和解拾一、拾二、拾三、拾四、拾五

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.9.3日

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 2024(栄和6)年.9.3日 れんだいこ拝


【和解拾一
 そして、それは今から四週間ほど前の事になる。歌舞伎座でやっている「団七九郎兵衛」の新聞評を見て自分は久し振りで芝居を見たい気がした。
 自分はМを誘って、二十三日それを見に行く事を約束した。自分にはその日でないと便じない用もあったのでその日ときめたが、その芝居は二十三日の前にもう千秋楽になっていた。しかし何所(どこ)かにあるかも知れない。もしいい芝居がなければ活動写真を見てもいいと話し合った。自分はその前に用を片づけ、Мとは丸善の二階で十二時半に、もしそれより遅れたらМの細君の行っている呉服屋の高島屋で落ち合う事に決めておいた。
 その日自分は起き抜けに食事もせず、一番で出かけた。橋場の方の友達に用があって南千住で降りて其所に寄り、一時間ほどいてから日本橋の三井銀行に行った。十五分ぐらいで済むつもりだったが二時間経っても埒(らち)があかなかった。番号をいうのを、もうかもうかに引かされている不愉快には適(かな)わなかった。読む物でも持っていればまだ良かった。しかし平常(ふだん)呼吸している不愉快には敵(かな)わなかった。読む物でも持っていればまだよかった。しかし平常呼吸している空気とは余りに違ったそう云う空気の中に只凝然(じっ)としている内に不安と不快で自分は苛々(いらいら)して来た。どれも、これも赤の他人ばかりだ。自分だけが水に滴(た)らされた油のような気がした。
 とうとう我慢しきれずに自分は金を受取らずに其所を出て来た。大きな建物で大勢の人間を使いながら働きのない所だと思った。急行に乗れば国府津(こうづ)の先まで行ける時間一つベンチに凝然(じっ)とさせてまだ埒が明かないのは、ひどすぎると思った。様子を知らず律義に腰かけて待っている人に大体の時間をいって注意しないのは不親切な所だと思った。
 自分は今度は消極的な用で、日本橋を渡ると森村銀行に行った。自分は用を頼んでおいて、前の黒江屋にいって、妻から頼まれた、翌日の宮参りに配る赤飯のお重を買った。そして其所で電話を借りて麻布へ電話をかけて見た。母が出て来た。「お祖母さんお顎(あご)が外れましてね」と云った。
 母の話によると、その朝淑子が祖母の部屋へ行くと祖母は床の上で口を開(あ)いて、ぼんやりしていた。淑子が何かいっても祖母は口を開いたまま「あ-、あ-」と首肯(うなず)くだけだった。その前(それは自分は知らなかったが)一度縁側に立っていた時、誰かに「お月様が出ました」と云われ、「そうか」とヒョイと上を向こうとすると、その拍子に片方の顎が外れた事があったそうだ。淑子はそれを知っていたので、直ぐ母を呼んで親類の医者に電話をかけた。ところが医者は病気だった。今度は違う親類の医者に電話をかけたがそれは旅に出ていて留守だった。仕方なしに又前の医者に電話をかけて他の医者を頼んで貰おうとすると、気の毒に思ったその医者は自身の病気を押して直ぐ来てくれた。一方は直ぐ入ったが、他方が中々入らないので祖母は痛がった、と母は話した。
 「今はようくお休みになっておいでなんですけど、少しお熱があるようなの」と母が云った。「何度ぐらいですか」、「さっきお計りした時には三十八度三分でしたの」、「大分ありますね。それじゃあネ、一寸用がありますが、済まして、直ぐ行きます」と自分は云った。「ええ」と母は答えた。自分は父が居るのだなと思った。 
 自分は重箱の大きな包みを下げてその店を出た。森村銀行での用はちゃんとしておいてくれた。自分は又三井銀行へ行った。まだ駄目だった。
 自分は祖母の事が気にかかった。自分は今まで祖母の顎の外れた事は知らなかった。顎の外れる事、それは別に心配な事はない筈(はず)だと思った。しかし祖母の肉体もいよいよ毀(こわ)れ物らしくなったという気が何となく淋しい気をさした。
 丸善で会う約束の時間を少し過ぎたので自分は直ぐ高島屋へ行った。М夫婦の姿は見えなかった。しかし間もなく二人は段々を上(のぼ)って来た。一ト汽車乗り遅れたと云っていた。
 三人は其所で食事をした。自分は銀行での不愉快の上に祖母の病気ですっかり気分を悪くしていた。食事を済ますとМと自分だけ其所を出た。自分はもう銀行まで行く気はしなかった。四時が仕舞いだから、四時に行けば幾ら何でも埒があくだろうと思った。自分は五時頃浅草で会う活動写真の小屋を決めて置いてМと別れ、麻布へ向った。Мは丸善へ行った。Мは、其所で呉服屋の用を済まして来る細君と落合う筈だった。
 自分は肉体からも気分からも気持ちの悪い疲労を感じていた。その上厭に嵩張(かさば)った紙包みの重箱を下げて歩く事が一層気色(きしょく)を悪くした。
 電車を降りると急いで麻布の家へ行った。重箱を玄関に置いて直ぐ祖母の部屋へ行って見た。其所には母と隆子とが居た。
 母は直ぐ祖母の顔の所へ顔をやって、少し声を張り上げるようにして、「順吉が参りました」と云った。
 祖母は重い眼蓋(まぶた)を少し開けた。自分は潤んだ、充血した眼を見た。祖母は直ぐ又眼を閉じて了った。
 今度は自分が顔を寄せていった。「お祖母さん、赤坊は元気にしています」。祖母は眼をつぶったまま、わからないくらいに首肯(うなず)いた。自分は又、一ト調子高い声を出して、「顎の外れるくらいは何(なんに)も心配な事はありません」と云った。祖母は一寸首肯くさえ大儀そうに黙っていた。「お煙草をつけて上げてください」と母がいった。
