イエスの御教えとのすり合わせ考

 (最新見直し2012.03.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「イエスの御教えとのすり合わせ」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


「西欧の男イエス、東洋の女みき」について】
 第三。「みき教理」を史上の他の同様なものと比較してみたい。第三の一「みき」を「西欧の男イエス、東洋の女みき」と位置づけ、イエスキリストと同じ視座で評したい。

【イエスの御教えとのすり合わせ考】
 これより、みき教理の世界史性について記す。その初めとして、ここでは「イエスの御教えとのすり合わせ」について確認する。

 みきの御教えとイエスのそれは興味深いほど通底している。共に共生的な助け合い思想を垂訓しており、筆者の眼には「西の男イエス、東の女みき」と言えるほど「二つ一つの御教え」のような気がしてならない。これについて説き明かす前に「れんだいこのイエス教論、キリスト教論考」を確認する。詳しくは以下のサイトに記している。

 「イエス教論・キリスト教論考」
 (jesukyo/)

 「イエス伝」
 (jesukyo/yesden/yesden.htm)

 イエスキリスト論は上記サイトを参照するとして、ここでは次の事を確認しておく。通常、イエスはキリストと称されキリスト教の開祖の位置にある。しかしながら、キリスト教はイエスの御教えを核として教義形成されていない。案外この点が知られていない。歴史的に伝わるキリスト教は、ユダヤ教の聖典を旧約聖書、イエスキリストの御教えを綴ったマタイ福音書、マルコによる福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、その他福音書の5系の福音書を新約聖書として他に使徒行伝、使徒書簡、黙示録その他教説で教義構成されている。筆者は、こういうキリスト教の構成に疑問を抱いている。そもそもイエスの出自はユダヤ人ではない。正しくはガリラヤ地方の非ユダヤ人として捉えられなければならない。キリスト教の不正はこの辺りから糺さねばならない。福音書を読み解くのにイエスの両親は敬虔な信仰者であり、イエスもそういう両親の庇護の下で早熟の宗教的教育を受けていたと思われる。この当時はユダヤ教の聖典即ちキリスト教の云うところの旧約聖書が確立されつつあった頃で、信仰者はそれとの対話が必須であった。当然、イエスもこれを学んだことは疑いない。そういう意味で、文化圏的にはユダヤ教世界にあるが、イエスはユダヤ人としてはみなされないガリラヤ地方の人である。

 問題は、イエスが洗礼派ヨハネ教団から自立してイエス教を開教した時、今日のキリスト教が教義編成しているような形でユダヤ教聖書(旧約聖書)を取り込んでいないところにある。イエスの御教えが旧約聖書を受容的に触れることは殆どない。もし宣べているくだりがあるとすれば、主としてユダヤ教パリサイ派との論争に於いて、彼らが信仰する教義の基本としているユダヤ教聖書に照らしてみても、パリサイ派の理解が如何に変質的理解のものであるかを説き明かす意味で反論的に借用しているのが殆どである。イエスがユダヤ教聖書に精通しているのは事実であるが、その意義を認め聖書として学ぶべしとしている痕跡は不思議なほど見当たらない。そもそもイエスが単独なのか複数なのか定かではないが、これがイエスに共通した姿勢である。

 そういう意味で、イエス没後のキリスト教確立に於いて、その教義を前述の如くな三部構成したところにそもそもの間違いが認められる。正しくは、イエス御教え聖書、福音書、使徒行伝、使徒書簡、黙示録その他教説で構成すべきであり、ユダヤ教聖典を旧約聖書、イエス御教えを新約聖書として識別する形で旧約聖書を冒頭で扱うのは意図的故意の不正と知るべきだろう。この構成により、キリスト教徒はまず旧約聖書から学ぶことが躾られているが、本来はユダヤ教聖書はあくまで参考資料的に付されるものでしかない形で扱われるべきである。筆者はかく了解している。

 そういう意味で、イエスの御教えはイエス教として確立されるべきであった。それがキリスト教として確立されたのは、イエス没後のイエス教生成期の営為に於いて、福音書筆記者がほぼ共通してユダヤ教徒ラビ出自の者であったことから、彼らがイエス教をイエス教として理解できず自ずと思考慣れしているユダヤ教式に理解したからに他ならない。その際、ユダヤ教教義のなかにあるキリスト論が核になり、イエスこそキリストの再臨に他ならないとする視点から教義形成することになった。こうしてイエス教はユダヤ教の分派式に体裁がづくられ、キリスト教として確立されることになった。しかし、本来は、イエスの御教えは断じてユダヤ―キリスト教式に於いてではなくあくまでイエス教として確立されるべきであった。

 なぜこのことに拘るかと云うと、イエスの御教えは、ユダヤ教教義そのものと親和せず、新たな、と云うかユダヤ教教義そのものに対抗的な別系の信仰論を唱えていると思えるからである。そのユダヤ教教義そのものに対抗的な別系の信仰論であることによってイエスの値打ちがあると思えるからである。故に、ユダヤ教教義の範疇からイエスを捉えようとする目論みの一切が虚妄である。イエスはイエス教の開祖として評されるべきであった。

 それを思えば、史上に立ち現われたキリスト教内にあって旧約聖書を重視し、旧約聖書の独自的な解釈によりキリスト教内別派を立ち上げるなどはナンセンスな話であって、イエス教の見地からすると何の意味もない企てに過ぎない。そういうものはむしろユダヤ教内別派として位置づけられねばならないべきものである。この辺りキリスト教の根本的な理解の差によって徒な混乱が引き起こされていると考える。

 当然、イエス没後のキリスト教形成、その後のキリスト教史はイエスの御教えに忠実でなく、ユダヤ教的思惟様式の下にイエスの御教えの片言隻句を採り入れたものに過ぎないからキリスト教史そのものが虚妄である。これをいくら忠実に学んでもイエスの思惟様式に辿り着けない。イエスの思惟様式に辿り着くには、もはやキリスト教的改革に於いてではなくイエス教の復元として再構築されねばならない。これが筆者のキリスト教論である。

