はじめに

 更新日/2018(平成30).6.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「検証学生運動 上下巻」に続く二次作として「教祖みきひみこ化身論」を書き上げることにした。以下、草稿を記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


【はじめに】
 現代は思想が萎え過ぎている。ここで云う思想とは政治思想だけを云うのではない。政治にせよ、宗教にせよ、哲学にせよ、倫理道徳にせよ、と云う幅広い意味で使っている。人類がこれほど思想を萎えさせた時代があるだろうか。恐らくない。それほど現代は無思想時代を生きている。ならば問う。我々に思想は不要なのだろうか。私は否と答える。思想こそがカンテラとして時代を照らして来た訳で、それを不要とすることは精神と知の退歩に過ぎないのではなかろうか。教条主義的な思想の縛りは良くないと思うが、そのことが思想を退ける根拠にはならない。こう気づくところから本書執筆が始まっている。過去の思想が鳴り物入りの絶対正義、真実性をもって語られ、それらがことごとく潰えたとしても、思想が不要とは言えまい。思想不要論は、過去の思想を踏み台にして新たな思索を登場させる能力のない者の言い訳に過ぎないのではなかろうか。

 今、人類は2011年3.11日の福島原発事故にさいなまれている。直接的には福島被災民だけの不幸せとしてやり過ごしているが、明日は我が身であることを敢えて知ろうとせず見て見ないふりをしているに過ぎない。しかして福島原発事故は未だ解決の処方箋を持たない。事態はますます深刻化しつつある。このさ中に時の政府の安倍政権は原発再稼動、新規増設、原発輸出に精出している。これを狂気の沙汰の不祥事と云わずして何を云う。
しかし、そういうことが許される情況もまたオカシイ。そのオカシさは思想の貧困故にもたらされているのではなかろうか。世に反政府的政治運動はあるが、正鵠な思想運動がないが故に貧困な政治運動を余儀なくされており、故に政治運動が演芸的な遊びに堕落させられているのではあるまいか。そういう気づきから、本書「天理教教祖みき ひみこ化身論」を書き上げることにした。何ほどの寄与を為し得るのか分からないが上宰したい強い意思がここにある。

 本書の執筆動機を語りたい。その前に経緯を記しておく。
2012(平成24)年3月13日、筆者処女作「検証学生運動上下巻」出版社の小西さんからメール便で売行き報告を受けた。案外に売れていない。しかしそれは致し方ない。宣伝方法は多々あるだろうが費用を掛ける余裕はない。仮にネット上の宣伝だけだったとしても世に送り出すまでが著者の責任であり、売行きを気にして筆が鈍るものではない。筆者れんだいこは寧ろより発奮して次の著作に掛かる決意をした。田中角栄論と中山みき論のどちらかを出したいと思っていたが、みき論の方を先に出すことにした。そういう訳で本書を世に贈ることになった。みき論に意味を感じる理由は、みき思想の現代性を感じるからである。21世紀初頭の2012年現在に於いて、幕末期のみきが歴史に刻んだ御言葉と生活規範は今現在に十分に通用するし、否ますます光芒を放っていると思う。むしろ教祖みきがかの時に垂示した御教えは今現在なお範とすべしと思っている。「検証学生運動上、下巻」で学生運動の終焉を確認したが、その理由として、教祖みきが垂示した御教えをなおざりにしたまま間違った方向で運動して来た故であるとさえ思っている。そうまで惚れ憧憬する教祖みきの検証に読者と共に向かいたい。
 

 2012.3.14日 れんだいこ拝
 天理教の道人は本部一帯の地を「おぢば」(お地場)と云う。その信仰を「お道」と云う。「教祖」と書いて「おやさま」と読む。「お道」では修養科という独特の修養学校を布教を兼ねて用意しており、私はある事情により連続二期修養科生として過ごすこととなった。28歳頃の事である。「お道」との出会いはこの時が初めてであった。それまでの私といえば、学生運動のただ中に身を置いていた経験を持つことからして凡そ宗教的意識とはかけ離れた社会観の下で生活を規律しており、自分の意志で「おぢば」と巡り合うということはありえなかったであろう。ところが、私を取り巻く周囲に「お道」で云う「身上事情」が次から次へと連鎖して起こり出し、その頃実家で孤軍奮闘していた次兄が暗中模索の末に同級生の手引きで「お道」の「手引き」をいただいた。次兄は急遽天理市行きを決め、東京にいて勤務していた私に「トニカク、ドウデモコイ」という強い口調で迫った。私は退職のお別れパーティーの予定を早めてもらい、カバン一つを抱えて「おぢば」へ向かった。何のことはない毎月入学がある修養科入学のその月のタイミングを伝えていただけのことだったことが後で分かったのだが、兄自身も訳が分からないままに修養科に入学し、私をせかしたことになる。こうして、訳の分からないままに電車を乗り継ぎ、教えられた詰所を詣でることになった。これが天理との機縁であり「私のお引き寄せ譚」である。

