その7、破戒第13章、第14章

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.11.13日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【破戒第拾参章】
 第拾参章(一)
 『御頼申おたのまうします』。蓮華寺の蔵裏くりへ来て、こう言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝あくるあさのこと。階下したでは最早もうとつく朝飯あさはんを済まして了つたのに、まだ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。『御頼申します』とた呼ぶので、下女の袈裟治はそれを聞きつけて、周章あわてゝ台処の方から飛んで出て来た。『一寸伺ひますが、』と紳士は至極丁寧な調子で、『瀬川さんの御宿は是方様こちらさまでせうか――小学校へ御出おでなさる瀬川さんの御宿は』。『そうでやすよ』と下女はたすきはづしながら挨拶した。『何ですか、御在宿おいで御座ございますか』。『はあ、居なさりやす』。『では、是非御目に懸りたいことがありまして、こういふものが伺ひましたと、何卒どうかそうおつしやつて下さい』と言つて、紳士は下女に名刺を渡す。下女はそれを受取つて、『一寸、御待ちなすつて』を言捨てながら、二階の部屋へと急いだ。丑松はだ寝床を離れなかつた。下女が枕頭まくらもとへ来て喚起よびおこした時は、客のあるといふことを半分夢中で聞いて、苦しさうに呻吟うなつたり、手を延ばしたりした。やが寝惚眼ねぼけまなこを擦り/\名刺を眺めると、急に驚いたやうに、むつくりね起きた。

 『
どうしたの、このひとが』。『貴方あんたを尋ねて来なさりやしたよ』。暫時しばらくの間、丑松は夢のやうに、手に持つた名刺と下女の顔とを見比べて居た。『この人は僕のところへ来たんぢやないんだらう』と不審を打つて、幾度か小首をかしげる。『高柳利三郎?』とた繰返した。袈裟治は襷を手に持つて、一寸小肥りな身体からだゆすつて、早く返事を、と言つたやうな顔付。『何か間違ひぢやないか』。到頭丑松は斯う言出した。『どうも、斯様こんな人が僕のところへ尋ねて来るはずがない』。『だつて、瀬川さんと言つて尋ねて来なすつたもの――小学校へ御出なさる瀬川さんと言つて』。『妙なことがあればあるもんだなあ。高柳――高柳利三郎――彼の男が僕のところへ――何の用があつて来たんだらう。かくも逢つて見るか。それぢやあ、御上りなさいツて、そう言つて下さい』。『それはさうと、御飯はどうしやせう』。『御飯?』。『あれ、貴方あんたは起きなすつたばかりぢやごはせんか。階下したで食べなすつたら? 御味噌汁おみおつけも温めてありやすにサ』。『さう。今朝は食べたくない。それよりは客を下の座敷へ通して、一寸待たしておいて下さい――今、直にこの部屋を片付けるから』。

 袈裟治は下りて行つた。急に丑松は部屋の内を眺め廻した。着物を着更へるやら、寝道具を片づけるやら。そこいらに
散乱ちらかつたものは皆な押入の内へ。床の間に置並べた書籍ほんの中には、蓮太郎のものもある。手捷てばしこくそれを机の下へ押込んで見たが、また取出して、押入の内の暗い隅の方へ隠蔽かくすやうにした。今はの部屋の内にあの先輩の書いたものは一冊も出て居ない。こう考へて、すこし安心して、さて顔を洗ふつもりで、急いで楼梯はしごだんを下りた。それにしても何の用事があつて、彼様あんな男が尋ねて来たらう。途中で一緒になつてすら言葉も掛けず、見ればなるべく是方こちらけようとした人。その人がわざ/\やつて来るとは――丑松は客を自分の部屋へ通さない前から、疑心うたがひ恐怖おそれとでふるへたのである。
 (二)
 『始めまして――私は高柳利三郎です。かねて御名前は承つて居りましたが、つい御尋おたづねするやうな機会もなかつたものですから』。『好く御入来おいで下さいました。さあ、何卒どうかまあ是方こちらへ』。ういふ挨拶を蔵裏の下座敷で取交して、やがて丑松は二階の部屋の方へ客を導いて行つた。突然なこの来客の底意の程も図りかね、相対さしむかひすわる前から、もう何となく気不味きまづかつた。丑松はすこしも油断することができなかつた。とは言ふものゝ、何気ない様子をつくろつて、自分は座蒲団を敷いて座り、客には白い毛布を四つ畳みにしてすゝめた。『まあ、御敷下さい』と丑松は快濶くわいくわつらしく、『どうも失礼しました。実は昨晩遅かつたものですから、寝過してしまひまして』。『いや、私こそ――御疲労おつかれのところへ』と高柳は如才ない調子で言つた。『昨日さくじつは舟の中で御一緒になりました時に、何とか御挨拶を申上げようか、申上げなければ済まないが、とこう存じましたのですが、あんな処で御挨拶しますのもかへつて失礼と存じまして――御見懸け申しながら、つい御無礼を』。

