序文

 更新日/2023(平成31→5.1栄和改元/栄和5)年.12.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「検証学生運動 上下巻」に続く二次作として「天理教教祖みき ひみこ化身論」を書き上げることにした。以下、草稿を記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


【はじめに/本書上梓時代理由】
 現代は思想が萎えている。ここで云う思想とは政治思想だけを云うのではない。政治にせよ、宗教にせよ、哲学にせよ、倫理道徳にせよ、と云う幅広い意味で使っている。人類がこれほど思想を萎えさせた時代があるだろうか。恐らくない。それほど現代は無思想時代を生きている。世界の事情までは分からない、少なくとも私が居住する日本ではそうだ。

 ならば問う。我々に思想は不要なのだろうか。私は否と答える。思想こそがカンテラとして時代を照らして来た訳で、それを不要とすることは矜持としての精神と知の退歩に過ぎないのではなかろうか。教条主義的なカルト思想の縛りは良くないが、そのことが思想を退ける根拠にはならない。教条主義的な思想の縛りを解く思想が生まれるべきだ。過去の鳴り物入りの絶対正義、真実性をもって語られた思想が、にも拘わらずそれらがことごとく潰えたとしても、思想を不要としてはいけない。思想不要論は、過去の思想を踏み台にして新たな思索を登場させる能力のない者の言い訳に過ぎない。今はカルト的な縛りを解く思想の構築から再出発すべきだ。こう気づくところから本書執筆が始まっている。

 今、人類は2011.3.11日以来の福島原発事故にさいなまれている。直接的には被災民だけの不幸せとしてやり過ごしているが、明日は我が身であることを敢えて知ろうとせず見て見ないふりをしているに過ぎない。しかして福島原発事故は未だ解決の処方箋を持たない。事態はますます深刻化しつつある。このさ中に時の政府の安倍政権は原発再稼動、新規増設、原発輸出に精出している。これを狂気の沙汰の不祥事と云わずして何と云う。その後、コロナ騒動下に陥っているが、実効的な施策には向かわない、その癖予算だけは天文学的な費用を注ぎ込んでいる変な施策に終始している。

 そういうことが許される情況もまたオカシイ。それに対する批判は多々生まれている。但し、批判が批判にとどまっており、批判責任を引き受け、実際に原発再稼動阻止、原発決別の水路造りに向かう運動を生み出し得ていない。コロナ騒動に於いても然り。コロナの正体を掴み、それに具体的に対処する処方箋を生もうとしていない。ワクチンは毒チンの可能性が高いのに打ちてし止まん派がその後も闊歩し続けている。現代政治のそれらの変調を弾劾する党派がいない。そのオカシさ、半端性に思想の貧困が介在しているのではなかろうか。世に反政府的政治運動はあるが、思想の混迷が故にその場当りの貧困な政治運動を余儀なくされており、故に政治運動を演芸的な遊びに堕落させられているのではないのか。


 そういう気づきから、本書「天理教教祖みき ひみこ化身論」を書き上げることにした。何ほどの寄与を能く為し得るのか分からないが上宰したい強い意思がここにある。私の謂いは読めば分かろう。これを子々孫々の代に贈る。これが本書執筆の時代理由である。 

 2012.3.14日 れんだいこ拝

【はじめに】
 本書の執筆動機を語りたい。その前に経緯を記しておく。

 れんだいこは先の2009年、「検証学生運動(上巻)戦後史の中の学生反乱」、2011年、「検証学生運動(下巻)学生運動の再生は可能か?」を発刊した。2012年3月、出版元の社会批評社の小西社長からメール便で売行き報告を受けた。案外に売れていなかった。しかしそれは致し方ない。宣伝方法は多々あるだろうが費用を掛ける余裕はない。世に送り出すまでが著者の責任であり、著者が売行きの責任まで被る必要はない。そいうことを気にして筆が鈍るものでもない。筆者れんだいこは寧ろより発奮して次の著作に掛かる決意をした。田中角栄論と中山みき論のどちらかを出したいと思っていたが、みき論の方を先に出すことにした。そういう訳で本書を世に贈ることになった。と決意したのが2012年であるから既に10年有余やり過ごしたことになる。

 みき論に意味を感じる理由は、みき思想の現代性を感じるからである。先の学生運動論で言及したが、現代は、第一次、第二次世界大戦を経由して、その国際戦争に勝利したアンダーグランド系国際金融資本の意のままに操作されている。そういう国々の政財官学報司警軍の八者機関上層部は彼らの息のかかった者しか登用されていない。その結果が、それまでの個別国家毎の王朝統治より優れているのならまだしも事実は逆で、その国の政治、経済、文化、精神をネオシオニズム的狂気に追いやっており、それを楽しむと云う倒錯社会を呼び水している。この連中の手による世界中への原発敷設は、まさに彼らならではの化学科学の賜物であり、彼らをも含む人類全体の死神兵器と化しているのが象徴である。

