天理教研究視角考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教研究視角考」をものしておく。

 2018(平成30).4.19日 れんだいこ拝


【「天理教研究の問題点」について】
 「天理教研究の問題点」を転載しておく。
 大谷渡は、「天理教の史的研究」(1996年)のなかで、村上重良による天理教研究について批判を展開している。村上は、天理教には、民衆の救済、現世中心主義、平等観、ヒューマニズム、平和思想、夫婦中心の家族観、反権力性、独自の創造神話といった面で、先駆的な性格が認められるととらえているが、大谷は、そうした村上の認識が事実を見誤ったものであると指摘している。

 たとえば村上は、天理教の開祖である中山みきの夫、善兵衛が凡庸なタイプで、女出入りの多い放縦な生活を続けていたと述べている。たしかに、明治三十一年に作られたと考えられる中山新治郎による教祖伝の草稿では、「夫下碑ト通ズ」という記載はあるものの、女出入りが多かったという証拠は存在していない。
大谷は、こうした村上による事実の歪曲が、小栗純子や笠原一男に受け継がれたことを指摘している。

 村上は、天理教にかぎらず、近代に登場した民衆宗教や新宗教について研究を進め、教典の校注などにも力を注いできたが、そこには、民衆宗教や新宗教を近代天皇制に挑戦した試みとしてとらえようとする点で、必ずしも事実に基づかない偏向を示している。

 天理教には、「泥海古記」ないしは「こふき(話)」と呼ばれる創造神話が存在し、村上は、それをもって天理教が近代天皇制と対峙した証拠ととらえている。しかし、
天理教の創造神話に登場する「くにとこたちのみこと」以下の神々は、記紀神話に登場する伝統的な神々である。むしろ、中山みきは、こうした神々の存在を、彼女の息子である秀司が、神道の吉田家に入門し、吉田家で祀られていた国常立尊以下の神々を取り入れていくなかで知った可能性があり、その点でも、独自な創造神話というとらえ方は問題を含んでいる。結局、村上による天理教研究の問題点は、一つには十分な資料批判がなされていない点と、もう一つは既成の宗教的伝統との関係が十分に明らかにされていない点にまとめられる。

 
その点は、天保九年の中山みきの神憑りによって天理教が発生したととらえる従来の見方を「突発説」として批判し、みきのライフヒストリーのなかに、独自の宗教思想が徐々に形成されてきたととらえた島薗進による天理教研究についても言える。

 天理教の発生過程については、戦後、二代真柱の中山正善のもとで刊行された雑誌『復元』において、重要な資料が復刻され、発表されているが、島薗はあえて『復元』の資料を無視した上で、みきの生涯の歩みについて叙述している。したがってそれは、事実にもとづく客観的な記述というよりも、教団の教義にそった架空の神話的な叙述にもとづく記述となっている。その点で、島薗の研究は十分な資料批判を欠いている。また
島薗は、天理教の教義的な展開のなかに、吉田神道などの既存の宗教的伝統が大きくかかわっている事実についても無視している。

 こうした問題点は、天理教にかぎらず、他の民衆宗教や新宗教についての研究においても見出されるものではないだろうか。たしかに、どの教団においても、その草創期を明らかにする資料は必ずしも十分ではない。しかし、だからといって、資料批判をなおざりにしていいということにはならないだろうか。十分な資料批判が行なわれず、また、既成の宗教的な伝統との関連についても十分な考察がなされてこなかったことが、今日の民衆宗教・新宗教研究の行き詰まりに結びついているのではないだろうか。
(私論.私見)

【本部員/永尾教昭「天理教は宗教界の常識を超えた世界だすけの教え 立教174年 天元分教会 秋季大祭神殿講話】
 平成23年10月23日、本部員/永尾 教昭 「天理教は宗教界の常識を超えた世界だすけの教え 立教174年 天元分教会 秋季大祭神殿講話」。
 キリスト教のルールに則った生活習慣

 私は一昨年3月まで、フランスのパリに在る、ヨーロッパ出張所の所長を務めていました。初めてヨーロッパに行ったのは、昭和59(1984)年で、平成21(2009)年までの25年間、にをいがけ、おたすけの御用をさせて頂きました。そこで私が一番感じたことは、お道の教えは素晴らしいということでした。私は京都の教会に生まれ育ち、親戚はみんな信仰をしています。そして天理高校からはずっと、おぢばで生活をしていましたから、天理教の枠内で人生を送っていたわけです。そうした者が、初めて天理教を信仰している人が殆どいない所に行って、いろんなことを見聞きしている中で、この道の教えの素晴らしさが、本当によく分かりました。

 ヨーロッパと言うと専らキリスト教です。フランスの祭日は、殆どがキリスト教の祭日で、国全体がキリスト教のルールで動いています。例えば私の子どもは、学校で給食を食べますが、金曜日は絶対に肉料理が出ません。どうしてかと言うと、金曜日はイエス・キリストが磔となった日なので、肉は出なくて必ず魚が出るのです。また日曜日は、多くの店が休みです。日曜日はキリスト教のミサに行く日なので、休みなのです。そうしたルールの中で、国民の生活が動いているのです。

 一口にキリスト教と言っても、ローマ法王やバチカンが有名なカトリック、ギリシャ正教やロシヤ正教とか呼ばれる東方教会、多くの派があるプロテスタント、聖公会とも呼ばれる英国国教会など、多くの会派があります。例えばギリシャ正教やロシヤ正教の聖職者、天理教で言えば会長さんに当たる人は、基本的に結婚ができません。カトリックは、神父さんもシスターさんも結婚できません。結婚をすれば除名になります。プロテスタントの聖職者は派によっても違いますが、大概は結婚できます。

 男性中心の宗教界

 しかしこの三つのキリスト教に共通しているところは、女性の司祭は認めないということです。キリスト教のミサというのは、男性しかできないのです。例えば東方教会は、このミサを五、六人でやるのですが、全部男性です。唯一英国国教会だけが十数年前に、女性団体からの抗議などもあって、ようやく女性の司祭を認めましたが、未だにごく僅かな数です。

 キリスト教は、或る日突然にできたわけではなくて、キリスト教を生んだ元の宗教があります。それはユダヤ教です。このユダヤ教の参拝場は、シナゴーグと呼ばれますが、シナゴーグでは、男女が別々に参拝するのです。男性と女性が参拝する場所が違うのです。

 イスラームの女性が黒装束で身を纏うのは、自分の主人以外の男性に、顔や体の線を見せないためなのです。つまり、主人以外の男性が近寄ることを避けるために、ああした格好をしているのです。それに対して男性は、いくら見せても構いませんし、コーランには、妻は四人まで娶っても良いとも書いてあります。どうしてそうしたことになるのかと言うと、コーランにはイスラームの神アッラーは、もともと男と女の間に優劣を付けられた。また生活に必要な金は男が出すのだから、この点で男が女の上に立つべきもので、この信仰を続けていれば、清浄な妻をあてがおうなどと、書いてあるからなのです。

 世界の宗教界というのは、基本的に男が絶対なんです。仏教だってそうです。女性に対して社寺や霊場、祭場などへの立入りを禁じ、男性主体の修行や参拝に限定することを、女人禁制と言います。また、女性は成仏することか非常に難しいとされることから、いったん男性に成ることで、成仏できるようになるとする、変成男子という思想もあります。神道もみんな男性中心で、神輿を担ぐのは男だけです。相撲はもともとスポーツではなくて、神道の神事なのです。土俵は神事を司る所だから、女性を上げたらいけないのですね。ヒンドゥー教は、インドの殆んどの方が信仰をされていますが、マヌ法典には、少女、若い女、老女を問わず、女は何事も独立に成してはならない。家事においてもしかりであるなどと書かれています。みんな男に聞きなさいということなのです。つまり男の了解なしに、勝手なことをやってはいけないということなのです。

 宗教界の非常識を説かれた教祖

 このように世界の宗教は、みんな男中心なのです。なぜかというと、女は穢れがある。不浄であるというのがその理由です。どうして女が不浄なのかと言うと、女性には生理がありますが、人間の体内から出た血液は汚いと考えるようです。例えばユダヤ教は、鯛の活け造りで、血がポタポタ落ちるようなものは食べません。つまり体内から出た血を汚いと考えるからで、同じように、生理現象をもっている女性は汚いと考えるわけです。このことは、世界の殆どの宗教に共通しています。旧約聖書には、女性の生理が始まったならば、この期間に彼女に触れた人は全て、夕方まで穢れている。生理期間中に使った女性の寝床や腰かけは、全て穢れる等々と、書かれてあります。

 
そうした宗教界の常識の中で、教祖は何と仰ったのかと言うと、「女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や」。また、「女の月のものはな、花やで。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで」と仰って、世界中の宗教家がたちが汚いという事柄に対して私たちの教祖は、世界で最も美しい花に例えられたのです。

 仏教のあるお坊さんが、ヨーロッパ出張所に来られたときに私は、女性がいないと、おつとめが成立しないのですと言ったら、ビックリされて、私も坊主の端くれですから、いろんな宗教の勉強をしてきましたが、女の人がいないと最高祭儀がつとめられないなどというのは、初めて聞いたと言われていました。

 マレルブというフランスの博士が、世界宗教辞典の中で、世界の女性教祖は、ただ二人。クリスチャン・サイエンスのマリーベーカーエディと天理教の中山みきであると書いています。このように教祖は、世界の宗教家がビックリするようなことを教えられたのです。

 教祖にしか当てはまらないこと

 そしてこうしたことを、世界中を廻って悟りを開いたお釈迦さんが説くならともかく、大和や河内ぐらいしか、ご存知の無い教祖が説かれたのです。キース・ホプキンズという、ケンブリッジ大学の教授がおられます。この人が書いた本の中に、神にして人となる救済者の人生には、十二の段階があると記しています。

 例えば何があるのかと言うと、誕生の予兆。誕生するときに不思議なことが現れるというもので、イエス・キリストのときは流れ星が流れ、お釈迦さんは生まれたときに、天上天下唯我独尊と言ったとかいうような話があります。教祖御誕生のときにも、空に五色の雲がたなびいたという話が残っています。或いは、悪魔的な勢力からの試練、悪魔のような勢力から必ず試練を受けているということで、イエス・キリストは磔にあいました。ムハンマドは人生の中で、何回となく戦争をしています。悪魔かどうかはともかく、教祖も十八回に亘る監獄への御苦労がありました。

 このように、共通したところは、教祖にもあるのですが、教祖にしか当てはまらないものがあります。それは、智恵を求めての旅ということで、世界宗教の開祖となるような人たちは、智恵を求めて旅をしています。教祖は旅なんてされてはいません。お屋敷から出られたのは、遠い所で大阪に行かれたぐらいでしょうか。基本的にはずっと、お屋敷におられたのです。

 別席のお話に、「九歳から十一歳まで寺子屋にお越しなされ」とあります。教祖の学業期間は、三年です。しかも寺子屋だけで終わらているのです。おさしづに、「ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし」明治二十一年一月八日(陰暦十一月二十五日)とありますが、大した学識のない農家のご婦人が、おつとめを作り、普遍的な教えを説き、世界一れつをたすけるなどと仰ったんです。私は奇跡だと思います。

 おつとめの手振り

 別席の取り次ぎに行ったときのことですが、隅っこに数人の韓国人がおられたのです。私は、日本語で取り次ぎますから、その方たちは、韓国語のテープを聞いて下さっていたのですが、途中で困ったことが起こりました。男性の方がメモを取り出し、そして斜め前の女性は、ペットボトルの水を飲み出したのです。別席中のメモや飲食は、禁じられていますが、うまく伝わっていなかったのでしょう。私は韓国語が分かりませんから、両手でバッテンのジェスチャーをしたのです。そしたら斜め前の女性が気付いてくれて、後ろの男性に注意をしてくれたのか、メモは鞄の中に片付けてくれました。

 そして暫くすると、注意をしてくれた女性が、またペットボトルを飲み出したのです。それでまた、同じジェスチャーをしたところ、その女性の方は、斜め後ろを見て、「あなた、駄目よ」みたいなことを言っているのでしょうが、その男性はメモを取っていません。そこで私は今度、水を飲むジェスチャーをしました。それで分かって下さったのか、鞄の中にペットボトルを片付けてくれたのです。

 こうしたやり取りの中で私は、世界共通の言語が無い中で、世界中の人たちが、一つのことを一緒にできる方法は、ジェスチャーがとても有効ではないのかと思ったのです。教祖は、おつとめを教えられましたが、世界中の人々が一緒につとめられるようにということで、言葉は違っても、誰もが理解できる手振りを、付けられたのだと思います。更に音楽を用いて、メロディーも付けられたのです。これを何の学も無い、百姓家のご婦人が教えられたのですから、これも奇跡だと思います。

 厳しい節

 こうして私は、ヨーロッパで貴重な人生を過ごしたのですが、あるときに、所長を辞職させて頂こうと考えるほどの、大きな節を見せて頂きました。今から6年前、2005年の5月に、国税局から3年分の収支資料を用意しておくようにとの通達があって、後日一人の国税局の方が来られ、いろいろ調べられたところ、一つだけ問題があると言われました。それは、ヨーロッパ出張所は天理教教会本部の出先機関ですから、本部からの回付金で賄われています。それは寄付に当たり、贈与税がかかるというのです。先進国は贈与税は高額で、フランスは40%です。仮に、年間一千万円の回付金を受け取っているとしたら、四百万円を国に納めなさいということなのです。しかも三年を遡ってです。それで弁護士さんに相談したら、天理教という一つの組織でやっているのに、こんなバカなことはないから、裁判をすれば勝てると言うのです。そして弁護士さんは、公益法人格を取得することを勧められました。フランスでは、宗教法人の中でも、成る程と認められた教会は、公益法人の認可を受けることができます。そうなれば、このような事態にはならないと言うのです。