 丁度取引でも為るやうな風に、高柳は話し出した。しかし、
愛嬌あいけうのある、明白てきぱきした物の言振いひぶりは、何処かに人を※(「女+無」、第4水準2-5-80)ひきつけるところがないでもない。隆としたその風采なりふりを眺めたばかりでも、いかにこの新進の政事家が虚栄心の為に燃えて居るかを想起おもひおこさせる。角帯に纏ひつけた時計の鎖は富豪の身を飾ると同じやうなもの。それに指輪は二つまでめて、いづれも純金の色に光り輝いた。『何の為に尋ねて来たのだらう、この男は』とこう丑松は心に繰返して、対手の暗い秘密を自分の身に思比べた時は、長く目と目を見合せることもできない位。高柳は膝を進めて、『承りますれば御不幸が御ありなすつたさうですな。さぞ御力落しでいらつしやいませう』。『はい』と丑松は自分の手を眺めながら答へた。『飛んだ災難に遭遇であひまして、到頭阿爺おやぢくなりました』。『それはどうも御気の毒なことを』と言つて、急に高柳は思ひついたやうに、『むゝ、左様々々さう/\此頃こなひだも貴方と豊野の停車場ステーションで御一緒になつて、それから私が田中で下りる、貴方も御下りなさる。――左様でしたらう、ホラ貴方も田中で御下りなさる。丁度彼の時が御帰省の途中だつたんでせう。して見ると、貴方と私とは、往きも、還りも御一緒――はゝゝゝゝ。何かこうく/\の因縁いんねんづくとでも、まあ、申して見たいぢやありませんか』。

 丑松は答へなかつた。『そこです』と高柳は言葉に力を入れて、『御縁があると思へばこそ、こ
うして御話も申上げるのですが――実は、貴方の御心情につきましても、御察し申して居ることもありますし』。『え?』と丑松は対手あひての言葉をさへぎつた。『そりやあもう御察し申して居ることもありますし、又、私の方から言ひましても、は察して頂きたいと思ひまして、それで御邪魔に出ましたやうな訳なんで』。『どうも貴方のおつしやることは私に能く解りません』。『まあ、聞いて下さい――』。『ですけれど、どうも貴方の御話の意味が汲取れないんですから』。『そこを察して頂きたいと言ふのです』と言つて、高柳は一段声を低くして、『御聞及びでも御座ございませうが、私も――世話してくれるものがありまして――家内を迎へました。まあ、世の中には妙なことがあるもので、あの家内の奴が好く貴方を御知り申して居るのです』。『はゝゝゝゝ、奥様おくさんが私を御存じなんですか』と言つて丑松は調子を変へて、『しかし、それがどうしました』。『ですから私も御話に出ましたやうな訳なんで』。『と仰ると?』。『まあ、家内なぞの言ふことですから、何が何だか解りませんけれど――実際、女の話といふものは取留のないやうなものですからなあ――しかし、不思議なことには、彼奴あいつうちの遠い親類に当るものとかが、貴方の阿爺おとつさんと昔御懇意であつたとか』。う言つて、高柳は熱心に丑松の様子をうかゞふやうにして見て、『いや、其様そんなことは、まあどうでもいゝと致しまして、家内が貴方を御知り申して居ると言ひましたら、貴方だつても御聞流しにはできますまいし、私もまた私で、どうも不安心に思ふことがあるものですから――実は、昨晩は、その事を考へて、一睡も致しませんでした』。

