その10、破戒第19章、第20章 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.11.13日
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【破戒第拾九章】 | |
第拾九章(一) | |
この大雪を衝いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、の風説に驚かされて、今更のやうに防禦を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻に行はれる。壮士の一群は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘は次第に近いて来たのである。 その日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることになつた。も銀之助は拠ない用事があると言つて出て行つて、日暮になつてもまだ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つておいた。丑松は絶えず不安の状態――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶えたりしたのである。冬の一日はこういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓に響いて聞える頃は、殊に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身としてそれを黙つて視て居ることができようか。と言つて、して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない』とこういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷が身を襲ふやうに感ぜられた。 待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭つて、洋燈の下にお志保のことを思浮べて居た。こうして種々の想像に耽りながら、悄然と五分心の火を熟視めて居るうちに、何時の間にか疲労が出た。丑松は机に倚凭つた、思はず知らずそこへ寝て了つたのである。その時、お志保が入つて来た。 |
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(二) | |
こゝは学校ではないか。して斯様なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかしその疑惑は直に釈けた。お志保は何か言ひたいことがあつて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、とこう気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩な眼――それを眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分にはそう疎々しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだてはありながら、優しい言葉の一つも懸けてくれないのであらう。何故、その口唇は言ひたいことも言はないで、堅く閉ぢ塞つて、恐怖と苦痛とで慄へて居るのであらう。 こういふ楽しい問は、とは言へ、長く継かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促した。終には羞しがるお志保の手を執つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。『勝野君、まあ待ち給へ。左様君のやうに無理なことをなくツても好からう』と言つて、丑松は制止めるやうにした。その時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光のやうに出逢つた。『お志保さん、貴方に好事を教へてあげる』と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽して居るその恐しい秘密を私語いて聞かせるやうな態度を示した。『あツ、其様なことを聞かせてする』と丑松は周章てゝ取縋らうとして――、眼が覚めたのである。 夢であつた。こう我に帰ると同時に、苦痛は身を離れた。しかし夢の裡の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁へながら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さ』。こう声を掛ける。