 自分は側にある長い煙管(きせる)で煙草をつけた。祖母に渡すと祖母は眼をつぶったまま、吸い口が入るだけに僅か唇を緩めて煙草を吸った。しかし祖母の意識は明瞭(はっきり)しているとは思えなかった。 
 その内祖母は頻りに股(もも)の間を気にしだした。通じが出ていた。次の間からおかわを持って来た。自分は祖母を抱き起した。そして後ろから抱き上げて用を便じさした。
 この事は自分に非常に心細い気をさした。自分の胸は痛んだ。勝気で潔癖でそういう事には殊に締(しまり)のいい祖母はかなり悪い病気の時でも室内で用便する事を嫌がった。自分はその事でよく祖母に怒った。怒っても祖母は「はばかりでなければでないから仕方ない」と云って無理に立って行ったりした。しかし祖母も段々に無理は云わなくなった。病室におかわを入れる事もそれほど厭がらなくなった。それにしろ、知らずに粗相するような事はこれまで一度も知らなかった。
 母は女中に湯を持って来さして身体の下の方を叮嚀(ていねい)に浄(きよ)めた。そしてそれをしている時に他の女中が来て母に、「旦那様がお呼びでございます」と云った。
 始末を済ますと母は其所を起って往(い)った。
 八十二にしては祖母は珍しい力のある生々したまなざしを持っていた。身体はこの四五年段がついて弱ったように思っても、そのまなざしを見る時に自分はまだまだだという安心を持つ事ができた。声にも祖母は一種の力を持っていた。離れた所にいる女中や、孫達に坐った儘に何か命じたりする。その時は中々強い声を出した。それを聴く時自分は何時も或る愉快な気持を感じた。実際自分は祖母の死を恐れた。祖母の死の場に起る父との不愉快な出来事を想像しても、それは恐ろしかった。しかしそれよりとにかく祖母にはもっと生きていて貰いたかった。自分は前に挙げた良人と妻と女中懐妊との話で妻の祖母が大病になる事を書く場合にも、その祖母の年を祖母より二つ年上にして、そしてその大病が直る事を書いた。自分は何となく縁起を善くしておかないと気が済まなかった。しかし今自分は眼の前に何所に望みをかけていいかわからない祖母を見た。顎の容易に外れる事で胸を打たれた自分は更に祖母の粗相を見た。自分の恐れていた事がいよいよ来たのではないかと云う恐怖を感じた。
 母が不愉快な顔をして帰って来た。そして縁側から自分に手招きをした。自分は起って行った。母は小声で、「お祖母さんもネ、このご様子ならもう心配はありませんから、今日はどうかこれで帰って下さい。ねえ、どうか気を悪くしないで」と云った。自分はムッとして黙っていた。自分は母が「この様子なら心配ない」と云っている気持が理解できなかった。母は又、「こう云う御病気の中でもしお父さんと衝突でもするような事があると、それこそ、何よりの不孝になるのですから」と云った。「お父さんと僕との関係と、僕とお祖母さんとの関係とは全然別なものに僕は考えているんです。それはお母さんも認めて下さるでしょう?」。自分は少し亢奮して云った。「ええ、それは解(わか)っています」。「そんならお父さんにもそれを認めて頂きましょう。もし認めて下さらなくても僕のする事は同じですけれど、ともかくできるだけ穏やかに穏やかにお父さんに手紙を書いて願って見ましょう」、「それが、よござんすよ。心から穏やかにね」、「そんならいっそ今お会いして来ましょうか。お書斎ですか?」と自分は云った。「今はどうか止めて。兄さんの気持も落着いた時に穏やかに手紙で書いて上げてください」、「そうですか。そんならそうしましょう。それからネ。これはお母さんに願っておきますが、お母さんの手紙は何時でも僕に心配させまいという気でお祖母さんの事をお書きになりますがネ。あれは却って僕には不安心な気が起りますから、これから本統の事を正直に書いて頂きます。差引いてあると思うと、それだけ此方(こっち)は加えて考えますからネ。その加え方もどのくらい加えていいか、程度が知れないので尚不安のなるんです」、「解りました。それは気をつけます」と母は云った。「じゃあ帰りますが、明日の朝我孫子へ電報を下さい。何方道(どっちみち)二三日内に出て来ますが、ともかく電報を下さい」、「承知しました。それならお父さんに上げる手紙も理屈は云わないで、できるだけ穏やかにネ」と母は念を押した。
 五分ほどして自分は又大きい重箱の包みを下げて麻布の家を出た。
 自分の気持は益々悪くなった。自分は父が母に、「順吉を直ぐ帰せ、直ぐだぞ」と青筋を立てて怒っている様子を見るように考えられた。「彼奴(あいつ)にはどんな事があっても決して出入りは許さん」。こう云っている声も自分は実際聞くように考えられた。
 自分は不愉快だった。腹立たしい気もしていた。しかし其所には何も予期以上の事は起っていなかった点で、自分はその不愉快に自分の気持全体を惹き込まれないようにもしていた。それにしろ祖母の容態は自分の胸に痛かった。
 自分は妻から出産の祝い返しの品々を買う事も頼まれていた。妻は翌日の宮参りより、それを遅らしたがらなかった。自分は疲れた身体と衰えた気分をしながらその買物の為に銀座へ行った。重箱の他に又二つ紙包みができた。
 四時少し前に又三井銀行に行った。漸く用は済んだ。そして浅草へ行った。
 約束の小屋でМ夫婦と一緒になった。或る写真が済むとМはその日丸善から買って来たロダンの大きい本を自分に見せた。三四枚その写真を見ている内に又暗くなった。自分は自分の気分から活動写真が少しも面白くなかった。