 
暫時しばらく部屋の内には声がなかつた。二人は互ひにさぐりを入れるやうな目付して、無言のまゝで相対して居たのである。『あゝ』と高柳は投げるやうに嘆息した。『斯様こんな御話を申上げに参るといふのは、く/\だと思つて頂きたいのです。貴方より外に吾儕わたしども夫婦ふうふのことを知つてるものはなし、又、吾儕夫婦より外に貴方のことを知つてるものはありません――ですから、そこは御互ひ様に――まあ、瀬川さんそうぢやありませんか』と言つて、すこし調子を変へて、『御承知の通り、選挙も近いてまゐりました。どうしても此際こゝのところでは貴方に助けて頂かなければならない。もし私の言ふことを聞いて下さらないとすれば、私は今、こゝで貴方と刺しちがへて死にます――はゝゝゝゝ、まさか貴方の性命いのちを頂くとも申しませんがね、まあ、私はそれ程の決心で参つたのです』。
 (三)
 その時、楼梯はしごだんを上つて来る人の足音がしたので、急に高柳は口をつぐんでしまつた。『瀬川先生、御客様おきやくさんでやすよ』と呼ぶ袈裟治の声を聞きつけて、ついと丑松は座を離れた。唐紙を開けて見ると、もうそこへ友達が微笑みながら立つて居たのである。『おゝ、土屋君か』と思はず丑松は溜息を吐いた。銀之助は一寸高柳に会釈ゑしやくして、別にそう主客の様子を気に留めるでもなく、何か用事でもあるのだらう位に、例の早合点から独り定めに定めて、『昨夜君は帰つて来たさうだね』と慣々なれ/\しい調子で話し出した。相変らず快活なはこの人。それに遠からず今の勤務つとめめて、農科大学の助手として出掛けるといふ、その希望のぞみが胸の中にあふれるかして、血肥りのした顔の面は一層活々と輝いた。妙なもので、短く五分刈にして居る散髪頭がかへつて若い学者らしい威厳を加へたやうに見える。友達ながらに一段の難有ありがたみができた。丑松は何となく圧倒けおされるやうにも感じたのである。

 心の底から思ひやる深い真情を外に
流露あらはして、銀之助は弔辞くやみを述べた。高柳は煙草を燻し/\黙つて二人の談話はなしを聞いて居た。『留守中はいろ/\難有う』と丑松は自分で自分を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげますやうにして、『学校の方も君がやつてくれたさうだねえ』。『あゝ、どうにかかうにか間に合せておいた。二級懸持ちといふやつは巧くいかないものでねえ』と言つて、銀之助はしんから出たやうに笑つて、『時に、君はどうする』。『どうするとは?』。『親の忌服だもの、四週間位は休ませて貰ふサ』。『そうもいかない。学校の方だつて都合があらあね。第一、君が迷惑する』。『なに、僕の方は関はないよ』。『明日は月曜だねえ。かく明日は出掛けよう。それはさうと、土屋君、いよ/\君の希望のぞみも達したといふぢやないか。君からあの手紙を貰つた時は、実に嬉しかつた。彼様あんなに早く進行はかどらうとは思はなかつた』。『ふゝ、』と銀之助は思出し笑ひをして、『まあ、御蔭でうまくいつた』。『実際うまくいつたよ』と友達の成功をよろこぶ傍から、丑松は何か思ひついたやうにしをれて、『県庁の方からは最早もう辞令が下つたかね』。『いゝや、辞令はまだ。もつとも義務年限といふやつがあるんだから、ただめて行く訳にはいかない。そこは県庁でも余程斟酌しんしやくしてくれてね、百円足らずの金を納めろと言ふのさ』。『百円足らず?』。『よしんば在学中の費用を皆な出せと言はれたつて仕方がない。それ位のことで勘免かんべんしてくれたのは、実に難有い。早速阿爺おやぢの方へ請求ねだつてやつたら、阿爺も君、非常に喜んでね、自身で長野迄出掛けて来るさうだ。いづれ、その内には沙汰があるだらうと思ふよ。まあ、君とこうして飯山に居るのも、今月一ぱい位のものだ』。