て銀之助はがた/\靴の音をさせら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、その内に御別れだ』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残り惜しいやうな気になつて、着た儘の襯衣とズボン下とを寝衣がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひながら潜り込んだ。 『こうして君とこの部屋に寝るのも、最早今夜限りだ』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つてはが最終の宿直だ』。『そうかなあ、最早御別れかなあ』と丑松も枕に就きながら言つた。『何となくこう今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫、昔の友達は皆などうして居るかなあ』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『それは左様と、瀬川君、此頃から僕は君に聞いて見たいと思ふことがあるんだが――』。『僕に?』。『まあ、君のやうにそう黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事があつて、独りで考へて独りで煩悶して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様に苦しいことがあるものなら、少許打開けて話したらばだい。随分、友達として、力になるといふこともあらうぢやないか』。 |
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(三) | |
『何故、君はそうだらう』と銀之助は同情の深い言葉を続けた。『僕がこういふ科学書生で、平素其方の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢやないよ。他の手疵を負つて苦んで居るのを、傍で観て嘲笑つてるやうな、其様な残酷な人間ぢやないよ』。『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものはないのに』と丑松は臥俯になつて答へる。『そんなら僕にだつて話して聞かせてくれ給へな』。『話せとは?』。『何もそう君のやうに蔵んで居る必要はあるまいと思ふんだ。言はないから、それで君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、この頃になつて大に悟つたことがある。それからずつと君の心情も解るやうになつた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る』。 丑松は答へなかつた。銀之助は猶言葉を継いで、『校長先生なぞに言はせると、こういふことは三文の価値もないね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時もあつたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越しておきながら、吾儕にばかり裃を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、そうぢやないか。だから僕は言つて遣つたよ。今日彼先生と郡視学とで僕を呼つけて、「何故瀬川君は彼様考へ込んで居るんだらう」とこう聞くから、「それは貴方等も覚えがあるでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ』。『フウ、そうかねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ』。『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ』。『誤解されるとは?』。『まあ、君のことを新平民だらうなんて。――実に途方もないことを言ふ人もあればあるものだ』。『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支はないぢやないか』。 長いこと室の内には声がなかつた。細目に点けて置いた洋燈の光は天井へ射して、円く朦朧と映つて居る。銀之助はそれを熟視めながら、種々空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きもしないので、終には友達は最早眠つたのかとも考へた。『瀬川君、最早睡たのかい』と声を掛けて見る。『いゝや。――だ起きてる』。丑松は息を殺して寝床の上に慄へて居たのである。『妙に今夜は眠られない』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀といふことを考へると、毎時君の為に泣きたくなる。