 この時代にあって、天理教教祖中山みきの生き様が光芒を放っているように思える。中山みきが思想を逞しく営為しつつあった折柄は、丁度黒船来航の前夜であり、アンダーグランド系国際金融資本が世界植民地化の最後の標的として幕末日本に来襲し始めようよしていた。この頃、そういう動きに立て合うように日本の地霊、地塩が動き始め、「まほろば日本の国體擁護運動」が胎動した。事大主義的な者は逸早くアンダーグランド系国際金融資本側の懐に入り込んだが、多くの地霊、地塩は「まほろば日本の国體擁護運動」に向かった。これに当時の社会の上層も中層も下層もが相協力し激動の幕末荒船を乗り切った。その紆余曲折史を論じてみたいが、本稿の趣意ではないのでここでは言及を控える。

 この時の、後に天理教教祖となる中山みきが歴史に刻んだ霊能、御言葉、諭しが今も瑞々しい。それは何も独り中山みきだけが秀でていた訳ではない。先行して黒住宗忠の黒住教、平行して赤沢文治(川手文治郎)の金光教が開教しており、これを幕末三大創始宗教として他にも多々宗派が生み出されている。私は、その中でも中山みきの天理教が白眉だと思っているが、他の潮流を過小評価しようと云うのではない。あくまでも競り合い上のことであり、黒住教、金光教その他の開教がなければ天理教が生み出されていなかったこともあり得るので、「幕末日本のまほろば国體擁護運動」盛り上げ共同戦線としてこの流れそのものを好評価したい。この流れを好評価しない学説はアンダーグランド系国際金融資本側に取り込まれているからであり、彼らのテキストの受け売りをしているに過ぎない。彼らにはよほど都合が悪いからであろう。

 中山みきの御教えは現在になお通用するし、否ますます光芒を放っている。私は、むしろ教祖みきがかの時に垂示した御教えは今現在なお範とすべしと思っている。「検証学生運動上、下巻」で学生運動の終焉を確認したが、その理由として、教祖みきが垂示した御教えと反する間違った方向で運動して来た故であるとさえ思っている。そうまで惚れ憧憬する教祖みきの歴史像検証に読者と共に向かいたい。これが本書執筆の個人動機である。

 補足しておけば、天理教教内の教学研究が進んでいるように思えない。かってもさほどではないが、それなりに積み重ねられてきていた形跡が認められるが、最近は耳目を引くものが見当たらない。書店レベル、ネット界隈で寄せられる情報からすればそう云うことになる。この閉塞を本書が突破する契機になればと思う。教祖が陣頭指揮していた頃の教理と運動には有機的に躍動するものがあった。今は随分無機質なものに書き換えられている。そういう気づきからの本書執筆に向かいたい。 


 2021.11.12日 れんだいこ拝

【私のお道との出会い】
 天理教の道人は本部一帯の地を「おぢば」(お地場)と云う。その信仰を「お道」と云う。「教祖」と書いて「おやさま」と読む。「お道」では修養科という独特の修養学校を用意しており、私はある事情により連続二期修養科生として過ごすこととなった。28歳頃のことである。「お道」との出会いはこの時が初めてであった。それまでの私といえば、マルクス主義系学生運動のただ中に身を置いていた経験を持ち、そのマルクス主義は宗教アヘン説を理論としており、その忠実な徒だったことからして、凡そ宗教的意識とはかけ離れた社会観の下で生活を規律していた。だから、自分の意志で「おぢば」と巡り合うということはありえなかった。

 ところが、「お道」で云う「身上事情」が私の周囲に次から次へと連鎖して起こり出し、その頃実家で孤軍奮闘していた次兄が暗中模索の末に、同級生から「お道」の「手引き」をいただいた。次兄は急遽天理市行きを決め、東京にいて勤務していた私に「トニカク、ドウデモコイ」という強い口調で迫った。私の兄弟愛は熱く、退職のお別れパーティーの予定を早めてもらい、住まいを払い、カバン一つを抱えて「おぢば」へ向かった。

 何のことはない、毎月入学がある修養科入学のその月のタイミングを伝えていただけのことだったことが後で分かったのだが、兄自身も訳が分からないままに修養科に入学手続きしており、それに私も入れようとしてせかしていたのだった。私は、訳の分からないままに電車を乗り継ぎ、教えられた詰所を詣でた。これが天理との機縁であり「私のお引き寄せ譚」である。

 我が家は代々浄土真宗の篤実な壇家であり、父は四人の子供を食わす為に必死の働きづくめの人であり、政治、宗教と特段の関わりを持っていなかった。私の子供の頃の記憶であるが、或る時、職場で労働組合を作る動きとなり、親父が責任者として推挙されていたところ、直前になって万が一の解雇、それにより子供に食わせられない事態に陥ることを恐れて固辞していた。そういう普通の勤労者だった。母も天理教との繋がりはなく信仰的には別の宗教団体の信徒であった。よって天理教と関わりがあった訳ではない。