【イエスの「山上の垂訓」考】
 それでは、イエスの御教えをどう復元すべきか。ここで、イエスの御教えを確認しておく。その白眉が「山上の垂訓」であるのでこれを確認する。新約聖書の各福音書はそれぞれ異なった記述をしている。これをより詳しく述べれば、 マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝がそれぞれの「イエスの垂訓」を記しており、ヨハネ伝には該当記述がない。ヨハネ伝にないと云うことはヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。その理由につき、筆者は、他の三書がイエス教の立場から記述するのは望めず、せめてキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを理解せんとしている違いと見立てたい。史上に立ち現われたキリスト教内の新派がヨハネ伝を高く評価する所以は、それらが本質的にユダヤ教内別派的に立ちあげられている故にと窺う。としてここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。

 ところで、「山上の垂訓」を記す三福音書には見逃せない記述の違いが認められる。これを解析すると、マルコ伝の場合は「湖畔の垂訓」となっている。マタイ伝、ルカ伝が「山上の垂訓」と記している。但し、マタイ伝、ルカ伝にも違いが認められる。マタイ伝の場合には12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっている。そういう違いはあるが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。

 問題は次のことにある。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差もあり却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。今日の如く録音機のない時代であることにもよるが、筆者は、いずれの記述もイエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「イエスの御教え」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。

 例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『能なし』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。これにつき、イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を間違っても云う事はなかろう。にも拘わらず、この種の捏造文がこの後も続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として本当は次のように述べたのではなかろうかと推定する必要がある。そういう訳で、以下の「イエスの御教え」は、筆者が真実は概要次のように宣べられたのではなかろうかと意訳推定し「れんだいこ文『山上の垂訓』」として纏めることにする。その際には、マタイ伝の「山上の垂訓」を基調とした。原文から当りたいが今は叶わぬ。留意点として、イエス教義の確認の為に「山上の垂訓」的教理として他の個所でのイエスの御言葉をも挿入した。

 「れんだいこ文『イエスの教義考、山上の垂訓』考
 (jesukyo/yesden/hosoku_suikun.htm)
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒していただいた。群衆は皆な何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。イエスは、求める人々に一通りの癒しの御技を施した後、目を上げ、弟子たちを見てこう宣べられた。

 「貧しい人々は幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれているのです。嘆き悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は地の肥やしです。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は憐れみを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。

 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなた方には天において大きな報いがあります。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害され、天の国で癒されました。あなた方は地の塩です。地に塩気がなくなれば、何によって塩味が付けられましょう。あなた方は世の光です。山の上にある町は四方に光りを灯します。灯火(ともし火)を升の下に置く者はいません。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らします。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々は、あなた方の行いを見て、あなた方に続きます。

 私の教えが律法や預言を破棄せんとしていると思ってはいけません。私は、破棄するのではなく、律法や預言者の御言葉が指し示していることを成就しようとしているのです。はっきり言っておきます。天地が消えうせない限り、律法や御言葉の文字が一点一画もすたれることはありません。律法学者やパリサイ派の人々は、これらを捻じ曲げています。このことに気づくべきです。本当の信仰の義が、私と律法学者やパリサイ派のどちらにあるのかをはっきりさせねばなりません。詰まるところ、あなた方の信仰の義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさらなければなりません。これが叶わない限り本当の信仰が生まれず、邪な信仰の下ではあなた方は決して天の御国に入ることができません。

 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださります。この愛を学びなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではありません。嫌われ者の徴税人でも同じことをしています。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、優れたことをしたことにはなりません。異邦人でさえ同じことをしています。あなた方は、あなた方の天の父が為されているように全ての人に慈愛を注ぎなさい。これが私達の信仰の基本になるべきです。

 人に見せる為に人前で善行をするようなことをしないように気をつけなさい。天の父は、そういう善行を受け取りません。天の父の報いをいただけないことになります。あなたが施しをするときには、偽善者たちが会堂や街角でするような、注目を得る為のラッパを吹き鳴らしてはなりません。あなた方に言っておきます。彼らは既に地上で報いを受けており、それ以上の報いを受取ることはできません。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはなりません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が働き、あなたに報いてくださります。祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはなりません。

 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがります。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい。隠れたことを見ておられるあなたの父が働いてくださります。そこでこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。

 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはなりません。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうとして顔を見苦しくします。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。あなた方は地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりします。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともありません。あなたの心に富を積みなさい。体のともし火は目に表われます。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るく、濁っていれば暗くなります。あなたの中にある光が消えれるに応じて暗くなります。体のともし火を輝かしなさい。

 神を取るか富を取るか。誰も二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。あなた方は、神と富の両方に仕えることはできません。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩まないようにしなさい。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切です。パリサイ派は、これを逆にしています。パリサイ派の信仰に染まってはなりません。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。それでも、あなた方の天の父は鳥を養ってくださります。あなた方は、鳥よりも優れたものではないですか。思い悩んだからといって、あなた方の寿命をわずかでも延ばすことを誰ができましょう。なぜ衣服のことで思い悩むのでしょう。野の花がどのように育つのか、注意して御覧なさい。働きもせず、紡ぎもしません。言っておきますが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださります。まして、あなた方にはなおさらのことではないですか。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む必要がありません。それらは皆、神の義の信仰に疎い者達が切に求めているものです。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じです。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられます。だから、明日のことまで思い悩む必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩みます。その日の苦労は、その日だけで十分です。

 私の言葉を聞いているあなたがたに言っておきます。あなた方を苦しめる者を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう片方の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。無用の争いを避ける為です。人の過ちを過度に懲らしめてはなりません。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになります。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。人を罰するよりも、あなた方が人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。その方が神の御心に叶います。あなた方の敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となることができます。

 パリサイ派がけしかける仕返し、報復の道を好んではなりません。それは無限連鎖を招きます。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い人になりなさい。安易に人を裁いてはなりません。あなた方も裁かれないようにするためです。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られることになります。あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのでしょう。自分の目に丸太(梁)を付けたまま、兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えましょう。我が身を弁えず人の粗を捜す人たちは偽善者です。云っておきますが、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からもオガ屑を取り除くことができるでしょう。