 こう言つて銀之助は今更のやうに丑松の顔を眺めた。丑松は深い溜息を
いて居た。『別の話だが、』と銀之助は言葉をいで、『君の好な猪子先生――ホラ、あの先生が信州へ来てるさうだねえ。昨日僕は新聞で読んだ』。『新聞で?』。丑松の頬は燃え輝いたのである。『あゝ、信毎に出て居た。肺病だといふけれど、熾盛さかんな元気の人だねえ』と蓮太郎のうはさが出たので、急に高柳は鋭いひとみを銀之助の方へ注いだ。丑松は無言であつた。『穢多もなか/\馬鹿にならんよ』と銀之助は頓着なく、『まあ、思想かんがへから言へば、多少病的かも知れないが、しかし進んで戦ふの勇気には感服する。一体、肺病患者といふものは彼様あゝいふものか知らん。彼の先生の演説を聞くと、非常に打たれるさうだ』と言つて気を変へて、『まあ、瀬川君なぞは聞かない方がいゝよ――聞けばた病気がおこるにきまつてるから』。『馬鹿言ひたまへ』。『あはゝゝゝゝ』と銀之助は反返そりかへつて笑つた。

 
遽然にはかに丑松は黙つて了つた。丁度、喪心した人のやうに成つた。丁度、身体中の機関だうぐが一時に動作はたらきを止めて、こうして生きて居ることすら忘れたかのやうであつた。『どうしたんだらう、また瀬川君は――相変らず身体の具合でも悪いのかしら』とこう銀之助は自分で自分に言つて見た。やゝしばらく三人は無言の儘で相対して居た。『今日は僕は是で失敬する』と銀之助が言出した時は、丑松も我に帰つて、『まあ、いゝぢやないか』を繰返したのである。『いや、た来る』。銀之助は出て行つて了つた。
 (四)
 『只今たゞいま猪子といふ方の御話が出ましたが、』と高柳は巻煙草の灰を落しながら言つた。『あの、何ですか、瀬川さんはの方と御懇意でいらつしやるんですか』。『いゝえ』と丑松はすこし言淀いひよどんで、『別に、懇意でもありません』。『では、何か御関係が御ありなさるんですか。』。『何も関係はありません』。『左様さやうですか――』。『だつて関係のありやうがないぢやありませんか、懇意でも何でもない人に』。『そう仰れば、まあ、そんなものですけれど。はゝゝゝゝ。彼の方は市村君と御一緒のやうですから、どういふ御縁故か、もし貴方が御存じならば伺つて見たいと思ひまして』。『知りません、私は』。『市村といふ弁護士も、あれでなか/\食へない男なんです。彼様あんな立派なことを言つて居ましても、畢竟つまり猪子といふ人を抱きこんで、道具に使用つかふといふ腹に相違ないんです。彼の男が高尚らしいやうなことを言ふかと思ふと、私は噴飯ふきだしたくなる。そりやあもう、政事屋なんてものは皆なきたない商売人ですからなあ――まあ、その道のものでなければ、可厭いやな内幕もく解りますまいけれど』。こう言つて、高柳は嘆息して、『私とても、こうして何時まで政界に泳いで居る積りはないのです。一日も早く足を洗ひたいといふ考へではあるのです。如何いかんせん、素養はなし、貴方等あなたがたのやうに規則的な教育をけたではなし、それでこの生存競争の社会よのなかに立たうといふのですから、勢ひ常道を踏んでは居られなくなる。あるひは、貴方等の目から御覧になつたらば、吾儕わたしども事業しごと華麗はででせう。成る程表面うはべは華麗です。しかし、これほど表面が華麗で、裏面うらの悲惨な生涯は他にありませうか。あゝ、非常な財産があつて、道楽に政事でもやつて見ようといふ人は格別、吾儕のやうに政事熱に浮かされて、青年時代からその方へ飛込んで了つたものは、今となつて見ると最早もうどうすることもできません。第一、今日の政事家で政論に衣食するものが幾人いくたりありませう。実際吾儕わたしどもの内幕は御話にならない。まあ、斯様こんなことを申上げたら、嘘のやうだと思召すかも知れませんが、正直な御話が――代議士にでもして頂くよりほかに、さしあたり吾儕の食ふ道はないのです。はゝゝゝゝ。何と申したつて、事実は事実ですから情ない。もし私が今度の選挙に失敗すれば、最早につちもさつちもいかなくなる。どうしても此際こゝのところでは出るやうにして頂かなければならない。どうしても貴方に助けて頂かなければならない。それには先づ貴方に御縋おすがり申して、家内のことを世間の人に御話下さらないやうに。そのかはり、私もまた、貴方のことを――それ、そこは御相談で、御互様に言はないといふやうなことに――何卒どうか、まあ、私を救ふと思召おぼしめして、この話はなしを聞いて頂きたいのです。瀬川さん、これは私が一生の御願ひです』。

