中山家系図考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「中山家系図考」をみのしておく。

 2018(平成30).4.19日 れんだいこ拝


【中山家系図考】
 中山みきは、夫善兵衛との間に一男五女(秀司、おまさ/長女、おやす/次女(夭)、おはる/三女、おつね/四女(夭)、こかん/五女)を授かる。秀司は、(小東)まつゑと結婚し、たまへを産む。おはるは梶本惣治郎と結婚し、楢治郎、眞之亮(三男)を産む。この眞之亮が中山家の養子に入り中山家家督を注ぎ初代真柱になる。この眞之亮がたまへと結婚し、正善、玉千代を産む。正善が善衛、善衛が善司、善司が大亮(善司の実弟である中田善亮の長男)と繋がっている。
 




(私論.私見)

教祖の身体
神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。(『逸話篇』第一六四話)    東京帝国大学在学中に姉崎正治に師事して宗教学を修め、今日の天理教学の土台を築いた二代真柱・中山正善。

「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(『おさしづ』明治二二年二月一四日)とあるように、人間の「心」は人間の自由に処すことが認められているのに対して、人間の「身体」は神からの借り物であると説かれる。死(「出直し」)とは、借り物である身体を神に返すことである。さらに、「かしもの・かりもの」の教理の背景には、この世は神の身体であるという世界観がある。「たんたんとなに事にてもこのよふわ/神のからだやしやんしてみよ」 (『おふでさき』三40、135)。人間の身体も神の身体の一部にほかならない。神の身体であるマクロコスモスと、人体というミクロコスモスは一つの天の理に貫かれている。 ところでこの教理は、「思うようにならん〳〵というは、かりものの証拠」(『おさしづ』明治二一年七月二八日)とあるように、怪我や病など、自己の身体に現れながら自己によってはけっして制御できない不調を、当の身体の貸主である神からの知らせとして解釈することを促すものである。「かしもの・かりもの」の教えは、日常の信仰生活においては、病など身体の不調の表出を、自己の普段からの「心づかい」を問い直す機会として受けとめるよう促す教えであり、その意味では多分に実践的・臨床的な教えである。しかし、この教理の真髄は、いかなる能動的なはたらきかけによっても制御できない、人間の身体の根源的に受動的な次元を指し示していることに認められる、と私は考える。それは、病み、傷つき、老いゆく身体において如実に現れる身体の根源的受動性に目を向けさせ、あるいは、「私」にとっての根源的他者性を内包する「私の身体」の非固有性に目を向けさせるのである 。 

 老体にもかかわらず驚くべき力を示してみせた際、彼女の高弟の一人梅谷四郎兵衞に語ったとして伝えられる言葉である。 この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々にせめられて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬ方がましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そつて寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は、三度まで有つたがな、井戸側へすつくと立ちて、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。するとな、何処からとも知れず、声がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすのやないほどに〳〵、年のよるのを、まちかねる〳〵、かへれ〳〵」と仰有る。 是れは神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば、戻られる。是非なく、そつと又寝床へ入つて、知らぬ顔してねて終つたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終つて、どうも仕様がなかつた。すると、やっぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに、「短気をだすやないほどに〳〵。年のよるのを、待ちかねる〳〵。かへれ〳〵」と仰有るから、ぜひなく、戻つてねて終ふ。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふ様に死ぬ事は出来なんだ。そこで、今日は、神さんがな、けふの日をまちかねたのやで、もう八十すぎた年よりで、それも、女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よつて、力だめしをして見せよと仰有るでな、おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つぱつて見なはれ……。 「もう八十すぎた年よりで、それも、女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい」という教祖の言葉。

 姿形は一人の老婆ながら、彼女が示す超人間的な力に周囲の者が驚くというエピソードが頻出する 。先に引用した老教祖と梅谷四郎兵衞との力比べの伝承はそのうちのひとつにすぎない。関一敏は、みきの大力をめぐる人びとの伝承の背後には「民俗的古層にねざした女の大力をめぐるフォークロアの存在がうかがわれる」と述べつつ、「ここでは民俗のほうへこれらの逸話を返してはならない」とする 。ならばどのように考えるか。関は必ずしも明確な見解を打ち出すに至ってはいない。が、「神は宮池の頃から、自分の身体が年よるのを待ちかねていたというのである」(傍点強調原文)という指摘は極めて示唆的であり、みきの大力の逸話群と老いの関係について、さらなる考察を挑発するものである。 この問題に説得力ある解釈を導き出すためひとまずここで述べておきたいのは、教祖みきの身体は、常に信者たちとの関係性のなかに生きていたということである。それはけっして自己完結した、閉じた身体ではなかった。みきの身体が信者の身体と不思議に共振していたことを伝えているいくつかの逸話に注目したい。それによると、みきは普段から、時々身体のだるさを訴えることがあったという。それは決まって、遠方から信者が参詣にやってくる最中のことであった。つまり、教祖はみずからを慕い来る信者たちの文字通り身代わりとなり、彼ら彼女らの身体にふりつもるべき疲労を自身に引き受けていたというのである。このような事態については、次のような逸話ものこっている。 ある時、村田イエが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみか、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいましても、少しも疲れを感じません。」と申し上げると、教祖は、「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさんのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで。」と、仰せられた。 神の身体も「疲労」するものであったのだ。一般にこの逸話は、信徒たちの身代わりになってその疲れを身に受けたみきの大いなる「親心」を伝えるものとして紹介される。

