立教後のたんのうの日々考

 (最新見直し2012.03.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「立教後のたんのうの日々」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


【立教後のたんのうの日々考】
 ここでは、「立教後のたんのうの日々」について記す。本部教理では、みきは神がかり後直ちに「神の社(やしろ)」となり、これをもって立教元年としている。しかしながら史実は違う。みきが「神の社」となったのは家事を捨て神一条生活に入ったことを意味しているが、それで直ちに立教となった訳ではない。むしろ、「神の社(やしろ)」以降に教義形成に向かっており、それが「内蔵籠り三年」の日々となっている。この間、内蔵籠りのみならず、あちこちの寺社に詣で、あるいは禊の行をしている形跡が認められる。こうして漸く教義形成し得た後に、「貧に落ち切れ」から始まる神言が次々と発せられ神屋敷造りに向かわれたと拝することができる。

 「貧に落ち切れ」とは、みきの嫁ぎ先である中山家の家運を削ぎ落とし、財物一切はもとより家格を象徴する門構え、うだつその他威勢的な造作物一切を撤去し、ひとまずは最低限ギリギリの自給生活に敢えて身を落している。何故にかく為す必要があったのか。それは、みき教義によれば、財物に頼らず捉われずの赤貧生活の中でこそ神の思惑を知ることができ、その思いを踏まえた真っ当な生活への立て替えができるのであり、そこから家族はもとより地域共同体の助け合いの在り方を正しく関係づけることができるのであり、その境涯から神の自由自在の働きを得て浮揚すべきであり、そこから真の「神人和楽社会」づくりに向かうことができる。各々が生かされ生きている存在であることを体得するところから、神と人、人と人、人と万物とが助け合いで成り立っている世の仕組みを実感することができる、この根本から組み立て直した「神人和楽社会の創出」こそが今後の人類の向かう道であると指針していたように思われる。

 しかし、その道のりは当然ながら中山家に騒動を引き起こした。世間常識で云えば、分限者の身を敢えて貧乏の境涯に誘うのであるから狂的であった。故に、夫にして戸主の善兵衛、親族の反対、長男にして次期の戸主になる秀司との確執が始まった。この辺りは「稿本教祖伝」に記されているところである。筆者の研究では「教祖中山みき略伝」の22部から28部に分けて詳述している。具体的な経緯は該当サイトで確認いただくとして、ここではみきの神言のみを抽出し確認することにする。

 「貧に落ち切れ」に関わるみきの神言は次の通りである。夫・善兵衛の「施しも良いが分相応程ほどにするがよかろう」との諌めに対し、「神様が、貧乏せよ、貧に落ちきれと仰せになります」、「貧に落ちきれ。貧に落ちきらねば難儀なる者の味が分からん。何でも落ちきれば上がる様なものである。一粒万倍にして返す、と神様が仰せです」、「この家へやって来る者に喜ばさずには一人も帰されん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」、「どうでもこうでも、あるもの施してしまふて貧乏のどん底まで落ちきって了え。落ちきった上は世界助けの模様にかかるで」、「水に喩えて話しする。高いところよりどんと落ちきったら、つぶしても吹き上がるやろ。その理で、もしこの道に邪魔する者あれば梯子のぼりや。その邪魔する者が踏み段となって一段一段上がる程に。木でいうなら、末を止めたら四方八方芽を吹く。根を掘りかけたら道具まで芽を吹くなり」、「流れる水も同じこと、低い所へ落ちこめ落ちこめ。表門構え、玄関造りで人は助けられん。貧乏せ貧乏せ」。