 急に高柳は白い毛布を離れて、畳の上へ手を突いた。丁度
哀憐あはれみをもとめる犬のやうに、丑松の前に平身低頭したのである。丑松はすこしあをざめて、『どうも左様さう貴方のやうに、独りで物をめてしまつては――』。『いや、是非とも私を助けると思召して』。『まあ、私の言ふことも聞いて下さい。どうも貴方の御話は私に合点がてんが行きません。だつて、そうぢやありますまいか。なにも貴方等あなたがたのことを私が世間の人に話す必要もないぢやありませんか。全く、私は貴方等と何の関係もない人間なんですから』。『でも御座ございませうが――』。『いえ、それでは困ります。何も私は貴方等を御助け申すやうなことはなし、私はまた、貴方らから助けて頂くやうなこともないのですから』。『では?』。『ではとは?』。『畢竟つまりそんならどうして下さるといふ御考へなんですか』。『どうするもうするもないぢやありませんか。貴方と私とは全く無関係。――はゝゝゝゝ、御話はそれだけです』。『無関係と仰ると?』。『これまでだつて、私は貴方のことについて、なんにも世間の人に話した覚はなし、これから将来さきだつても矢張やはり)その通り、何も話す必要はありません。一体、私は左様他人ひとのことを喋舌しやべるのが嫌ひです――まして、貴方とは今日始めて御目に懸つたばかりで――』。『そりやあ成る程、私のことを御話し下さる必要はないかも知れません。私も貴方のことを他人ひとに言ふ必要はないのです。必要はないのですが――どうもそれでは何となく物足りないやうな心地こゝろもちが致しまして。折角せつかく私もこうして出ましたものですから、十分に御意見を伺つた上で、御為になるものならなりたいと存じて居りますのです。実は――そうした方が、貴方の御為かとも』。『いや、御親切は誠に難有いですが、其様そんなにして頂く覚はないのですから』。『しかし、私がこうして御話に出ましたら、万更まんざら貴方だつて思当ることがなくも御座ございますまい』。『それが貴方の誤解です』。『誤解でせうか――誤解と仰ることができませうか』。『だつて、私はなんにも知らないんですから』。『まあ、そう仰ればそれ迄ですが――でも、何とか、そこのところは御相談のしやうがありさうなもの。悪いことは申しません。御互ひの身の為です。決して誰の為でもないのです。瀬川さん――いづれた私も御邪魔に伺ひますから、何卒どうかく考へて御置きなすつて下さい』。
 第拾四章(一)
 月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ずそこに閉籠とぢこもるのが癖。それは一日の事務の準備したくをする為でもあつたが、又一つには職員たちの不平と煙草の臭気にほひとを避ける為で。丁度その朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、やがてまた例の室に閉籠つた。

 この室の戸を
たゝくものがある。その音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつもこういふ風にして、校長は鍾愛きにいりの教員から、さま/″\の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、その他時間割と月給とに関する五月蠅うるさいほどのねたみと争ひとは、こゝに居て手に取るやうに解るのである。その朝もまた、何か新しい注進をもたらして来たのであらう、こう思ひながら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。

 いつの間にか二人は丑松の
うはさを始めた。『勝野君』と校長は声を低くして、『君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことについて新しい事実を発見したとか言つたね』。『はあ』と文平は微笑ほゝゑんで見せる。『どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから』。『だつて、校長先生、人の一生の名誉にかゝはるやうなことを、そう迂濶うくわつには喋舌しやべれないぢやありませんか』。『ホウ、一生の名誉に?』。『まあ、私の聞いたのが事実だとして、それがこの町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢやない、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことができなくなるかも知れません』。『へえ。――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛然まるで死刑を宣告されるも同じだ』。『づそう言つたやうなものでせうよ。もっとも、私が直接ぢかに突留めたといふ訳でもないのですが、種々いろ/\なことをあつめて考へて見ますと――ふふ』。『ふゝぢや解らないねえ。どんな新しい事実か、まあ話して聞かせてくれ給へ』。『しかし、校長先生、私から其様そんな話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します』。『何故なぜ?』。『何故ツて、そうぢやありませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから。――毛頭私は其様な野心がないんですから。――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのではないんですから』。『解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう。――それ、見たまへ』。文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。『では、勝野君、こういふことにしたらいゝでせう。我輩はその話を君から聞かない分にしておいたらいゝでせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせてくれ給へ』。

