釈尊仏陀とのすり合わせ考

 (最新見直し2012.03.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「釈尊仏陀とのすり合わせ」について記す。

 2012.03.13日 れんだいこ拝


みき教理の仏教思想との親疎性について】
 第三の五「みき」教理の仏教思想との親疎性に鑑み釈尊仏陀とのすり合わせも行いたい。

【釈尊仏陀考】
 ここでは、「釈尊仏陀とのすり合わせ」について記す。みきの御教えとイエスのそれを確認したが、同じような視点から「釈尊仏陀とのすり合わせ」も興味深いからである。前置きはこれぐらいにして「釈尊仏陀の説く仏教」を確認する。以下のサイトに記している。

 「仏教考」

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/bukkyo.htm)

 「釈尊の生涯履歴考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/sy
akusonnorirekico.htm)

 「山の仙人、里の仙人論」で共通している。


 釈尊仏陀の教義及び履歴は上記サイトを参照するとして、中山みきとの絡みで必要な次のことを確認しておく。

 釈迦(釋迦)の正式名は釈迦牟尼(しゃかむに)で、釈迦は彼の部族名もしくは国名を表わす。牟尼は聖者・修行者の意味である。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。釈迦牟尼はいろいろに称号されるが、ここでは大覚の悟りを得るまでをシッダールタ、大覚後を「釈尊仏陀」と記すことにする。生没年は前560年-前480年と前463年- 前383年の二説がある。これを年代的に見れば、中国の春秋時代後期の呉・越の時代に相当し、孔子(BC551~BC479)、老子(生没不明)、荘子(BC369~BC286?)とほぼ同時代、さらに古代ギリシャのソクラテス(BC469~BC399)、その弟子プラトン(BC427~BC322)、アリストテレス(BC384~BC322)の時代と重なる。


 
釈尊仏陀教義の歴史上の意義は、それまでの修法の革新性にある。その第一は修業法の革新にある。それまでの修行法は、禁欲、苦行、無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱できるとして様々な難行苦行を試みていた。シッダールタもこれに従い苦行修行に打ち込んだ。或る時、死の淵を彷徨った難行の果てに奇跡的に命を取りとめ、これを契機に難行苦行を捨てることなった。概要「私は、もはや苦行から解放された。わたくしが、あの<ためにならぬ苦行から解放されたのは良いことだ。私が、安住し、心を落ち着けてた上で修業に向かうべしとする悟りを得たのは良いことだ」。 以来、シッダールタは、徒な身体の苦行を求めず、より良い精神状態の下で思索を苦行する瞑想の道へ歩み始めた。自身のそれまでの体験を内省し、苦行では覚りは開けず、むしろ心身健康にして煩悩納消の智を磨き、この世の真実の法理とも云うべきダンマに目覚める事こそが肝要であることを指針させ、瞑想(観)により得られる正しき智慧を生むことを重視した。これによって欲望や執着から解放される解脱の道を切り開いて行くことになる。これは、シッダールタが編み出した修行の一大転換であった。しかし、この間修行を共にしてきた5名の修行者仲間は理解できず、「シッダールタは修行の厳しさから遁走し堕落した。修行者たる資格を失った」と批判し彼の元を去っていった。

 35歳の時、シッダールタは、ガヤー村のアシュヴァッタ樹の下で、49日間の沈思黙想(観想)に入った。シッダッタが成道の悟りに近づくと魔王が現われ、空中から炎をあげた剣をもって脅迫した。あるいはなまめかしい美女となって誘惑し成道を妨げようとした。次に知的な悪魔の論理が襲って来た。シッダールタは、これらを皆退けた。遂に12.8日の未明の丑寅の刻、明星を観じて大悟した。この時の言葉が次のように表記されている。「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず」。シッダールタは外からの脅威にも内からの煩悩にも迷わされず無明をうち破り、真実の智恵である正覚(覚り)を悟り仏陀(覚者)となった。インドでは、悟りを開いた人のことを「仏陀」(buddha)と云う。シッダールタはこうして仏陀となった。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修することになる。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味で「仏陀伽耶(ブッダガヤー)」、その時の樹は「菩提樹(ぼだいじゅ)」と云われるようになった。「さとり」(bodhi)とは、文字通には「目覚め、目覚めること」、そこからさらに「知ること」を意味する。