 我が家は代々浄土真宗の篤実な壇家であり、父は四人の子供に食わす為に必死の働きづくめの人であり、政治、宗教と特段の関わりを持っていなかった。母も天理教との繋がりはなく信仰的には別の宗教団体の信徒であった。よって天理教と関わりがあった訳ではない。但し、後で振り返るのに天理教を全く知らないと云う訳ではなかった。学生時代に宗教学者・村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでおり、天理教の中身はさっぱり分からなかったものの黒住、金光と並ぶ幕末三大宗教の一つと云う認識ぐらいはあった。筆者が同書に魅かれたのは、戦前においてほんみち派の天理教布教師が国家権力の弾圧に屈せず筋を通し闘い抜いていた史実に対してである。そのことに共感し、その経緯、心情を確認したいと思ったことはあった。読後印象として良質の著書、良質の宗教運動と云う感慨を持っていた。しかし、天理教、ほんみちに入信するとか、もっと知りたいと思うほどではなかった。あくまで学生運動の延長として学生運動陣営の側から教訓的に読んでいたことになる。

 そういう心理状態のなかで突如「おぢば」を訪ね、修養科へ入学し、以降3ケ月間を天理詰所で生活するようになった。御縁というものは不思議なもので、自分の意志でもなく参った「おぢば」と私の相性がすこぶる良かった。見るもの聞くもの皆な滋養強壮となり、「みき」の教えは乾いた地中に滲み入る水の如くであった。早朝、詰所で天理教信仰の要である御歌と手振りを習い、朝食後は修養科生一同が連れだって本部へ行って教祖伝、天理教典を習い、その他「ひのきしん」と云われるボランティアで点字を習い、帰ってからは一斉清掃、夕食、その後に又手踊りを習うと云う日課となった。一期目は同期の仲間、一期先輩、二期先輩の仲間、二期目になると後輩がやって来て、三期目になるとまた後輩がやってきて、ところてん式に卒業する按配になっている。普通は3ケ月で卒業のところ事情があって再入学し都合6カ月間過ごすことになった。確か11月から5月までだったと記憶する。

 この間の天理生活は少しも嫌でなかった。むしろ教祖の伝記に接し畏敬の念を覚えた。教典を学び天理教教義の概要を理解するのも嫌でなかった。と云うか、教祖みきが伝承した人類創世記譚「元の理」(泥海古記)が面白く、否面白過ぎて、本腰入れて天理教義を習おうと興味を深めて行った。息抜く暇もない修養科生活も慣れるに従い次第に多少のゆとりを生み、そのゆとりの合間に天理教研究を始めるようになった。修養科を二期連続して過ごしたことで、その間相当の教理を深めることができた。それからが筆者らしいところで、そうなると本部編纂の教祖伝、教典にもの足りなくなった。こういう作風は直前の学生運動時代に修得していた。のめり込んでいたマルクス主義にも、その理解と実践を廻って諸党派の見解が違うので、特定一派の見解を鵜呑みにはできないとする作法を身につけていた。これが影響したのであろう、本部教理と違う別の研究の必要を思い立つようになった。

 この頃ともなると私は既に「用木」(ようぼく)としての「成人」(せいじん)を見せ始めており、生涯を「お道」に列なること、教祖の教えを世に広めることを当然に思うようになっていた。こうした私が「おぢば」を後にするにあたり「心定め」したことは、私なりの「中山みき教祖伝」を綴るという誓いであった。それも、「みき」の神懸りの御歳に私の齢が至るまでにという年限付きの「心定め」であった。 この「心定め」は密かに続き、道中で投げやりになり又始め中断すると云う繰り返しとなった。なぜなら30代の身は公私多忙だったからである。「お手入れ」を頂く度に本書執筆への「急き込み」が為されているのだと受け取らせて頂き、取り組んではみても結局続かない。とはいえコツコツと伝記を書き綴って行った。当時ワープロが出始めており、悪筆の筆者には調法だった。手当たり次第に読み、それを下書き的に綴り、他書を咀嚼しては書き直して行った。みきが神がかりした42歳までに書き上げるつもりであったが、半分ほどできたままそのままにしていた。

 「心定め」しつつも以来15年余を過ごしてしまった。道中を様々な「お手入れ」を通して、「お道」との邂逅を迫られたことが一度や二度ではない。この度は、私の事業経営が転換点に立ち至ったという「事情」を受け留めて、再々度「みき」の元へ戻って来ることとなった。個人的には、本書執筆への「急き込み」が為されたのだと受け取らせて頂いている。これまでも手掛けては中断の憂き目に追いやってしまっているこの覚書を、このたびこそは何とか日の目に会わせたいと思う。本来は、「みき」が神懸りした41才の御年に私の齢が至る迄に、私なりの「中山みき教祖伝」を纏めてみたいというのが念願であった。けれども、とうとうその齢を過ぎてしまった。種々の喧騒と自堕落を繰返したせいである。つくづく私の人間性の好い加減さに対して愛想が尽きてはいるものの、この度こそは並々ならぬ決心を堅めている。一日一日を遅々とした歩みでよいからとにかく続けることが肝心だ。


