お道教理の共産主義性、マルクス主義とのすりあわせ考

 更新日/2018(平成30).6.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お道教理の共産主義性、マルクス主義とのすりあわせ考」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


お道教理の「共産主義以上の共産主義性」について
 第二。この宗教の特異性を、教義と教団の二つの側面より社会思想的に把握してみたいという衝動を覚える。「お道」教義の原形はこの問いに充分な価値を有していると思われるが如何なものであろうか。既に述べたが、私は、今日のように道人となるまでは「お道」とは親の代まで含めて格別の絡みもなく、当時の興趣の赴くところとしても、「みき」に特段の関心があるわけでもなかった。むしろ70年代の学生運動の片隅に身を寄せていた者として、宗教を阿片として一顧だにしない立場にあった、というのが実際であった。そうした私が、「おじば」に引き留められたのは、「みき」の教義と「ひながた」の内に、或る種の社会思想的な芳香を見出したことによる。運動論的にみても、「みき」を取り巻く一団の内に半端でない教義とその実践が現在の教典の中にさえ見え隠れしているのだ。教祖の教えが「復元」しきれていないという批判が尤もであると思われる現在の教典を通してさえそうなのだ!

 それまでの私がそう認識していたように、宗教的なものにうさん臭さを感じて一顧だにしない立場からは評価不能であるけれども、教祖みきは、時の支配権力と支柱思想の攻撃をまともに受けながら、打ち出した教義を毅然と掲げつつ、80歳から89歳までの高齢の身を幾度も獄舎へ拘引されると云う事態を忌避しなかった。この「みき」の生きざま「ひながた」は、近代宗派のどの教祖、社会運動家のそれと比較してみても遜色ない壮絶さを刻印している。事実、戦後GHQ指令により治安維持法違反で投獄されていた主義者の解放が為されたが、共産主義者以外に「ほんみち」信仰者が混じっていたことが見落とされている。この「ほんみち」とは「みき」教理の原理主義者であり、共産主義者に比して見劣りしないどころか、共産主義者が思想検事との論争に破れ次々と転向投降して行ったのに比して、思想検事相手に徹底弁論して一歩も引かなかった。まことに敬服される抵抗闘争を獄中、獄外で繰り広げた経過を見せている。このことは「みき」信仰者の大きな財産となる史実ではなかろうか。

 組織論的には、教祖の指図にも関らず既に渦巻いていた妥協派が「応法の道」を択ぶことにより、変節を余儀なくされることになったわけであるが、頑として抵抗を続けた天理教の生成期の歴史は、日本の民衆運動の経験に今も燦然と煌めいていないだろうか。れんだいこは、実は幕末新興宗教全体が幕末維新を下から支えたもう一つの流れであり、むしろこちらの方が幕末維新の正統系譜ではなかろうかとさえ思っている。この方面での宗教史的研究は漸く明らかにされつつあるようであるが、未だ充分のものとも思えない。

西欧のマルクス、東洋のみきについて】
 第三の二「みき」在世中の時代が丁度西欧でのマルクス主義の勃興と同時期であり、よく似た共産主義社会を展望しているので「西欧のマルクス、東洋のみき」の視座から論じたい。この教義運動を可能な限り社会主義思想的脈絡で考察してみたい。草創期の「お道」に脈動していた「陽気暮らし」の思想を、時を同じくして興った西欧のマルクス.エンゲルスの共産主義社会理論との平衡的理解のもとに注目させてみようと思う。これも又興味の湧く課題である。私は、この両者が世界史上同時代人であって、片やいかにも西洋的に、こなたいかにも東洋的な手法で、洋の東西にわたって拝金社会制に纏わる弊害を同時期に警鐘乱打していた歴史の不思議さと共鳴現象に驚きを覚えている。更に云えば、マルクス主義がネオシオニズム的要素を臭わせているのに比して、「みき」のそれは日本古神道的匂いを漂わせている。この点で、「みき」の社会主義思想こそ求めるべきものであり、マルクス主義のそれは「みき」の社会主義思想を媒介させることによって新たに孵化させられるべきものでないのか。

