小寒子略傳 |
誕生 |
文政11年4月、御教祖31歳の時、乳不足にて困難せる、隣人足達家の幼児を預り、乳を与えて世話し給う中、黒疱瘡と変じたれば、御教祖は神明に祈願し、吾が子二人の生命を捧げ、満願の上は我が身も召させ給えと、御心深く誓い給うた。神は御教祖の至誠を受納し給い、足達家の幼児は日を追うて全快したが、深き誓は年と共に果された。即ち天保元年、二女安子殿の帰幽と、天保6年、四女常子殿の死去は全くこれが為であった。後年、『二人の寿命を一時に迎え取っては気の毒であるから、一度迎え取って又宿し込み、生れた者を又迎え取った』との天啓はこの事情を説明せられたものである。二女の帰幽により御教祖は、大なる感動を心霊に受け給うたのみならず、天保8年10月26日、長男秀司殿の足痛が、修験者市兵衛の祈祷にて平癒したのを見給うて、御教祖の霊性が著しく目醒めて来たのである。末女小寒殿はこうした霊気に満たされた、御教祖の胎教を受けて、天保8年12月15日、この世に誕生あらせられたのである。時、朔風(さくふう。朔は北の意)肌を刺す小寒(しょうかん)の季節であったから、名を小寒と命ぜられた。天啓によれば二女安子殿の再生であるから、小寒殿は三度の更生(そせい、甦生)を得て出産せられたのである。
前世に於て再度死を以て、御教祖立誓の約を果し給うた小寒殿は、生を現世に受け給うても、決して幸福なる御身ではなかった。二才といえども未だ誕生日も来らぬ、天保9年10月26日に、御教祖に神懸の一大事が現れたので、神意を奉じ給うに専念な御教祖は、吾が子も時には顧み給わぬこともあった。従って小寒殿は母たる御教祖と、神たる御教祖を認められねばならぬ地位に置かれたのである。(つづく) |
幼時 |
天保9年10月26日、御教祖に神懸があって、中山家の全財産を貰い受けられる約束が、夫善兵衛殿と神様の間に成立した。神の社である御教祖は、神意の儘に全財産を、世界助けの為に施し給うた。一家は日に日に衰退し家運は時と共に傾いた。小寒殿の幼時はこうした間に、一人の兄、二人の姉と共に過された。物心つかれる頃になって、楽しい遊びから帰った時など、寂れ行く我が家を見て、如何に幼心を痛められたことであろう。しかし如何に家運が傾いたと云え、習うべきものは習い、教ゆべきものは教えねばならなかった。小寒殿は針縫う道は母たる御教祖に習われ、読み書きの道は兄たる秀司殿に学ばれた。聡明なる小寒殿は、一度聞けば直ちに会得せられたと伝えらる。後年、秀司殿の留守には、代って読み書きを村童に教えられたによっても明らかである。
小寒殿12、3歳の頃には、御教祖の慈悲心は益々強く、人に恵むのを楽しみとし給うた。従って教祖の言行に対して、村人は云うに及ばず、親類縁者も皆狐狸の術となし、御教祖を誹謗する声が四方八方で叫ばれた。幼き小寒殿は、家運の非なるを見て、心を痛められているその上に、母に対する避難の声を聞かねばならぬ、悲しい境遇に生きねばならなかった。しかし若き女が常に持つ、明徹(めいてつ。聡明で物事の道理に通じていること。また、そのさまや、その人)なる直感の働きは、小寒殿をこの窮地から救うて、御教祖の霊醒(れいせい。”醒める”とは、迷いが解ける。物思いが晴れる、という意味)に導いて行った。何故母たる御教祖は、衆人の非難に堪えて、この苦しい道を通られるか。何故全財産を人に与えて、人の助かるのを楽しみとせられるか。小寒殿の心の眼には、それが判然と分って来たのである。
父善兵衛殿は人の好い、温厚なる方であって、最初は神命を奉じて、唯々(いい)として随うて居られたが、家計日に困難なると、世人の誹謗が盛んなる為、狐狸の類にあらざるかと疑い惑うて、心ならずも御教祖を苦しめ給うこともあった。聡明なる小寒殿は、この父と母との争いの中に立って、他の御兄姉と共に、心苦しい思いを抱いて過されたのである。しかし一度母が神の社であることを自覚せられた小寒殿は、其所に明らかなる解答を得ておられた。小寒殿の心は父たる善兵衛殿より、母たる御教祖の心に力強く引き寄せられて行かれたのは、蓋し(けだし。確信的な推定の気持ちを表わす語)当然のことである。(つづく) |