 求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。門をたたきなさい。そうすれば、開かれます。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれます。何事でも、してもらいたいと思うことを人に施しなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄です。あなた方に云っておきます。この狭き門から入りなさい。広き門、広々とした道は滅びの道です。命に通じる門は狭く、道は細く狭い。この道を見いだす者は稀です。

 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところにやって来ます。その人たちの心の内側は貪欲な狼です。正しいか正しくないかは、口先ではなく実を見れば分かります。実を結ぶ事があっても、茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。口先を見分けるのではなく実を見分けなさい。万事良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出します。

 人の口は、心通りのものをあふれ出し語ります。口先の偽善の信仰は受取られません。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではありません。天の父の御心を行う者だけが入ることができるのです。かの日には、大勢の者が、『主よ、主よ、私たちは御名を唱え、預言を守り、神の御業の奇跡を信仰の杖にして参りました』と篤信家ぶります。私はきっぱりとこう告げておきます。『神の御名を唱えながら神を汚し、不法を働いてきた似非信心者どもよ、あなた方は天の国に入ることはできません。早々に立ち去りなさい』。

 ここまで分かったなら、あなた方は種蒔く人になりなさい。種を蒔く人は神の言葉を蒔くのです。道端の信仰は、御言葉が蒔かれ、それを聞いても、サタンが来るや、蒔かれた御言葉を奪い去られてしまいます。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ちました。そこは土が浅いのですぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいました。石だらけの所に蒔かれる信仰は、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れますが、しばらくは続いても根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。ほかの種は茨の中に落ちました。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結びませんでした。茨の中に蒔かれる信仰は、御言葉を聞けども、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いでしまい実りません。ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。信仰とはそういうものです。

 私のこれらの言葉を聞いてそのままに行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。岩を土台としてしっかりとした基礎を立てているからです。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい」。

 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、律法学者たちの教えと違って、イエスの教えこそ本当の神の教えであることに感銘したからである。

 上記の「山上の垂訓」からイエスの御教えの骨格が見えて来る。イエスの御教えは、洗礼派ヨハネ教団の教えを更に磨いて練っており、ヨハネと同じく時のユダヤ教の信仰の在り方、思想、論調を徹底的に批判している。信仰の内面性を重視し、教義に対する忠実さを求めており、一種の宗教革命を呼びかけている。非常に多岐にわたって論を展開しており、巧みに例えを使って諭しており、名言にちりばめられている。その論旨を要点整理すると、総論と各論に識別できる。総論は、1・特にパリサイ派体制派の信仰批判、2・真の信仰の義の称揚、3・「愛の哲学を諸事作法とせよ」の三観点を説いていることが判明する。その上で、パリサイ派の虚礼挙式、教義上の虚偽詐術、強欲、蓄財主義、残忍、報復主義等々を鋭く批判している。同じ神信仰でありながら、その昔よりパリサイ派系とイエス系のそれは相容れぬ真反対のそれであることが判明する。この二股分岐は現代にも続いているように思われる。ここにイエス教考察の意義がある。「山上の垂訓」をイエス教の教義篇と位置づけることができる。そうすると「イエスの12使徒に対する指導考」は実践篇であり、「イエス派のイスラエル神殿乗り込み時の論争」は論駁篇となる。

 イエスの教義総論を逐次確認しておく。その前に、イエスが批判して止まなかったユダヤ教内部の構成を確認しておく。当時、ユダヤ教内は、ユダヤ教学及びエルサレム神殿の宗教儀式執行権を廻って、主としてエッセネ派、サドカイ派、パリサイ派が権力闘争していた。いわば、「古ユダヤ教内の主流三派の宗義闘争」と理解することができる。三派の教義的違いを確認しておくと、エッセネ派は、紀元前250年にインド皇帝アショカ王が派遣した宣教師によって伝えられた仏教と思想的に親交している面があり、サドカイ派とパリサイ派の権力闘争から離れたところに位置し、俗界からの分離を極限まで押し進めた。紀元前100年頃から荒れ野に住み、死海のほとりのクムランと呼ばれる洞窟僧院を拠点にして、モーゼの律法を厳格に守って生活していた。エルサレム神殿を支配する聖職者達を堕落し汚れた人々と批判し、私有財産否定の共同生活の中で厳格な窮乏生活をしていた。グノーシス(知識)を温故知新させ、律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループであった。清め、汚れの掟に忠実だった彼らは、一日に何回も水浴を儀礼的に行っていた。「動物の犠牲」の代わりに「唇の犠牲」を唱え、祈り、瞑想、聖書の学習を重視していた。後のクムラン洞窟に隠遁したクムラン教団がこの派に属する。星を読み、未来を予測し、医術に長け治療を行ったともされ、近い終末に備えようとしていたとされる。紀元68年、対ローマ反乱に加わり鎮圧された。その後離散を余儀なくされるという悲劇的終末を迎える。現在、クムランの修道院に近い洞窟に隠されていた壷の底から「死海文書」が発見されている。いわばユダヤ教古義学派の位置に立っているように思われる。


 
このエッセネ派に比べれば、サドカイ派、パリサイ派はより権力的であった。但し、現世的権力的に於いては共通しているサドカイ派、パリサイ派間には大きな違いがあった。サドカイ派は、伝統的な宗教儀式を継承している祭司の一族であり、レビ族のサドクを祖としている。モーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典を重視する学究派であり、概略「復活とか天使とか霊とかは一切存在しない」とする教義学を形成していたようである。分かり易く云えば、伝統墨守型の保守派に位置していたことになる。イエスの時代、大祭司のカヤバがサドカイ派を主宰しており、ローマ帝国との二元支配により権勢を振るっていた。

 これに対して、パリサイ派は今日的な政治学用語で云えば急進主義的な革新派であった。パリサイ派は、伝統的なモーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典よりも、ユダヤ人の口伝律法の集成であるタルムードを重視し、ラビの言葉を重視した。サドカイ派に対して、「復活も天使も霊もそれらのいずれをも認めていた」。分かり易く云えば、教義を徐々に変化する世の中に合わせて改変創造する改革派に位置していたことになる。故に、パリサイ派にあっては状況適応力こそが重要になり、事実パリサイ派によってタルムードが熱心に編纂されていくことになる。ちなみに、パリサイとは、分離を意味しており、それはペルシャ、ギリシャの相次ぐ異邦人支配に抗して同化拒否の姿勢を意味していた。彼らは、ユダヤ民族の威厳を護りつつユダヤ人独特の伝統的作法を維持しつつ移り行く世の中に親和させようと営為していた。その限りで民衆的支持を受けていた。