 こうした思いを禁じえないのは私だけなのだろうか。この方面での識者の論及が極端に不足していることは不可解であると云える。それは、日本の知識階級の、西洋事大主義的な偏狭さと傲慢さ、その裏腹の臆病な精神によっているとしか思えないのであるが如何であろうか。追記すれば、この同時代にアメリカにおいてもモルモン教が起こっている。その教義の何たるかは承知していないが「陽気暮らし」的処世観を掲げていることにある時気づかされた。従って、ことによると西欧でのマルクス主義、日本における「みき教理」、アメリカでのモルモン教という同一系の思想が同時に誕生していたという史実がありそうである。時間があれば、この研究を為してみたいという思いを禁じえない。

【マルクス主義とのすりあわせ考】
 ここでは、「マルクス主義とのすりあわせ」について記す。みきの御教えとイエスのそれの通底については既に確認し、「西の男イエス、東の女みき」と評すべき「二つ一つの関係」に位置しているとした。ここでは、「マルクスと中山みきとの関係」について考察してみたい。みきとイエスの場合には共に霊能系宗教者として等質のものがあったが、みきとマルクスには、そういう関係は認められない。というよりマルクスは「宗教はアヘンである」とする観点を保持しており、そういうマルクスとみきとの間に如何なる等質性が確認できるだろうか。

 「マルクスと中山みきとの関係」について驚くべきは両者がほぼ同時代人であることである。マルクスの生没年は、1818−1883年、中山みきは1798―1887年であり、中山みきの方が20年早く生まれているが壮年期の活動に於いては重なっていると看做すべきだろう。興味深いことは、ほぼ同時期に西欧でマルクスと中山みきがが共産主義思想を鼓吹していたことである。もっとも両者の主義思想の内実には多少の違いがあり、マルクス的共産主義は戦闘的で専ら政治闘争を重視している。それに対して中山みきの共産主義は和合的で専ら精神の在り方、生き方を問おうとしている。そういう違いはあるが、マルクスの共産主義は西欧的に、みきのそれは東洋的日本的に同時期に唱えられた点がもっと注目されてしかるべきではなかろうか。詳しく見れば理想とする共産主義社会の内実も違うかもしれない。が、人々の共生的な社会を構想していた点では微塵も変わらない。  

 これを説き明かす前にマルクス論を試みておきたい。マルクスについては以下のサイトに記している。

 「マルクス主義出藍考」
 (marxismco/)

 「マルクス主義原理論」
 (marxismco/genriron/genriron.htm)

 マルクス主義は、「共産主義者の宣言」で確認することができる。その理論の要諦は次の通りである。まず、哲学的な唯物論と弁証法を組み合わせた唯物弁証法を認識の核としており、これを社会に向けて階級闘争論を構築している。人類史を俯瞰して原始共産制、古代王権制、中世封建制、近代資本制へと移行しており、来るべき社会は社会主義ないしは共産主義へと移行する、これが歴史的必然の発展行程であると説く。これを無政府主義者の如く反権力に向かうのではなく、むしろ革命権力を善用して強権的に社会主義ないしは共産主義へと移行させる必要があると説く。この理論は、哲学から始まる社会観、世界観で統一されており、永らく革命運動の中心的理論として崇拝されてきた。

 
共産主義のイデ―は次の言葉に集約されている。「社会主義は労働に応じて分配され、共産主義は必要に応じて供給される理想社会である」云々。これに匹敵するのがみきの「助け合いの神人和楽社会」である。今、両者を比較して思うのに、まさにマルクスのそれは西欧的な理知的表現であり、みきのそれは東洋的日本的な情意的な表現である。筆者は、理知的表現の方が優位とは思わない。情意的な表現の方が優位とも思わない。歴史的伝統的なアプローチの仕方の差異を思うばかりである。
 
2012.3.14日 れんだいこ拝

【マルクス&エンゲルスの「共産主義者の宣言」考】
 イエス教義を知るのに「山上の垂訓」をもってしたように、マルクス理論を知るのに「共産主義者の宣言」(れんだいこ訳)でもって確認したい。その全てを記す訳にはいかないので筆者がエッセンスを抽出する。
 妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪征伐の為の神聖同盟づくりに結託した。教皇とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの官憲スパイという具合に。凡そ、政権党勢力から、共産主義的だとののしられなかった敵対党がどこかにあるだろうか。凡そ、対立側の者で、より進歩的な敵対党派に対して、あたかも復古的な政敵に対するが如くに、共産主義という烙印の非難で中傷し返さなかったものがどこにあるか?

