その5、破戒第九章、第十章 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.11.13日
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【破戒第九章】 | |
第九章(一) | |
一軒、根津の塚窪といふところに、だ会葬の礼に泄れた家があつて、丁度序だからと、丑松は途中で蓮太郎と別れた。蓮太郎は旅舎へ。直に後から行く約束して、丑松は畠中の裏道を辿つた。塚窪の坂の下まで行くと、とある農家の前に一人の飴屋、面白可笑しく唐人笛を吹立てゝ、幼稚い客を呼集めて居る。御得意と見えて、声を揚げて飛んで来る男女の少年もあつた――彼処からも、是処からも。あゝ、少年の空想を誘ふやうな飴屋の笛の調子は、どんなに頑是ないものゝ耳を楽ませるであらう。いや、買ひに集る子供ばかりではない、丑松ですら思はず立止つて聞いた。妙な癖で、その笛を聞く度に、丑松は自分の少年時代を思出さずに居られないのである。 何を隠さう。丑松が今指して行く塚窪の家には、幼馴染が嫁いて居る。お妻といふのがその女の名である。お妻の生家は姫子沢に在つて、林檎畠一つ隔てゝ、丑松の家の隣に住んだ。丑松がお妻と遊んだのは、九歳になる頃で、まだ瀬川の一家族が移住して来て間もない当時のことであつた。元々お妻の父といふは、上田の在から養子に来た男、根が苦労人ではあり、他所者でもあり、するところからして、自然と瀬川の家にも後見となつてくれた。それに、丑松を贔顧にして、伊勢詣に出掛けた帰途なぞには、必ず何か買つて来てくれるといふ風であつた。こういふ隣同志の家の子供が、互ひに遊友達となつたは不思議でも何でもない。のみならず、二人は丁度同い年であつたのである。 楽しい追憶の情は、唐人笛の音を聞くと同時に、丑松の胸の中に湧上つて来た。朦朧ながら丑松は幼いお妻の俤を忘れずに居る。はじめて自分の眼に映つた少女の愛らしさを忘れずに居る。あの林檎畠が花ざかりの頃は、その枝の低く垂下つたところを彷徨つて、互ひに無邪気な初恋の私語を取交したことを忘れずに居る。僅かに九歳の昔、まだ夢のやうなお伽話の時代――他のことは多く記憶にも残らない程であるが、彼の無垢な情緒ばかりは忘れずに居る。も、幼い二人の交際は長く続かなかつた。丑松はお妻の兄と親しくするやうになつて、それぎり最早お妻とは遊ばなかつた。 お妻がの塚窪へ嫁いて来たは、十六の春のこと。夫といふのも丑松が小学校時代の友達で、年齢は三人同じであつた。田舎の習慣とは言ひながら、殊に彼の夫婦は早く結婚した。まだ丑松が師範校の窓の下で歴史や語学の研究に余念もない頃に、もう彼の若い夫婦は幼いものに絡ひつかれ、朝に晩に『父さん、母さん』と呼ばれて居たのであつた。 ういふ過去の歴史を繰返したり、胸を踊らせたりして、丑松は坂を上つて行つた。山の方から溢れて来る根津川の支流は、清く、浅く、家々の前を奔り流れて居る。路傍の栗の梢なぞ、早や、枯れ/″\。柿も一葉を留めない程。水草ばかりは未だ青々として、根を浸すありさまも心地よく見られる。冬籠の用意に多忙しい頃で、人々はいづれも流のところに集つて居た。余念もなく蕪菜を洗ふ女の群の中に、手拭に日を避け、白い手をあらはし、甲斐々々しく働く襷掛けの一人――声を掛けて見ると、それがお妻で、丑松はこの幼馴染の様子の変つたのに驚いて了つた。お妻もまた驚いたやうであつた。 その日はお妻の夫も舅も留守で、家に居るのは唯姑ばかり。五人も子供があると聞いたが、年嵩なのが見えないは、大方遊びにでも行つたものであらう。五歳ばかりを頭に、三人の女の児は母親に倚添つて、恥かしがつて碌に御辞儀もしなかつた。珍しさうに客の顔を眺めるもあり、母親の蔭に隠れるもあり、漸く歩むばかりの末の児は、見慣れぬ丑松を怖れたものか、軈てしく/\やり出すのであつた。この光景に、姑も笑へば、お妻も笑つて、『まあ、可笑しな児だよ、この児は』と乳房を出して見せる。それを咬へて、泣吃逆をしら、密と丑松の方を振向いて見て居る児童の様子も愛らしかつた。 話好きな姑は一人で喋舌つた。お妻は茶を入れて丑松を款待して居たが、流石に思出したこともあると見えて、『そいつても、まあ、丑松さんの大きく御成なすつたこと』と言つて、客の顔を眺めた時は、思はず紅くなつた。会葬の礼を述べた後、丑松はそこ/\にしてこの家を出た。姑と一緒に、お妻もた門口に出て、客の後姿を見送るといふ様子。今更のやうに丑松は自他の変遷を考へて、塚窪の坂を上つて行つた。彼の世帯染みた、心の好ささうな、やら床しいところのあるお妻は――まあ、忘れずに居るその俤に比べて見ると、全く別の人のやうな心地もする。自分と同い年で、しかも五人子持――あれが幼馴染のお妻であつたかしらん、と時々立止つて嘆息した。 こういふ追懐の情は、とは言へ、深く丑松の心を傷けた。平素もう疑惧の念を抱いて苦痛の為に刺激き廻されて居る自分の今に思ひ比べると、あの少年の昔の楽しかつたことは。噫、何にも自分のことを知らないで、愛らしい少女と一緒に林檎畠を彷徨つたやうな、楽しい時代は往つて了つた。もう一度丑松はそういふ時代の心地に帰りたいと思つた。もう一度丑松は自分が穢多であるといふことを忘れて見たいと思つた。もう一度丑松は彼の少年の昔と同じやうに、自由に、現世の歓楽の香を嗅いで見たいと思つた。こう考へると、切ない慾望は胸を衝いて春の潮のやうに湧き上る。穢多としての悲しい絶望、愛といふ楽しい思想、そんなこんなが一緒に交つて、若い生命を一層美しくして見せた。終には、あの蓮華寺のお志保のことまでも思ひやつた。活々とした情の為に燃えながら、丑松は蓮太郎の旅舎を指して急いだのである。 |