 
この間、「白刀事変」、「狐憑騒動」、「身上事変」、「宮池事変」が起っている。全てを確認する紙数がないので、最重要事件である「宮池事変」を確認する。みきは神がかり以降、神一条生活に入り、神命の赴くままに「貧に落ち切れの道」に入って行った。しかしそれは常識に背く棘の道となった。それは相当長い年月であった。その間常に夫の苦悶があった。にも拘わらず、みきは次から次へと厳しい神命を伝えた。こうして、厳しき神命を遂行しようとすれば世上の条理に背き、世上の条理に従えば神命に背くという和解しようのないジレンマに陥った。神命は尚も強く前進を命じており、みきには前進か後退かの二つに一つの道の選択が迫り続けられていた。しかも、「貧に落ち切れ」により赤貧生活に入ったとして、みきの目指す道程は未だ緒についたばかりであった。こうした折に、これ以上自己の思いを貫き通す事のできない絶壁に直面したとして何の不思議があろう。

 いまや、親族、知己からは見離され、家運は傾くばかりであり、世間の人の罵詈雑言も次第に露骨になり、甚だしきに至っては、これまで中山家に厚い恩顧を頂いていた人々の間でさえ、世間の調子にあわせて嘲笑を浴びせる有様であった。当時、みき御年45、6才の頃と推定され、夫善兵衛は55、6才、長男秀司は22、3才、長女おまさは18、9才、三女おはるは12、3才、末女こかんは6、7才であった。かかる年の天保11.2.18日、みきの実父前川半七正信が出直した。享年76才であった。推測するに、半七は最後までみきの異能を理解しつつ、同時に世間の常識的な倫理基準でもある嫁ぎ先での娘の粗相に対する実家の実父としての責任を感じつつの苦悩の中での出直しではなかったであろうか。付言すれば、みきの半七に対する愛情は深く、後年何度も述懐している様を伺うことができる。

 この頃のこと、みきは、屋敷の東方にある三島神社宮池の鏡が池に身を投げようとした逸話が語り継がれている。或る夜の事。深夜、みきは何を思し召されたか、鏡が池の堤にお立ちになり、何事かを念じつつ身を躍らして飛び込もうとされた。ところが、いよいよとなると足がしゃくばって体が硬直して自由に任されず、突如耳元に「短気を出すのやない」 という声をうちに聞かれて、どうしても果たせなかった。ハッとして後に退こうとすると足は軽く、前に進もうとするとどうしても動かなかった。こうした経験は、在るときは井戸に、在るときは鏡池に総じて6回にも及んだと伝えられている。

 この「宮池事変」をどのように拝察すべきであろうか。興味深いところである。本部教理のように、天保9年の神懸りの時点で、みきを「月日のやしろ」として親神の思召しのままに在られる存在と観た場合には、苦悩を深めるこのみきの姿はあまりにも人間味臭い行動であり整合的な理解、覚束ないことになる。そういう事情からいろんな風に解釈されてきたところである。親神様の思召しのままに突き進んでこられた既に「神の社」たるみきは人間思案とは無縁の存在であったに関わらず、なぜこうした振舞に及ばれたのであろうかということになる。

 
この問いに対して、教理は如何にも宗教的な教説らしい次のような答えを用意している。概要「月日のやしろとして定まって以降のみきには、既にして一点の人間心はない。あるのはその中に入り込まれた親神の思いのみである。しかしながら、みきが、平素いかに親神様にもたれることの道筋を説き聞かされても、それを受ける人間側の理解と行いは、有為転変激しい世の中にあっては、複雑な事情と身上のもとにある。こうした中で、みきは敢えて人間としての苦しみ悩みの姿を纏って宮池に身を投じようとされた。けれども、親にもたれて親神に連れて通らせて頂いている限り、親神の自由自在の働きによって無事にお導き頂いた。こうして如何なる苦悩に直面しようとも、親神様の導きの働きにより道が開かれ、ご守護を頂けることを、ひながたとしてお示し頂いたのである」。あるいは「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された」(「教祖伝」30P)云々。