 仏陀となった釈尊は、バラモン教、ウパニシャッドの伝統の中で「最高神」、「最高我」、「最高ブラフマン」、「世界を創造した創造神」、「宇宙の主宰神」、「究極的絶対者」として位置づけられている梵天(ぼんてん、ブラーフマン)の導きにより悟りを世の衆生に説くよう勧められた。これを「梵天勧請」と云う。「世尊、法をお説きください。善き人よ、法をお説きください。世にはその眼があまり塵に汚れていない人々もおります。今は彼らも法を聞いていないので心も衰退していますが、世尊が法をお説きになったら、やがて法を了解する者となりましょう」。釈尊は、しばらくしてから梵天の要請を受け入れることを決意する。次のように梵天に告げる。概要「門は開かれた。耳を持つものは、聞いておのれの盲信を捨てよ。ブラーフマ神よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々に説こうとしなかったのは、混乱を招き、それが人々を害するであろうことを案じてであった。説くべきか、説かざるべきか。私は今、あなたの勧請を受け入れ、甘露の法雨を降らせる事にしよう」。


 こうして釈尊の説法が始まった。釈尊は以来、積極果敢に布教に向かう身になった。「今、我、甘露の門をひらく。耳あるものは聞け。古き信を去れ」。釈尊は、成道後14年目、安居としてコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎に住んだ。祇園精舎は、日本の平家物語の一節「祇園精舎の鐘の音・・」で知られる精舎であり、コーサラ国の舎衛城にあった。マガダ国の竹林精舎(仏教史における寺院第一号)、ビシャリ国の大林精舎とともに三大精舎と称されている。この間、釈尊は北インドのガンジス中流地域の各地を布教に回っている。これを「遊行」(ゆぎょう)と云う。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

 釈尊は成道してより約40年間にわたり教えを説いて回った。最初に説いたのが華厳経(けごんきょう)と云われ、これをはじめとして阿含経(あごんきょう)、方等経(ほうどうきょう)、般若経(はんにゃきょう)が生み出されている。72歳の時から、8年間にわたり摩竭陀国(まかだこく)の霊鷲山(りょうじゅせん)において法華経(ほけきょう)を説いた。日本仏教は、釈尊のどの時期の教えを第一にするかで宗派が次のように分かれている。華厳経を重視するのが華厳宗。阿含経を重視するのが倶舎宗、成実宗、律宗。方等経を重視するのが法相宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗、真言宗。般若経を重視するのが三論宗。法華経を重視するのが天台宗、法華宗、日蓮宗。

 釈尊は、多くの弟子を従え王舎城から最後の旅に出た。この時説かれたのが「涅槃経(ねはんぎょう)」と云われる。雨期を過ごした時、大病にかかった。その後気力を回復し、雨期もおわって最後となる托鉢に出かけた。チャパラの霊場で法を説き供養を受けた時、激しい腹痛を訴えるようになる。紀元前386.2.15日、沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の間に頭を北に向け、右脇を下にして臥(ふ)し、心安らかに入滅のときを待った。「弟子達よ、諸行は無常である。命も何もあらゆるものが滅びゆく。これを思い日々怠ることなく精進努力して、修行を完成せよ」、これが釈尊の最後の言葉となった。享年80歳。これを仏滅(ぶつめつ)という。 

 2012.3.14日 れんだいこ拝

【釈尊教義考】
 釈尊が菩提種の下で悟ったものは「縁起(因縁)の法」と云われる。これは、「これあるゆえにかれあり、これ起こるゆえにかれ起こる。これなきゆえにかれなく、これ滅するゆえにかれ滅す」(雑阿含経)と教えられるように、 「 あらゆるものが相互にあい縁り、あいまって存在する理 」 を云う。シッダールタは、事象の本質的諸行無常性と中道中庸の在り方を覚悟して真理に目覚めた。「わたくしが世にでるとでないとにかかわらず、この縁起の法は常住である。総てのものは縁によって生じ、縁によって滅びる」と述べている。釈尊思想は、この「縁起の法」が核として構成されている。これによれば、当面した問題を解明するのには、必ず筋道をたててその因果をあきらかにしていくことになる。これにより奇蹟信仰は退けられることになる。