 この事実から二つのことがあきらかになる。1、共産主義は既に、ヨーロッパのあらゆる権力から、それ自身が或る力として知れ渡り認められている。2、今や絶妙のその時を迎えている。共産主義者は、政治的なその見解、その目的、見通しを全世界のまえに公表すべきである。そして、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時である。この目的のために、さまざまな国籍の共産主義者がロンドンに集まって、次の宣言を起草し、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、フランドル語およびデンマーク語で発表することにした。


 すべてこれまでに立ち現れてきた社会の歴史は、階級闘争の歴史である。用語上、自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人つまり抑圧するものと抑圧されるものとは常に相互に対立し、ときには隠然と、ときには公然と、いつの時代にも終息することなく闘争をおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも社会を大規模に革命的に改造して終わるか、さもなければ相争う階級の共倒れにおわった。

 封建社会の没落から出現した近代ブルジョワ社会は、階級対立を終らせなかった。それは、古いものにかえて、新しい階級、新しい抑圧状態、新しい闘争形態を持ち込んでしまった。我々の時代即ちブルジョアジーの時代は、階級対立を単純にしたというはっきりした特徴を持っている。全社会は、敵対する二大陣営に即ち直接相対立する二大階級につまりブルジョアジーとプロレタリアートににますます分裂しつつある。

 今日、ブルジョワジーと対峙しているあらゆる階級の中で、独(ひと)りプロレタリアートだけが正真正銘の革命的階級である。その他の階級は、近代産業に直面して、没落し最終的には消え去る。プロレタリアートは近代産業の独特なもっとも重要な産物である。

 これまでの歴史的運動というのはみんな、少数者の運動か、少数者の利害のための運動であった。プロレタリアの運動は、大多数者の、大多数者の利害のための、自覚的で自主的な運動である。現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会の全上部構造を空中に飛ばさなければ、身動きすることも、起き上がることもできない。内容においてではなく形式上は、プロレタリアートとブルジョワジーとの闘争は、まずは国内闘争である。個々の国のプロレタリアートは、もちろんなによりもまず、自国のブルジョワジー相手に諸問題の片をつけなくてはならない。

 ブルジョアジーがいやおうなしにその担い手となっている近代産業の進歩は、競争による労働者の分離の代わりに、結合による彼らの革命的団結に取って代えられる。だから、近代産業の発展が、ブルジョアジーが生産し、次々と産物を生み出してきた基盤そのものを、ブルジョアジーの足もとから取り去ることになる。という訳で、ブルジョアジーが生み出すものは、結局のところ自分達の墓堀人である。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、ともに避けられない。

 共産主義者は、どういう関係において全体としてプロレタリアの人々を支持するのか? 共産主義者は、他の労働者階級の諸党派に対立するような別個の党派を組織するものではない。共産主義者は、全体としてプロレタリアートの人々と分離したりその一部でしかないような諸利益を持たない。共産主義者は、どのようなものであれ特殊(セクト的)な諸原則を提起しない。セクト的な諸原則は、プロレタリア運動をその型にはめこもうとするものである。共産主義者が他の労働者階級の諸政党から区別されるのは、ただつぎの点だけである。すなわち
(1) 異なる国々でのプロレタリアの国内闘争において、共産主義者は、全プロレタリアートの共通の、一切の民族主義に左右されない利益を全面に押し出しつらぬく。
(2) 労働者階級のブルジョアジーに対する闘争の様々な成長段階において、共産主義者は常に且つどこにおいても運動全体の利益を代表し体現する。

 だから、共産主義者は、実践面では、あらゆる国の労働者階級の党のもっとも進んだ自覚的な部門であり、全ての他の者達の前衛として推進していく部門であり、理論面では、大多数のプロレタリアートよりも、プロレタリア運動の進むべき道筋や条件、究極の一般的成果をはっきりと理解している点で優れている者達である。 

 共産主義者の当面の目的は、他のどのプロレタリア諸政党とも同じものである。即ち、プロレタリアートを階級的に形成すること、ブルジョワ権力の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である。共産主義者の理論的諸結論は、あれこれの願望的改革論者が発明したり発見した理念や教条に基づいたものでは断じてない。共産主義者は、現存する階級闘争、それはまさに私たちの目前で進行している歴史的運動であるが、そこから生じている現実的諸関係を、ただ単に一般的用語で表現しているだけである。

