黒住教開教史

 (最新見直し2015.08.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2006.11.18日再編集 れんだいこ拝


【「黒住教」】

 きのの如来教に四半世紀遅れて生まれたのが黒住教である。その概要は次の通りである。
 創始者黒住宗忠(1780~1850)は、1780(安永9)年、11.26日、備前国御野郡上中野村(現、岡山市上中野)に黒住宗繁の三男として生まれた。生家は神職で、代々隣村の今村にある今村宮の禰宜を勤め徒士格であった。父母とも温厚な人柄であったと伝えられている。宗忠は、幼少より孝心が厚く、青年期を迎えて一層深まり、ただ親のいいつけに従うことのみにとどまらず、天下に名を揚げて人から仰がれるような人間になることがより大きな孝行である、と思うようになった。この頃までの宗忠は「中野の孝子」として数々のエピソードが伝えられている。

 1803(亨和3)年、最初の伊勢参宮を行つている。この後も1824(文政7)年、1831(天保2年)、1833(天保4)年、1835(天保6)年、1845年(弘化2)年と、生涯で6回の伊勢参宮をしている。

 1804(文化元)年、25才の時、黒住家の跡継ぎとなる。1812(文化9)年、この地方で流行した痢疾で相次いで両親を亡くし、その衝撃から自らも労咳にかかり、1814(文化11)年正月、危篤状態に陥った。同月19日、今生の別れに日拝を行い、その際真の孝行は自分自身を苦しめることである筈はなく、陽気になる為に心を養うことこそ孝行の真の道であると翻然と悟り、これを境に病状は快方に向かい、3.19日、宗忠は入浴して二度目の日拝をすると、さしもの大病も一時に全快したと云う。

 1814(文化11).11.11日の冬至の日の出に、宗忠は一陽来復の太陽を三度拝したところ、自己の全生命と太陽(天照大神)とが合一するという神秘体験を得て、神人不二の妙理を悟ったという。この時のことは、日の光が宗忠に迫り来て、照り付け全身に染み渡った。遂に彼の身体に飛び込み、日の玉は暖かい陽気をもって丸ごと治まった。その瞬間、宗忠の全感覚は得もいえぬ快感に襲われ、「何という歓喜、何という喜び!笛を吹き糸をしらべ金をたたき鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」(宗忠大明神御伝記)と記されている。黒住教では、生き神としての自己の使命を自覚したこの体験を「天命直授」と呼び、同日をもって立教の日としている。宗忠は、「天てらす神の御心人心 一つになれば生き通しなり」(歌集4)と歌っている。御神詠に「天照らす神の御徳は天つちに みちてかけなき恵みなるかな」とある。

 こうして大患を克服し、「天命直授」した宗忠は、その日を境に不思議な霊力が備わっていることに気がついていく。「天照らす神の御徳を世の人に 残らず早く知らせ度タキもの」(歌集9)、「天地の中に照り行く御宝を今ぞ取得し心楽しき」(歌集13) との使命感と歓びに燃え、「月は入日の今いつる曙に 我こそ道の始め成けれ」(歌集134) という大きな自負をもって教えを説き始める身となった。こうして布教活動が展開された。腹痛で苦しむ同家の婢ミキに陽気を吹きかけてその病気を治す等自らの霊力に自信を深めて、周囲の家族、知人等に天照大神の道を説き、祈念禁厭でひろく教えを伝えていくこととなった。信者の自宅を使用して「会日」と呼ばれる集いを開き、説教と神霊治療を施していった。その治療は手を通じてのものであったが、時には息を吹きかけ、さらには遠隔治療さえ試みている。