 サドカイ派とパリサイ派は、律法や教義を廻るこうした様々な相違のほかにも、占領者ローマに対する態度の違いによっても対立していた。具体的には不明であるが、サドカイ派はエルサレムを支配していた祭司長勢力であるからして既得権保護の為にローマ支配と妥協傾向があった。パリサイ派は新興勢力であり、ローマ支配と経済的に協力しつつも抵抗的な地下運動を助長していた。そういう違いが認められる。

 ヨハネ、イエスは、この三派と一線を画す新派として登場することになる。結果的に、フェチ的とも云えるユダヤ民族優越式教義形成に向けて台頭しつつあったパリサイ派に対して、ヨハネがこれに異を唱え、続いてイエスがこれを厳しく批判していくことになる。それは、パリサイ派が時の権力者、富める者の側に立ってユダヤ教義を改変しつつあり、しかも聖なる宗教を俗の論理で席巻しつつあったことによる、その批判であったと拝察し得るように思われる。

 そういう状況にあるユダヤ教に対して、イエスは彼らの信仰実態を次のように批判している。これを仮に「総論1、神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)即ち体制派の信仰実態批判」とする。イエスは、ヨハネ教義を継承して次の御言葉から説き起こしている。「信仰心篤くして欲すれども喜捨を為し得ない貧しき者は幸いである、天国は彼らのものである」(マタイ伝5章1−3節)。イエスは、ヨハネの言葉を語ることにより、ヨハネの信仰を受け継ぐ者であるとの立場を鮮明にしている。通常、単に「貧しき者は」と訳されているが意味曖昧になり易い。筆者は、その意味をより鮮明にする為に「信仰心篤くして欲すれども喜捨を為し得ない貧しき者は」と意訳した。後の言葉との辛みで、こう訳す方が適切と思われる。イエスは以下、神殿本部派の説く教義を全面否定し、諄々と新しい道を説いている。イエス教義はここに歴史的意義が認められる。

 次に、イエスは、神の御業を畏敬し、その偉業を信奉するよう宣べ、信仰に於ける真の信仰の意義を次のように称揚している。これを仮に「総論2、全知全能の神の御業(技)を知れ。真の信仰の義の称揚」とする。「『神にできないことは何一つない』。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これも間接的な本部神殿派批判であり、「偉ぶり、権力ある者にして、富める者」達による特権的信仰の在り方そのものを衝いている。イエスの批判の鋭さをそのまま窺うべきであろう。

 次に、イエスは、「この世で一番大事なものは愛である。人は須らく愛で応接せよ」と宣べ、全てを癒す新しい思想として次のように「相互博愛主義」を諭している。これを仮に「総論3、愛の哲学を諸事作法とせよ」とする。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。イエスは、パリサイ派教義のように人の罪を裁くのではなく、「あなたの罪は赦された。悔い改めよ」と宣べ、今後の生き方、心の持ち方を重視した。逆に言えば、神殿本部教義派の「今後の生き方、心の持ち方を問わない非信仰的政治的懲罰主義」を批判したことになる。その上で、その対案として相互博愛主義を諭した。この理を単に受け取るのではなく、本部神殿派の教理に濃厚なユダヤ教式報復主義教理に対する鋭い批判であり、それに代わる新テーゼの提起であったとして拝さねばならないであろう。

 以上を総論とすれば、各論的には次のように宣べている。以下、イエスの教義を各論毎に仕分けして整理してみる。

 イエスは、「神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)即ち体制派の信仰実態批判」として次のように宣べられている。意訳概要「彼らは宮殿で、しなやかな長い服、華やかな衣を着て歩き回りたがり、人目につくことを好み、広場で挨拶したがる。会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしながらぜいたくに暮らしている。彼らは義の人を自認して品行方正を嘯(うそぶ)き、他方で人を見下げている。こういう人たちは、『見ても見えず、聞いても理解できない』人たちである」、「イザヤの預言はかく述べている。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない』。彼らの行状はここに戒められている通りのものである」、「律法学者、パリサイ派の人たちは、イザヤの預言そのままを実現している。彼らは御言葉を聞くが、世俗的な思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。そういう者達が権勢を振るっている現在は、神に背いた罪深い時代である。このような者たちは、裁きの日には人一倍厳しい裁きを受けることになる」。

 この御言葉に対して、キリスト教団は次のように評している。概要「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。これがキリスト教の一般的受け取りようであるが何と味気ないことだろう。イエスは、ここではっきりとヨハネ以来の信仰の内面性重視を踏襲する立場から、神殿本部派の制度主義、それによる聖なる信仰世界に於ける俗化の持込みを直截的に厳しく批判している。この指摘を拝さねばならない。ここは一般的に盲拝する箇所ではなかろう。

 詰まるところとしてイエスは云う。概要「律法学者やパリサイ派に屈してはならず、願うらくは、信仰者としてのその義は律法学者やパリサイ派の義にまさっていなければならない。彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。「神の国」思想に添い、神の御心に適うその義を求める生き方をせよ。現世的な貪欲な権勢者こそ最も神の御心に適わない。彼らの生き方は排斥されるべきである。それに比して、生活苦にあえいでいる人のほうが生き方としては神の御心に適っている。人は、素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある。祈れ。異邦人の信仰は現世利益的である。彼らのまねをしてはならない。二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。他力信仰で神の御心に添い合わせ。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ。寿命をわずかでも延ばすことができない」。これを仮に「各論1、ニセ信仰批判」と命名する。

