その12、破戒第23章 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.11.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「破戒第四章、第五章、第六章」を確認する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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第弐拾参章(一) | |
いよ/\出発の日が来た。払暁頃から霙が降出して、扇屋に集る人々の胸には寂しい旅の思を添へるのであつた。一台の橇は朝早く扇屋の前で停つた。下りた客は厚羅紗の外套で深く身を包んだ紳士風の人、橇曳に案内させて、弁護士に面会を求める。『おゝ、大日向が来た』と弁護士は出て迎へた。大日向は約束を違へずやつて来たので、薄暗いうちに下高井を発つたといふ。上れと言はれても上りもせず、たゞ上り框のところへ腰掛けたで、弁護士から法律上の智慧を借りた。用談を済し、蓮太郎への弔意を述べ、てそこそこにして行かうとする。その時、弁護士は丑松のことを語り聞せて、『まあ、上るさ――猪子君の細君も居るし、それに今話した瀬川君も一緒だから、是非逢つてやつてくれたまへ。なところに腰掛けて居たんぢや、緩々談話もできないぢやないか』と強ひるやうに言つた。しかし大日向は苦笑するばかり。奈何に薦められても、決して上らうとはしない。いづれ近い内に東京へ出向くから、猪子の家を尋ねよう。その折丑松にも逢はう。左様いふ気心の知れた人なら双方の好都合。委しいことは出京の上で。と飽迄も言ひ張る。『其様に今日は御急ぎかね』。『いえ、ナニ、急ぎといふ訳でもありませんが――』。こういふ談話の様子で、弁護士は大日向の顔に表れる片意地な苦痛を看て取つた。『では、こうしてくれ給へ』と弁護士は考へた。上の渡しを渡ると休み茶屋がある。彼処で一同待合せて、今朝発つ人を送る約束。多分丑松の親友も行つて居る筈。一歩先へ出掛けて待つて居てくれないか。丑松を紹介したいから。と呉々も言ふ。『むゝ、そんなら御待ち申しませう』。こう約束して、とう/\大日向は上らずに行つて了つた。『大日向も思出したと見えるなあ』と弁護士は独語のやうに言つて、旅の仕度に多忙しい未亡人や丑松に話して笑つた。 蓮華寺の庄馬鹿もやつて来た。奥様からの使と言つて、餞別のしるしに物なぞをくれた。別に草鞋一足、雪の爪掛一つ、それは庄馬鹿が手製りにしたもので、ほんの志ばかりに納めてくれといふ。その時丑松は彼の寺住を思出して、何となくこの人にも名残が惜まれたのである。過去つたことを考へると、一緒に蔵裏の内に居た人の生涯は皆な変つた。住職も変つた。奥様も変つた。お志保も変つた。自分もまた変つた。独り変らないのは、馬鹿々々と呼ばれるこの人ばかり。こう丑松は考へながら、この何時迄も児童のやうな、親戚もなければ妻子もないといふ鐘楼の番人に長の別離を告げた。 省吾も来た。手荷物があらば持たしてくれと言ひ入れる。間もなく一台の橇の用意もできた。遺骨を納めた白木造りの箱は、白い布で巻いた上をまた黒で包んで、なるべく人目に着かないやうにした。橇の上には、の遺骨の外に、蓮太郎が形見のかず/\、その他丑松の手荷物なぞを載せた。世間への遠慮から、未亡人と丑松とは上の渡し迄歩いて、対岸の休み茶屋で別に二台の橇を傭ふことにして、やがて一同『御機嫌克う』の声に送られながら扇屋を出た。 霙は蕭々降りそゝいで居た。橇曳は饅頭笠を冠り、刺子の手袋、盲目縞の股引といふ風俗で、一人は梶棒、一人は後押になつて、互に呼吸を合せら曳いた。『ホウ、ヨウ』の掛声も起る。丑松は人々と一緒に、先輩の遺骨の後に随いて、雪の上を滑る橇の響を聞きながら、静かに自分の一生を考へ/\歩いた。猜疑、恐怖――あゝ、あゝ、二六時中忘れることのできなかつた苦痛は僅かに胸を離れたのである。今は鳥のやうに自由だ。どんなに丑松は冷い十二月の朝の空気を呼吸して、漸く重荷を下したやうなその蘇生の思に帰つたであらう。譬へば、海上の長旅を終つて、陸に上つた時の水夫の心地は、土に接吻する程の可懐しさを感ずるとやら。丑松の情は丁度それだ。いや、それよりも一層歓しかつた、一層哀しかつた。踏む度にさく/\と音のする雪の上は、確実に自分の世界のやうに思はれて来た。 |