 「無明」は、原始仏教の根本の教えである「十二縁起」(「十二因縁」ともいう)の最初の項目である。「十二縁起」は次の通り。1・ 無明(むみょう、無知)、2・ 行(ぎょう、潜在的形成力)、3・識(しき、認識作用)、4・名色(みょうしき、精神と肉体、名称と形態)、5・六入(ろくにゅう、六つの感覚器官=眼、耳、鼻、舌、身、意)、6・触(そく、心が対象と接触すること)、7・ 受( じゅ、感受作用)、8・愛(あい、愛欲、妄執)、9・取( しゅ、執着)、10・有(う、生存)、11・生(しょう、生きること)、12・老死(ろうし、老いゆくこと、死ぬこと)。   

 このうち眼、耳、鼻、舌、身、意を「六根」という。根は、根茎や根本といった意味。「六根」にに基いて生まれるものを「六境」とする。「六根」器官によって「六境」を認識するという関係に在る。「六境」は、色、声、香、味、触、法を認識する。眼根は、眼で、「色」を見る。耳根は、耳で、「声」を聞く。鼻根は、鼻で、「香」を嗅ぐ。舌根は、舌で、「味」を味わう。身根は、身で、「触」に触れる。意根は、意識で、「法」を考え廻らす。六根と六鏡はこういう関係に有り、これを総合して「六識」と云う。

 十二縁起は、人の精神的発展過程について分析したもので、釈迦が悟ったのがこの「縁起の理法」とされる。これらを順に並べ、無明に縁りて行あり(無明があるから行があり)、行に縁りて識ありと続け、生に縁りて老死あると説く観方を「順観」、その縁起を「流転(るてん)の縁起」と云う。逆に、無明から初めてその根本原因を克服滅失させ老死に辿り着くまで十二縁起を反証的に見ることを「逆観」と呼び、その縁起を「還滅(げんめつ)の縁起」と云う。 

 「十界論」(十法界論)の教えもある。十界とは、生命、処世の在りようステージ(境涯)に於ける態様を云うもので、下から順に1・地獄界、2・餓鬼界、3・畜生界、4・修羅界、5・人界、6・天界、7・声聞(しょうもん)界、8・縁覚界、9・菩薩界、10・佛界から成る。法華経は、それまでの教説が十界をそれぞれ別のステージとして捉えていたのを、それぞれの生命の中に宿るステージとして捉えている。これを「十界互具」と云う。

 どこまでが釈迦の教えか不明であるが、仏教通説では、1・地獄、2・餓鬼、3・畜生の世界を苦悩の境涯として「三悪道」(「三悪道」)と云う。これに4・修羅を加えて「四悪趣(しあくしゅ)」と云う。これらに5・人、6・天界を加えて「六道輪廻」と云う。六道の境涯までは環境に左右されている。三悪道に対し、修羅界、人間界、天上界の三種を「三善道」とも云う。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天、色界、無色界に別れる。仏道修行によって得られる声聞、縁覚、菩薩、仏を「四聖(ししょう)」と云う。大乗仏教では、このうち声聞、縁覚を二乗とも云い、小乗で得られる境涯としている。日蓮は次のように宣べている。「天下萬民諸乗一仏乗と成りて妙法一人繁昌せん時、萬民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代は羲農の世となりて、今生には  不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ、 現世安穏の證文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄)。


 「中道」とは、偏らずの道であり、「非苦非楽の中道」、「非有非空の中道」とに分かれる。「中道」の智慧を得ることこそが精進の道であり、これにより心眼が開かれ、悟りへ至るとされている。これを「中道論」と云う。「仏性」とは、人は皆、仏性を備えているとする釈尊教義を云う。