 イエスは、「御教えの原義に立ち戻れ」として次のように宣べられている。「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである」。イエスはここで、興味深い立場を明らかにしている。律法や預言の否定の立場からの神殿本部派批判ではなく、律法や預言の成就の為に神殿本部派批判している。これによれば、イエスは、律法や預言の正しき実践を求道する側にいることが判明する。この御言葉がイエスのそのままの言であるかどうかは分からない。筆者は、イエスの御言葉の実際はやや違う表現であったと窺うが確かめようがない。例えば、次のように云ったのではなかろうか。「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、本当の信仰の義を成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、本当の信仰の義の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである」。これを仮に「各論2、御教えの原義に立ち戻れ」と命名する。

 イエスは次に、当時のイスラエルの神殿本部教義派により「神の義信仰」が形骸化されており、その活動が御教えの反対物に転化していることを批判し、「神の義信仰に忠実なれ。神の御心に適うその義を求める生き方をせよ」と宣べている。この限りで、イエスは「神の義思想原理派」の立場に立っていることが判明する。イエスは、「神の義の信仰に忠実なれ」として次のように宣べられている。「肉体の罪は良くない。しかし、心の罪はもっと良くない。故に、神の義に忠実な信仰でなければならない」。イエスは、神殿本部派特にパリサイ派の1・フェチ的独善主義、2・自己宣伝癖、3・無慈悲な律法主義、4・護符の権威化と商売的利用、5・信仰の表裏性と卑劣性、6・小事に拘り大事を免責にする得手勝手性、7.世の日陰者や生活困窮に起因する下層民の行状に対する容赦ない侮蔑、8、報復主義、9・メシア再臨信仰の捻じ曲げ等々を痛烈に批判している。通説は「神の国信仰」と訳しているが、「神の義信仰」とすべきであろう。これを仮に「各論3、神の義信仰に忠実なれ」と命名する。

 イエスは、「神の御心に適う基準」として、「財物拝跪、蓄財拝金、権力的威勢主義」こそ最も神の御心に適わない」と宣べ、次のように諭している。「富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。人は神と富との両方に仕えることは両立しない」、概要「オマンマ稼業を貪るよりは何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。これもまた神殿本部派特にパリサイ派の信仰俗化ぶりに対する痛烈な批判となっており、「今後の生き方、心の持ち方」を問わない非信仰的世俗的拝金主義からの転換を指針させたことになる。特に、パリサイ派教義に濃厚な蓄財主義を強く批判していることになる。パリサイ派の蓄財主義はその後も続き、今日的には国際金融資本帝国主義と規定される巨富を形成している。その頭目がロスチャイルド財閥とすれば、これに対する批判にもなろう。つまり、イエスの憂いの御言葉は今も生きていることになる。これを仮に「各論4、財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢を排せ」と命名する。

 イエスは、「暮らしの中に神の義を求めよ」と宣べ、次のように諭している。意訳概要「人は誰しも生きるためにパンを求めざるを得ない。しかしながら、オマンマ稼業に勤しむとしてもこれを自己目的としてはいけない。オマンマ稼業の生業(なりわい)の内に神の国と神の義を求める生活に向わねばならない。御教えに反するような生業、生業の為の生業は異邦人のそれであって、我々の求める生活ではない」(生活の糧をバンという言葉で表現している。ここではパンの延長の意味するものを仮に「オマンマ稼業」とする)、意訳概要「人はパンのみにて生きるにあらず。御教えに従ってパンを食べ、御教えを血とする者は永遠に生きる。その人は神の元に居り、神もまたその人の中に居る。私の教えは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。このことを信じない者も居る。しかし、これが真理であり、世を生かす道である」。これもまた神殿本部派特にパリサイ派の生活と信仰が背反している信仰ぶりに対する痛烈な批判であった、と拝するべきであろう。これを仮に「各論5、暮らしの中に神の義を求めよ」と命名する。

 イエスは、「人の心の持ち方」について「心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない」と宣べ、次のように諭している。概要「素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある」、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。そう拝すべきだろう。これを仮に「各論6、心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない」と命名する。このことに関連して、イエスは、パリサイ派の信仰に対して次のように批判している。「あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側を清めるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで一杯である。盲目なるパリサイ人よ、まづ杯の内側を清めなさい。そうすれば外側も清くなるだろう」。神殿本部派特にパリサイ派の信仰にある偽善を見つめるイエスの眼にはかく鋭いものがあった。

 イエスは、「因果応報の理を知れ」として次のように宣べている。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かれる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。「一粒万倍の理」を次のように宣べている(マタイ伝4・18−20)。「ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは三十倍、あるものは六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。これを仮に「各論7、因果応報の理を知れ」と命名する。

 イエスは、「報復に代わるに愛の思想を打ちたてよ」として次のように宣べている。「汝の敵を愛し、憎む者に親切で報いよ。悪口を言う者、侮辱する者に祈りで応ぜよ。『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも差し出しなさい』。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。 これを仮に「各論8、報復の論理を捨て愛の思想を打ちたてよ」と命名する。

 イエスは、「人を裁くな、むしろ許せ」として次のように宣べている。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。裁けば裁かれる。好んで人に罪を被せることは止めなさい。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。これを解するのに、「うわべだけ祈るのをやめ、神の道に適う正しい信仰をしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。これを仮に「各論9、人を裁くな。許せ」と命名する。

 イエスは、「祈りが信仰生活の第一歩である」と宣べ、次のように諭している。意訳概要「我々の為すべきは祈りである。但し、祈りは、異邦人の信仰の如く現世利益的であってはならない。彼らのまねをしてはならない。ひたむきに全知全能の神の御心に他力本願信仰で添い合わせなさい。それは眼を見れば分かる。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ」。具体的な祈り方として次のように宣べられている。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください』。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。 これを仮に「各論10、祈りが信仰生活の第一歩である」と命名する。

 イエスは、「信仰基盤を確固としたところに確立せよ」と宣べ、次のように諭している。「私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどい」。これは、「何事も基礎が大事であり、見せ掛けは良くない」と一般化できる御教えであろう。これを仮に「各論11、信仰基盤を確固としたところに確立せよ」と命名する。

 イエスは、「主体的に生きよ」と宣べ、次のように諭している。概要「求めよ。そうすれば、与えられん。探せよ。そうすれば、見つかられよう。門をたたけ。そうすれば、開かれよう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ本来の律法と預言者の御教えである。狭き門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。これは批評的な御教えであろう。文句が特に秀逸である。これを仮に「各論12、主体的に生きよ」と命名する。

