その6、破戒第11章、第12章 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.11.13日
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【破戒第拾壱章】 | |
第拾壱章(一) | |
『先づ好かつた』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩いて言つた。『先づまあ、で御関所は通り越した』。『あゝ、叔父さんは声が高い』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺めた。『声が高い?』。叔父は笑ひながら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声が誰に聞えるものかよ。それはそうと、丑松、へえ最早で安心だ。まで漕付ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気に寝られる』。 牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠の間には、その車の音がから/\と響き渡つて、随いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳もなく身を祝つて、顔の薄痘痕も喜悦の為に埋もれるかのやう。いふ思想が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。て、考深い目付を為て居る丑松を促して、昼仕度をするために急いだのである。 昼食の後、丑松は叔父と別れて、単独で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。も、一同で楽しい談話をするのは三時間しかなかつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎まで、その日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つてくれと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。元々友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟は弁護士の為に尽したいから。それは細君も万々承知。夫の気象として、そういふのは無理もない。しかしこの山の上で、夫の病気が重りでもしたら。こういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様、に御心配なく。猪子君は私が御預りしましたから』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。 先輩が可懐しければその細君までも可懐しい。こう思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢つた時からして、何となく人格の奥床しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞があるでもなく、そうかと言つて可厭に澄まして居るといふ風でもない――まあ、極く淡泊とした、物に拘泥しない気象の女と知れた。風俗なぞには関はない人で、から汽車に乗るといふのに、それ程身のまはりを取修ふでもない。男の見て居る前で、僅かに髪を撫でつけて、旅の手荷物もそこ/\に取収めた。あの『懴悔録』の中にこの人のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、もも普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁く迄のその二人の歴史を想像して見た。 汽車を待つ二三時間は速に経つた。左右するうちに、停車場さして出掛ける時が来た。流石弁護士は忙しい商売柄、一緒に門を出ようとるところを客に捕つて、立つて時計を見ながらの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら』。こう独語のやうに言つて、丑松も見送りながら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄は提げさせて貰ふ。なことが丑松の身に取つては、嬉しくも、名残り惜も思はれたので。 初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時、丑松は先輩と細君とがこういふ談話をするのを聞いた。『大丈夫だよ、そうお前のやうに心配しないでも』と蓮太郎は叱るやうに。『その大丈夫が大丈夫でないから困る』と細君は歩きながら嘆息した。『だつて、貴方は少許も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理をなさるか知れないんですもの。それに、この山の上の陽気。――まあ、私は考へて見たばかりでも怖しい』。『そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ』と蓮太郎は笑つて、『しかし、今年は暖和い。信州で斯様なことは珍しい。この位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、その証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか』。