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのもそれだし、殺すのもそれだ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としてはそうあるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人についても、蔭ながら僕は同情を寄せて居る。それだから今夜は斯様なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六ヶ考へ過ぎて居るやうに思はれるね。そこだよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、そうぢやないか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものがあつて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、こうしたらだらう」とか何とか、君の方から切出してくれると、及ばずながら僕だつて自分の力にできる丈のことは尽すよ』。『あゝ、そう言つてくれるのは君ばかりだ。君の志は実に難有い』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察してくれるやうなことがあつた。確かにあつた。しかし――』。『ふむ』。『君はまだ克く事情を知らないから、それでそう言つてくれるんだらうと思ふんだ。実はねえ――その人は最早死んで了つたんだよ』。復た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、その時はもう返事がないのであつた。 |
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(四) | |
銀之助の送別会は翌日の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ![]() こういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気でない。何を見たか、何を聞いたか、殆どそれが記憶にも留らなかつた。唯頭脳の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、またはこの混雑の中にも時々意味ありげな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙はれて居るやうな気がして、その方の心配と屈託と恐怖とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定出世するから』。こう私語き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。 送別会が済む、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏の入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、とこう推測がつく。その時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷と言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。『むゝ、必定市村さんだ』と丑松は独語ちた。話の様子では確かにそれらしいのである。『直に、これから尋ねて行つて見ようかしら』とは続いて起つて来た思想であつた。人目を憚るといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。『まあ、待て』と丑松は自分で自分を制止めた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でもあるやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。こう用心深く考へた。『それは左様と、お志保さんは奈何したらう』とその人の身の上を気遣ひながら、丑松は二階へ上つて行つた。始めてこの寺へ引越して来た当時のことは、、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。それに比べると人の境涯の頼み難いことは。丑松はあの鷹匠町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度この蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯の光に宵闇の道を照しながら、一挺の籠が舁がれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で『御機嫌よう』と言つた主婦を思出した。