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(二) | |
御泊宿、吉田屋、と軒行燈に記してあるは、流石に古い街道の名残。諸国商人の往来もすくなく、昔の宿はいづれも農家となつて、今はこの根津村に二三軒しか旅籠屋らしいものが残つて居ない。吉田屋はその一つ、兎角商売も休み勝ち、客間で秋蚕飼ふ程の時世と変りはてた。とは言ひながら、寂れた中にも風情のあるは田舎の古い旅舎で、門口に豆を乾並べ、庭では鶏も鳴き、水を舁いで風呂場へ通ふ男の腰付もをかしいもの。炉で焚く『ぼや』の火は盛んに燃え上つて、無邪気な笑声がその周囲に起るのであつた。 『そうだ――例のことを話さう』と丑松は自分で自分に言つた。吉田屋の門口へ入つた時は、その思想が復た胸の中を往来したのである。案内されて奥の方の座敷へ通ると、蓮太郎一人で、弁護士はまだ帰らなかつた。額、唐紙、すべて昔の風を残して、古びた室内の光景とは言ひながら、談話をるには至極静かで好かつた。火鉢に炭を加へ、その側に座蒲団を敷いて、相対になつた時の心地は珍敷くもあり、嬉くもあり、蓮太郎が手づから入れてくれる茶の味は又格別に思はれたのである。その時丑松は日頃愛読する先輩の著述を数へて、始めて手にしたのが彼の大作、『現代の思潮と下層社会』であつたことを話した。『貧しきものゝなぐさめ』、『労働』、『平凡なる人』、とり/″\に面白く味つたことを話した。丑松は又、『懴悔録』の広告を見つけた時の喜悦から、飯山の雑誌屋で一冊を買取つて、それを抱いて内容を想像しながら下宿へ帰つた時の心地、読み耽つて心に深い感動を受けたこと、社会といふものゝ威力を知つたこと、さてはその著述に顕はれた思想の新しく思はれたことなぞを話した。 蓮太郎の喜悦は一通りでなかつた。やがて風呂が湧いたといふ案内をうけて、二人して一緒に入りに行つた時も、蓮太郎はそれを胸に浮べて、かねて知己とは思つて居たが、こう迄自分の書いたものを読んでくれるとは思はなかつたと、丑松の熱心を頼母しく考へて居たらしいのである。病が病だから、蓮太郎の方では遠慮する気味で、其様なことで迷惑を掛けたくない、と健康なものゝ知らない心配は絶えず様子に表はれる。こうなると丑松の方では反つて気の毒になつて、病の為に先輩を恐れるといふ心は何処へか行つて了つた。話せば話すほど、哀憐は恐怖に変つたのである。 風呂場の窓の外には、石を越して流下る水の声もおもしろく聞えた。透き澄るばかりの沸し湯に身体を浸し温めて、しばらく清流の響に耳を嬲らせるその楽しさ。夕暮近い日の光は窓からさし入つて、蒸し烟る風呂場の内を朦朧として見せた。一ぱい浴びて流しのところへ出た蓮太郎は、湯気に包まれて燃えるかのやう。丑松も紅くなつて、顔を伝ふ汗の熱さに暫時世の煩ひを忘れた。『先生、一つ流しませう』と丑松は小桶を擁へて蓮太郎の背後へ廻る。『え、流して下さる?』と蓮太郎は嬉しさうに、『ぢやあ、願ひませうか。まあ君、ざつと遣つてくれたまへ』。こうして丑松は、日頃慕つて居るその人に近いて、いふ風に考へ、どういふ風に言ひ、どういふ風に行ふかと、すこしでも蓮太郎の平生を見るのが楽しいといふ様子であつた。急に二人は親密を増したやうな心地もしたのである。 『さあ、今度は僕の番だ』と蓮太郎は湯を汲出して言つた。幾度か丑松は辞退して見た。『いえ、私は沢山です。昨日入つたばかりですから』と復た辞退した。『昨日は昨日、今日は今日さ』と蓮太郎は笑つて、『まあ、そう遠慮しないで、僕にも一つ流させてくれたまへ』。『恐れ入りましたなあ』。『どうです、瀬川君、僕の三助もなか/\巧いものでせう。――はゝゝゝゝ』と戯れて、やがて蓮太郎はそこに在る石鹸を溶いて丑松の背中へつけて遣りながら、『僕がまだ長野に居る時分、丁度修学旅行があつて、生徒と一緒に上州の方へ出掛けたことがありましたツけ。まだ覚えて居るが、彼の時の投票は、僕がそれ大食家さ。しかし大食家と言はれる位に、彼の頃は壮健でしたよ。それからの僕の生涯は、実に種々なことがありましたねえ。克くまあ僕のやうな人間がこうして今日迄生きながらへて来たやうなものさ』。『先生、もう沢山です』。『何だねえ、今始めたばかりぢやないか。