明治新政府による天理教弾圧の理由考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、「明治新政府による天理教弾圧の理由考」をものしておく。

 2007.10.25日 れんだいこ拝



【明治新政府による天理教弾圧の理由考

 天理教団に対する弾圧に対して、れんだいこは次のように見立てる。小滝氏の所見と重複する面があるがまったく同じというものではなかろう。

 天理教の成立は、明治維新政府の近代天皇制的国家神道形成過程と一致する。教祖の後半生は、明治政府が性急且つしゃにむに恐らくは戦争動員体制に都合の良い「日本国家と国民」をつくらねばならなかった時代背景と密接している。それ故に政府は、別のイデオロギー、思想、宗教を持って社会改変を企てる社会集団を許せなかった。天理教は中でも最たる不逞教団足りえていたと思われる。天理教が、何ほどかの政治的抵抗を企てた訳ではない。しかるに教団が認定されず、信仰が妨害され、最終的には教祖が80歳の高齢の身にも関わらず数限りなく拘引されるに至った。その理由は、この国民国家形成運動の疎外要素と見られたからだと思われる。

 政府は当初から疑いの眼を持って天理教団を見つめていた。この政府を裏で糸引く勢力があるとしたら、この勢力の天理教団観が問われることになる。疑いは天理教の増大とともに膨らみ、遂には直接的な弾圧をかけるようになった。教祖の最晩年とはまさにそのような時代であり、理不尽にひるまない教祖派と明治維新政府との闘いは、教祖が没するまで、否教祖没後も続いていくことになった。 

 天理教の「元の理」(創世記神話)は国家神道の「記紀神話」とぶつかった。「助け合い陽気暮らし観」は「好戦的皇国史観」とぶつかった。「最高神としての天理王命」は「現人神天皇の存在」とぶつかった。両者がぶつかる思想的根拠がまさにここにあった。天理教は、新政府の押し進めようとする神道統一政策、全国神社の格式規制化、国家総動員体制に向かう道程としての敬神愛国精神、天理人道精神を称揚する国民教化政策にとって目の上のコブのような存在になっていた。その勢いが増せばなおそうなるという理屈であった。この観点を持てば、明治新政府による天理教弾圧の理由が解けよう。

 2007.10.25日 れんだいこ拝


【元おやさと研究所長/井上昭夫「第5章 高橋和巳と『邪宗門』
 「「おふでさき」天理言語教学試論〜「こと」的世界観への未来像〜(35)」の元おやさと研究所長/井上昭夫「第5章 高橋和巳と『邪宗門』 ①
 第一節 「世なおし」思想の極限化に至る思考実験

 まず第5章の本論に入るまえに、戦後を代表する思想家・詩人である吉本隆明は、中山みきの生きざまと「おふでさき」について、その思想を彼なりに「近代の古典的思想の実践例」として読み切っていたのではないかと確信させる『高橋和巳作品集4 邪宗門』(河出書房新社)の「あとがき」に寄稿している「新興宗教」(641 ~ 659 頁)があるということを紹介しておきたい。つまり、本稿最終章であつかう吉本の『思想のアンソロジー』(ちくま学芸文庫)に《解説》された「中山みき『おふでさき』」の文章の背景には、天理教原典や、高橋和巳の『邪宗門』の背景をなす緻密な大本教史や天理教史の和辻哲郎が言う「あらわにされた」「出来事」研究がなされていたと思われるからである。また、吉本隆明と松岡正剛が応酬する『遊』(1982 年9月特大号・特集・「日本する」)も、「こと」的世界観への未来像構築に勇気を与えうる貴重な文献になるであろう。