罵つたり騒いだりした下宿の人々を思出した。終にはあの『ざまあ見やがれ』の一言を思出すと、慄然とする冷い震動が頸窩から背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事とも思はれない。噫、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様に卑められたり辱められたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入ができないのであらう。何故、新平民ばかりこの社会に生きながらへる権利がないのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。こう考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。その時奥様が入つて来た。 |
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(五) | |
いかにも落胆したやうな様子しながら、奥様は丑松の前に座つた。『斯様なことになりやしないか、と思つて私も心配して居たんです』と前置をして、さて奥様は昨宵の出来事を丑松に話した。聞いて見ると、お志保は郵便を出すと言つて、日暮頃に門を出たつきり、もう帰つて来ないとのこと。箪笥の上に載せて置いて行つた手紙は奥様へ宛てたもので――それは真心籠めて話をするやうに書いてあつた、ところ/″\涙に染んで読めない文字すらもあつたとのこと。その中には、自分一人の為に種々な迷惑を掛けるやうでは、義理ある両親に申訳がない。聞けば奥様は離縁の決心とやら、何卒それ丈は思ひとまつてくれるやうに。十三の年から今日迄受けた恩愛は一生忘れまい。何時までも自分は奥様の傍に居て親と呼び子と呼ばれたい心は山々。何事も因縁づくと思ひ諦めてくれ、許してくれ――『母上様へ、志保より』と書いてあつた、とのこと。 『尤も――』と奥様は襦袢の袖口で ![]() 可愛さうに、住慣れたところを捨て、義理ある人々を捨て、雪を踏んで逃げて行く時のその心地はであつたらう。丑松は奥様の談話を聞いて、この寺を脱けて出ようと決心する迄のお志保の苦痛悲哀を思ひやつた。『あゝ。――和尚さんだつても眼が覚めましたらうよ、今度といふ今度こそは』と昔気質な奥様は独語のやうに言つた。『なむあみだぶ』と口の中で繰返しながら奥様が出て行つた後、やゝしばらく丑松は古壁に倚凭つて居た。哀憐と同情とは眼に見ない事実を深い『生』の絵のやうに活して見せる。幾度か丑松はお志保の有様を――の寺の方を見かへり/\急いで行くその有様を胸に描いて見た。あの釣と昼寝と酒より外には働く気のない老朽な父親、泣く喧嘩する多くの子供、就中継母――まあ、あの家へ帰つて行つたとしたところで、果してから将来なるだらう。『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない』とふと昨夕と同じやうなことを思ひついた時は、言ふに言はれぬ悲しい心地になつた。急に丑松は壁を離れた。帽子を冠り、楼梯を下り、蔵裏の廊下を通り抜けて、何か用事ありげに蓮華寺の門を出た。 |
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(六) | |
『自分は一体何処へ行く積りなんだらう』と丑松は二三町も歩いて来たかと思はれる頃、自分で自分に尋ねて見た。絶望と恐怖とに手を引かれて、目的もなしに雪道を彷徨つて行つた時は、半ば夢の心地であつた。往来には町の人々が群り集つて、春迄も消えずにある大雪の仕末で多忙しさう。板葺の屋根の上に降積つたのが掻下される度に、それがまた恐しい音して、往来の方へ崩れ落ちる。幾度か丑松はその音の為に驚かされた。そればかりではない、四五人集つて何か話して居るのを見ると、直にそれを自分のことに取つて、疑はず怪まずには居られなかつたのである。 とある町の角のところ、塩物売る店の横手にあたつて、貼付けてある広告が目についた。大幅な洋紙に墨黒々と書いて、赤い『インキ』で二重に丸なぞが付けてある。その下に立つて物見高く眺めて居る人々もあつた。思はず丑松も立留つた。見ると、市村弁護士の政見を発表する会で、蓮太郎の名前も演題も一緒に書並べてあつた。会場は上町の法福寺、其日午後六時から開会するとある。して見ると、丁度演説会は家々の夕飯が済む頃から始まるのだ。丑松はその広告を読んだばかりで、やがてまた前と同じ方角を指して歩いて行つた。疑心暗鬼とやら。今はそれを明い日光の中に経験する。種々な恐しい顔、嘲り笑ふ声――およそ人種の憎悪といふことを表したものは、右からも、左からも、丑松の身を囲繞いた。