 キリスト教の教会は、社会から認められていますから、皆公益法人です。日本の宗教団体で一つだけ認可を受けているところがあると聞いたので、そこの所長さんにお目にかかって話を聞いたのですが、書類を提出して、認可が下りるまでに、13年もかかったということでした。私は本当に大変なことになったと思いました。

 教祖は御存命

 それで一度は、所長の辞職も考えたのですが、私が辞職したところで何も解決しませんので、辞職は止めることにしました。教祖は、「律ありても心定めが第一やで」と仰せられています。法律があっても、心定めが大切だと仰せられているのですから、十二下りのおつとめを、毎日つとめる心定めをしました。それも、みんなの寝ている間にしようと思って、朝の神殿掃除が始まる一時間前からつとめました。そしたら数ヵ月後に、不思議なことが起こったのです。

 柔道の最も盛んな国は、日本ではなくて、実はフランスなのです。しかも天理柔道の人気は大変なもので、講道館よりも有名なのです。私は柔道とはなんら関係はないのですが、その天理柔道を生んだ天理教の代表者として、パリに居ることから、柔道の国際大会にはいつも、来賓席に招待して下さるのです。そしてもう一人、いつも招待されている方がいます。その方は柔道九段で、フランスに渡られて60年もの間、ずっと柔道を教えられていて、二代真柱を命の恩人とまで思っておられる方です。そのときも、この方と私が招待されていて、正直私は柔道どころではなかったのですが、その国際大会に行きました。

 そして試合がひと段落ついたところで、コーヒーでも飲みに行きましょうかと、いうことになって、先生と一緒にコーヒーを飲みに行って戻ろうとしたときに、一万人もの方が来られている会場の中で、ある方とバッタリ出会ったのです。その方は、とても実力のあったフランス政府の元高官で、元柔道家でもあり、さらにその先生のお弟子さんでもあったのです。そのとき先生は、私が税金問題で困っていることをご存じでしたので、良い所で会った、永尾さんが少し困っておられるようなので、相談に乗って上げてくれないかと言って下さったのです。それで私は、またの機会にお会いすることになったのです。

 そして後日改めてお会いし、関係書類を全部見せて説明し、どうにかして、公益法人格を取得できないものかとの相談をしたのです。すると、分かりました。何とかしてみましょうと言って下さったのです。それから数カ月後、私の下に県知事から、公益法人格を認めますとの手紙が届いたのです。そのとき私は、嬉しいとか、良かったとかと言うよりも、教祖は御存命であると思いました。一生懸命に務めている中での節ならば、心定めをして事に当たれば、教祖はお働き下されるということを、つくづく感じさせて頂きました。こうして私は、ヨーロッパ出張所長を務めさせて頂く中で、本当に教祖の教えは素晴らしいと思いましたが、残念ながら日本のよふぼくさんたちは、そうしたことを、あまり意識しておられないようにも感じます。

 天理教に対する他宗教からの評価

 私は最近、他宗教の人たちが、とても天理教の教えを、評価してくれているように思います。今、バチカンで開かれる世界諸宗教の集いには、必ず天理教を招いて下さいます。そうした宗教の集いに参加したときのことです。日本仏教の、ある派のトップの方が、私は中山みき様の大ファンなのだと言われるのです。その方が永尾さん、ここに各宗教の代表者たちがたくさんおられるけど、天理教しか持ち得ない特徴を、お分かりですかと問われるのです。いや、分かりませんと答えたら、
教祖が女性なのは、天理教だけですよ。そしてそもそも、世界平和は何で来ないのか。宗教が原因となって、戦争になっていることがたくさんあるでしょう。口ではどの宗教も、みんな世界平和と言っているのに、どうしてそうなると思いますか、と言われたのです。

 宗教と言うのは、全部男の論理だけで組み立てていくから、ぶつかるんですよ。男は話し合いがうまくいかないと、最後は殴り合いになってしまうものなのです。そしたら女同志なら良いのかと言ったら、嫁姑とかあるように、女同志だけでもいけない。男と女が、五分五分に話をしないから、世界平和が来ないのですよ。最高祭儀のおつとめを、五分五分でつとめているのは、あなたたちの天理教だけです。だから、あなたたちが頑張らなければ、世界平和なんて実現しないのだと、お坊さんに説教をされたのです。私は成る程そうだなと思いました。バチカンの人たちも、天理教の素晴らしさを認めてくれているのです。

 CNNという世界最大のネットワークのホームページの中で、大震災における天理教災害救援ひのきしん隊の活動を紹介してくれました。私は紹介して下さった、ノースカロライナ大学の先生と、この6月に、おぢばでお会いしたときに、取り上げてくれた理由をお尋ねしました。CNNから、日本のマスコミは、宗教団体の活動を何も取り上げていないから、日本宗教の研究をしているその方に、そのことを紹介してもらいたいとの依頼がきたそうです。そのときに、一番に浮かんだのが天理教だったので、その活動を書いてくれたのだそうです。

 お道の教えを、素晴らしいと思ってくれている世界の人たちがたくさんいる中で、肝心要の日本に居る私たちが、何か元気がないように思います。海外に在住するよふぼくにしてみれば、言葉の壁や風土習慣など、いろんな意味で、日本をうらやましく思われるのは、共通した気持ちであろうと思います。ですから私たちは、勇んで努めさせて頂かないと、申し訳がないと思います。(文責 中尾 元弘)


【小澤浩著「中山みき―心直しから世直しを説いた生き神教祖」書評】
 小澤浩著「中山みき―􀊮心直し􀊯から􀊮世直し􀊯を説いた生き神教祖」(山川出版社、2012年11月刊)
 2017.3.7日、「 」。
 ちょっと前のことになりますが、小澤浩著『中山みき 「心直し」から「世直し」を説いた生き神教祖 日本史リブレット”人”シリーズ65』(山川出版社、2012年)という本を読んだので、それについてのメモ。

 出版社の解説には「幕末維新の動乱期、悪しき心を入れ替える「心直し」によってこそ、真の「世直し」が実現すると説いた、天理教の教祖中山みき。彼女の生涯から、宗教の枠組みを超えて人間観・歴史観を見直す。」とある。100p前後の薄い冊子なのでさらっと読めてしまうが中身は濃い。気になった箇所を少し引用してみる。

 まず、みきの生家である前川家は浄土宗の熱心な檀家であり、みき自身も浄土和讃を諳んじ、尼になりたいという望みすら持っていたと言われているのだが、これに関して小澤氏は、「浄土系の信仰が来世型のものであるとすれば、のちにみきが切り開いた現世型の信仰とは異なるので、その影響はなかったとする見方が多いが、無関係と言い切るにはいささか問題がある」(p18より引用)とし、近世文書の速記録にみえる真宗僧侶の法話において、平生業成に力点を置く現世での救いが強調されていたことを挙げつつ、みきの接した浄土信仰が、村落共同体の近世的発展によって起こった現世利益への関心に影響されていた可能性について言及している。また、みきが受けた五重相伝について、「口伝の趣を他言してはならないという戒めがあり、一種の秘事が含まれていたと考えられる。(中略)浄土真宗の異端である秘事法門・隠れ念仏の秘儀などに比すべきものではなかっただろう。しかし、それが神秘的な性格をおびたものであるとしたら、むずかしい教学の話よりは、そうした体験のほうが、彼女の宗教的な資質になんらかの影響をあたえた可能性がある」
(p19より引用)と述べている。

 参考までに『稿本天理教教祖伝』からみきの浄土信仰に関連した記述を拾ってみると、
・「十二、三歳の頃には」(中略)「信心深い家風の中に育つうちに、いつしか習い覚えて浄土和讃を暗誦された」
・「生来身体が余り丈夫でない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりたいと思われて居た」
・『「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える事をお許し下さる様に。」』
・「こうして家事に丹精し家業に励まれる一方、時たまの説法聴聞や寺詣りを無上の悦びとなされ、文化十三年春、十九歳の時、勾田村の善福寺で五重相伝を受けられた」がある。

 なお島薗進「神がかりから救けまで」(駒澤大学佛教学部論集 8, 209, 1977)によれば前川家では「父までの3代は五重相伝を受けており、朝夕には仏前で回向頂礼が行われていた」とのことである。

 続いて気になった点。みきの導きによって信仰をえた高弟の入信動機一覧を掲げ、34例中24例、70パーセント強が「病気治し」であったことを示したうえで、「治病にかかわる奇跡話はむろんうのみにすべきではないが、少なくとも当事者が「治った」と信じていれば、それは彼らのこととして(※下線は原文では傍点、管理者注)承認しなければならない。ただ、それが「治る」ことを自己目的にしたものであるかぎり、そこには「治らなければそれまで」という偶然性がつきまとう。大方の教祖伝は失敗例などは載せないし、載せても当人の信心不足に帰せられることが多いので、その点は留意する必要がある」(p37-39より引用)としている。「大方の教祖伝は失敗例などは載せないし、載せても当人の信心不足に帰せられることが多いので、その点は留意する必要がある」というのは、天理教に限ったことではなく、現世利益を謳う宗教に共通して起こりうることである。

 別の文献では、みきが、寺社への拝み信心と違って、金銭を求めず「お話だけで助けてくれる」神様として評判をとっていた、という証言もある。(p39より引用)

 『稿本天理教教祖伝逸話篇』 には 「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」(七二 救かる身やもの)との、みきの言葉がある。これに依る限りでは、事前の祈祷料が必要ないどころか、霊験・御利益があって助かった(と当事者が受け止めた)のちも、恩返しとしてのお金や物を求めていなかったようである。

 さて最後は教理の根幹に関する話題。「元始まりの話」を「創造神話」「神との関わりにおける人間の本性」「元のぢば」という3つの柱から成り立つ、と整理したうえで、「それ自体想像の産物でしかない「元のぢば」の話が、実はここで起こったのだと特定されることによってある種のリアリティーを獲得し、当時の人びとに対する説得力を増したであろうことは、疑いない。しかし、現実と非現実の世界をつなげてみようとする想像力(それこそユートピア思想の源泉)を失った現代社会にあって、信仰を共有しない人びとはもちろん、信仰をもっている人にとってさえ、当時の人たちと同じ素朴さでそれを受け入れることができるかどうかといえば、それはかなりむずかしいのではなかろうか」(p54より引用)と述べている。

 さらに続けて、「元のぢば」の話の内容的な普遍性と、「ここだ」という話の排他的な個別性とは、もともとあいいれない性質のものであり、一方を強調すれば他方の特性を損なうというディレンマは初めから内包されていたものである。それだけに、その教勢が世界の各地におよんでいる今日、「ぢば」はここだという話の排他的な性格をみなおし、「人間宿し込み」の話とより強い必然性で結ばれていく、あらたな「ぢば」の論理の構築が模索されてもいい時期にきているのではなかろうか。これはもとより私の個人的な感想である。(p54-55より引用) いずれにせよ、教祖のいったことをすべて金科玉条とするのではなく、「世界」のあり方が激しく変化していくなかで、まさに教祖的な観点から、その解釈をたえずみなおし、きたえなおしていくしなやかさは、今やどの教団にも求められているのではなかろうか。(p55より引用) と述べられている。

 当時、入信した人びとが「元のぢば」に対するリアリティを感じられていたとしたら、それは、安産の神様・病気治しに利益を現わす生き神として崇められていたみき本人がそこに起居し、なおかつ彼女が直々にそこを「元のぢば」と指定したからなのだろう。みき自身はすでに亡くなって久しいが、死後も屋敷にとどまっているという「教祖存命の理」信仰に加えて、ようぼく信者、布教者の「おさづけ」による奇跡的な病気治癒が現代も起こりうる(と信じられている)限りは、その効能の源泉であるとされる「元のぢば」のリアリティも、熱心な信仰者の間にあっては、なお保たれ続けるのかもしれない。(今後加筆あり)
 付記􀊣本文中に􀍴ルドルフ�・ブルトマンとカール・ヤスパースの論争 と述べながら、出典も明らかにせずに投稿してしまったのはたいへん迂闊であり申し訳なく思っている。ここに出典を記す。
 ルドルフ・ブルトマン「新約聖書と神話論――新約聖書的宣教の非神話化の問題」(山岡喜久男訳􀉺新教出版社􀉺1980年􀉺原著􀉺1941年􀊣􀉺及び、カール・ヤスパース「ブルトマンの非神話化の真理と禍」(「聖書の非神話化批判」􀊱西田康三訳􀉺理想社􀉺1962年􀉺原著􀉺1953年)

【**氏の評論】
 島薗進
 1970年代以降、民衆宗教研究・新宗教研究の潮流には、合理主義や知的な個人の優位や理念的な普遍主義を追求する近代を批判し、近代に対するオルタナティブを追求するという傾向が顕著に見られた。合理主義や個人主義や普遍主義が身体性や自然環境と結びついた持続的な関係の解体や植民地主義的な攻撃性を伴い、弱い立場の人たちの共同性を破壊したり、個々人を支えてきた連帯の基盤を掘り崩すこと、また、それによつて新たな排除や弱者を生み出し、暴力的支配関係や社会の分断を深めることに注目するものだ。近代のこうした悪しき傾向に対して、民衆宗教や新宗教にそれとは異なる未来を描き出し、オルタナティブな共同性を産み出そうとしたものと捉えるものだ。

