釈尊仏陀とのすり合わせ考 |
(最新見直し2012.03.13日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「釈尊仏陀とのすり合わせ」について記す。 2012.03.13日 れんだいこ拝 |
【「みき教理の仏教思想との親疎性」について】 |
第三の五。「みき」教理の仏教思想との親疎性に鑑み釈尊仏陀とのすり合わせも行いたい。 |
【釈尊仏陀考】 |
ここでは、「釈尊仏陀とのすり合わせ」について記す。みきの御教えとイエスのそれを確認したが、同じような視点から「釈尊仏陀とのすり合わせ」も興味深いからである。前置きはこれぐらいにして「釈尊仏陀の説く仏教」を確認する。以下のサイトに記している。 「仏教考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/bukkyo.htm) 「釈尊の生涯履歴考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/sy akusonnorirekico.htm) 「山の仙人、里の仙人論」で共通している。 釈尊仏陀の教義及び履歴は上記サイトを参照するとして、中山みきとの絡みで必要な次のことを確認しておく。 釈迦(釋迦)の正式名は釈迦牟尼(しゃかむに)で、釈迦は彼の部族名もしくは国名を表わす。牟尼は聖者・修行者の意味である。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。釈迦牟尼はいろいろに称号されるが、ここでは大覚の悟りを得るまでをシッダールタ、大覚後を「釈尊仏陀」と記すことにする。生没年は前560年-前480年と前463年- 前383年の二説がある。これを年代的に見れば、中国の春秋時代後期の呉・越の時代に相当し、孔子(BC551~BC479)、老子(生没不明)、荘子(BC369~BC286?)とほぼ同時代、さらに古代ギリシャのソクラテス(BC469~BC399)、その弟子プラトン(BC427~BC322)、アリストテレス(BC384~BC322)の時代と重なる。 釈尊仏陀教義の歴史上の意義は、それまでの修法の革新性にある。その第一は修業法の革新にある。それまでの修行法は、禁欲、苦行、無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱できるとして様々な難行苦行を試みていた。シッダールタもこれに従い苦行修行に打ち込んだ。或る時、死の淵を彷徨った難行の果てに奇跡的に命を取りとめ、これを契機に難行苦行を捨てることなった。概要「私は、もはや苦行から解放された。わたくしが、あの<ためにならぬ苦行から解放されたのは良いことだ。私が、安住し、心を落ち着けてた上で修業に向かうべしとする悟りを得たのは良いことだ」。 以来、シッダールタは、徒な身体の苦行を求めず、より良い精神状態の下で思索を苦行する瞑想の道へ歩み始めた。自身のそれまでの体験を内省し、苦行では覚りは開けず、むしろ心身健康にして煩悩納消の智を磨き、この世の真実の法理とも云うべきダンマに目覚める事こそが肝要であることを指針させ、瞑想(観)により得られる正しき智慧を生むことを重視した。これによって欲望や執着から解放される解脱の道を切り開いて行くことになる。これは、シッダールタが編み出した修行の一大転換であった。しかし、この間修行を共にしてきた5名の修行者仲間は理解できず、「シッダールタは修行の厳しさから遁走し堕落した。修行者たる資格を失った」と批判し彼の元を去っていった。 35歳の時、シッダールタは、ガヤー村のアシュヴァッタ樹の下で、49日間の沈思黙想(観想)に入った。シッダッタが成道の悟りに近づくと魔王が現われ、空中から炎をあげた剣をもって脅迫した。あるいはなまめかしい美女となって誘惑し成道を妨げようとした。次に知的な悪魔の論理が襲って来た。シッダールタは、これらを皆退けた。遂に12.8日の未明の丑寅の刻、明星を観じて大悟した。この時の言葉が次のように表記されている。「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず」。シッダールタは外からの脅威にも内からの煩悩にも迷わされず無明をうち破り、真実の智恵である正覚(覚り)を悟り仏陀(覚者)となった。インドでは、悟りを開いた人のことを「仏陀」(buddha)と云う。シッダールタはこうして仏陀となった。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修することになる。