 しかし、こうした捉え方は如何にも奇説ではなかろうか。神懸り以来ここまで、みきは神一条の暮らしにあって、親神の思し召しのままに突き進んでこられた。「貧に落ちきれ」、「母屋毀ち」等々すべては世界助けに向かう行程として行われてきたものであった。世界助けに向かう行程として、上層家格を維持したままの上からの施しを否定し、自ら貧に落ちきって行かれた。けれども、こうした思いは、みきの周囲の者誰一人として理解を得ることのできない茨の道であった。ここまで、みきは、親神の導きと威光を借りて、又自身の身上に迫って辿りついた道程であった。されど、この行程は更に長く深く続く道程であった。みきの志向する先は、家族がやっと食いつないでいけるギリギリの貧のどん底の生活であった。欲も支配も差別も生まれるべくもない赤裸々の最低辺の暮らしに、我身と家族を追い込んでみて、そうした暮らしの中から自ずと生まれてくる素直な助け合いの心を育み、ここに神様の自由の働きを体得しつつ浮上するという、かなり長期間の堪能を要する生活であった。みきには、こうして立て替えた暮らしぶりの中にこそ「後は昇るばかり」の生活の糧が、人助け、世界助けに向かう道筋が見えていた。この道筋に立脚しない限り真の「人助け、世界助け」が為しえないことも見えていた。

 けれども、こうした親神の思し召しを更に押し進めるには、はるかに長い道程が待ち受けていた。しかるに、端緒についたこの時点でさえ、既に夫善兵衛、子供逹、親族衆、世間の諸人との間に、とてつもない亀裂を走らせていた。まさに、ここまで辛うじて辿りついたという感がなきにしもであった。峠はまだまだ先の遠いところにあった。こうしたことを考えたとき、みき自身に弱気な気持を起こさせたとしてもあり得べきことではなかろうか。いっそみき自身が居なければとの自暴自棄の気持ちを湧かせたとしても、不思議ではなかろう。実にみきの貧に向かう道程は、こうした複雑な胸中との談じ談じの一歩ずつであったものと拝察させて頂く。

 究極のところ、みきは、みきの進もうとしている先の光明を信じきることにより踵を戻したのである。みきの意思であり、又一つ「真実が親神の思し召しに叶う時、生死の境において、自由自在の守護が現われ」、みきに働く親神の導きでもあったであろう。まさに真剣白刃の通り道であった、と拝察させて頂く。まことに尊い「ひながた」ではなかろうか。これにつき、お筆先で次のように述べておられる。「月日にはどんなところにいるものも 胸の内をばしかと見ている」(13.98)、 「胸のうち月日心にかのうたら いつまでなりとしかと踏ん張る」(13.99)。

 筆者のこの理解は、増野鼓雪の「教祖の苦難」の一節で裏付けられる。次のように記している。

 「その間に立って御教祖はどんなに御苦しみなされたでありませうか。人間の上から申せば、その家の先祖伝来の財産を、他から嫁入りして来た者が、たとひ慈悲善根の為とは云へ、なくしてしまふと云ふ事は、何といふつらい事でありましたらう。御教祖は夫様の心中を御察しになり、又一方にお子達が苦労せられるのを見ては、立っても居てもゐられぬ思ひを、遊ばしたに相違ありません。けれども神様の命令は厳として動きませぬ。飽く迄も身上を以って、その実行をお促しになったのであります。これ全く神意と人情との板挟みでありました。

 そこで御教祖は死んで凡てを解決なさらうと、御考へになったのであります。即ち自分といふものがあるから、神様のこの命令があるので、自分がなかったら、この命令はなくなるのである。又自分が生きてゐるから、夫や子供に苦労をさせるので、自分がゐなかったら、皆が苦労をせずに通られるとおぼしめして、死ぬる決心をなされました。

 或年の真夜中に、家を脱け出られた御教祖は、やがて池の堤に行って、今や水中に飛び込まうとなされたが、その瞬間に、御教祖は身動きもできぬ様になられて、何処ともなしに『短気を出すのやない/\』といふ声が聞こえます。これは神様の御心に適はぬ、済まぬ事であったと思ひ返されて、家の方へ足を向けられると、思ふ様に歩けたのであります。それで又今の声は、自分の心の迷ひであったかしら、自分が死なねば皆が助からぬのだと、心を定めて再び飛び込まうとなさると、又身動きができなくなり、そして『短気を出すのやない』と云ふ声が聞こえます。そこで御教祖はこの神様の御守護に深く感激なされたと同時に、神様の思召を飽くまで行うて行かねばならぬと御決心遊ばされたのであります。それから御教祖は更に勇んで、この苦しい中を御通りなされたのであります。それが家庭に於ける御教祖の最も御苦しみなされた道すがらの一端であります。