まだ、君、垢が些少も落ちやしない』と蓮太郎は丁寧に丑松の背中を洗つて、終に小桶の中の温い湯を掛けてやつた。遣ひ捨ての湯水は石鹸の泡に交つて、白くゆるく板敷の上を流れて行つた。 『君だから斯様なことを御話するんだが、』と蓮太郎は思出したやうに、『僕は仲間のことを考へる度に、実に情ないといふ心地を起さずには居られない。御恥しい話だが、思想の世界といふものは、まだ僕らの仲間には開けて居ないのだね。僕があの師範校を出た頃には、それを考へて、随分暗い月日を送つたこともありましたよ。病気になつたのも、実はその結果さ。しかし病気の為に、反つて僕は救はれた。それから君、考へてばかり居ないで、働くといふ気になつた。ホラ、君の読んで下すつたといふ「現代の思潮と下層社会」。――あれを書く頃なぞは、健康だといふ日は一日もない位だつた。まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、あゝ猪子といふ男は斯様なものを書いたかと、見てくれるやうな時があつたら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。むゝ、その踏台さ――それが僕の生涯でもあり、又希望でもあるのだから』。 |
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(三) | |
言はう/\と思ひながら、何かこう引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏の煙に交つて、この座敷までも甘さうに通つて来た。 蓮太郎は鞄の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、て高柳のことを言出す。『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね』。『どうも不思議だとは思ひましたよ』と丑松は笑つて、『妙に是方を避けるといふやうな風でしたから』。『そこがそれ、心に疚しいところのある証拠さ』。『今考へても、彼の外套で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです』。『はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことはできないものさ』と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加も讐敵のやうに仲の悪いとかいふ男からこの話が泄れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論先方では知るまいが、確に是方では後姿を見届けたとのことであつた。 『実に驚くぢやないか』と蓮太郎は嘆息した。『瀬川君、君はまあ思ふね、彼の男の心地を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定あの男は平気な顔して結婚の披露をするだらうから。――何処か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工へるから。――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから』。 こういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠は焼きたての香を放つて、空腹で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺と白との腹、その鮮しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能く付かないのもあつた。いづれも肥え膏づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後に様子を窺ふのも可笑しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。『さあ、先生、つけませう』と丑松は飯櫃を引取つて、気の出るやつを盛り始めた。『どうも済みません。各自勝手にやることにしようぢやありませんか。まあ、こうして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ』と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離の好い鮠の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。 『あゝ』と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、『どうも当世紳士の豪いには驚いて了ふ。