二宮尊徳、大原幽学、山田方谷、西郷隆盛とのすりあわせ考

 (最新見直し2012.03.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「二宮尊徳、大原幽学、山田方谷、西郷隆盛とのすりあわせ」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


同時代の社会運動家との摺りあわせについて】
 第三の四同時代の日本の農政学者である二宮尊徳、大原幽学、山田方谷とのすりあわせをもしてみたいと思う。

【二宮尊徳、大原幽学ら農政家とのすりあわせ考】
 ここでは、「二宮尊徳、大原幽学、山田方谷とのすりあわせ」について記す。みきの在世時代、農政家として二宮尊徳、大原幽学、藩政改革者として山田方谷が活躍している。三者の手法はやや体制的なのが二宮尊徳、より革命的なのが大原幽学、同様の世直し手法で藩政改革にまで向かったのが山田方谷と云う違いが認められるが、三者とも今日的に見ても有益な処方箋で幕末社会の立て直しに実践躬行していることで注目される。みきも「世直し、世の立て替え」を目指しており、みきのそれと比較考証してみたい。

 前置きはこれぐらいにして「二宮尊徳、大原幽学、山田方谷」を確認する。以下のサイトに記している。

 「二宮尊徳考」

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/ninomiyaco
/top.html)


 
「大原幽学考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/ooharayugakuco/top.html)

 「山田方谷考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/yamadafokokuco/top.html)


 
二宮尊徳は1787(天明7)年生まれであり、1798(寛政10)年生まれの中山みきに比して11年早く生まれている。大原幽学は1797(寛政9)年生まれであり、みきより1年早く生まれている。山田方谷は1805(文化2)年生まれであるから、みきより7年遅く生まれている。この四名が交わることは終生なかったようであるが、仮にもし相会していたら、どんな交わりを結んだだろうかと考えると興味深い。

 二宮尊徳は、現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)、当時の相模国足柄上郡栢山村の百姓の長男として生まれ、幼少より辛酸なめて育った。長ずるに及び実家を再興し、この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成、興国安民を実現する仕法を体系化した。その才を買われて小田原に出て小田原藩家老の服部家の武家奉公人として働き、財政建て直しに成功する。その功績が認められ下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、現在の真岡市)の仕法を任ぜられ成功させる。1822(文政5)年、小田原藩に登用され、1842(天保13)年、普請役格の幕臣となる。その後、関東とその周辺の諸藩領、旗本領、幕領、日光神領の復興や個別の家や村の再建を依頼されて指導する。1856(文政3)年、下野国今市の仕法役所で没す。尊徳的改革は報徳仕法と云われ報徳社に受け継がれた。


 
尊徳思想は「尊徳夜話」で知ることができる。弟子の福住正兄(ふくずみまさえ)氏が記したもので、かなり膨大なものとなっている。筆者がこれを確認するのに「尊徳式世直し世の立て替え思想」と位置づけることができるように思われる。尊徳思想の特質は幕末日本の農事、工事に適用した実践訓話集で、いわば日本的土着思想の高度性を称揚し、この思想で導かれる穏和的な世直し、世の立て替え思想であると規定できよう。尊徳思想を如実に伝える「尊徳夜話」では全編で原日本人的土着思想の質の高みからの農事、工事の指導、地域、藩の再建、ひいては世直し、世の立て替えを指南している。これを説く為に時に外来の仏説、儒説、古典中国思想を引用しているが、それらは見事に尊徳思想に焼き直され、咀嚼吸収された上で紡ぎだされている。あるいは時に神仏儒思想の限界をも指摘して尊徳思想の実践的有効性を自賛している。全て尊徳の経験に裏打ちされた諭しとなり且つ実践の手引きとなっている。ここに尊徳思想の特質がある。これだけの思想、教本を学ばぬ手はなかろう。

