陽明学思想とのすりあわせ考 |
(最新見直し2012.03.13日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「陽明学思想とのすり合わせ」について記す。 2012.03.13日 れんだいこ拝 |
【「陽明学と通底する天理思想」について】 |
第三の三。「みき」思想を陽明学のそれとの比較でも論じてみたい。 |
【陽明学思想とのすり合わせ考】 |
ここでは、「陽明学思想とのすり合わせ」について記す。みきの御教えとイエスの通底、みきの御教えとマルクスの通底については既に確認したが、ここで「中国の陽明学、日本のみき思想」と評すべき「二つ一つの関係」に注目してみたい。「陽明学とみき思想の関係」について驚くべきは両者がその内容は違うかもしれないが同じ「天理思想」を唱えていることである。これにつき余り注目されていないので喚起しておく。 これを説き明かす前に陽明学論を試みておきたい。陽明学については以下のサイトに記している。 「陽明学考」 (ainugakuin/syakaishisoco /toyoshiso/yomeigakuco/top.html) 「王陽明の履歴」 (ainugakuin/syakaishisoco/to yoshiso/yomeigakuco/rirekico.html) 陽明学とはどのような思想なのか、これを確認する。陽明学とは、中国史上、16世紀の明(みん)時代の儒学者・王陽明の創始した学問である。朱子学に対抗的な知行合一思想を特質としている。その朱子学が重視したのは天理思想である。 陽明学は孔子・孟子の儒学に由来する。孔子・孟子の儒学を仮に「古典儒学」と命名するならば、以降の学問的業績として「古典儒学」から朱子学が生まれている。陽明学は、直接的にはこの朱子学批判という形式を伴って誕生した。この三者間の関連と相違は次のように把握できるように思われる。 「古典儒学」は、即自的に一つは修身論(「おのれを修め人を治める修己治人学」)、もう一つは治斉平天下論つまり政治論として形成されていた。惜しむらくは、西欧思想に濃厚な社会分析論的なものが弱かった。元々は当時の時代状況に適宜な学問であり且つ実践学であったが、前漢の時代に国教化された後は、「1語の解釈に3万字を使う」といわれる煩瑣な解釈学に堕してしまい形骸化してしまった。 朱子学はこれを是正しようとして宋の時代(西暦960〜1279)におこった「新儒学」であり、「古典儒学」を対自的に継承し、修身論を更に精緻に仕上げ且つ社会科学的認識論を持ち込んだところに特徴が認められる。それは当然の学問の流れであり、ここに朱子学の史的功績があると云える。問題は、朱子学が理論の精緻化を進めるに連れ、治斉平天下論つまり政治論において却って社会変革的観点が捨象されたことにあった。朱子学のこの体制護持的イデオロギー特質が国家の御用教学として採用されるのは自然の成り行きであり、実際に当局に公認され、そのことによって権威となった。しかしその為に批判を許さない閉鎖性と形式性、単なる駄弁学に堕して行くことが運命づけられることになった。 陽明学は、そうした朱子学の在り方に疑問を覚えた王陽明の思想的格闘から誕生する。王陽明の在世時、朱子学が儒学の正統解釈の座にあり、科挙試験の弁えとされていたが、もはやそこには社会への実用性はなく、単なる博知識学として君臨していた。「知識と行動の離反。行動への意欲を欠いた知識と知識の裏づけを伴わぬ行動」が瀰漫しており、出世のためにそれを習得してみても現実の政治の局面打開にも何ら役に立たなかった。併せて王陽明のような資質の者においては、処世法として活用するにおいても無益空疎なものでしかなかったと拝察する。 ここに多感な王陽明をして一つの気宇を契機させた。王陽明は、どこまで自覚的であったかどうかは別にして正統朱子学に対置し得る学問の模索を開始した。「五溺時代」とは、そうした企てを秘めた王陽明の思想的彷徨時代であろう。批判を有効足らしめる為には、朱子学体系に対置する論を構築することによってしか為しえないからであった。これに挑んだところに王陽明学問の史的価値がある。いつの頃から全面的な朱子学批判に立ち向かっていくことになったのかは定かではないが「竜場の一悟」がその狼煙となった。 こうして形成された陽明学は次のように概括される。「陽明学とは儒学の一派で、中国南宋の陸象山の説を受けて明の王陽明が展開した。朱子学が『性即理』(客観世界の理の探求)を唱えていたのに対し、『心即理』(心ないし気の関与する限りにおいてのみ客観世界は意味を持つ)を主張し、『知行合一』を尊び、ひたすら『良知』に至る工夫を説いた」。つまり、認識論の根本から朱子学と対照的で、この違いが世界観、社会観、処世法全てに波及し、鮮やかなまでの対比を見せることになる。