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(二) | |
上の渡しの方へ曲らうとする町の角で、一同はお志保に出逢つた。丁度お志保は音作を連れて、留守は音作の女房に頼んでおいて、見送りの為にそこに待合せて居たところ。丑松とお志保――実にこの二人の歓会は傍で観る人の心にすら深い/\感動を与へたのであつた。冠つて居る帽子を無造作に脱いで、お志保の前に黙礼したは、丑松。清しい、とはいへ涙に霑れた眸をあげて、丑松の顔を熟視つたは、お志保。仮令口唇にいかなる言葉があつても、その時の互の情緒を表すことはできなかつたであらう。こうして現世に生きながらへるといふことすら、既にもう不思議な運命の力としか思はれなかつた。まして、様々な境涯を通過して、復た逢ふ迄の長い別離を告げる為に、互に可懐しい顔と顔とを合せることができようとは。 丑松の紹介で、お志保は始めて未亡人と弁護士とを知つた。女同志は直に一緒になつて、言葉を交しながら歩き初めた。音作も、丑松と弁護士との談話仲間に入つて、敬之進の容体などを語り聞せる。正直な、樸訥な、農夫らしい調子で、主人思ひの音作が風間の家のことを言出した時は、弁護士も丑松も耳を傾けた。音作の言ふには、もしも病人に万一のことがあつたら一切は自分で引受けよう、そのかはりお志保と省吾の身の上を頼む――まあ、自分も子はなし、主人の許しはあるし、するからして、あのお末を貰受けて、形見と思つて育ふ積りであると話した。 上の渡しの長い船橋を越えて対岸の休み茶屋に着いたは間もなくであつた。そこには銀之助が早くから待受けて居た。例の下高井の大尽も出て迎へる。弁護士が丑松に紹介したの大日向といふ人は、見たところ余り価値のなささうな――丁度田舎の漢方医者とでも言つたやうな、平凡な容貌で、これが亜米利加の『テキサス』あたりへ渡つて新事業を起さうとする人物とは、いかにしても受取れなかつたのである。しかし、言葉を交して居るうちに、次第に丑松はこの人の堅実な、引締つた、どうやら底の知れないところもある性質を感得くやうになつた。大日向は『テキサス』にあるといふ日本村のことを丑松に語り聞せた。北佐久の地方から出て遠くその日本村へ渡つた人々のことを語り聞せた。一人、相応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業した青年も、矢張その渡航者の群に交つたことなぞを語り聞せた。『へえ、左様でしたか』と大日向は鷹匠町の宿のことを言出して笑つた。『貴方も彼処の家に泊つておいででしたか。いや、彼時は酷い熱湯を浴せかけられましたよ。実は、私も、彼様いふ目に逢はせられたもんですから、それが深因で今度の事業を思立つたやうな訳なんです。今でこそこうして笑つて御話するやうなものゝ、どうして彼時は――全く、残念に思ひましたからなあ』。 盛んな笑声は腰掛けて居る人々の間に起つた。その時、大日向は飛んだところで述懐を始めたと心付いて、苦々しさうに笑つて、丑松と一緒にそこへ腰掛けた。『かみさん――それでは先刻のものを茲へ出して下さい』と銀之助は指図する。『お見立』と言つて、別離の酒をこの江畔の休み茶屋で酌交すのは、送る人も、送られる人も、共に/\長く忘れまいと思つたことであつたらう。銀之助はその朝の亭主役、早くから来てそれ/″\の用意、万事無造作な書生流儀が反つて熱い情を忍ばせたのである。『いろ/\君には御世話になつた』と丑松は感慨に堪へないといふ調子で言つた。『それは御互ひサ』と銀之助は笑つて、『しかし、こうして君を送らうとは、僕も思ひがけなかつたよ。送別会なぞをして貰つた僕の方が反つて君よりは後になつた。はゝゝゝゝ――人の一生といふ奴は実際解らないものさね』。