 釈尊は、現実のありのままの姿(実相)を観じる「如来(tathaagata、タターガタ)」思想により「十二因縁、苦楽中道、四諦、八正道」を説いて回った。これを更に観れば、釈迦説法の中核は「空」思想にある。その説法の中でも最も重要なのが「五蘊」の「空」である。玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されているが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれている。つまり、五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定している。この方が正確な受け取りではなかろうかと思われる。般若心経が次々と数え上げながら否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などで、これが釈迦仏教の中心的な教説となる。これを「法(ダルマ)」と呼ぶ。釈迦は、瞑想-瞑観によって「法」を見極め、真実の智慧を得て煩悩をなくすことで悟りが得られるとした。その際、「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いている。


 以上のような釈尊教義の特徴は次のように評することができよう。1、釈尊教義は天啓による啓示的宗教ではない。釈尊は預言者とも天啓者とも位置づけていない。2、創世記を持たない。釈尊は、宇宙は創造者により創造されたのではなく、展開してきたと看做していた。3、釈尊教義は、ユダヤ-キリスト教的救済論を述べていない。求道者、人類の教師として位置づけた。4、釈尊教義は、救済理論ではなく涅槃論を唱えた。涅槃の境地に達するには、空の思想に目覚め、執着と怒りと無知から脱却することが必要であるとした。その上で般若心経を説いた。5、釈尊教義は、既成の神信心信仰体制を否定した。礼拝や祈祷を通じて司祭僧を権威付け、却って正しい信仰に導かないとした。6、釈尊教義は、バラモン教的霊魂思想、輪廻転生思想を批判した。

【般若心経の世界考】
 釈尊教義の代表的なものとして「仏説摩訶(まか)般若波羅蜜多心経」がある。これの日本語原文及びれんだいこ訳を確認する。
Re:れんだいこのカンテラ時評405 れんだいこ 2008/06/01
 【般若心経れんだいこ訳】

 著作権考に分け入る事で、これが思想問題であることに気づきました。このことに気づかないまま小正義を振り回して、世の中を息苦しくしていく輩にどう対応すべきか。その一法として般若心経を考察する事にしました。直接的には関係有りませんが、大いに参考になる面があるように思います。

 れんだいこが、般若心経に耳を傾けてみようと思う気になったのは、現代が余りにも思想が細っているとみなすからです。隆盛しているのはユダヤ教内タルムード派とも云うべき現代国際金融資本帝国主義即ちロスチャイルド派のネオ・シオニズムの奏でるご都合主義的な世界観、社会観、処世観に基く拝金、蓄財イデオロギーばかりで、人類は彼らが跳梁するようになって以来、精神の背丈が随分低くなった気がしています。

 そうではない、もっと別の芳醇な思想があった筈だ、般若心経もその一つではないかと考え、初めてじっくりと解析しようと思い立ちました。但し、般若心経の訳たるや非常に様々で、いろんな風に説かれております。それらのうち、れんだいこが満足できるものはありません。そういう訳で、れんだいこ訳を市井提供いたします。ぜひ参考にして下さい。検索していましたら、この世界にも著作権が徘徊しております。れんだいこは無茶と思うけども、これが只今の世の倣いのようです。この先どこまで首絞めが続くのか。頼むから正義面だけはせんで欲しい。

 原文はこうです。

 仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 
 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 
 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 
 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
 即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦
 菩提薩婆訶 般若心経