 イエスは、「種蒔く人になれ」と宣べ、次のように諭している。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くことに例えられる。悪い土地に蒔かれた種はなかなか育たない。困難に打ち勝てない。サタンに誘惑され邪魔される。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶ」。この意味が釈然としない弟子たちに次のように諭している。「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。

 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、よく悟り、忍耐して実を結ぶ人たちである。ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。これは運動実践上の要諦に関する御教えであろう。 これを仮に「各論13、種蒔く人になれ」と命名する。

 イエスは、「信仰は修行の道である」と宣べ、次のように諭している。概要「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。耳のある者は聞きなさい。信仰もまた同じである。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」、「知恵の正しさは、その働きによって、それに従うすべての人によって証明される」。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。これを仮に「各論14、信仰は修行の道である」と命名する。

 以上、イエス教義の骨格を確認したが、「イエスの御教え」にはもう一つ欠かせないものがあるので、これを確認しておく。「悪魔思想の誘惑に負けれるな、闘え」と宣べ、次のように諭している。「不法を働く者ども、私から離れ去れ」云々。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。これを仮に「各論15、悪魔思想の誘惑に負けれるな、闘え」と命名する。これにつき「イエスの荒野問答」があるので、これを確認しておく。

 イエスがヨハネの洗礼を受け、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入り、やがてヨハネ教団を出て自立した頃のこと、 40日40夜に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「悪魔との思想問答」をしており、かなり重要な内容を伝えている。伝えられる遣り取りは次のくだりである。

 その一、「神の義を求めよ」の件(くだり)である。次のように宣べている。概要「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである」。その二、「悪魔の囁き峻拒」の件(くだり)である。悪魔がイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と云った。それに対し、イエスは次のように応答している。 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである」。その三、「神のご加護の試し」の件(くだり)である。悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて云った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。イエスは次のように応答している。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。かくて、悪魔はあらゆる誘惑を試みたがイエスは動じなかった。悪魔はイエスから離れた。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

 この問答が何故に重要であるのか。それは、ここでいう「悪魔」とは例えであり、実際には、頭角を現し始めていた宗教界の新鋭イエスに対するユダヤ教パリサイ派の秘密結社陰謀団体を指していると思われることにある。「イエスの荒野問答」とは、秘密結社陰謀団体の使者による甘言誘惑を廻るイエスの返答であり、そのやり取りを指していると解することができる。筆者は、実際にそういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうかと拝察する。となると、これは今日的な問題でもあることになる。では、どのような「囁き」がなされたのであろうか、これを解析しておく。

 その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、彼らの秘密結社への仲間入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。そして、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである」と補足した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「秘密結社入りすることでそこに幾ら諸々の利益が保証されようとも、その道は神の義にそぐわない」として、「甘言による利益を餌に心を売る気はない」と峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することができる。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、パンの為に心を売ってはならず神の義に生きねばならない、と分別したことになる。イエスは、本部神殿派の「教団本部の聖壇に座しながら物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、「神の義を求める生活」を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、本部神殿派の秘密結社は更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世(地位名誉)、栄耀栄華(金)、時の権力を約束しようと囁いた。この申し出に対し、イエスはこれを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。それが如何なる不利益を蒙る道になろうとも。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである」。これがイエスの返歌であった。つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力の甘言を拒否」したところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けない、閉ざされると脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試しをしてみよ」と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要はなく、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。

 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。心を売らずひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立を範示したことになる。実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。

 その後のイエス教からキリスト教への転換に当り、「イエスの悪魔との荒野問答」の重要性が抜け落ちた。筆者は、それは意図的にそうさせられたと思っている。キリスト教徒に於いて「イエス・キリスト教の原義に帰る」とは、この「元一日」に帰ることを意味する。実際にはそのようになっていない。筆者は、「イエスの悪魔との荒野問答」を教義に取り込むかどうかがリトマス試験紙になっていると解している。イエス教義の白眉さは次のことにあると思われる。その1は、この「イエスの悪魔との荒野問答」である。その2は、「山上の垂訓」である。その3は、エルサレム神殿乗り込み時の神殿派及びパリサイ派との教義問答である。その4は、十字架上の磔刑死の経緯である。これを学ぶ事がイエス教であるところ、キリスト教は肝心要のこの事歴の意義をぼかし、さして重要でもない奇蹟信仰へ変質せしめている。ここにイエス教の変質と不幸があるのではなかろうか。

 もとへ。イエスは、「陰謀に与するな。悪事は露見する」として、次のように宣べられている。(マタイ伝4・19−23)「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠されているものは何でも、露(あら)わにならないものはなく、秘密にされていることは必ずや明らかにされる。聞く耳のある者は聞くが良い。(For whatever is hidden is meant to be disclosed, and whatever is concealed is meant to be brought out into the open. If anyone has ears to hear, let him hear.")聞く耳のある者は聞きなさい」。これを仮に「各論16、陰謀に与するな」と命名する。 

 イエスは、「偽預言者を警戒せよ」と宣べ、次のように諭している。 「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。これを仮に「各論17、偽預言者を警戒せよ」と命名する。

 イエスは、「律法学者やパリサイ派の教えは背教である。彼らの言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし」と宣べ、次のように諭している。意訳概要「律法学者やパリサイ派は、神の御心に適わない財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢を正当化するイデオローグである。彼らの言に屈してはならない。この問題では、我々は、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。イエスの教えを採るのか、律法学者やパリサイ派の論法に屈するのか、はっきりせよ。盲人が盲人の道案内をすれば二人とも穴に落ちむであろう。律法学者やパリサイ派の論法は盲人の道である。これに付き従ってはならない」。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。 これを仮に「各論18、背教の言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし」と命名する。

 イエスは、「願うらくは、信仰者としてのその義は、論理、思想、理論において、律法学者やパリサイ派に勝らねばならない」と宣べ、次のように諭している。概要「彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。律法学者やパリサイ派は、人の目にあるオガ屑は見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるオガ屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるオガ屑を取り除くことができる。そういう類の彼らの義に対して、我々の義がまさらなければならない」。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。これを仮に「各論19、願うらくは、論理、思想、理論において律法学者やパリサイ派に打ち勝て」と命名する。