 思えば、尊徳思想とは、幕末の黒船来航以降、急ピッチで浸食し始めた西欧思想と云う名の実はネオシオニズム思想に汚染される前の原日本人的土着思想であり、そういう意味で原日本人的土着思想の真価を問うのに格好のもの足り得ている。原日本人的土着思想は本来体得感応すべき不文のものであるところ、弟子の手により膨大な教話を遺して明らかにしている点で「尊徳夜話」の価値は高い。且つその思想の質の高みが、混迷窮地に立ち至っている現代日本を脱する処方箋を呈示していると思われる点で、日本総国民の必須指定学習文献としても良いように思われる。尊徳思想は日本の宝であり、これを絞殺してきた歴史こそ不審の眼で見直さねばならないのではなかろうか。外来思想の警句で味付けする政治評論家が多い今日ではあるが、日本にも内部から自生した勝れた文句があることを知らしめねばならない。外国文明を排する為ではなく、日本文明にも精通してこそ意味があることを知らしめんが為である。日本の自由、自主、自律は日本的思想の復権から始めねばならぬ。

 そういう結構な尊徳思想がありながら、幕末日本は黒船来航以降、在地土着思想を卑下してかなぐり捨て西欧主義的文明開化の道へ向かった。西欧化自体は時代の趨勢であり止むを得なかったと思われるが、今から思えば和魂洋才で摂取すべきであったところ洋魂洋才に向かったことが悔やまれる。かって我々の先祖が漢学、天竺学導入の際に日本学の枠中に導入し見事に咀嚼したように西欧文明を吸収すれば良かったのに残念ながらできなかった。そういう意味で、幕末日本人の知力は奈良―平安期の日本人の知能より劣るとみなすべきではなかろうか。文明開化とは、和魂和学、和魂洋学を捨て洋魂洋学方向へ舵を切る宴であった。これにより祖国と民族のアイデンティティーを失ったインテリゲンチュアを粗製乱造して行くことになった。明治以前以降のインテリの質の差はこれによると思われる。これに悩んだ夏目漱石は相当の智者であったと云うことになる。悩まなかったその他大勢のインテリ、今日に続くインテリの軽薄性を知るべきではなかろうか。

 インテリ批判をもう少し続けておく。洋魂洋学派は概して知能が低い。それが証拠に、文明開化の名の下にテキスト化されていたのが西欧文明一般ではなくネオシオニズム思想に基づく学的体系であったと云うのに、それを見抜けぬままネオシオニズム思想を西欧文明一般であるかの如く錯覚させられたまま吸収して行った。そういう頭脳でしかなかったと云うことであろう。これについて、高倉テル著「大原幽学伝」は次のように記している。「もとより、外国の新しい知識は、できるだけ多く吸いとらなければならない。いくら吸いとっても、決して多過ぎるということはない。盲目的な国粋主義は却って日本を誤る。それにも拘わらず日本に生まれたものの真の意義は、あくまでこれを探らなければならない。それこそが、外国の知識を正しく吸い取り、真に血とし肉とすることのできる根本の力であるからだ」。 高倉テルは、大原幽学が指導した「先祖株組合」の画期的意義に言及して述べているのであるが、この観点は広く汎用されるべきではなかろうか。

 それでは大原幽学はどう評されるべきだろうか。思うに、大原幽学の農政改革は、尊徳のそれに比してよりラジカルである。尊徳の穏和主義に対する急進主義改革とみなすことができるように思われる。大原幽学の出自は明らかでないが、武士階級の出身であったことはまちがいないとみられている。 幽学の語るところによると、18歳のとき故あって勘当され、諸国を放浪する。この間、神儒仏をはじめ易学、観相など種々の学問、先進農業技術などを身につけた。1830(天保元)年頃、信州(長野県)上田に至り、富商小野沢六左衛門に寄寓(きぐう)して道学の講義を開講、徐々に門人も増えたが江戸に向かう。1831(天保2)、房総を訪れ、道徳と経済の調和を基本として神道、儒教、仏教を一体とする「性学」を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。性学とは、欲に負けず人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のことを云う。性学の指導方法は性学仕法ともいわれる。その後長部村に招かれ農村再興に努力することになった。幽学は、荒廃した農村復興の為にお互いに助け合い、生活を改善していく村ぐるみの土地共有組織「先祖株組合」を結成させ、共同購買、耕地整理、住居の分散移などなどを行った。これが世界最初の協同組合となった。また農業技術の指導だけではなく耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止、また子供の教育・しつけのために換え子制度の奨励など日常生活の細部にいたるまで規律をつくりその心を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。幽学式農政改革により長部村は見事な復興を果たした。1848(嘉永元年).2月、下総国香取郡長部(ながべ)村(現千葉県旭市)の領主清水氏が大原幽学が指導する長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。