――金といふものゝ為なら、なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いてくれたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的に結婚する気になるなんて。――あんまり根性が見え透いて浅猿しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、その娘を貰ふのに何の不思議がある、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当ぢやないか。――こう言ふかも知れない。それならそれで可さ。階級を打破して迄も、気に入つた女を貰ふ位の心意気があるなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々と祝言なぞをするんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似をするんだらう。苟くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひながら、その人の生涯を見ればだらう。誰やらの言草ではないが、全然紳士の面を冠つた小人の遣方だ。――情ないぢやないか。成る程世間には、金になることなら何でもやる、買手があるなら自分の一生でも売る、こういふ量見の人はいくらもあるさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷しい。まあ、君、僕らの側に立つて考へて見てくれたまへ。これ程新平民といふものを侮辱した話はなからう』。 暫時二人は言葉を交さないで食つた。やがてまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、『彼男も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘をくれたところで何が面白からう。から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でもなからう。虚栄心にも程があるさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ』。こう言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤り思に沈むといふ様子であつた。聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。も、病のある人ででもなければ、彼様は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々その言葉に交つて聞えたので。 |
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(四) | |
到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩きながら、自分で自分に尋ねて見る。亡父の言葉もあるから――叔父も彼様忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄れた以上は、それが何時誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つてはくれまい、こういふことになると、それこそ最早回復がつかない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたくない、これ迄も普通の人間で通つて来た、から将来とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから。 種々弁解を考へて見た。しかし、こういふ弁解は、いづれも後から造へて押つけたことで、それだから言へなかつたとはどうしても思はれない。残念ながら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白けるのではない。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、も自分と同じ新平民の、その人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。『どうしても言はないのは虚偽だ』と丑松は心に羞ぢたり悲んだりした。 そればかりではない。勇み立つ青春の意気もた丑松の心に強い刺激を与へた。譬へば、丑松は雪霜の下に萌える若草である。春待つ心はありながらも、猜疑と恐怖とに閉ぢられて了つて、内部の生命は発達ることができなかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路ではあるまいか。こう若々しい生命が丑松を励ますのであつた。 『よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開けて了はう』と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。その晩はお妻の父親がやつて来て、遅くまで炉辺で話した。叔父は蓮太郎のことについて別に深く掘つて聞かうともしなかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、こういふ問を掛けた。『丑松。――お前は今日の御客様に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ』と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、『誰が其様なことを言ふもんですか』と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉ではないのであつた。 寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前を通る。その人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯つた清しい眸、物言ふ毎にあらはれる皓歯、直に紅くなる頬――その真情の外部に輝き溢れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤を描いて居たのである。もこの幻影は長く後まで残らなかつた。払暁になると最早忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。 |
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第拾章(一) | |
いよ苦痛の重荷を下す時が来た。丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷けた種牛が上田の屠牛場へ送られる朝のこと。叔父も、丑松もその立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上もない好い機会。復た逢はれるのは何時のことやら覚束ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりになつた時に。――こう考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。 上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。『先生、これが私の叔父です』と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦みら、『丑松の奴がいろ/\御世話様になりますさうで。――昨日はまた御出下すつたさうでしたが、生憎と留守にいたしやして』。こういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡くなつた人の弔辞を述べた。四人は早く発つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿つて行つた時は、遠近に鶏の鳴き交す声も聞える。その日は春先のやうに温暖で、路傍の枯草も蘇生るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜の梢も遠く深く烟るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交しながら歩いた。就中、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取つたのである。 東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少連に後れた。次第に道路は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうになつた。白い光を帯びながら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先にあたる村落も形を顕して、草葺の屋根からは煙の立ち登る光景も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊の多い歩き難い道を彼様して徒歩つても可のかしらん、と丑松はそれを案じつゞけて、時々蓮太郎を待合せては、一緒に遅く歩くやうにしたが、まあ素人目で眺めたところでは格別気息の切れるでもないらしい。漸く安心して、て話し/\行く連の二人の後姿は、と見るとその時は凡そ一町程も離れたらう。急に日があたつて、湿つた道路も輝き初めた。温和に快暢い朝の光は小県の野に満ち溢れて来た。 