一般に主観的な哲学の色彩が濃いと評されている向きがあるが、実践的には「人間精神の自由性、自律性を称賛する自由・平等・行動の思想」として光芒を放っている。 詳細は本サイトの各論に譲るとして白眉な面は、朱子学が失い、孔孟の「古典儒学」にあった社会変革的観点を称揚したことにある。極力、儒学を実用の学、実践の学、変革の学にせんとしたということである。この特徴が一般に「行動哲学としての陽明学」として評されている。但し、史実としての陽明学は、朱子学体系を批判しぬくために朱子学の良質な面であったその社会科学的認識論をも攻撃していかざるを得なかった。その際、汎唯心論的観点からこれを為した。その功罪はあざなえる縄の如くである。ここに陽明学の大きな特質がある、と云えるのではなかろうか。 陽明学の端緒は、陽明その人によって基礎づけられ鼓舞された「心即理」という絶対的唯心論の見地である。これは、朱子学の「性即理」に対する強烈な反対命題である。朱子学の「性即理」は、外界の事象の客観的存在を認め、我が心にも外界の事物にもそれぞれの「理」があるとして、知を極めて人格の完成を目指すためには、単に内なる理だけでなく、外なる事々物々の理をも極め尽くさねばならない、としていた。云うなれば、穏当常識的な唯物論的な世界観を持っていたということになる。これに対し、王陽明は、朱子学の「性即理」論の客観主義観の否定に動く。「心はすなわち理である。この心をおいてほかに、どんな事物があり、どんな理があるというのか」は、外界の事象の存在を否定することに重きを置いたものではなく、「心即理」を通じて初めて意味を持つと主張しているように見える。あるいは、外界の事象の存在を否定しているとも受け取れるが、関連問答や後に知行合一論を生み出していく経過を見るとき、前者の線で理解すべきだろう。 陽明学は、もう一つの「格物致知」についての新たな解釈を生み出している。 「格物致知」とは、「四書五経」の一つである「大学」に、「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」として出てくる「大学の8条目」の中の儒教の眼目の一つである。「格物、致知」については、古来より様々な解釈が為され定説を得なかった。朱子が「格物」を「物に格(いた)る」と読み、事々物々全てのものに「理」を認め、そのそれぞれについての「理」を一つ一つ極めることが重要であり、「致知」とは、そうして得られた知識を元手にして究極の知に到達することであると解釈した。これが、「天地間の事物には、それぞれ道理があるから、人はそれぞれの事物に即して、その道理を窮(きわ)めねばならない」という「格物窮理(かくぶつきゅうり)」の説である。その後朱子学が絶大な権威を獲得することによってこの解釈が定説とされ公認化していた。 王陽明は、朱子学を学ぶにつれてその「格物致知」解釈に疑問を覚えるようになり、格闘することになった。窮理は不可能だしそれよりも窮理に向かう精神の方が大事にされねばならないとした。「格物致知」の解釈も、まず「格物」とは「物を格(ただ)す」であり、「致致」とは「致良知」と解すべきで、合わせて「格物致知とは、我が心の良知を事々物々に致すことである」とした。その意は、「我が心の良知を事々物々に致せば、事々物々みな理を得る。我が心の良知を致すのが致知であり、事々物々みなその理を得るのが格物である」として、心、すなわち良知を万物の主宰者であると認識した。これを要約したのが「心即理」という命題に他ならない。これを西洋哲学的に分析すれば、朱子学が客観主義的唯物論の見地に立っており、陽明学が主観主義的唯物論兼唯心論的な見地に立っているということになるのであろうか。つまり、朱子学と陽明学の対立は、認識の作風として客観主義と主観主義の差に起因しているように思われる。 陽明学は、この「心即理」論から始めて「汎唯心唯理論」に発展する。「汎唯心唯理論」とは、「身の主宰はすなわち是れ心」、「心というのは、形こそないが霊妙な働きをしている。そこにはあらゆる理が備わっており、あらゆるものがそこから出てくるのである。心の外に理はなく、心の外に事はない」とする唯心論である。但し、ここで云う唯心論は西欧哲学的な意味での唯心論ではなく、心の中に神の働きを見、その神は万物の理として作用しているとする東洋哲学的な理解で把握すべきであろう。続いて、「性はこれ心の体にして、天はこれ性の原(もと)なり」とあるように「性原説」とも銘々すべき認識を披歴している。ここから。「それ良知は、即ちいわゆる是非の心、人皆なこれあり。学ぶを待たずして有り、慮(おもんばか)るを待たずして得る者なり。人たれかこの良知なからんや。独(ひと)りこれを致すことあたはざるあるのみ。聖人より以って愚人に至るまで、一人の心より以って四海の遠きに達するまで、千古の前より以って四海の導きに達するまで、千古の前より以って万代の後に至るまで、同じからざることあるなし」(人熟無是良知乎)とする「良知思想」に辿り着いている。