 これほどの成果を挙げた以上は本来なら幽学は称賛されるべきところ逆に怪しまれることになった。1852(嘉永5)年、急激な性学運動の発展が村を越える勢いを見せ始めたことにより幕府の怪しむところとなり、関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の嫌疑を受け、勘定奉行所轄の幕府評定所(ひょうじょうしょ)の取調べを受けることとなる。江戸と現地を行き来する長きにわたる裁判により村は再び荒れ果てていった。性学の象徴「改心楼」が取り壊され先祖株組合は解散させられた。1857(安政4)年、幕府は、幽学に対して百日押込(おしこめ)の刑、改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡した。1858(安政5).正月、刑期を終えた幽学が帰宅。3.8日、失意のうちに切腹自殺し生涯をとじた(享年62歳)。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていた。千葉県旭市には旧宅(国の史跡)が残っている。著作に「微味幽玄考」、「性学趣意」、「口まめ草」等がある。

 同じ幕末期の成功裏に導いた農政家でありながら、大原幽学の履歴は尊徳のそれに比して悲劇である。要するに、尊徳の農政改革はいわば体制内のものであったのに比して、幽学のそれは幕府の許容することのできない危険性を萌芽しており為に弾圧されたと読むべきだろう。ここに尊徳と幽学の対比が確認できる。もとより両者の運動ともが評価されるべきであろうと考える。

 次に、尊徳、幽学とも一味違う山田方谷を論ずることにする。山田方谷を知るにつき、思われている以上に大きな影響を歴史に遺しており、その評価は未だ定まっていないのではなかろうかと思われる。方谷(ほうこく)は幕末の陽明学者であり、その力量は大塩平八郎後の当代随一の人物ではなかったかと思われる。幕末維新時、多くの陽明学徒が湧出し、それぞれがそれぞれの有能な働きをしている。このことはもっと注目されても良いのではなかろうかと思われる。陽明学の根本は学問の実践性にあり、学問期に身につけた成果を問うべく与えられた職務に取り組んでいくことを作法としている。陽明学ではこれを「知行合一」、「実践躬行」と云う。

 方谷は既に幼少の身に於いて、なぜ学問をするのかと問われ、四書の一つである「大学」の重要な一節「治国平天下」と答えている。まさに方谷の一生は「治国平天下」に尽した。これが方谷の「三つ子の魂」であったと思われる。方谷の学才は早くより見出され、23歳の時より数次の藩費留学を経験している。第3回京都遊学に続いて江戸遊学に向かったが、その際の佐藤一斎門下での在りし日、後に吉田松陰の師にしてその他数多くの影響力で知られている若き日の佐久間象山と肝胆相照らし、日本の行く末などを連日論じ合った。激論を心配した塾生が一斎に問うたところ、「暫くほっておけ」とにっこりと笑ってやり過ごしたと伝えられている。方谷と象山は「一斎門下の二傑」との名声を博したが、象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったとも伝えられている。

 その方谷が仕えたのが備中の松山藩であった。当時の松山藩は他の諸藩同様に財政悪化に苦しんでいた。時に新藩主となった30歳の板倉勝静がこの時45歳の方谷を抜擢し、元締役兼吟味役を命ぜられ藩政改革に乗り出す。幕末とはいえ農民上がりの一介の儒学者の大抜擢は藩内に衝撃を与えた。方谷は、この時点で「「理財論上下二篇」、「擬対策」を著しており、藩政改革はその実践であった。その要言は「事の外に立ちて、事の内に屈せず」に範示されている。方谷施政の特徴的なことは、当時の主流であった朱子学派的統治学要諦の士農工商的身分社会の分限論に従う民間的営利事業に対する蔑視ないしはそれより生ずる無関心を基調とする限界を排斥しているところにあった。この観点から村興し、町興しに取り組み、総じて殖産興業政策を手掛け、当時の幕藩体制ではありえなかった藩による商業事業を臆することなく切り開いて行った。その改革が成功し、5万石の石高でしかなかった松山藩の収入は20万石に匹敵すると云われるようになった。