 一体に世の中には、苦しい事が沢山ありますが、一つ屋敷の内に住まねばならぬ者の、心が打ち解けずに結ばれてゐると云ふ事は、何よりも苦しい事であります。千軍を指揮する将軍も、この家庭の治まらぬ為には悶へ苦しむのでありあます。唯信仰の勇者だけが、この境を通過するのであります。御教祖はこの茨ぐろうや崖道を御通りになったのでありますから、道を慕うて行く者は、やはりこの道を通らねばなりませぬ。妻が承知しませんから、子が承知しませんからと云ふので通るべき道を通らぬのは即ち御教祖の雛形の道を逆行してゐるのであります。

 御教祖の道を聞きながら、その道を通らうと覚悟しながら、一家の小事に心を煩はしてゐる様では、未だ末代の理が心に納まってゐないのであります。末代の理を心に納めずしては、御教祖の精神は会得ができませぬ。又、末代の理が見えねば目隠しをして歩くのも同じです。どうか目隠しを取って末代の理が見える様に、この御教祖の雛形の道を踏んで貰ひたいのであります」。

 増野鼓雪氏の理解は至極真っ当な受け止めようではなかろうか。それを「みきは敢えて人間としての苦しみ悩みの姿を纏って宮池に身を投じようとされた」などと理解するのは如何なものであろうか。信仰者の信仰的過ぎる理解は時に曲解を生むの典型ではなかろうか。

 ちなみに、この三島神社宮池の鏡が池は、1999(平成11)年、天理教教会本部により埋め立てられてしまった。これについて「天理教と三島神社」その他が考察しているので参照する。1888(昭和63)年、天理教祖百年祭後、天理教教会本部は、本部神殿東前にあった三島神社を地元住民と氏子の猛反対を押し切って三島町のはずれに移転させた。この経緯につき、天理教真柱を取り巻く極く一部の本部員が極く秘密裏に練り上げ、膨大な予算をかけて準備をし事を遂行したと云われている。その11年後の1999(平成11)年3―4月頃、天理教祖が親神と人間との板挟みになって苦悩の揚げ句、何度も身を投げようとされた教祖の重要な遺跡である鏡が池を埋めたことになる。天理教教会本部が、天理教祖百年祭後、鏡が池を埋めた理由は何なのだろうか。推測するのに、「教祖の鏡が池思案」の史実が本部教理と齟齬していることから、鏡が池を天理教教祖の神格化を妨げるマイナス材料と捉え、三島神社の移転に続き宮池の鏡が池までお屋敷内から葬り去ったと云うことではなかろうか。しかし、それは「ひながた通らねばひながた要らん」とされている教祖のひながた、その史跡に対する本部側からの蹂躙であり許されることではない。これに関与した者の責任が厳しく問われるべきであると思う。鏡が池は復元されねばなるまい。真に反省すべきは、「教祖の鏡が池思案」に対する変調教理であろう。ここから直さなければ、こういう事例が次から次へと起こるであろう。