 三十分ほどして三人は其所を出た。初めは二軒見るつもりだったが、其所を出ると誰もそれを云い出さなかった。М夫婦はその時の自分の気分に一番適切な気持で自分に対していてくれた。自分の気分は言葉は使わずに三人に通う気分の上だけで慰められた。二人は少なくない買物を持っていたが、自分の多い荷物の一部を分け持ってくれた。そして或る家に食事をしに入った時、自分は其所から母に電話をかけた。「別にお変わりありませんから、心配なく」と云う返事だった。
 暫くして三人はその家を出た。仲店をぶらぶら歩いている時に自分はМに麻布の家を出る時の事を話した。自分は静かな気持でそれが云えた。「ファザ-は相変わらず頑固だネ」とМは少し淋しいような笑顔をして云った。
 九時の終列車には少し間があるので、雷門から上野の広小路まで電車に乗って、其所から逆に夜店の出ている路を停車場の方へ歩いた。
 停車場の前で三人は氷水屋に入った。自分は又其所から麻布へ電話をかけて見た。そう度々母を呼び出すのは厭な気がした。自分は出て来た女中に、「お祖母さんは別にお変わりないネ」と訊ねた。「別にお変りございません」、「そうか、それならよろしい。誰も呼ばなくてよろしい」そう云って電話をきった。
 自分の衰えた気分は中々直りそうもなかった。自分はもしこの気分が少しでも続くと、今かかっている「夢想家」の調子まで狂わしかねないと思った。自分は汽車に乗ってからも暫くボンヤリした気持でいた。 
 自分は汽車が北千住を出る頃から、Мの買って来たロダンの本の挿絵(さしえ)を見だした。最初は捕らえられている自分の気分から、中々それに惹き込まれて行かなかった。しかし暫くすると段々に惹き込まれて行った。自分はロダンの芸術の持つ永遠性をしみじみと感じた。自分は腹の底に湧き上って来る亢奮を感じた。自分の気分は気持ちよく解放された。自分は自分の心がロダンの心を求め、それへ飛びついて行こうとしているように感じた。自分の心は不思議なほどに元気になった。
 我孫子の停車場ではМの家からの迎いと共に三造が、テル(犬)を連れて待っていた。テルは喜んで無闇に自分に飛びつこうとした。М夫婦とは停車場から突当たった神社の前で別れた。
 テルは嬉しそうに、追越しては寄り路をし、遅れては駆けて来いして所々に小便をかけながら、ついて来た。
 自分は三造から翌朝早くYが上京する筈だと云う事を聞いた。自分は帰ると直ぐ手紙を書いて、我孫子へ帰る前、麻布へ電話をかけて祖母の様子を訊いて貰う事をYに頼んだ。手紙は直ぐ三造に持たしてやった。

【和解拾二
 翌日自分は父への手紙を書いて見た。自分は母に云われる迄(まで)もなく、理屈をそれに書く気はしなかった。理屈でいいならそれは易しい事だった。しかし理屈で自分の要求が如何に正当であるかを書き現わせたところで、それが実際で何の役にも立たない事はよく解(わか)っていた。もしそれが抜目なく、それでも自分の出入りを禁ずると父に云いにくいように書ければ書けるほど、理屈の上に立っている場合、結果は益々悪くなるに決まっていた。だからそういう手紙を書く気は少しも自分にはなかった。そして自分は多少父の感情に訴えるような手紙を書きかけて見た。しかしそれは直ぐ止めた。相手を動かそうと云う不純な気持が醜く眼についてとても続けられない。
 自分はニ三度書直して見た後(のち)、手紙では今の自分にはどうしても感じは現わせない事を知った。一番困難な事は手紙を書いているうち、頭に置いている父が少しも一つ所にとどまっていない事だった。云いかえれば父に対する自分の感情が絶えずぐらぐらする困難だった。自分は書き出しに調和できるかも知れない、比較的穏やかな顔をした父を頭に浮かべながら、自分も穏やかな気持で、その父に書いて行く。ところが書いているうちにその父の顔は段々変って行く。そう云う時には実際書いている自分自身が、そろそおと理屈がましい事に入って行きかけもしたが、その内に父の顔は急に意固地な不愉快な表情をする。自分はペンを措くより仕方がなかった。
 自分は今の自分には父に手紙を書けないと思った。自分は母宛てに父への手紙を止めた事、その代り近日上京して直接お話する事にしました。と云う手紙を書いた。
 午後電報が来た。「キノウヨリヨシ、タイオン372、イシグロサンゴシンサツ、チョウカタル、カンゴフクル、シンパイナシ」。
 前日この儘ニ三日でどうなるかと云う恐怖を持った自分はその電報で安心した。
 晩飯を食っている時、前日訪ねた橋場の方の友が用事旁々(かたがた)訪ねて来た。そして友が十時十二分の終列車で帰る時、自分は停車場まで送って行った。
 上りの列車が少し遅れて、上野からの下り終列車が先に着いた。Yが出て来た。Yは電話で聞いた祖母の容態を精(くわ)しく話してくれた。自分はこの分なら前日感じた恐怖はいよいよ空(くう)なものになってくれるぞと思った。上りが出てから自分はYと一緒に帰って来た。
 翌日自分は新聞で、早稲田に居る口の大きい或る年寄が大病だと云う記事を見た。自分はこの年寄がかなり嫌いであるに拘(かかわ)らず、その時、助かるといいが、と云う感情を持った。それは或る期節の気温の変り目に、よく続け様に年寄りが倒れる事がある。今がそういう時ではないかという不安を祖母の為に感じたからであった。
 自分は又十月の雑誌に出すべき「夢想家」に取りかかった。
 自分は今、父を憎んではいない。しかし父の方で心からの憎しみを露骨に現わして来た場合、それでも自分は穏かに、今の気持を失わずに父に対する事ができるだろうかと気づかわれた。京都にいた頃、高等学校の通っていた従弟(いとこ)から「貴方の大きな愛が他日父君を包み切る日のある事を望みます」とこんな事を手紙で云って来た事があった。その時自分は甚(ひど)く腹を立てた。「大きな愛という言葉も内容を本紙に経験した事もない人間が無闇に他人にそんな言葉を使うものではない」と云ってやった。自分は今その事を憶(おも)い出した。自分は自分の現在の調和的な気分で父がどんな態度を取る場合にも心の余裕を失わずに穏かに対する自身を信ずる事は少し自惚(うぬぼ)れ過ぎていると思った。自分は知らず知らずの中(うち)に、所謂(いわゆる)大きな愛で父を包み切る事ができるような気になるのは馬鹿気た事だと思った、自身の実際の愛の力も計らずに。