 【訓み下し和訳】

 仏説摩訶(まか)般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩が、般若波羅蜜多を熱心に行じし時、五蘊(ごうん)は皆、空(かいくう)と照見して、一切の苦厄を度したまえり。
 舎利子曰く、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち空であり、空は即ち色である。感覚、思うこと、行う事、識ることも叉かくの如し。
 舎利子曰く、諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢(あか)つかず、浄からず、増えず減らず。この故に空の中には色なく、受なく、想なく、行なく、識ない。眼なく、耳なく、鼻なく、舌なく、身なく、意もないい。色も声も香も味も触も法もない。
 眼界もなく、ないしは意識界もない。無明もなく、叉無明が尽きることもない。ないしは老も死もなく、叉老と死の尽きることもない。苦も集も滅も道もない。智もなく叉智を得ることもない。得ることない故にである。
 菩提薩埵(ぼだいさつた)は、般若波羅蜜多に依る故に、心に罣礙(悩み心配)なし。罣礙なき故に、恐怖もない。一切の顛倒夢想を遠離し、涅槃(ねはん)を極める。三世諸仏(さんせぃしよぶつ)は、般若波羅蜜多に依る故に、阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみやくさんぼだい)を得る。
 故に知るべし。般若波羅蜜多は、これ大神呪(だいじんしゅ)なり。大明呪(だいみやうしゅ)なり。無上呪(むじょうしゅ)なり。無等等呪(むとうどうしゅ)なり。能く一切の苦を除き、真実にして虚ならず。
 故に説般若波羅蜜多の呪を説く。即ち、呪を説いて曰く、羯諦(ぎやてい)羯諦波羅(はら)羯諦、波羅僧(はらそう)羯諦
 菩提薩婆訶(ぼじそわか) 般若心経

 【れんだいこ意和訳】

 この世の真実を知る根源的な叡智としての摩訶(まか)般若波羅蜜多の神髄を表わす仏説経文を奉る。
 この世の真理真実を悟り賜われた観自在菩薩であられる釈尊(釈迦、仏陀)は次のように説かれた。釈尊がひた向きな修行を経て、奥深い真実の智恵である般若波羅蜜多を会得せんとして深い悟りの瞑想に入り、自問自答の末、遂に或る時、この世の全ての物の性質や形あるものの姿である五蘊(ごうん)の存在の相関を解き明かした。五蘊の本性は皆、空であると見定められ、悟りを開かれた。以来、一切の苦厄から抜け出すことができた。
 釈尊の高弟の一人で、バラモン教経由の智慧第一と云われていた舎利子(シャーリプトラ)が、かって釈迦に、「最深最高の智慧とはどのようなものでしょうか。それ得ようとすれば、どのように学び修行すべきでしょうか」と尋ねた。釈迦は次のように説いた。この世に於いては、あらゆる物質、事象即ち色なるものは実体があるようでない。究極、空として捉えるべきである。その空から色が生まれるからして空は色とも云える。色は即ち空であり、空は即ち色であると認識すべきである。かく捉えないから拘りと執着が生まれ、諸病、諸厄の原因になっているのではないのか。