 共産主義者はさらに、国家(祖国、country)と民族性(nationality)を廃止しようと望んでいるとして非難されている。労働者は国家(祖国)を持たない。持ってもいないものを、取り上げることなどできない。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得せねばならない。国家の支配階級にまで成り上がらねばならない。自らが国家として、更に云えば、言葉上ブルジョワ的な意味とは又違うそれ自身が国家的なものとして形成されねばならない。 

 プロレタリアートの支配は、こういった差異や対立を急速に消滅してしまうだろう。少なくとも文明諸国の指導による共同活動は、プロレタリアート解放の第一条件の一つである。他の者による或る個人の搾取をなくしていけばそれに応じて、他の国によるある国家の搾取も終息する。国家内の諸階級の対立が消滅して行けばそれに応じて、或る国家と他の国家との間の敵対関係もまた終焉するはずである。

 
共産主義に対して、宗教や、哲学や、そのほか一般に思想的な見地からくわえられている非難は、さほど真面目に検証するほどの値うちはない。人間の観念や見解や概念、一言でいえば人間の意識が、人間の物質的生存状態や、その社会的諸関係、その社会的生活の変化と共に変化することを理解するのに、深い洞察がいるであろうか? 思想の歴史が証するものは、精神的生産は物質的生産が変化するのに応じてその性質も又変化する、ということに他ならないのではないのか? 各時代の支配的な思想は、いつの時代でも支配階級の思想である。

 思想が社会を変革すると云われる時、次のような事実を表現している。つまり、古い社会の内部に新しい社会の諸要素がすでに創造されているということ、古い思想の解体は古い生活関係の解体と共にが歩調をあわせているということを。古代社会が断末摩の苦しみにあったとき、古代の諸宗教はキリスト教によって征服された。18世紀にキリスト教思想が合理主義的啓蒙思想に屈した時、封建社会は、当時の革命的ブルジョアジーと死闘を演じていた。

 だが、共産主義に対するブルジョアジーの抗議論は、これくらいにしておこう。以上に見てきたように、労働者階級による革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位へ持ち上げること、民主主義を廻る闘争で勝利を収めることである。プロレタリアートは、政治的支配権を使って、ブルジョアジーから全ての資本を次第にねじ伏せるようにして奪い取り、支配階級として組織されたプロレタリアートの権力を使って全ての生産用具を国家の手の上に集中せしめるよう意欲的に使うべきだ。そして、全生産能力を可能な限り急速に増大させるようにし向けねばならない。勿論、最初は、これは、所有権に対する、且つブルジョア的生産状態に対する、強権的な掣肘手段なしには効果的なものにならない。だから、この方策は、経済的には賢明でなく、支持し難いように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身を乗り越えて前進し、古い社会秩序をさらに侵害することを余儀なくし、しかも生産様式を全面的に変革する手段として避けようのない不可欠なものである。

 これらの方策は、勿論、国が異なればいろいろなものになるだろう。とは言っても、もっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり一般的に適用されるであろう。
土地所有を廃止し、全ての地代の分配を公共目的に充当する。
重い累進税又は等級制所得税。
あらゆる相続権の廃止。
全ての国外移民者(亡命者)及び反逆者の財産没収。
国家内の諸銀行の信用(クレジット)を中央集権化する。国家資本と排他的独占権を持つ国立銀行を通じて為される。
通信、交通及び運輸機関の国家の手への中央集権化。
国家に帰属する工場及び生産用具の拡大。未開拓地の開墾及び総合的な共同と計画による土地改良。
労働に対する万人の平等な義務。産業軍の編成、とくに農業の為のそれ。
農業と近代産業の結合。国中の民衆に対するより平等な分配を通じての都市と農村の差異の漸次的解消。
10 公教育の場での全児童に対する無料教育。現在の形態での児童の工場労働の廃止。教育と産業的生産との結合、等々。