 それ以前には近代をもっとポジティブに捉える傾向が優位をなしていた。民主主義や平等な権利への傾向を推し進め、広い階層の人々の解放に向けた過程としての近代化を凡そのところポジティブに捉えるのだ。このような立場から近世・近代の日本の民衆宗教を捉えた代表的な研究に、村上重良「近代民衆宗教史の研究」(法蔵館初版、1958年造補版、1963年)や安丸良夫「日本の近代化と民衆思想」(青木書店、�1974年)がある。ところが、70年代以降、民衆宗教研究においても近代がもたらす排除や暴力や孤立化への批判の音調が強まっていく。安丸良夫の「神々の明治維新」(岩波新書、1979年)や「出口なお」(朝日新聞社、1977年)はそうした転換を示す道標と言ってよいだろう。

 私自身もそうした潮流に掉さす仕事を進めてきたと自覚している。1970年代末から80年代初めに進めていった天理教と金光教の教祖論研究は、近代主義的な民衆宗教理解への批判が大きなモチーフとなっていた。(「疑いと信仰の間――中山みきの救けの信仰の起源」、「筑波大学哲学・思想学系論集」昭和52年度、1978年、「金光教学と人間教祖論――金光教の発生序説」、「筑波大学哲学・思想学系論集」)第4 号、1979年)。そして、「日本の近代化過程と宗教」(「ジュリスト増刊特集21􀉹現代人と宗教􀊱1981年)、後、「現代救済宗教論」(青弓社、1992年、に収録)では、安丸良夫が「日本の近代化と民衆思想」の民衆宗教論で呪術否定の解放性を強調するあまり、合理性を超えるものとしての宗教性の機能を見失いかねない論を展開しているという批判論を公表しもした。

 だが、同じ時期に小澤浩は、あくまで近代性のポジティブな側面を強調する民衆宗教論を書き進めていた。それはやがて「生き神の思想史――日本の近代化と民衆宗教」(岩波書店、1988年)にまとめられる。そこでは、主に金光教が取り上げられ、そこで日柄・方位などの俗信が否定され、合理性を備ええるとともに、この世に生きる人間の主体性を尊ぶ「生き神思想」が形作られたことが注目されていた。民衆宗教研究を志す研究者の間で近代批判が主調音となっていく中で、あくまで近代の解放性に注目する立場を守り続けたという点で、小澤浩という研究者は独自の位置にあった。典型的な例をあげると、呪術否定にこそ倫理的な深みをもち解放性をもった宗教の特徴があるという論点を譲っていないことだ。

􀍦その小澤浩による天理教教祖論が、「生き神の思想史」から25年を経て刊行された。それがこの「日本史リブレット65」「中山みき」だ。日柄・方位などの俗信を否定して「おかげはわが心にあり一心に願え」と説いた金光教については、「呪術否定」を主張することに一定の妥当性があるように見える。だが、「おたすけ」「おさづけ」による「病気直し」を主要な布教の手段とした天理教についても、「呪術否定」を説くのは容易ではないだろう。では、小澤は天理教における近代性と波長のあう解放性を、どこに見ようとしているのだろうか。これは、小澤の学問(思想史学)と思想の理解という点で重要な問いであるだけではない。「近代性と宗教の関係」というマックス・ウェーバー的な問題系列において、今なお問われ続けている宗教理解の重要問題の1つだと思うからだ。

 このような問題意識をもって本書を読み進めてまず気づくのは、近世の民俗宗教について小澤の評価がたいへん低いことだ。小澤はかって江戸時代を文明開化以前として、あるいは近代国家の専制的・侵略的な側面の源泉として捉える見方が優勢だったと述べている。これは「暗黒時代」としての江戸時代という見方だという(10ページ)。これに対して、江戸時代の社会や文化を再評価しようとする見方もあり、最近はこちらが優勢だ。日本の近代化を「成功」したものととらえ、江戸時代がその前提となったとしたり、逆に、現代社会の諸悪の根源を近代にみて、江戸時代をこれに対置する見方に人気がある。「そして、江戸時代の宗教についても、かっての暗黒時代論から、そこに民衆の自由な宗教的エネルギーの発露を見ようとするのが、近年の支配的な傾向のようである」と論じている(同前)。

 
小澤はこれら異なる江戸時代のとらえ方のそれぞれに一理ありとするが、「私は暗黒時代論を支持しない訳にはいかない」という。「それは何故か」と問いを立てて、小澤はまず寺檀制度による寺院や仏教の信頼低下という理由をあげている。また、仏教が「葬式仏教」となり、関心が「来世」に限定されたために、人々の現世利益の願いは「民間に寄生する山伏やミコなどの職業的宗教者の手に委ねられることに」なったからだとも述べている。そして、以下のような叙述がくる。

 かくして、人びとの関心は、しだいに、民間の宗教者の振り撒く日柄・方位などの俗信や、それに対処する叙述への期待に封じ込められていき、かって浄土真宗や切支丹が説いてきた人間のあり方への深い反省と、おおいなる神仏への信頼に基づく大きな安心」、「大きな救い」への道は見失われていったのである。とりわけ、こうした偉大な神仏への信仰は、超越的な視点から人間や社会のあり方を批判的にとらえる可能性を含んでいたが、それが閉ざされたことによって、本来は幕府や藩の過酷な支配に帰せられるべきこの世の幸・不幸な問題も、悪霊・祟り神・日柄・方位などのタブーによるものとみなされ、人びとの客観的な認識や自立的な思考が妨げられたことの意味は大きい。こうした民間の職業的宗教者がいかに跳梁跋扈し、その俗信・俗説がいかに隆盛をきわめたかを物語る資料は枚挙に暇がないが、それを自由な宗教的エネルギーの発露などと勘違いしないためには、それによって大きな救いを見失った人びとの痛苦が、いかに深いものであったかを知らねばならぬ。(12ページ)

 ここには、江戸時代の宗教の閉塞という認識がある。信長、秀吉、家康によって将軍権力の統制の下に諸宗教が位置づけられたことには異論が少ないだろう。小澤はそれによって、寺壇制度の下で葬式仏教に堕していく仏教諸派と、現世利益に焦点があり呪術的な活動に重きを置く民間宗教者の双方に、宗教が閉じこめられていくものと見ている。どちらにおいても、「超越的な視点から人間や社会のあり方を批判的にとらえる可能性」が失われているという。「心直し」の思想はあっても「世直し」の思想は欠けているということになろう。

 ただ浄土真宗はキリシタンと同質の「大きな安心」、「大きな救い」をもっており、それらとは異なる本来的な宗教性をもっているとされる。ここでは、 (1)宗教が、あるがままの現実を相対化できるような超越的な次元をもっているかどうかが問題とされている。また、(2)そうした超越性が人びとの客観的な認識や自立的な思考を助けるものと見なされている。小澤は両者が不可分なものと考えているようだ。そうなると超越的な次元をもった宗教は、近代に適合的な客観的な認識や自立的な思考を育てるものということになるだろう。江戸時代の宗教状況に対する、以上のような小澤の理解に対応して、本論の核心的部分に入り、中山みきの信仰形成についての独自の理解がされている。
 みきの少女時代で注目されるのは、両親が浄土宗の信仰に篤く、みきもその雰囲気に馴染んで、早くから􀊮浄土和讃􀊯などを暗唱するくらいであった、という点である。浄土系の信仰が来世型のものであるとすれば、のちにみきが切り開いた現世型の信仰とは異なるので、その影響はなかったとする見方が多いが、無関係と言い切るにはいささか問題がある。私はかって近世の寺院文書のなかで、ある真宗僧侶の法話の速記録をみたことがあるが、そこでは、平へいぜいごうじょう生業成に力点をおく現世での救いが強調されていた。先述した共同体村落の近世的発展による現世利益への関心が、浄土系の信仰にもある種の変化をもたらしたとすれば、みきの接した浄土信仰も、そうした性格のものであった可能性が高い。

􀉹また、みきが、当時盛んだった、人間の個別的な利益の欲求に対応した 小さな神々による小さな救いを乗り越えて、親神の大きな救いに目覚めていくとき、そこに先行するモデルがあったとしたら、大慈大悲の阿弥陀仏の存在以外にはありえなかった、と思われる点で重要である。(18ページ)

􀊮「平生業成」という語には注がついており、岩波仏教事典から引かれている。「平生不断において他力の信心を獲得したそのときに、往生の機縁が結ばれ、浄土に生まれる身に定まること。つまり死後に救済されるのではなく、信心の獲得により、この世での救済の喜びがえられるということ」�という説明だ。小澤は西方極楽浄土という別世界への往生を信仰する神話的な浄土信仰が脱神話化され、現世での救いへと転換した浄土信仰があり、それが中山みきの創出した天理教信仰の主要な源泉となったと見ている。

 中山みきは、内山永久寺に出入りする修験者と深い関わりをもち、そこでの巫儀(寄加持・憑祈祷)を通じて、「もとの真実の神」に出会ったというのが従来の通説的な理解であり、私もそう捉えてよいと思う。ただ、集中的に民衆宗教研究に取り組んでいた1970年代末以降、私も中山みきの信仰形成において浄土信仰が大きな影響を与えたことをもっと重視する必要があるのではないかと考えるようになった。だが、そうだとしても、神仏習合の修験道の信仰世界の影響を軽視するのは適当ではないと考える。「十柱(とはしら)の神」の教えや安産の呪術である「をびやゆるし」を初め、天理教の信仰世界に神仏習合的な呪術=宗教的信仰世界が深く関わってたのは明らかだろう。小澤の理解では中山みきが創出した天理教信仰世界の「大きな救い」の先行モデルは、大慈大悲の阿弥陀仏の存在以外にはありえなかったというのだが、神仏習合や密教の信仰世界を継承してきた修験道にも、「大きな救い」を掲げる超越性はなかったのだろうか。

 私は中山みきが創出した天理教信仰世界が、「大きな救い」を目指すものであり、そこに天理教のような民衆宗教が具体化した信仰世界の独自性があったという理解に同意する。これは別の言い方をすれば、あるがままの現実を相対化できるような超越的な次元をもった信仰世界が打ち立てられたということであろう。だが私は、(1)、それがそのまま人びとの客観的な認識や自立的な思考を育てるものと捉えられるものかどうか、という点には留保が必要ではないかと考える。また、(2)、超越的な次元をもった信仰世界はキリシタンや浄土真宗において顕著に表されたという理解にも同意するが、修験道や当時の神仏信仰の諸形態においても超越性の表出がなされ、「大きな救い」に通ずるものがなかったかどうか、考え直す必要があると考える。江戸時代の浄土系以外の仏教や民俗宗教において、あるがままの現実を相対化できるような超越的な次元が、凡そ干上がってしまったとは考えにくい。呪術=宗教的な実践においてもそうした要素は何ほどかは継承されていたと見るべきではないだろうか。

 また、超越的な宗教性が人びとの客観的な認識や自立的な思考を助ける機能をもちうることについても異論はないが、それは神話的な思考から脱することによって具体化されるものだという理解については必ずしも同意できない。脱神話化􀊯をめぐるルドルフ・ブルトマンとカール・ヤスパースの論争を思い出すところだ。天理教の創出は「元初りの話」とか「こふき」(泥海古記)と呼ばれることもあったもの)と呼ばれる独自の神話的世界の創出と不可分だった。また、「をびやゆるし」や「さづけ」のような呪術=宗教的な「救へのわざ」の創出とも関わっていた。小澤は本書で病気直しの意義についてふれているが(35-39ページ)、それらが􀊮客観的な認識や自立的な思考にどう関わるかについての説明はもう一つ明快でないように思われる。

 他方、神話的世界の創出については、「民衆的ユートピア」として評価できるとしたり(45-51ページ)、人間の限界や弱点を直視する、要素、つまりは悪の自覚をもたらすものだったということ(51-53ページ)が示されている。こうした指摘にはある程度同意できる。だが、悪の自覚と民衆的ユートピアがどのような関係にあったかという問題は私にとっては重要な問題だが、島薗進編「思想の身体􀉹悪の巻」(春秋社􀉺2006年)􀊣、この本では立ち入った考察はない。また、江戸時代の浄土系以外の仏教や神仏習合の民俗宗教において、悪の自覚がどのような形で存在したかという問題についても論究はなされていない。


 以上、日本の民衆宗教を取れ上げて、 宗教と近代の関わりを問うという観点から、小澤浩の中山みきの背後にある宗教理解の特徴とさらに問われるべき問題について考えてみた。小澤は宗教と近代という問題枠組みにこだわり続けることによって、宗教による自立、宗教的な超越性による現世相対化が民衆宗教によってどのようになされたのかを考え続けてきた研究者だ。そのしぶとい考察の持続が数ある中山みき論の中で本書に独自の性格を与えるものだ。私はその考察の多くに共鳴しつつ、いくらか異なる私なりの視点を思い起こし、言葉にしてみた。それは私の民衆宗教についての考えをあらためて�明確化するのにも役立つものだった。理解の浅いところがあると思うが、私なりの問題意識をくみとっていただけることを願っている。