 感覚、想念、思想、意思、思考、行動、実践、知識等々も然りで、本性上空と了解すべきある。色相と何ら変わらない。これが実相である。この理を知れば拘りや執着が生まれない。拘りと執着があるところに災禍が生まれている。更に云えば、世の中に絶対的にこうである、こうでなければならない、これこそが正しいとするのも執着で、この世の理法に反している。にも拘らずそのような規則や命令が出され、人々がこれを受け入れている。これらは世の実相に反している。故に災厄が生まれることになる。ここに全ての過ちが起因しているのではないのか。
 舎利子は更に問い、釈迦は次のように答えた。世の諸法は究極空相であり、これを大きな循環で観れば本質的に生ぜず滅せずではないのか。この世に絶対的な汚れや穢(けが)れはない。絶対的な聖や浄もない。万事、増えもせず減りもせず大河の流れの如く悠久である。これが天地自然の理法である。
 能く考えてみよう。この世に存在するもの一切が本質上空ではないのか。それ故に、思索抽象的に捉えられるもの、例えば色(物質、事象)、受(感覚、意識)、想(思想、概念)、行(行動、実践)、識(知識、分別)等々も叉生成変化の流転中にあり、絶対的定言的にこうだと云えるものは何一つない。にも拘らず、人々はこれに捉われている。ここに間違いが認められます。これが諸病の源となっている。
 感覚的具体的に捉えられる六識も然りである。例えば眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身体(痛覚)、意識(知覚)も叉相対的なもので、絶対的なものは何一つない。更に云えば、六境を形成する色も、声も、香も、味も、触も、法も然りである。これらの基準は全て比較的なものであり諸行無常なものである。にも拘らず、人々は絶対的な基準を押し付け押し通そうとしている。これらは皆、誤りである。
 眼界で捉えられるもの全てが相対的なものでしかない。当然にそれを反映する意識界もそのようなものでしかない。かく悟れば、無明(不明、迷い)も相対的なものでしかないと気づくべきである。且つ叉、無明が解明尽されることもない。老も死も相対的なものでしかない。叉、老と死の意味が解明されることもない。
 無苦集滅道の四諦と云われる苦しみ、集(執着の積み重ね)、滅(煩悩)、道(理想郷)も相対的なものでしかない。絶対的な智というようなものはなく叉そのような智を得ることもない。得ようにも得られないことを弁えるべきである。かく分別すべきではなかろうか。
 私達は、無明を切り開く智慧の灯火を得て、その導きにより真実の智慧の獲得に向かわねば成らない。これこそが望まれている人としての道である。
 菩提薩埵(ぼだいさった)は、この真実の般若波羅蜜多の神髄の正覚者である。これに依る故に、心に障りや妨げ、拘りがない。それ故に恐怖もない。一切の顛倒した夢想即ち妄想の類いから遠離しているので、迷いから脱した境地である涅槃(ねはん)を極め、ここに住している。過去、現在、未来にまします諸仏である三世諸仏(さんせぃしよぶつ)は、真理である般若波羅蜜多に依る故に、この上なく正しく目ざめており、本物の悟り仏であると云える。
 それ故に知るべしである。般若波羅蜜多は究極のマントラ(箴言、神言)である。悟りのマントラである。これ以上の悟りはなく、無比なるマントラである。能く一切の苦を除き、真実にして虚ならずのマントラである。
 釈迦はかく教え、般若波羅蜜多の呪(秘法)を説き伝えた。即ち曰く、生きとし生ける者よ、極めんとする者よ、修行する者よ。
 この者たちが真実の智恵を悟れますように幸いあれ。尊い御教えである般若心経を日々唱えて導きとせよ。

 般若心経考

 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/hannyashingyo/hannyashingyo.htm)

 2008.5.31日、2008.6.1日再編集 れんだいこ拝

【釈尊の労働問答逸話考】
 釈尊とバラモン僧との興味深い労働対話が為されている。(れんだいこのカンテラ時評417の【れんだいこ一番お気に入りの釈尊の法話考】を転載する)

 ここで、れんだいこが一番お気に入りの釈尊の説法、法話を披瀝し、世に問おうと思う。なるほどと思うか、むしろ農夫の意見に拍手するか、それは銘々の勝手であるが、興味深いやり取りであることだけは確かだろう。数ある釈尊逸話の中で、系統の違う珍しい説法法話がある。それは、釈尊がバラモン僧上がりの農夫と闘わした労働の意義を廻るやり取りである。れんだいこは、釈尊法話の中でこの種のやり取りを他には知らない。これを確認する。れんだいこ風に意訳する。
 「釈尊は、弟子を連れ、思うままに請われるままに各地を移動し説法して回っていた。或る時、その昔バラモン僧であった農夫が釈尊一行に出くわし、釈尊に説法論議(理論闘争)を仕掛けた。農夫は釈尊を次のように批判した。
 『釈尊よ、人はいかに生きるべきか、世の中はどうあるべきかを問うならば、まず昼間は仕事をしてそれからのことにせよ。人はまず何より生産的労働に従事せねばならない。それが人としての勤めだ。こうしてこそ社会的役割を果たせるのであり、昼の日中からぞろぞろ立ち歩いて仕事をしないのが一番良くない。むしろ人の道に外れているのではないかな。私はそう考えてバラモンを辞め、現にこうやって仕事に精出しているのだよ。そうは思わないかね』。

 これに釈尊がどう答えたか。
 『農夫よ。あなたが労働の意義を認め、仕事に精出していることは分かる。その通りだ。理屈は合っている。農業に勤しめば田を耕し、畔を繕い、田に水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、稲の成長を見ては間引きも必要であろう。忙しい大変な事ではある。やがて収穫があり、分かち合い、次の種籾も用意せねばなるまい。それは立派な仕事であり、誰かがせねばならない。しかし農夫よ、労働とは何も農業に限るものでもない。山へ行けば山の労働があり、川へ行けば川の、海へ行けば海の労働がある。それぞれ立派な仕事であり、誰かがせねばならない。こうしてみんな繋がって助け合っているのだよ。

