天地創造譚「元の理」考 |
(最新見直し2012.03.13日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「元の理」について記す。 2012.03.13日 れんだいこ拝 |
【「天の理譚」について】 |
第四。これは天理教徒でないと理解しにくい教義内容になるけれども「みき」が口述した「天の理譚」(泥海古記又は口記)という、いわば人類の創世記についての評価と考察を為してみたい。私を天理の聖地に留めおいた理由に、「お道」教義の驚くべき左傾思想ということがあったが、更にまた「天の理譚」の荒唐無稽さと、この例え話しの驚くほどの完成度の高さに接したことにあった、ということも事実である。私は、「みき」の徒な神格化よりも人間的側面に光を当てる云々といったけれども、この話しの由来に関しては、真実「みき」は「神の社」として神の思いの口述者ではなかったか、と畏怖している。「天の理譚」は、大和の一介の主婦がたとえ蔵にこもって思案を良くしようとも、発想を超えでた異次元の内容ではなかろうかと思わせて頂いている。「みき」の筆記したお筆先の筆体が残されており、これを見ればその優美秀麗さに感嘆せざるを得ない。その感嘆は常に内容の不可思議さと連動して私の胸を今も打っている。 それとも、「天の理譚」には何らかの伝承につながる伏線があったのであろうか。そうとすれば、その辺りを解明してみたい。とても人智により着想しえる「お咄し」のようには思えないからである。ともあれ「天の理譚」の教義とその精神世界の解析と読み取りに意を注ぎたい。付言しておけば、この「天の理譚」の不朽の意義は、西欧系のユダヤ教、キリスト教が唱えるいわゆる聖書の天地創造譚に真っ向から対置して何ら臆することのない、むしろ「天の理譚」こそが今後の天地創造譚にされるべきではないのかと思わさせていただく。 |
【「元の理」(みきの天地創造、生命誕生神話譚「泥海古記」の別称)考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ここでみきの御教えの思想的核となる「元の理」について確認しておく。「元の理」とは、みきの教示したいわば和製の天地創造譚であり、天理教内の道人のみならず日本の誇る文化財産である。これが筆者の受け取りようである。この言がウソかマコトか以下確かめられたい。 「元の理」は通称「泥海古記」と云われ、もしくは「古記」を「口記」と解して「泥海口記」とも云われる。ひらがなでは「こふき」と記す。ここでは「元の理」と表記することにする。「元の理」の定本はない。教祖が口述したものを取次の者が筆記し教祖にお見せしたところ得心されなかった由が伝えられている。そういう意味で、教徒の悟りに応じて理解の差が生まれていると云う状況の中で伝承されているものである。 二代目真柱の中山正善氏の「こふきの研究」に詳しいが、1881(明治14)年、山沢良次郎氏の和歌体「この世始まりのお話控え」(山沢本こうき)辺りが最初のようである。続いて1883(明治16)年、桝井伊三郎氏の散文体「桝井本こうき」が作成されている。1881(明治14)年から1887(明治20)年にかけて32種以上の「こうき」筆録本が作成された。1881年の「日本無双書物」、「この世始まりのお噺(はなし)控え」、「神の古記」、「古記」、「天輪王命」等の題名を付した諸本や、無題の筆録本合わせて12種もの「こうき」が作られ伝存していると云う。これらの筆録本には和歌体と説話体とがあり、内容もそれぞれ特徴があり一様ではない。このうち教内に広く普及したのは160首からなる「泥海古記」の題名の「明治14年和歌体本」である。「明治14年和歌体本」には別に161首からなる「明治14年3月これを記す、山沢良助」の表記のある山沢本がある。 筆者が惜しむのは「仲田版こふき」である。「仲田版こふき」とは、取次第一と云われた教内随一の高弟・仲田儀三郎が、1886(明治19)年、教祖89歳の時の「最後の御苦労」に教祖と共に下獄し、この時の苛酷な拷問と檻収容が原因で釈放後病の床に臥すことになったが、死の床にあ って、元士族で教弟の中ではもっとも筆達者と云われていた増野正兵衛に、「教祖のお待ちくださる『こふき』をまとめてから死にたい。どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と執念で書きあげたものである。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こふき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵の「おさしず」を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こふき』は、いろいろな者がまとめているが未だ完全なものはない。今まで遅れ遅れになっている。急いでやってくれ」(兵神版おさしず)と指図した。こうして、明治19年4月9日、「仲田版こふき」が書きあげられることになった。6月22日、ほぼ書きあげられたと同時に仲田は息を引き取った(享年56歳)。教祖は、「錦と見立てておいたのやが」とその死を痛惜したと伝えられている。