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味で「仏陀伽耶(ブッダガヤー)」、その時の樹は「菩提樹(ぼだいじゅ)」と云われるようになった。「さとり」(bodhi)とは、文字通には「目覚め、目覚めること」、そこからさらに「知ること」を意味する。 仏陀となった釈尊は、バラモン教、ウパニシャッドの伝統の中で「最高神」、「最高我」、「最高ブラフマン」、「世界を創造した創造神」、「宇宙の主宰神」、「究極的絶対者」として位置づけられている梵天(ぼんてん、ブラーフマン)の導きにより悟りを世の衆生に説くよう勧められた。これを「梵天勧請」と云う。「世尊、法をお説きください。善き人よ、法をお説きください。世にはその眼があまり塵に汚れていない人々もおります。今は彼らも法を聞いていないので心も衰退していますが、世尊が法をお説きになったら、やがて法を了解する者となりましょう」。釈尊は、しばらくしてから梵天の要請を受け入れることを決意する。次のように梵天に告げる。概要「門は開かれた。耳を持つものは、聞いておのれの盲信を捨てよ。ブラーフマ神よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々に説こうとしなかったのは、混乱を招き、それが人々を害するであろうことを案じてであった。説くべきか、説かざるべきか。私は今、あなたの勧請を受け入れ、甘露の法雨を降らせる事にしよう」。 こうして釈尊の説法が始まった。釈尊は以来、積極果敢に布教に向かう身になった。「今、我、甘露の門をひらく。耳あるものは聞け。古き信を去れ」。釈尊は、成道後14年目、安居としてコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎に住んだ。祇園精舎は、日本の平家物語の一節「祇園精舎の鐘の音・・」で知られる精舎であり、コーサラ国の舎衛城にあった。マガダ国の竹林精舎(仏教史における寺院第一号)、ビシャリ国の大林精舎とともに三大精舎と称されている。この間、釈尊は北インドのガンジス中流地域の各地を布教に回っている。これを「遊行」(ゆぎょう)と云う。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。 釈尊は成道してより約40年間にわたり教えを説いて回った。最初に説いたのが華厳経(けごんきょう)と云われ、これをはじめとして阿含経(あごんきょう)、方等経(ほうどうきょう)、般若経(はんにゃきょう)が生み出されている。72歳の時から、8年間にわたり摩竭陀国(まかだこく)の霊鷲山(りょうじゅせん)において法華経(ほけきょう)を説いた。日本仏教は、釈尊のどの時期の教えを第一にするかで宗派が次のように分かれている。華厳経を重視するのが華厳宗。阿含経を重視するのが倶舎宗、成実宗、律宗。方等経を重視するのが法相宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗、真言宗。般若経を重視するのが三論宗。法華経を重視するのが天台宗、法華宗、日蓮宗。 釈尊は、多くの弟子を従え王舎城から最後の旅に出た。この時説かれたのが「涅槃経(ねはんぎょう)」と云われる。雨期を過ごした時、大病にかかった。その後気力を回復し、雨期もおわって最後となる托鉢に出かけた。チャパラの霊場で法を説き供養を受けた時、激しい腹痛を訴えるようになる。紀元前386.2.15日、沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の間に頭を北に向け、右脇を下にして臥(ふ)し、心安らかに入滅のときを待った。「弟子達よ、諸行は無常である。命も何もあらゆるものが滅びゆく。これを思い日々怠ることなく精進努力して、修行を完成せよ」、これが釈尊の最後の言葉となった。享年80歳。これを仏滅(ぶつめつ)という。 2012.3.14日 れんだいこ拝 |
【釈尊教義考】 |
釈尊が菩提種の下で悟ったものは「縁起(因縁)の法」と云われる。これは、「これあるゆえにかれあり、これ起こるゆえにかれ起こる。これなきゆえにかれなく、これ滅するゆえにかれ滅す」(雑阿含経)と教えられるように、 「 あらゆるものが相互にあい縁り、あいまって存在する理 」 を云う。シッダールタは、事象の本質的諸行無常性と中道中庸の在り方を覚悟して真理に目覚めた。「わたくしが世にでるとでないとにかかわらず、この縁起の法は常住である。総てのものは縁によって生じ、縁によって滅びる」と述べている。釈尊思想は、この「縁起の法」が核として構成されている。これによれば、当面した問題を解明するのには、必ず筋道をたててその因果をあきらかにしていくことになる。