 同じ労働でも一人でするものでみなかろう。音頭をとる者も必要で、ひた向きに働く者も必要で、食事を用意する者もいるだろう。力仕事に向いている者も居ればがまん仕事に向いている者も居るだろう。これを一人でこなすものでもあるまい。ところで農夫よ。仕事はその人ならではの適所適役で為されるのが望ましい。それぞれが分を尽す事により、お互いが繫がり助け合っているのだよ。

 そういう意味で、私には私の適役がある。世は苦悩、煩悩に満ちており、正しい思念に導かれないことにより生まれる諸病、災厄というものもある。世は考え違いと不心得による災難に満ちている。私は、長年この問題を問い、煩悶し、遂に世に真に有益な思想を得た。それを世に広め、悩める民を救済するのが私の仕事となっている。

 私もそなたがしているように頭脳の田を耕している。畔を繕い、水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、成長を見ては間引きもし、やがて収穫があり、分かち合い、次の種籾も用意している。そなたの収穫物が人様に役立つように、私の頭脳から紡ぎだされる収穫物も叉人様の無明から来る悩み、迷いを助けている。これが私の労働なのだよ。私もこうして社会的な仕事をしているのだよ。いわば種類の違う仕事と考えたら良かろう。立場の違いなのだよ。そう理解してくれぬか。

 何事も批判は容易い。しかし、批判だけでは物事は解決しない。人をけなし、人が分裂するように批判するのは詰まらない。ましてや力づくの暴力沙汰などは御法度だ。皆がそれぞれの足らざるところを補い合い、相手の能力を引き出し、互いが縁の下の力持ちとなって役立ち合う、こういう関係に立たなければ、望まれている良い仕事にはならないのだよ。これに気づかないと本当の智恵とは云えないのだよ。私はこのことを教える為に請われるままに出向いているのだよ』。

 バラモンは目が覚めた。徒な思弁に耽らず具体的有為の労働に精出す生き方こそ人としての真っ当な生き方だと気がつき、バラモン僧の身分まで捨て農に勤しむ己をこれまで自負してきたが、釈尊の叡智の前に初めて完敗したことを悟った。これまで釈尊のように説法した者が居らず、釈尊の教えほどに染み入る教えはなかった。農夫は釈尊に帰依することを誓った」。

【釈尊の「人物論」逸話考】
 釈尊は、「人物論」について次のように述べている。
 「愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることがない。匙が汁の味を知ることができないように。聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように」(「法句経」)。
 「学ぶことの少ない人は牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない」(「法句経」)。
 「人の道を正しく生きることは難しい。寿命を正しく得るのもこれ叉難しい。世間に仏が存在するのも難しい。仏の教えが世間に流布されるのも難しい」(「法句経」)。
 「多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。心穏やかに怨むことなく怖れることのない人、彼こそ賢者と呼ばれる。誠あり、徳あり、慈しみがあって、損なわず、慎みあり、みずから調え、汚れを除き、気をつけている人こそ長老と呼ばれる」(「法句経」)。
 「諸々の悪を為さず、人々に善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである」。

 釈尊は、「遊行の要諦、戒め」について次のように述べている。
 「旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ」(「法句経」)。
 「もろもろの聖者に会うのは善いことである。彼らと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心は常に楽しいであろう。愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、常につらいことである。仇敵とともに住むように。心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように」。
 「思慮深く、ともに行じ、行い正しく住する賢者を同行者として得たなら、あらゆる危難を乗り越え、こころ喜び、正しい念いを保ちつつ、共に行じゆくがいい」。
 「自らに帰し、自らに依り、灯りを灯せ。法に帰し、法に依り、灯りを灯せ」。