意地の悪い烏は可厭に軽蔑したやうな声を出して、得たり賢しと頭の上を啼いて通る。あゝ、鳥ですら斯雪の上に倒れる人を待つのであらう。こう考へると、浅猿しく悲しくなつて、すた/\肴町の通りを急いだ。 何時の間にか丑松は千曲川の畔へ出て来た。そこは『下の渡し』と言つて、水に添ふ一帯の河原を下瞰すやうな位置にある。渡しとは言ひながら、船橋で、下高井の地方へと交通するところ。一筋暗い色に見える雪の中の道には旅人の群が往つたり来たりして居た。荷を積けた橇も曳かれて通る。遠くつゞく河原は一面の白い大海を見るやうで、蘆荻も、楊柳も、すべて深く隠れて了つた。高社、風原、中の沢、その他越後境へ連る多くの山々は言ふも更なり、対岸にある村落と杜の梢とすら雪に埋没れて、幽に鶏の鳴きかはす声が聞える。千曲川は寂しくその間を流れるのであつた。 こういふ光景は今丑松の眼前に展けた。平素はそれ程注意を引かないやうな物まで一々の印象が強く審しく眼に映つて見えたり、あるときは又、物の輪郭すら朦朧として何もかも同じやうにぐら/\動いて見えたりする。『自分はから将来奈何しよう――何処へ行つて、何を為よう――一体自分は何の為にこの世の中へ生れて来たんだらう』。思ひ乱れるばかりで、何の結末もつかなかつた。長いこと丑松は千曲川の水を眺め佇立んで居た。 |
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(七) | |
一生のことを思ひ煩ひら、丑松は船橋の方へ下りて行つた。誰かこう背後から追ひ迫つて来るやうな心地がして――無論其様なことのあるべき筈がない、と承知して居ながら――それで矢張安心ができなかつた。幾度か丑松は背後を振返つて見た。時とすると、妙な眩暈心地になつて、ふら/\と雪の中へ倒れ懸りさうになる。『あゝ、馬鹿、馬鹿――もつと毅然しないか』とは自分で自分を叱り![]() 深く考へれば考へるほど、丑松の心は暗くなるばかりであつた。社会から捨てられるといふことは、いかに言つても情ない。あゝ放逐――何といふ一生の恥辱であらう。もしも左様なつたら、してから将来生計が立つ。何を食つて、何を飲まう。自分はまだ青年だ。望もある、願ひもある、野心もある。あゝ、あゝ、捨てられたくない、非人あつかひにはされたくない、何時迄も世間の人と同じやうにして生きたい――こう考へて、同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』といふ乞食の階級よりも一層劣等な人種のやうに卑められた今日迄の穢多の歴史を繰返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数へて、あるひは追はれたりあるひは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩や、それから彼の下高井の大尽の心地を身に引比べ、終には娼婦として秘密に売買されるといふ多くの美しい穢多の娘の運命なぞを思ひやつた。 その時になつて、丑松は後悔した。何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕ふやうな、其様な思想を持つたのだらう。同じ人間だといふことを知らなかつたなら、甘んじて世の軽蔑を受けても居られたらうものを。何故、自分は人らしいものにこの世の中へ生れて来たのだらう。野山を駆け歩く獣の仲間ででもあつたなら、一生何の苦痛も知らずに過されたらうものを。 歓し哀しい過去の追憶は丑松の胸の中に浮んで来た。この飯山へ赴任して以来のことが浮んで来た。師範校時代のことが浮んで来た。故郷に居た頃のことが浮んで来た。それはもう悉皆忘れて居て、何年も思出した先蹤のないやうなことまで、つい昨日の出来事のやうに、青々と浮んで来た。今は丑松も自分で自分を憐まずには居られなかつたのである。て、こういふ過去の追憶がごちや/\胸の中で一緒になつて、煙のやうに乱れて消えて了ふと、唯二つしかこれから将来に執るべき道はないといふ思想に落ちて行つた。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きて居る気はなかつた。それよりは寧ろ後者の方を択んだのである。 短い冬の日は何時の間にか暮れかゝつて来た。もう二度と現世で見ることはできないかのやうな、悲壮な心地になつて、橋の上から遠く眺めると、西の空すこし南寄りに一帯の冬雲が浮んで、丁度可懐しい故郷の丘を望むやうに思はせる。それは深い焦茶色で、雲端ばかり黄に光り輝くのであつた。帯のやうな水蒸気の群も幾条かその上に懸つた。あゝ、日没だ。蕭条とした両岸の風物はすべての夕暮の照光と空気とに包まれて了つた。奈何に丑松は『死』の恐しさを考へながら、動揺する船橋の板縁近く歩いて行つたらう。 蓮華寺で撞く鐘の音はその時丑松の耳に無限の悲しい思を伝へた。次第に千曲川の水も暮れて、空に浮ぶ冬雲の焦茶色が灰がゝつた紫色に変つた頃は、もう日も遠く沈んだのである。高く懸る水蒸気の群は、ぱつと薄赤い反射を見せて、急に掻消すやうに暗くなつて了つた。 |