これを西洋哲学的に分析すれば、陽明学の「良知」とは、近代ドイツ哲学に云うカント、ヘーゲルらの「理性論」に該当しているのであろうか。 陽明の心論は、「人間精神はその本来の姿においては霊妙具足、最高至善であり、しかも万人に普遍平等である」とする観点に立脚していたことを考え合わす必要がある。陽明の場合、この規範を起点にして「人間精神の自由性、自律性を称賛する自由・平等・行動の思想」を導き出しており、そこから人間を外から縛り付けるあらゆる形式的伝統的権威への盲従をも否定していった。かくて、個我における人間の自覚を確立することが学問の究極の目的とされていた。 「陽明学は、『学問は心得を尊び、心に求めて非であれば、孔子の言といえども是としない』とする『志』の大事さと『自由』の精神を基調とする。且つその観点は、人間の良知すなわち道徳的本性は、『愚夫愚婦といえども聖人と異ならず』、その意味において『満街の人皆聖人だ』とする『平等』の精神に支えられていた。かかる人間に平等普遍な道徳的本性をば行動を通じて実践体現する『致良知』に学問の工夫を集中しようとした。『自己の内に存する聖なる声』(王陽明はそれを『良知』と呼んだ)に聞け、その聖なる声は、純粋絶対の善−至善なることにおいて、天の声に通ずるとする『天理思想』に辿り着いた」。人間精神の自由・自律を強調する「自由、平等、行動の哲学」とはこのセンテンスで云われていることに注意を要する。 この観点は更に知識(理論)と実践の結合論によって補強された。「王陽明は、人間の道徳的自由平等性を強調し、人間の思想と行動を具体化していく一つの絶対的な規範を、自由且つ自律的な人間本来の心の働きに求め、外からの押し付け、形式的な権威、伝統への盲従を否定し、自分一個の人間としての自覚の確立から本当の生き方が始まるとした」。人間の生の営みの価値基準を「自己に内在する自由平等、絶対至善の真実の本性を、その行為を通じて実践体現することに求め」、これを窮極の課題とした。 従って、学問とは単なる抽象的な空理空論の積み重ねであってはならずとする『知行合一(知識と行動の不二)』が要請され、真の知識は行動を離れて存在せず、また行動は知識を離れては無内容に堕するとして、『事上磨錬』(じじょうれんま・実事と体験の上に精神鍛錬の機会を求める)の力強くエネルギッシュな『実践哲学』が説き出された。『致良知説』は陽明学の最後的帰着点とも言いえるが、そこで示された行動精神は、さらに『抜本塞源の論』に見られる痛烈な社会批判を生み、正義の主張の為には生死を超越すべしとする『殺身成仁』の大決心ともなるのである」と評価されるところである。 王陽明自身は、自らの学問を、「天道」に従い真の生き方を模作する正統の立場、心学、正学として位置付けていた。かくて陽明学は、既成の伝統的・形式的・権威との鋭い対立を見せ、「異端の哲学、反抗の哲学、革命の哲学」として立ち現われることになった。これよりする諸観点を打ち出した陽明精神の背景には、一、各地で苦しんでいる農民の窮乏を救う。二、あるべき社会像、国家観を模索する。三、その為に有限な生命の持ち主でしかない個々の魂が、生死の場において今その場を如何に生き、最善を尽くせるかを問う。という精神を横溢させていた。陽明の「五溺」時代とは、こうした精神から時代に有効な思想を模索する為の試練の日々であったとして意味を持っていることになる。 ここには、西洋哲学の認識法の尺度では理解し得ない又別の哲理があると云うべきではなかろうか。我々はともすれば、唯物論と唯心論を対置させ、マルクス主義以降の俗流マルキストにあっては公式主義的に唯心論の不毛を説くという作法に馴染んできている。しかしてそれは、マルクスが格闘した唯心論ないしは観念論とは西欧のユダヤ−キリスト教の聖書的世界に結実した唯心論ないしは観念論であり、いわゆる東洋的なここに見られるような王陽明思想を唯心論であるが故に顧慮しないという認識の作風ではなかった、のではなかろうか。そういう評価は果たして正当であろうか、と問わねばならないのではなかろうか。 陽明学の云う唯心論とは、マルクス主義で云うギリギリのところで唯物論に立脚すべきか観念論に立脚すべきかと問うたものではない。実践における主体の持つ意味において、主体性のない客観認識論に基づく単なる博識作法は有害無益であると主張するところに力点があったと見なすべきであろう。故に、マルクス主義的哲学の条規で唯心論と規定する故の単純な排斥は慎まねばならない。そうとならば、それはそれでひとまずは陽明学の論理のままに王陽明が何を訴えようとしていたのか耳を傾けてみる値打ちがあるのではなかろうか。 その際、マルクス主義のもう一つの認識論の特徴である弁証法的観点との整合性を見て取るほうが賢明ではなかろうか。