儒教、道教とのすりあわせ考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.29日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「儒教、道教とのすりあわせ考」について記す。 2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.29日 れんだいこ拝 |
【論語の「人生六節の教え」】 | ||||
「論語」は、孔子とその弟子たちの間で交わされた言葉を、孔子の死後に弟子達がまとめたもの。全二十篇からなる。下記の言葉は第二篇「為政」(為政第二)に収録されている。
「人生七十古来稀なり」(杜甫)。 |
【論語の「人生六節の教え」考】 |
「論語」の第二篇「為政」(為政第二)の「志学、而立、不惑、知命、耳順、従心」が如何に大事な教えであるのか、案外と疎かにされている。これを仮に「人生六節の教え」と命名する。「人生六節の教え」は、人生を如何に生きるべきかという問いに対して、孔子が晩年に振り返って述べた「私の場合はこうだった」という独白の言葉である。その語りが独り孔子のみならず万人の人生規範になり得るもの故に今日まで愛誦され続けて今日に至っている。 この「人生六節の教え」は、西欧思想、日本思想との比較に於いて光芒を増す。即ち、西欧思想には「人生六節の教え」に匹敵する教えがない。この対比が実に興味深い。思うに、西欧思想のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にあるのは、神との向き合いに於ける啓示的指針を廻る契約観念であり、これを教条として最重要視している。ということは逆に、「人生六節の教え」の如くその時々折々の生き方の適合的選択と云う処世法に対する意識が弱いのではなかろうか。 これに対し、日本思想の真髄である神道には西欧的な神との向き合いに於ける絶対的教条を生むような啓示的指針が弱い。そのことから逆に、「人生六節の教え」の如くその時々折々の生き方の適合的選択と云う処世法に対する意識を常備している。しかして両者の思想的優劣は如何。 その前に、日本思想が如何に「人生六節の教え」に準則しているかを確認しておく。日本思想では、人の生命と成長を年齢単位に行事化させて祝う風習がある。主として、生き死にの生きを神社が死にを寺社が管掌する仕分けに基づいて、誕生から死亡までを司る。生命が誕生すれば神社に報告し氏子となる。七五三に詣でる。一年は正月、3.3日のひな祭り、5.5日の節句、お盆、歳末。 |
孔子の履歴は次の通り。中国の春秋時代後期の紀元前551年、魯(ろ)の国の昌平郷(しょうへいごう、今の山東省)に生まれる。父母は日々、尼山(じさん)という山の神に立派な子が授かるようにと 祈りを捧げていた。やがて願いが叶い後世に名を残す賢人・孔子が生まれた。孔子の字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)、名は丘(きゅう)と名付けられた。仲尼の尼は祈願した山の名 尼山にちなんで付けられた。父親の孔家からは認知されない第三婦人の子、「野合の子」として生まれた。三歳の時、父親が死去し、母子家庭の子として育った。幼少年時代は赤貧洗うがごとしの貧乏生活を過ごし、小さいときから生計を助けるために働きに出た。17歳の時、母が亡くなった後にようやく、孔家の跡取りに認知された。 理想とする周(西周)の王道と礼制を政治に復古させるために周の政治体制と礼楽の精髄を学んだ。19歳で結婚、翌年長男出生。二十歳の時、魯の国の役人になり委吏(いり、倉庫の会計係り)の職についた。やがて真面目に勤める誠実な仕事ぶりが評価された孔子は司職(ししょく)に昇進した。次に、非凡な才能が認められて司空(しくう)という地方の行政官に任命された。司空という職は地域の土地と人民の政治を司る立場で、ここが孔子の出世の入り口となった。 孔子は、機会があればどこででも教えを乞い、学問のチャンスをつかもうとした。鄭(テイ)の国の君主が古代史に造詣が深いと知るや、鄭に行き、また、大思想家"老子"を尋ねて、教えをこうたりもした。三十才より弟子をとり、塾を開設する。政界へ登用されることを願うようになったが、魯の国では願いが叶わない為に隣国の斎へ自らを売り込みに行ったが、うまくいかなかった。その後、魯の国の重職に就き、改革を行う。晩年は、青年の教育にその生涯を費やす。紀元前479年没。 |
(私論.私見)