 心から、そして努力なしに父が仮令(たとえ)如何(どん)な態度を取ろうとそれに惹込(ひきこ)まれず、或る余裕を以って引退(ひきさ)って来られればこの上ない事である。しかし今の自分がその場合必ずそれをやろうと考えるのは何処かで一足飛びをした、切れ目の或る考え方だと思った。
 とにかく会った上の成行きに任せるより仕方がないと思った。感情上の事に予定行動が取れるかのように、又取らす事ができるかのように思うのは誠に愚かな事だと思った。
 八月三十日は実母の二十三回の祥月(しょうつき)命日だった。自分はその日の墓参に上京した時、もし父が自家(うち)にいたら会おうと考えていた。

【和解拾三
 三十日自分は自転車を持って上京した。自転車は前々日画家のSKが東京から乗って来たのを置いて行ったものである。
 上野からそれに乗って麻布に向かった。
 谷町の方から麻布の家(うち)へ登る坂へ来て自分は自転車から下りた。そしてそれを曳(ひ)きながら歩いている自分は彼方(むこう)から和服を着た父が歩いて来る事を想像していた、この想像は当りかねない想像だった。父がもし自分と会う事を厭がって自分と落合う事を避ける為に外出するとすると父は一番近い電車への路とは反対なこの道を来るに違いなかったからだ。自分はもし父が来たら話だけは矢張りした方がいいと考えていた。自分にはそれをする父と自分との様子が想い浮んだ。自分が話をしようとして寄って行くと、父は何も云わずに急ぎ足ですり抜けて行って了おうとする、自分が何か云いながら立ち塞がる。父は仕舞いまで口を利かずにその儘すり抜けて行って了う。そういうシ-ンが自分には浮んでいた。それは想像にしろ、起り得べき事に一番近い想像だと自分には思えた。
 自分は麻布の家へ行った。仲の口に鎌倉の叔父の杖があるのを見た。自分は直ぐ祖母の部屋の方へ行った、祖母はその日は廊下を隔てた隣りの部屋に床を延べさせ、自身はその床の側(わき)に座布団を敷いて坐っていた、予期したよりも遥かに元気な顔をしていた。力のあるまなざしも何時(いつ)か又祖母に還(かえ)っていた。自分は喜んだ。看護婦が二人ついていた。その部屋には叔父と、何時もよりいい着物を着た妹達と母とが居た。
 祖母は自分に何故もっと早く来なかったかと云った。坊さんの読経(どきょう)が今済んだところだとそれに間に合わなかったのを残念らしく、何かいっていた。
 叔父は自分にニ三日内(うち)に京都へ行く心算だと云った。すると祖母は叔父に、「昨晩お前が京都のお寺に免状を頂きに行くと云う夢を見て、お母さんがお前なぞにまだ免状が頂けるものかと云うとこだった---」といって少し意地の悪いような顔をして笑った。
 「お前なぞに取れないは少し酷(ひど)いなあ」と叔父は云った。「いや実際私共には免状はまだとれませんよ」、「まさ叔父さん。免状を頂きにいらっしゃるの?」と隆子が訊いた。「そんな事じゃないよ」と叔父は笑った。「それはお祖母さんの夢だ。まさ叔父さんは久し振りで建仁寺(けんにんじ)の老師にお会いしに行くんだ。それはそうと私が京都へ行く事はお母さんにお話ししましたかね。何だかしないように思うがな」、「聴かなかったようだ」と祖母が答えた。
 前から少し落ち着かない様子をしていた母が、自分に、「兄さん一寸お仏様にお線香を上げて来ませんか」と云った。「ええ」そう云って自分は起って仏壇の間へ行った。母も直ぐついて来た。
 仏壇には燈明や線香や果物などが上げたあった。仏壇の横にその日の仏が三つで死んだ自分の兄を抱いている。掛軸に仕立てた下手な肖像画が下がっていた。
 自分は線香を立ててお辞儀をした。「お父さんお家ですね?」と自分は側に坐っている母にいった。「ええ、おいでです」、「手紙だと気持ちが中々現れないので、やはり直接お会いした方がいいと思ったのです」、「そりゃあ、穏かにお話しできればそれに越した事はないのですから、どうかね、本統に穏かな心になって、静かにお話しして頂戴。私も今朝から度々今日のお仏様にどうかお手引き下さるようにってお願いしていたの。兄さんも一時の感情で又烈しい事なんか云ったりしないで、一ト言でいいから、眼をつぶって、これまでの事は私が悪うございましたとお詫びして下さい。お父さんも段々お年をお取りにはなるし、兄さんと今のような関係でいらっしゃるのは本統は大変お苦しいんですよ。だから一ト言兄さんがそうお詫びすれば、それでお父さんは満足なさるのですからね。お父さんも、ああ何所までも盾突いて来る者に、親としてこっちから口を切っては行けないとお思いになるのは、それは無理はないでしょう? お父さんだって、頑固は随分頑固な方ですけど、別に悪いと云う方じゃあ、ありませんものね」。母は眼に涙を溜(た)めていた。