『でせう。大変に快く御成なすつたでせう。ですから猶々大切にして下さいと言ふんです。折角快くなりかけて、復た逆返しでもしたら』。『ふゝ、そう大事を取つて居た日にや、事業も何もできやしない』。『事業? 壮健になればいくらでも事業はできますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに』。『解らないねえ。だ其様なことを言つてる。どうしてまあ女といふものはそう解らないだらう。何程私が市村さんの御世話になつて居るか、お前だつてそれ位のことは考へさうなものぢやないか。その人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮のあるものなら、彼様なことの言へた義理ぢやなからう。彼様いふことを言出されると、折角是方で思つたことも無になつて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいこともある。今胸に浮んで居る思想を完成めて書かうといふには、是非とも自分でこの山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ』と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、『あゝ好い天気だ。全く小春日和だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家へ行つて待つて居てくれ、信州土産はしつかり持つて帰るから』。 二人は暫時無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの倉庫のあるところへ出て来た。『あゝ』と細君は萎れながら、『何故私が帰つて下さいなんて言出したか、その訳をまだ貴方に話さないんですから』。『ホウ、何か訳があるのかい』と蓮太郎は聞咎める。『外でもないんですけれど』と細君は思出したやうに震へて、『どうもねえ、昨夜の夢見が悪くて。――こう恐しく胸騒ぎがして。――。一晩中私は眠られませんでしたよ。何だか私は貴方のことが心配でならない。だつて、彼様な夢を見る筈がないんですもの。だつて、その夢が普通の夢ではないんですもの』。『つまらないことを言ふなあ。それで一緒に東京へ帰れと言ふのか。はゝゝゝゝ』と蓮太郎は快活らしく笑つた。『そう貴方のやうに言つたものでもありませんよ。未来の事を夢に見るといふ話は克くありますよ。どうも私は気になつて仕様がない』。『ちよツ、夢なんぞが宛になるものぢやなし』。『しかし。――奇異なことがあればあるものだ。まあ、貴方の死んだ夢を見るなんて』。『へん、御幣舁ぎめ』。 |
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(二) | |
不思議な問答をするとは思つたが、丑松はそれを聞いて、格別気にも懸けなかつた。彼程淡泊として、快濶た気象の細君でありながら、左様なことを気にるとは。まあ、あの夢といふ奴は児童の世界のやうなもので、時と場所の差別もなく、実に途方もないことを眼前に浮べて見せる。先輩の死――どうして其様な馬鹿らしいことが細君の夢に入つたものであらう。しかしそれを気にするところが女だ。とこう感じ易い異性の情緒を考へて、いつそ可笑しくも思はれた位。『女といふものは、多く彼様したものだ』と自分で自分に言つて見た時は、思はず彼の迷信深い蓮華寺の奥様を、それからあのお志保を思出すのであつた。 橋を渡つて、停車場近くへ出た。細君はすこし後になつた。丑松は左の手に持ち変へた鞄をまた/\右の手に移して、蓮太郎と別離の言葉を交しながら歩いた。『そんなら先生は』と丑松は名残惜しさうに聞いて見る。『いつ頃まで信州に居らつしやる御積りなんですか』。『僕ですか』と蓮太郎は微笑んで答へた。『そうですなあ。――すくなくとも市村君の選挙が済むまで。実はね、家内も彼様言ひますし、一旦は東京へ帰らうかとも思ひましたよ。ナニ、これが普通の選挙の場合なら、黙つて帰りますサ。どうせ僕なぞが居たところで、大した応援もできませんからねえ。まあ市村君の身になつて考へて見ると、先生は先生だけの覚悟があつて、候補者として立つのですから、誰を政敵にするのもその味は一つです。はゝゝゝゝ。しかし、市村君が勝つか、あの高柳利三郎が勝つか、といふことは、僕らの側から考へると、一寸普通の場合とは違ふかとも思はれる』。 丑松は黙つて随いて行つた。蓮太郎は何か思出したやうに、後から来る細君の方を振返つて見て、やがて復た歩き初める。『だつて、君、考へて見てくれたまへ。あの高柳の行為を考へて見てくれたまへ。あゝ、いくら吾儕が無智な卑賤しいものだからと言つて、蹈付けられるにも程がある。どうしても彼様な男に勝たせたくない。何卒して市村君のものにして遣りたい。高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地がなさ過ぎるからねえ』。『では、先生はなさる御積りなんですか』。『どうするとは?』。『黙つて帰ることができないと仰ると』。『ナニ、君、僅かに打撃を加へる迄のことさ。はゝゝゝゝ。なにしろ先方には六左衛門といふ金主が附いたのだから、いづれ買収もするだらうし、壮士的な運動も遣るだらう。そこへ行くと、是方は草鞋一足、舌一枚。――おもしろい、おもしろい、敵はたゞ金の力より外に頼りにするものがないのだからおもしろい。はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ』。