 こう言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か
私語さゝやいて聞かせた時は、見る/\校長も顔色を変へてしまつた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一歩ひとあし逡巡あとずさりした。『何を話して居たのだらう、の二人は』と丑松は猜疑深うたぐりぶかい目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。『校長先生、』と丑松は何気なく尋ねて見た。『どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら』。『左様さやう――生徒はだ集りませんか』と校長は懐中時計を取出して眺める。『どうも思ふやうに集りません。何を言つても、この雪ですから』。『しかし、最早もう時間は来ました。生徒の集る、集らないはかく、規則といふものが第一です。何卒どうぞ小使にそう言つて、鈴を鳴らさせて下さい』。
 (二)
 その朝ほど無思想な状態ありさまで居たことは、今迄丑松の経験にもないのであつた。実際その朝は半分眠りながら羽織袴を着けて来た。奥様が詰てくれた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿たどつた時も、多くの教員仲間から弔辞くやみを受けた時も、受持の高等四年生に取囲とりまかれて種々いろ/\なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠りながら話した。授業が始つてからも、時々眼前めのまへ事物ことがらに興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。その日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みになる度に、男女の生徒は四方から丑松に取縋とりすがつて、『先生、先生』と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んどその感覚がなかつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。

 銀之助が駈寄つて、『瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね』と言つたのは覚えて居るが、その他の話はすべて記憶に残らなかつた。
ういふ中にも、唯一つ、あの省吾にくれたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、『君にげようと思つてこういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。これは君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢやないんですよ――ね、これを君に呈げますから』と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾はこの贈物を受けなかつた。唯もう目をまるくして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。どうして斯様こんなものをくれるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。『いゝえ、私は沢山です』と省吾は幾度か辞退した。『其様そんな、君のやうな――』と丑松は省吾の顔を眺めて、『人がげるツて言ふものは、貰ふもんですよ』。『はい、難有う』と復た省吾は辞退した。『困るぢやないか、君、折角せつかく呈げようと思つてこうして持つて来たものを』。『でも、母さんに叱られやす』。『母さんに? 其様な馬鹿なことがあるもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父上おとつさんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種々いろ/\御世話になつて居るし、此頃こなひだから呈げよう/\と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのがありませう。あれですよ、この内に入つてるのは。まあ、君、其様そんなことを言はないで、これを家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見てくれたまへ』。こう言つて、それを省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾をそこに残しておいて、周章あわてゝ教室を出て了つた。
 (三)
 東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督にせはしい間に、校長と文平の二人はの静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚凭よりかゝながら話した。『一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね』と校長は尋ねて見た。『妙な人から聞いて来ました』と文平は笑つて、『実に妙な人から――』。『どうも我輩には見当がつかない』。『もっとも、人の名誉にも関はることだから、話だけはるが、名前を出してくれては困る、と先方さきの人も言ふんです。かく代議士にでもならうといふ位の人物ですから、其様な無責任なことを言ふはずもありません』。『代議士にでも?』。『ホラ』。『ぢやあ、あの新しい細君を連れて帰つて来た人ぢやありませんか』。『まあ、そこいらです』。『して見ると――はゝあ、あの先生が地方廻りでもして居る間に、何処かで其様な話を聞込んで来たものかしら。悪い事はできないものさねえ。いつか一度は露顕あらはれる時が来るから奇体さ』と言つて、校長は嘆息して、『しかし、驚ろいたねえ。瀬川君が穢多だなぞとは、夢にも思はなかつた』。『実際、私も意外でした』。『見給へ、容貌ようばうを。皮膚といひ、骨格といひ、別に其様な賤民らしいところがあるとも思はれないぢやないか』。『ですから世間の人がだまされて居たんでせう』。『左様ですかねえ。解らないものさねえ。一寸見たところでは、どうしても其様な風に受取れないがねえ』。『容貌ほど人を欺すものはありませんさ。そんなら、どうでせう、の性質は』。『性質だつても君、其様な判断は下せない』。『では、校長先生、彼の君の言ふことすことが貴方の眼には不思議にも映りませんか。く注意して、瀬川丑松といふ人を御覧なさい。――どうでせう、の物を視る猜疑深うたがひぶかい目付なぞは』。『はゝゝゝゝ、猜疑深いからと言つて、それが穢多の証拠には成らないやね』。『まあ、聞いて下さい。此頃迄こなひだまで瀬川君は鷹匠たかしやう町の下宿に居ましたらう。の下宿で穢多の大尽が放逐されましたらう。すると瀬川君は突然だしぬけに蓮華寺へ引越して了ひましたらう。――ホラ、をかしいぢやありませんか』。『それさ、それを我輩も思ふのさ』。『猪子蓮太郎との関係だつても左様さうでせう。彼様あんな病的な思想家ばかり難有ありがたく思はないだつて、他にいくらもありさうなものぢやありませんか。彼様な穢多の書いたものばかり特に大騒ぎしなくても好ささうなものぢやありませんか。どうも瀬川君が贔顧ひいきの仕方は普通の愛読者と少許すこし違ふぢやありませんか』。『そこだ』。『だ校長先生には御話しませんでしたが、小諸こもろ与良よらといふ町には私の叔父が住んで居ます。その町はづれに蛇堀川じやぼりがはといふ沙河すながはがありまして、橋を渡ると向町になる。――そこが所謂いはゆる穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。その苗字が、確か瀬川でしたツけ』。『成る程ねえ』。『今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞはなかつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村こぞつて瀬川となつたんぢやあるまいかと思ふんです』。『一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢやないでせう。小県ちひさがたの根津の人でせう』。『それがあてになりやしません――とにかく、瀬川とか高橋とかいふ苗字がの仲間に多いといふことは叔父から聞きました』。『そう言はれて見ると、我輩も思当ることがないでもない。しかしねえ、もしそれが事実だとすれば、今迄知れずに居る筈もなからうぢやないか。最早もうとつくに知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ』。『でせう――それそこが瀬川君です。今日こんにちまで人の目をくらまして来た位の智慧ちゑがあるんですもの、余程狡猾かうくわつの人間でなければの真似はて゜きやしません』。『あゝ』と校長は嘆息して了つた。『それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい/\と思つたよ――唯、訳もなしに、彼様あゝ考へ込むはずがないからねえ』。