 「そりゃあ、そうです、しかし私にはこう云う考えがあるんです。今日までのお父さんとの関係は、それは仕方がないと思っているんです。私としてはもしこうなってくれなければ困る事だったのです。お父さんには実にお気の毒な事だとは思います。それから或る事では自分が悪かったと思いもします。しかし今の結果については私は止むを得ない事で、後悔もできない事と思っているのです。もし私がお父さんのお気に入る人間になっていたと仮定して、今の私の眼でそれを見れば、それはかなわない人間ですからね」、「ええ、そりゃあ、解っています。自分を少しも立てずに只(ただ)諾諾(はいはい)と親の云う事ばかり守っていていいと思うような人間では仕方がないと云う事はよく解っています。そうですけど、今となって兄さんが、お父さんの前へ一ト言お詫びをしたからとて、それで急に自分と云うものが立たなくなるわけもないのですから、どうぞ、お願いします、今までは悪かったと一ト言お詫びをして下さい。それさえ兄さんがして下されば、お父さんお祖母さん初め、家中(うちじゅう)の者が皆晴々として、これから楽しく暮らして行けるのですからね。どうか眼をつぶって一ト言お詫びして下さい。お願いします」。母は亢奮して何度も頭を下げながらそれを云った。
 「しかし、それは感情が其所まで行ってないで、只眼をつぶってお詫びする事は僕にはできません。今の僕がお母さんの仰有(おっしゃ)るようにお父さんの前へ出て只お詫びするのは、ともかく広い堀を一つ飛び越さねばなりませんものね。そして仮に飛び越してお詫びしたところで、お父さんだってその堀には気がおつきになるから、形式ではお詫びができたようでも、それは結果からいって実際何(なん)にもなりはしますまい」。
 自分は続けて云った。「しかしともかくお会いして見ます。それは大部分感情の上の事ですもの、予定して行ったところでその通り運ばす事はできませんし、それはお会いした上で私の気持もなだらかに今私が思っている以上に進まないとは限りません」、「本統にそうです。そう穏かに是非進むようにね」、「お父さんはお書斎ですか?」、「そうでしょう。お書斎でなければ奥のお部屋でしょう」。
 自分は起って洋室の方へ行った。自分は自分の心が動揺している不安を感じた。この儘で直ぐ入って行くのはよくないと思った。自分は畳廊下を往ったり来たりして心を静めようとした。自分はどういう事から云おうかと云うような事を少しも考えなかった。二分間ほどで自分の気持は静まった。自分は父の書斎の入り口へ行ってノックした。返事がない。自分は戸を開けて見た。父はいなかった。奥の日本間の居間へ行って見た。其所にもいなかった。自分は又祖母の部屋へ帰って来た。「いらっしゃいませんよ」と母にいった。「お庭かも知れない。お呼びして来ましょう」。母は起って行った。少時(しばらく)すると母は急いで還(かえ)って来た。そして、「お書斎」と云った。
 自分は起って行った。
 書斎の戸は開いていた。自分は机の前の椅子をこっち向きにして腰掛けている父の穏かな顔を見た。父は、「その椅子を---」と窓際に並べた椅子へ顔を向けながら、自分の前の床を指した。
 自分は椅子を其所へ持って行って向い合って腰かけた。そして黙っていた。「お前のいう事から聴こう」と父は云った。そして「まさは彼方(あっち)に居るか?」と云った。その云い方が自分にいい印象を与えた。自分は、「居ます」と答えた。
 父は立って壁のベルを押した。それから又椅子へかえると、「それで?」と黙っている自分を促した。
 女中が用を聴きに来た。「ああ、あのね、鎌倉の旦那さんに直ぐ此所(ここ)へ来るよう」と父が云った。「お父さんと私との今の関係をこの儘続けて行く事は無意味だと思うんです」、「うむ」、「これまでは、それは仕方なかったんです。それはお父さんには随分お気の毒な事をしていたと思います。或る事では私は悪い事をしたとも思います」。「うむ」と父は首肯(うなず)いた。自分は亢奮からそれらを婉然(まるで)怒っているかのような調子で云っていた。最初から度々母に請合(うけあ)った穏かに、或いは静かにと云う調子とは全く別だった。しかしそれはその場合に生れた、最も自然な調子で、これより父と自分との関係で適切な調子は他にないような気が今になればする。「しかし今まではそれも仕方なかったんです。只、これから先までそれを続けて行くのは馬鹿気ていると思うんです」。
 叔父が入って来た。叔父は自分の背後(うしろ)にあった椅子に掛けた。「よろしい。それで? お前の云う意味はお祖母さんが御丈夫な内だけの話か、それとも永久にの心算(つもり)で云っているのか」と父が云った。「それは今お父さんにお会いするまでは永久にの気ではありませんでした。お祖母さんが御丈夫な間だけ自由に出入りを許して頂ければよかったんです。しかしそれ以上の事が真から望めるなら理想的な事です」と自分は云いながら一寸泣きかかったが我慢した。
 「そうか」と父が云った。父は口を堅く結んで眼に涙を溜めていた。「実は俺も段々年は取って来るし、貴様とこれまでのような関係を続けて行く事は実に苦しかったのだ。それは腹から貴様を憎いと思った事もある。しかし先年貴様が家を出ると云い出して、再三云っても諾(き)かない。俺も実に当惑した。仕方なく承知はしたものの、俺の方から貴様を出そうと云う考えは少しもなかったのだ。それから今日までの事も---」。
 こんな事を云っている内に父は泣き出した。自分も泣き出した。二人はもう何も云わなかった。自分の後ろで叔父が一人何か云い出したが、その内叔父も声を挙げて泣き出した。
 暫くすると、父は立って又壁のベルを押した。女中が来た時に、「お奥さんに直ぐ---」と云った。
 母が入って来た。母は父の横にある低い椅子に腰掛けた。「今、順吉の話で、順吉もこれまでの事は誠に悪かったと思うから、将来は又親子として永く交わって行きたいと云う---そうだな?」と途中で父は自分の方を見た。「ええ」と自分は首肯いた。それを見ると母は急に起ち上がって来て自分の手を堅く握り〆(しめ)て、泣きながら、「ありがとう。順吉、ありがとう」と云って自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかったからその頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。