『しかし、うまく行つてくれると好いですがなあ』。『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ』。 こういふ談話をして行くうちに、二人は上田停車場に着いた。上野行の上り汽車が是処を通る迄にはまだ少間があつた。多くの旅客は既にこの待合室に満ち溢れて居た。細君も直に一緒になつて、三人して弁護士を待受けた。蓮太郎は巻煙草を取出して、丑松に勧め、自分もまた火を点けて、それを燻し/\何を言出すかと思ふと、『いや、信州といふところは余程面白いところさ。吾儕のやうなものを斯様に待遇するところは他の国にはないね』と言ひさして、丑松の顔を眺め、細君の顔を眺め、それから旅客の群をも眺め廻しながら、「ねえ瀬川君、僕も御承知の通りな人間でせう。他の場合とは違つて選挙ですから、実は僕なぞの出る幕ではないと思つたのです。万一、選挙人の感情を害するやうなことがあつては、反つて藪蛇だ。そう思ふから、まあ演説は見合せにする考へだつたのです。ところが信州といふところは変つた国柄で、僕のやうなものに是非談話をしてくれなんて。――はあ、今夜は小諸で、市村君と一緒に演説会へ出ることにと言つて、思出したやうに笑つて、この上田で僕ら談話をした時には七百人から集りました。その聴衆が実に真面目に好く聞いてくれましたよ。長野に居た新聞記者の言草ではないが、『信州ほど演説の稽古をするに好い処はない、』。――全くその通りです。智識の慾に富んで居るのは、この山国の人の特色でせうね。これが他の国であつて見たまへ、まあ僕らのやうなものを相手にしてくれる人はありやしません。それが信州へ来れば『先生』ですからねえ。はゝゝゝゝ」。 細君は苦笑ひをしながら聞いて居た。やがて、切符を売出した。人々はぞろ/\動き出した。丁度そこへ弁護士、肥大な体躯を動りながら、満面に笑を含んで馳けつけて、挨拶する間もなく蓮太郎夫婦と一緒に埒の内へと急いだ。丑松も、入場切符を握つて、随いて入つた。四番の上りは二十分も後れたので、それを待つ旅客はプラットホオムの上に群つた。細君は大時計の下に腰掛けて茫然と眺め沈んで居る、弁護士は人々の間をあちこちと歩いて居る、丑松は蓮太郎の傍を離れないで、こうして別れる最後の時までも自分の真情を通じたいが胸中に満ち/\て居た。どうかすると、丑松は自分の日和下駄の歯で、乾いた土の上に何か画き初める。蓮太郎は柱に倚凭りながら、何の文字とも象徴とも解らないやうなものが土の上に画かれるのを眺め入つて居た。『大分汽車は後れましたね』といふ蓮太郎の言葉に気がついて、丑松は下駄の歯の痕を掻消して了つた。すこし離れての光景を眺めて居た中学生もあつたが、やがて他を向いて意味もなく笑ふのであつた。『あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処を伺つておきませう』。こう蓮太郎は尋ねた。『飯山は愛宕町の蓮華寺といふところへ引越しました』と丑松は答へる。『蓮華寺?』。『下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります』。『むゝ、そうですか。それから、はまあこれ限りの御話ですが』と蓮太郎は微笑んで、『ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません』。『飯山へ?』。丑松の目は急に輝いた。『はあ。――も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだなるか解りませんがね、し飯山へ出掛けるやうでしたら是非御訪ねしませう』。 その時、汽笛の音が起つた。見れば直江津の方角から、長い列車が黒烟を揚げて進んで来た。顔も衣服も垢染み汚れた駅夫の群は忙しさうに駈けて歩く。やがて駅長もあらはれた。汽車はもう人々の前に停つた。多くの乗客はいづれも窓に倚凭つて眺める。細君も、弁護士も、丑松に別離を告げて周章しく乗込んだ。『それぢや、君、失敬します』といふ言葉を残しておいて、蓮太郎も同じ室へ入る、直に駅夫が飛んで来てぴしやんとその戸を閉めて行つた。丑松の側に居た駅長が高く右の手を差上げて、相図の笛を吹鳴らしたかと思ふと、汽車はもう線路を滑り初めた。細君は窓から顔を差出して、もう一度丑松に挨拶したが、たゞさへ悪いその色艶が忘れることのできないほど蒼かつた。見る見る乗客の姿は動揺して、甲から乙へと影のやうに通過ぎる。丑松は喪心した人のやうになつて、長いこと同じところに樹ゑたやうに立つた。あゝ、先輩は行つて了つた、と思ひ浮べた頃は、もう汽車の形すら見えなかつたのである。後に残る白い雲のやうな煙の群、その一団一団の集合が低く地の上に這ふかと見て居ると、急に風に乱れて、散り/″\になつて、終に初冬の空へ掻消すやうに失くなつて了つた。 |
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(三) | |