 発展の進むにつれて、階級差別が消滅する。そして、あらゆる生産が、国中の広範大規模に協同した人達によって集中的に為されるようになるなら、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治権力とは、ただ単に一階級が他の階級を抑圧するために組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争を強いられている期間中は、諸情勢に相応しい力で、革命という手段を使ってみずからを階級的に組織する。みずから支配階級となり、強制的に旧い生産状態を一掃する。次に、そういう条件が整いしだい、階級対立及び一般的に階級の存在状態を一掃せねばならない。次に、階級としての自己の支配権力をも廃棄することになる。諸階級と階級対立を持つ旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会(アソシエーション)がきっと現れるであろう。

 共産主義者は、労働階級に、ブルジョワジーとプロレタリアート間の敵対について、できる限り明確に認識することを教え込むことを、一瞬たりとも止めない。それは、ドイツの労働者がただちに、ブルジョアジーがその支配とともに不可避的にもたらさざるをえない社会的および政治的諸条件を、そのまま武器としてブルジョアジーにむけることができ、こうしてドイツの反動的諸階級を倒したのち、ただちに、ブルジョアジー自身に対する闘争を開始するようにするためである。

 手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す。共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!

【れんだいこブログ記念「共産主義者の宣言のエキス読みとり考」(2011年1月 6日)】
 れんだいこブログ記念「共産主義者の宣言のエキス読みとり考(2011年1月 6日)」を転載する。

 「共産主義者の宣言」(通称「共産党宣言」、以下単に「宣言」と云う)を読んで何を学ぶのか、この肝心なところが案外と疎かにされている気がしてならない。いい加減な翻訳が流布され、それが通用したまま経緯してい。情勢的に見てマルクス主義なぞどうでも良くなりつつあるご時世であるから、「宣言」にマジメに取り組む方が変わっているのかも知れない。しかし云いたいことがあり、この一文を、れんだいこブログ開設記念とする。少々硬い話になるが性分だから仕方ない。「宣言」のどこを学ぶべきか、こう問う時、今日からして色褪せたところもある。しかし色褪せさせてはいけない示唆もあると心得たい。この色褪せてはいけない文言を今日の情勢に照らしつつ確認してみたいと思う。

 「宣言」は7部構成になっており、「前置き」以下の本文が「1・ブルジョアとプロレタリアート」、「2・プロレタリアと共産主義者」、「3・社会主義者及び共産主義者の史的考証」、「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」に分かれている。次に「人名注、事項注」、最後に「解説」を加えて冊子となっている。これがマルクス主義のいわばバイブルである。そう分厚いものでもないが、その割に仔細には読まれていない気がする。こういうことが許されるだろうか。ふまじめとしか云いようがない。

 ここでは、「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」の項の、共産主義者が種々の反政府党に対する採るべき態度及び立場を検討する。これまでの左派運動が「宣言」の指示に如何に外れており、あらぬ運動に耽っているかを確認したい。「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」は実は短文である。それだけに確認し易い。同時に選りすぐりの珠玉の指導が為されていると窺うべきであろう。以下、訳文はれんだいこ文である。サイト下記の通り。

 「共産主義者の宣言」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/ky
osansyugisyasengenco.htm)

 「宣言」は云う。「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている」、「共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す」。かく述べつつ、イギリスのチャーチスト運動、アメリカの農地改革運動、フランス、スイスの民主社会主義運動、 ポーランドの農業革命運動、ドイツのブルジョワジー派の民主主義運動を例示して、それらとの同盟、共闘の是を説き、但し「大革命から伝統的に受け継いだ空文句や幻想については、批判的立場をとる権利を保持している」とも述べている。「共闘しつつも没化しない」姿勢を指針させている。

 「宣言」は次に、ドイツに注目して、反動的支配と闘うブルジョワジーの民主主義運動に対する支援と、ドイツの反動的諸階級を倒した後には直ちに対ブルジョアジー闘争を開始し、プロレタリア革命に向かわねばならないと指針させている。ここは難しいところであり、ここでは問わない。

 マルクス主義的共産主義者であるかどうは所有問題が試金石であるとし次の文句で結んでいる。「共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!」。