宣伝 |
家計の窮乏も里人の嘲笑も、一家の支持者たる父善兵衛殿の在世中は、堪え忍ぶ道はあった。けれども嘉永6年2月22日、父が白玉楼中(はくぎょくろうちゅう。文芸などに携わる人が死後に行くという楼閣)の人となられてからは、家運は貧のどん底に向って直下し、里人の嘲笑は何の遠慮もなく、残忍な程露骨になった。貧窮の生活は御教祖の心に深く共鳴しておられた小寒殿としては、決して堪え難いものではなかった。けれども猜疑に満ちた眼差し、低い声で語らるゝ罵詈、冷やかな口元に浮べられる嘲笑は、若い女の誇りを持った小寒殿としては、実に苦しき忍従の苦行であったに相違ない。
しかしその頃、兄秀司殿は、既に33歳の男盛りであったから、父の跡を継がれたが、しばしば大阪へ出懸けられた。当時、長女政子殿も春子殿も既に他家へ縁附いておられたので、小寒殿の従兄弟に当る、忍阪村(おつさかむら)の勇助、又次郎の兄弟を小寒殿の従者として、御教祖は秀司殿を呼びに遣わされた。この時小寒殿は17歳で、未だ普通の女ならば娘盛りであり、羞恥の情に心引かれる年であるが、御教祖の思召を体して、大阪の賑やかな辻々に立ち、南無天理王命と声高く唱えて歩かれた。これ天理王命の名が、大和の地を離れて他国に宣伝された始めである。大阪の人々は小寒殿の、この御布教を見て、狂気せるものと誤り、気の毒がったと云うことである。
この一事を見ても如何に小寒殿が、青春の血に燃え立つ心を以て、信仰に直進せられたかが伺われる。後年若い神とも二代神とも称えられる身となられたのも、決して偶然ではないのである。(つづく)
※ この挿話は、稿本教祖伝と内容がかなり異なる。稿本教祖伝33-34Pでは次のように記されている。
「その年、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。~元気に拍子木を打ちながら、生き/\とした声で、繰り返し/\唱える親神の御名に、物珍らしげに寄り集まって来る人の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく、清々しい明るさと暖かな懐かしみとを覚える者もあった」。 |
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婚約 |
父善兵衛殿が帰幽せられてからは、中山家は一段と家計が困難となって来た。遺産の田地三町歩も、安政2年には十年間の年切質として金を借り、慈悲の料に充て給うてからは、最早点(とも)すべき油もない不自由の境涯に陥り給うた。秀司殿が青物の行商に、慣れぬ天秤を肩に村々を歩いて、庄屋敷の紋付さんのあだ名を取られたのも、この頃の出来事である。小寒殿が、月の光をたよりに、糸を紡ぎて、足らぬ家計を助けられたのも、亦この頃の事である。かくして5、6年を過されることとなった。
ところが小寒殿二十歳前後の頃、御教祖の妹にて忍坂村の西田家へ嫁せられた桑子殿の二男に藤助と云う人があった。御教祖も屡々(しばしば)この西田家へ訪れ給うたので、藤助殿の人となりはよく御承知であった。一方小寒殿は生涯御教祖に附添うて、お世話したいお心があり、御教祖も手離したく思われなかったので、従兄弟(いとこ)の間でもあるから、この藤助殿を小寒殿の養子に迎えられることになり大和地方の慣例に習うて、足入(あしいれ)と云うのをせられたのである。然るに中山家は貧のどん底の生活であり、西田家は当時相当の資産家であり中山家に於て秀司殿や御教祖に仕えることは、非常に苦痛であったのと、小寒殿があまり藤助殿を好まれなかったので、約3年程中山家に居られたが、終(つい)に結婚をせずに帰られることになった。その時、御教祖は、藤助殿に、『何も持たして帰すものがないから八十迄の寿命をつけてやる』と仰せになり、小寒殿に対しては『生涯一人身で通るのやで』と仰せになったと云うことである。小寒殿の独身生活は、この御教祖の御言葉によって決定せられたのであった。(つづく)