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第弐拾章(一) | |
せめて彼の先輩だけに自分のことを話さう、と、丑松が思ひ着いたのは、その橋の上である。『噫、それが最後の別離だ』とまた自分で自分を憐むやうに叫んだ。こういふ思想を抱いて、て以前来た道の方へ引返して行つた頃は、閏六日ばかりの夕月が黄昏の空に懸つた。尤も、丑松は直にその足で蓮太郎の宿屋へ尋ねて行かうとはしなかつた。間もなく演説会の始まることを承知して居た。左様だ、それの済むまで待つより外はないと考へた。 上の渡し近くに在る一軒の饂飩屋は別に気の置けるやうな人も来ないところ。丁度その前を通りかゝると、軒を泄れる夕餐の煙に交つて、何か甘さうな物のにほひが屋の外迄も満ち溢れて居た。見れば炉の火も赤々と燃え上る。思はず丑松は立留つた。その時は最早酷く饑渇を感じて居たので、わざ/\蓮華寺迄帰るといふ気はなかつた。ついと軒を潜つて入ると、炉辺には四五人の船頭、まだ他に飲食して居る橇曳らしい男もあつた。時を待つ丑松の身に取つては、飲みたくない迄も酒を誂へる必要があつたので、ほんの申訳ばかりにお調子一本、饂飩はかけにして極熱いところを、こう注文したのがやがて眼前に並んだ。丑松はやたらに激昂して慄へたり、丼にある饂飩のにほひを嗅いだりして、黙つて他の談話を聞きながら食つた。 零落――丑松は今その前に面と向つて立つたのである。船頭や、橇曳や、まあ下等な労働者の口から出る言葉と溜息とは、始めてその意味が染々胸に徹へるやうな気がした。実際丑松の今の心地は、今日あつて明日を知らないその日暮しの人々と異なるところがなかつたからで。炉の火は好く燃えた。人々は飲んだり食つたりして笑つた。丑松もた一緒になつて寂しさうに笑つたのである。 こうして待つて居る間が実に堪へがたい程の長さであつた。時は遅く移り過ぎた。そこに居た橇曳が出て行つて了ふと、交替に他の男が入つて来る。聞くともなしにその話を聞くと、高柳一派の運動は非常なもので、壮士に掴ませる金ばかりでもちつとやそつとではあるまいとのこと。何屋とかを借りて、事務所に宛てゝ、料理番は詰切、酒は飲放題、帰つて来る人、出て行く人――その混雑は一通りでないと言ふ。それにしても、今夜の演説会が奈何に町の人々を動すであらうか、今頃はあの先輩の男らしい音声が法福寺の壁に響き渡るであらうか、とこう想像して、会も終に近くかと思はれる頃、丑松は飲食したものゝ外に幾干かの茶代を置いての饂飩屋を出た。 月は空にあつた。今迄黄ばんだ洋燈の光の内に居て、急にこう屋の外へ飛出して見ると、何となく勝手の違つたやうな心地がする。薄く弱い月の光は家々の屋根を伝つて、往来の雪の上に落ちて居た。軒廂の影も地にあつた。夜の靄は煙のやうに町々を籠めて、すべて遠く奥深く物寂しく見えたのである。青白い闇――といふことが言へるものなら、それは斯ういふ月夜の光景であらう。言ふに言はれぬ恐怖は丑松の胸に這ひ上つて来た。 時とすると、背後の方からやつて来るものがあつた。是方が徐々歩けば先方も徐々歩き、是方が急げば先方も急いで随いて来る。振返つて見よう/\とは思ひながらも、してもそれを為ることができない。あ、誰か自分を捕へに来た。こう考へると、何時の間にか自分の背後へ忍び寄つて、突然に襲ひかゝりでも為るやうな気がした。とある町の角のところ、ぱつたりその足音が聞えなくなつた時は、始めて丑松も我に帰つて、ホツと安心の溜息を吐くのであつた。前の方からも、。あゝ月明りのおぼつかなさ。その光には何程の物の象が見えると言つたら好からう。その陰には何程の色が潜んで居ると言つたら好からう。煙るやうな夜の空気を浴びながら、次第に是方へやつて来る人影を認めた時は、丑松はもう身を縮めて、危険の近いたことを思はずには居られなかつたのである。一寸是方を透して視て、やがて影は通過ぎた。 それは割合に気候の緩んだ晩で、打てば響くかと疑はれるやうな寒夜の趣とは全く別の心地がする。天は遠く濁つて、低いところに集る雲の群ばかり稍仄白く、星は隠れて見えない中にも唯一つ姿を顕したのがあつた。往来に添ふ家々はもう戸を閉めた。ところ/″\灯は窓から泄れて居た。何の音とも判らない夜の響にすら胸を踊らせながら、丑松は ![]() |
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(二) | |