何故人の真情はこう思ふやうに言ひ表すことのできないものであらう。その日といふその日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖と苦痛とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱きら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。 初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進で埒明けて、さて漸く疲労が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神の苦闘を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝る懊悩を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県の傾斜を彷徨つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼く田圃側なぞに霜枯れた雑草を蹈みながら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実に、自分には力がある。こう丑松は考へるのであつた。しかしその力は内部へ/\と閉塞つて了つて、衝いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返しながら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めてくれ、励ましてはくれる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。 ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度談話をするやうな調子で、さまざま慰藉を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂やら、文平の悪口やら、『僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた』とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨み罵り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところではないと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委ねることができるであらう。――まあ、喜んでくれ、といふ意味を書いてよこした。 功名を慕ふ情熱は、この友人の手紙を見ると同時に、烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途はない。さもなければ、長い/\十年の奉公。その義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでもない。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員になつたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたらする。まで行つても安心ができない。それよりは飯山あたりの田舎に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。その間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭ないのだ。こう嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくりその儘の見舞状、『根津にて、瀬川先生――風間省吾より』としてあつた。『猶々』とちひさく隅の方に、『蓮華寺の姉よりも宜敷』としてあつた。『姉よりも宜敷』と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。 |
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(四) | |
追憶の林檎畠――昔若木であつたのも今は太い幹となつて、中には僅かに性命を保つて居るやうな虫ばみ朽ちたのもある。見れば木立も枯れ/″\、細く長く垂れ下る枝と枝とは左右に込合つて、思ひ/\に延びて、いかにも初冬の風趣を顕して居た。その裸々とした幹の根元から、芽も籠る枝のわかれ、まだところ/″\に青み残つた力なげの霜葉まで、日につれて地に映る果樹の姿は丑松の足許にあつた。そここゝの樹の下に雄雌の鶏、土を浴びて静息として蹲踞つて居るのは、大方羽虫を振ふ為であらう。丁度この林檎畠を隔てゝ、向ふに草葺の屋根も見える――あゝ、お妻の生家だ。克く遊びに行つた家だ。薄煙青々とその土壁を泄れて立登るのは、何となく人懐しい思をさせるのであつた。『姉よりも宜敷』とまた繰返して、丑松は樹と樹の間をあちこちと歩いて見た。 楽しい思想は来て、いつの間にか、丑松の胸の中に宿つたのである。昔、昔、少年の丑松があの幼馴染のお妻と一緒に遊んだのは爰だ。互に人目を羞ぢらつて、輝く若葉の蔭に隠れたのは爰だ。互に初恋の私語を取交したのは爰だ。互に無邪気な情の為に燃えながら、唯もう夢中で彷徨つたのは爰だ。こういふ風に、過去つたことを思ひ浮べて居ると、お妻からお志保、お志保からお妻と、二人の俤は往つたり来たりする。別にあの二人は似て居るでもない。年齢も違ふ、性質も違ふ、容貌も違ふ。お妻を姉とも言へないし、お志保を妹とも思はれない。しかし一方のことを思出すと、きつと又た一方のことをも考へて居るのは不思議で――。 あゝ、穢多の悲嘆といふことさへなくば、これ程深く人懐しい思も起らなかつたであらう。これ程深く若い生命を惜むといふ気にもならなかつたであらう。これ程深く人の世の歓楽を慕ひあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるやうな、な切なさは知らなかつたであらう。