 私は、何故さほどに「みき」にこだわるのであろうか。恐らく、ひとつには、丁度初期の「お道」の信者がそうであったように、とにもかくにも「みき」との語らいが楽しくて仕方がないのであろう。道人としては、前述したように私は親の代からの信仰があるわけではない。たまたま修養科生として過ごした「おぢば」での六カ月の間と、引き続いての三カ月程の教会での住み込みを経験して以来の無沙汰の身で、特段に熱心な信徒という訳ではない。所属の教会へのつきなみ祭(月例祭)にも時に詣る程度で毎月欠かさずというほどではない。ただしかし、この十余年の間、私は、「みき」を常に心象の奥部に温め続けており、のみならず「みき」に再びの薫淘を授かってみたい思いを禁じえないままの日々であった。こう言い切ることに憚りない。幸いというべきか、「みき」神懸りの御年に私の年齢が至る頃までに私なりの「みき様伝」をまとめてみたいという「心定め」を叶える刻限が急接近し始めている。なお私の事業経営の方も大きな「旬」を迎えつつあり、願うらくばこの辺りで人生万のお伺いをする意味でも、「みき」との語らいを得心行くまでしてみたいと思う。これにより、約束の年限の42歳を過ぎた頃にやおら又書き始め、50歳の頃ようやく一通りの研究書ができた。この頃はワープロからパソコンに移っていた。後は今日まで少しずつ書き加え書き直し、こうして現在サイトアップしている通りの「中山みき論」が綴られている。
 そういう個人的な動機を主にしているので、私は、この「中山みき教祖伝」を、徹底して私の主観を基調に綴りたいと思う。その結果次のような特徴を持つことになる。

 第一。世間一般に流布されている教祖像はいわずもがな、教団手引書である稿本天理教教祖伝に貫かれている教祖像と趣を異にするのも致し方ない。特に同書の根幹を為すと思われる「魂の因縁」としての教理的解釈、つまり期限の到来により教祖がこの世に現われることとなったという予定論的な教祖像を踏襲するつもりはない。私は、教祖の生涯を、大和地方の一介の農婦に宿った宗教的精神の昇華していく行程として捉え、「みき」の生涯であり信徒の手本でもある「ひながた」をかく見据え、あくまで「みき」を「時代の子」としてその関わりの中から捉え直し、その側面から歴史的な時代の空気(ニューマ)との絡みに於て、「ひながた」の軌跡とその思想を、考証的に弁証論的手法で明らかにして行きたいと思う。

 凡そ天理教に限らず、宗教団体一般の通例として、教祖の全能化、完全無比化は常套的に為されることである。教祖の生涯の行程を運命の赤い縱糸で語ると云う叙述の仕方は、一歩譲って、教祖を畏敬させるには手法として意味のあることではあろうと思う。けれども、私は、「みき」の教祖像を叙述するのに、そうした神秘に重きを置く手法を採らうとは思わない。こうした観点よりの叙述は親しみ慣らされてきた方法だとしても、「みき」の信徒たらんとする者の信仰を主体的に深め、各々の現実生活に生きた信仰としての関りを持たすには益するところ少ないのではなかろうか。と考えさせて頂く理由による。

 完結的教説は、御用精神には都合良く又教団組織の秩序を維持する道具とはなりえても、遂には信徒の思考を退化させ、狂信か忘却かの二俣の途へ導くばかりの教徒としか形成し得ないであろう。私は、「お道」教義はそのように埋没させてはならない格を備えていると思うから、むしろ、「みき」が神格化乃至「神の社」として神そのものに昇華していく過程を、生成的に検証していくことにより、道中苦悶苦闘する「みき」をあらわにする中で、この時代の枠組みの中で、真実に「みき」が訴求し取り組んだ課題を俎上に乗せ、折々の「みき」の「ひながた」と、そうした「みき」のヴィヴィッドな生きざまとの弁証を通して私自身の思案を深くし、もって「みき」の価値を自ずと明らかにしていきたいと思う。
 第二。この宗教の特異性を、教義と教団の二つの側面より社会思想的に把握してみたいという衝動を覚える。「お道」教義の原形はこの問いに充分な価値を有していると思われるが如何なものであろうか。既に述べたが、私は、今日のように道人となるまでは「お道」とは親の代まで含めて格別の絡みもなく、当時の興趣の赴くところとしても、「みき」に特段の関心があるわけでもなかった。むしろ70年代の学生運動の片隅に身を寄せていた者として、宗教を阿片として一顧だにしない立場にあった、というのが実際であった。そうした私が、「おじば」に引き留められたのは、「みき」の教義と「ひながた」の内に、或る種の社会思想的な芳香を見出したことによる。運動論的にみても、「みき」を取り巻く一団の内に半端でない教義とその実践が現在の教典の中にさえ見え隠れしているのだ。教祖の教えが「復元」しきれていないという批判が尤もであると思われる現在の教典を通してさえそうなのだ!

