前編第2の2(6から9)

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.8.3日

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 2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日 れんだいこ拝


【暗夜行路前編第2の2(6から9)】
 六
 翌日彼は尾の道へ帰って来た。割りにいい天気で、往(ゆ)きに見られなかった鞆の津の月を見るにはいい日だった。が、彼はそう落ち着いていられない気持ちから直ぐ尾の道へ帰って来た。そして、その晩早速手紙を書こうとしたが、さて、どういう風にそれを切り出したものか、一寸迷った。単刀直入に書いて了えば、一番簡単だつたが、余りにそれは寝耳に水に違いなかった。寝耳に水をさされた人が狼狽して起き上がる時に、此方が幾ら落ち着いて理解の行くように説明したところで、耳を貸す筈はない。そのようなものだと思った。こりはやはり信行に書いて、信行から静かに話して貰うより道はないと考えた。謙作は信行にあて、これまでお栄に対しそう云う衝動で随分苦しんだ事から、屋島で結婚を想い立つまでを正直に書いた。

 そして、しかしこの事は父上や義母上(ははうえ)や、その他本郷の人達には甚だ不愉快な事であるのは勿論だが、愛子さんとの場合には父上はそういう事は自身やるようと云うお考えだったから、改めて誰にも相談はしないつもりです。相談する事で、思わぬ邪魔が入っても面白くないし、それにもしこの事の為に今後本郷へ出入(ではい)りを差し止められるような事があっても、それは父上や義母上としては無理ない事だから、僕は素直な心持でそれをお受けするつもりです。というような事を書いた。恐らくお栄さんは吃驚(びっくり)する事でしょう。しかし其処を君からよく理解の行くよう話して頂きたく思います。そしてこの事に関しては君にもお考えがあると思いますが同時に僕の性質も知っていて下さるのだから、甚だ虫のいい事ですが、とにかく僕の心持をそのままにお栄さんに伝えて頂く事をお願いします。と書いた。彼は、この手紙の他にお栄にも書いた。大変御無沙汰しています。御変りない事と思います。---僕はこの手紙で何にも書きません。詳(くわ)しい事は総て信さんの方へ書きました。それはこれと同時に出しますから、恐らくこの手紙を御覧になった翌日には信さんが行って色々お話する筈です。そしてそれはあなたを吃驚さす事です。しかしどうか只驚いていずに、よく僕の心持を汲んで静かに考えて下さい。そして臆病にならぬよう、何者にも恐れぬよう、この事切にお願いしておきます。彼はこんな風に書いた。

 彼はこの二つの手紙を書き終ると、却って変な気持ちを感じた。これで自分のそう云う運命も決って了つたと思うと淋しい心持になった。しかしもうその事を迷う気はしなかった。そして、その時はもう夜も十二時過ぎていたが、この手紙をまだ投函しにいという事で尚迷うようでは不愉快だという気持から、提灯をつ付け、それから彼は停車場まで、それを出しに行った。返事の来るまでが不安であった。直ぐ返事を書くとしても間が三日かかる。しかし何かと愚図愚図していれば五日くらいはかかるに違いないと思った。こり五日間の不安な気持ちが今から想いやられた。彼はお栄に、「強くなれ、恐れるな」と書きながら、自身時々弱々しい気持に堕(お)ちる事を歯がゆく思った。信行に対しても、自分の性質は知っていてくれるのだからと、他人の考えでは動かされないからという気勢を見せながら、未だに二つの反対な気持が、自身の中でぶつかり合うのを腹立たしくも情けなくも感じた。実際彼には同じくらいの強さで二つの反対した気持があった。この事がうまく行ってくれればいいという気持と、うまく行かないでくれ、というような気持と。何方(いずれ)が彼の本統の気持かよく分からなかった。何方にしろ決定すれば、彼はそれに順応した気持になれるのだった。しかしそうはっきり決定しない内は、変にこういう反対した二つの気持に悩まされる。それは癖で、又一種の病気だった。そして、結局はお栄の意志で運命を決める。それより他はないという受け身な気持におさまるのであった。彼は心ではそんな状態に居ながら、一方、急に肉情的になつた。お栄との結婚、この予想は、様々な形で彼のそう云う肉情を刺激し出した。そして実際にもその間に幾度(いくたび)か放蕩した。

 六日目、到頭信行からの返事が来た。お前の手紙を見て、一時はかなり驚いた。自分として正直な事を云えば色々な理由でこの事は思い止(とど)まる事ができれば思い止まって貰いたいと思った。しかし前の事もあるし、又お前の性質として、行く所ろまで行かずに、そんな事を云ったところで、諾(き)きそうもないし、一応お栄さんにお前の手紙を見せ、そして或るところは自分の口から補い、お前に頼まれただけの事をはたした上で、その結果と一緒に自分の考えもお前に書いてやるのが本統だと考え直した。今日会社の帰り福吉町へ行って来た。一言に云うとお栄さんは承知しなかった。お前がお栄さんに出した手紙も見せて貰ったが、お栄さんはあれで、大概想像していたらしくお前の手紙を見てそれほど驚かなかった。そして寧ろ立派な態度で、それはいけない、と云う意味を云われた。俺は感心した。こういうとお前は俺を如何にも頼み甲斐のない、お栄さんがそう云ってくれるのを待っていたように思うかも知れないが、---実際そういう気持もあったが、それにしろ、お前の手紙の意味を説明して一通りは勧める気で行ったのだ。ところが、お栄さんの態度はそういう隙を全(まる)で見せないほどきっぱりとしたものだった。お栄さんとは色々話した。お栄さんは風邪で二三日前から寝ていたのだが、俺が行ったので起きられたのだ。