 この頃の宗忠の歌には次のようなものがある。

天照す神の御はらに住む人は 寝ても覚めても面白きかな 歌集10
あら嬉し かかる嬉しき浮世ぞと知らで今まで過ぎし惜しさよ 歌集28
有り難きまた面白きとみきを供うぞ誠成けれ 歌集35
迷いほど世に面白きことぞなし 迷いなければ楽しみもなし 歌集124
病のことは少しも苦になるものに御座無く、何事も天にお任せなされ候わば、万事楽しみの外は御座無く、一切教えは天よりおこるなり。その教えを受けて日々楽しみ暮らすこそ信心なり 書簡14
我もその如く、病気の治るをいろはとして、某所より自然と誠の道に入るなり。さすれば却って病気なる所が有り難き根元なり。 至誠講義 第2扁
今日参りがけ、お日の入りを拝み奉りしに、まことに有難うて有難うてなりませなんだ。あまり有難うて何も浮みませんので、今夕はこれでお断り申します。ああ有り難い、有り難い。ああ有り難し、有り難し。 講話

 1824(文政7)年、45才の時、今村宮の禰宜職となった。二度目の伊勢参宮を行つている。1824(文政7)年の参宮は「文政のおかげまいり」の前後の時期に当たっており、民衆の信仰の爆発的な高揚を実見して、強い感銘を受けたものと思われる。

 開教11年後の文政8年から11年(1825~1828)に至る千日参籠の時期に、「家内心得の事5ケ条」から「家内心得の事7ケ条」にまとめられ、黒住教の実践教説の根本とされるとともに、信者の規範となった。その文面は次の通りで、「このような事があってはならない」戒めで書かれている。

神国の人に生まれ、常に信心無き事
腹を立て、物を苦にする事
己が慢心にて人を見下す事
人の悪を見て己に悪心を増す事
無病の時家業怠りの事
誠の道に入りながら心に誠無き事
日々有り難き事を取り外す事

 宗忠の教えの教線は、近隣の地主層から岡山藩士の間へと伸びていった。布教の発展と共に、岡山藩を始め、既成の宗教勢力からの圧迫も次第に強まった。宗忠は、周囲の圧迫妨害が激化したのを機に、従来の修業の在り方を反省し、1825(文政8)年から千日参籠、五社参り等の激しい修業を重ねた。宗忠の晩年、弘化.嘉永年間(1844~54)には門人も急増し、その教線は備前から備中、美作に及び、信者はめざましく増加して、武士層から地主、自作農、商工民へと拡大した。1841(天保12)年、宗忠は隠居し、跡目を宗信に譲った。この頃から岡山藩士、地主、自作農民、有力商工民へと教線の広がりをみることとなった。

 1846(弘化3)年、1月26日、仁孝(じんこう)天皇崩御。孝明天皇が皇位を継承する。「3月18日、備前岡山玉井宮に於いて、惑乱せむとする天下の人心を鎮定し、天照る大御神の御神慮を安(やすん)じ奉(たてまつ)らむとの御講釈あり」。4月、門弟行司の名で、教団規則とも云える「御定書」がつくられた。

 1847(弘化4)年には、門人時尾克太郎等によって「門人名所記」がつくられた。こうして、弘化年間(1844~47)に教団組織が確立した。1850(嘉永3)年2月25日の日の出とともに70年の生涯を閉じた。辞世の句は、「目を開けて空仰ぎ見よ見よ天照る神の道は一筋(伝歌集61) 。宗忠が没した後は、武士と農民の有力門人たちが教団を主導した。7名の高弟が、御神裁(おみくじ)によって選ばれた地に向かって布教の旅に出た。