 但し、後で振り返るのに天理教を全く知らないと云う訳ではなかった。学生時代に宗教学者・村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでおり、天理教の中身はさっぱり分からなかったものの黒住、金光と並ぶ幕末創始三大宗教の一つと云う認識ぐらいはあった。筆者が同書に魅かれたのは、戦前においてほんみち派の天理教布教師が国家権力の弾圧に屈せず筋を通し、時の好戦政治に異議を唱えた史実に対してである。そのことに共感し、その経緯、心情を確認したいと思ったことはあった。読後印象として良質の著書、良質の宗教運動と云う感慨を持っていた。しかし、天理教、ほんみちに入信するとか、もっと知りたいと思うほどではなかった。あくまで学生運動の延長として学生運動陣営の側から教訓的に読んでいたことになる。

 そういう心理状態のなかで突如「おぢば」を訪ね、修養科へ入学し、以降3ケ月間を系統別の天理詰所で生活するようになった。御縁というものは不思議なもので、自分の意志でもなく参った「おぢば」と私の相性がすこぶる良かった。見るもの聞くもの皆な滋養強壮となり、「みき」の教えは乾いた地中に滲み入る水の如くであった。早朝、詰所で天理教信仰の要である御神楽歌と手振りを習い、朝食後は修養科生一同が連れだって本部へ行って教祖伝、天理教典を習う。その他「ひのきしん」と云われるボランティアをし、私は点字を選択し習い始め、帰ってからは一斉清掃、夕食、その後に又手踊りを習うと云う日課となった。一期目は同期の仲間、一期先輩、二期先輩の三期混成となる。二期目になると後輩がやって来て、三期目になるとまた後輩がやってきて、ところてん式に卒業する按配になっている。普通は3ケ月で卒業のところ事情があって再入学し都合連続6カ月間過ごすことになった。確か11月から4月までだったと記憶する。

 この間の天理生活は少しも嫌でなかった。むしろ教祖の伝記に接し畏敬の念を覚えた。教典を学び天理教教義の概要を理解するのも嫌でなかった。と云うか、教祖みきが伝承した人類創世記譚「元の理」(泥海古記)が面白く、否、面白過ぎて、本腰入れて天理教義を習おうと興味を深めて行った。息抜く暇もない修養科生活も慣れるに従い次第に多少のゆとりを生み、そのゆとりの合間に天理教研究を始めるようになった。修養科を二期連続過ごしたことで、その間相当の教理を深めることができた。

 それからが筆者らしいところで、そうなると本部編纂の教祖伝、教典にもの足りなくなった。こういう作風は直前の学生運動時代に修得していた。のめり込んでいたマルクス主義にも、その理解と実践を廻って諸党派の見解が違うので、特定一派の見解を鵜呑みにはできないとする作法を身につけていた。これが影響したのであろう、本部教理と違う別の研究の必要を思い立つようになった。

 この頃ともなると私は既に「用木」(ようぼく)としての「成人」(せいじん)を見せ始めており、生涯を「お道」に列なること、教祖の教えを世に広めることを当然と思うようになっていた。こうした私が「おぢば」を後にするにあたり「心定め」したことは、「私なりの中山みき教祖伝を綴る」という誓いであった。それも、「みき」の神懸りの御歳に私の齢が至るまでにという年限付きの「心定め」であった。 この「心定め」は密かに続き、道中で投げやりになり、又始めては中断する繰り返しとなった。なぜなら30代の身は公私多忙だったからである。「お手入れ」を頂く度に本書執筆への「急き込み」が為されているのだと受け取らせて頂き、取り組んではみても結局続かない。とはいえコツコツと伝記を書き綴って行った。当時ワープロが出始めており、癖字の筆者には調法だった。手当たり次第に読み、それを下書き的に綴り、他書を咀嚼しては書き直して行った。みきが神がかりした42歳までに書き上げるつもりであったが、半分ほどできたままそのままにしていた。

 「心定め」しつつも以来15年余を過ごしてしまった。道中を様々な「お手入れ」を通して「お道」との邂逅を迫られた。一度や二度ではない。中でも、私が兄から受け継いだ事業経営が転換点に立ち至る度に「事情」を受け留め、再々度「みき」の元へ戻った。本書執筆への「急き込み」が為されたのだと受け止め執筆に向い、手掛けては又も中断の憂き目に追いやってしまった。その覚書を何とか日の目に会わせたいと思いながら過ごして来た。本来は、私の齢が「みき」が神懸りした41才の御年に至る迄に、私なりの「中山みき教祖伝」を纏めてみたいという念願であったが、種々の喧騒と自堕落を繰り返したせいで、その齢を過ぎてしまった。2012(平成24)年頃、私の人間性の好い加減さに対して愛想が尽きてはいたが、この度こそは並々ならぬ決心を堅めて再度書き始めた。一日一日を遅々とした歩みでよいからとにかく続けることが肝心と云い聞かせている。