あやしい運命に妨げられゝば妨げられる程、余計に丑松の胸は溢れるやうに感ぜられた。そうだ。――あのお妻は自分の素性を知らなかつたからこそ、昔一緒にこの林檎畠を彷徨つて、蜜のやうな言葉を取交しもしたのである。誰が卑賤しい穢多の子と知つて、その朱唇で笑つて見せるものがあらう。もしも自分のことが世に知れたら――こういふことは考へて見たばかりでも、実に悲しい、腹立たしい。懐しさは苦しさに交つて、丑松の心を掻乱すやうにした。思ひ耽つて樹の下を歩いて居ると、急に鶏の声が起つて、森閑とした畠の空気に響き渡つた。『姉よりも宜敷』ともう一度繰返して、それから丑松はの場処を出て行つた。 その晩はお志保のことを考へながら寝た。一度あつたことは二度あるもの。翌る晩もその又次の晩も、寝る前には必ず枕の上でお志保を思出すやうになつた。尤も朝になれば、そんなことは忘れ勝ちで、『して働かう、どうして生活しよう――自分はこれから将来奈何したら好からう』が日々心を悩ますのである。父の忌服は半ばこういふ煩悶のうちに過したので、さていよ/\『どうする』となつた時は、別にこれぞと言つて新しい途の開けるでもなかつた。四五日の間、丑松はうんと考へた積りであつた。しかし、後になつて見ると、唯もう茫然するやうなことばかり。つまり飯山へ帰つて、今迄通りの生活を続けるより外に方法もなかつたのである。あゝ、年は若し、経験は少し、身は貧しく、義務年限には縛られて居る――丑松は暗い前途を思ひやつて、やたらに激昂したり戦慄へたりした。 |
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第拾弐章(一) | |
二七日が済む、直に丑松は姫子沢を発つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋の用意をしてくれるやら、握飯は三つもあれば沢山だといふものを五つも造へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬を添へてくれた。お妻の父親もわざわざやつて来て、炉辺での昔語。煤けた古壁に懸かる例の『山猫』を見るにつけても、亡くなつた老牧夫の噂は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離の茶――その色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷の出口迄叔父に見送られて出た。 その日は灰色の雲が低く集つて、荒寥とした小県の谷間を一層暗欝にして見せた。烏帽子一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早雪が来て居たらう。昨日一日の凩で、急に枯々な木立も目につき、梢も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶するやうな信州の冬が、到頭やつて来た。人々は最早あの ![]() 田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度正午すこし過。叔母がくれた握飯は停車場前の休茶屋で出して食つた。空腹とは言ひながら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬にくれるは勿体なし、元の竹の皮に包んで外套の袖袋へ突込んだ。こうして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋の紐を〆直して出掛けた。その間凡そ一里許。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶とした千曲川の畔へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠ない。次の便船の出るまでで待つより外はない。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上り端に休んだ。 霙が落ちて来た。空はいよ/\暗澹として、一面の灰紫色に掩はれて了つた。こうして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体は蒸されるやう。襯衣の背中に着いたところは、びつしより熱い雫になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡れた髪の心地の悪さ。胸のあたりを掻展げて、少気息を抜いて、て濃い茶に乾いた咽喉を霑して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中には又茫然と懐手して人の談話を聞いて居るのもあつた。主婦は家の内でも手拭を冠り、藍染真綿を亀の甲のやうに着て、茶を出すやら、座蒲団を勧めるやら、金米糖は古い皿に入れて款待した。 丁度そこへ二台の人力車が停つた。矢張この霙を衝いて、便船に後れまいと急いで来た客らしい。人々の視線は皆なその方に集つた。車夫はまるで濡鼠、酒代が好いかして威勢よく、先づ雨被を取除して、それから手荷物のかず/\を茶屋の内へと持運ぶ。つゞいて客もあらはれた。 |
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(二) | |