『いづれた東京で逢はう』と丑松は熱心に友達の顔を眺める。『あゝ、その内に僕も出掛ける。さあ何もないが一盃飲んでくれ給へ』と言つて、銀之助は振返つて見て、『お志保さん、済みませんが、一つ御酌して下さいませんか』。お志保は酒瓶を持添へて勧めた。歓喜と哀傷とが一緒になつて小な胸の中を往来するといふことは、その白い、優しい手の慄へるのを見ても知れた。『貴方も一つ御上りなすつて下さい』と銀之助は可羞しがるお志保の手から無理やりに酒瓶を受取つて、かはりに盃を勧めながら、『さあ、僕が御酌しませう』。『いえ、私は頂けません』とお志保は盃を押隠すやうにする。『そりや不可』と大日向は笑ひながら言葉を添へた。『こういふ時には召上るものです。真似でもなんでも好う御座んすから、一つ御受けなすつて下さい』。『ほんのしるしでサ』と弁護士も横から。『何卒、それでは、少許頂かせて下さい』と言つて、お志保は飲む真似をして、紅くなつた。 |
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(三) | |
次第に高等四年の生徒が集つて来た。その日の出発を聞伝へて、せめて見送りしたいといふ可憐な心根から、いづれも丑松を慕つてやつて来たのである。丑松は頬の紅い少年と少年との間をあちこちと歩いて、別離の言葉を交換したり、ある時は一つところに佇立つて、から将来のことを話して聞せたり、ある時は又た霙の降るなかを出て、枯々な岸の柳の下に立つて、船橋を渡つて来る生徒の一群を待ち眺めたりした。 蓮華寺で撞く鐘の音が起つた。第二の鐘はまた冬の日の寂寞を破つて、千曲川の水に響き渡つた。軈てその音が波うつやうに、次第に拡つて、遠くなつて、終に霙の空に消えて行く頃、更に第三の音が震動へるやうに起る――第四――第五。あゝ庄馬鹿は今あの鐘楼に上つて撞き鳴らすのであらう。それは丑松の為に長い別離を告げるやうにも、白々と明初めた一生のあけぼのを報せるやうにも聞える。深い、森厳な音響に胸を打たれて、思はず丑松は首を垂れた。第六――第七。詞のない声は聞くものゝ胸から胸へ伝つた。送る人も、送られる人も、暫時無言の思を取交したのである。 やがて橇の用意もできたといふ。丑松は根津村に居る叔父夫婦のことを銀之助に話して、嘸あの二人も心配して居るであらう、もし自分の噂が姫子沢へ伝つたら、その為に叔父夫婦はな迷惑を蒙るかも知れない、ひよつとしたら彼村には居られなくなる――したものだらう。こう言出した。『その時はまたその時さ』と銀之助は考へて、『万事大日向さんに頼んで見給へ。もし叔父さんが根津に居られないやうだつたら、下高井の方へでも引越して行くさ。もうこうなつた以上は、心配したつて仕方がない――なあに、君、どうにか方法は着くよ』。『では、その話をしておいてくれ給へな』。『宜しい』。こう引受けて貰ひ、それから例の『懴悔録』はいづれ東京へ着いた上、新本を求めて、お志保のところへ送り届けることにしよう、と約束して、て丑松は未亡人と一緒に見送りの人々へ別離を告げた。弁護士、大日向、音作、銀之助、その他生徒の群はいづれも三台の橇の周囲に集つた。お志保は蒼ざめて、省吾の肩に取縋りながら見送つた。『さあ、押せ、押せ』と生徒の一人は手を揚げて言つた。『先生、そこまで御供しやせう』とまた一人の生徒は橇の後押棒に掴つた。いざ、出掛けようとするところへ、準教員が霙の中を飛んで来て、生徒一同に用があるといふ。何事かと、未亡人も、丑松も振返つて見た。蓮太郎の遺骨を載せた橇を先頭に、三台の橇曳は一旦入れた力を復た緩めて、手持無沙汰にそこへ佇立んだのであつた。 |
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(四) | |