 私は、何故さほどに「みき」にこだわるのであろうか。恐らく、ひとつには、丁度初期の「お道」の信者がそうであったように、とにもかくにも「みき」との語らいが楽しくて仕方がない。道人としては、前述したように私は親の代からの信仰があるわけではない。たまたま修養科生として過ごした「おぢば」での六カ月間と、引き続いての三カ月程の教会での住み込みを経験して以来の無沙汰の身で、特段に熱心な信徒という訳ではない。所属の教会への月例(つきなみ)祭にも時に詣る程度で毎月欠かさずというほどではない。ただしかし、この十余年の間、私は、「みき」を常に心象の奥部に温め続けており、のみならず「みき」に再びの薫淘を授かってみたい思いを禁じえないままの日々であった。こう言い切ることに憚りない。私の事業経営の方も大きな「旬」を迎えつつあり、願うらくばこの辺りで人生万のお伺いをする意味でも、「みき」との語らいを得心行くまでしてみたいと思う。

 「みき」神懸りの御年に私の年齢が至る頃までに私なりの「みき様伝」をまとめてみたいという「心定め」を叶える刻限をはるかに過ぎてしまったが、幸いというべきか、約束の年限の42歳を過ぎた頃にやおら又書き始め、50歳の頃ようやく一通りの研究書ができた。当初はワープロだったが今ではパソコンに移している。後は今日まで少しずつ書き加え書き直し、こうして現在サイトアップしている通りの「中山みき論」が綴られている。

【「中山みき教祖伝」執筆の私の趣意】
 天理教論と構えれば、総論はその総合的研究となり、各論は教祖論、教義論、教史論、組織論、運動論に要素分析できるように思われる。この観点からの総合的研究は未だ為されておらず、各部分的研究でもって天理教論と銘打っているものが多いように思われる。れんだいこは、各要素の解析と、それを汲み上げる形での総合としての天理教論を欲している。だがしかし、これは永遠の課題となるであろう。なぜなら、教義論の奥が深いからである。他のそれはそれなりに纏めることができるが、教義論は安直な解明を許されず、この方面の研究でほぼ一生を費やすように思われる。そういう構造になっている。まずこのことを確認しておきたい。

 ところで、天理教論の混迷は根深い。相当に貢献度の高いと思われる村上重良氏、島薗進・氏による天理教研の天理教研究を批判するのは良いとして、その批判がかなり薀蓄あるものとして言及されているのは良いとしても、返す刀で打ち出した説が首肯し難い半端と云う水準にあるように思われる。今為すべきことは、ユダヤ/キリスト教的奇跡秘儀宗教観で焼き直され捉えさせられている天理教を、本来の姿である日本の神道、それも出雲-三輪系の古神道との絡みで捉え直し、その宗教、思想が何故に幕末期に誕生したのか、その歴史的必然性由来を問うことではなかろうか。この方面の研究は教祖在世の頃にはまま息吹としてあったと思われるが、その後の応法化で捻じ曲げられ、戦後の復元化の流れの中で復元できなかったばかりか、意図的故意に閉ざされたと拝察している。この闇に光を当てるのが本稿の趣意である。

 2009.12.10日 れんだいこ拝

【「中山みき教祖伝」執筆の私の観点】
 そういう個人的な動機を主にしているので、私は、この「中山みき教祖伝」を、徹底して私の主観を基調に綴りたいと思う。その結果次のような特徴を持つことになる。

 第一。世間一般に流布されている教祖像はいわずもがな、教団手引書である稿本天理教教祖伝に貫かれている教祖像と趣を異にするのも致し方ない。特に同書の根幹を為すと思われる「魂の因縁」としての教理的解釈、つまり期限の到来により教祖がこの世に現われることとなったという予定論的な教祖像を踏襲するつもりはない。私は、教祖の生涯を、大和地方の一介の農婦に宿った宗教的精神の昇華していく行程として捉え、「みき」の生涯であり信徒の手本でもある「ひながた」をかく見据え、あくまで「みき」を「時代の子」としてその関わりの中から捉え直し、その側面から歴史的な時代の空気(ニューマ)との絡みに於て、「ひながた」の軌跡とその思想を、考証的に弁証論的手法で明らかにして行きたいと思う。

 凡そ天理教に限らず、宗教団体一般の通例として、教祖の全能化、完全無比化は常套的に為されることである。教祖の生涯の行程を運命の赤い縱糸で語ると云う叙述の仕方は、一歩譲って、教祖を畏敬させるには手法として意味のあることではあろうと思う。けれども、私は、「みき」の教祖像を叙述するのに、そうした神秘に重きを置く手法を採らうとは思わない。こうした観点よりの叙述は親しみ慣らされてきた方法だとしても、「みき」の信徒たらんとする者の信仰を主体的に深め、各々の現実生活に生きた信仰としての関りを持たすには益するところ少ないのではなかろうか。と考えさせて頂く理由による。