 中でも、宗忠に眼疾を治されて入信した赤木忠春(1816~65)は、京都へ赴き、教義を広めた。1852(嘉永5)年、関白の九條尚忠邸に招かれ、令嬢にして孝明天皇の后のあさ子姫に「祈り、説き、取次ぎ」を施す。これが機縁となり、孝明天皇の御前講演の栄誉に浴する。この時、「玉鉾の道の御国あらわれて日月と並ぶ宗忠の神」の御製を賜る。この年、睦仁(むつひと)親王が誕生。1853(嘉永6)年、ペリー艦隊来航。1856(安政3)年、3月8日、赤木らの運動が実を結び、宗忠に対して朝廷から大明神号が受けられた。朝廷が仏教の高僧に贈るのが大師、国師、禅師。神道の高能者に贈るのが大明神、明神、霊社、霊神で、大明神は最高位のものである。1862(文久2)年、京都の神楽岡に、吉田神道の本拠吉田神社に隣接して宗忠神社が創造建築された。この年の3月2日、三条実美公が「神文書」を差し出している。「神文の事。かたじけなくも天地同体の一心動かすべからず。よって謹んで神文奉るものなの。奉 宗忠大明神」。1863(文久3)年、8月18日、八・一八政変で、三条公ら若き公卿七名が京都を追われ長州に向かっている。これを「七卿落」と云う。1864(元治元)年、7月19日、蛤御門の禁門の変。1865(慶応元)年、4月16日、赤木忠春没す。4月18日、孝明天皇が宗忠神社に勅願所の旨を仰せ出される。1866(慶応2)年、宗忠神社が勅願所となった。12月25日(新暦1月30日)、孝明天皇崩御。

 黒住教の教義は、天照大神を万物の根源とし、人間はその分心であり、神人不二とする。その神観は、天照大神を宇宙の最高神としており、神道が歴史的に背負っている民族的宗教的性格を脱して、普遍的価値を掲げる世界宗教を志向している。人間は、万物の親神である天照大神の神慮に沿い、全てを神配慮に任せることによって、家内、一門、国家の平安繁栄が得られるとした。その為には毎日を陽気に暮らすことが肝要であり、「活死イキシニも福トミも貧苦も心なり ここを智シるこそ誠こと成ナルらん」(歌集71)、「何事も望み無ければ世の中に 足らぬことこそなかりけるかな」 (文集83) と宗忠が詠んでいるように、現実の一切の矛盾や苦悩は、心の持ち方を変えることで克服し解消できるとした。「離我任天」(「誠を取り外すな、活物を捕らえよ、我を離れよ、天に任せよ、陽気になれよ」)が肝要とされた。祈念禁厭による病気治し等の現世利益を、もっぱら天照大神の神徳によるものとし、「人の人たる道」として、まこと、勤勉、無我、正直等の徳目を説いた。こうした既成秩序を重んじる徳目は心学にも通じており、通俗平易な処世訓を伝えることとなった。

 宗忠は、明るい純な心で、天照大神をはじめ八百万神に一家、一門、一国の平安和楽を求めれば、その加護と利益が得られるとし、封建秩序に抵触しないように慎重に配慮しながら布教活動をすすめた。その言動においても、既成秩序の枠から外れそうな傾向が問題化すると、天照大神の道の開運のみを願っているに過ぎないと表明して、圧迫を招かないように配慮することを怠らなかった。封建支配秩序の枠内で、従来の封建宗教の多くが形骸化して民衆に寄生し、沈滞と無気力に陥って退廃を深めていったなかにあって、黒住教は、天照大神を最高神的な卓ぜつ絶した救済神とし、その宗教的権威による民衆救済と現世利益を強調する習合神道系の独自の教義を形成した。特に、全ての人間を天照大神の分心とみる人間観は、人間の平等と尊厳を宗教的に基礎付けたものであり、封建秩序を肯定する限界内での、ぎりぎりの民衆的性格を内包していたといえよう。 黒住教では、信者の居宅を会場に、しばしば会席(明治維新後は講席)を開き、神拝、説教、祈念禁厭を行ったが、会席では四民平等で、先着順に身分にかかわりなく着席し、武士は玄関で刀をはずした。

(私論.私見)

 黒住教の教義は、記紀神話によって皇室の護り神とされていた天照大神を、本来の日本神道の最高神としての天照大神信仰へと解き放ったところに意義が認められるのではなかろうか。れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、天照大神は原日本の最高神である。大和王朝以来、天照大神は大和王朝を権威づける為に利用されてきた。これに対し、大和王朝以前からの日本神道の最高神としての本来の位置に於いて捉え、その霊能を引き出そうとしたところに史的意味があるように思われる。

 2014.1.17日 れんだいこ拝





(私論.私見)