 それまでの私がそう認識していたように、宗教的なものにうさん臭さを感じて一顧だにしない立場からは評価不能であるけれども、教祖みきは、時の支配権力と支柱思想の攻撃をまともに受けながら、打ち出した教義を毅然と掲げつつ、80歳から89歳までの高齢の身を幾度も獄舎へ拘引されると云う事態を忌避しなかった。この「みき」の生きざま「ひながた」は、近代宗派のどの教祖、社会運動家のそれと比較してみても遜色ない壮絶さを刻印している。事実、戦後GHQ指令により治安維持法違反で投獄されていた主義者の解放が為されたが、共産主義者以外に「ほんみち」信仰者が混じっていたことが見落とされている。この「ほんみち」とは「みき」教理の原理主義者であり、共産主義者に比して見劣りしないどころか、共産主義者が思想検事との論争に破れ次々と転向投降して行ったのに比して、思想検事相手に徹底弁論して一歩も引かなかった。まことに敬服される抵抗闘争を獄中、獄外で繰り広げた経過を見せている。このことは「みき」信仰者の大きな財産となる史実ではなかろうか。

 組織論的には、教祖の指図にも関らず既に渦巻いていた妥協派が「応法の道」を択ぶことにより、変節を余儀なくされることになったわけであるが、頑として抵抗を続けた天理教の生成期の歴史は、日本の民衆運動の経験に今も燦然と煌めいていないだろうか。れんだいこは、実は幕末新興宗教全体が幕末維新を下から支えたもう一つの流れであり、むしろこちらの方が幕末維新の正統系譜ではなかろうかとさえ思っている。この方面での宗教史的研究は漸く明らかにされつつあるようであるが、未だ充分のものとも思えない。
 これに関連して「稿本天理教教祖伝」の「稿本」意味について言及しておく。「稿本」を字引すると「下書き。草稿」と解説されている。これをもう少し掘り下げると、「より確かな定本が出るまでの仮の間に合わせ本」と云う意味になるのではなかろうか。これを前提として「天理教教祖伝」に「稿本」を付与した教理的意味について推理しておく。

 「稿本天理教教祖伝」は、1956(昭和31)年、天理教本部により「天理教教組伝稿案」が策定され、同年10.26日、「稿本天理教教組伝」として刊行された。これより先の1949(昭和24)年10.26日、教会本部が全十章からなる「天理教教典」を刊行している。この時、2代真柱は次のように述べている。
 「この教典は、占領軍のGHQの占領体制に合わせて作らなくてはならない教典であるから、その教典の使用年限は十年と区切っておく」。

 2代真柱に信任の厚かった八島英雄氏は次のように解説している。
 「占領が十年続いていてもその時には編纂し直す。占領がなければもうこの教典は廃止する、という形で十年という約束でこの教典は発足した」。
する。

 問題は、このようにして策定された「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」の「稿本」性が薄められ、絶対テキスト化されて今日に至っていることにある。「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」が完璧であればそれも良いのだが、両書の本質は「稿本」性にある。それが見抜かれず、一言一句を「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」の通りにオウム返しする絶対テキスト化されて今日に至っているとしたら、それは教理的貧困と言わざるをえない。では、どこの部分に「稿本」性が認められるのか、これに答えられる者はほぼ居ないのではなかろうか。れんだいこは、長年の自問自答を経て漸く分かりかけて来た。これを記しておく。

 天理教教理は、教祖存命中より、合法化獲得の為に教理を当局迎合化させ、教祖がこれを不興とし、これより教祖派と合法派が確執しつつ布教して行った史実がある。その後は、日本政府の好戦政策に随い、それも次第にアジア圏での大東亜共栄圏構想に基づく「アジアの日本化」へと転化し、それに合わせ開拓団を組織し聖戦協力して行った史実がある。ところが、その最終戦争となった第二次世界大戦(日本から見れば大東亜戦争)で敗戦し、戦後日本は被占領国家となった。これを「GHQ占領体制」と云う。GHQは、戦勝国権利で彼らの都合の良いような戦後日本の解体、調理、改組に向かった。この流れで「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」が生み出されていることが案外と知られていない。天理教本部は、1945(昭和20)年8.15日、中山正善二代真柱諭達第15号を発布し、「これから本当の教祖の教えに戻す」と復元宣言した。「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」の絶対テキスト化は、この復元の流れで策定されたものと勘違いしているところから生まれている。事実はさにあらずで、「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」は用意周到にGHQ検閲下の産物となっている。これを確認しておく。

 同9.19日(9.21日?)、GHQが「日本新聞遵則(プレス・コード)」と「日本放送遵則(ラジオ・コード)」が報道関係者に公表された。同9.29日、「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令した。これにより、主要新聞は事前検閲、それ以外の新聞は事後検閲となった。あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も検閲を受けることになった。連合国不都合な記事は全て封じ込まれた。「マスコミは日本帝国に対する忠誠義務から解放された代わりにGHQの忠犬になつた」。