 その細々の施策は別に確認することとして藩政改革を見事に成功させた。僅か8年間の治績で、それまでの十万両の借金をなくしたばかりか逆に十万両蓄財させた。上杉鷹山公の改革が百年越しの改革であったことを思えば驚異の治績を示したことになる。かって参勤交代の折に「貧乏板倉が通る」として嘲笑され、東海道の駕籠かきから「貧乏板倉の駕籠はかくな」と敬遠されたほどであった松山藩は面目を一新させた。方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた20年間、藩内では百姓一揆が一度も起きず餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。あぁ素晴らしい。この煎じ薬を目下の中央政界に届けたい。

 方谷(1805-1877)は、イギリスの経済学者ケインズ(1883-1946)に生年で80年ほど先立つケインズ政策の先行者であり、日本でのケインズ革命を実践したことになる。日本の経済学者はケインズを学ぶが日本のケインズ方谷をも学べば良かろう。一部の愛好家しか注目していないのは悲しいサガではなかろうか。筆者には、幕末維新を学ばずにロシア革命を語る姿にダブって見える。そう云えば、最近になって二宮尊徳の徳政が学ばれるようになった。方谷がもっと注目されるのも今しばらくのことだろうか。角栄の日本列島改造論の慧眼が再評価される日はその後のことになるのだろうか。方谷はその後「板倉勝静との二人三脚の働きぶり」で幕末政局に深くかかわって行く。方谷の場合、備中松山藩時代には松山藩の、徳川幕府に招かれてよりは「政権中枢の表舞台」で知恵袋として立ち働き、これを能く為し得たと云う意味で稀有の陽明学者足り得ているように思われる。本稿はこれを説くところ所ではないので轄愛するが、最終的に勝静は幕府要職の老中首座兼会計総裁となり名実共に幕府最高司令官となり枢要な働きをしている。方谷が政治顧問として睨みをきかしていたことは云うまでもない。

 徳川慶喜の「大政奉還上申書」上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させたと伝わっているが、真相は方谷の手によったことが判明している。方谷から送られた矢吹家文書に「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存しており、内容はもちろん字句も上奏文と酷似している。これによれば、上奏文の作成につき慶喜から筆頭(首席)老中の勝静にご下問があり、勝静が方谷に諮問し、方谷が起草した可能性が強い。この史実が知られていない。方谷が原案を作成し、その下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど一部をへりくだった表現に変えたものが京都朝廷に差し出されていることになる。方谷から久次郎にあてた密書には決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示であるが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではなかろうかと推理されている。

 討幕軍が江戸に迫り、満を持して迎え討とうとする幕府軍との一大決戦が近づく。この時、勝海舟が江戸城無血開城の秘策で交渉の任に当たる。この場面は既に多く考察されているので割愛するが、要するに江戸城無血開城の意義は、日本の内戦化を企図し、その疲弊の間隙を衝いて植民地化を狙う国際金融資本の狡知との頭脳戦にあった。勝海舟派の叡智と西郷隆盛派の叡智が阿吽の呼吸で国際金融資本の仕掛ける策に乗ぜられないよう高度な政治判断をしたとする見方が欲しいと思う。部分ではともかく大局で伝来の高度な「和の政治」を具現したことになる。ちなみに勝海舟も西郷隆盛も陽明学者の系譜で捉えることができる。或いは縄文知性派とも看做すことができよう。

 徳川幕府崩壊後の勝静はその後、老中の職を辞任し、家督を世子の勝全に家督を譲り、父子ともども日光山に隠遁する。勝静親子の流転が始まる。徳川慶喜が江戸城を明け渡して後、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。箱館戦争の帰趨が見え、がもはやこれまでの状況に追い詰められた勝静に対し、松山藩士の憂情ひとかたならず、方谷らの策でプロシア船に乗船し江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は死一等を免れ、支藩である群馬県の安中藩に御預けの身(終身禁固)となった。

