天理教団に対する弾圧に対して、れんだいこは次のように見立てる。小滝氏の所見と重複する面があるがまったく同じというものではなかろう。
天理教の成立は、明治維新政府の近代天皇制的国家神道形成過程と一致する。教祖の後半生は、明治政府が性急且つしゃにむに恐らくは戦争動員体制に都合の良い「日本国家と国民」をつくらねばならなかった時代背景と密接している。それ故に政府は、別のイデオロギー、思想、宗教を持って社会改変を企てる社会集団を許せなかった。天理教は中でも最たる不逞教団足りえていたと思われる。天理教が、何ほどかの政治的抵抗を企てた訳ではない。しかるに教団が認定されず、信仰が妨害され、最終的には教祖が80歳の高齢の身にも関わらず数限りなく拘引されるに至った。その理由は、この国民国家形成運動の疎外要素と見られたからだと思われる。
政府は当初から疑いの眼を持って天理教団を見つめていた。この政府を裏で糸引く勢力があるとしたら、この勢力の天理教団観が問われることになる。疑いは天理教の増大とともに膨らみ、遂には直接的な弾圧をかけるようになった。教祖の最晩年とはまさにそのような時代であり、理不尽にひるまない教祖派と明治維新政府との闘いは、教祖が没するまで、否教祖没後も続いていくことになった。
天理教の「元の理」(創世記神話)は国家神道の「記紀神話」とぶつかった。「助け合い陽気暮らし観」は「好戦的皇国史観」とぶつかった。「最高神としての天理王命」は「現人神天皇の存在」とぶつかった。両者がぶつかる思想的根拠がまさにここにあった。天理教は、新政府の押し進めようとする神道統一政策、全国神社の格式規制化、国家総動員体制に向かう道程としての敬神愛国精神、天理人道精神を称揚する国民教化政策にとって目の上のコブのような存在になっていた。その勢いが増せばなおそうなるという理屈であった。この観点を持てば、明治新政府による天理教弾圧の理由が解けよう。
2007.10.25日 れんだいこ拝
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