あゝ、告白けるなら、今だ。丑松に言はせると、自分は決して一生の戒を破るのではない。がし世間の人に話すといふ場合ででもあつたら、それこそ今迄の苦心も水の泡であらう。唯この人だけに告白けるのだ。親兄弟に話すも同じことだ。一向差支がない。こう自分で自分に弁解いて見た。丑松も思慮のない男ではなし、彼程堅い父の言葉を忘れて了つて、好んで死地に陥るやうな、な愚な真似をる積りはなかつたのである。『隠せ』といふ厳粛な声は、その時、心の底の方で聞えた。急に冷い戦慄が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇はずには居られなかつた。『先生、先生』と口の中で呼んで、どうそれを切出したものかと悶いて居ると、何か目に見えない力が背後に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。『忘れるな』とまた心の底の方で。 |
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(二) | |
『瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ』と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。『時に、大分後れましたよ。ですか、少急がうぢやありませんか』。こう言はれて、丑松もその後に随いて急いだ。間もなく二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれだ先輩と二人ぎりになる時はあるであらう、とそれを丑松は頼みに思ふのである。 日は次第に高くなつた。空は濃く青く透き澄るやうになつた。南の方に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖い光の為に蒸されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気も心地が好い。浅々と萌初めた麦畠は、両側に連つて、に春待つ心の烈しさを思はせたらう。こうして眺め/\行く間にも、四人の眼に映る田舎が四色であつたのはをかしかつた。弁護士は小作人と地主との争闘を、蓮太郎は労働者の苦痛と慰藉とを、叔父は『えご』、『山牛蒡』、『天王草』、又は『水沢瀉』等の雑草に苦しめられる耕作の経験から、収穫に関係の深い土質の比較、さては上州地方の平野に住む農夫に比べてこの山の上の人々の粗懶な習慣なぞを――流石に三人の話は、生活といふことを離れなかつたが、同じ田舎を心に描いても、丑松のは若々しい思想から割出して、働くばかりが田舎ではないと言つたやうな風に観察する。こういふ思ひ/\の話に身が入つて、四人は疲労を忘れながら上田の町へ入つた。 上田には弁護士の出張所も設けてある。そこには蓮太郎の細君が根津から帰る夫を待受けて居たので。蓮太郎と弁護士とは、一寸立寄つて用事を済ました上、また屠牛場で一緒になるといふことにしよう、その種牛の最後をも見よう――こういふ約束で別れた。丑松は叔父と連立つて一歩先へ出掛けた。屠牛場近く行けば行く程、亡くなつた牧夫のことが烈しく二人の胸に浮んで来た。二人の話はその追懐で持切つた。他人が居なければ遠慮も要らず、今は何を話さうと好自由である。『なあ、丑松』と叔父は歩きながら嘆息して、『へえ、もう今日で六日目だぞよ。兄貴が亡くなる、お前がやつて来る。葬式を出す、御苦労招びから、礼廻りと、丁度今日で六日目だ。あゝ、明日は最早初七日だ。日数の早く経つには魂消て了ふ。兄貴に別れたのは、ついまだ昨日のやうにしか思はれねえがなあ』。 丑松は黙つて考へながら随いて行つた。叔父は言葉を継いで、『真実に世の中は思ふやうに行かねえものさ。兄貴も、これから楽をしようといふところで、彼様な災難に罹るなんて。まあ、金を遺すぢやなし、名を遺すぢやなし、一生苦労をしつゞけて、その苦労が誰の為かと言へば――畢竟、お前や俺の為だ。俺も若え時は、克く兄貴と喧嘩して、擲られたり、泣かせられたりしたものだが、今となつて考へて見ると、親兄弟程難有いものはねえぞよ。仮令世界中の人が見放しても、親兄弟は捨てねえからなあ。兄貴を忘れちやならねえと言ふのは――そこだはサ』。 暫時二人は無言で歩いた。『忘れるなよ』と叔父は復た初めた。『何程まあ兄貴もお前の為に心配して居たものだか。ある時、俺に、「丑松も今が一番危え時だ。こうして山の中で考へたと、世間へ出て見たとは違ふから、そこを俺が思つてやる。なか/\他人の中へ突出されて、内兜を見透かされねえやうに遂行げるのは容易ぢやねえ。何卒してうまく行つてくれゝば可が――下手に学問なぞをして、つまらねえ思想を起さなければ可が――まあ、三十になつて見ねえ内は、安心ができねえ」とこういふから、「なあに、大丈夫――丑松のことなら俺が保証する」と言つてやつたよ。