 徳川幕府は最期まで賢明懸命に時代を漕ぎ、遂に倒壊を余儀なくされた。勝静は最後まで忠誠を尽した忠臣としての履歴を遺した。生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようがない」と語っている。その勝静の知恵袋に方谷が位置していた。方谷は、政局重大事の事有るごとに勝静に訊ねられ、的確な処方箋を呈示している。方谷なければ勝静なく、その方谷を活用しきった勝静の英明さが称えられるべきであろう。こういう関係において捉えたい。歴史は常に勝者の側から語られる。一時なりとも板倉勝静と方谷が処断した幕末政治は歴史の陰に隠れているが、再評価される日も来るであろう。

 こうして三百年続いた江戸幕府が倒れ、明治新政府が創業された。幕末維新は明治維新へと永続革命された。ここまでは良い。その後の明治維新がどのように歪曲されたのかが問われねばならない。その最大の問題は、明治新政府に次第に国際金融資本のエージェントが入り込み、それと共に幕末維新派の有能士が退けられ、最終的に士族の反乱で一掃されたことではなかろうか。新政府の樹立から征韓論での下野までにつき、こういう見立てが欲しいと思う。しかしながら、通説は、士族の反乱は士族身分解体に対する抵抗と云うエゴイズムにより引き起こされ、鎮圧されたとしている。西郷の征韓論は征韓論ではなく、むしろ和韓論であった。にも拘わらず征韓論として歴史偽造され続けている。そういう通説を鵜呑みにする西郷論が流され続けている。

 この説に疑問を湧かさない知能の者に説いても馬の耳に念仏でしかないが、その後の日本の帝国主義化、好戦化、台湾、朝鮮の併合に続く中国大陸への侵略、その定向進化の果てに大東亜戦争が待ち受け、最終的に日本民族ジェノサイドの危機の淵に追い込んだ背後に国際金融資本の狡知があったこと、今なお蠢いていることを見て取らねば歴史を学んだことにはなるまい。国際金融資本の奏でるシオニズムテキストをなぞって事足れりとしている事大主義では歴史の真実が見えてこない。そういう意味で西郷論の書き換えが望まれていよう。

 2012.3.14日 れんだいこ拝

【菅政権に対するれんだいこ書簡-和魂洋学に立ち戻れ。その5】
 2011年1月 9日付けのれんだいこブログ「菅政権に対するれんだいこ書簡-和魂洋学に立ち戻れ。その5」を転載しておく。
 さて、ここで尊徳先生の出番となる。漸く戻って来れた。ここまで整理しないと、今なぜ尊徳思想が必要なのかが見えてこなかったからである。今はっきりと云える。ネオシオニズム派により仕掛けられている日本凋落、解体、分割統治の悪夢のワナの仕掛けから抜け出す為の叡智として、今こそ尊徳思想が復権されねばならないのではなかろうか。尊徳思想の目線は人民大衆に厳しいが温かい。人の何たるか、世の何たるかを弁えて、辛い甘いの手綱宜しく日本改造を指針させている。れんだいこが思想だと云う所以である。

 その中でも、れんだいこがハタと膝を叩いたのは、今で云う起業家、経営者の窮状に適宜な立て直し基金を貸し付け、立派な納税者として再登場するよう救援していることである。決して今時の無償給付金の方法は採っていない。何事も一味違うと云うべきだろう。まず民力を向上させ、その納税増を通して国家再建を図ると云うグランドデザインも打ち出しており素晴らしい。現在の日本の政党で、尊徳思想に基づく政治をはっきりと指針させているところはない。あるのはネオシオニズム派の御用聞きの一番手二番手を争う政党ばかりである。これでは幾ら投票権を得たとはいえ、投票に行くことが空しい。

