「天理教の誤りを破す」を駁す

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで天理教批判の一例を挙げ、検証しておくことにする。どう贔屓目に見ても、目くそが鼻くそをなじる程度以上のものではあるまい。

 2008.12.25日 れんだいこ拝


【「百禍繚乱」の「天理教の誤りを駁す」考】
 「百禍繚乱」の「天理教の誤りを駁す」は、天理教義を概括した後、次のように批判している。れんだいこがこれにコメントしておく。
 ●神がかりは精神分裂と同じ

 大本や金光教などの項でも書きましたが、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想」(ひょういもうそう)と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。「万物創造の親神」などというものは、単なる妄想の産物です。
(私論.私見)
 「宗教的神がかり精神現象」をこのように分析し解決済みと称せる人はよほど幸せというべきだろう。このスタンス一事で、この論者が宗教的感性素養のない御仁であることが分かる。
 ●社会生活を破壊する「貧に落ちきれ」

 「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」。これは昔、世間の人々が天理教を揶揄(やゆ)したものです。人は、特別な金持ちになる必要はなくても、「生活に最低限必要な金銭・財産は確保したい」と思うのが当たり前です。そうでなければ、当たり前の社会生活に破綻をきたすからです。ところが天理教では「貧に落ちきれ」と言い、「どんな境遇でも心の持ち方一つで陽気暮らしができる」などと無責任な人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を壊滅に追い込みかねないことまで言っています。これでは、信者は単なる「教団の奴隷(どれい)」でしかありません。こうして信者から集めた莫大な金で、真柱(しんばしら)やら教団幹部がどのような暮らしをしているのか、ぜひ見てみたいものです。彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。
(私論.私見)
 確かにみき思想の「貧に落ちきれ」は包丁のようなもので、使い方で調理器にもなれば凶器にもなる。そういう意味で、本来の教義と教団のそれとを識別する必要があろう。但し、教団の包丁批判でもって教義批判にまで及ぶのはいかがなものだろうか。この御仁は、ここが区別できない質らしい。

 みき思想の「貧に落ちきれ」は、俗世的富に対する執着を諸悪諸病の根源として、私有財産制否定まで指針せしめている。その代わりに、そういう精神に対して神が自由自在の守護をし、共同体的助けあい生活へ向かうと云う別の形の生き方、社会のあり方を提起した。その先にこの世の極楽が生まれると説いた。実際にこれを行うとなると現実的ではなく危険ではあるが、聞き分けぐらいはするべきであろう。教団は、折衷として、富のお供え化へ変質せしめた。お供えされた富が上手に使われるのならまだしも、上級の奢侈に費消された面がある。そういう意味での批判は正しいが、「貧に落ちきれ思想の否定」にまで向かうのは行き過ぎと云うべきだろう。

 ●人間の本質を無視した「八つの埃」説

 天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。では、天理教で懸命に天理王命を信じて、「はらだち(怒)」が消えてなくなった人はいるでしょうか。いるはずがありません。すべての欲がなくなった人がいるでしょうか。いるはずがありません。まったく怒りがない人間などいません。「病気を治したい」と願うことも欲です。こうした人間本来の姿を無視して、しかもそれがすべての不幸の原因であるなどとは、因果の道理を無視した妄説でしかありません。「五欲を離れず」、「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い、低劣な外道教団と呼ばざるを得ません。
(私論.私見)
 これは為にする批判であろう。みき教義は、ユダヤ−キリスト教的罪、仏教的煩悩思想の生得的苦役観に対して、何度も出直しできる軽みの埃思想を対置したもので、存外、宗教革命とも云うべき卓見ではなかろうか。「仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い、低劣な外道教団と呼ばざるを得ません」とは、云う者の品性劣悪さを垣間見せるだけのお粗末言辞だろう。 
 ●どじょう?

