お道教理の復元と変質考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.1.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の心、日本精神論史考」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝



「お道初期の応法と非合法の二股について】
 第五。「みき」の教義原形と今日の「お道」教義の二層構造を客体化し、初期の「お道」教義の持つ質の良さと時代画期性を露顕させ、それが「応法の道」へと踏み込んでいく関りの中で如何に後退していったかという点に絞って、教義の発展と変質について論及したい。組織論的には、変質の是非を教条的に論ずるのは難しい。ただ、本来の「お道」教義の原形である「天の理譚」、「み神楽歌とそのおつとめ」、「お諭し」、「お筆先」、「ひながた」の持つ思想的実践的質の高みを、いくら称揚しても足りないほど素晴らしいものと確信する故に露にさせてみようと思う。ドイツの哲学者ヘーゲルの物言いでの、まぎれもなく「時代精神、世界精神の体現者」であったであろう「みき」の拓いた地平を画然とさせてみたいのだ。このことは、同時に「元の始まり」に復して思案するという意味において、現在の天理教団の陥っている隘路を打開する有用な手法を見出す途ともなるであろう。天理教団としては、「みき」ご存命の頃より、「みき」自身の指図に反してまで権力当局に阿ねてきた歴史があり、今日的表現で云えば、お道は立教の当初より、合法と非合法の谷間を右往左往してきたのである。比喩的な表現をすれば、「お道」はそうした歴史を経ることによって今日では渦中の衣装を纏いすぎて、「赤衣」と「間にあわせに着た衣」との分別を能くしえなくなっているのではなかろうかとの心配までさせて頂いている。現役の信徒の皆様方には口幅ったい言い方で申し分けないけれども、「みき」は、昔も今も、「みき」の思いで理解されることが寡聞で、信徒自身が己の力量に応じて理解すると云う都合の良い仕方でしか敬愛されて来なかったのではなかろうか。こうして、「みき」は「存命」として崇められる割には蚊帳の外に置かれ続けられたまま今日に至っておられるのではなかろうか。

お道教理の体制内化について】
 第九。筆者はたまさか中山みきを知り得た。そしてこのたび本書出版するほどに中山みき教理に魅かれた。あれから30年余になる中山みき研究の結果、中山みきを拝戴し、本来なら最も精力的に教祖中山みきを喧伝せねばならぬ天理教本部教団の教祖研究が案外疎かにされていることを義憤している。そして、その臭いが、これが云いたかったのだが、筆者の学生運動時代に感じた日本共産党のマルクス主義研究のお粗末さと同じような気がする。これは何なのだろうか。共産党の場合には代々木の党本部、お道の場合には教団本部が揃いも揃って、ありていに云えば「教えの牙を抜く」役割を引き受けている気がする。偶然ではなく、そう云う風に型に嵌められて体制内化している、させられている、そうこうしているうちにいつの間にか本物の理論、御教えが分からなくなっていると窺う。これ以上は、まえがきの域を外れるので記さないが、そういう体制下にあると分別しておく必要があろう。

【八島氏の「拝み祈祷を営業政策にした神道天理教批判」考】
 八島「『ほんあづま』2000年6月号巻頭言」。
 「八島何故出て来ない。すぐ来い。天理大学が全国大会に優勝して、祝賀会が東本で行なわれているだ」。「私は柔道部ではありません。ラグビー部ですよ」。「東本で祝賀会が行なわれているのに、天大OBとして出て来ないという事があるか、早く来い」。「行きます、行きます」。

 時は、天理大学が東本大教会を宿舎にして、柔道の全国大会に出場し、優勝し、東本大教会の三階大広間で優勝祝賀会が始まった時である。人は天理柔道の総帥、中山正信氏からの電話である。急いで東本へ行き、三階の会場に顔を出すと、挨拶もそこそこに「二人だけになれる所があるか」と言うので、一階の青年ホールへ行き、二人だけの話になり深夜に至るまで続いた。『ほんあづま』の論調が、『稿本天理教教祖伝』のフィクションの洗い直しを進めて、すでに、こかんさんの大阪布教が、作り話である事が誌上で証明されていたのである。

 分家「あまり教祖伝をほじるなよ」。八島「今、内部から発表しなければ取返しがつかなくなります。外部からあばかれたらどうします。山本周五郎が『樅の樹は残った』という小説を書いてから、極悪人原田甲斐が、実は仙台藩を救った忠臣であったと、常識が変わっています。今までの日本は天皇制軍国主義の思想統制があって真実が説けなかった。今から真実を説く、教祖伝の編纂をやり直す、と教会本部が発表すれば、混乱は起こりません。教内はうすうす気づいていながら、何時本部が真実を言ってくれるか待っているのです。後れたら皆が背を向けます。そうなったら取返しがつきません」。分家「八島が知っている嘘だけではないのだ。真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう」。八島「本部から発表すればそんな事は起こりません」。豪気な御分家中山正信氏の言葉の中に怯えを感じた。私の頭の中に、戦後ニュースで見た、イタリアのムッソリーニがパルチザンに殺され、逆さ吊りにされた場面が走馬燈のように走った。

 それから約二昔の歳月が流れた。正信氏が亡くなって十年、その間におつとめを教祖が教えた通りに復元すべき人が、また、ひながたを正すべき人が次々と世を去り、或いは教外に押し出され、みかぐらうたを歌い、教祖の教えを手踊りで、自分の身体で表せる人が次々と教団に背を向け、教えを求めても得られず、修養科生は十分の一に減り、教会は三分の一以上が活動を停止している。拝み祈祷を営業政策にした神道天理教は迷信家の集団と化して教祖の教えは亡びようとしているのである。

 昔、神道になるために、教祖を警察に売った。十余年前ひながたを顕彰し、おつとめの復元につとめている櫟本分署跡参考館を教外のものと断定した。然し今日櫟本のつとめ場所を見ると、捨てた良心の種が育って花咲くように教祖の教えた通り教祖と共に歌い、踊り、誠の心を取戻し、人の喜びを見て楽しむ心を我が身体で表す、世界たすけの働きの中心になるべき人が続々と誕生している。櫟本を苗床にして世界中に良心の花を咲かせなくてはならない。
(私論.私見)
 八島氏の「『ほんあづま』2000年6月号巻頭言」の八島氏と中山正信氏の対話がいつの頃なされた話なのかはっきりしないが、貴重な証言である。但し、八島氏の本部批判の眼目「拝み祈祷を営業政策にした神道天理教」論については、私は同調できない。私はむしろ、教祖教理の中に日本神道の真髄である日本古神道との繋がりを見ようとしている。ここが私と八島氏との根本的なスタンスの違いである。無論、私は私の教理の方の秀逸性を感じている。

 2002.1.13日 れんだいこ拝




(私論.私見)