 「なぜ「天理教」は突発説にこだわるのか? 「天理教研究史試論-発生過程について-」が問うたもの」。
 1980〈昭和55〉年に島薗進氏は「天理教研究史試論-発生過程について-」という論文を『日本宗教史研究年 報3』という雑誌に発表しました。これについて、当時天理教内の教義研究者であったA氏が「島薗進氏の『天 理教研究史試論』の立場」(「ひがし通信」別冊2 1980.10.26)という批判文を書き、島薗氏に郵送しました。そ れに対して、島薗氏から1981年6月6日にA氏宛に返事が送られてきました。この度、その批判文と返事を読む 機会を得ました。郵便でのやり取りがあってからすでに40年近くが経過していますが、その内容を検討する中 で、現在の天理教の教義面での停滞の原因について考えたいと思います。
目次 -「突発説」をめぐる教祖論- Ⅰ 島薗氏の「新宗教発生観-反突発説」 Ⅱ 「天理教研究史試論」の内容(批判文が問題にしている個所を中心に) Ⅲ 「批判文」の内容 Ⅳ 「批判文への返事」の内容 Ⅴ 『「神」「月日」及び「をや」について』(中山正善著)にみる「おふでさき」解釈の突発説 Ⅵ 「神」「月日」「をや」の史的解釈が提起する問題-八島説 Ⅶ 「おふでさき註釈」、「おふでさき講習会録」の「神」「月日」「をや」の解釈 Ⅷ 「註釈」以後の天理教史(教祖伝、「おふでさき」解釈を主に) Ⅸ 『稿本教祖伝』の成立事情-なぜ「稿本」なのか Ⅹ 「おふでさき註釈」の枠を超える動きとその挫折
 新宗教の成立を、従来の「突発理論」を排し、教祖の内面的 葛藤過程をへて成立するものとみる新しい研究視角の開拓 - 「天理教研究史試論」が書かれたころの島薗氏の研究姿勢-
 昭和54年度の日本宗教学会賞は、≪ 「生神思想論-新宗教による<民俗 >宗教の止揚について-」他四点≫ を対象に島薗氏に与えられました。 「天理教研究史試論」はその直後に 書かれているものでもあり、参考に受 賞の評価文を引用しておきます。
 昭和54年度日本宗教学会賞受賞を伝える『宗教研究』242号審査結果の説明文

 島薗進氏 (筑波大学 研究員) 「生神思想論-新宗教による<民俗>宗教の止揚について-」(雄山閣『現代宗教への視角』所収 昭和53年9月)他四点 (業績の評価) 島薗進氏の「生神思想論」ほか四点の論文は新宗教の成立を、教祖の神かかりなどで説明しようとする従来の 「突発理論」を排し、新宗教は民俗<宗教>を基盤としつつ教祖の内面的葛藤過程をへて成立するものとみて、こ の立場から天理教、および、金光教の成立を、今までにない深さにおいて説得的に再構成し、新宗教の成立に関 する新しい研究視角を開拓した。この間にあって、民間宗教と新宗教を媒介する民俗<宗教>の概念、シャーマ ニズムの直接化、日常化としての生神信仰、生神信仰から生神思想への止揚、生神思想の稀薄化などの指摘は、 同氏の独創性をうかがわせるものであり、また、わが国特有のセクト理論を展開させる意欲的な試みとして、今後 を期待させるものがある。
日本宗教学会賞を受賞したころの「生神思想論」以外の天理教、金光教関係の論文 1977年10月 「神がかりから救けまで-天理教の発生序説-」(『駒沢大学仏教学部論集 第8号』) 1978年3月「疑いと信仰の間-中山みきの救けの信仰の起源-」(『筑波大学哲学・思想学系論集昭和52年度』) 1979年3月 「金光教学と人間教祖論-金光教の発生序説-」(『筑波大学哲学・思想学系論集昭和53年度』) 1980年4月 「天理教研究史試論-発生過程について-」(『日本宗教史研究年報3 佼成出版社』)
 天理教の公式的教義 <神がかりによる突発>説 教祖=神のロボット

 島薗氏の発生論 天理教は民俗〈宗教〉の基盤から発生した 教祖=人
 『天理教教典』P3 「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天 降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰 せになった最初の言葉である。 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれ ぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。/ 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。 天理教の発生を神がかりという一事件に集約して説こうとする
 左に引用してある のが〈突発説〉と命名 された『天理教教典』 の冒頭部分。これに 対して、島薗氏は中 山みきという人格の 統一性を重視する発 生論を展開します。
天理教の発生を神がかりという一事件に集約して説こうとする現在の公式的教義を示すものである。それまでの旧宗教 や民間信仰のただ中に、突然全く異質の神の啓示が訪れ、全く新しい宗教が始まったとするのである。この教義の由来 は古い。みきのまわりに信者が集まり始めた元治元年(一八六四)頃には、すでに毎月二六日の参拝が行われていた。 みき自身、神がかりの事件を彼女の信仰の起源として、特別の意味をこめて記憶していたわけである。教団成立以後、 一〇月二六日は立教の日として、また毎月二六日は月次祭として行事が行われるようになる。神がかりは、この世と人 間を創造した親神が、元のぢばに現れて究極の教えを始めた句刻限の時であるという教義が確立していく。天理教が天 保九年一〇月二六日に生まれたとする教義は、天理教の基本的な信仰内容の一つであるように思える。のみならず、 <神がかりによる突発>説(以下突発説と略す)と呼びうるこの教義の要点は、教団外の多くの研究者にも受けいれら れている。神による超自然的介入を信じない観察者も、神がかりが新しい宗教の決定的出発点であったという点に関し ては異議を立てていない場合が多い。もちろん神がかりの意義は、世俗的な概念で言いかえられる。たとえば「神の啓 示」「天啓」といった明治末以来のヒューマニズムに由来する概念、「自己回復」「自己解放」といった昭和の進歩史観に 由来する概念によってである。しかし、こうした再解釈においても、天保九年の神がかりを通して全く新しい宗教的境地 が生まれた、という点は肯定されているのである。(『神がかりから救けまで』島薗進P209)
 「突発説」を疑う根拠