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修養 |
若き女が憧憬する結婚は、必ずしも幸福であるとは限らない。況んや(いわんや。以下のことは、言うまでもないという意味を表わす。なおさら。まして)霊に目醒(めざ)めた聡明なる小寒殿と、実直で働きものであるが、何の自覚もない藤助殿とが、生涯連れ添うことは不可能である。こうして不縁になった小寒殿の心は、最早夢みる乙女の心ではなかった。現実の苦味を嘗(な)めた勝気な女の心であった。その心を持って小寒殿は、再び信仰に立ち帰られた。一生を神に捧げて、母と共に聖業に従わんと、強い覚悟をせられたのであった。其所には様々な精神的誘惑があったろう。けれども唯(ただ)一筋に、神たる母に仕えるのを楽しみとして他に心を向けられなかった。
その頃、御教祖は最も苦しい道を通っておいでになった。前を見ても後を見ても、何の頼りもない暗がりの道すがらであった。しかし御教祖の心中には、沈黙の内に恐ろしい強い霊感が閃いて居た。その胸中の光を以て、暗がりの道を御教祖はずん/\進み給うた。
独身となられた小寒殿の心は、次第に落付くと共に、思いなき身の心は漸次明澄(めいちょう。明るく、澄んでいること)になって来た。御教祖の一言一句が鏡に映る様に、小寒殿の心に感ぜられて来た。打てば鳴り叩けば響く、同心異体の境にまで進んで行かれたのであった。かく小寒殿が御教祖に奉仕して、実際に精神的の修業をせられたのは、24歳頃から28歳頃迄、約5、6年の間である。この修行を経て、神として人々に奉仕せられる身となられたのである。唯(ただ)惜しむらくはこの間の事実が何ら伝えられて居らぬことで、僅かにその心理を推定するの外ないのである。(つづく) |
若い神 |
小寒殿が久しい修行に堪えて、神懸(かみがかり)のある身となられたことは事実であるが、何時頃から如何にして、その地位を得られたのであるかは分らない。唯後年御本席に神懸があって『十年の間若き神と云う』また『若い神小寒と云う十年間と云う』の御言葉によって、帰幽前十年間であったことが分るに過ぎない。帰幽の十年前と云えば、慶応元年であるが、飯降氏が入信せられた時に、小寒殿から御話を承り、後小寒殿から扇の伺を頂かれた事より考えると、その当時既に小寒殿に神懸があったものと思われるのである。
ところが元治元年と云えば、御教祖が長らくの暗がりの道を通って、曙光(しょこう。夜明けにさしてくる太陽の光。前途に見え始めたかすかな希望)を認められた時であり、本教が人々に伝えられた年である。飯降氏を始め桝井、山中、山澤等の方々が入信せられたのもこの年である。この方々が御教祖の教化を受けられたことは、云う迄もないことであるが、直接には多く小寒殿に接して教を聞かれた様である。何故なら御教祖の御言葉は、予言神秘に充ちておって、初信の者には容易に理解できない節々が、間々(まま。どうかすると。ときどき。おりおり)あったのである。それで小寒殿は多く御教祖と信者の間にあって、取次をせられた点から思うと、御教祖の御言葉を人々に理解できるよう諭されたものと思われる。
聡明にして優しい小寒殿は、かくしてその霊の因縁である、国狭土命(くにさつちのみこと)のお働きである、継(つな)ぐ理を示されたのであって、これが為に、信者と御教祖の間が強く固く結ばれたのみならず、兄秀司殿と御教祖の間柄も小寒殿のこの物柔かな処置で、一家が事なく治まって行った。(つづく) |