丁度演説会が終つたところだ。聴衆の群は雪を踏んでぞろ/\帰つて来る。思ひ/\のことを言ふ人々に近いて、それとなく会の模様を聞いて見ると、いづれも激昂したり、憤慨したりして、一人として高柳を罵らないものはない。あるものはこの飯山から彼様な人物を放逐して了へと言ふし、あるものは市村弁護士に投票しろと呼ぶし、あるものは又、世にある多くの政事家に対して激烈な絶望を泄しながら歩くのであつた。 月明りに立留つて話す人々もある。その一群に言はせると、蓮太郎の演説はあまり上手の側ではないが、然し妙に人を ![]() また他の一群に言はせると、その演説をして居る間、蓮太郎は幾度か血を吐いた。終つて演壇を下りる頃には、手に持つた ![]() 呼留めて、蓮太郎のことを尋ねて見て、その時丑松は亭主の口から意外な報知を聞取つた。今々法福寺の門前で先輩が人の為に襲はれたといふことを聞取つた。真実か、虚言か――もしそれが事実だとすれば、無論高柳の復讐に相違ない。まあ、丑松は半信半疑。何を考へるといふ暇もなく、たゞ/\胸を騒がせながら、亭主の後に随いて法福寺の方へと急いだのである。あゝ、丑松が駈付けた時は、もう間に合はなかつた。丑松ばかりではない、弁護士ですら間に合はなかつたと言ふ。聞いて見ると、蓮太郎は一歩先へ帰ると言つて外套を着て出て行く、弁護士は残つて後仕末をて居たとやら。傷といふは石か何かで烈しく撃たれたもの。只さへ病弱な身、まして疲れた後――思ふに、何の抵抗もできなかつたらしい。血は雪の上を流れて居た。 |
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(三) | |
もも検屍の済む迄は、といふので、蓮太郎の身体は外套で掩ふた儘、手を着けずに置いてあつた。思はず丑松は跪いて、先輩の耳の側へ口を寄せた。まだそれでも通じるかと声を掛けて見る。『先生――私です、瀬川です』。何と言つて呼んで見ても、最早聞える気色はなかつたのである。月の光は青白く落ちて、一層凄愴とした死の思を添へるのであつた。人々は同じやうに冷い光と夜気とを浴びながら、巡査や医者の来るのを待佗びて居た。あるものは影のやうに蹲つて居た。あるものは並んで話し/\歩いて居た。弁護士は悄然首を垂れて、腕組みして、物も言はずに突立つて居た。 軈て町の役人が来る、巡査が来る、医者が来る、間もなく死体の検査が始つた。提灯の光に照された先輩の死顔は、と見ると、頬の骨隆く、鼻尖り、堅く結んだ口唇は血の色もなく変りはてた。男らしい威厳を帯びたその容貌のうちには、何処となく暗い苦痛の影もあつて、壮烈な最後の光景を可傷しく想像させる。見る人は皆な心を動された。万事は侠気のある扇屋の亭主の計らひで、検屍が済む、役人達が帰つて行く、一先づ死体は宿屋の方へ運ばれることになつた。戸板の上へ載せる為に、弁護士は足の方を持つ、丑松は頭の方へ廻つて、両手を深く先輩の脇の下へ差入れた。あゝ、蓮太郎の身体は最早冷かつた。に丑松は名残惜しいやうな気になつて、蒼ざめた先輩の頬へ自分の頬を押宛てゝ、『先生、先生』と呼んで見たらう。その時亭主は傍へ寄つて、だらりと垂れた蓮太郎の手を胸の上に組合せてやつた。こうして戸板に載せて、その上から外套を懸けて、扇屋を指して出掛けた頃は、月も落ちかゝつて居た。人々は提灯の光に夜道を照しながら歩いた。丑松はまたさく/\と音のする雪を踏んで、先輩の一生を考へながら随いて行つた。思当ることがないでもない。あの根村の宿屋で一緒に夕飯を食つた時、頻に先輩は高柳の心を卑で[#「卑で」はママ]、『これ程新平民といふものを侮辱した話はなからう』と憤つたことを思出した。あの上田の停車場へ行く途中、丁度橋を渡つた時にも、『どうしても彼様な男に勝たせたくない、何卒しての選挙は市村君のものにして遣りたい』と言つたことを思出した。『いくら吾儕が無智な卑賤しいものだからと言つて、踏付けられるにも程がある』と言つたことを思出した。『高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地がなさ過ぎるからねえ』と言つたことを思出した。それから彼の細君が一緒に東京へ帰つて呉れと言出した時に、先輩は叱つたり ![]() こういふことゝ知つたら、もうすこし早く自分が同じ新平民の一人であると打明けて話したものを。あるひはそれを為たら、自分の心情が先輩の胸にも深く通じたらうものを。後悔は何の益にも立たなかつた。丑松は恥ぢたり悲んだりした。噫、数時間前には弁護士と一緒に談しながら扇屋を出た蓮太郎、今は戸板に載せられてその同じ門を潜るのである。不取敢、東京に居る細君のところへ、と丑松は引受けて、電報を打つ為に郵便局の方へ出掛けることにした。夜は深かつた。往来を通る人の影もなかつた。是非打たう。局員が寝て居たら、叩き起しても打たう。それにしても電報を受取る時の細君の心地は。と想像して、さあ何と文句を書いてやつて可か解らない位であつた。暗く寂しい四辻の角のところへ出ると、頻に遠くの方で犬の吠る声が聞える。その時はもう自分で自分を制へることができなかつた。堪へ難い悲傷の涙は一時に流れて来た。丑松は声を放つて、歩きながら慟哭した。 |