 島薗説 ○神が降りた24日ではなくて、善兵衛が同 意した26日なのはおかしい。 ○神憑り以後、十数年何も説かれなかった。 ○池や井戸に飛び込もうなどとしたという絶 望の時期があったとされる。
天保9年10月24日に神が中山みきの体に 入り込んだのであれば、立教は24日だろう といい、教祖は10月26日以降、倉に何年 間も入っており、教えらしきものを説きはじ めるのは、20年近く経過してから最初の信 者が出来る数年前くらいからではないかと 思われ、立教後神になっていたのであれば、 天保9年以後に自殺したいとか考えるのも おかしいというのです。
ところが、ここに突発説がそれほど自明ではないことを示すいくつかの事実がある。まず、立教の日が、「天の将軍」などと呼ばれ る新しい神が初めて天降った一〇月二四日ではなく、善兵衛が「みきを差上げます」と答えた一〇月二六日となっ ていることである。このことは、神がかりそのものではなく、善兵衛の承諾の方が決定的な転換点と考えられていたことを示している。みきに とっては新しい神の特質や自分が神の言葉を伝えるようになったという事実よりも、人間の側の反応のあり方とそれによって定まる自分の社 会的位置の方が重要だったのである。第二に、神がかり以後少なくとも十数年にわたって何の教えも説かれることがなかっ たばかりでなく、池や井戸に跳びこもうとするまでに深い絶望の時期が訪れたことである。立教の時にはすでに教義の骨子な りとも成立していなければならないはずだ。ところがその証拠はどこにもない。また、神意を体現する「神のやしろ」が絶望するのはどういうわ けか。あるいは、神がかりによって新しい宗教的境地が確立したのだとすれば、なぜ命を捨てようとするほどの悩みにぶつからねばならなかっ たのか。最後に、神がかり以前のみきの超人間的事蹟の伝えがある。天理教の信仰体系には、突発説とは別に、みきの人格全体を崇拝する 信仰も並存している。多くの信徒にとっては、みきの人格全体が独自の、衆にぬきんでた、新しい宗教性を意味するものである。この信仰によ れば、神がかりという一回きりの突発的事件のみが、とりわけ重大な記憶対象であることにはならない。みきの際だった宗教的人格は幼少よ り培われ、折にふれ発露しながら高められてきた、とされる。神がかり以前 「……既に教祖様のお心は月日のやしろにふさわしい、まるで神の 如きお心におなり下されておられた」とされるのである。教祖の人格の連続性を強調するこうした見方は、首尾一貫した突発説と矛盾するであ ろう。(「神がかりから救けまで-天理教の発生序説」P210)
「島薗説」⇒ 教祖=人間、天理教は民俗宗教の基盤から発生
上に挙げた三つの事実は、突発説を疑い、神がかり前後の連続性を再び問い返す必要があることを示して いる。この問い返しの立場は、中山みきという人格の統一性を重視するという意味では敬虔な信仰者の立 場に近いものである。しかし、みきを超人間的な存在と見る神話的な部分を真に受けないという点では、近 代主義の立場をさらに押し進めるものである。みきの個性がどれほど卓越した、強裂なものであったにせよ、 やはり我々他の人間が理解することのできる一個の人間であった、と見たいのである。( 「神がかりから救 けまで」島薗進 P211)
こうした見方は、天理教を含めて新宗教を民間信仰の近代的展開形態と見る捉え方と共通のものをもって いる。その場合、神がかりは天啓や自己解放というより、社会的混乱期における民間信仰の活性化の一形 態として捉えられる。天理教などの幕末期新宗教の成立以前にも、民衆の宗教的関心が稀薄であったわけ ではなかった。回向寺の宗教(葬式仏教)のほかに、講社という組織形態をとる民俗〈宗教〉が、広く民衆の 宗教的関心を吸収していた。天理教は何の基盤もないところに突発したわけではなく、そうした民俗〈宗教〉 の基盤から発生したのである。天理教の発生を探るためには、当時の民俗〈宗教〉の状況を明らかにし、その 信仰要素がいかに天理教に流れこんでいるかを解明する作業が不可欠である。しかし、現在までのところ民 間信仰との連続性を強調する論者の多くは、天理教がそうしたものとどこで区別されるか、という点に満足 のゆく答を出していないように思われる。私が冒頭で提出した、一個の宗教の発生という問を正面から問う たものはあまりないのである。 ( 「神がかりから救けまで」 島薗進P211)
「天理教研究史試論」の内容① -≪発生過程の研究のみを取り上げる≫-
ここから冒頭に記した「批判文」 「その返事」と、その前提として 「天理教研究史試論」の三つの 文の内容を記します。
目 次 はじめに 一 発生過程研究の開花 (1) 実証的教学の確立 (2) 学問的問いかけの開花 二 社会史的研究の展開 (1) 教学的研究のゆきづまり (2) 社会史的研究の展開 三 発生論的理解へ向けて (1) 民俗信仰との構造的連関 (2) 信仰と教えの内在的理解 四 教学的研究の可能性 (1) 教祖伝研究の突破口 (2) 聖典研究の展開 おわりに
ここでは、A氏が批判の対象にしている教内の教祖伝、聖 典(おふでさき)研究に言及している部分、「一 (1) 実証 的教学の確立」、「二 (1) 教学的研究のゆきづまり」、「四 (1) 教祖伝研究の突破口、(2) 聖典研究の展開」につい て、極々大雑把に要約します。
天理教研究のこれまでの成果を概観する時、まず大きく二つの領域に分けてみる ことができるように思われる。その一つは、教祖の一生とその周辺に生起した事象 を対象とし、新しい宗教がいかにして生まれたかを問おうとする研究領域であり、 いま一つは、生まれ出た宗教が既存の社会秩序とどのような交渉をもち、その交 渉の過程でどのように形を変えていったかを問おうとする研究領域である。第一 の領域に属する研究を発生過程の研究、第二の領域に属する研究を展開過程の 研究と名づけることができよう。・・・・・・・本稿ではこの発生過程の研究 のみを取り上げることにし‥‥「天理教研究史試論P70」
「天理教研究史試論」の内容②-≪聖典研究に厳しい枠をはめる≫
「一 (1) 実証的教学の確立」「(2) 学問的問いかけの開花」(要約) 大正14年に天理教教義及史料集成部が設立され、「おふでさき」「おさしづ」が刊行された。 教祖伝に関して集成部によって「史実校訂本」がつくられ、昭和20年には山澤為次作「教祖様御伝稿案」ができ た。 『ひとことはなし』(中山正善)や『御存命の頃』(高野友治)など、資料の収集による成果が生まれた。 しかし、中山正善「<神><月日>及び<をや>について」は、「おふでさき」の呼称変化(おふでさきにおいて 神の呼び方が「神」「月日」「おや」が時代によって使い分けられている)について、「親神が信徒の理解度にあ わせて、表現をかえたことによるものだ、と論じた論文である。もしそう解釈しなければ、呼称は教祖の信仰の 成長につれて変化したということになり、教祖は一人格にすぎず、『おふでさき』は人間の経験の表現であると いうことになってしまうから、というのが正善の最終的論拠である(「研究史試論」74頁上段)」とし、「聖典のメッ セージを神の意志の表明と見るか人間の経験の表現と見るかの二者択一を迫り、二つの観点を曖昧に包み込 んだ解釈を禁ずるという点で、その後の聖典研究に厳しい枠をはめるものであった(「研究史試論」74頁上段) 」。
これは島薗氏の反突発説的な考え方からして当然の結論です。 便宜上この部分を【甲】とします。
「天理教研究史試論」の内容③-≪教祖伝研究を阻害した「稿本教祖伝」≫
「二 (1) 教学的研究のゆきづまり(78頁)」(要約-主要部分の抜書) 戦後の天理教学は、『復元』の刊行もあってはなばなしい展開を遂げたようにみえるが、その内容は戦前の研究成果を披 露しているだけであり、 ≪『復元』による実証的教学の教内知識層への浸透をふまえて、昭和三一年に天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』 (同本部)が刊行されるが、それは『御教祖伝史実校訂本』と「教祖様御伝稿案」によってなされた詳細な史実考証の成 果をまとめあげ、要所要所に中山正善の思想をおりこんで筋を通し、「権威本」にふさわしい叙述に整えたものであり、そ の基本的内容は敗戦以前にできあがっていたとさえいえよう。(「研究史試論」79頁上段)≫ ≪おそらく「復元」等を土台に新たな研究の芽生えが可能になる頃に、中山正善宿願の「権威本」『稿本天理教教祖伝』 が刊行された。この出来事が教学的な教祖伝研究の発展にあるマイナスの効果を与えたことは否定しえないであろう。 『私の教祖様』の下巻が刊行されなかったことに示されるように、教内に「権威本」と異なる独自の教祖像を公にするのを はばかるふうが広まったように思われる。多様な解釈の共存が忌まれたのである。これは教祖伝研究をあくまで一義的 な教義の形成作業ととらえ、また確実な「史実」を好んだ中山正善の教学路線の必然的な帰結であったといえよう。また、 教祖の生涯を神がかりの前と後に分断し、前半生の人間としての教祖を軽んじ、「月日のやしろ」となった後半生につい ては、人間的な成長過程がありえぬとした「権威本」の教祖伝の枠組も、教祖伝研究の阻害要因になったと推測される。 なぜなら、この立場に立つ限り、教祖の信仰や教えが成長発展するということはありえず、したがって教祖の内面の展開 を理解するということがありえぬことになってしまうからである。 「研究史試論」80頁上下段) ≫ とし、聖典(おふでさき)研究では、『続ひとことはなし』(中山正善)、『天理教祖の世界観』(上田嘉成)、『おふでさきに道を求 めて』(田辺教一)などをあげ、それらの研究において「おふでさき」が教祖の人生から切断されてしまったとし、 ≪これも、聖典が人間的なものと断絶した神意の表現であるという点に固執しようとする、中山正善の教学路線に帰す べきものが少なくないように思われるのである。 (「研究史試論」81頁下段) ≫
この部分は【乙】。
「天理教研究史試論」の内容④-≪「稿本教祖伝」や「註釈」の枠を越える可能性≫
「四 教祖伝研究の可能性 (1) 教祖伝研究の突破口、(2) 聖典研究の展開」(要約-主要部分の抜書) ≪『御教祖伝史実校訂本』から「教祖様御伝稿案」をへて『稿本天理教教祖伝』に至る「権威本」作成のための教祖伝研 究は、かなり緻密な資料検討をふまえたものであった。とはいえ、もちろんそれは完全なものではなく、そこで確定されて いる史実が書きかえられる可能性は充分にあるはずである。≫ とし、上野利夫「<万覚日記>について-ドン底時代における中山家の経済状況の理解のために」(『日本文化』四四、昭和 四一年三月)【この論文は1982年にさらに詳しい内容で「天理教学研究22号」に発表され、1991年発行の論文集『教祖とその 時代』に収録された】や「教史研究の宿題」(高野友治)など10篇以上の論文等を列挙している。 また「おふでさき」研究について、 ≪中山正善の教学路線と「権威本」によって定められた枠組をこえ、教祖の信仰と教えの形成過程を理解しようとする研究の 可能性は、聖典研究の展開のなかにも見出せる≫とし、それは≪第一に、教祖伝の史実、すなわち教祖の生活状況との関係 に注目する研究≫であり、≪昭和三年の天理教教義及資料集成部編『おふでさき附釈義』全五巻(天理教教義及史料集成 部)の註釈によって定着された伝統的な解釈にまかせ、それ以上の詮索を加えるのをつつしむ傾向があった≫が、それを乗り 越える研究として木村善為「<おふでさき>第一号十九首二十首の考察-特に<ハぶく><ハぼく>の歴史的理解と用字に ついて」(『天理教学研究』一七、昭和四二年一〇月)などを挙げている。 さらに≪第二に、聖典の言語表現の特性に注目し、形式的側面から聖典研究に対する理解を深めようとする研究≫や≪第 三に、教祖が吸収したと思われる伝統的な象徴体系の内容を検討し、聖典の内容と比較対象しようとする研究≫があり、これ らは≪聖典を人間世界と全く異質な意志にもとづく古今無双の書と見なそうとする従来の研究姿勢を打ち破る可能性を持つ もの≫とする。
この部分は【丙】。
ここではA氏の批判内容を簡単に紹介します。PP作成者の意見を付記。 ◎「一 島薗氏の時代区分」 「一 (1) 実証的教学の確立」 【甲】 =第一期=昭和初期から昭和20年まで 「二 (1) 教学的研究のゆきづまり」【乙】=第二期=昭和20年から40年まで 「四 (1) 教祖伝研究の突破口、(2) 聖典研究の展開」【丙】=第三期=昭和 40年以降 という分け方をする。 ※「天理教研究史試論」は、 【甲】 【乙】 【丙】をその内容によって分けており、何年から何 年までという区分けはしていないようである。 ◎「二 島薗氏の時代区分をめぐって(1) 文献について」 【甲】 【乙】 【丙】で取り上げられている文献は書かれた時代が渾然としA氏の 別けた年代に合致しない。 ※「天理教研究史試論」はその内容によって分けているのだから、A氏の区分に合わない のは当然という気がする。 ◎「(2) 第二期は「教学研究のゆきづまり」か」 【乙】の部分に入るべき文献が、 【甲】 や【丙】に入れられているのだから、 【乙】「教学的研究のゆきづまり」という枠付けは意識的歪曲ではないか。また、 【乙】(昭和20年から40年まで)の部分の文献として取り上げられている『復元』 創刊号の内容分析も間違っているし、この時期の教祖伝研究の論文は数多い。 ゆえに、 【乙】を 「教学研究のゆきづまり」とするのは歪曲である。
※ 「教学研究のゆきづまり」ということを教内の教学研究者としては認めたくないという ことだろうか。
「島 薗 進 氏 の 「天 理 教 研 究 史 試 論 」 の 立 場 」 は じ め に 一 島 薗 氏 の 時 代 区 分 二 島 薗 氏 の 時 代 区 分 を め ぐ つ て ( )1 文 献 に つ い て ( )2 第 二 期 は 「教 学 研 究 の ゆ き づ ま り 」 か 三 恣 意 的 時 代 区 分 の 背 後 に あ る も の ( )1 「中 山 正 善 の 教 学 路 線 」 の と ら え 方 ( )2 島 薗 氏 の 立 場 お わ り に 1011 ◎「三 恣意的時代区分の背後にあるもの (1
A氏の批判の内容②
◎「三 恣意的時代区分の背後にあるもの (1) 「中山正善の教学路線」のとらえ方」 島薗氏が恣意的な時代区分をしているのはなぜかと問い、 ≪島薗氏は、第一期に「教学の確立」がなされたが、その教学は、「中山正善の教学路線」=自らの「権威を うちたてる」ためのもの=「聖典へのきびしい枠」=「自由な問いかけと討論」の「封じこめ」=「戦後の教学的 研究のゆきづまり」、というシェーマ(図式)をえがいているのである。そして他方に、昭和四二年の二代真柱 様のお出直し=「教学的研究」の「活発」化=「中山正善」の「教祖研究」の「路線をこえていく可能性」、という シェーマをえがき、第二期を灰色にし、第三期をバラ色にみせようとしているのである。P7≫ と結論し、島薗氏の「中山正善の教学路線」理解について、 ≪中山正善「<神><月日>及び<をや>について」を、島薗氏は次のように論じる。 「・・・呼称変化は親神が信徒の理解度にあわせて、表現をかえたことによるものだ、と論じた論文である。も しそう解釈しなければ、呼称は教祖の信仰の成長につれて変化したということになり、教祖は一人格にすぎ ず、『おふでさき』は人間の経験の表現であるということになってしまうから、というのが正善の最終的論拠で ある。」≫ とする。
