日本の心、日本精神論史考

 (最新見直し2012.03.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日本の心、日本精神論史考」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


【日本の心、日本精神論史考】
 ここでは、時空を超えてみきに結実した「原日本の心、精神」が、その後どのように継承されていったか、あるいはみきを経由せずとも同じような「原日本の心、精神」を抱いた人士を確認しつつ「原日本の心、精神」とは何かを解析してみたい。これについては以下のサイトに記している。

 別章【日本の心、日本精神考
 (kodaishi/nihonseishinco/top.html)


 上記サイトで採り上げたのは保田與重郎、岡潔、山鹿素行、西郷隆盛、田中角栄、早川一光であるが他にも無数の才士が居る。天職も様々である。世に有益な仕事をしている者は、名ある指導者から名もなき民まで皆な、この「原日本の心、精神」をエネルギーにした者ばかりとさえ言えるほどである。内容が高度故に、その「原日本の心、精神」を概括するのは難しいが以下、筆者なりに要点整理しておく。


 
本書の「邪馬台国女王卑弥呼との接点考」で述べたが、「原日本の心、精神」とは要するに、歴史的に見て、記紀神話で垣間見る大和王朝以降の日本精神ではなく、それ以前の出雲―邪馬台国王朝期までに確立され陶冶されていた助け合い社会の息づかいを云うのではなかろうか。これは一言では云えない、云う必要もない、あらゆる分野で自然即応的な「原日本の心、精神」を踏まえて「一手一つ」になって踏み行う人々の営為の集合体を云う。その「一手一つ」も強制のものではない。銘々が自由自主自律自衛で応じ、結果的に共存共栄的な助け合いになる心、精神、行いを云う。みきは、これを、「元の理譚」で完璧に表現した。そのでき栄えはまさに神技と云うしかない。

 
「原日本の心、精神」を政体で云えば、大和王朝以前の出雲王朝時代の大国主の命政治に体現したものを云い、その大国主の命が模範として服していた日本の古神道を基盤とすると云い直すことができるのではあるまいか。大国主の命政治を知るには記紀神話から読みとることができる。あるいは出雲風土記がある。これをもっと知るには古史古伝の一書であるホツマ伝えがより詳しく記している。これを一言で云えば、「民の竈(かまど)政治」と云いえよう。「民の竈」は記紀神話に於いては大和王朝時代の仁徳天皇の政治の下りで登場するが、これの本家は出雲王朝時代の大国主の命の政治であろう。「民の竈(かまど)政治」は、仁徳朝が始発なのではなく、出雲王朝時代の大国主の命の政治が大和王朝御代に下っても継承されたと見るのが歴史的に正しいように思われる。 

 そういう訳で、大国主の命が模範として服していた日本の宗教について確認してみよう。これを古神道と云うが別名を縄文神道とも云う。記紀神話より始まる天皇制皇国史観に収斂する神道と識別する為の謂いである。そういう意味で、筆者には、それ以前に確立されていた神道を古神道もしくは縄文神道、その後の天皇制皇国史観神道を新神道と見なすのが歴史的に正しいように思われる。尤も、新神道が日本神道として定着して以来既に千年余を経過して居るので、これを新神道と云うのもそぐわない。故に、単に神道もしくは日本神道(以下、「日本神道」と記す)、それ以前の出雲王朝―邪馬台国王朝期の神道を古神道もしくは縄文神道と命名して識別するのが良いと思われる(以下、「古神道」と記す)。

 
「原日本の心、精神」は、日本神道をも包摂するが主として古神道に体現される心、精神を云う。この分別を得ないと「原日本の心、精神論」は空回りしてしまう。「原日本の心、精神」が論ぜられるに当って、この分別のないままの即ち古神道と日本神道の識別がないままの論が多過ぎる。例えば、日本神道系の明治維新以来の近代天皇制及び皇国史観を是認補強する為に古神道的教義で補強すると云う按配である。確かに、日本神道は古神道をも過半を継承して居るので、或いは既に混然一体となっている面もあるので間違いと云うのではない。但し、古神道からは近代天皇制及び皇国史観を是認できるものではないとしたら、古神道的教義で近代天皇制及び皇国史観を補強するのは筋違い、お門違いと云うべきだろう。従って、古神道に盲目無知なままの日本神道論ほど迷惑なものはないと云うことになる。