すると、兄貴は首を振つて、「どうも不可もので、親の悪いところばかり子に伝はる。丑松も用心深いのは好が、しかし又、あんまり用心深過ぎて反つて疑はれるやうな事ができやすまいか」としきりにそれを言ふ。その時俺が、「そう心配した日には際限がねえ」と笑つたことサ。はゝゝゝゝ』と思出したやうに慾のない声で笑つて、やがて気を変へて、『しかし、能くまあ、お前もこれ迄に漕つけて来た。最早大丈夫だ。全くお前にはそれ丈の徳が具はつて居るのだ。なにしろ用心するに越したことはねえぞよ。な先生だらうが、同じ身分の人だらうが、決して気は許せねえ――そりやあ、もう、他人と親兄弟とは違ふからなあ。あゝ、兄貴の生きてる時分には、牧場から下つて来る、俺や婆さんの顔を見る、直にお前の噂だつた。もう兄貴は居ねえ。これからは俺と婆さんと二人ぎりで、お前の噂をして楽むんだ。考へて見てくれよ、俺も子はなしサ――お前より外に便りにするものはねえのだから』。 |
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(三) | |
例の種牛は朝のうちに屠牛場へ送られた。種牛の持主は早くから詰掛けて、叔父と丑松とを待受けて居た。二人は、空車引いて馳けて行く肉屋の丁稚の後に随いて、やがて屠牛場の前迄行くと、門の外に持主、先づ見るより、克く来てくれたを言ひ継ける。心から老牧夫の最後を傷むといふ情合は、この持主の顔色に表れるのであつた。『いえ』と叔父は対手の言葉を遮つて、『全く是方の不注意から起つた事なんで、貴方を恨みる筋は些少もごはせん』とそれを言へば、先方は猶々痛み入る様子。『私はへえ、面目なくて、こうして貴方等に合せる顔もないのでやす。――まあ畜生のたことだからせえて(せえては、しての訛、農夫の間に用ゐられる)、御災難と思つて絶念めて下さるやうに』とかへす/″\言ふ。は上田の町はづれ、太郎山の麓に迫つて、新しく建てられた五棟ばかりの平屋。鋭い目付の犬は五六匹門外に集つて来て、頻に二人の臭気を嗅いで見たり、低声に![]() 持主に導かれて、二人は黒い門を入つた。内に庭を隔てゝ、北は検査室、東が屠殺の小屋である。年の頃五十余のでつぷり肥つた男が人々の指図をして居たが、その老練な、愛嬌のある物の言振で、屠手の頭といふことは知れた。屠手としてここに使役はれて居る壮丁は十人計り、いづれ紛ひのない新平民――殊に卑賤しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印が押当てゝあると言つてもよい。中には下層の新平民に克くある愚鈍な目付をら是方を振返るもあり、中には畏縮た、兢々とした様子して盗むやうに客を眺めるもある。目鋭い叔父は直にと看て取つて、一寸右の肘で丑松を小衝いて見た。どうして丑松も平気で居られよう。叔父の肘が触るか触らないに、その暗号は電気のやうに通じた。幸ひ案じた程でもないらしいので、漸と安心して、それから二人は他の談話の仲間に入つた。 繋留場には、種牛の外に、二頭の牡牛も繋いであつて、丁度死刑を宣告された罪人が牢獄の内に押籠められたと同じやうに、一刻々々と近いて行く性命の終を翹望んで居た。丑松は今、叔父や持主と一緒に、繋留場の柵の前に立つたのである。持主の言草ではないが、『畜生のしたこと』と思へば、別に腹が立つの何のといふ其様な心地にはならないかはりに、可傷しい父の最後、牧場の草の上に流れた血潮――堪へがたい追憶の情は丑松の胸に浮んで来たのである。見れば他のは佐渡牛といふ種類で、一頭は黒く、一頭は赤く、人間の食慾を満すより外には最早生きながらへる価値もない程に痩せて、その憔悴しさ。それに比べると、種牛は体格も大きく、骨組も偉しく、黒毛艶々として美しい雑種。持主は柵の横木を隔てゝ、その鼻面を撫でゝ見たり、咽喉の下を摩つてやつたりして、『わりや(汝は)飛んでもねえことをしてくれたなあ。何も俺だつて、好んでな処へ貴様を引張つて来た訳ぢやねえ――これといふのも自業自得だ。――そう思つて絶念めろよ』。 吾児に因果でも言含めるやうに掻口説いて、今更別離を惜むといふ様子。『それ、こゝに居なさるのが瀬川さんの子息さんだ。御詑をしな。御詑をしな。われ(汝)のやうな畜生だつて、万更霊魂のねえものでもあるめえ。まあ俺の言ふことを好く覚えておいて、次の生には一層気の利いたものに生れ変つて来い』。こう言ひ聞かせて、て持主は牛の来歴を二人に語つた。現に今、多くを飼養して居るが、に勝る血統のものは一頭もない。父牛は亜米利加産、母牛は斯々、悪い癖さへなくば西乃入牧場の名牛とも唄はれたであらうに、と言出して嘆息した。持主は又附加して、種牛の肉の売代を分けて、亡くなつた牧夫の追善に供へたいから、せめてそれで仏の心を慰めてくれといふことを話した。 その時獣医が入つて来て、鳥打帽を冠つた儘、人々に挨拶する。つゞいて、牛肉屋の亭主も入つて来たは、屠された後の肉を買取る為であらう。間もなく蓮太郎、弁護士の二人も、叔父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。『むゝ、彼が御話のあつた種牛ですね』と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。 いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆なその方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎と制へて、声を ![]() ![]() ![]() |