 イエスは、「私が雛形を示す」と宣べ、次のように諭している。 概要「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として私の弟子ではありえない」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。 これを仮に「各論20、私が雛形を示す」と命名する。 

 イエスは、「迫害に屈するな」と宣べ、次のように諭している。 概要「神の国思想原理派として歩むことは、ヨハネにせよ私の教義にせよ、イスラエル神殿派の権力、時代的風潮の利益に反することになるから迫害される。信仰者故に迫害されても怯むな。神の御心に適う生き方をした為に迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられたとしても悲しむな、むしろ喜べ。地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る」。 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。かく叱咤激励している。これを仮に「各論21、迫害に屈するな」と命名する。

 イエスは、「世の終わりの日の裁き」について、信仰の例え話として「種まき論」、「真珠論」を披露しつつ次のように宣べ諭している。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子である。毒麦の背後には悪魔が潜む。刈り入れの時、それは信仰上世の終わりの時に例えられるが、天使達が刈り入れする。天使達は、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを燃え盛る炉の中に投げ込み識別する。真珠も同様で網の中に入れられる。良いものは器に入れられ、悪いものは投げ捨てられる。世の終わりにもそうなる。天使達が、正しい者と悪い者どもをより分け識別する。天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。これはイエス教義の内容に関わっている。これを仮に「各論22、世の終わりの日の裁きについて」と命名する。

 イエスは、「救済」について次のように宣べている。「詩編にはこう書いてある。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』主の名を呼び求める者は皆、救われる』」(「使徒言行録」)。これもイエス教義の内容に関わっている。 これを仮に「各論23、救済について」と命名する。


 2012.3.14日 れんだいこ拝

 さて、以上、イエスの御教えを確認した。イエスの御教え中山みきの御教えは随所で通底していることが分かる。共に目指したのが共生的な助け合い思想であり、それはユダヤ教教義の選民主義思想と鋭く対立している。そもそもの始発に於いて、イエスは、ユダヤの民のみを神と選民契した特別の民とするユダヤ教の信仰形式を受け入れない。イエスは、ユダヤの民を選民、その他の部族の民をゴイムとして人間以下的に動物視する排他的な選民主義を批判し続けており、神の前での諸部族の対等平等性即ち博愛主義を強調している。その教義には選民主義の入り込む余地はない。曰く「汝の隣人を愛せ」。中山みきの御教えの核となる「元の理」でも、創造主は人類一列皆兄弟的に誕生しており、この点でもイエスの御教えと中山みきの御教えは通底している。

 自然摂理に対する聞き分けと順応にも似たような教説を残している。両者とも自然摂理の理法に対する聞き分けを諭しているが、これは「地に満ち、自然を支配せよ」と命言して自然を征服せんとするユダヤ教義と対照的である。イエスの自然摂理受容に対して興味深い伝承が残されている。或る説によれば、インドへ出向き仏教を修得したと云われている。或る説によれば、日本に来日し東北の日高見国で日本精神を学んだと云われている。その真偽はともかく、そういう説話が生まれるようにイエスの御教えが非ユダヤ思想的親東洋思想的な輪廻摂理観を濃厚にしているのは確かである。

 ユダヤ教的な蓄財観に対する批判についても両者は一致している。イエスは、「富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。人は神と富との両方に仕えることは両立しない」、「明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と云い、みきも「貧に落ち切れ」から始まる一連の諭しの中で、財物執着が諸病の源であるとして私有的な財産に執着する様に警句している。「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」、「病のもとは心から。案じる心が身上になるのやで」。更に「八つの埃論」で心の持ち方を諭している。「八つの埃」とは、「惜しい、欲しい、可愛い、欲、高慢、続いて憎い、恨み、腹立ち」。これに「嘘と追従これあかん」が付け加わる。

 ユダヤ教的な報復主義に対する批判についても両者は一致している。イエスは、「悔い改めよ」、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(口語訳 マタイ25:26、all they that take the sword shall perish with the sword.と述べて、ユダヤ教義に濃厚な無限連鎖式の報復主義を批判している。イエスのこの御教えに通底するみきの御教えは助け合い主義であり、みき教義全編に滲み出ている。「万人助けは止むに止まれん」、「分かるよう胸の内より思案せよ、人助けたら我が身助かる」(お筆先3.47)、「この先は世界中は一列に、よろづ互いに助けするなら」(お筆先12.93)、「月日にはその心をば受け取りて、どんな助けもすると思えよ」(お筆先12.94)。「人を助ける心は真の誠一つの理で、助ける理が助かる。よく聞き取れ」(本席お指図)。補足しておけば、イエスの御教えは、ただ単に確認するのではなく、そのくだりをユダヤ教ではどう教えていたのか、パリサイ派ではどう理解していたのかを踏まえてアンチテーゼとして打ち出されていると知るべきだろう。

 イエスと中山みきは「一粒万倍」の御教えでも共通している。これを確認すると、イエスは「山上の垂訓」で「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。信仰とはそういうものです」と述べている。みきは次のように述べている。「一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍というのやで」、「神様の御用なら、する事、為す事、皆、一粒万倍に受け取るのやで」、「表門構え、玄関づくりでは人助けできん。貧に落ちきれ。貧に落ちきらねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ちきれば上がるようなものである。一粒万倍にして返す」。その他、様々な個所でイエスとみきの思想的一致性を見出すことができる。

 このパリサイ派問題について、筆者は既に2007年11月29日付けのブログ「れんだいこのカンテラ時評348 」で「天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ」と題して次のように述べている。

 筆者は、久しぶりに「天理教教祖中山みきの研究」を書き換えた。まだまだ不十分であるが、既成本のどれよりも勝れた中山みき論に成り得ていると自負している。興味のある方は読まれ、ぜひご意見くだされば有り難い。糠釘が一番辛い。筆者がなぜ中山みきに拘るのか。それは、極めて深い現代ネオシオニズム的文明批判になっているからである。そういうことに気づいたからである。ネオシオニズムは今や世界をままにしており、その挙句に社会の奇形と戦争と原子力、地球環境破壊をもたらしており、その傾向をますます強めつつある。