 母は又叔父の所へ行って、「まささんありがとう、ありがとう」と心からの礼を云っていた。「お祖母さんに直ぐお話しして来い」と父が母に云った。母は涙を拭きながら急いで出て行った。
 妹達が六つになる禄子まで四人で入って来た。皆は誰にともつかず一つにかたまって其所でお辞儀をした。
 皆が出て行くと、父が不意に、「あした我孫子へ行って見よう」と云って、都合を訊くように自分の顔を見た。「どうぞお出で下さい」、「そうか。留女子も見たいし、お前の家も如何な家か見に行こう」。父は快活な顔をそて云った。「どうぞ」と自分は云った。

【和解拾四
 祖母の床は何時(いつ)か隣りの部屋から又祖母の部屋へ移されていた。叔父や自分が其所で話しているところに父が入って来た。父は、「順吉の事は、おききやったろう?」と云った。「聴いた」と祖母は首肯いた。
 父は祖母がもっとその後に何か云うかと待つ風だった。自分は祖母が、もう少し父の要求している気持に応じた様子を見せればいいのにと思った。しかし祖母には気持はあっても或る感情は露わせない性質があった。父も何か云いかけてよして了った。そしてどういう気持か、父は時々仏壇の方へ眼をやっていた。其所には前にも書いたように自分の死んだ兄を抱いた、死んだ母の下手な肖像が掛けてある。
 昼飯の時父は酒を飲んだ。母も叔父も自分も妹達も皆一つずつ飲んだ。飲めない者は真似だけした。
 何の為にそういう事をするのか誰も口に出すものはなかった。皆には只その胸に通い合う和らいだ嬉しい感情があるだけで誰もそれを口には出せなかった。それは気持ちのいい事だった。吾々は只雑談をした。それでも父は想い出して、「お浩(こう)。英(ふさ)子の所へ今日の事を電報で云ってやれ」と云った。
 英子というのは自分の一番上の妹で、鎌倉にいる。「今晩か、それげなければ明日早く私が行って話しましょう」と叔父が云った。「そうか。それなら、それでもよかろう」と父は答えた。父は又、「あしたは、我孫子へは誰と誰が行くのですか?」。態(わざ)とそんな事をいって小さい連中を見渡したりした。「禄(ろ)ゥちゃん行く」、「昌ァちゃんも行きます」、「そうか。そちらの大きい姉さん達はどうかね?」と父は笑いながらその方を見た。「みんな参ります」と淑(よし)子が云った。
 自分はその日朝飯をよく食わずに出て来たのだが、昼飯は少しも食う気がしなかった。自分は父が命じてくれた葡萄酒(ぶどうしゅ)を水に割って少し飲んだ。
 午後、父だけは少し酒に酔ったので少し醒(さ)まして、湯に入ってから行くと云うので別になったが、その他(ほか)祖母を除き、総勢七人で青山へ墓参りに出掛けた。自転車の自分は電車でない所は叔父と並んで歩いたが、二人の間でその日の話は何もしなかった。母とも同様だった。
 自分は昨年死んだ赤児の墓の前で皆に別れ自転車で四谷のSKの家へ行った。
 SKは庭へ水撒(ま)きをしていた。自分はSKがそれを済まして足を洗って来る間、母への礼手紙を書いた。永い間板挟みの苦しい位置にいて、何度失敗しても父と自分との和解の望みを捨てずにいてくれた事を感謝した。それから先刻(さっき)云った堀を飛越すような事なく、感情に何の無理もなく彼所(あすこ)に落ちつく事のできたのは自分には望外の事で、今度の和解は決して破れる事はないと信じている事などを書いた。
 自分はその日の事をSKに話した。SKは大変に喜んでくれた。そして大変気持のいい事として好意を見せてくれた。SKは、「康(さだ)子さんに電報を打たないか。喜ばれるだろう」と云った。「今日父と会うと云う事は多分知らないから、別に心配はしていないと思う」と自分は答えた。
 暫くすると集まる約束になっていた友が二人来た。
 自分はSKの家に来た時から非常に身体(からだ)も心も疲れて来た。そしてそれは不愉快な疲れではなかった。濃い霧に包まれた山奥の小さい湖水のような、少し気が遠くなるような静かさを持った疲労だった。長い長い不愉快な旅の後、漸(ようや)く自家(うち)へ帰ってきた旅人の疲れにも似た疲れだった。
 自分は終列車に間に合うように皆と別れて上野へ向かった。
 我孫子の停車場では三造が提灯を持って迎いに来ていた。歩いている時、「明日は麻布の旦那様がいらっしゃるそうで」と後から三造がいった。「電報が来たのか?」、「三時頃参りました」。「又小さい連中が来るからネ、お天気だったら蜆(しじみ)取りでもやるから、朝の内船を自家の前へ廻しておいてくれ」、「かしこまりました。それから、あしたの鳥の肉も先刻鳥屋へ行って頼んで参りました」、「そうか。そうしてお前はネ、来られたらなるべく早く来て家の廻りを少し掃除しておいてくれ」、「掃除はもう皆すっかりしておきました。奥様が先に立って、内も外もすっかりできています」。
 自分は自家の坂を登ろうとすると其所に妻が立っているのを見た。妻は黙って近寄って来て自分の手を両手で堅く握りしめた。そして、「お目出度(めでと)う」と云った。

【和解十五】
 翌朝自分は一人で停車場に迎いに行った。妻も行きたがったが、赤児が妙に身体をピクッピクッとさしていたので、自分は来させなかった。
 汽車が着いた。隆子が一番先に降りて、禄子、昌子がそれに続いた。次に父が降りて来た。自分はお辞儀をした。父は何の表情もない顔をして、「ああ」と云って軽く頭を下げた。
 自分は停車場を出るまで父と余り口をきかなかった。お互いに多少窮屈な感じがあった。自分はこの窮屈な感じはその内にとれてくれるだろうと思った。この窮屈を破ろうとしてない話を無理にするのは反(かえ)ってよくないと思った。父も無理に口をきこうとはしなかった。