 さて、『邪宗門』は高橋和巳(1931 ~ 1971)の小説の中で2千枚のもっともながい大河小説であり、『朝日ジャーナル』1965 年1月3日号から翌年の5月29 日まで連載された。宗門としてあってはならないものが「あらわにされた」「こと」であるところの「邪宗門」の「もの」がたりである。歴史的には邪宗門は、江戸時代の禁制の文脈からキリスト教を指していた。誤解と白眼視に堪え、いかほどに世の立替え、立直しを叫びつづけても、社会や国家から邪宗門は徹底的に排除される。偏狭な軍国皇道政治につきすすむ戦争前夜、昭和10 年12 月には、大正10 年の第一次大本事件につづいて、第二次大本教弾圧事件が勃発。綾部、亀岡両巨大聖地本部破壊には、武装した430余人の警官の包囲をうける。苑内にいた教主出口王仁三郎や本部役職員ほか100 人余りが検挙され京都に護送されたり、亀岡署に拘置された。両本部にはダイナマイト数千発がぶち込まれ、鉄骨はガスで焼き切られ、樹木は切りたおされ、石段さえも削りつぶされて、一帯は見る影もない荒野と化してしまったという。日本史上類を見ない大弾圧を受けた戦争前夜の教団大本。数多くの新宗教を生んだ丹波篠山盆地の一教団があたえたその宗教思想的影響はいまも小さくはない。教主出口には『霊界物語』(全72 巻)、『聖師歌日記』(全53 巻)のほか数種の書物がある。第二次大本教弾圧事件につづいて、昭和11 年9月27 日には「PL教団」初代教主御木徳一が教祖の地位を譲った翌日に警察に拘引され、「ひとのみち事件」がはじまった。 
 
 一方、天理教では昭和11 年に教祖五十年祭、翌12 年には立教百年祭の両年祭が執行された。教祖五十年祭直後には2・26事件が発生。このころより軍隊が国家の主導権をにぎりはじめ、同13年には「泥海古記に関連ある一切の教説は之を行わず」と、軍部によって強制された「諭達第八号」の「革新指令」が発布された。天理教団が執拗な追求と攻撃をうけた理由は、「元の理」が近代天皇制のもとで絶対化された記紀神話とは根本的に異質であり、そのひろめは記紀神話の権威を脅かすものであったという点にある。教説の受難史の詳細については拙著『中山みき「元の理」を読み解く』(日本地域社会研究所、第1章第2節)を参照されたい。

 これら両宗教を素材にしたであろう高橋和巳の『邪宗門』は、若者に発表当時おおきな衝撃をあたえ、学生運動にかかわる彼らがバイブルのように読んだと言われ、「東大教官がすすめる100 冊」では、世界の数々の名著をおさえ第8位の評価をうけている。『邪宗門』は文学というアプローチで描かれた日本の精神史でもあった。高橋はこの本になにを込めようとしたのか。彼は「あとがき」において次のように述べる。発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたいという事であった。表題を「邪宗門」と銘うったのも、むしろ世人から邪宗門と黙される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである……。繰り返しをおそれずに言えば、私の描かんとしたものは、あくまで歴史的事実ではなく、総体としての現実と一定の対応関係を持つ精神史であり、かつ私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史との葛藤だったためである。私が自らを確め、自らを深めるためには、私が生まれ育ったこの日本の現代精神と私の夢とを、人間をその総体において考究しうる文学の領域において格闘させることが必要だったのである。

 高橋が日本に現存する新宗教団体の二三を遍歴、その世なおしの教えや教史を研究し、そこから若干のヒントを得たという、いわゆる「邪宗門」と対立せざるをえない国家の本質とはなにか。こうした問いかけは史観によって答えられることがおおい。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明であるとされる。「史観」が制度史に限定されるなら「史実」と照合しやすい。しかし、この問いかけへの回答がむずかしいのは、その問題の対象に精神史、つまり精神の歴史がひそむからである。人々の内面に存在する精神は、さまざまな事件の表層からは見えてこない。精神史は複数の事象の整合的なまとめよりも、信仰や教理などを簡素なモデルとして提出する必要がある。天理教でいえば「泥海古記」や「おふでさき」「みかぐらうた」などから抽出された人間世界創造・救済をのべた簡潔な教典類、他の新興宗教にあっては天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルは国家からすればその簡素さゆえに思想ではなく、虚構に近いとみられる。この意味において精神史は文学にかぎりなく接近する可能性を得ることができるともいえよう。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出すこころみは数おおくなされてきたが、高橋和巳の『邪宗門』は、そのスケールにおいても突出しているというのが識者一般の評価である。