「中山正善の教学路線」という言葉が持つ意味、「昭和3年以降の天理教教会本部の教学=中山正善の教学」 と理解していいものかどうかが、島薗氏、A氏ともに本来は問わねばならない問題のように思います。
A氏の批判の内容③
◎「(2) 島薗氏の立場」 なぜ、島薗氏はこのように考えるのかと問い、 ≪島薗氏が、教祖の立場を、「教祖の信仰的成長」ととらえているところに由来していると思われる。「天理教 研究史試論」の「はじめに」のところでは、つぎのように書いている。「天理教研究のこれまでの成果」の「一つ は、教祖の一生とその周辺に生起した事象を対象とし、新しい宗教がいかにして生まれたかを問おうとする 研究領域」であり、「教祖の生涯、とくにその信仰と教えの形成をめぐる研究を発生過程の研究とし」ていく ≫ と考えているからであるとする。 ◎「おわりに」 ≪島薗氏にとっては、自已に都合のよい史料が紹介されているかどうかが、「評価」の対象となってしまう。上 野利夫「<万覚日記>について―ドン底時代における中山家の経済状況の理解のために」を、「資料の詳細 が紹介され、人々の研究討論の素材とされれば、・・・・教祖伝の書きかえが促されることはまちがいない」と 述べ、高野友治「教史研究の宿題」を、「こうした研究の進展いかんによっては、教祖伝の史実が大はばに書 き改められ」 「資料の発掘と『史実』の再検討」が「従来の教祖伝の枠組をもゆさぶ」るときめつけている。/ しかし、いくら「史実が大はばに書き改められ」たとしても、それは、教祖論とは無縁であることを、島薗氏は、 よくわきまえておくべきであろう。≫
最後の「いくら『史実が大はばに書き改められ』たとしても、それは、教祖論とは無縁であることを、島薗氏は、よく わきまえておくべきであろう」ということばは、恫喝ともとれるような大変強い表現です。しかしその論拠は示されて いません。「批判文」が批判の最初の論拠とする資料の年代区分そのものが、島薗氏の論文にはそもそもなかっ たものであることを思うと、この最後の一行を書くために「批判文」は作られたと考えるのは、考えすぎでしょうか。 1
島薗氏の返事①
(Ⅰ) A氏の「時代区分」について ≪私は、思想史や研究史における時代区分について、大まかに次のような前提をもっています。― 思想や研究 は、思想家・研究者がそれぞれの人生の中から、折にふれて生み出すものであり、それぞれの成果がもつ歴史的 意味は、必ずしもそれが発表された年月日と正確に対応するものではない。だから、思想史や研究史の時代の区 切り目は、元来、仮りのものであり、いちおうの目安にすぎない。時代区分の目的は、思想や研究の流れていく方 向を促えることである。とすれば、ある時代にとって典型的な思想や研究の成果が、他の時代に先駆的に、あるい は遅ればせに現れることも充分ありうるだろう。 さて、私の論文について まず、第二期と第三期の区切り目のことですが、私は第三期は昭和四〇年以後であるとは書きませんでした。七 九頁では、第二期を主として「昭和二一年から三一年頃まで」としてあり、九五頁では第三期を昭和二五年の『天 理教学研究』や昭和三二年の『天理教校論叢』の創刊によって芽ばえ、「とくに昭和四○年代に入る頃から、そうし た動きが活発になってきている」 と書きました。私は第二期と第二期の区切り目をはっきり何年頃とは、書かな かったわけで、このあいまいさに問題があったかもしれません。しかし、はっきり年号を書くに至らなかった理由の 多くは、先に述べたような時代区分についての考え方にあります。〔返事P2〕≫
「天理教研究史試論」には、「昭和何年から何年まで」といった時代区分がそもそもなかったというと いうことで、これは「試論」を読めばわかります。
島薗氏の返事②
(Ⅱ) A氏の 「三 恣意的時代区分の背後にあるもの (1) 「中山正善の教学路線」のとらえ方」について 次に、第二期と第三期の関係のことですが、Aさんのご論文に「第二期を灰色にし第三期をバラ色にみせようとしている」 (七頁)とありますが、これは私の意図したところとは、かなり隔たっているような気がします。中山正善(歴史的人物や研 究者等についての敬称は略します)の教学路線がプラスの効果だけではなく、マイナスの効果ももったという私の考え方 は、戦後から現在に至るまでの教学の状況を頭においたものです。第三期も第二期と同様、基本的には正善の教学路 線が貫徹しており、それが桎梏となっている点があるということ、四の部の全体の論旨に含ませたつもりだったのですが、 やや舌足らずだったのでしょうか。第三期で私が論じたのは、そうした基本的な傾向をのりこえようとする無意識的ないし 潜在的「可能性」についてのつもりでした。私がこの可能性を、昭和四二年の正善の死と結びつけて考えているというお 考え(七頁)は、私の論文のどこから判断されたものでしょうか。私は、第二期から第三期への展開の動機を、むしろ教 学の基礎=権威ある教義の核心の確立という課題の有無という点に見ようとしたつもりです(九五頁上段)。〔返事P2〕
ここはA氏論文のP7についての反論です。「第二期を灰色にし第三期をバラ色にみせようとしている」や「可能性を、昭和四 二年の正善の死と結びつけて考えている」というA氏の指摘は、「突発説」を支持するA氏とそれを否定する島薗氏の立場 から考えると、当然というような気がします。木村論文のような「おふでさき註釈の枠」を越えるような考え方自体が、教会 本部の教学の立場に立つ者からすれば許しがたいことであり、「おふでさき註釈の枠」こそが「正善路線」であるとする立場 からは、それは正善の死をもってしか許されないことであるということを表しています。ただ、そのような考え方が「正善路 線」であったかどうかは問われなければならない問題です。
「返事」では、「天理教研究史試論」が紹介している論文とその時代区分の問題を個々論じていますが、全体の問題とは 離れる気がするので略します。
島薗氏の返事③ -正善氏と島薗氏の対立点
≪(中山正善の)教学は、「中山正善の教学路線」=自らの「権威をうちたてる」ためのもの=「聖典へのきびし い枠」=「自由な問いかけと討論」の「封じこめ」=「戦後の教学的研究のゆきづまり」、というシェーマ(図式)を えがいているのである。〔P7下〕≫という部分について、「」でくくられた言葉は「試論」の中にはそれに近い言葉 はあってもそのものはないので、「こうした言いかえによって大きく意味が変化するように思えます〔返事P5〕」と したうえで、≪私に中山正善を眨下しようとする意志がないことは、虚心に読んでいただければ、ご理解いただ けると思います。≫としたうえで、 ≪私が正善と対立する点の一部は、七頁の下段一七~二二行目、八頁の下段四~一一行目にご紹介下さっ ているとおりです。こうした対立点を明らかにすることで、私自身の宗教学の方法論を確かめたいということが、 この論文執筆の一つの動機でした。正善の代表している近代宗教学は、私にとっては、格闘することによってで きるだけ多くのものを吸収すべき伝統として映っています。 〔返事P6〕 ≫とある。
「返事」の≪私が正善と対立する点の一部は、七頁の下段一七~二二行目、八頁の下段四~一一行目 にご紹介下さっているとおりです。≫とあることについて、詳しく見ていきます。
≪私は中山みきという日本民衆思想史上の突出した存在に関心があり、それはもちろん、私の生き方と関わっ てくるのだと思います。そして、もし中山みきから私が何かを学んでいるとすれば、それは天理教の信徒の方々 が、それぞれの人生において教祖から学んでこられたことと共通点があるはずだと確信しています。そのことを うまく表現できず、失策の目立つ論文をものすることしかできなかったこと、残念に思っています。Aさんのご批 判を読んで、もう一つ説得力のある教学史や中山みき像を示したいという願いを新たにしました。その意味でも、 詳細にわたるご批判に、重ねてお礼を申しあげ、筆をおきます。≫と結んでいる。 〔返事P6〕
島薗氏が正善氏と意見 が異なると認める部分
相違点①とは、「おふでさき」の 「神」の呼称変化の問題です。 相違点②とは、島薗氏が天理 教の公式教義である「突発説」 に疑問を呈している問題です。 これは、すでに当資料の3~5 頁でまとめてあります。「(注 6)」には、そのことが書かれて います。 ここでは①について細かく見て いきます。
相違点① 「批判文」 の「七頁の下段一七~二二行目」 ≪中山正善「<神><月日>及び<をや>について」を、島薗氏は次の ように論じる。 「・・・呼称変化は親神が信徒の理解度にあわせて、表現をかえたことによ るものだ、と論じた論文である。もしそう解釈しなければ、呼称は教祖の信 仰の成長につれて変化したということになり、教祖は一人格にすぎず、『お ふでさき』は人間の経験の表現であるということになってしまうから、という のが正善の最終的論拠である。」≫
相違点② 「批判文」 の八頁の下段四~一一行目 ≪それは、島薗氏が、教祖の立場を、「教祖の信仰的成長」ととらえている ところに由来していると思われる。「天理教研究史試論」の「はじめに」のと ころでは、つぎのように書いている。「天理教研究のこれまでの成果」の「一 つは、教祖の一生とその周辺に生起した事象を対象とし、新しい宗教がい かにして生まれたかを問おうとする研究領域」であり、 「教祖の生涯、とく にその信仰と教えの形成をめぐる研究を発生過程の研究とし」ていく。 こうした立場から、教内の教祖論をながめているわけである(注6)。しか し、批判することができないので、「教義学的宗教哲学的な関心に終止して いるものは、考察対象から除外する」と逃げながら、第二期の数多くの教 祖論を覆い隠そうとしているのである。≫
「相違点①の考察」の❶ - 「おふでさき」は「神の意志の表現」か「人間の経験の表現」か
島薗氏はA氏が引用した部分の 後に「聖典のメッセージを神の 意志の表明と見るか人間の経 験の表現と見るかの二者択一を 迫り」と書いています。「神の意 志の表明」とは「突発説」に基づ く見方であり、「人間の経験の表 現」とは「教祖=人間説(教内で は「教祖成人説」)」のことで、島 薗氏は後者の立場に立っていま すから、前者の立場で解釈する 正善氏の聖典研究を「厳しい枠 をはめるもの」と表現しています。 では、正善氏は 『「神」「月日」 及び「をや」について』 の中でど のように書いているのでしょうか。
【A氏が引用した部分の前後を含む「天理教研究史試論」 の内容】 教祖伝の「史実」の確定作業を指導する一方、中山正善は「原典」研究に ついても、その後の研究のガイドラインを示す成果を公にした。 「<神> <月日>及び<をや>について」 (『日本文化』二、昭和九年十二月天理 図書館、昭和一〇年、のち養徳社)である。これは『おふでさき』中の説話 者(すなわち親神)を示す言葉に注目し、それが号を追って変化していくさ まを示し、それぞれの呼称の用法を子細に検討したうえで、呼称変化は親 神が信徒の理解度にあわせて、表現をかえたことによるものだ、と論じた 論文である。もしそう解釈しなければ、呼称は教祖の信仰の成長につれて 変化したということになり、教祖は一人格にすぎず、『おふでさき』は人間 の経験の表現であるということになってしまうから、というのが正善の最終 的論拠である。聖典をつき放して観察し、その内容に客観的な分析を加え ているという点で、この研究は聖典研究に新しい可能性を切り開くもので あった。しかし一方、聖典のメッセージを神の意志の表明と見るか人間の 経験の表現と見るかの二者択一を迫り、二つの観点を曖昧に包み込んだ 解釈を禁ずるという点で、その後の聖典研究に厳しい枠をはめるもので あった。(「天理教研究史試論」P74)
「おふでさき」では、「神」から「月日」「をや」への変更 は非常に明確です。『「神」「月日」及び「をや」につい て』という論文はこのことを実証的に論じたもので、左の 表はこの三つの言葉が出てくる用例を号数ごとにまとめ たものです。5号までは「神」以外出てきません。6号で 「月日」に変わり、 14号で「をや」に変わっています
「相違点①の考察」の❸ - 正善氏は、「突発説」と「教祖成人説」両説を考察する
然らば此文字を換へられたのは如何なる思召であるか。文字の代つてゐる事を如何に 解釈してよいものであらうか、私にはそれには二つの場合が考へられる。 1 仮に『おふでさき』を人間教祖の思考のまゝに綴られたものとすれば、教祖の信 念の進展につれて換へられたもの。 2 話を聴聞する人々の信仰過程につれて換へられたもの。(『「神」「月日」・・・』P60)
「1」と「2」の場合を想定して、 それぞれについて検討するスタ イルを取っている。「1」は島薗 氏の言い方では「人間の経験 の表現(「教祖成人説」)」であり、 「2」は「神の意志の表明(「突発 説」)」です。
第一の場合 教祖を一人格者として出発せる考え方。 ① 普通概念の神に「もとの神」「じつの神」などの説明を付けて教祖の説く神を示した。 ② 説明入りの「神」の名称を捨て「月日」を用いた。 ③ 天の「月日」と教祖との区別がつかなくなって「おや」の用いるようになった。
第一の場合の疑問 一. 「神」「月日」「おや」は「おふでさき」執筆以前から使われていたと思われる点。 根拠 「おさしづ」(M37.08.23)に「どんな事も言葉に述べた処がわすれる、わすれるから筆先にしらしおいた」とある。 ≪『おふでさき』中にては、『月日』は明治七年十二月廿一日より用ひられてある如く考へられるが、それ以前よりも『月 日』の文字にてお話を説かれてゐた事は明らかであり、又『をや様』の称号も、明治十年以前にも用ひられてゐた事も明 らかなのであり、≫( 『「神」「月日」及び「をや」について』P62最後の3行 ) 二.≪ 『おふでさき』を人間教祖の思索と仮信するならば『おふでさき』中の親神を知る事が出来ないと思はれる≫(同P63.3行目) ≪第一の場合の教祖を人間としての看方は、その立脚点よりして『おふでさき』を読みすゝむる資格を失はしむるもので あって、当然『神』『月日』及び『をや』の置きかへについての親神の思召を悟り得たとは云へないのである。≫ (同P64.5行目)
「相違点①の考察」の❹ - 正善氏の見解 ≪聴く人間側の都合を思はれて親神が『おふでさき』を執筆されたものと解する≫
第二の場合 ≪第二の場合は如何。私はこの考へ方が思召を推察し得るものと思ふ。≫(『「神」「月日」及び「をや」につい て』P64.10行目) ≪換言すれば、聴く人間側の都合を思はれて親神が『おふでさき』を執筆されたものと解するのであって、『神』 『月日』及び『をや』の三語を漸次に使って教理を説かれてあるのも亦、求道者の信仰の進展につれて、解し得 られる様に漸次深い味ひのこもつた文字を用ひ出されたと解するのである。≫(同P65.4行目) ≪要言すれば『おふでさき』は、求道者の悟りやすい様に、教祖親しく筆を執られて、順序を立てゝ書かれたも のであつて『神』『月日』及び『をや』の名称もその求道者の信仰過程に応じて解し得る様に用ひられたもので ある。≫(同P66.5行目)