布教 |
嘉永6年、小寒殿17歳の時、大阪で神命を唱えられて以来、単独で布教に出られた時はなかった。常に御教祖の膝下にあって、奉仕の生活を送っておられたので、尋ね来る者に神意を取次いで居られたのであった。然るに文久3年以後、所々に信者ができて来たので、時に御教祖を御迎え申す処もあった。しかし大抵は小寒殿が主婦の役をしておられたので、重立(おもだ)った信者が随行する様になっていた。小寒殿の行かれた重なる所を挙げると左の如くである。
慶応元年8月19日、大豆越村の山中氏から御教祖を御迎えに来たので、御教祖同家へ赴かれ、25日迄一週間滞在し給うた。その時小寒殿は一日遅れて行き二、三日滞在して先へ帰られた。又明治元年にも小寒殿は、御教祖と共にこの山中家へ赴かれたと云うことである。明治3年、平等寺村の小東家へ、御教祖に随伴してお出でになった。同家は明治元年秀司殿の内室(ないしつ。他人の妻を敬って言う語。奥方)となられた松枝殿の実家である。明治5年、御教祖は神命により、75日の断食を行わせらるゝ間に、若井村の松尾市兵衛氏が、病気にて迎えに来たので、御教祖が同家へお越しになり、4日間滞在あらせられた、その時小寒殿も同道せられ、同家に於て神懸があった。明治7年、御教祖の実家である、三味田前川家の”おたき”殿が病気にてお勤めを行わせられた。その時小寒殿も人々と同行せられた。
右は御教祖と共に外へ出懸けられた重なるものであるが、内にあっては、勤め場所もでき、慶応3年7月23日附で、京都吉田家から、天理王明神の許があったので、参拝する者が多くなった。当時上段の間へ御教祖と小寒殿とが並んで御座(おすわ)りになり、交(かわ)る/\神懸があった。御命日即ち月の26日には、御教祖、小寒殿、秀司殿がお勤めをせられた。又秀司殿の代りに松枝殿が並ばれることもあったが、その時分のお勤めは、たゞ拍子木を叩いて、南無天理王命を繰り返し唱えるに過ぎなかった。その頃小寒殿は当時流行した、勝山と云う髪を結い、十二の菊を三つ置いた、黒の紋付を着ておられた。少し面長な顔に、涼しい張りのある眼で、背のすらりとしたお姿であったと伝えられている。(つづく) |
遺業 |
元治元年以来約十年の間は、本教立教の基礎を定められたる時であって、本教としては最も重要なる年限であった。この間御教祖の影身(かげみ。影が体に添うように、常に離れないこと。また、その影)に添うて、その創業を助けられたのが、実に小寒殿と飯降氏とであった。元治元年、神命に依り勤め場所を建築することに決し、9月15日に手斧始めを行い、12月の中旬に落成した。家はできたが支払うべき金がない。当時主婦の立場におられた小寒殿は、その間にあって非常に心痛せられ、「一年もすれば年切質の田地が帰って来るので、その中(うち)一反も売れば返せるから、春迄待って貰う様断って来てくれ」と飯降氏に御依頼になった。同氏は小寒殿の意を体(てい。あることを心にとどめて それを守るように振る舞う)して、材木屋、瓦屋等に断りに行かれたのである。これによっても小寒殿が、如何に勤め場所の建築に、心を労されたかが偲ばれる。
慶応2年、本教の信徒が漸次増加するのを嫉(ねた)み、秋の頃小泉村の不動院の山伏が、手に白刃を握って弁難に来た時、御教祖に代って小寒殿が対応し、遂にこれを説破せられたのである。
慶応3年1月より8月に亘(わた)って、御教祖は御神楽歌を御製作になり、同年の冬より明治の初年へかけて、その手振りを教え給うた。然し教えられると云っても、自ら形を示されるのでなく、その意味を以て教えられるので、多くは小寒殿に依って形附けられたとのことである。その証拠には小寒殿御帰幽後、御教祖自ら訂正せられた点があるのによっても明らかである。