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(四) | |
日の光はの小屋の内へ射入つて、死んでそこに倒れた種牛と、多忙しさうに立働く人々の白い上被とを照した。屠手の頭は鋭い出刃庖丁を振つて、先づ牛の咽喉を割く。尾を牽くものは直に尾を捨て、細引を持つものは細引を捨てゝ、いづれも牛の上に登つた。多勢の壮丁が力に任せ、所嫌はず踏付けるので、血潮は割かれた咽喉を通して紅く板敷の上へ流れた。咽喉から腹、腹から足、と次第に黒い毛皮が剥取られる。膏と血との臭気はこの屠牛場に満ち溢れて来た。 他の二頭の佐渡牛が小屋の内へ引入れられて、撃ち殺されたのは間もなくであつた。この可傷しい光景を見るにつけても、丑松の胸に浮ぶは亡くなつた父のことで。丑松は考深い目付をら、父の死を想ひつゞけて居ると、やがて種牛の毛皮も悉皆剥取られ、角も撃ち落され、脂肪に包まれた肉身からは湯気のやうな息の蒸上るさまも見えた。屠手の頭は手も庖丁も紅く血潮に交れながら、あちこちと小屋の内を廻つて指揮する。そこには竹箒で牛の膏を掃いて居るものがあり、こゝには砥石を出して出刃を磨いで居るものもあつた。赤い佐渡牛は引割と言つて、腰骨を左右に切開かれ、その骨と骨との間へ横木を入れられて、逆方に高く釣るし上げられることになつた。 『そら、巻くぜ』と一人の屠手は天井にある滑車を見上げながら言つた。見る/\小屋の中央には、巨大な牡牛の肉身が釣るされて懸つた。叔父も、蓮太郎も、弁護士も、互に顔を見合せて居た。一人の屠手は鋸を取出した、脊髄を二つに引割り始めたのである。回向するやうな持主の目は種牛から離れなかつた。種牛は最早足さへも切離された。牧場の草踏散らした双叉の蹄も、今は小屋から土間の方へ投出された。灰紫色の膜に掩はれた臓腑は、丁度斯う大風呂敷の包のやうに、べろ/\した儘でそこに置いてある。三人の屠手は互に庖丁を入れて、骨に添ふて肉を切開くのであつた。 烈しい追憶は、復た/\丑松の胸中を往来し始めた。『忘れるな』――あゝ、その熱い臨終の呼吸は、どんなに深い響となつて、生残る丑松の骨の膸までも貫徹るだらう。それを考へる度に、亡くなつた父が丑松の胸中に復活るのである。急にその時、心の底の方で声がして、丑松を呼び警めるやうに聞えた。『丑松、貴様は親を捨てる気か』とその声は自分を責めるやうに聞えた。『貴様は親を捨てる気か』と丑松は自分で自分に繰返して見た。成る程、自分は変つた。成る程、一にも二にも父の言葉に服従して、それを器械的に遵奉するやうな、其様な児童ではなくなつて来た。成る程、自分の胸の底は父ばかり住む世界ではなくなつて来た。成る程、父の厳しい性格を考へる度に、自分は反つて反対な方へ逸出して行つて、自由自在に泣いたり笑つたりしたいやうな、其様な思想を持つやうになつた。あゝ、世の無情を憤る先輩の心地と、世に随へと教へる父の心地と――その二人の相違はであらう。こう考へて、丑松は自分の行く道路に迷つたのである。 気がついて我に帰つた時は、蓮太郎が自分の傍に立つて居た。いつの間にか巡査も入つて来て、獣医と一緒になつて眺めて居た。見れば種牛は股から胴へかけて四つの肉塊に切断られるところ。右の前足の股の肉は、既に天井から垂下る細引に釣るされて、海綿を持つた一人の屠手が頻とその血を拭ふのであつた。こうして巨大な種牛の肉体は実に無造作に屠られて了つたのである。屠手の頭が印判を取出して、それぞれの肉の上へ押して居るかと見るうちに、一方では引取りに来た牛肉屋の丁稚、編席敷いた箱を車の上に載せて、威勢よく小屋の内へがら/\と引きこんだ。『十二貫五百』といふ声は小屋の隅の方に起つた。『十一貫七百』とまた。 屠られた種牛の肉は、今、大きな秤に懸けられるのである、屠手の一人が目方を読み上げる度に、牛肉屋の亭主は鉛筆を舐めて、それを手帳へ書留めた。やがてその日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未だ釣るされた儘で、黄な膏と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。その時は最早あの可傷しい回想の断片といふ感想も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。 |
(私論.私見)