 完結的教説は、御用精神には都合良く又教団組織の秩序を維持する道具とはなりえても、遂には信徒の思考を退化させ、盲信か忘却かの二俣の途へ導くばかりの教徒としか形成し得ないであろう。私は、「お道」教義はそのように埋没させてはならない格を備えていると思うから、むしろ、「みき」が神格化乃至「神の社」として神そのものに昇華していく過程を、生成的に検証していくことにより、道中苦悶苦闘する「みき」をあらわにする中で、この時代の枠組みの中で、真実に「みき」が訴求し取り組んだ課題を俎上に乗せ、折々の「みき」の「ひながた」と、そうした「みき」のヴィヴィッドな生きざまとの弁証を通して私自身の思案を深くし、もって「みき」の価値を自ずと明らかにしていきたいと思う。

【お道教理の「稿本」の意味について】
 これに関連して「稿本天理教教祖伝」の「稿本」の意味について言及しておく。「稿本」を字引すると「下書き。草稿」と解説されている。これをもう少し掘り下げると、「より確かな定本が出るまでの仮の間に合わせ本」と云う意味になるのではなかろうか。これを前提として「天理教教祖伝」に「稿本」を付与した教理的意味について推理しておく。

 「稿本天理教教祖伝」は、1956(昭和31)年、天理教本部により「天理教教組伝稿案」が策定され、同年10.26日、「稿本天理教教組伝」として刊行された。これより先の1949(昭和24)年10.26日、教会本部が全十章からなる「天理教教典」を刊行している。この時、2代真柱は次のように述べている。
 「この教典は、占領軍のGHQの占領体制に合わせて作らなくてはならない教典であるから、その教典の使用年限は十年と区切っておく」。

 2代真柱に信任の厚かった八島英雄氏は次のように解説している。
 「占領が十年続いていてもその時には編纂し直す。占領がなければもうこの教典は廃止する、という形で十年という約束でこの教典は発足した」。

 問題は、このようにして策定された「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」の稿本性が薄められ、絶対テキスト化されて今日に至っていることにある。「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」が完璧であればそれも良いのだが、両書の本質は稿本性にある。それが見抜かれず、一言一句を「稿本」通りにオウム返しする受け取る線からの天理教本及びその解説本が刊行され続けている。それは教理的貧困と言わざるをえない。では、どこの部分に稿本性が認められるのか、これに答えられる者はほぼ居ないのではなかろうか。れんだいこは、長年の自問自答を経て漸く分かりかけて来た。これを記しておく。

 天理教教理は、教祖存命中より、合法化獲得の為に教理を当局迎合化させ、教祖がこれを不興とし、これより教祖派と応法派が確執しつつ布教して行った史実がある。その後は、公認を得る為に明治政府の好戦政策に随い、大枚の拠出金、「ひのきしん」労力を提供し続けて行くことになった。時の日本政府は明治から大正、昭和へと御代を変えたが、次第に国際的国家対立の渦に巻き込まれて行った。日本は、昭和になって以来、次第にアジア圏での大東亜共栄圏構想を打ち出し、アジアの盟主化へ走って行った。天理教本部は、日本政府のこの動きに合わせて満蒙開拓団を組織し聖戦協力した。ところが、その最終戦争となった第二次世界大戦(日本から見れば大東亜戦争)を日独伊枢軸同盟で臨み、4年有余の激戦の末に敗戦した。

 戦後日本は史上初の被占領国家となった。これをGHQ占領体制と云う。天理教本部は、1945(昭和20).8.15日の終戦当日、中山正善二代真柱諭達第15号を発布し、「これから本当の教祖の教えに戻す」と復元宣言した。GHQは、戦勝国権利で彼らの都合の良いような戦後日本の解体、調理、改組に向かった。それはよほど用意周到に企画され練られ実施されている。「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」はGHQ検閲下の産物であり、この流れで生み出されていることが案外と知られていない。「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」を復元の流れで策定されたものと勘違いしているところから絶対テキスト化が生まれている。事実はさにあらずで、これを確認しておく。

 同年9.19日(9.21日?)、GHQが報道関係者に対して「日本新聞遵則(プレス・コード)」と「日本放送遵則(ラジオ・コード)」を公表した。同年9.29日、「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令した。これにより、主要新聞は事前検閲、それ以外の新聞は事後検閲となった。あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も検閲を受けることになった。連合国不都合な記事は全て封じ込まれた。要するに「マスコミは戦前の日本帝国に対する忠誠義務から解放された代わりに今度はGHQの忠犬になった」。

 同年10.26日、秋季大祭に真座のかぐら、昭和9年と同じ十二下りの手踊りを復元させた。この時、真柱が、「来年の正月26日に教祖60年祭を迎える。そのスローガンは『復元』である。本来の天理の道の姿に戻る」との声明を発した。