ここでは、両説を検討したうえで、「第二の場合」が「思召を推察し得るもの」という結論になったという体裁を 取っています。しかし、第一の場合を否定する理由として挙げられている「第一の場合の疑問」の2点は、余り 説得力があるようには思われません。第二の場合の「聴く人間側の都合を思はれて親神が『おふでさき』を執 筆されたものと解する」という表現は、私には何を言いたいのかよく分かりません。なぜこのような言い方に なっているのでしょうか。
「神」「月日」「親」の変化の史実的解釈の例 「神」から「月日」へ-「天皇家の先祖のみを神」とする国の政策に対して、それとの混同を避けるため「月日」に変えた- 「月日」から「親」へ-月様や日様に願いを掛けるという信仰との混同を避けるため-
「神」「月日」「親」と「神」の称名が変わっていく理由について史実をもとに考察した一例として八島英雄氏の説を紹介し ます。この八島説は「天皇家の先祖の神」、 「月様」「日様」を教祖の教えと考えるかどうかという大問題を提起することになり ます。「おふでさき」の神の称名の変化は、天理教教義の根幹に関わる問題なのです。
十四 29.いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで 30.けふまでハたいしや高山はびかりて まゝにしていた事であれとも 31.これからわをやがかハりてまゝにする これそむいたらすぐにかやすで 月日から親というように名前を変えると書かれています。神から月日と変わり、親というように変わりました。 教祖は最初、おつとめで教えた真理を、生命のもとである真理だから神と尊びなさいと教えました。/ しかし、明治七年に山村御殿 に呼び出されて、日本の国では天皇家の先祖のみを神と崇めさせ、教祖の言う転輪王の心になって人だすけをすることを神と尊ぶと いうことは、神道国家の日本では説かせないという弾圧をされた時に、教祖は、教祖が尊べと言っているのは天皇家の先祖のことでは ないと月日という言葉を使ったのです。/ 天皇家の先祖というのは、私の子孫が世界支配するという神勅を下した天照大神のことで すから、そんなものと一緒にされてはいけないと、教祖は天地月日、森羅万象という天然自然の理を月日の理と説いたのです。 そして、おふでさき十四号は明治十弐年六月ヨリと書かれています。/ 明治十三年に転輪王講社が出来るのですが、明治七年か ら十三年までの間に秀司さんが、日本の神々を崇めて御利益をもらうという道を説き続けていたのです。/ オオヒルメノミコト、天照 大神が太陽神で、ツキヨミノミコトが夜を支配する月の神である。スサノオノミコトは黄泉の国の支配者という、日本神道の話を、つとめ 場所で秀司さんや山沢さんが説き続けてしたのです。/ ですから、月様や日様を崇める信仰と、教祖が教えた真理を月日と尊べとい う信仰が紛らわしくなってしまったのです。おふでさき十四号が書かれた頃から転輪王講社をつくるというような話がでてきました。/ また、大和の周辺のお寺には星マンダラというものがたくさんあって、星マンダラの中尊が転輪聖王と教えられていたのです。/ 転輪 聖王は星マンダラの中尊であり、星マンダラは転輪王マンダラとも呼ばれていたのです。/ 転輪王マンダラは大和神社の神宮寺の 長岳寺に現在でもあり、見ることができます。また、法隆寺には見事な転輪王マンダラがあります。
何々の星などというのや、星に願いを掛けるというのは歌謡曲の中にも多くでてきます。/ 転輪王マンダラや星マンダラの星に願い を掛け、月様に願掛けとか日様に願掛けなどと、月と日が別々の神様というような考えが起こってきたのです。 仏教の伝統と明治政府の神道教育の間でお屋敷で教える教えが、月様や日様に願いを掛けるという信仰に堕ちてしまったのです。 / 教祖が月日と仰言ったのは天然自然の真理なのですが、つとめ場所で秀司さんや山沢さんが違うことを教えていたので、十四号 のおふでさきから教祖は月日ではなく親という言葉を使われたのです。/ 「をや」というのは、生命を生み出した真理という意味です。 / 真理に則っているものはずっと生き続けることができる。生き続けてきたものは真理に沿っている。真理通りに暮らせば陽気づくめ の世界が実現できる。生んで育てて、千福を願う親の思いを、かんろだいづとめを教えた教祖御自身の心に重ね併せて、親という言葉 をお使いになられたのです。 いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで 十四 29 これは、月様や日様にお願いするという拝み祈祷の信仰を否定したうたなのです。(『ほんあづま』№299.P7.1994.1月)
八島氏の解釈を見てみました。では、『おふでさき註釈』はどのような説明を付けているでしょうか。 「神」から「月日」へ「神」の称名が変わる区切りのお歌である六号50≪このよふのしんじつの神月日なり あとなる わみなどふぐなるそや≫の解釈を『おふでさき註釈』(現行版と昭和12年版-次ぺージに引用あり)で見てみます。 『「神」 「月日」及び「をや」について』にあるような称名の変化というような視点は一かけらもありません。ましてや、八島氏の解釈 など想像すらし難い内容です。 「月日」から「おや」への変更である十四号29の「註釈」はいたって簡単で、現行版も昭和12年版もほぼ同じです。 八島氏の「月日」から「おや」への変更理由である≪「月様や日様」という表現は教祖の教えではない≫という見解は、 「註釈」の中では「月日」という表現が出て来る六号のところで、「月日両神であって、月様はくにとこたちのみこと、日様 はをもたりのみこと」とされ、教祖の教えであることが当然のこととして出てきていることに対する真っ向からの批判です。 『おふでさき』を史実に沿って解釈するということは、「神」とは何かという教学の根幹を揺るがす問題を孕んでいます。 また、 『おふでさき註釈』という枠がある中で、 中山正善氏が 『「神」「月日」及び「をや」について』において、「神」から「月 日」への明確な変更が認められるとしたことは、その変更理由はともかくとして、「月日」を「月様、日様」とする従来解釈に 対する大きな挑戦と見ることができるように思います。
「おふでさき註釈」六号50の説明
現行版
二九~五一、総註 元の親とは月日両神であって、月様はくにとこたちのみこと、日様はをもたりのみこと、と申し上げる。 ここにつとめと仰せられているのは、かぐらづとめの事であって、これはかんろだいをめぐって十柱の神名の役割を勤める 十人のつとめ人衆によって勤める。(第一号一〇註参照)/ 第三一のお歌以下、かぐらづとめの理を明らかにし、親神様 のこの世人間創造の御苦心をお教え下さるために、元初まりのお話を詳しくお説き下されている。/-中略 ≪元初まりの 話と十柱の神の守護について書かれている≫- 即ち、天理王命様とは、万物を摂理し給う月日両神、即ちこの世人間を創造し給い、守護し給う元の親神様であって、この 親神様の御守護の御理の一つ一つに神名をつけて、十柱の神名をお教え下されている。十柱の神名とは、・・・・ (十柱の 神名が列挙される) (2004年版『おふでさき註釈』P91~99)
昭和12年版(昭和3年版は確認できず)
三十一より五十一に到る二十一首のお歌は、親神様が如何にして、元々無い人間無い世界を御創り下されたかと言ふ事 に就いて物語られたものである。/今、以下二十一首のお歌を一々解説する代わりに、此の元初まりのお話の大意を記し、 以て釈義とする。/此の世の元初まりは泥の海で、其の中には月日様がおゐでになつたばかりである。此の月日様こそ此 の世の元の親、実の神であつて、月様を くにとこたちのみこと、日様を をもたりのみこと と申上げる。/-中略 ≪元初 まりの話と十柱の神の守護について書かれている≫- かうして、月日様が人間を御創造下された時から、九億九万九千九百九十九年と言ふ子数の年限の経つた天保九年十月 二十六日、元の親、実の親なる月日様は、尚八柱の神々と共に天理王命として天降られた。即、天理王命と申上げるの は、・・・・(十柱の神名が列挙される)(1937〈昭和12〉年版『おふでさき註釈』P144~148)
14号29、註 これまでは親神様の事を月日と称えて教を説いて来られたが、今後は主としてをやという言葉でお説き下されている。 (『おふでさき註釈』P217)
「おふでさき註釈」はどのようにして作られたのか
山沢為造氏-正善氏幼少期の管長職務摂行者71歳 松村吉太郎氏-会議の実質的責任者62歳 中山為信氏-山沢為造氏の長男、正善氏姉と結婚、中山分家創立 中山為次氏-山沢為造氏の次男、 「教祖様御伝稿案」の筆者
昭和3年8月2日おふでさき解釈の会議を 終えた教義及史料集成部の写真
高井直吉 板倉槌三郎山沢為造71歳、春野喜一 村田慶蔵梶本宗太郎49歳、諸井慶五郎41歳、山田清治郎深谷徳郎36歳、中山慶太郎46歳、 桝井孝四郎 、山澤為次29歳、中山たまえ52歳、中山正善25歳、松村吉太郎62歳村田慶蔵42歳、中山為信42歳、山田満治49歳、ち
昭和3年の「おふでさき講習会」には決められた原稿があった。
1928〈昭和3〉年8月までに『おふでさき付釈義』全5冊の刊行が終わり、同年10月末から11月にかけて「おふ でさき講習会」が教会本部で行われました。その時の記録が「おふでさき講習会録」として残っています。これ を読むと正善氏はその開講の辞の中で「神」「月日」「親」についてふれ、「何か深い親神様の思召があ ることゝ思ひます」と話しています。 また、同じ辞の中で講習会のやり方について、決められた原稿をに基づいて6カ所の会場で同時に行うとして います。講習はまず、中山正善氏による「開講の辞」、ついで松村吉太郎氏による「おふでさきの公刊に至るま で」が行われます。これは受講者全員を大きな会場に集めて行われたのでしょうか。その後、六つの会場に分 かれて、1号から17号までを27講に分けて講習が行われました。
最後にこのおふでさきを通じまして話されて居る人の称号と申しますか、乃至は親神様の称号と申しますか、 難しい言葉で申しますならば、おふでさきの主体の名称が三度変って居る様に思ふのであります。三つの 違った言葉で言はれてゐる様に思ふのであります。それは『神』『月日』及『親』の三つでありまして即ち第一 号より第六号の初め頃まで『神』と云ふお言葉で話されて居ります。/ -中略- / 唯主に此の三つの使ひ別けをされておる点に気付くのでありまして、これは何か深い親神様の思召があるこ とゝ思ひますが、特に御注意願ひたいのでござゐます。(「おふでさき講習会録」『みちのとも昭和3年11月20日号』P10)
終りに一寸注意して置きたいのは今回の講習会は以前のとは変わりまして六カ所の講習会場に於いて一 号より十七号まで皆同じ時間に話する様になつて居るのであります。その原稿は一定して居るのでありま す。それに今回はお筆先の順序を追いまして講習することにするのでございます。(「おふでさき講習会録」P11)
「第二」以外の結論を許さない「おふでさき註釈」「おふでさき講習会の台本」という枠
「おふでさき講習会」の「第14号第2席」において、「月日」から「親」への称名の変化の問題が説明されています。 『「神」「月日」及び「をや」について』で示された正善氏の見解、「聴く人間側の都合を思はれて親神が『おふでさ き』を執筆されたものと解する」は、この「第14号第2席」をもとにしたもののように思われます。昭和9年に書かれ た同書で正善氏は「第一の場合」「第二の場合」と分けて、いかにも両者を真摯に検討したうえで、「第二」を思召 に合っていると結論したように書いていますが、実際には「第二」以外の結論は「おふでさき註釈」「おふでさき講 習会の台本」という枠によってあり得なかったのです。
ある神様に教へられて、何かのことも間違ひなく領得が出来るのであります。 そこで月日の親神様は『助け一條』の胸の中を早く知らせたいと切(しき)りにお急き込み下されたのでありま すが、一列の人間には疑ひもあり不審もあったことは、心の理解がゆくだけの成人もないこともありますが、又 一つには神様と云ふては雲の中にでもゐられて、姿や形のないものであろから、どうも人間には親しみ難いと ころもあったことが、親神様の思惑を早く心に治め兼ねた原因でもありますことを親神様はお察し下されて いまゝでは月日とゆうてといたれ もけふからはなまいかゑるで (二九) と、月日と称えて種々おさとし下された親神様の名乗りを替へると啓示されたのであります。 親神様は月日の名前から単に一列人間の親と名乗りを替へられることは、思惑の上から著らしい進展と徹 底が現れて来たものであることを知るのであります。 親神様が親と名乗られることは、勿論小供である人間に対してでありますが、この親と云ふ御言葉で、如何 に神人の間柄が密接深厚なものであるかを示され、尚又慈愛と純情とをお説き下されて、遺憾なき融合の可 能なることを垂示されたことを覚(さと)るのであります。 ( 「おふでさき講習会録-第十四号第二席」P171)
昭和3年以降の「おふでさき」解釈、教祖伝を主にした天理教史
『稿本天理教教祖伝』の成立事情
中山みきの教祖としての実質的な活動期間は、仲田儀三郎など初期の信者が出来てくる1863〈文久3〉年から、身 を隠される1887〈明治20〉年までです。その中で1869〈明治2〉年から1882〈明治15〉年までは「おふでさき」が残さ れています。昭和3年に出来た「おふでさき註釈」「おふでさき講習会の台本」 は、この間の教祖伝解釈にも当然 影響を与えることになります。ここでは、『稿本教祖伝』の成立事情を考えてみましょう。
戦後の天理教学は、戦前、中山正善がしいた路線上に、一見はなばなしい展開をとげたように見え、従来そう見 なされてきたようである。おそらくそれは、昭和二一年四月に創刊され、二二年には一年のうちに七号も刊行され た『復元』誌の与える印象によるところが少なくないであろう。試みに創刊号の目次を紹介すれば、中山正善「序」、 上田嘉成「古老聞書」、諸井慶徳「別席教話の古記録」、山沢為次「教弟列伝素材(そのI)」、梶本楢治郎「教祖様 の思ひ出」、上田嘉成「教理概説稿案」、吉田清一「おふでさき英文試訳(一)」といったぐあいである。教祖研究・教 史研究に多くのエネルギーが投入されたように見えるかもしれない。しかしやや詳しく見ると、それらの多くが資料 紹介であることに気づくであろう。しかもそれらの資料のなかには、教義及史料集成部の戦前の活動においてすで に検討をへたものが少なからず含まれており、教祖伝の枠組を根底からゆさぶるような重要な新資料は、合まれ ていなかったように思われるのである。『復元』の主たる役割は、戦前の研究成果を教内知識層に次々に披露し、 さらに付随的な新しい資料を補充していくところにあったといってよいだろう。それでなければ、敗戦直後の因難な 状況のなかで、あれだけの充実した誌面を持続させることはできなかったにちがいない。『復元』による実証的教 学の教内知識層への浸透をふまえて、昭和三一年に天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』(同本部)が刊行さ れるが、それは『御教祖伝史実校訂本』と「教祖様御伝稿案」によってなされた詳細な史実考証の成果をまとめあ げ、要所要所に中山正善の思想をおりこんで筋を通し、「権威本」にふさわしい叙述に整えたものであり、その基本 的内容は敗戦以前にできあがっていたとさえいえよう。〈 「天理教研究史試論」P78〉