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(四) | |
涙は反つて枯れ萎れた丑松の胸を湿した。電報を打つて帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思ひやつて、それを自分の身に引比べて見た。流石に先輩の生涯は男らしい生涯であつた。新平民らしい生涯であつた。ありの儘に素性を公言して歩いても、それで人にも用ゐられ、万許されて居た。『我は穢多を恥とせず』。――何といふまあ壮んな思想だらう。それに比べると自分の今の生涯は――。 その時になつて、始めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽さう隠蔽さうとして、持つて生れた自然の性質を銷磨して居たのだ。その為に一時も自分を忘れることができなかつたのだ。思へば今迄の生涯は虚偽の生涯であつた。自分で自分を欺いて居た。あゝ――何を思ひ、何を煩ふ。『我は穢多なり』と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教へたのである。 紅く泣腫した顔を提げて、やがて扇屋へ帰つて見ると、奥の座敷には種々な人が集つて後の事を語り合つて居た。座敷の床の間へ寄せ、北を枕にして、蓮太郎の死体の上には旅行用の茶色の膝懸をかけ、顔は白い ![]() 警察署へ行つた弁護士も帰つて来て、蓮太郎のことを丑松に話した。上田の停車場で別れてから以来、小諸、岩村田、志賀、野沢、臼田、その他到るところに蓮太郎が精しい社会研究を発表したこと、それから長野へ行きこの飯山へ来る迄の元気の熾盛であつたことなぞを話した。『実に我輩も意外だつたね』と弁護士は思出したやうに、『一緒にの家を出て法福寺へ行く迄も、彼様な烈しいことを行らうとは夢にも思はなかつた。毎時演説の前には内容の話が出て、こ言ふ積りだとか、彼様話す積りだとか、克く飯をやりながらそれを我輩に聞かせたものさ。ところが、君、今夜に限つては其様な話が出なかつたからねえ』と言つて、嘆息して、『あゝ、不親切な男だと、君始め――まあな人でも、我輩のことを左様思ふだらう。思はれても仕方ない。全く我輩が不親切だつた。猪子君が何と言はうと、細君と一緒に東京へ返しさへすれば斯様なことはなかつた。御承知の通り、猪子君も彼様いふ弱い身体だから、始め一緒に信州を歩くと言出した時に、何の位我輩が止めたか知れない。その時猪子君の言ふには、「僕は僕だけの量見があつて行くのだから、決して止めてくれ給ふな。君は僕を使役ふと見てもよし、僕はまた君から助けられると見られても可――に、君は君で働き、僕は僕で働くのだ」。こういふものだから、それ程熱心になつて居るものを強ひて廃し給へとも言はれんし、折角の厚意を無にしたくないと思つて、それで一緒に歩いたやうな訳さ。今になつて見ると、噫、あの細君に合せる顔がない。「奥様、其様に御心配なく、猪子君は確かに御預りしましたから」なんて――まあ我輩はして御詑をして可か解らん』。 こう言つて、萎れて、肥大な弁護士は洋服の儘でかしこまつて居た。その時は最早この扇屋に泊る旅人も皆な寝て了つて、たゞさへ気の遠くなるやうな冬の夜が一層の寂しさを増して来た。日頃新平民と言へば、直に顔を皺めるやうな手合にすら、蓮太郎ばかりは痛み惜まれたので、殊にその悲惨な最後が深い同情の念を起させた。『警察だつても黙つておくもんぢやない。見給へ、きつと最早高柳の方へ手が廻つて居るから』と人々は互に言合ふのであつた。 見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな心地がした。告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性を暴露さうなぞとは、今日迄思ひもよらなかつた思想なのである。急に丑松は新しい勇気を掴んだ。どうせ最早今迄の自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――あゝ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれて居る現世の歓楽、それも穢多の身には何の用があらう。一新平民――先輩がそれだ――自分もまたそれで沢山だ。こう考へると同時に、熱い涙は若々しい頬を伝つて絶間もなく流れ落ちる。実にそれは自分で自分を憐むといふ心から出た生命の汗であつたのである。 いよ/\明日は、学校へ行つて告白けよう。教員仲間にも、生徒にも、話さう。左様だ、それを為るにしても、後々までの笑草なぞにはならないやうに。なるべく他に迷惑を掛けないやうに。こう決心して、生徒に言つて聞かせる言葉、進退伺に書いて出す文句、その他種々なことまでも想像して、一夜を人々と一緒に蓮太郎の遺骸の前で過したのであつた。彼是するうちに、鶏が鳴いた。丑松は新しい暁の近いたことを知つた。 |
(私論.私見)