 天理教も天保9年の立教以来、中山みき教祖の17、18回にもおよぶ官憲の召喚問答、および投獄がつづき、第二次世界大戦がおわるまで、組織が巨大化するに比例して国家が敵対し排除する「邪宗門」として弾圧され、「つとめ」や神名までも強制変更、原典『おふでさき』などは国家により全教会から没収された。それはあたかも国家にとっては「邪宗門」が、「天皇制」という「国家共同幻想」を映し出す鏡像であるかのように国家の精神性を対照的に映し出す。この逆転鏡像から精神史の史観のモデルを描きだすことで、日本国家の精神的な呪縛である「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さをふくめながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説がくわわり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題をふくむことをあきらかにした。この課題、つまり国家批判の倒錯性は戦後、いわゆる左翼勢力・マルキシズムが倒錯していく傾向をなぞってさえいる。くわえてそれはまた信仰の自由を法的に獲得した戦後の諸新興宗教、維新前後の新興宗教教団にも通底する問題をも包括しているといえる。その意味で『邪宗門』は、「共同幻想」を極限化させるとどのように成るかという思考実験でもあったと評価されるであろう。
  「「おふでさき」天理言語教学試論〜「こと」的世界観への未来像〜(36)」の元おやさと研究所長/井上昭夫「第5章 高橋和巳と『邪宗門』 ②
 第二節 国家と宗教の共同幻想

 天理教は、終戦直後において中山正善二代真柱により「復元」が提唱されたが、高橋和巳の暗喩する戦前の「共同幻想」の倒錯性からの脱却に成功しているかどうかは、いまだに疑問である。達成された「復元」と、未完の「復元」の領域をただしく認識区分し、それをあきらかにして民主的に議論する知恵と勇気が、真の「練り合い」「談じ合い」の意味するところであるにもかかわらず、その実践がシステムとして「元一日の精神」にかえる教団改革刷新にむけられていないという批判もある。

 いうまでもなく、吉本隆明と高橋和巳の二人は、60年安保闘争の学生たちのカリスマ的存在であった。高橋は『邪宗門』巻末の秋山駿との「私の文学を語る」というインタビュー(629 頁)の中で、大学での友人が就職運動に奔走しはじめたころ、自分には将来設計とかいうことは全然なく、ほんとうに食い詰めていて、母親がある新興宗教(天理教)の信者だったから、私のそういうのめり込み型(内面の葛藤、その葛藤の起伏がおおきいことがそれ自体充実しているという心的状態)の精神を直してやろうという気もあったかも知れなかったが、「天理教の修養科」という固有名詞こそ出てはこないが、あきらかに9回の「別席」とよばれる信者(ようぼく)の資格があたえられる講話も聴いている。そのときの天理での修行・研究のようすは次号において紹介するが、秋山との対談で高橋はつぎのように告白している「大学を出ても何も仕事もないものですから、たまたまその教団で教祖の編纂事業みたいなものをやっているわけです。雑誌も出していましたし、多分そういう仕事に予定されたんでしょう、そこへ行けといわれましてね。ただ宗教団体なものですから無条件で仕事に参加できるわけではなく、教義の講義を受け信徒ないしは信徒なみの認定を受けなければならないわけですね。それでその講義を受けに行った(中略)。あれは九回講演を受けて、その教義を飲み込んで試験のようなものを受け、さらに一定期間の共同生活と奉仕をすませますと、資格が与えられるわけです。」と紹介した後、天理教教理について、「教義は割合合理化されておりまして、天地創造からはじまる教典にもそうおかしいところはなく、何回か実にいろんな階層の人々が、実にいろんな悩みを背負ってきているその間にはさまって説教師の言うことを聞いているわけですけれども、あれは面白かったんだけれども、ただ最後に独特の祈祷の形式がありまして、手踊りをしなければいけない。宗教ですから、理解だけではだめで祈りがなされなければ信徒ではない。信徒にならなければ就職はできない。これは何というのですかね、どうしても踊れないのですよね。」と告白し、踊ろうとすると、「背中にだらだらと冷汗が流れてきて、単にはずかしいとか、そういうことではないのです。食っていくためにはある程度はずかしさみたいなものはかなぐり捨てなければならないことぐらいは知っています。」とつづけ、「このぐらいのことができると逆にやってやろうというような気もするのですが、とにかく、全身硬直みたいになって、どうしても体が動かないのですね。」というわけである。