『稿本教祖伝』と『復元』資料の活用
島薗氏は1934,35年にまとめられた『御教祖伝史実校訂本』や1946~48年に『復元』に掲載された「教祖様 御伝稿案」(山澤為次)がベースになって『稿本天理教教祖伝』が生まれたと考えられていますが、実際には、 中山真之亮(初代真柱)が編んだ「稿本教祖様御伝」(片仮名本)・「教祖様御伝」(平仮名本)をベースに、昭和3 年に作られた『「おふでさき」註釈』の枠内で作られたものです。 『御教祖伝史実校訂本』が『復元』の掲載され たのは、『稿本』の説明が行われた1956〈昭和31〉年3月8日と同日発行の『復元29号』が最初です。また、 「教 祖様御伝稿案」は教祖の布教活動が始まる安政末年あたりで止まり(『復元14号』1948)、それ以後は爲次氏 の死によって書き継がれることはありませんでした。 八島英雄氏が書いた『稿本教祖伝』の批判書である『中山みき研究ノート』は、八島氏の独創的な解釈もあり ますが、その元となる資料は『復元』や他の教内資料に依っています。それは『史実校訂本』などの『復元』資料 が『稿本』の編纂に生かされていなかったことの証左ではないでしょうか。
「方針案」「草案第二稿はしがき」によれば、中山真之亮が編んだ「稿本教祖様御伝」(片仮名本)・「教祖様御伝」 (平仮名本)と明治二〇(一八八七)年初めの『おさしづ』を加えたものを根本にした。解釈を加えながら『おふでさ き』を史料として利用するスタイルは、第三稿の叙述ですでに定まっていた。そのほか、辻忠作「ひながた」、諸井 政一 「道すがら外編」、あるいは『史実校訂本』、山澤為次「教祖様御伝稿案」(一)~(八)、山澤為次「教祖様御 伝稿案年譜表」などが参照された。/ 厳密な史料論としてみた場合、一次史料の『おふでさき』以外の中山真之 亮「教祖様御伝」あるいは辻・山澤為次の記述は、編纂物や回顧録といったもので、史料的な価値は高くはないが、 記述の柱として尊重された。その上で、「あらゆる史料」によって「史実を正確にし」「立教の精神」を明らかにするこ とが目指された(「第一巻第三稿、はしがき」)。史実の正確さは、「稿本」の生命といってよいものである。 (「稿本天理教教祖伝の成立」幡鎌一弘.P215.『語られた教祖』2012.法蔵館)
なぜ『稿本天理教教祖伝』には、「稿本」という字が付いているのか -中山慶一氏が「教祖成人説」を主張し、「突発説」に反対したため-
『稿本天理教教祖伝』にはなぜ「稿本」という字が付いたままになっているのかについて、 八島英雄氏が語っています。少々長いですが、その部分を引用します。
教典を出す時、昭和二十三年に教典稿案を出し、講習会を行ない、二十四年に天理教教典として裁定したという過程が ありましたが、その方法を教祖伝でも行なおうとしたのです。その時にも教義講習会の場で大変な反対論議が起こりまし て、真柱は教義とすることを断念し、「稿本」という二文字を付けた経緯がありました。 その時の反対意見で最大なものは中山慶一先生の、後に「教祖成人説」と名付けられた論拠でした。もう一つ、桝井孝 四郎先生のおつとめが拝み祈祷ではないということでした。この二つの大きな反対論があり「教祖伝」裁定を断念したので す。/ 中山先生がこの時だけでなく、亡くなるまで言い続けた反論の要旨を紹介します。 この教祖伝稿案では立教の時にみきさんには何の意志もなく、取り憑いた神様が一方的にものを言って行動させている ので、みきさんには意志がないことになっている。そして、月日の社になられた後でも親神の仰せのまにまに、貪に落ち切 れという行動をとられた。その時の場面も「この家取り毀せ」と言い、家族がこれに応じないと熱病のように、耳も聞こえな い、ものも言えないという状態になって「巽の隅の瓦下ろしかけ」と言い、それではと瓦を下ろしたらフッと気がついて、私は 何を言ったのでしょというように場面になっているのです。 又、教理も、夜「筆、筆、筆を取れ」と言うから筆を収ったら暗闇でも筆が走って、神様がおふでさきを書いたのでみきさん が書いたのではないということになっているのです。極端なのは八十九歳の時に櫟本分署で、「一節一節芽が出る」と言っ たのも神憑りで、みきさんの意志ではない。それか原因で巡査とトラブルが起こり身上を倒したのも、教祖が身上倒すほど の弾圧を受けるのも神様の意志でという教祖伝になっているのです。【3-1】 (「ほんあづま」№230.P1~4)
『稿本教祖伝』の教祖は「神様の意志通りに動くロボット」
これは、裏を返すと八十九歳の時にも神様の意志通りに動くロボットであったというわけです。天保九年十月二十六日、 この時から既に中山みきは、優れたかんろだいづとめのような分かりやすい教理を教えることもできたことになっています。 前真柱は質問に対して、教祖は天保九年から優れたおつとめを教えるほど完成していたが、聞く方が成人していないか ら三十数年も経ってから教えたという答弁をしたのです。 これに対して中山慶一先生は、「そんなことは承知できない。天保九年から優れたかんろだいづとめという内容を分かり やすく教えてくださっていたら、もっと早く人間も成人したはずだ」と言われたのです。この教祖伝編纂は明治から敗戦ま での役所好みに書いた教祖伝が基になっている。役所に関係無い、おたすけの場で昔から高弟達が語ってきた教祖伝と は違っているという意見だったのです。 -中略- この時に真柱は、わしの心が分からんのかと大きな声を出して慶一先生を押えたのですが、講習会が終かってからも 慶一先生はその説を翻さなかったのです。お亡くなりになるまでずっとそれを言い続けたのです。 このような事情で三十年前には教祖伝として裁定することはできなかったのです。まだこの時期には本部で末端にいた 土佐元先生なども、最初から教祖が完成していたら宮池に身投げするなどという話をするのはおかしいではないかと質 問をしています。 こういうことから稿本という字を付けて、未だ本物ではないとして出したわけです。 けれども、稿本と冠して未だ出来損ないであるといっても、本部が編纂して出したということになりましたら、勉強の場で の教祖に大変な違いが生じてしまったのです。【3-2】(「ほんあづま」№230.P1~4)
「教祖=神様のロボット」説は天理大学宗教学科の存在理由を失くした
私達、昭和二十年台の天理大学卒業生は、教授が中山慶一先生でしたので昔からの古老の言い伝えも教祖伝として 勉強しましたから、無意識の、神様の操り人形だと書いた初代真柱の書物を、おかしいと笑う気持ちになるほど皆が勉 強していたのです。 しかし、昭和三十一年に稿本教祖伝ができ、天理大学宗教学科でも専修科でも、御本部が正当な教祖伝としてこれを 出したのだということになり、稿本教祖伝に書いてあることだけを勉強すれば良い。他のものは正当ではないと、他を勉 強する者は異端者だという雰囲気が出来上がってしまったのです。 それからの三十年間というものは、みきさんは神様のロボットで何の喜びもなく動いたのだと言わないと天理教徒では ないようになってしまったのです。 その中で私の恩師、諸井慶徳先生は教えようがないと悩んだのです。教祖が、天然自然を見て悟ったか天然自然に教 えられたのか、悟りなのか啓示なのか、どちらにしてもみきさん自身、互いたすけ合いがこの世界の真理だと理解したと いう出発点を持たなければ学生に教えようがないのです。 ただ一生懸命になったら神様が言わせてくれるのだ、動かしてくれるのだというのでは勉強しなくても良いことになるの です。天理大学宗教学科の存在理由がなくなってしまうのです。学科長として教えて行かなければならない諸井先生は、 そこの一番大きな矛盾にぶつかって、これでは教えようがないではないかという事情が絡んで、この世が嫌になるほど 悩んでしまわれたのです。【3-3】(「ほんあづま」№230.P1~4)
修養科の改革とその挫折 1967〈昭和42〉年
『稿本教祖伝』の発刊が招いた天理教学停滞の中で、八島英雄氏の 表現によれば「修養科改革」が正善氏の主導で始まり、実務担当者 の一人として八島氏が指名されます。
修養科改革の挫折 (80年祭時に)一期講師で来たのに一組担任という重職を与えられました。男子一組担任は本部の 準員さんか、もしくは大教会長さんが勤めるというのが例であるのに、本吾嬬の後継者でもなく、部内の教会長でもない のに、重要な八十年祭のひのきしん活動を、男子一組担任が指導するという大きな役割を与えられました。/ 次いで昭 和四十二年、修養科改革チームが編成されまして、真柱が天理教教会本部修養科を改革する。こういう形で私達に御命 が下ったのです。/ その時の改革チームは教会本部教養部次長に梅谷忠一船場大教会長、この方が修養科を保護す る形です。修養科主任が土佐元、防府大教会長、専任講師に水口大教会長藤橋光晴先生、生野大教会長田川勇先生、 それから現在本部員であります仲田武彦先生、それに八島英雄というチームが編成され、修養科改革ということになって まいりました。 修養科の原典軽視・教典偏重の方針を変えて、教典は間違いである。近く改訂されるのだという前提の下に、教典の間 違いも質問を受けて原典に基づいてちゃんと答える。稿本教祖伝の間違いも答える。おてふりの時問にみかぐらうたの意 味も教える。そして、鳴り物が正課でなかったのを正課にするというような改革が進められたのです。 それまで私も、真柱と教会本部は一つになっていると思っていたのですが、教会本部の教育方針を改革せよと言われて、 真柱と本部が離れていることを実感しました。 教会本部修養科の中にも、真柱と心合わせて、みかぐらうた・おふでさき・おさしづに復元しようと骨折っている専任の先 生も何人かおりました。また、従来の教典でよいのだ、本部先生だから私等も威張ってよいのだという態度の専任の先生 もおりましたが、徐々に改革が進んでまいりました。 / -中略- / しかし、昭和四十二年十一月十四日、二代真柱中山正善氏が急死いたしまして、この修養科改革は挫折いたしました。 (『ほんあづま』№346.P17.1997.12)
「おふでさき註釈」の枠を超える論文現る
第一に教祖伝の史実、すなわち教祖の生活状況との関係に注目しようとする研究がある。「おふでさき」には、当時の教祖 の生活状況や身辺の出来事を知らなくては理解できない部分が少なくない。ところが従来の研究は、そうした部分について は昭和三年の天理教教義及資料集成部編『おふでさき附釈義』全五巻(天理教教義及史料集成部)の註釈によって定着さ れた伝統的な解釈にまかせ、それ以上の詮索を加えるのをつつしむ傾向があった。木村善為「<おふでさき>第一号十九 首二十首の考察-特に<ハぶく><ハぼく>の歴史的理解と用字について」(『天理教学研究』一七、昭和四二年一〇月) や松谷武一「原典研究の方法についての一考察ー河内・刑部村の雨乞を一例として」(「天理教学研究」二〇、昭和四五年 一〇月)は、こうした傾向に対する鋭い批判を含む研究である。木村は『おふでさき』第一号の一九首、二〇首に現れる「ハ ぷく」「ハぼく」(和睦)が、従来明治維新の政治的混乱の収拾を意味すると解釈されてきたのに対し、政治史とみき身辺の史 実の双方を参照しながら、むしろ教団内部の指導者層に関することなのではないか、と論じている。〈 「天理教研究史試論」P99〉
木村善為「<おふでさき>第一号十九首二十首の考察」を要約すると、 ≪『おふでさき註釈』は、「上」を、新政府のことと解釈している。しかし、この時期、天下の趨勢は、新政府の方に決して おり、和睦を必要とするような勢力はない。ゆえに、『註釈』の解説には無理がある。「おふでさき」1号は、「やしきのそう じ」と「つとめ」が主題であり、19,20についても、それらに関連すると解釈するのが、妥当である。ここでの和睦とは、「内」 のことではないかと考えられる。「上」も、対外的な権力者ばかりでなく、「お道の指導者層」についても言われたのではな いか。『お道を、まだ、せかいなみの教えであるとさえ思って行動する内なる ″上″たる者の心をしずめ、和(やわら)ぎむ つぶよう、むつかしいことであるが、親神が働こう』が、19,20の意である。≫ となります。これは「註釈」の解釈を正面から否定した、たぶん昭和3年以降最初の論文であると同時に、 「お道の指導者 層」を批判するという点でも画期的なものです。 次ページに「おふでさき講習会録1928〈昭和3〉」のこの部分を引用しておきます。木村論文の主旨と比較してみてくださ い。 「おふでさき註釈」の枠を超える論文現る 3
一号19,20の『おふでさき註釈』
一号19.このさきハ上たる心たん/\と 心しづめてハぶくなるよふ 20.このハほくむつかしよふにあるけれと だん/\神がしゆこするなり
一九、二〇のお歌は明治二年頃の不安な社会状態を御覧になって其赴く可き道を御示し下されたものであります。詳しい事は 『おふでさき 一』の七頁を御覧下さらば、註釈に出て居るのでありますが、事実その当時は旧藩主の恩を思うて、明治新政府 を快く思はない武士階級の人が多く、騒動の起るのを待ち設けてゐるやうな様子があったのであります。明治四年に廃藩置県 が行はれてからも此心持が相当濃厚でありまして、明治七、八年頃迄の新聞を見ますと、百姓一揆が方々に起ってゐるのであ ります。これは大抵、薩長二藩に對する反感と、幕府を元の勢力に戻して又自分達の天下になろやうと云ふ浅果かな考へから、 旧藩士が重に黒幕になって策動してゐたやうであります。此やうな状態でありますから、明治新政府と佐幕派との融和は中々 容易で無いやうに思はれたので御座ゐます。親神様としてはこれを非常に御心配になって、國民全般が朝廷を中心に心を一 つにしなければならぬと御さとしになったもので御座ゐます。我國は建國の昔より皇室を中心として進んで參りましたもので、一 時政治の権力は武門に移った事がありましても、統治の中心は天皇にあったのであります。國民としては飽く迄皇室を中心に 團結して行かなければ強固なる國家を形成する事は出来ないのであります。此一九、二〇の御歌はこれを我々國民全般に御 示しになり、皇室尊崇の道を御説き下されたものであります。(「おふでさき講習会録」P24.1928〈昭和3〉)
『おふでさき』の真意を求め続けるのが、信仰者の道
島薗進氏の「天理教研究史試論」をもとに、それに対する批判文、更にその返事を通して、昭和3年以降の教学的な面から の天理教史を見てきました。そこから「突発説」と「教祖成人説」の対立は、かなり深い問題を抱えているように思えてきました。 島薗氏は、その「返事」の最後に、「中山みきという日本民衆思想史上の突出した存在〈島薗氏返事P6〉」と記しています。 『おふでさき』は ≪よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから≫≪そのはづやといてきかした事 ハない なにもしらんがむりでないそや≫≪このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする≫というお歌 から始まります。今まで誰も知らなかった真実が中山みきによって説かれたということを信じるところにこの信仰もまた始まりま す。『おふでさき』の真意を求め続けるのが求道であり、人々に伝えるのが布教です。信仰者の道を歩み続けたいと思います。





(私論.私見)