 10.29日、おじばで、復元教義講習会が開かれた。この時、「復元」をテーマに目標にして行うという宣言を行った。教義はみ神楽歌、お筆先、お指図に基づき、儀礼はかんろ台つとめのみとする方向を打ち出す。これに伴い国家神道体制に合わせた明治経典を廃止した。但し、「連合軍の占領政策との兼ね合いもあり、それ以上の復元はできなかった」。ここの認識が大事であろう。


 12.15日、GHQは、「神道指令」(国家と神社神道の分離を命じ、国家神道の廃止命令)を発令し、政教分離の徹底的実施を命じた。これに基づき、政府による神社への保証、支援などを禁止する措置を執った(「神道指令」通達)。これにより、国家による信仰の強制が違法となり、内務省神祇院が廃止された。12.28日、1940(昭和15)年に公布された宗教団体法が勅令をもって廃止され、代わって宗教法人令が施行された。それまでの認可制を届出制に変え、宗教法人の設立、規則変更、解散などを自由に行なえるようにし即日施行した。

 「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」は、こういう経緯を経ての産物となっている。これを知れば、天理教教理は、戦前は日本帝国に資するよう改造され、今度は新たな支配者となった戦勝国GHQ側に都合の良いように改造されている忖度性が容易に理解できよう。結果的に、教祖の神がかりの様子も、親神天理王の命の権能も、教理の個別の内容も全編がユダヤ-キリスト教的なものに編集し直されている。即ち「天理教のユダヤ-キリスト教化」である。

 ちなみに、「ユダヤ-キリスト教化」の概念は不正確である。そもそもユダヤ教とイエス教との関係で捉えれば同質化されるべきではない。イエス教は反(アンチ)ユダヤ教として生まれており、そういうものを同質化できない。そのイエス教をキリスト教として教義形成し、ユダヤ教圏教理に収納にしたのがキリスト教である。もう少し踏み込んで言えば、ユダヤ教内三派の内の急進主義派のパリサイ派教義に親和するよう書き直し、即ちユダヤ教パリサイ派教義の配下へ組み込んだのがキリスト教である。いわばイエス教をイエス教としてではなく、ユダヤ教式に教義編成させたのがキリスト教である。こうして、結果的にユダヤ教から分岐し、いわばユダヤ教の分派として形成されたのがキリスト教である、ということになる。

 「天理教のユダヤ-キリスト教化」は、この先例に似せている。こうして「天理教のキリスト教化」が行われたと心得るべきである。何の為にそうされたのかは高度な統治問題であり、別のテーマになるのでここでは問わない。


 ここで確認すべきは、戦勝国側の奥の院が、彼らの都合の良いように天理教の「幕末日本のまほろば国體擁護運動」としての牙を抜き馴致していることを窺うことである。それでは、どの部分、どの下りが書き換えられているのか、ここが分からないと本当の意味での「稿本問題」が解けない。それでは、れんだいこがどう読み解いたのか、本書を読み進めるうちに自ずと分かるようにして行くつもりである。

【これまでの天理教論、天理教教祖論に対する私論】
 中山みき/天理教を歴史的にどのように位置づけるべきか、この解は様々に説かれている割には解けていないと思っている。これを禅問答式に会得すれば良いとする解もありそうだが、それでは万人に分かるように解くことができない。これと対極的に中山みき/天理教を教理的に難解に説く向きもある。しかし、それが中山みき/天理教論の芯に迫っているかと云うと却って遠ざかっていると看做すこともできよう。

 そういう訳で、ザ中山みき論、ザ天理教論を生み出す必要がある、と云う必要から生まれたのが本書である。なるほどここに記す私の解も一私見に過ぎない。その評価を決めるのは世間であり歴史である。自画自賛的に敢えて言うなら、私がこれから説くところの天理教論、天理教教祖論は前例がない新視角のものとなっている。思えば、れんだいこの学生運動論も然りだった。それまでは良い、但しこれからはこの関門を通らずして言及するのは不見識不誠実でしかない、ほどの出来映え物を世に送り出すことができたと自負している。れんだいこ天理教論、天理教教祖論も同じことで、本書が上梓され市井に投ぜられて以降は、この見識との応答なしには値打ちを下げるばかりとなるだろう。
 中山みき/天理教論のキモになる史実を端的に確認しておく。まずは教祖みきのご苦労史を確認する。1875(明治8)年、78歳の時、「初めてのご苦労」をされている。「ご苦労」とは、拘引され監獄入りを意味する。この迫害は次第に激化しており、最後の「ご苦労」までの明治19年までの十余年の間、教祖は78才から89才までの間、27、8回に亘って警察署や監獄署へ拘引留置されている。御高齢を思えば世間常識的に信じられないことであろうが史実である。当時の創始宗教開祖との比較においても最も厳しい仕置きに遭っている。当然のことながら、罪科あってのことではない。教祖の説く教理が、時の支配層の逆鱗に触れており、それ故の迫害であったと受け取るべきであろう。