 しかし、なぜ全身硬直状態になったかを文章化するのが文学者としての役割ではないかというのがわたくしの疑問である。つまり、入信を拒否した高橋の論拠としてはきわめて軽薄な弁解であると思われる。この疑問への回答は後に述べる彼の異例の究極的文学観にあるはずだ。

 一方、高橋和巳が白川静の招きで立命館大学文学部の講師をしていた1963(昭和38)年、彼の受講生であり、高橋が京大助教授に招かれたのち同人誌の飲み友達でもあった高橋の下宿のそばに住む村井英雄は、その著『闇を抱きて─高橋和巳の晩年』(阿部出版)において高橋が反日共系の過激派と総称される全共闘系学生を1969(昭和44)年に支持表明し、京都大学文学部助教授を辞職した後の、彼の孤独と苦悩と病、そしてその酒豪ぶりや、執筆状況など、日常会話についてもくわしく紹介している。「論理の導くところ、いずこへなりとも行こうではないか」というプラトンの言葉をよく引用していたとも回想しているが、それは高橋が、思想的な敵対関係や人間関係が憎しみ合う状況に至っても、往来の礼儀を尊び、問題は論理的に対決すべきであるという信念を抱いていたからだろうというわけである。ある夜、風呂桶を手にのろのろとうつむき加減になにかをふかく考えながらせまい道を歩いている身長180 センチもある高橋が、道端の電信柱にぶつかりかけて「あっ失礼」と電信柱を人とまちがえ、謝罪しているのを村井が目撃したなどというエピソードもある。

 『邪宗門』の巻末に紹介されている秋山駿のインタビューのあとに、吉本の「新興宗教について」という論文が掲載されている。この16 頁に及ぶ論考の大半は「元の理」の全文引用をふくめた、教祖論と「天理神」の吉本自身の解釈からなっており、このときは「注記」として論文の最後に追記されているように、すでに高橋は病床にあり、この書の出版後1年足らずして氏は没している。ということは、吉本は前出の『思想のアンソロジー』出版の30 数年前には「おふでさき」をすでに読み込んでいたことになる。『邪宗門』のテーマの通奏低音となっている〈新興宗教〉・天理思想による歴史観と国家体制との関わりにおいてもその意義を的確に把握していたにちがいない。したがって、この吉本の巻末論文は『邪宗門』を評価する思想的根幹を示しているといえるだろう。くわえて、高橋の天理での身体的修行は頓挫したとしても、天理の教えの土俗的表現に隠された宗教思想的根源への思索は、教祖「ひながたの道」のさまざまな史実を知るにおよんで『邪宗門』という作品に活かされていたにちがいない。『邪宗門』は、夫にも6人の子供たちにも叛かれ、半狂乱の彷徨の果てに一種の悟達の境地に達した下層農民出身の開祖・行徳さまによってはじめられた明治の土俗的な新興宗教、ひのもと救霊会を主題にした小説である。その発生から二代目教主行徳仁二郎の手腕による教団の整備と拡張、そして戦時下の大弾圧、くわえて敗戦期に「世なおし」を希求する三代目教主千葉潔に率いられた信徒たちの武装蜂起の結果による決定的壊滅という筋道をたどる教団史が小説の骨格である。その物語の骨格をおおう生命の臓器は、国家と宗教の関係性、「家父長制と家族制度の被害を集中的にひっかぶった下層民の母親だ」という女性の性と家からの解放、死の自由と自殺の黙認、男女の性の関係における葛藤、親子兄弟姉妹・近親関係における不和と闘争に譬えられる。人間を破局までおいつめるこれら凶暴な諸情念の浄化は宗教にとって可能か、つまり宗教によるユートピアの実現にはいかなるハードルを越えなければならないかというのが作者高橋和巳の宗教論の主調低音になっている。





(私論.私見)