った。各地から奈良警察署へと苦情が集まり、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられて行くことになった。 |
| 【教祖の「ご苦労」時のご様子考】 | ||
この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その二)」を転載しておく。
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| 【「埃を肥にする理、埃を正味にする理」の諭し】 | |
「埃を肥にする」( 「天理時報」昭和30年10.16日号「日々埃りを払う道」井筒貞彦より)。
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(私論.私見)