『それ位のことは許してくれたつても好ささうなものぢやないか』と銀之助は準教員の前に立つて言つた。『だつて君、考へて見給へ。生徒が自分達の先生を慕つて、そこまで見送りに随いて行かうと言ふんだらう。少年の情としては美しいところぢやないか。寧ろ賞めてやつて好いことだ。それを学校の方から止めるなんて――第一、君が間違つてる。な使に来るのが間違つてる』。『そう君のやうに言つても困るよ』と準教員は頭を掻きながら、『何も僕が不可と言つた訳ではあるまいし』。『それなら何故学校で不可と言ふのかね』と銀之助は肩を動つた。『届けもしないで、無断で休むといふ法はない。休むなら、休むで、許可を得て、それから見送りに行け。――こう校長先生が言ふのさ』。『後で届けたら好からう』。『後で? 後では届にならないやね。校長先生はもう非常に怒つてるんだ。勝野君はまた勝野君で、どうも彼組の生徒は狡猾くて不可、こういふことが度々重ると学校の威信に関る、生徒として規則を守らないやうなものは休校させろ。――まあこう言ふのさ』。『左様器械的に物を考へなくつても好からう。何ぞと言ふと、校長先生や勝野君は、直に規則、規則だ。半日位休ませたつて、何だ。――差支はないぢやないか。一体、自分達の方から進んで生徒を許すのが至当だ。まあ勧めるやうにしてよこすのが至当だ。もも一緒に仕事をした交誼があつて見れば、自分達が生徒を連れて見送りに来なけりやならない。ところが自分達は来ない、生徒も不可、無断で見送りに行くものは罰するなんて。――な無法なことがあるもんか』。 銀之助は事情を知らないのである。昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、その時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らないでき事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑――世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。 あまり銀之助が激するので、丑松は一旦橇を下りた。『まあ、土屋君、好加減にしたら好からう。使に来たものだつて困るぢやないか』と丑松は宥めるやうに言つた。『しかし、あんまり解らないからさ』と銀之助は聞入れる気色もなかつた。『そんなら僕の時を考へて見給へ。あの時の送別会は半日以上かゝつた。僕の為に課業を休んでくれる位なら、瀬川君の為に休むのは猶更のことだ』と言つて、生徒の方へ向いて、『行け、行け――僕が引受けた。それで悪かつたら、僕が後で談判してやる』。『行け、行け』とある生徒は手を振りながら叫んだ。『それでは、君、僕が困るよ』と丑松は銀之助を押止めて、『送つてくれるといふ志は有難いがね、その為に生徒に迷惑を掛けるやうでは、僕だつてあまり心地が好くない。もうで沢山だ――わざ/\ここ迄来てくれたんだから、それでもう僕には沢山だ。何卒、君、生徒をで返してくれ給へ』。こう言つて、名残を惜む生徒にも同じ意味の言葉を繰返して、やがて丑松は橇に乗らうとした。『御機嫌よう』。それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であつた。 蕭条とした岸の柳の枯枝を経てゝ、飯山の町の眺望は右側に展けて居た。対岸に並び接く家々の屋根、ところ/″\に高い寺院の建築物、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽かに白く見渡される。天気の好い日には、の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇は雪の上を滑り始めた。 (明治三十九年三月)
底本:「現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)」筑摩書房 1968(昭和43)年10月5日初版第1刷発行 初出:「破戒」緑蔭叢書第壱編、島崎春樹(自費出版) 1906(明治39)年3月25日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:野口英司 校正:伊藤時也 2006年10月22日作成 2007年2月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
(私論.私見)