 天理教では『泥海古記(どろうみこうき)』なる神話に、「どじょうが人間のたねであった」などと、荒唐無稽(こうとうむけい)な珍説を並べています。寝言は寝ているときに言うべきです。こんな非科学的な、馬鹿げた話が元になった宗教を信じてしまったら、みんな馬鹿になってしまいます。真実の宗教とは、科学と反するものではありません。むしろもっと広く深い立場から、現代科学をもその体内に包みこむものです。天理教のような当たり前の道理を無視した教団が、まともな宗教であるはずがありません。
(私論.私見)
 これも為にする批判の典型であろう。みきの元始まりの話しは存外科学的で、そこに畏怖すべき科学性さえ認められると解するのが相当なところ、「こんな非科学的な、馬鹿げた話が元になった宗教を信じてしまったら、みんな馬鹿になってしまいます」とまで云う。続いて、論者の宗教−科学観を示して「真実の宗教とは、科学と反するものではありません。むしろもっと広く深い立場から、現代科学をもその体内に包みこむものです」と述べている。論者よ、申し訳ないが、科学は常に発展途上にあり、現代科学も後に評すればかなり遅れた科学であったと云われる代物に過ぎない。論者が、その道中の科学でもって宗教を縛るのをよしとするなら、宗教の根本にあるものが何たるかが少しも分かっていない御仁であると云うことを示していることになる。
 以上、ごく簡単ではありますが、天理教の教義についてその邪たる所以を述べました。皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。
(私論.私見)
 当人は真っ当なことを言っているつもりであろうが、俗に云う馬鹿丸出しでしかない。

 この御仁の正体が見えて来た。「創価学会」の項目で次のように述べている。
 創価学会(およびSGI)は、平成3年11月28日、日蓮正宗より信徒組織として破門され、それによって日蓮正宗とは何の関係もない団体となりました。したがって、このサイトの本来の分類からいえば、創価学会は「第一章 新興宗教」の中に組み込まれるべき教団です。しかし、第一章の一項目として扱うにはあまりにも規模が大きく、またその大謗法の度合いも、他の新興宗教等とは比べものになりません。これまさしく、現時における「この一凶」であり、その大謗法の害毒は凡眼に計り知れず、政権与党の政党とも相まって、禍を万里の外より招き寄せ、日本の国を滅ぼしかねない存在です。
(私論.私見)
 論者は、元創価学会員で、創価学会が日蓮正宗より信徒組織として破門されたことにより退会したらしい。「血脈相伝」こそが信仰の第一義であるというのが理由らしい。部外者のれんだいこから見れば、こだわることでもないように思うが。この御仁の宗教的精神からするとそういうことになるらしい。れんだいこの宗教的精神では、信仰の内実こそが問われるべきだと思うけれども。
 ●本物の信心は日蓮正宗法華講に

 そうして平成4年3月より、私は晴れて日蓮正宗・法華講の一員となることができました。以来12年ほどが過ぎましたが、今、本当に心の底から「脱会できて良かった」と思います。創価学会にいた頃は、唱題をしていても何か、「曇りガラスの向こうの御本尊様を拝している」という感じが常にあり、本当にこれが日蓮正宗の信心なのだろうかと、歓喜(かんぎ)の実感に乏しい、違和感に満ちた状態でした。今にして思えば「創価の似非(えせ)信行ではそれも当然」なのですが、当時は分かりませんでした。

 それが法華講員となり、御法主上人猊下に信伏随従し、菩提寺たる末寺の御住職の御指導のもと、講中の同士とともに信行に励む中で、「これが本来の正しい、日蓮大聖人の仏法なのだ」と初めて強く実感することができ、本当にうれしい日々です。学会員は、宗祖日蓮大聖人を信ずるフリをしながら、いつの間にか、池田大作を仏であるかのごとく信ずるようになりました。これはもう「信心が二頭になる」ゆえに謗法であり、日蓮大聖人の仏法ではありません。

 この第五章は、学会の信心に疑問を抱きつつも、いまだに脱会できずにいる方々。また、破門以降に無理やり入会させられてニセ本尊をつかまされてしまった方々などを対象に書かれています。皆さんが一日も早く信仰の寸心を改め、本来の正しい信心に帰伏されますよう念願しつつ、この「第五章 創価学会」を書かせていただきます。学会の悪宣伝に惑わされることなく、どうか正直な眼で、正邪の分別をつけてください。
(私論.私見)  
 何と、日蓮正宗・法華講のプロパガンダだったと云うお粗末。

 2008.12.25日 れんだいこ拝




(私論.私見)