 そういう訳で、古神道とは何か、これにもう少し言及しておくことにする。興味深いことに、古神道には他の宗教に比すべき特段の教義がない。古神道に認められるのは祝詞(のりと)と礼儀作法ばかりである。極意は感じ取るものとされており、口伝になっており、不立文字的に崇敬されている。そういう古神道をユダヤ―キリスト教的な宗教論で評すると、原始的な無教義宗教にして呪術宗教に過ぎないとして格下的に扱われることになる。自然の働きの中に諸神を見るとする汎神論的世界観を構築しているのも、ユダヤ―キリスト教的宗教観から見れば未開な宗教としてみなされる素因になっている。しかしながら、日本の古神道は実は未開な宗教ではない。ユダヤ―キリスト教的宗教観では測れない別系の先進的宗教である可能性が高い。以下、これを立論してみようと思う。


 これを説明するには、日本の古神道の言霊論から入らねばならない。言霊論が日本語論へと続くことになる。筆者がここで何を云いたいのかと云うと、古神道の不立文字性は実は不立文字ではなく、まさに汎神論的に言霊として日本語の中に生きており随所で文字化している。果たしてこれを不立文字と云うべきだろうかとの疑問を強くしている。敢えて云えば、日本の古神道に教義がないように見えるのは、文献としての教義書がないだけで、実は日本語の言葉と文意の全てに貫通しており、むしろ膨大過ぎるほどの文献を持っていると見なすべきではなかろうか。そういう訳で、古神道とは何かを解明する為には言語論に入らざるを得ない。日本語論については以下のサイトに記している。

 別章【言語研究
 (gengogakuin/
gengokenkyu/gengokenkyu.htm)

 別章【上古代史研究
 (kodaishi/jyokodaico
/jyokodaico.htm)


 これによれば、上古代の日本で世界史的に冠たる言語革命が行われた可能性が強い。その白眉は、言語の基礎として母音5、子音10系から成るアから始まりワで終わる48音を創造したことにある。この48音は、宇宙、自然、人間世界に貫通する諸作用たる摂理から汲みだしている。それぞれが作為的な表音的言語記号ではなく、宇宙、自然、人間世界に貫通する諸作用を象(かたど)った摂理的な表意的言語記号になっている。故に、48音それぞれが言霊的な意味を持って一音一意している。これ故に哲理文字と云われる。これを仮に「日本語の基底48音制」と命名する。


 この言霊性は48音に限定されない。48音を駆使して生み出す言語文全体に影響を及ぼし、言葉全体が響きとリズムと音韻を持って言霊性を帯びると云う仕掛け、構造になっている。これを仮に上古代日本語と命名する。上古代日本語の特殊性により、自然と和歌が生み出されることになった。和歌は、「日本語の基底48音」を駆使して綾なす芸術言語である。こうして上古来より和歌が堪能されることになった。今日、万葉集が遺されているが、万葉集的和歌は相当古くから否上古代日本語の誕生と共に随伴してきたことが推測される。ここに日本語の魅力がある。世界広しと雖も、このような言語は他にはないのではなかろうか。


 一説によると、上古代日本語の言語構造は、現代物理学が発見した原子の配列規則性に基づいていると云う。驚くのはまだ早い。この日本語は、原子の配列ばかりでなく現代生命学であるDNAの二重螺旋構造をも先取りしていると云う。これをもう少し説明すれば、現代生命学は、1953年、ワトソン博士とクリック博士により遺伝子(DNA)のX線解析研究が行われ、生命の本質として遺伝子が二重螺旋構造状になっていること(「ダブルへリックス(二重螺旋)遺伝子の構造」)、人の生命が46本の染色体を持っており、男女23本づつの染色体が結び付いて46本の染色体を持つ新たな生命を誕生させていることを明らかにした。
何と上古代日本語は、この遺伝子の二重構造を先取りしている。即ち、上古代日本語の一つであるホツマ伝えの記す「あわの歌」では、48文字が半分ずつに分けられ、「あめみの柱」を左回りする男性イザナギの「あ」に続く23+1の言葉と、「あめみの柱」を右回りする女性イザナミの「わ」に続く23+1の言葉とが掛け合わされている。あたかも、現代生命学の説くDNAの二重螺旋構造、男女23本づつの染色体が結び付いて46本の染色体を持つ新たな生命が生み出される秘密を言葉で表象している感がある。「あわの歌」は長い間理解されなかったが、現代生命学によって「生命法則」を伝えているものであることが判明した。これらは卒倒すべき日本語の秘密である。つまり、日本語は超科学的な芸術言語化している。こう窺う必要がある。