 次に天理教合法化史を確認しておく。1875(明治8)年、神道事務局設置。この頃より、明治政府の宗教政策路線が次第に明確化し、アンダーグランド系国際金融資本の許容しない諸宗教、諸思想の弾圧が強化された。明治政府の宗教政策をこの観点から見ようとしない研究ばかりが目につくが、それではキリスト教解禁、その裏腹としての山伏修験道の禁止と云う最重要史実が解けない。

 このアンダーグランド系国際金融資本の監視羽の矢に天理教が当り、官憲の迫害干渉が強められていくことになった。いわゆる教派神道13派の公認史を確認すると次の通りである。
1876(明治9)年 黒住教(1番)、神道修成派(2番)。
1882(明治15)年 出雲大社教(3番)、扶桑教(4番)、実行教(5番)、神道大成教(6番)、神習教(7番)、御嶽教(8番)。
1884(明治17)年 神道大教(9番)。
1894(明治27)年 神理教(10番)。
1896(明治29)年 禊教(11番)。
1899(明治33)年 金光教(12番)。
1907(明治41)年 天理教(13番)。

 最後の公認を余儀なくされたのが天理教だったことになる。

 天理教に対する弾圧は、明治以来の宗教統制の中で廃仏毀釈運動に次ぐものであり、その後に認められるのは大本教弾圧事件、天理教内分派の天理ほんみち派弾圧事件である。両者は立て合うかの如くに歴史を刻んでいる。これを確認する。
1921(大正10)年 第一次大本教弾圧事件。
1928(昭和3)年 第一次ほんみち事件。
1935(昭和10)年 第二次大本教弾圧事件。
1938(昭和13)年 第二次ほんみち事件。

 この間、小規模の弾圧事件は数多くあるが、当局の本格的なものとしては、これ以外には認められない。これに、政治的事件として共産党弾圧事件が平行している。

 以上の確認を経て、天理教、大本教に限り、共産党並の弾圧を蒙り、なぜかような迫害の憂き目に遭わされ続けてきたのであるか、ここを問わねばならない。これに答えられる者が居るであろうか。筆者は本書で解答し、世評を仰ぐことにする。

【お道教理の真骨頂としての黒船来航との立て合いについて】
 中山みき/天理教論の前にみき教理発生の裏事情を確認しておきたい。これは、現代的に大いに意味のある考察となる。即ち、何故にみき教理が歴史的必然的にかの時に出現したかを問いたい。これに関して一言しておく。と云うのも、みきが神がかりする40歳頃、オランダ、清国、朝鮮とのみ通商すると云う鎖国体制を切り崩すかの如くにイギリス、アメリカ、ロシアの西洋列強が来航し始めていた。江戸幕府は異国船打払令で対応していたが無能であった。この事情を踏まえつつ、1853年、アメリカのペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、通商を要求していたその年、中山みきは五女こかんを浪速に行かせ布教活動を開始している。このことに注目したい。

 今まで何気なく見落としていたが、みきの霊能力は黒船の正体を的確に認めていたのではなかったか。単なる異国船ではなく、日本国乗っ取りの黒い野望と陰謀を持つ国際ユダ邪の日本攻略が始まったことを感知し、この最大の国難に際して、日本人の国體としてのアイデンティティーの確立の必要を霊能的に感じとり、その創出に営為したのではなかったか。これを仮に「みき国学」と命名すると、これが天理教の核心なのではなかろうか。それは何も天理教のみならず、先行する黒住教、金光教その他の開教の本質はここにあったのではなかろうか。敢えて言えば、それらのうちで天理教が最も鋭く対抗する思想を生み出し得ているのではなかろうか。この観点に立つことにより、明治新政府の天理教弾圧事情が見えてくることになろう。

 筆者の能力が許せば、日本の幕末宗教の一つである天理教の開祖としての中山みきを、日本のみならず世界的視座に於いて称揚してみたい、「みき」の値打ちはそれに値するとすると思っている。本書はここに眼目がある。世評を待ちたいと思う。付言すれば、本書では、「みき」教理を政治思想的に読みとろうとしている。ここに本書の特色が認められる。「みき」教理を宗教的に読みとるのは他書に任せて、本書では他書には記されていない政治思想的な面での「みき」教理の解析に傾注している。今のところ、この観点からの研究を目にしていないので、「みき」研究の新視角を提供していると自負している。

【「同時代の創始宗教との比較」について】
 そこで、当時の創始宗教との比較もしておく。幕末期になる黒船来航前後の頃より、日本で新たな宗教が次々と起こったが、その中でも天理教が最大の教団へと発展した。その後の安定と衰退に、天理教教義や信仰の形態の変質があるのはなかろうか。これを枝葉末節の現象指摘で事足りるべきではなかろう。