明治2年正月より御教祖が、御筆先を御起草になった。それを小寒殿が『神様がこういうものを御書きになった』と云うて人々に示し、それからその御歌に就いて諄々と教理を諭された。
明治8年5月、地場の芯を定められる時、小寒殿も御教祖と共に目隠して、中山家の庭を歩かれた。ところが不思議に一点に行くと足が立ち止って歩けない。其所を地場の中心として、甘露台の建設せられる地と定められたのである。
かく小寒殿は御教祖の片腕となって、何かと心を尽されたのである。従って重要なる事件のある時は、必ず御教祖に添うて身の助けとなり、心の助けとなられたので、御教祖は小寒殿を殊に深く愛せられた様である。(つづく) |
帰幽 |
御教祖の三女にして櫟本村の梶本家へ嫁せられた春子殿が、明治4年、三人の子を残して、遂に帰らぬ旅に赴かれた。その翌朝、御教祖は、一人梶本家へ行き給うた。小寒殿が姉春子殿の死を深く痛み給うたのは当然であるが、それにも増して姉の遺子(いし)が、行く末如何になり行くやと、同情の涙に暮れ給うた。その時、梶本家からは、小寒殿を後妻として迎えたき旨申し込まれた。
その頃、中山家では秀司殿の内室松枝殿が、一家の主婦として万事処理しておられた。従前主婦の地位にあった小寒殿は、最早中山家としては隠居同様の身である。唯御教祖に奉仕して、その世話をせらるゝのみが、為すべき凡(すべ)てであった。梶本家からの申込に対して、御教祖は、『小寒はこの屋敷から出るのやない出すのやない』と仰せられて、極力反対し給うたのである。しかし小寒殿の心は右の様な事情から次第に梶本家へ傾いて行った。御教祖は、最早小寒殿の心を引止むる術なしと観て、遂に『三年の間貸す』と仰せになって、梶本家へ遣られたのである。梶本家に於ける小寒様は、神棚に向って時々扇の伺をなされたり、山伏等の質問に答えられたり、時には神懸もあったとのことであり、その時の扇は今尚梶本家に保存せられている。
三年の月日は夢の如く過ぎた。御教祖は一日も早く小寒殿の帰られるのを待たせ給うた。けれども既に妊娠しておられた小寒殿は、中山家へ帰るのを好まれず、況(ま)して梶本家では帰す心は更になかったのである。其所に神意と人意との大きい矛盾がある。見許し聞き逃しておられた神様も、遂に心得違いを諭されるべき時が来た。小寒殿は明治8年6月末に至って、流産せられてから病床に親しむ身となられた。病気になっては人力で如何ともする術がない。小寒殿は遂にお地場へ帰って来られたのである。その頃、御教祖は御筆先に於て『月日より社となるを二人とも、別間隔てて置いてもろたら』と仰せになったのである。しかしこれは遂に実現せずに終った。かく小寒殿は再び御地場の人となられたのであるが、その心は元の小寒殿ではなかった。御筆先に於ても『病気ではない心違いや』、『月日受合うてしかと助ける』とも『三日目には外へ出るよう』と、種々様々に御諭しがあったけれども、小寒殿の心は再び取直すことはできなかった。
同年9月、奈良県庁より取調の筋があるから、秀司殿同道出頭せよとの命があった。御教祖は秀司殿の代理辻氏と共に罷(まか)り出られた所が「妄(みだ)りに衆庶(しゅうしょ)を参拝せしめ人を惑わすは不都合である」と云う理由で、御教祖は三日間、辻氏は五日間拘禁せられた。
その御教祖の留守中、即ち9月27日、小寒殿は遂に永久の眠(ねむり)に入られた。39年の生涯の長き間、殆ど御教祖の御側を去らず、奉仕の生活を送られたのに、その死に臨んで母の面影にも接せず、冷たき留置所の母上を慕うて、帰幽せらるゝ時の心は、如何に残念なものであったろう。翌日、御教祖が御帰宅になって、既に冷たい小寒殿の額を撫でて『長らくの間よく仕えてくれた、死んでも何処へも行くのやない、蝉(せみ)の抜殻も同じこと、魂はこの屋敷に留まっているのや、又早く帰っておくれ』と仰せられた。そして厚く葬儀を営んで善福寺へ葬り給うた。(つづく)