【釈尊の嘆き逸話考】
 或る若い母親が、赤ん坊を死なせた事で半狂乱のていであった。母親は、なんとか赤ん坊を生き返らせて欲しいと釈尊のところへやってきて訴えた。釈尊は次のように述べた。
 「それはいかにもお気の毒である。村へ帰って、家族に死人が出ていない家を探し当て、芥子(けし)の実を二、三粒もらってきなさい。そしたら赤ん坊を生き返らせてあげよう」。若い母親は喜んで村里へ帰り、一軒一軒を尋ねて回った。しかし、死人の出ていない家はなかった。家から家へかけめぐるうちに、若き母親の狂乱は消え去り、気持ちが落ち着いてきた。赤ん坊はついに生き返りはしなかったのだが」(長尾雅人、「仏教の思想と歴史」)。

【釈尊の方便逸話考】
 釈尊は数多くの方便説話を開陳している。ここではその代表的なものを確認する。「火宅の譬喩」 は次のように説いている。

 「或るところに長者が居た。その屋敷は広く、立派な門があったが、この家にはここしか出入り口がなかった。或る時、近くで火事が発生し、長老の家に襲い掛からんばかりとなっていた。家の中には子供たちがいた。長老は逸早く火事に気づいた。子供たちを見れば、事態に気づかず遊びに夢中になっている。長者は、早く逃げ出すよう促したが、遊びに夢中になっている子供たちには通じなかった。父は言葉を尽して諭したけれども、子らは家から出て行こうとしなかった。その時長者はこう思った。『私は今、方便を説いて、子らをこの危難から免れさせねばならぬ』。長者は、子らが珍しい玩具に飛びついて喜ぶ癖がある事を知っていたので、こう告げた。『世にも珍しい、手に入れることも難しい玩具がある。この家から出て行くなら、それを与えてあげよう』。子らは、先を争って燃え始めた家から走り出た。舎利弗よ、これを方便と云う」。


 してみれば、方便とは、説かれる相手の執着を取る為の上策として為され、且つ相手が自由、自主、自律的に応ずるように巧みに編み出された説法と云う事になろうか。この要件を満たさないものは釈尊方便ではないということにもなろうか。「火宅の譬喩」は「タイタニックの宴」にも通じそうな話ではある。

【釈尊の思弁問答逸話考】
 或る時、 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとかについて、釈尊に質すものが現われた。釈尊は次のように答えている。
 「人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。人間は死後も存在するとしても、人間は死後存在しないとしても、そう云う事には関係なく生老病死はあり、悲嘆苦憂はある。私は、現実のそれらの苦悩に対する受け止め方を教えている。私が説かないことは説かないと了解せよ。私が説くことは説くと了解せよ」(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473~478頁参照)。
 「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に一体この毒矢を射た人は誰か、どんな名前の人か、身長は、どんな顔の人で、どこに住んでいた人か、どんな弓で射たもので、どんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら、結局死んでしまうだろう。それとおなじで世の中は有限か無限か、霊魂と身体は同一かそうでないか、人間は死後も存在しているのか、そのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで、私たちの老死、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えは依然としてここにある。私はいま 現実のこれらの老死、苦を超えることを説くのだ。悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう」(中部経典第63経参照)。

 釈尊は、ドグマへの執着を排した。同様に、輪廻転生その他の形而上学的質問に対しては沈黙した。それは、釈尊の宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判でもあった。
 「ヴァッチャよ、世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない」。(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁参照)

 釈尊は、形而上学的な問いに対して、これに回答したり拒否したのではない。もっと根本的な批判として、そのような問答の無意味性を指摘し語らなかった。ここに仏教の顕著な特徴がある。釈尊は次のように述べている。「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ」。
 「人間は暗闇を盲人に手を引かれていく盲人のようなものだ」。
 「牛の群れが歩いている時、リーダー役の年取った牡牛が道を外れたら、他の牛もそれに付いていくように、長たる者が道を過てば他の者もそれに習う。それと同じで、王たる者が間違った事をすれば、臣下総てが苦しむことになる」。
 「戦争の勝者は、敗者に対して厳しい制裁で卑屈な態度で跪かせてはならない」。




(私論.私見)