丑松が驚いたのは無理もなかつた。それは高柳の一行であつた。往きに一緒になつて、帰りにもたの通り一緒になるとは――しかも、同じ川舟を待合はせるとは。それに往きには高柳一人であつたのが、帰りには若い細君らしい女と二人連。女は、薄色縮緬のお高祖を眉深に冠つたまゝ、丑松の腰掛けて居る側を通り過ぎた。新しい艶のある吾妻袍衣に身を包んだその嫋娜とした後姿を見ると、の女が誰であるかは直に読める。丑松はあの蓮太郎の話を想起して、いよ/\それが事実であつたのに驚いて了つた。 主婦に導かれて、二人はずつと奥の座敷へ通つた。そこには炬燵が有つて、先客一人、五十あまりの坊主、直に慣々しく声を掛けたところを見ると、かねて懇意の仲ででもあらう。て盛んな笑声が起る。丑松は素知らぬ顔、屋外の方へ向いて、物寂しい霙の空を眺めて居たが、いつの間にか後の方へ気を取られる。聞くとはなしについ聞耳を立てる。座敷の方では斯様な談話をして笑ふのであつた。『道理で――君は暫時見えないと思つた』と言ふは世慣れた坊主の声で、『私は又、選挙の方が忙しくて、それで地方廻りでもて居るのかと思つた。へえ、そうですかい、そんな御目出度ことゝは少許も知らなかつたねえ』。『いや、どうも忙しい思をして来ましたよ』。こう言つて笑ふ声を聞くと、高柳はさも得意で居るらしい。『それはまあ何よりだつた。失礼ながら、奥様は? 矢張東京の方からでも?』。『はあ』。この『はあ』が丑松を笑はせた。 談話の様子で見ると、高柳夫婦は東京の方へ廻つて、江の島、鎌倉あたりを見物して来て、是から飯山へ乗込むといふ寸法らしい。そこは抜目のない、細工の多い男だから、根津から直に引返すやうなことを為ないで、わざ/\遠廻りして帰つて来たものと見える。さて、坊主を捕へて、片腹痛いことを吹聴し始めた。聞いて居る丑松にはその心情の偽が読め過ぎるほど読めて、終にはそこに腰掛けても居られないやうになつた。『恐しい世の中だ』。――こう考へながら、あの夫婦の暗い秘密を自分の身に引比べると、さあ何となく気懸りでならない。やがて、故意と無頓着な様子を装つて、ぶらりと休茶屋の外へ出て眺めた。 霙は絶えず降りそゝいで居た。あの越後路から飯山あたりへかけて、毎年降る大雪の前駆が最早やつて来たかと思はせるやうな空模様。灰色の雲は対岸に添ひ徊徘つた、広濶とした千曲川の流域が一層遠く幽に見渡される。上高井の山脈、菅平の高原、その他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没れて了つて、僅かに見えつ隠れつして居た。 こうして茫然として、暫時千曲川の水を眺めて居たが、いつの間にか丑松の心は背後の方へ行つて了つた。幾度か丑松は振返つて二人の様子を見た。見まい/\と思ひながら、つい見た。丁度乗船の切符を売出したので、人々は皆な争つて買つた。間もなく船も出るといふ。混雑する旅人の群に紛れて、先方の二人もまた時々盗むやうに是方の様子を注意するらしい――まあ、思做の故かして、すくなくとも丑松にはそう酌れたのである。女の方で丑松を知つて居るか、どうか、それは克く解らないが、丑松の方では確かに知つて居る。髪のかたちこそ新婚の人のそれに結ひ変へては居るが、紛れのない六左衛門の娘、白いもの花やかに彩色して恥の面を塗り隠し、野心深い夫に倚添ひ、崖にある坂路をつたつて、舟に乗るべきところへ下りて行つた。『何と思つて居るだらう――あの二人は』。こう考へながら、丑松もまた人々の後に随いて、一緒にその崖を下りた。 |
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(三) | |
川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、舷から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた。やがて水を撃つ棹の音がした。舟底は砂の上を滑り始めた。今は二挺櫓で漕ぎ離れたのである。丑松は隅の方に両足を投出して、独り寂しさうに巻煙草を燻しら、深い/\思に沈んで居た。河の面に映る光線の反射は割合に窓の外を明くして、降りそゝぐ霙の眺めをおもしろく見せる。舷に触れて囁くやうに動揺する波の音、是方で思つたやうに聞える眠たい櫓のひゞき――あゝ静かな水の上だ。荒寥とした岸の楊柳もところ/″\。時としてはその冬木の姿を影のやうに見て進み、時としてはその枯々な枝の下を潜るやうにして通り抜けた。から将来の自分の生涯は畢竟なる。こう丑松は自分で自分に尋ねることもあつた。誰がそれを知らう。窓から首を出して飯山の空を眺めると、重く深く閉塞つた雪雲の色はうたゝ孤独な穢多の子の心を傷ましめる。残酷なやうな、可懐しいやうな、名のつけやうのない心地は丑松の胸の中を掻乱した。今――学校の連中はして居るだらう。友達の銀之助はどうして居るだらう。あの不幸な、老朽な敬之進はどうして居るだらう。蓮華寺の奥様は。お志保は。とふと、省吾から来た手紙の文句なぞを思出して見ると、逢ひたいと思ふその人に復た逢はれるといふ楽みがないでもない。丑松はあの寺の古壁を思ひやるごとに、空寂なうちにも血の湧くやうな心地に帰るのであつた。『蓮華寺――蓮華寺』と水に響く櫓の音も同じやうに調子を合せた。 霙は雪に変つて来た。徒然な舟の中は人々の雑談で持切つた。就中、高柳と一緒になつた坊主、茶にしたやうな口軽な調子で、柄にない政事上の取沙汰、酢の菎蒻のとやり出したので、聞く人は皆な笑ひ憎んだ。の坊主に言はせると、選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕は唯見物して楽めば好いのだと。この言葉を聞いて、また人々が笑へば、そこへ弥次馬が飛出す、その尾に随いて贔顧不贔顧の論が始まる。