 上古代日本語48音はやがて50音になる。これを仮に古代日本語と命名する。この古代日本語が現代日本語へと至っている。日本語は、「基底50音制」を発明した故に他の言語に比して優位に立ち、それ故にその後の他言語との接触に於いて日本語を失うことなく否むしろ日本語を主として他言語を咀嚼しつつ取り入れることに成功すると云う芸当を生み出すことになった。日本古代史に於いて中国の漢字文明と出くわすや、何と中国式漢字言語を日本式漢字言語に転換せしめて摂取せしめた。これを万葉仮名と云う。万葉仮名を使った文章は、一見すると全て漢字故に中国語と錯覚するが、何のことはない「日本語の基底50音制」に合わせて漢字を当てはめただけの、れっきとした日本語文である。


 この万葉仮名にも歴史があり、当初は日本語の意味には無関係の、ただ発音に最も近い漢字を当てはめていたのが、次第に音だけでなく意味をも近い漢字を探し出すと云う言語技術を錬磨させて行くことになる。その果てに平仮名と片仮名を生み出し、漢字混じり平仮名文あるいは漢字混じり片仮名文を創造するに至った。この競合は漢字混じり平仮名文が勝利し、この時、片仮名をも摂取した漢字及び片仮名混じり平仮名文なるものを創造して今日に至っている。この時、片仮名は、漢字や平仮名では表記し難い外国語、擬態語表記に使われることになった。その他記せばキリがないほど豊かな言語革命を経て今日の日本語へと辿り着いている。


 筆者がなぜこのことに拘るのか。それは、漢字及び片仮名混じり平仮名文なる日本語の中に同時に「原日本の心、精神」とも云うべき古神道が不即不離的に縫着しているからである。即ち、日本語を口語し文語する不断の中に古神道が生ていると云う構造になっている。これを思えば、古神道に教義書がないというのも尤もで、正しくは日本語の全てが教義書であり、どれを取り出すと云うことができないのではないかと思っている。もとへ。そういう意味で、日本語に通じ、日本語を愛し、日本語を咀嚼するそのことに於いて「原日本の心、精神」が息づいていると云える。このことを特段に力説する訳でもなくさらりと継承しているところがこれまた「原日本の心、精神」そのものであり、らしいところである。この秘密を誰に云われ習う訳でもなく理解し受容して来た者が「原日本の心、精神」派である。してみれば、日本語に慣れ親しむ全ての者が潜在的に「原日本の心、精神」派と云うことにもなる。

 但し、この「原日本の心、精神」派は、1853(嘉永6)年の公然たるペリー艦隊黒船の来航、1854(嘉永7、安政元)年の再来航による日米和親条約の締結に始まる幕末開国によって、かっての中国文明とは異質の日本史上初めての存亡の危機に遭遇することになり今日へと至っている。衆知のようにペリー艦隊黒船は単に西欧文明を運んで来たのではない。同時に日本語では咀嚼できない言語として全く異質のアルファベット文字言語を押し付けてきたところに問題がある。日本はさすがに母国語を失うことなく、道中、日本語放棄の度々の危機を凌いで今日まで日本語を継承して来ている。、但し、今後は予断を許さない。黒船来航より2020年時点で167年と云う歴史時間を経ているが次第に黒船言語とも云うべき英語がに公用語とされる日に向けて着々と進みつつあるように思われる。これにどう対処すべきかが文明的に問われている。

 
筆者が思うに、世界共通言語が必要とすれば、それが英語になるのは構わない。しかし、このことは、母国語を放棄せよとされるには及ばない。各国は各国の母国語を保持しつつ世界共通言語を学べばよいだけのことである。世界共通言語が、各国の母国語の放棄を強制しつつ世界共通言語を押し付けるのは許し難い暴力であり愚弄でしかない、と思うべきではなかろうか。

 既に述べたように、宇宙、自然、人間世界に貫通する諸作用を象(かたど)った摂理的な表意的言語記号は日本語を措いてない。日本語が人類史的財産であるとすれば、日本語こそが世界共通言語になっても何らおかしくはない。今後は、各国各民族が母国語を保持しつつ英語と日本語を学んでも良いと思っている。世界共通言語としての英語だけを人類に強制していくような政策ほど傲慢なことはないと考えている。