これにより奇蹟信仰は退けられることになる。 「無明」は、原始仏教の根本の教えである「十二縁起」(「十二因縁」ともいう)の最初の項目である。「十二縁起」は次の通り。1・ 無明(むみょう、無知)、2・ 行(ぎょう、潜在的形成力)、3・識(しき、認識作用)、4・名色(みょうしき、精神と肉体、名称と形態)、5・六入(ろくにゅう、六つの感覚器官=眼、耳、鼻、舌、身、意)、6・触(そく、心が対象と接触すること)、7・ 受( じゅ、感受作用)、8・愛(あい、愛欲、妄執)、9・取( しゅ、執着)、10・有(う、生存)、11・生(しょう、生きること)、12・老死(ろうし、老いゆくこと、死ぬこと)。 このうち眼、耳、鼻、舌、身、意を「六根」という。根は、根茎や根本といった意味。「六根」にに基いて生まれるものを「六境」とする。「六根」器官によって「六境」を認識するという関係に在る。「六境」は、色、声、香、味、触、法を認識する。眼根は、眼で、「色」を見る。耳根は、耳で、「声」を聞く。鼻根は、鼻で、「香」を嗅ぐ。舌根は、舌で、「味」を味わう。身根は、身で、「触」に触れる。意根は、意識で、「法」を考え廻らす。六根と六鏡はこういう関係に有り、これを総合して「六識」と云う。 十二縁起は、人の精神的発展過程について分析したもので、釈迦が悟ったのがこの「縁起の理法」とされる。これらを順に並べ、無明に縁りて行あり(無明があるから行があり)、行に縁りて識ありと続け、生に縁りて老死あると説く観方を「順観」、その縁起を「流転(るてん)の縁起」と云う。逆に、無明から初めてその根本原因を克服滅失させ老死に辿り着くまで十二縁起を反証的に見ることを「逆観」と呼び、その縁起を「還滅(げんめつ)の縁起」と云う。 「十界論」(十法界論)の教えもある。十界とは、生命、処世の在りようステージ(境涯)に於ける態様を云うもので、下から順に1・地獄界、2・餓鬼界、3・畜生界、4・修羅界、5・人界、6・天界、7・声聞(しょうもん)界、8・縁覚界、9・菩薩界、10・佛界から成る。法華経は、それまでの教説が十界をそれぞれ別のステージとして捉えていたのを、それぞれの生命の中に宿るステージとして捉えている。これを「十界互具」と云う。 どこまでが釈迦の教えか不明であるが、仏教通説では、1・地獄、2・餓鬼、3・畜生の世界を苦悩の境涯として「三悪道」(「三悪道」)と云う。これに4・修羅を加えて「四悪趣(しあくしゅ)」と云う。これらに5・人、6・天界を加えて「六道輪廻」と云う。六道の境涯までは環境に左右されている。三悪道に対し、修羅界、人間界、天上界の三種を「三善道」とも云う。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天、色界、無色界に別れる。仏道修行によって得られる声聞、縁覚、菩薩、仏を「四聖(ししょう)」と云う。大乗仏教では、このうち声聞、縁覚を二乗とも云い、小乗で得られる境涯としている。日蓮は次のように宣べている。「天下萬民諸乗一仏乗と成りて妙法一人繁昌せん時、萬民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代は羲農の世となりて、今生には 不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ、 現世安穏の證文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄)。 「中道」とは、偏らずの道であり、「非苦非楽の中道」、「非有非空の中道」とに分かれる。「中道」の智慧を得ることこそが精進の道であり、これにより心眼が開かれ、悟りへ至るとされている。これを「中道論」と云う。「仏性」とは、人は皆、仏性を備えているとする釈尊教義を云う。 釈尊は、現実のありのままの姿(実相)を観じる「如来(tathaagata、タターガタ)」思想により「十二因縁、苦楽中道、四諦、八正道」を説いて回った。これを更に観れば、釈迦説法の中核は「空」思想にある。その説法の中でも最も重要なのが「五蘊」の「空」である。玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されているが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれている。つまり、五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定している。この方が正確な受け取りではなかろうかと思われる。