 皆(みんな)は車に乗って自分の家(うち)の来た。妻が赤児を抱いて門から出て来た。父の顔を見ると妻の眼からは涙が出かかっていた。父は赤児を見ていた。
 その日は自分には一日気持のよい日だった。窮屈さは直ぐ去った。陶器の事、絵の事などが主な話題だった。自分は自分の持っている僅かな旧い陶器や古い布類(きれるい)などを出して来て父に見せた。父は近頃買った軸物の話などをした。吾々は少しも退屈しなかった。二人の間では前日の事は何も話されなかった。しかし父は小さい連中が皆戸外(そと)に出て行った時に、「順吉も今後は又親子として永く付き合って行きたいと云う希望だと云うし、それは私にとっても誠に望ましい事なのだから、これまでの事はなかったものとして、お前もその心算(つもり)になっていて貰わねばならん」と妻に云った。
 妻は何も云わずに涙を拭きながら只首肯いていた。自分は父が前日母に云った事をその儘ここで妻に繰返すかも知れないと父が何か云い出そうとした時考えた。そして自分は父がそれを云ったにしろ、自分は決して不快は感じないで済ませると云う自信を持っていた。ところが父はそうは云わなかった。自分は大変いい感じを受けた。自分は父に感謝する気持ちを持った。「慧子はどうした事だったかな---」と父が云った。自分達は答えなかった。しかし自分は慧子の事でも今は父に不快は感じていない事を自ら感じた。
 皆は三時少し前の汽車で帰る事にした。
 父は帰る時、又妻に、「これからは時々来るからね」と云った。「どうぞ、是非おいで遊ばして頂きます」、「どうぞ」と自分も一緒に云った。
 自分は停車場まで送って行った。汽車は遅れた。自分は叔子に、「兄さんはこれから少し忙しいから暫く東京へは出ない」と云った。側から昌子が見上げて、「お兄様、でも、今年中にいらっしゃるでしょう?きっといらっしゃいね。いい事、きっとよ」と云った。姉達は笑った。昌子には何か考えがあるらしく、何度も又これを繰返していた。自分はまだ満八歳にならぬ昌子の小さな心にもこの和解は決して小さくない出来事だったに違いないと思った。
 父は少し疲れたかのように見えた。暫くして汽車が着いた。皆は乗込んだ。父は自分のいるプラットフォ-ムとは反対の窓の側(わき)に腰を下ろした。妹達はこっち側の窓の重なり合って顔を並べていた。
 笛が鳴ると、皆は「さよなら」と云った。自分は帽子に手をかけてこっちを見ている父の眼を見ながらお辞儀をした。父は、「ああ」と云って少し首を下げたが、それだけでは自分は何だか足りなかった。自分は顰め面(しかめつら)ともつかぬ妙な表情をしながら尚父の眼を見た。すると突然父の眼には或る感情が現れた。それが自分の求めているものだった。意識せずに求めていたものだった。自分は心と心の触れ合う快感と亢奮とで益々顰め面とも泣き面ともつかぬ顔をした。汽車は動き出した。妹達が何時までも何時までも手を振っていた。長いプラットフォ-ムを出外れて右へ弓なりに反ってこっちが見えなくなるまで、手を振っていた。自分は誰もいないプラットフォ-ムに一人立って何時までも洋傘(こうもり)を上げている自分を見出した。自分は停車場を出ると急いで帰って来た。何故急ぐのか解らなかった。自分は父との和解も今度こそ決して破れる事はないと思った。自分は今は心から父に対し愛情を感じていた。そして過去の様々な悪い感情が総てその中に溶け込んで行くのを自分は感じた。

【和解十六】
 自分にはもう父との不和を材料とした「夢想家」をその儘に書続ける気はなくなった。自分は何か他の材料を探さねばならなかった。材料だけなら少しはあった。しかしその材料へ自分の心がシッカリと抱き付くまでには多少の時が要った。多少の時を経ても心が抱き付いて行かぬ事もある。そういう時無理に書けばそれは血の気のない作り物になる。それは失敗である。十五六日までの期日に何か物になるほどのものができるかしら?
 自分はこんな事を考えながらも、又不知(いつか)父との事を味わうような気持で考えていた。自分は最近に又会いたいと思った。自分にはニ三週間後に会うより今の内もう一度会っておく方がこの際実際的にもいいような気もしていた。自分は又何かで父に好意を現わしたいような欲求から自身の手で得た金でSKに父の肖像画を描いて貰って贈ろうと云う事を想い着いた。自分達の事を心から喜んでくれたSKにそれを頼むのも無意味でないと云う気がした。自分は早速SKに手紙を書いた。
 翌朝(九月二日)その手紙を出してから、自分はやはり上京して、父に会い、SKにも会い、その事に早く埒(らち)を開けておく方がいいと思った。
 自分は停車場に行く途中、郵便局に寄って自分宛ての手紙を受取った。鎌倉の妹からのがあった。自分は歩きながら読んだ。「今朝早く、寝ている内にまさ叔父さんがいらっしゃいまして、嬉しい嬉しいお話伺いました。私は伺っている内に泣き出して了いました」。
 自分と妻との名宛てにしてこう書いてあった。自分は涙ぐんだ。
 自分は上野から直ぐ麻布の家へ行った。父の書斎に一番先に行ったが父は其所に居なかった。仲の口から自分について来た昌子が、「そんならきっとお庭よ」と云った。
 昌子は座敷の縁側から、「お父さん、お父さん」と大きい声をして呼んだ。父は東家(あずまや)の中から急いで出て来た。父は電話と思ったらしかった。
 自分は庭下駄を穿(は)いて下りて行った。
 二人はこの時も亦、前々日の朝のような或る窮屈な感じで少し堅くなった。自分は仕方なかった。その儘肖像画の事を話して、坐って貰えるかどうか訊いた。父は快く承知した。