 同10.26日、秋季大祭に真座のかぐら、昭和9年と同じ十二下りの手踊りを復元させた。この時、真柱が、「来年の正月26日に、教祖60年祭を迎える。そのスローガンは『復元』である。本来の天理の道の姿に戻る」との声明を発した。10.29日、おじばで、復元教義講習会が開かれた。この時、「復元」をテーマに、目標にして行うという宣言を行った。教義はみかぐらうた、おふでさき、おさしずに基づき、儀礼はかんろだいつとめのみとする方向を打ち出す。これに伴い国家神道体制に合わせた明治経典を廃止した。但し、「連合軍の占領政策との兼ね合いもあり、それ以上の復元はできなかった」。


 同12.15日、GHQは、「神道指令」(国家と神社神道の分離を命じ、国家神道の廃止命令)を発令し、政教分離の徹底的実施を命じた。これに基づき、政府による神社への保証、支援などを禁止する措置を執った(「神道指令」を通達)。これにより、国家による信仰の強制が違法となり、内務省神祇院が廃止された。同12.28日、昭和15年に公布された宗教団体法が勅令をもって廃止され、代わって宗教法人令が施行された。それまでの認可制を届出制に変え、宗教法人の設立、規則変更、解散などを自由に行なえるようにし即日施行した。

 「天理教教典」、「稿本天理教教祖伝」は、こういう経緯を経ての産物となっている。これを知れば、天理教教理は、戦前は日本帝国に資するよう改造され、今度は新たな支配者となった戦勝国GHQ側に都合の良いように改造されていることが容易に理解できよう。結果的に、教祖の神がかりの様子も、親神天理王の命の権能も、教理の個別の内容も全編がキリスト教的なものに編集し直されている。即ち「天理教のキリスト教化」である。そもそもキリスト教自体が、教祖イエスの教義をキリスト教化したものである。ここで云う「キリスト教化」とは、ユダヤ教内のパリサイ派教義に親和するよう即ちユダヤ教パリサイ派教義の配下への組み込みを云う。この先例に似せて「天理教のキリスト教化」が行われたと心得るべきである。何の為にそうされたのかは高度な統治問題であり、別のテーマになるのでここでは問わない。ここで確認すべきは、戦勝国側の奥の院が、彼らの都合の良いように天理教の牙を抜き馴致していることを窺うことである。それでは、どの部分、どの下りが書き換えられているのか、ここが分からないと、本当の意味での「稿本」問題が解けない。
 第三。「みき教理」そのものをどう拝察すべきか。私は、「みき教理」の格を高く評価しているので本格的に位置づけたい。その為に、歴史の縦糸として日本史の中に然るべき評価を据えたい。次に歴史の横糸として世界史の中に然るべき評価を据えたい。この縦糸横糸両面の評価の中から「みき教理」の占める座席が自ずと定まるのではなかろうかと思っている。「歴史の縦糸」は後述し、歴史の横糸」を先に確認しておく。
 第三の歴史の横糸その」「みき教理」を史上の他の同様なものと比較してみたい。第三の一「みき」を「西欧の男イエス、東洋の女みき」と位置づけ、イエスキリストと同じ視座で評したい。
 第三の二「みき」在世中の時代が丁度西欧でのマルクス主義の勃興と同時期であり、よく似た共産主義社会を展望しているので「西欧のマルクス、東洋のみき」の視座から論じたい。この教義運動を可能な限り社会主義思想的脈絡で考察してみたい。草創期の「お道」に脈動していた「陽気暮らし」の思想を、時を同じくして興った西欧のマルクス.エンゲルスの共産主義社会理論との平衡的理解のもとに注目させてみようと思う。これも又興味の湧く課題である。私は、この両者が世界史上同時代人であって、片やいかにも西洋的に、こなたいかにも東洋的な手法で、洋の東西にわたって拝金社会制に纏わる弊害を同時期に警鐘乱打していた歴史の不思議さと共鳴現象に驚きを覚えている。更に云えば、マルクス主義がネオシオニズム的要素を臭わせているのに比して、「みき」のそれは日本古神道的匂いを漂わせている。この点で、「みき」の社会主義思想こそ求めるべきものであり、マルクス主義のそれは「みき」の社会主義思想を媒介させることによって新たに孵化させられるべきものでないのか。