般若心経が次々と数え上げながら否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などで、これが釈迦仏教の中心的な教説となる。これを「法(ダルマ)」と呼ぶ。釈迦は、瞑想-瞑観によって「法」を見極め、真実の智慧を得て煩悩をなくすことで悟りが得られるとした。その際、「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いている。 以上のような釈尊教義の特徴は次のように評することができよう。1、釈尊教義は天啓による啓示的宗教ではない。釈尊は預言者とも天啓者とも位置づけていない。2、創世記を持たない。釈尊は、宇宙は創造者により創造されたのではなく、展開してきたと看做していた。3、釈尊教義は、ユダヤ-キリスト教的救済論を述べていない。求道者、人類の教師として位置づけた。4、釈尊教義は、救済理論ではなく涅槃論を唱えた。涅槃の境地に達するには、空の思想に目覚め、執着と怒りと無知から脱却することが必要であるとした。その上で般若心経を説いた。5、釈尊教義は、既成の神信心信仰体制を否定した。礼拝や祈祷を通じて司祭僧を権威付け、却って正しい信仰に導かないとした。6、釈尊教義は、バラモン教的霊魂思想、輪廻転生思想を批判した。 |
【般若心経の世界考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
釈尊教義の代表的なものとして「仏説摩訶(まか)般若波羅蜜多心経」がある。これの日本語原文及びれんだいこ訳を確認する。
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【釈尊の労働問答逸話考】 | |||
釈尊とバラモン僧との興味深い労働対話が為されている。(れんだいこのカンテラ時評417の【れんだいこ一番お気に入りの釈尊の法話考】を転載する) ここで、れんだいこが一番お気に入りの釈尊の説法、法話を披瀝し、世に問おうと思う。なるほどと思うか、むしろ農夫の意見に拍手するか、それは銘々の勝手であるが、興味深いやり取りであることだけは確かだろう。数ある釈尊逸話の中で、系統の違う珍しい説法法話がある。それは、釈尊がバラモン僧上がりの農夫と闘わした労働の意義を廻るやり取りである。れんだいこは、釈尊法話の中でこの種のやり取りを他には知らない。これを確認する。れんだいこ風に意訳する。
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【釈尊の「人物論」逸話考】 | |||||||||
釈尊は、「人物論」について次のように述べている。
釈尊は、「遊行の要諦、戒め」について次のように述べている。
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【釈尊の嘆き逸話考】 | |
或る若い母親が、赤ん坊を死なせた事で半狂乱のていであった。母親は、なんとか赤ん坊を生き返らせて欲しいと釈尊のところへやってきて訴えた。釈尊は次のように述べた。
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【釈尊の方便逸話考】 | |
釈尊は数多くの方便説話を開陳している。ここではその代表的なものを確認する。「火宅の譬喩」 は次のように説いている。
してみれば、方便とは、説かれる相手の執着を取る為の上策として為され、且つ相手が自由、自主、自律的に応ずるように巧みに編み出された説法と云う事になろうか。この要件を満たさないものは釈尊方便ではないということにもなろうか。「火宅の譬喩」は「タイタニックの宴」にも通じそうな話ではある。 |
【釈尊の思弁問答逸話考】 | ||||||
或る時、 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとかについて、釈尊に質すものが現われた。釈尊は次のように答えている。
釈尊は、ドグマへの執着を排した。同様に、輪廻転生その他の形而上学的質問に対しては沈黙した。それは、釈尊の宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判でもあった。
釈尊は、形而上学的な問いに対して、これに回答したり拒否したのではない。もっと根本的な批判として、そのような問答の無意味性を指摘し語らなかった。ここに仏教の顕著な特徴がある。釈尊は次のように述べている。「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ」。
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(私論.私見)