 その尊徳思想は戦前の皇国史観に取り入れられ、皇民教育に利用された経緯があるが為に戦後民主主義時代を迎えるや仕舞いこまれた。戦前は恐らく殆どの小学校に立像されていた二宮金次郎像は、戦後になると意図的故意に取り壊された。よってれんだいこの如く尊徳思想を知らぬままに還暦を迎える者が殆どとなっている。しかし、尊徳思想を知った今、これを称揚せずにはおれない。戦後教育が天皇制皇国史観を説かなくなったことは良いとしても、尊徳思想を消す必要はどこにあったのだろうか。れんだいこには解せない。察するにネオシオニズム思想から見て好ましくなかったと云うことではなかろうか。

 ところで、尊徳と同時代の農政家として大原幽学が居る。尊徳ほど知られていないが大変な人物である。れんだいこ評によれば、尊徳が幕末日本の世直し右派とすれば幽学は左派に位置する。二人は鮮やかな対比を示している。れんだいこには両者とも興味深い。この二人と、もう一人の同時代の天理教教祖・中山みきの生き様とを合わせ、幕末日本に咲いた有能の原日本人的土着思想の質の高みを確認してみたいと思う。

 公認歴史教本はこういうところを教えない。故に自力で学ぶしかない。これらの教学が共にネオシオニズム学といかに対極的なそれであるか、ネオシオニズム学の虚妄に比して如何に有能な実用学であるのか、ネオシオニズム学の闘争理論に比して如何に共生理論であるのか、21世紀時代の学問としてどちらが採り入れられるべきなのか、こういう関心をもって追跡してみたいと思う。

 興味深いことは、日本史は政治舞台の重要な局面になると地霊とも云える縄文的な知性が湧出し回天運動を起し、あるべき姿に戻すことである。最近の例では、戦後日本の再建エネルギーがそうであった。その前には幕末維新を引き起こしている。その前は戦国時代から織田、豊臣、徳川政権への回天である。その前は云々と辿るとキリがないので控えるが、日本はこうして神州としての自律自存を確保してきた。ここで云う神州とは天皇制と云う意味ではない。もっと奥行きが深く天皇制をも包摂する縄文的神州思想と理解した方が正確である。この点でネオシオニズに籠絡された形で始発した近代天皇制をもって天皇制の有るべき姿と勝手に鼓吹する下手な右翼は恥じて口をつむらねばならない。戦後のネオシオニズム化された拝金右翼は云わずもがなである。

 さて、今日本は再び回天運動が要請されているのではなかろうか。既に地霊が動き始めているのではなかろうか。それは間違っても、菅政権が向かおうとしている方向ではない。逆の路線である。れんだいこには、この足音が聞こえる。多くの同志が立ち上がり、かってと同様に倒れ、続くであろう。我々にはこの道しか残されていない。それで良いのではなかろうか。今尊ぶべきは義民思想ではなかろうか。下手なイデオロギーを振り回さず、日本古来のたすけあい精神に則り尊徳思想的経世済民の道を尋ねて行くべきではなかろうか。救国、救民族共同戦線の広域ネットワークを構築し、この難局に立ち向かうべきではなかろうか。消費税増税の道は間違いなく滅びの道であり、ゆめ騙されてはなるまい。

 2010.6.20日 れんだいこ拝

 2017.5.14、日本大学教授・先崎彰容(せんざきあきなか)年頭にあたり 蹶起した西郷隆盛が「死」と差し替えに遺したメッセージは何か? 新年に問い直す「抵抗の精神」 」。
 明治10年、9月24日昧爽(まいそう)のことである。今年からちょうど140年前のこの日、号砲を合図に官軍は進撃を開始した。場所は現在の鹿児島市城山。言うまでもなく、西郷隆盛率いる「賊軍」との数カ月におよぶ西南戦争の、最後の総攻撃がはじまったのである。300人程度の西郷軍を、数万人の官軍が包囲しての戦闘の決着はすみやかであり、硝煙くすぶる早朝の城山を、あたかも血を洗い流すかのごとき大雨が降り注いだと伝えられている。