 こうした思いを禁じえないのは私だけなのだろうか。この方面での識者の論及が極端に不足していることは不可解であると云える。それは、日本の知識階級の、西洋事大主義的な偏狭さと傲慢さ、その裏腹の臆病な精神によっているとしか思えないのであるが如何であろうか。追記すれば、この同時代にアメリカにおいてもモルモン教が起こっている。その教義の何たるかは承知していないが「陽気暮らし」的処世観を掲げていることにある時気づかされた。従って、ことによると西欧でのマルクス主義、日本における「みき教理」、アメリカでのモルモン教という同一系の思想が同時に誕生していたという史実がありそうである。時間があれば、この研究を為してみたいという思いを禁じえない。
 第三の三「みき」思想を陽明学のそれとの比較でも論じてみたい。
 第三の四同時代の日本の農政学者である二宮尊徳、大原幽学、山田方谷とのすりあわせをもしてみたいと思う。
 第三の五「みき」教理の仏教思想との親疎性に鑑み釈尊仏陀とのすり合わせも行いたい。
 第三の六。当時の創始宗教との比較もしておきたい。
 第四。これは天理教徒でないと理解しにくい教義内容になるけれども「みき」が口述した「天の理譚」(泥海古記又は口記)という、いわば人類の創世記についての評価と考察を為してみたい。私を天理の聖地に留めおいた理由に、「お道」教義の驚くべき左傾思想ということがあったが、更にまた「天の理譚」の荒唐無稽さと、この例え話しの驚くほどの完成度の高さに接したことにあった、ということも事実である。私は、「みき」の徒な神格化よりも人間的側面に光を当てる云々といったけれども、この話しの由来に関しては、真実「みき」は「神の社」として神の思いの口述者ではなかったか、と畏怖している。「天の理譚」は、大和の一介の主婦がたとえ蔵にこもって思案を良くしようとも、発想を超えでた異次元の内容ではなかろうかと思わせて頂いている。「みき」の筆記したお筆先の筆体が残されており、これを見ればその優美秀麗さに感嘆せざるを得ない。その感嘆は常に内容の不可思議さと連動して私の胸を今も打っている。

 それとも、「天の理譚」には何らかの伝承につながる伏線があったのであろうか。そうとすれば、その辺りを解明してみたい。とても人智により着想しえる「お咄し」のようには思えないからである。ともあれ「天の理譚」の教義とその精神世界の解析と読み取りに意を注ぎたい。付言しておけば、この「天の理譚」の不朽の意義は、西欧系のユダヤ教、キリスト教が唱えるいわゆる聖書の天地創造譚に真っ向から対置して何ら臆することのない、むしろ「天の理譚」こそが今後の天地創造譚にされるべきではないのかと思わさせていただく。
 第五。「みき」の教義原形と今日の「お道」教義の二層構造を客体化し、初期の「お道」教義の持つ質の良さと時代画期性を露顕させ、それが「応法の道」へと踏み込んでいく関りの中で如何に後退していったかという点に絞って、教義の発展と変質について論及したい。組織論的には、変質の是非を教条的に論ずるのは難しい。ただ、本来の「お道」教義の原形である「天の理譚」、「み神楽歌とそのおつとめ」、「お諭し」、「お筆先」、「ひながた」の持つ思想的実践的質の高みを、いくら称揚しても足りないほど素晴らしいものと確信する故に露にさせてみようと思う。ドイツの哲学者ヘーゲルの物言いでの、まぎれもなく「時代精神、世界精神の体現者」であったであろう「みき」の拓いた地平を画然とさせてみたいのだ。このことは、同時に「元の始まり」に復して思案するという意味において、現在の天理教団の陥っている隘路を打開する有用な手法を見出す途ともなるであろう。天理教団としては、「みき」ご存命の頃より、「みき」自身の指図に反してまで権力当局に阿ねてきた歴史があり、今日的表現で云えば、お道は立教の当初より、合法と非合法の谷間を右往左往してきたのである。比喩的な表現をすれば、「お道」はそうした歴史を経ることによって今日では渦中の衣装を纏いすぎて、「赤衣」と「間にあわせに着た衣」との分別を能くしえなくなっているのではなかろうかとの心配までさせて頂いている。現役の信徒の皆様方には口幅ったい言い方で申し分けないけれども、「みき」は、昔も今も、「みき」の思いで理解されることが寡聞で、信徒自身が己の力量に応じて理解すると云う都合の良い仕方でしか敬愛されて来なかったのではなかろうか。こうして、「みき」は「存命」として崇められる割には蚊帳の外に置かれ続けられたまま今日に至っておられるのではなかろうか。
 第六。直接的には私ごとになるけれども、現在私は地方都市の一角において小事業を営んでいる。ここに至る因果はひとまずおいて、この私の事業において、「みき」の立教から布教への五十年の道すがらこそ、私の事業経営の困難辛苦の遣り繰りに、何物にも替えがたい貴重な財産として指標されているのではなかろうか、と気づかせて頂いている。かって修養科を卒業し「おじば」を離れるにあたってお道に対して抱いた感慨は、私にはしっくりと治まる教えではあったけれども、率直に云って、この教義は一般的には農業、漁業従事者に向いており、あるいは「お道」用語に大工言葉が多いことからそうした土木、建築職種の人向きの教えではなかろうかとの思いにあった。更に云えば、商業的な事業を主とした職種に就こうとしていた私には、個人的な興趣を別にすれば、私の従事しようとする業には接点の薄い教えではなかろうかとの思いにあった。