 自分が縁へ上って彼方(むこう)へ行こうとする時、父は立って何か考えている風だったが、不意に此方(こっち)を向いて何か云いそうにした。自分は一寸戻った。すると父は云いかけた事を、「ううっ」とその儘にして下を向いた。そして歩き出した。
 祖母の部屋へ行こうとすると、途中の部屋で母が寝ていた。母は大腸が悪いと云われたと云っていた。下痢が続いた為と何も食わない為に母は疲れ切っていた。「永い間の事が片付いたので、気の疲れも少し出たのかも知れないの」と母は云った。「そうですか。一昨日(おととい)の事は叔子からお聞きでしょう?」、「ええ。それから康子からも手紙を貰いました。本統にもう安心しました」。
 自分は其所に暫くいてから祖母の部屋に行った。祖母は元気な顔をしていた。それでも床はとってあったが、祖母は離れた所に座布団を敷いて坐っていた。「今度の事は気持に少しも無理がない点で、僕は大丈夫だと思っています」、「ああ、本統によかった」と祖母は三日前の時とは変った腹から気持よさそうな顔を見せた。「お高(そぼの妹)が帰って、お国で皆が寄った所で話したとッさ。皆は一緒に泣き出したと。あれ、あの手紙に書いて来た」。そういいながら祖母は寝床の上に重ねてあるニ三通の手紙を指さした。「そうですか」。自分はその手紙を見なかった。
 祖母は又父が我孫子は思ったよりいい所だと讃(ほ)めていた事、家や庭の事も讃めていたと、そんな事を云った。その内祖母は黙って了った。
 自分は何気なく他の話などをしていた。祖母は下を向いて返事をしない。自分で何か想っている内に感動して了ったのだろうと自分は思った。それとも又顎でも外れたかしらと云う気が一寸した。祖母はしかし口を堅く結んでいる。
 女中が来て何か云った。祖母は直ぐ口をきいた。
 鎌倉の妹が赤児を連れて出て来た。暫くすると父が出て来て、「まさの居ないのは残念だが、今日丁度皆集まったから何所(どこ)かへ飯を食いに行こう」といった。
 山王台の料理屋に行く事にした。自分の汽車の都合で、四時に其所へ行く事にして、そう電話を自身でかけていた。
 自分は間もなく麻布の家を出て、SKの家へ行った。SKは永田町の方へテニスをしに行って留守だった。自分は又そのテニスコ-トへ出掛けて行った。SKは汗水苦(あせみずく)になってHとシングルの勝負を争っていた。三十分ほどして、自分は二人と一緒に其所を出た。SKには十月幾日までに仕上げねばならぬ先約の仕事が二つあった。その後でよかったらと云った。自分は頼んだ。
 自分はHと一緒にSKの家へ行った。そして二時頃其所を出て、麻布へ帰って来た。間もなく鎌倉の妹の良人(おっと)も来た。八人揃ったが、弟の順三が中々帰って来なかった。父は頻(しき)りに気を揉(も)んで心当たりに電話を掛けるよう命じたりしていた。
 待ちきれなくなって皆は家を出た。雨が少し落ちて来たので、女だけ車で行った。父と自分と妹の良人とが歩いて行った。
 料理屋へ行ってからも順三は中々来なかった。父は可笑(おか)しい程、それに気を揉んだ。「来る筈の者が集まらんのはどうも気になっていかん」。弁解するようなこんな事も云った。
 しかし父は機嫌が良かった。順三が約束の時間に来ず、既にできた料理を出させずに皆で待っている事は、その場合多少主人役の位置にいる父の気を苛立たせ、癇癪(かんしゃく)を起さすには充分な事であった。自分は父が余り不愉快にならぬ内に順三が来てくれればいいがと思った。しかし父は気は揉んでも中々それを苛立たせはしなかった。自分は父が気を苛立つ事で穏かなその日の調子を乱したくない所から自身を抑えているのだとも思った。しかし多分それ以上に父はその胸に動いている調和的な気分から、それが苛立って来ないのでもあるのだろうと云う気がした。「もう少し待って見て、来なかったら始めようじゃないか」。父はそう自分に云った。
 自分は三年半ほど前、或る事で父に不愉快を感じた。しかし父はその時自分がそれほど不愉快を感じていると思っていなかったらしい。翌日、不意に父は家中(うちじゅう)の者を今いるこの料理屋に連れて行くと云い出した。そして電話をかけて人数を知らしたりしていた。自分はその時の気持で一緒に其所へは行けなかった。自分は母に断って一人昼頃から外出して了った。
 「順吉はどうして来なかったのだ」。先方(むこう)に行ってから頻りに父が云っていたという事を自分は後で祖母から聞いた。その時の事を憶(おも)い出した。自分のした事はあの場合仕方がなかった。それにしろ、父がその時感じた不愉快に対しては今更に気の毒な気がして来た。
 食事を始めると間もなく順三が来た。父は全く機嫌よくなった。
 七時頃皆は其所を出た。自分の乘る終列車までは二時間あった。父は自身は酔って少し睡(ねむ)いから帰るが、皆は送りがてら銀座の方でも散歩したらよかろうと云った。
 溜池で父は車に乗った。
 別れる時、その日は自然に父の眼に快い自由さで、愛情の光の湧くのを自分は見た。自分は和解の安定をもう疑う気はしない。
 皆とは銀座で別れた。
 自分は仕事の日の一日々々少なくなる不安を感じた。自分はやはり今自分の頭を一番占めている父との和解を書く事にした。
 半月ほど経った。京都から鎌倉へ帰った叔父からの手紙が来た。それは自分が月初めに出した礼手紙の返事だった。
 「先日の和解は全く時節因縁と深く感じ申し候。父上もこの度は大丈夫だろうと話された。君の手紙でも一時的の感じではないと云う事もあるし、拙者もその場で左様感じた。東西南北帰去来 夜深同見千岩雪(東西南北帰りなんいざ 夜深くして同じく見る千岩の雪) と云う古詩の興を感ずる云々(うんぬん)」。




(私論.私見)