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予言 |
天啓によれば小寒殿は、国狭土命の因縁を持って誕生し給い、39年の永き年月、本教宣布のため、艱難辛苦の道を通られたのである。受難の生涯とは、正に小寒殿の一生を云い現わす言葉である。帰幽後御教祖は屡々(しばしば)、小寒殿に関する御予言をなされた。そのおもなるものを摘録(てきろく)すれば、『今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる』と仰せになり、又『18歳迄は人並に成人するが、18歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも18の姿や』と仰せになった。それから御帰幽になった時、『満三十年経ったら産れて来る』との御言葉があった。明治14年3月、兄秀司殿の御死去の際には、『小寒は先へ死んだが、今度の世ではやっぱり妹として生れさす』との御言葉であった。
尚御本席に神懸があるようになってから、時々小寒殿に関することを仰せられたので、是は予言ではないが書き加えておく。
明治31年7月14日、『さあさぁさぁ元々は十年間と云う、若き神とも云うたやろ、それは古い事で聞分けにならん。若き神と云うた、十年間若き神と云う、このもの一つ順序の理』又『若き神名は小寒これも成らん/\の中、順序通して若き神、づっと以前にくれた』。
明治31年8月26日刻限『若い神小寒と云う、十年の間と云う、不自由/\難儀の中、こうじゃ/\どこへどうじゃ、余儀なき事情に誘われ、唯一時の所は逃れるに逃れられん事情から、結講に暮されるもの、この道の為苦労難儀さしたこともある』。
この外にもなお小寒殿や秀司殿の御苦労についての御言葉もあるが、伝記としてはあまり重要でないから省略して置く。又小寒殿自ら御教祖の口を借りて御話せられたものもあって、口伝えにせられているが、これも必要でないから略して置く。(おわり)
※「聞分けにならん」→『聞き分けにゃ分からん』、「これも成らん/\の中」→『これらは成らん/\の中』。天理教近愛分教会さん作成の、おさしづ参照。詳しくは明治31・7・14及び明治31・8・26のおさしづ参照のこと。 |
小寒様御逝去 |
-*/ぬらせ明治8年9月27日、若き神さんと呼び奉りたる小寒様、御死去被遊(あそばさる)。
れより前、明治5年、姉春子様、赤児をのこしてみまかりし故、その赤児を養育する為に、来てくれとの頼みにより、御教祖様、御許しあらざるに、小寒様は無理にもゆきたいと被仰(おおせられ)、教祖様の御止めに成るを聞かざりしかば、仰せらるゝには、『それでは三年だけやで、三年の後には、赤ききものをきて、上段の間へ坐って、人に拝まれる様になるのやで』と御咄しあり。その時は、何のさとりもなく、もしも、そんな事になる様やったら、どうぞ止めて下されや。わしや(わしゃ)、そんな事かなわぬさかいに、とある人々にたのみたりしと。然るに、梶本様へ行きて、のちぞひ(後添い)同様にくらしけるより、遂に神様の思召にそむき、よぎなくみまかるに立至り、はしなくも人に拝まるゝ様になるとの仰せに帰したり。止めて被下や(くだされや)と、頼みおきたることも何ぞ甲斐あらんや。すべて、神様の仰せにそむく時は、人をたよりにそむけども、一朝神様の意見立腹あらはれたる時は、さきにたよりし人は、何の役にもたゝぬぞかし。神様の仰せ、したがはでやはあるべき。因みに、御咄し有之事をり/\(これあること折々)有り。又御本席様、伊蔵様と申して、その頃櫟本に御住い被遊(あそばされ)ければ、伊蔵様にも、神様御降り御話しあることあり。時には、双方一時に御降りありて、御道の人々うろたへ走りたる事もありしと。その時頃、櫟本に居りて熱心たりし或人の話なり。 |