かく構えて陽明学を検討していく時、陽明学が学としては自立させていないまでも弁証法的思考、認識の作法を踏まえていることが見えてくる。特に、社会変革的観点を色濃く持った回天思想を打ち立てていることが、むしろマルクス主義の変革の哲学としてのそれと妙に共鳴し合って良いハーモニーを奏でている様が聞こえてくる。 してみれば、智者とは、西洋の学としてのマルクス主義と東洋の学としての陽明学とをそれぞれの歴史的風土的学問的基盤において認識すること、且つ比較検討しうるならば新しい定規で評価していく必要を認めこれを能く為す者を云うのではなかろうか。それは至難なことではあるが、決して西洋の物差しだけで測るものではなかろう。そういうことだけが筆者には分かる。 なお、陽明没後の陽明学は、いくら朝廷が禁じてもなお明末までは盛んであった。但し、主流は朱子学派で、明朝時代の儒教は、科挙制度の門戸が広がるに応じて庶民の中にさらに広がっていった。 大地主が小作農を支配していく社会構造の変化が生じたが、儒教はこの際の統治術として利用されていくことになった。 明朝の巧みな宗教政策は、仏教、道教の改革も促していた。儒教、仏教、道教の三教をどう扱うかが中国思想の特質的営為であり、 「三教帰一」(三教は一つの流れよりおこったとするもの)」、「三教融合」、「三教帰儒」、「三教合一」等々様々な理論が生み出されている。思想史的に見て、ここに新たに陽明学が登場することになったことになる。ところが、明朝後の清朝期(西暦1616〜1912)に入ると陽明学と朱子学が折衷的になり、陽明学の勢いが失われていった。科挙制度が引き続き採用され、儒学そのものは公認国教化されていたが、近世の儒学の発展の流れを受け継ぐことなく、古に帰り「本来、孔子は何を説いたのか」の考証学へ回帰した。漢代の儒学を精密に資料検討し、孔子の思想を掘り起こそうとする運動であったが、字句解釈に明け暮れる等本末転倒傾向に陥ることにもなった。西洋思想と接触した清朝末期には「仁」思想が見直され、万民の平等と、それに基づく個人と社会の調和を図る儒学も出現したが、陽明学そのものは地下に伏した感があった。 陽明学はむしろ日本に影響を与え、江戸幕府は明朝と同じように朱子学を公認教学として擁護していたものの、その裏学問として地下水脈的に学問されていくことになった。かくて「陽明学が隠然と力を蓄えていった」。やがて明治維新を牽引するイデオロギーとして多大な影響を与えていくことになった。「陽明学という呼び名は明治日本以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される」とある(「陽明学(Translate into English)」)。 2012.3.14日 れんだいこ拝 |
【陽明学の天理思想とみき教理の天理思想とのすり合わせ考】 |
「陽明学思想とのすり合わせ」で最後に添えておかねばならないことは、陽明学の天理思想である。みき教理は天理を尊ぶが、天理と云う語彙そのものは陽明学の方が先行している。さほど指摘されていないが、このことはもっと注目されるべきであろう。陽明学上の天理と天理教の天理の意味合いの同一性と差異と云う観点からの考察も一興であろう。 例えば、陽明は次のように述べている。「聖人の聖なる所以(ゆえん)は、ただこれその心の天理に純(もっぱら)にして、人欲の雑(まじり)なきことにして、なほ精金の精なる所以は、ただその成色足りて、銅鉛の雑なきをもってなるが如し。人は天理に純なるに到れば、まさにこれ聖なり。金は足色(そくしょく)に到れば、まさにこれ精なり」(人皆可為聖人)、「純金はその色合いが完全で、銅や鉛のまざり気がないことにおいて、純金とされるのであり、同様に聖人はその心が天理に純一で、人欲のまざり気がないことにおいて、聖人なのである。聖人も純金も、問題はその質であって量ではない。一口に聖人といってもいろいろで、その才能力量にそれぞれ大小の差があることは、純金の目方にもそれぞれ軽重の差があることと同じである」。これによれば、陽明の天理は、天地の自然を貫く摂理の略的意味合いで使っていることが分かる。してみれば、みき教理に於ける天理と通底していることになろう。 これを時代的に見れば、陽明学の方がみき教理に先行する。してみれば、みき教理は天理なる語彙ないし思想を陽明学から学んだのだろうかと窺えば、そうでもないように思える。みき教理の天理は、日本在来の原日本思想から自ずと導き出された語彙にして思想であるように思われる。これを整合的に理解するとすれば、日本であろうと中国であろうと西欧その他であろうと、神慮に基づいて辿り着けば自ずと天理思想に至ると云うことではあるまいか。 2012.10.28日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)