【いざ出航せん】
 さて、以上の見地から本書の執筆に向かうこととなったわけであるが、道中喜び勇んでどこまで辿りつくことができるであろうか。又かく大上段に構えたものの、つたない私の能力で叙述しうるであろうか心もとない。されど、この度こそは進みきるんだと言い聞かせ、自分自身に鞭打ちながらこの航海に船出しようと思う。又今までに知りあった如何にも善良な幾人かの天理教徒よ、本書があなたがたの明日の行方に資することになれるよう頑張ります。以上万感の思いを込めて本書執筆に全力を傾けたい。なむてんりんおうのみこと

 1987年、7.10日起草、2015年、11月7日再編集 れんだいこ拝
 2009.9.27日、「地方の教会の子供」さんより、「天理との出会いの中の文章で(おじば)とあるのは (おぢば)と書きます」とのご指摘を受けた。そういえばそうだった。早速手直しさせていただいた。感謝申し上げる次第です。

 2009.9.29日 れんだいこ拝
 教祖は何と和し何と闘い、何を護り、何を諭し、何を排したのか。天理教には伝えようとする日本がある。これを問うのが本来の天理教研究である。

【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】
 2007.11.29日付けブログ「れんだいこのカンテラ時評348 【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】」を転載しておく。
 【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】

 れんだいこは、久しぶりに「天理教教祖中山みきの研究」を書き換えた。まだまだ不十分であるが、既成本のどれよりも勝れた中山みき論に成り得ていると自負している。興味のある方は読まれ、ぜひご意見くださればあり難い。糠釘が一番辛い。

 れんだいこがなぜ中山みきに拘るのか。それは、極めて深遠な現代ネオシオニズム批判になっていることに気づいたからである。ネオシオニズムは今や世界をままにしており、その挙句に社会の奇形と戦争と原子力、地球環境破壊をもたらしており、その傾向をますます強めつつある。当然ながら、いびつな現代を招来せしめた張本人であるネオシオニズムはこの危機を打開する能力を持たない。なぜなら、彼らが推進する強欲資本主義秩序の自己否定に繋がるからである。彼らは自己の支配権を維持しながらの改良を望み、為に付け刃の構造改革に精出しているが、既に事態はそういうものでは何ら事態を解決し得ない、否、その間にも現代世界の文明的危機はますます深刻さを深めつつある。

 れんだいこはほぼ30年前の或る時、中山みきの御教えと邂逅した。それまで天理教とは何の接点もなかったのに不思議なほど胸にすっきり治まったのでよほど相性が良いのだろう。そう云えば、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでいたので、それが効いていたのかも知れない。天理教聖地のおじばに都合6ヶ月留まり、離れるに当たってれんだいこなりのみき教祖伝を書き上げる心定めをした。みきが神がかった41歳の時までを期したが、それはかなわなかった。ほぼ完成したのはれんだいこ50歳頃である。道中何度足踏みしたことか。今57歳だから7年ぶりに書き換えたことになる。

 今なぜれんだいこが中山みきに拘るのか。それは、中山みきの御教えが、現代の世界閉塞をこじあける叡智を秘めていると思うからである。そう思うようになった。れんだいこは坐りづとも立ち手踊りも忘れたが、改めて覚え直そうと思っている。あの踊りの中に思惟の原理原則が凝縮されていると気づかされたからである。

 まだある。れんだいこが拘り続けてきたマルクス主義の再生が、マルクスを起点にする限り不可能と云うマルクス主義のネオシオニズム性に気づかされたからである。俗流マルクス主義が親ネオシオニズムなのは決して偶然ではない。そういうことからむしろ、中山みき思想を核として世界の様々な思想を練り合せたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。

 まだある。ネオシオニズムを原理的に批判するのにキリスト教に傾斜して為そうにも、キリスト教自体がネオシオニズムの思惟様式を取り入れており、ほぼ絶望的に難しいことを知らされたからである。むしろ、開祖イエスの御教えに着目し、イエス教義とみき教義を練り合わせたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。世界思想にはほかにも多々優れたものがあるだろうが、奥深い根本まで立ち入って思惟を深めているとなるとそうはなかろう。むしろ、みき教義を核としながら、世界の優れものを寄せたほうが手っ取り早いのではなかろうか、そう思っている。

 最後に云いたいことはこうである。最近は学んで為にならず却って馬鹿になるネオシオニズム系学問が横行隆盛しつつあり、次第に我々の日常生活をがんじがらめに規制しつつある。政財官学報司警軍八者権力機関の頭目がこぞって被れているから、下が皆な倣(なら)う。これに対抗するには、ネオシオニズム系学問の個々を批判してもキリがなく、ネオシオニズム系学問総体に対峙する別系学問思想を打ち立てる以外にない。その別系学問は、みき教義を学び深く思案するところから生まれる。そう気づいた次第である。みき教義にちんぷんかんぷんな者には何を言っているのかそれこそちんぷんかんぷんだろうが、各自銘々がみきの門を叩くのが良かろうと思う。れんだいこは、毎日の生活の癒しにもなることであるからして、日々立ち返り更に充実させて行こうと思う。

 2007.11.29日 れんだいこ拝






(私論.私見)