 さて、「貧に落ち切れ」により最低限ギリギリの自活の境涯に陥った中山家に待ち受けていたのは、「堪能の日々」であった。これをどう解するべきか。この時みきの「同行者」は、善兵衛、秀司、おまさ、おはる、こかんの親子6名であった。ところで、「稿本教祖伝」他も含めて見過ごされているが、あるいは意図的に見ようとしていないが、この「堪能の日々」とは、みきの神命が善兵衛の抵抗に合い進捗しなかった時期でもあった。そういう意味でも「堪能」と云う。善兵衛は、「貧に落ちきれ」以来の施しについては不承不承ながら承知してきたものの、家格を象徴する家屋敷のこぼちばかりは許さずと頑強な抵抗を通し続けた。それは善兵衛にとっては戸主としての責務でもあったであろう。封建的家父長制の為せる権限として断じて受け入れざるものがあった。みきは、この事態に応じてある種従順に、ある種眼窩を高く保持しつつ、総じて神様の思し召しのままに通られた。更なる教理の深化、一層の家族との談じ合い練りあいに向かった、と拝察させて頂く。「お道」で云う旬が至らなかったということでもあろうが、後に触れるが、この事業は夫善兵衛の出直し直後俄かに進捗していくことになる。弘化元年(1844年)5.26日、みきの生母前川きぬが出直し。半七同様、みきの異能を信じつつ実家の責任を感じつつの出直しであったであろう。  

 この経過は「堪能の日々」として次のように理解し得る。みきは、親神の世界一列たすけの心にあって、高山も谷底もない、即ち貧富貴賎の差別を越えて、「世界一列可愛いい我が子」という親心にお立ち下されてのたすけ一条でお歩み下された。その意味するところは、「谷底せりあげの道」であり、この道は、谷底の人々でも気やすく慕い寄る事のできるよう、先ず自ら貧のどん底に落ちきり、家柄、身分、格式、伝統、家、財産、階級等凡ての人間の差別を造り隔てとなるような一切のものをかなぐり捨て、赤裸々に神の思いに立ち戻り、神にもたれ、そこから神の自由自在の力によって浮揚して行くことによって、道をつけようとの思し召しであった。

 この思し召し実現の為に、これまであらゆる反対誹謗の中に激しい施しをお続け、堪能の日々の生活をお続け下された。それは、封建体制下の社会関係.人間関係の全面改変を志向してまず我が身を谷底に貶め、そこから這いあがる過程を通じての「我が身試し」から始められた。この堪能の日々は、こうした心を涵養するに要する為の相応の練りあいの期間とも云えた。実際、この期間は二十年という歳月の階梯を要することになる。

 みきの凄さは次のことに認められると思われる。一方で厳しき神命、他方で夫と恐らく家族の苦悩に接しつつ、みきは家族の心を練りあうかのごとくの堪能の日々を静謐に過ごし得ていたという事実である。神命と世間の情は相容れない二つの矛盾対立であったにも関わらず、みきは、少なくとも親子関係においては、この二つながらを御し得たのである。神命は遅滞化したが、そういう状況に合わせた対応をしつつ、他方で家族の間に新たに生まれつつあった助け合いの情愛を育み、家族全員でこれを悦び楽しむという、まさに堪能の日々を創出していくことに成功した。、この堪能の期間、教祖とこかんはますます親子の情愛を超えて教祖とその第一取次人の関係へと昇華していった。しかし、秀司についてはこの関係づくりに失敗しているともみなされる。このことが、今後のお道の歩みに浮き彫りにされてくることになる。

 留意すべきは、二十年を越すこの堪能の期間とはみき神懸かりの後のことであるということであろう。史上に数多くの宗教家の輩出あれど、神懸り後にこれほどの長期間を堪能された教祖が居られるであろうか。しかも、女身として一通りの人生経験を為されて居られるというのも珍しい。そして、このたびは貧のどん底へ分け入ってのことである。他宗派の教祖開祖にかような御方が居られるであろうか。これらの全てのことが、生活の有益な教えとしてみき教理の実践能力を高からしめているであろう、と拝察させていただく。

 そういう経過の中で、「おびやの神様」としての噂が立ち、信者らしきものが現れ出したのが1857(安政元年)年、みき57歳の御時である。神がかりの1838(天保9)年から20年を要している。神がかりが仮立教であり、信者獲得のこの頃をもって真立教とすべきではなかろうか。それまでの日々を「たんのう」と云う。この「たんのうの日々」を深く思案せねばならぬ。

 2012.3.14日 れんだいこ拝




(私論.私見)