 今となっては「宣言」のこの指針がいかほどに有効有益なのかは分からない。そういう意味では、もはやどうでも良い。但し、どうでも良くないのは次の戒めではなかろうか。「宣言」は、マルクス主義運動の常態としての共闘化運動を指針させているように思われる。れんだいこが、「共闘指針」を何故に気に入るのかと云うと、「運動の共闘化」は「宣言」が云おうが云うまいが、マルクス主義の運動であろうがなかろうが、政治運動の普遍的な教条とすべきではなかろうかと思うからである。留意すべきは、「運動の同盟化、共闘化」は本質的に共同戦線運動であるべきであり、党派の統制が見え隠れする統一戦線運動ではないとする知見を得るべきではなかろうか。

 だがしかし、史上に現われたマルクス主義派の運動は統一戦線運動であった。それが証拠にマルクス主義関連の諸書を紐解いて見れば良い。理論として統一戦線論はあっても共同戦線論はない。この偏狭さを疑わず良しとして来たのが自称マルクス主義各派の運動であった。とはいえ、各派が衣の下に鎧を着けたまま統一戦線運動するものだから碌なものにはならない。党派の数だけの運動体が生まれ、究極少数の党派だけ運動になってしまう。そういう愚かな運動を延々とやって来ているのがマルクス主義派の運動である。

 しかしながら、「宣言指針」に照らせば明らかに背教の運動でしかない。そういう背教運動をやる方が本家だとか正統だとか唱え、党内党外を「排除の論理」と「解体の論理」で整列化させて来た。そういう党派に限って「右戦線に猫なで声、左戦線に強面(こわもて)」と云う習性を見せている。こういうバカらしい運動が今日まではびこっている。我々は、これを掣肘できなかった。

 そろそろは叡智を獲得せねばならないのではなかろうか。故に次のように申しあげたい。意図的故意に「排除の論理」と「解体の論理」を弄ぶ党派は排除し、彼らの好む独善運動を勝手にさせればよい。どうせ良からぬ企みをもって運動に介入して来ているに過ぎないからである。そういう連中はもはや置いといて、どうしても参加すると云うのなら「排除の論理」と「解体の論理」を下げさせて、「運動の利益を顧慮しながら骨折り労を為し、歴史の大義に身を預けることを良しとする」勢力を結集すれば良い。もっとも、運動圏内でも「自分の見解や目的をかくすことを恥とする」心情によって見解の披歴、批判の自由が認められねばならない。

 いわば単純なこの二つの公理を認めつつ共同戦線運動、共闘運動体を創れば、ことはそうは難しくないのではなかろうか。徒な統制と分裂策動で難しく面白くなくさせられているだけなのではなかろうか。入り口も出口も難しくするに及ばない。どちらも開放系にすれば良い。その方が能力の高い歴史の試練に耐え且つ救援組織のある運動が構築できるのではなかろうか。

 要するに、日本歴史上の百姓一揆の伝統を取り戻し、これを現代バージョンで焼き直した方が賢い。「ぼちぼちでんな」式であれ草の根運動を盛り上げ、次第にうねりとなって中央運動化するような運動を構築せねばならない。何も西欧からのみ学ばなくても在地土着の叡智をも汲み取れば良い。これは一事万事に云えることだと思う。そういう作風を確立せねばならない。

 そういう気づきで、れんだいこは諸運動に参加したい。少々足止まりしているが既にネット上に「たすけあい党」もある。こたびは「れんだいこブログ」が加勢することになった。目的は、人民大衆が陽気遊山できる社会の創出である。碌でもない連中が我が世の春を謳歌して人民大衆を虐(いじ)める体制の転覆と、まずまず飯が食える新社会の創造である。いずれ、れんだいこも寿命が果てる。その時、二コッと笑える人生が良い。そういう式の世代を繋ぐ運動を構築したい。これを本望とする運動に挺身したい。もう還暦過ぎたから怖いものもない。うんそういう運動をしてみたい。

 今の政治局面に当てはめれば、小沢どんの運動と菅派の運動とどちらに正義がありや。それは自明ではなかろうか。中曽根−ナベツネが悪の権化であり、これに近い方が悪に決まっていよう。政治を学んできたのが小沢どん、政局だけを覚えてきたのか菅カラカンであり、我々だけの勝負ならとっくにオワっている。問題は背後の魑魅魍魎であるが、本当の「宣言指針」に従えば十分対抗できる。ソウそう思う。これを生き甲斐としたい。

 2010.1.5日 れんだいこ拝






(私論.私見)