 急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交りながら、一寸
是方こちらを振向いて見て行つた。『勝野君』と校長は丑松の姿を見送つて、『成程なるほど、君の言つた通りだ。ひとの一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることにようぢやないか』。『しかし、校長先生』と文平は力を入れて言つた。『この話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決してひとに言はないでおいて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから』。『無論さ』。
 (四)
 時間表によると、その日の最終をはりの課業が唱歌であつた。唱歌の教師は丑松から高等四年の生徒を受取つて、足拍子揃へさして、自分の教室の方へ導いて行つた。二時から三時まで、それだけは丑松も自由であつたので、ふと、蓮太郎のことが書いてあつたとかいふ昨日の銀之助の話を思出して、応接室を指して急いで行つた。いつもその机の上には新聞が置いてある。戸を開けて入つて見ると、信毎は一昨日の分も残つて、まだ綴込みもせずに散乱とりちらした儘。その読みふるしを開けた第二面の下のところに、彼の先輩のことを見つけた時は、どんなに丑松も胸を踊らせて、『むゝ――あつた、あつた』と驚き喜んだらう。『何処へ行つてこの新聞を読まう』。先づ心に浮んだはこうである。『の応接室で読まうか。人が来ると不可いけない。教室がいゝか。小使部屋が可か――否、彼処へも人が来ないとは限らない』と思ひ迷つて、新聞紙を懐に入れて、応接室を出た。『いつそ二階の講堂へ行つて読め』。こう考へて、丑松は二階へ通ふ階段を一階づゝ音のしないやうに上つた。

 そこは天長節の式場に用ひられた大広間、長い腰掛が順序よく置並べてあるばかり、
平素ふだんはもう森閑しんかんとしたもので、下手な教室の隅なぞよりは反つて安全な場処のやうに思はれた。とある腰掛をえらんで、懐から取出して読んで居るうちに、いつの間にか彼の高柳との間答――『懇意でもありません、関係はありません、何にも私は知りません』と三度迄も心を偽つて、師とも頼み恩人とも思ふ彼の蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のやうに言消して了つたことを思出した。『先生、許して下さい』。びるやうに言つて、やがた新聞を取上げた。