 何しろ商売についての直接的なお諭しとしては、「高く買って安く売りなさい」と云う、世間常識とは逆の御言葉しか見出せなかったのだから。ところが、小とはいえ会社経営を手掛けて十余年を経て、このところ頻りに次のように気づかせられるようになった。「高く買って安く売りなさい」の教えは、続いてこそ道の、長く続く道の秘訣を教示している。且つ、「みき」の立教に至る道筋より、「堪能」の二十年間にも及ぶ日々の暮らしの折々を経て、漸く布教へ向かう五十年の道すがらの階梯こそ、普遍的に事業発展の行程とその軌跡をも又指し示しているのではなかろうか。(党派の場合は、革命を事業と思えば然りである) この道中に為された、例えば「節から芽がでる」等の「お諭し」、「お話し」、「ひながた」の全てが、日々平坦でない私共の事業を盛りたてていく上での貴重な助言であり、珠玉の目標(めどう)になっているのではなかろうか。そう思い当るに至っている。つまり、「みき」の考究こそ事業経営の発展の道筋をも照らしだす指針を探ることであり、そうとすれば、あたら惜しくも日々を無為に過ごせしことよと嘆くにも値することともなる。とはいえ、有り難くも今日気づかせて頂いたことを何より感謝せねばならぬことと思わせて頂いている。
 第七。そして今、「れんだいこの中山みき論」を世に送り出そうとしている。いつ頃からだろうか、今62歳の筆者が恐らく数年前の58歳の頃、みきのこれまでに書かれていない側面が見えるようになった。これは日本古代史の更に古代の上古代史研究の際に感応したことによる。但し、これを言葉にするのが困難でずっと脳内に温めていた。本書執筆を契機として、これを文章にしようと思う。本書の題名「天理教教祖みき/卑弥呼化身論」はこれに由来している。これが新たな視野であり、本書執筆の真の動機になっている。

 ここで、「邪馬台国女王卑弥呼の再来的みき」の観点から日本古神道絡みの論考をしてみたいと思っている。教祖みきの御教えを日本古神道の見地から紐解くのは初見かどうかは分からないが、かなり有力な説と自負している。教祖みきの創世記「元の理譚」をこの絡みからも確認してみたいと思っている。
この六視座から万華鏡的に「みき」を解き明かすのが本書の狙いである。
 第八。みき教理発生の裏事情を確認しておきたい。これは、現代的に大いに意味のある考察となる。即ち、何故にみき教理が歴史的必然的にかの時に出現したかを問いたい。これに関して一言しておく。と云うのも、みきが神がかりする40歳頃、オランダ、清国、朝鮮とのみ通商すると云う鎖国体制を切り崩すかの如くにイギリス、アメリカ、ロシアの西洋列強が来航し始めていた。江戸幕府は異国船打払令で対応していたが無能であった。この事情を踏まえつつ、1853年、アメリカのペリーが、軍艦4隻を引きいて浦賀に来航、通商を要求していたその年、中山みきは五女こかんを浪速に行かせ布教活動を開始していることに注目したい。今まで何気なく見落としていたが、みきの霊能力は黒船の正体を的確に認めていたのではなかったか。単なる異国船ではなく、日本国乗っ取りの黒い野望と陰謀を持つ国際ユダ邪の日本攻略が始まったことを感知し、この最大の国難に際して、日本人の国としてのアイデンティティーの確立の必要を霊能的に感じとり、その創出に営為したのではなかったか。これを仮に「みき国学」と命名すると、これが天理教の核心なのではなかろうか。この観点に立つことにより、明治新政府の天理教弾圧事情の新視角が見えてくることになろう。

 
筆者の能力が許せば、日本の幕末宗教の一つである天理教の開祖としての中山みきを、日本のみならず世界的視座に於いて称揚してみたい、「みき」の値打ちはそれに値するとすると思っている。本書はここに眼目がある。世評を待ちたいと思う。付言すれば、本書では、「みき」教理を政治思想的に読みとろうとしている。ここに本書の特色が認められる。「みき」教理を宗教的に読みとるのは他書に任せて、他書では記されていない政治思想的な面での「みき」教理の解析に傾注している。今のところ、この観点からの研究を目にしていない。そういう意味では、「みき」研究の新視角を提供していると自負している。
 第九。筆者はたまさか中山みきを知り得た。そしてこのたび本書出版するほどに中山みき教理に魅かれた。あれから30年余になる中山みき研究の結果、中山みきを拝戴し、本来なら最も精力的に教祖中山みきを喧伝せねばならぬ天理教本部教団の教祖研究が案外疎かにされていることを義憤している。そして、その臭いが、これが云いたかったのだが、筆者の学生運動時代に感じた日本共産党のマルクス主義研究のお粗末さと同じような気がする。これは何なのだろうか。共産党の場合には代々木の党本部、お道の場合には教団本部が揃いも揃って、ありていに云えば「教えの牙を抜く」役割を引き受けている気がする。偶然ではなく、そう云う風に型に嵌められて体制内化している、させられている、そうこうしているうちにいつの間にか本物の理論、御教えが分からなくなっていると窺う。これ以上は、まえがきの域を外れるので記さないが、そういう体制下にあると分別しておく必要があろう。
 第十。
 さて、以上の見地から本書の執筆に向かうこととなったわけであるが、道中喜び勇んでどこまで辿りつくことができるであろうか。又かく大上段に構えたものの、つたない私の能力で叙述しうるであろうか心もとない。されど、この度こそは進みきるんだと言い聞かせ、自分自身に鞭打ちながらこの航海に船出しようと思う。又今までに知りあった如何にも善良な幾人かの天理教徒よ、本書があなたがたの明日の行方に資することになれるよう頑張ります。以上万感の思いを込めて本書執筆に全力を傾けたい。なむてんりおうのみこと