 「子供の方から力を 入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や」と語ったという。

 し、この救済の業は、「たんに女人救済というのに尽きるものではなく、私たちの身体が「神の不思議の働く場」であることを教える一つの方途」としても解釈しなければならない。それは「母の身体」あるいは「産む身体」において「親神の顕在の証とされたものであった。 ところで、産む身体とは、私に固有のものではない身体、私でありながら私にとって他なるものである身体そのものの根源的に受動的な次元を顕在化させ、あるいは「私」の固有性を根底から問い直させることによって、非固有性と複数性を条件とする別様の「私」を出来させうる身体であろう。四四歳のときのことである。授かった子は妊娠七ケ月目にして流産してしまったのだが、このとき聞こえた神の声に従った結果、産後の肥立ちは極めて良好であったという 「をびや許し」の始まりは、この後嘉永七年、教祖五七歳のとき、三女おはるに対して授けられたのが最初とされるが、それより十年以上も前にみきはみずからの身体で「ためし」をしていた。「をびや許し」という救済の「原点の原点」は、みき自身の身体的経験にあったとも考えられるのである。 受胎・妊娠・出産という「母の身体」に特有の出来事は、それ自体は母たる主体のいかなる意志とも無縁に進行する、その意味で根源的に受動的な出来事である。

 平野も、増野も同じ気持ちであったでしょう。 「私らは、おつとめをさせてもらいたい。親神様のために、警察へ行く」 「それでは、教祖を大切と思わぬのか」 そういわれてみれば、教祖は、自分の命より大切でございます。といって、教祖が前々よりせよと仰せられたおつとめに出られぬことは、何としても申し訳がありません。 「さあ、どうじゃ」 といわれて、梅谷は、御休息所の柱につかまって、男泣きに泣いたということでございます。 人びとは律そのものを恐れていたのではなかった。人びとが真に恐れていたのは、律に背くことにより、教祖に具体的な危害が及び、その身体が傷めつけられることであった。だが、信仰者を襲ったこの究極的な葛藤は、たんに乗り越えられるべき否定的な苦しみ、弱さではないだろう。私は次のように考える。「つとめ」の実行を要請する神の言葉は、教祖の身体が現前することによって、人間をただ従わせる命令ではなく、人間にまことの苦しみを通じた深い思索をうながす言葉となり得たのではないか。おのれが引き裂かれるような葛藤や煩悶が、信仰にとって消極的な意味での疑いや弱さではなく、信仰をいっそう深く、強く、豊かにするものだとすれば 、「死」に臨む教祖の身体は、ますます弱く、配慮されるべきものであればあるほど、いっそう人びとの信仰の成熟をうながしたのではないか……。 「つとめ」は午後一時に始まり、二時に終わった。「みかぐらうた」の最後「十二下り目」の歌が消えてゆくちょうどその頃、みきは息を引き取ったと伝えられる。しかし、この「終わり」は、むしろ新たな「始まり」となったのである。

 教祖の「死」の二日後、梅谷四郎兵衞が妻に書き送った手紙に記された次の一節には、当時の信徒たちが覚えた深い安堵と大いなる希望が凝縮されているように思われる。 これからハおやさまわ、せかい中かけ廻るとの事なり 。教祖は、姿こそ見えなくなったが、今からは世界の「たすけ」に駆け巡る。まさに「扉は開かれた」のである。そしてそれは、これから信徒たちに「さづけ」 (病む人に取り次いで身上回復を願う救いの業)の理を渡そうという宣言でもあった。幡鎌が指摘しているように、教祖の「ひながた」が閉じられたその瞬間から、新たな「たすけ」の道が開かれたのである。