『いよ/\市村も侵入んで来るさうだ』と一人が言へば、『そう言ふ君こそ御先棒に使役はれるんぢやないか』と攪返すものがある。弁護士の名は幾度か繰返された。それを聞く度に、高柳は不快らしい顔付。ふゝむと鼻の先で笑つて、嘲つたやうに口唇を引歪めた。 こういふ他の談話の間にも、女は高柳の側に倚添つて、耳を澄まして、夫の機嫌を取りながら聞いて居た。見れば、美しい女の数にも入るべき人で、殊に華麗な新婚の風俗は多くの人の目を引いた。髪は丸髷に結ひ、てがらは深紅を懸け、桜色の肌理細やかに肥えあぶらづいて、愛嬌のある口元を笑ふ度に掩ひかくす様は、まだ世帯の苦労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕れて、熟と物を凝視めるやうな沈んだところもあつた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語くこともあつた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、『おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする』とこうその眼で言ふこともあつた。 同族の哀憐は、この美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りがなくば、あれ程の容姿を持ち、あれ程富有な家に生れて来たのであるから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様な野心家の餌なぞにならなくても済む人だ――可愛さうに。こう考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうもそこが気懸りでならない。よしんば先方で自分を知つて居るとしたところで、それが奈何した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取つて一向恐れるところはない。恐れるとすれば、それは反つて先方のことだ。こう自分で答へて見た。第一、自分は四五年以来、数へる程しか故郷へ帰らなかつた――卒業した時に一度――それから今度の帰省が足掛三年目――まあ、あの向町なぞはなるべく避けて通らなかつたし、通つたところで他が左様注意して見る筈もなし、見たところで何処のものだか解らない――大丈夫。こう用心深く考へても見た。畢竟自分が二人の暗い秘密を聞知つたから、それでこう気が咎めるのであらう。彼様して私語くのは何でもないのであらう。避けるやうな素振は唯人目を羞ぢるのであらう。あの目付も。とはいふものゝ、何となく不安に思ふその懸念が絶えず心の底にあつた。丑松は高柳夫婦を見ないやうにと勉めた。 |
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(四) | |
千曲川の瀬に乗つて下ること五里。も、その間には、ところ/″\の舟場へも漕ぎ寄せ、洪水のある度に流れるといふ粗造な船橋の下をも潜り抜けなどして、そんなこんなで手間取れた為に、凡そ三時間は舟旅に費つた。飯山へ着いたのは五時近い頃。その日は舟の都合で、乗客一同上の渡しまで。丑松は人々と一緒に其処から岸へ上つた。見れば雪は河原にも、船橋の上にも在つた。丁度小降のなかを暮れて、仄白く雪の町々。そこにも、こゝにも、最早ちら/\灯が点く。その時蓮華寺で撞く鐘の音が黄昏の空に響き渡る――あゝ、庄馬鹿が撞くのだ。相変らず例の鐘楼に上つて冬の一日の暮れたことを報せるのであらう。とそれを聞けば、言ふに言はれぬ可懐しさが湧上つて来る。丑松は久し振りで飯山の地を踏むやうな心地がした。 半月ばかり見ないうちに、家々は最早冬籠の用意、軒丈ほどの高さに毎年作りつける粗末な葦簾の雪がこひが悉皆上つて居た。越後路と同じやうな雪国の光景は丑松の眼前に展けたのである。新町の通りへ出ると、一筋暗く踏みつけた町中の雪道を用事ありげな男女が往つたり来たりして居た。いづれもの夕暮を急ぐ人々ばかり。丑松は右へ避け、左へ避けして、愛宕町をさして急いで行かうとすると、途中で一人の少年に出逢つた。近いて見ると、それは省吾で、何かこう酒の罎のやうなものを提げて、寒さうに慄へらやつて来た。『あれ、瀬川先生』と省吾は嬉しさうに馳寄つて、『まあ、魂消た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ』。好く言つてくれた。この無邪気な少年の驚喜した顔付を眺めると、丑松は最早あのお志保に逢ふやうな心地がしたのである。『君は――お使かね』。『はあ』と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せながら、笑つた。 果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。『此頃は御手紙を難有う』。こう丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。『父さん?』と省吾は寂しさうに笑つて、『あの、父さんは家に居りやすよ』。よく/\言ひ様に窮つたと見えて、こう答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合はその顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿いて居なかつた。こうして酒の罎を提げて悄然として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡想像がつく。『家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷言つて下さい』と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。 |