 以下、簡単に日本語の良さを確認しておく。日本語の漢字及び片仮名混じり平仮名文は、第一に、漢字、片仮名、平仮名が秩序づけられて文章化されることにより、見た目にも柔らかいと云う点である。第二に、漢字を取り入れていることにより、文意が一目で視覚的に理解できることである。これは例えば新聞を広げた時、英文と日本文の差がはっきりしよう。第三に、外来語を片仮名及びアルファベット文字で表記することにより外来語を識別しつつ表記できることである。これは例えば、中国語と日本語の比較をすればはっきりしよう。片仮名を使って擬態語を表記できる点も便利である。第四に、日本語の多義語(こと、もの、ところ等々)は漢字では表現できにくいところ、平仮名で表記することで意味を保全するという芸当もある。その他その他数え上げればキリがなかろう。


 「日本の心、日本精神論史考」が今何故に必要なのか。それは、史上初めて日本語を失い、日本語に随伴してきている「日本の心、日本精神」が失われる危機に遭遇しているからである。これは、ここ暫くの動きでは分からない。黒船来航後の趨勢として徐々にその方向に誘導されており、このままで行くと近未来に於いて、アルファベット語の第一位的地位にある英語が世界公用語として押し付けられることにより日本でも母国語たる日本語が公用語としての地位を失う恐れがある、と云う歴史的流れで捉えなければならない。果たして、人類史上最大の貢献とも思われる言語芸出の粋たる日本語を喪失して良いだろうか。


 何事も反対だけでは堰き止められない。これを責任を持つ形で真に阻止するには逆に積極的に打って出ねばならない。今こそ日本語共栄圏を創りだす必要があるのではなかろうか。以上見て来たように日本語は世界公用語となる資格が十分にあり、今後の世界は母国語、公用語としての英語、日本語が使われる時代に向かうべきではなかろうか。

 「日本の心、日本精神論史考」の最後に記しておきたいことは、日本の学問が、黒船来航以降、西欧的学問と云う名の実は黒船来航の仕掛け人である国際金融資本帝国主義の奏でるネオシオニズム系学問をもって学問とすると云う風潮を強め、従来の日本的学問が大きく変質せしめられている危機についてである。これを語ればキリがないので結論のみ記すが、ネオシオニズム系学問とは「日本の心、日本精神論」とは水と油の真逆の学問体系である。しかも、その空疎性が夥(おびただ)しい。

 
その顕著な例が連中の奏でる著作権論である。その論法によれば、著作権文化の発展を期すると云う建前を吹聴しつつ著作権文化の衰退に手を貸すような様々な規制を張り巡らすことに嬉々とする。ネオシオニズム系学問は至るところで、そういう二重基準を得手としている。筆者は、そういう学問と早く決別し、本来の実践的有用な日本式学問に戻すべきではないかと考えている。この指摘をもって本稿の締めとしたい。

 
2012.3.14日 れんだいこ拝

 「2020.5.10日、泰井 良の物質文明の終焉 」。
 西欧社会が追求してきた物質文明、機械文明が、終わろとしている。人間の物欲主義、これには限りがない。それによって、自然や地球環境が破壊されてきた。日本も明治になって、西欧を模倣し、物質文明を追い求めた。その末路が、太平洋戦争敗北である。この戦争では、人類の物質文明の極致である核兵器が使用された。西欧文明の悲惨さが示された。マルクスも、物質文明の檻から逃れられてはいない。...原発もリニアも、地球環境の破壊でしかない。ただちに、やめるべきだ。 一方、日本人は、自然を慈しみ、自然とともに暮らしてきた。自然を科学によって征服しようとした西欧人とは、対照的な考え方である。この日本人の考え方は、これからの未来を生きていく上で、人類に大きな示唆を与えるのではないだろうか。

 芸術においても、科学文明に支えられた西欧の美術とは異なり、日本の美術には、自然とともにある考え方が端的に表れている。遠近法によって、すべての対象を科学的に、人間中心の尺度で図るのではなく、日本の美術には、「余白」という素晴らしい考え方や表現法がある。余白は、未完成ではなく、そこに無限の広がりがある。つまり、観者の創造性にすべてが委ねられている。これこそ、自然にすべてを委ねる日本人の叡智ではないだろうか。コロナウィルス禍を教訓とし、今こそ、物質文明と決別し、自然に帰るべきだと思う。





(私論.私見)