 1987年、7.10日起草、2015年、11月7日再編集 れんだいこ拝
 2009.9.27日、「地方の教会の子供」さんより、「天理との出会いの中の文章で(おじば)とあるのは (おぢば)と書きます」とのご指摘を受けた。そういえばそうだった。早速手直しさせていただいた。感謝申し上げる次第です。

 2009.9.29日 れんだいこ拝
 教祖は何と和し何と闘い、何を護り、何を排したのか。天理教には伝えようとする日本がある。

【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】
 2007.11.29日付けブログ「れんだいこのカンテラ時評348 【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】」を転載しておく。

 【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】

 れんだいこは、久しぶりに「天理教教祖中山みきの研究」を書き換えた。まだまだ不十分であるが、既成本のどれよりも勝れた中山みき論に成り得ていると自負している。興味のある方は読まれ、ぜひご意見くだされば有り難い。糠釘が一番辛い。

 れんだいこがなぜ中山みきに拘るのか。それは、極めて深遠な現代ネオシオニズム批判になっていることに気づいたからである。ネオシオニズムは今や世界をままにしており、その挙句に社会の奇形と戦争と原子力、地球環境破壊をもたらしており、その傾向をますます強めつつある。当然ながら、いびつな現代を招来せしめた張本人であるネオシオニズムはこの危機を打開する能力を持たない。なぜなら、彼らが推進する強欲資本主義秩序の自己否定に繋がるからである。彼らは自己の支配権を維持しながらの改良を望み、付け刃の構造改革に精出しているが、既に事態はそういうものでは何ら事態を解決し得ない、否その間にも現代世界の文明的危機はますます深刻さを深めつつある。

 れんだいこはほぼ30年前の或る時、中山みきの御教えと邂逅した。それまで天理教とは何の接点もなかったのに不思議なほど胸にすっきり治まったのでよほど相性が良いのだろう。そう云えば、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでいたので、それが効いていたのかも知れない。天理教聖地のおじばに都合6ヶ月留まり、離れるに当たってれんだいこなりのみき教祖伝を書き上げる心定めをした。みきが神がかった41歳の時までを期したが、それはかなわなかった。ほぼ完成したのはれんだいこ50歳頃である。道中何度足踏みしたことか。今57歳だから7年ぶりに書き換えたことになる。

 今なぜれんだいこが中山みきに拘るのか。それは、中山みきの御教えが、現代の世界閉塞をこじあける叡智を秘めていると思うからである。そう思うようになった。れんだいこは坐りづとも立ち手踊りも忘れたが、改めて覚え直そうと思っている。あの踊りの中に思惟の原理原則が凝縮されていると気づかされたからである。

 まだある。れんだいこが拘り続けてきたマルクス主義の再生が、マルクスを起点にする限り不可能と云うマルクス主義のネオシオニズム性に気づかされたからである。俗流マルクス主義が親ネオシオニズムなのは決して偶然ではない。そういうことからむしろ、中山みき思想を核として世界の様々な思想を練り合せたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。

 まだある。ネオシオニズムを原理的に批判するのにキリスト教に傾斜して為そうにも、キリスト教自体がネオシオニズムの思惟様式を取り入れており、ほぼ絶望的に難しい事を知らされたからである。むしろ、開祖イエスの御教えに着目し、イエス教義とみき教義を練り合わせたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。世界思想にはほかにも多々優れたものがあるだろうが、奥深い根本まで立ち入って思惟を深めているとなるとそうはなかろう。むしろ、みき教義を核としながら、世界の優れものを寄せたほうが手っ取り早いのではなかろうか、そう思っている。

 最後に云いたいことはこうである。最近は学んで為にならず却って馬鹿になるネオシオニズム系学問が横行隆盛しつつあり、次第に我々の日常生活をがんじがらめに規制しつつある。政財官学報司警軍の八者権力機関の頭目がこぞって被れているから、下が皆な倣(なら)う。これに対抗するには、ネオシオニズム系学問の個々を批判してもキリがなく、ネオシオニズム系学問総体に対峙する別系学問思想を打ち立てる以外にない。その別系学問は、みき教義を学び深く思案するところから生まれる。そう気づいた次第である。みき教義にちんぷんかんぷんな者には何を言っているのかそれこそちんぷんかんぷんだろうが、各自銘々がみきの門を叩くのが良かろうと思う。れんだいこは、毎日の生活の癒しにもなることであるからして、日々立ち返り更に充実させて行こうと思う。

 2007.11.29日 れんだいこ拝





(私論.私見)