 ネオシオニズムはこの危機を打開する能力を持たない。なぜなら、あの強欲が生み出した独特の資本主義秩序の自己否定に繋がるからである。彼らは自己の支配権を維持しながらの改良改革を望んでいるが、既に事態はそういうものでは何ら改良改革さえももたらさないほど深刻化しつつある。

 筆者はほぼ30年前の或る時、中山みきの御教えと邂逅した。それまで天理教とは何の接点もなかったのに不思議なほど胸にすっきり治まったのでよほど相性が良いのだろう。そう云えば、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでいたので、それが効いていたのかも知れない。天理教聖地のおじばに都合6ヶ月留まり、離れるに当たって筆者なりのみき教祖伝を書き上げる心定めをした。みきが神がかった41歳の時までを期したが、それはかなわなかった。ほぼ完成したのは筆者50歳頃である。道中何度足踏みしたことか。57歳の時、7年ぶりに大幅に書き換え今日に至っている。

 今なぜ筆者が中山みきに拘るのか。それは、中山みきの御教えが、現代の世界閉塞をこじあける叡智を秘めていると思うからである。そう思うようになった。筆者は坐りづとも立ち手踊りも忘れたが、改めて覚え直そうと思っている。あの踊りの中に思惟の原理原則が凝縮されていると気づかされたからである。

 まだある筆者が拘り続けてきたマルクス主義の再生が、マルクスを起点にする限り不可能と云うマルクス主義のネオシオニズム性に気づかされたからである。俗流マルクス主義が親ネオシオニズムなのは決して偶然ではない。そういことからむしろ、中山みき思想を核として世界の様々な思想を練り合せたほうが、却って筆者の希求するものに近づくということを知ったからである。

 まだある。ネオシオニズムを原理的に批判するのにキリスト教に傾斜して為そうにも、キリスト教自体がネオシオニズムの思惟様式を取り入れており、ほぼ絶望的に難しい事を知らされたからである。むしろ、開祖イエスの御教えに着目し、イエス教義とみき教義を練り合わせたほうが、却って筆者の希求するものに近づくということを知ったからである。世界思想にはほかにも多々優れたものがあるだろうが、奥深い根本まで立ち入って思惟を深めているとなるとそうはなかろう。むしろ、みき教義を核としながら、世界の優れものを寄せたほうが手っ取り早いのではなかろうか、そう思っている。

 最後に云いたいことはこうである。最近は学んで為にならず却って馬鹿になるネオシオニズム系学問が横行隆盛しつつあり、次第に我々の日常生活をがんじがらめに規制しつつある。政財官学報司警軍の八者機関の頭目がこぞって被れているから、下が皆ならう。これに対抗するには、ネオシオニズム系学問の個々を批判してもきりがなく、ネオシオニズム系学問総体に対峙する別系学問を打ち立てる以外にない。その別系学問は、みき教義を学び深く思案するところから生まれる。そう気づいた次第である。みき教義にちんぷんかんぷんな者には何を言っているのかそれこそちんぷんかんぷんだろうが、各自銘々がみきの門を叩くのが良かろうと思う。れんだいこは、毎日の生活の癒しにもなることであるからして、日々立ち返り更に充実させて行こうと思う。

 筆者のこのスタンスは今も微塵も揺るがない。現代文明の逼塞から免れる為にはイエス教、みき教を学ぶ必要があると心底より思う。

 2012.3.14日 れんだいこ拝


【「モーゼの律法」考】
 この項の補足として「モーゼの律法」を確認しておく。なぜなら、「モーゼの律法」も又中山みきの御教えと通底しているからである。モーゼの「十戒」を確認しておく。詳しくは以下のサイトに記している。

 「別章【モーゼ考
 (judea/yudayakyoco/shinwaco/mo
zeco/mozeco.htm)

 紀元前13世紀頃、ユダヤの民が未だ民族的結合ができず、為にエジプトで奴隷となり、約400年間にわたって過酷な強制労働に苦しんでいた折、モーゼが出現し、ユダヤの民を出エジプトさせ、シナイの荒れ野に着き、ここに天幕を張り宿営した或る時の事、モーセがシナイ山の頂山へ呼び寄せられ40日間篭った。この時、神(主)が、「神の民として選ばれたイスラエル人が、神の教えに従うならば民を守り祝福する」と宣べ、次のような「十戒」を授けた。1・我以外を神と呼んではならない。2・偶像を造って拝むな。3・神の名をみだりに唱えるな。4・安息日を守れ。5・父母を敬え・6・殺すな・7・姦淫するな・8・盗むな。9・偽証するな・10・人の物を欲するな。モーゼは引き続いて「十戒に基づく律法」を制定した。概要次のような戒めであった。1・ 偶像崇拝禁止。2・祭壇の定め。3・奴隷の取扱いの定め。4・嫁の取扱いの定め。5・刑罰の定め。6・賠償の定め。7・結納の定め。8・その他死罪の定め。9・臨時雇用労務者の定め。10・その他してはならないことの定め。11・利子の定め。12・法廷の定め・13・賄賂の定め。14・休耕の定め。15・安息日の定め。この「十戒」と「十戒に基づく律法」を総称して「モーゼの律法」と云う。

 「モーゼの律法」が何故に重要なのか。それは、いわるキリスト教で旧約聖書として知られるユダヤ教における聖書の御教えを、聖書に濃厚な選民主義を戒め、他部族、不民族との共和へと道を切り開いたからである。ユダヤの民は、「モーゼの律法」を獲得することにより、その後の繁栄の道を指揮し、「モーゼの律法」を毀損する度合いに応じて他部族、不民族との軋轢を常態化させていくことになる。してみれば、ユダヤの民は「モーゼの律法」を振り子として左右に対立していることになる。この「モーゼの律法」に対して否定の教義を形成していくのがパリサイ派であり、そのパリサイ派と激しく論争したのがイエスキリストであった。西欧宗教史は、この両派の対立史であり、はるけき今日まで未だに続いているとみみなせよう。




(私論.私見)