「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が「仲田版こふき」を読んだところ、「こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんな禍(わざわい)が及んで来るやらしれん」と父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。かくて幻本になっている。本当に存在しないのか厳重に秘蔵されているのか分からないが読みたいと思う。大いに興味がある。 冒頭で少し触れたが、筆者が「元の理」に注目するのは単にみき思想の核心であると云う値打ちのものであるだけではない。世界の天地創造神話譚と比較して白眉のそれであり、文量的にも随一の詳しい創造譚になっていることを高く評価しているからである。こうなると独り天理教だけのものではない、日本の文化財産であると思われる。こう評されていないところに現代と云う時代の癖が見て取れると思っている。これに関連して触れておきたいことがある。「元の理」の内容を見れば、神話の思想的な面において、特にユダヤ教聖書の天地創造譚のそれと鋭く対立していることが分かる。共に創造主である神の存在と、その神の全智全能を説いているが、創造神の御性状がまるで違う。ユダヤ教聖書の記すエホバの神はいわば厳父のような存在としての絶対的命令者であり、人間創造に際してはまずは男性から着手している。これに対して、みきの説く天理王命神は滋母のような存在であり神人和合を旨としており、人間創造に際しては端から男神、女神の夫婦神を対で創造している。 仔細に述べるのは別の機会に譲るが非常に興味深い創造主の対比となっている。みきが特段にユダヤ教聖書の天地創造譚を意識していたとは思われないので、この対比の考察は優れて興味深い神学的テーマであるように思われる。この方面の研究が為されているように思われないが残念なことであろう。ところで、ユダヤ教聖書の天地創造譚は世界中に広く普及して定本化されており、天地創造譚と云えばユダヤ教式天地創造譚が通用している。しかし、ここにみきの「元の理」がある。もし「元の理」がなければユダヤ教式天地創造譚を学ぶしかできないところ、我々は有り難くも「元の理」の天地創造譚をも拝することができるという幸せにある。このことが如何に世界史的事件なのか機会があれば論じたいと思う。 ところで、そういう世界史的役割を担う「元の理」の由来は定かではない。天理教本部教理では、みきは天理王命の降臨神そのものであり、天理王命がみきの口を借りて「元の理」を宣べ伝えたとしているので由来に対する必要がなく、よってこの方面の考察はない。しかしながら、そういう教説に承服できない筆者は、あくまで探索し続けたいと思う。そういう関心を持っていたころ、最近の古代史研究を通じて「記紀」に先行する伝承を伝えているとされている古史古伝の代表的文献であるホツマ伝えの天地創造譚を知り、「元の理」がホツマ伝えの天地創造譚と微妙に絡んでいることを知った。これはまだ考証中なので断定まではできないが、「元の理」の原型神話であるらしき面が窺える。であるならば、みきはホツマ伝えに通じていたのであろうかと云う興味が湧く。実際にはホツマ伝えではなく、ホツマ伝えが下敷にした幻の古代史書群である出雲王朝系の歴史書に触れており、その書に記されていたところの天地創造譚を耽読している気配が濃厚である。かく拝察したい。 みきが、そのようなものをどこで手にしたのかは分からない。何らかの経緯で出雲王朝期の史書群に目を通しており、それらを元に「元の理」として再編成し、これを宣べ伝えたと思うべきではなかろうか。但し、「元の理」の告げる人類創造譚は余りにも勇壮広大な神話であるので、みきの創作に拠るとも言い難い面もある。 前置きはこれぐらいにして「元の理」を確認する。以下のサイトに記している。 「元の理」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/rironco/m otonorico/motonorico.htm) 諸本ある「元の理譚」をれんだいこ式に纏めれば次のような御諭しになる。
以上が、みきが説き明かした人類の創世記である。世界中のどの創世記譚にもましてより詳しい文量で語られていることが分かろう。この「元の理」が如何に重要かと云うと、みきの御教えは帰納法的にも演繹法的にも全てこの「元の理」に収斂することにある。これ逆に云えば、「元の理」を汲めども尽きぬ源泉として、これよりみきの御教えが紡ぎだされていることになる。「元の理」の教える「元一日」に立ち帰ることにより人類は閉塞から立ち直り救済される。「世直し、世の立て替え」は親神の世界創造の思いと心尽くしに思いを馳せることにより自ずと道筋が見えて来ると云うメッセージが込められている。 そういう「元の理」の白眉さは、今や世界に普く流布しているユダヤ教式天地創造譚に伍してひけを取らぬばかりか、ユダヤ教式天地創造譚の訂正を迫るより奥の深い叡智が散りばめられているところにある。これほどのものが天理教徒以外は知らぬ現状は寧ろ不幸なことである。「元の理」は日本の誇る精神的文化財産である。かく了解せねばならない。我々は、記紀神話、ホツマ伝え神話にとどまらず「元の理」にまで踏み込んで、日本神話の粋を知るべきである。これが云いたかった。 「元の理」は歴史考証的にも哲学的にも社会思想的にも味わい深い。ユダヤ教式天地創造譚が近現代科学の知見と抵触する面が多々あるのに比して、「元の理」は逆に親和的であるのも興味深い。ここでは逐一は述べないが、最低限伝えねばならないところを披歴しておく。その前に、「元の理」との対照性を良くする為にユダヤ教式天地創造譚を確認する。 「創世記」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/yudayakyoco/seisyoco/so seiki/1.html)