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(五) | |
宵の勤行も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄来るうちに、もう悉皆雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。それと見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治は塵払を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏の上り框に腰掛けながら、雪の草鞋を解いた後、温暖い洗ぎ湯の中へ足を浸した時のその丑松の心地は奈何であつたらう。唯――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉思ふにつけても、丑松は心にこう考へて、何となくその人の居ないのが物足りなかつた。 その時、白衣に袈裟を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家に仏事があつて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。 夕飯は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲いて、旅の疲労を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。その晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程左様言はれて見ると、その人の平常衣らしい。亀甲綛の書生羽織に、縞の唐桟を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢の色の紅梅を見るやうなは八口のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層お志保を可懐しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。 さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗め谷川の水を飲んで烏帽子ヶ嶽の麓に彷徨ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場のことを話した。その小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中、あの可憐な美しい穢多の女の身の上については、決して一語も口外しなかつた。 こうして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想を起すやうになつた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克く聞いて居てくれるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでもないところで『え?』なんて聞き直して、何かこう話を聞きながら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対をして居るのだと感づいた。終には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見した。しばらく丑松は茫然として、穴の開くほど奥様の顔を熟視つたのである。克く見れば、奥様は両方の ![]() て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈を点けて来てくれた。お志保はまだ帰らなかつた。『したんだらう、まあ彼の奥様の様子は』。こう胸の中で繰返しながら、丑松は暗い楼梯を上つた。その晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反つて能く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程心に描いて見ても、明瞭にその人が浮んだためしはない。どうかすると、お妻と混同になつて出て来ることもある。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、どこを捜して見ても、何となくそこにその人が居るとは思はれながら、それでどうしても統一が着かない。時としては彼のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇にあらはれる若々しい微笑を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然したものはない。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然とその人を思ひ浮べることができなかつた。 |
(私論.私見)