 ≪西郷隆盛を擁護した福澤諭吉≫

 だがそれにしても、この雨水とともに流れ去ったのは官軍と賊軍に分かれて戦った日本人の血だけなのであろうか。もしかすれば、「西郷隆盛」という巨大な精神までもが、私たちの中から流れ去ったのではなかったか。西郷散るの一報が全国を駆け巡り、賊軍の総大将を批判する論調が圧倒的ななか、意外にも一人の思想家が西郷を擁護した。福澤諭吉である。「意外」と言ったのには理由がある。福澤といえば、西洋文明のわが国への導入を何よりも切実に願った人物であり、啓蒙(けいもう)思想のチャンピオンとして、戦後思想史で最も肯定的に研究されてきた人物である。対する西郷は、封建武士の精神までも引き受け、彼らの最高指揮官として必敗の西南戦争を戦った。西洋文明の明るい色調の福澤と、どこか復古的で後に右翼から担ぎあげられる西郷の相性は、あまり良さそうには思えない。しかし、それは皮相な西郷像である。実は西郷自身が福澤の著作を高く評価し、主著『文明論之概略』を後進たちに読むよう強く促していた逸話があるからだ。福澤曰(いわ)く、「文明は一国人民の智徳を外に顕(あら)わしたる現象なりとのことは、前既にこれを論じたり。而(しか)して日本の文明は西洋諸国のものに及ばずとのことも、普(あまね)く人の許す所なり」

 ≪文明社会に必要な自主独立≫

 文明とは国民一人一人の智恵と道徳心を総和したものである。そして日本文明を西洋のそれに比べたとき、われわれは明らかに後塵(こうじん)を拝しているのだ-こう力説する福澤の言葉に、140年後の私たちが触れるとき、どこか古色蒼然(そうぜん)とした印象をもつはずである。戦後の高度経済成長とバブルすら私たちは経験した。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代もあったし、「世界第2位の経済大国」とは、つい最近まで耳慣れた言葉だったはずである。だとすれば、今更、福澤諭吉など読む必要などないではないか。ましてやその福澤の著作を評価したという西郷隆盛もまた忘れるべきではないのか。

 福澤は西南戦争終結後、にわかに筆を執り評論『丁丑公論』を書いた。西郷が今回の蹶起(けっき)で示したもの、それは日本国民の「抵抗の精神」に他ならない。確かに武力によって政府に異を唱えるのは、自分と方法がまったく違う。しかし武士の気風を重んじた西郷の精神は、文明社会をつくりあげるためにぜひとも必要だと思われた。すなわち自主独立の気概こそ、西郷がわれわれに死と差し替えに遺(のこ)したメッセージなのであり、もし彼が矛を収め、地方自治の勉強に邁進(まいしん)していたら、今とは違った明治国家像が見えてきたかもしれないのだ。

 ≪立ち止まる者が見当たらない≫

 福澤と西郷に共通しているのは、当時の明治藩閥政府とその下に生きる日本人への違和感である。城山の露と消えた西郷に対し、屍(しかばね)に鞭打つように政府も人びとも非難を繰り返している。でも、こうした人たちこそ、西南戦争以前までは西郷を崇拝していたのではないか。ある時代ある時期「正義」だといわれた評判を信じこみ、同じ人間を肯定したり否定したりしている。これこそ日本人にとって最大の危機、「抵抗の精神」の欠落を何よりよく示しているとしか、思えない。世間全部が非難へと転向するとき、立ち止まって「本当にそうか」と詰問すべきはずなのにそれを行う者が見当たらないことを福澤は憂慮した。大久保利通から伊藤博文を経由して達成されていく近代化に福澤と西郷は批判的である。つまり両者はともに「反近代的」なのである。

 それから140年という月日がたった。戦後、経済的勝利の美酒に一度は酔った私たちは、確かに西洋文明の後塵を拝していると思うことはなくなっただろう。だがしかし、世間で何の疑いもなく流通している価値観-たとえば憲法問題や原発問題-に「抵抗の精神」を抱いているか、といわれれば心もとない。こうした価値観に再考を迫る以上、私たちに安易な断定や臆断は許されない。福澤があれほどまでに言論の自由を主張し、学問と勉強の重要性を説いたことを年頭にあたって思いだすのも悪くない。そのとき明治10年、死とともに西郷が差し出した精神は、私たちの心にまで届いているのかも、しれない。





(私論.私見)