第二点として、ユダヤ教式天地創造譚では、創造主のエホバ神が絶対的厳罰的万能主として登場し君臨する。加えてトリッキーでさえある。しかしながら、みきの説く「元の理」では、創造主の天理王の命は万能主ではあるが慈愛に満ちており、諸事に「談じ合い」を要件としている。敢えて例えれば、エホバ神が父性的であり天理王の命は母性的と云う違いを見てとれる。「元の理」がなければ、ユダヤ教式天地創造譚に示される絶対的厳罰的万能主としての創造主しか窺えないところ、慈愛的「談じ合い」的万能主としての創造主を知ることができると云う有り難いことになっている。 第三点として、ユダヤ教式天地創造譚では、人間は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とされ、「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。その後相当の経過後に、主なる神か「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」として、「人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」としている。しかしながら、「元の理」では、男女ともに同じ自然摂理を材料によって創造され、性差を仕込まれている。神にかたどって拵えられたとは記していない。この寓意によれば、人間創造の具体的手法に於いてユダヤ教式天地創造譚の方が省略的であり且つ男性優位的である。「元の理」の人間創造は詳解であり、根本的に男女対等、但し性差の違いに基づく差異が始源的に諭されていることになる。筆者は、「元の理」の人間創造譚の方に軍配を挙げたい。 第四点として、ユダヤ教式天地創造譚では、人をして「人間に海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」とし、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と宣べられている。即ち人間の自然支配を神から負託されているとの教説を打ち立てている。しかしながら、「元の理」にはこのような教えはない。そもそも人間拵えの台として自然の摂理を取り入れているのであるからして人と自然との和合的調和が当然視されている。この教えは、近現代文明の自然破壊が顕著な現下のご時世に於いては貴重なるエコ思想に繫がっており、「元の理」的人間観、自然摂理観の方が有効に機能するのは言を俟たない。 第五点として、ユダヤ教式聖書では、天地創造譚の後に出てくる**譚において、神との選民契約によりユダヤの民が恩寵に与ったとしている。これによりユダヤの民が他の部族の民を支配することが正当視運命視されている。しかしながら、「元の理」では、一列平等の神人和楽世界が教義化されており、特定部族の選民思想は導き出されない。世界平和思念上、「人の上に人を造らず」としているみき教義の方が有効に機能するのは言を俟たない。 第六点として、ユダヤ教式天地創造譚は人の生きる目的までは明かしていない。代わりに説いているのが「エデンの園に於ける知恵の実騒動」である。人間は、創造主であるエホバの神の言いつけに従わず、蛇に唆されて知恵の実であるリンゴを食したことにより知恵を授かると同時に羞恥感情を持つことになり、これが咎められて園を追放される。この罪と罰により男は労役の苦労、女は出産の苦労が義務づられる云々。しかしながら、「元の理」では、神が人を罰する云々の話は登場しない。その代わりに、神が人間を創造するに当たって思念したことが「一つ人間というものを拵えて、そのものが陽気遊山し喜ぶ様を見て自分も楽しみたい」であったとし、故に、人は神の創造思惑に従って生きるのが理に適っており、故にの生きる目的と意義は「助け合いによる陽気暮らし世界の創出」こそが期待されている云々と説き明かされている。これは西欧哲学的思弁にはない東洋的な悟りである。 その他列挙すればキリがないほど同じ天地創造譚でも内容が異なる。これらを思えば、ユダヤ教式天地創造譚に動因規定されたかのように思える人類史の歩み、その結果としての西欧文明押し付けによる閉塞下の現代において、「元の理」教義の打ち出しこそ人類救済の灯火なのではなかろうか。筆者はそのように考えている。 2012.3.14日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)