 
漠然ばくぜんとした恐怖おそれの情は絶えず丑松の心を刺激して、先輩についての記事を読みながらも、唯もう自分の一生のことばかり考へつゞけたのであつた。それからそれへと辿つて反省すると、丑松は今、容易ならぬ位置に立つて居るといふことを感ずる。さしかゝつたこの大きな問題を何とか為なければ――左様さうだ、何とか思想かんがへを纏めなければ、一切の他の事は手にも着かないやうに思はれた。『さて――奈何どうする』。こう自分で自分に尋ねた時は、丑松はもう茫然ばうぜんとしてしまつて、その答を考へることができなかつた。『瀬川君、何を君は御読みですか』と唐突だしぬけ背後うしろから声を掛けた人がある。思はず丑松は顔色を変へた。見れば校長で、何か穿鑿さぐりを入れるやうな目付して、何時の間にか腰掛のところへ来て佇立たゝずんで居た。『今――新聞を読んで居たところです』と丑松は何気ない様子を取装とりつくろつて言つた。『新聞を?』と校長は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『へえ、何か面白い記事ことでもありますかね』。『ナニ、何でもないんです』。

 
暫時しばらく二人は無言であつた。校長は窓の方へ行つて、玻璃越ガラスごしに空の模様をのぞいて見て、『瀬川君、奈何でせう、この御天気は』。『左様ですなあ――』。こういふ言葉を取交しながら、二人は一緒に講堂を出た。並んで階段を下りる間にも、何となく丑松は胸騒ぎがして、言ふに言はれぬ不快な心地こゝろもちになるのであつた。邪推かは知らないが、どうもの校長の態度しむけが変つた。妙に冷淡しら/″\しくなつた。いや、冷淡しいばかりではない、可厭いやに神経質な鼻でもつて、自分の隠して居る秘密を嗅ぐかのやうにも感ぜらるゝ。『や?』と猜疑深うたぐりぶかい心で先方さきの様子を推量して見ると、さあ、丑松はこの校長と一緒に並んで歩くことすら堪へ難い。どうかすると階段を下りる拍子に、二人の肩と肩とが触合すれあふこともある。つめた戦慄みぶるひは丑松の身体を通して流れ下るのであつた。

 小使が振鳴らす
最終をはりの鈴の音は、その時、校内に響き渡つた。そここゝの教室の戸を開けて、後から/\押して出て来る少年の群は、長い廊下に満ちあふれた。丑松は校長の側を離れて、急いでこの少年の群に交つた。やがて生徒は雪道の中を帰つて行つた。いづれも学問する児童こどもらしい顔付の殊勝さ。弁当箱を振廻して行くもあれば、風呂敷包を頭の上にせて行くもある。十露盤そろばん小脇にかゝへ、上草履提げ、口笛を吹くやら、唱歌を歌ふやら。呼ぶ声、叫ぶ声は、犬の鳴声に交つて、午後の空気に響いて騒しく聞える、中には下駄の鼻緒を切らして、素足で飛んで行く女の児もあつた。

 不安と恐怖との
おもひを抱きながら、丑松も生徒の後に随いて、学校の門を出た。うしてこの無邪気な少年の群を眺めるといふことが、既にもう丑松の身に取つては堪へがたい身の苦痛くるしみを感ずるなかだちともなるのである。『省吾さん、今御帰り?』。こう丑松は言葉を掛けた。『はあ』と省吾は笑つて、『わし後刻あとで蓮華寺へ行きやすよ、姉さんが来てもいゝと言ひやしたから』。『むゝ――今夜は御説教があるんでしたツけねえ』と思出したやうに言つた。暫時しばらく丑松は可懐なつかしさうに、駈出して行く省吾の後姿を見送りながら立つた。雪の大路の光景ありさまは、丁度、眼前めのまへひらけて、用事ありげな人々が往つたり来たりして居る。急に烈しい眩暈めまひおそはれて、丑松はそこへたふれかゝりさうになつた。その時、誰か背後うしろから追迫つて来て、自分をつかまへようとして、突然だしぬけに『やい、調里坊てうりツぱう』とでも言ふかのやうに思はれた。こう疑へば恐しくなつて、背後を振返つて見ずには居られなかつたのである――あゝ、誰が其様なところに居よう。丑松は自分をあざけつたり励ましたりした。




(私論.私見)