 俺は今、この手紙で何もかもお前に書かねばならなくなった事を非常に心苦しく思う。俺はお前に対し、今まで本統に済まない事をしていたのだ。そして今でもそれを打明けるのは非常に心苦しい。しかし黙っていて、この後(のち)何時までもお前を苦しめる事を思うと、一時は崖から突き落とすような言ではるが、思い切って書かねばならないと決心した。お前は母上と祖父上との間にできた子供なのだ。詳しい事は知らない。俺も中学を出る頃、神戸の叔母さんに聴いて初めて知ったので、俺がそれを知っている事は父上でも義母上でも恐らく今だに知ってはいられまい。それ故、俺にも詳しい事を知る機会がない。又知りたくもない気持もあって、そのままでいるが、とにかく、茗荷谷に自家があった頃、父上が三年独逸へ留学された。その間にお前は生れたのだ。そして、こんな事まで書くのはお前を一層苦しめるばかりだとは思うが、知っているだけは総て云う決心で書き出したから書く。自家の祖父上祖母上は父上に秘密で堕胎して了おうとしたのだそうだ。しかし芝の祖父上が「あなたはこの上にも罪を重ねるつもりですか」と非常に怒られたそうだ。それ故そういう事なしに済んだが、母上は直ぐ芝へ引き取られて行った。そして、芝の祖父上は何から何まで正直に書いて独逸へ送られたという事だ。勿論離婚を覚悟してだ。しかし父上からは、総てを赦(ゆる)すという返事が来た。そしてその手紙が来ると間もなく自家の祖父上は一人自家を出て、何処かへ行って了われたのだそうだ。

 俺はお前がそういう呪われた運命のもとに生れたと聴いた時、随分驚きもし、暗い気持にもなった。そして同じ同胞(きょうだい)でどうしてお前だけが別に扱われているのかという漠然とした子供からの疑問も解けた。そして俺はこの事はお前も屹度今は知っているに違いないと考えていた。長い間には何かでお栄さんがそれを知らさない事はあるまいと思ったし、それでなくてもお前自身そういう疑問を起したかも知れないと考えていた。ところが愛子さんとの事で、お前が全くそれを知らずにいる事を知って実は俺も不思議に感じたのだ。俺は今日お栄さんと会ってこの事でも感心した。お栄さんは父上との約束を守ってお前に話さなかったのだ。「可哀想でそんな事、云えませんわ」とお栄さんは云っていられた。或いはそれが本統かも知れない。しかし何(いず)れにせよ、この長い年月(としつき)、遂に饒舌(しゃべ)らなかつたという事は普通の女には中々でき難(がた)い事だ。

 今になっていうが、愛子さんとの事も、調(ととの)わない原因は全く其処にあったのだ。先方のお母さんは一方お前に同情していながら、いざとなると、其処まではできなかったらしい。これはしかし慣習に従って考えるああいえう人としては仕方がない。あの時俺はお前が少しも知らずに一人苦しんでいるのを見て、これは苦しくても知らさねばならぬという気持にもなった。今云わなければ屹度後でお前に怨(うら)まれるとも思った。しかし一方では実に知らしたくなかった。姑息と云えば姑息な気持だ。それを知ったお前が、只でも苦しんでいる上に又それで苦しむ事も堪らなかった。それから亡き母上のそういう事を暴露する事もつらかった。その上に一番俺に問題だったのはお前が小説家である以上、もし知れば、そしてその事で苦しめば尚の事、屹度それがお前の作物に出て来ない筈はないと思ったからだ。こういうとお前の仕事に如何にも理解がないと思うだろうが、俺としては今更に母上のそういう過失を世間に知らして、今、漸く老境へ入られようとする父上に又新しく苦痛を与える事が如何にも堪えられなかったのだ。父上が独逸でその事を知られてからの苦しみ、そしてその苦しみから卒業されるまでの苦しみは恐らく想像以上に違いない。その古傷を再び赤肌(あかはだ、せきら)にする。これは考えても堪らない事だ。これは全く俺の弱いところから来た考えかも知れない。実際俺は段々年寄って行かれる父上をどう云う事ででも苦しめるのは非常にこわいのだ。

 しかし同時にお前にも非常に済まない気でいた。殊にお前のような仕事をする者に、その者の持って生まれた運命を故意に知らさずにいるというのは悪い事に違いない。愛子さんの事があった時にもお前がどうしても愛子さんを貰いたい、云い張ったら、できるだけの事をして掛け合って見て、それでもし駄目なら、その時は仕方がない、本統の事を打明けてお前に断念して貰おうと思ったのだ。ところが、幸いにお前が思いきるというので実はほっとしたのだ。神戸の叔母さんが俺にそれを打明けた時に「呪われた運命」というような言葉を使った。そして俺もそんな風にやはり考えていたが、後には段々お前の運命をそういう風に考えるのは少し邪気のある小説趣味から来た考えだと思うようになった。今後来るお前の運命がその為に必ずしも呪われると決った事はない。総てが無邪気に順調に進んだならば、そういう風にして生れた事も呪われた事にはならんいのだ。俺は気軽に考えようとした。総ては過ぎ去った事だ。過去は過去として葬らしめよ。そして新しくよき運命を拓いて行けばいいのだ、と思った。ところがやはり愛子さんの事などではそれが祟ったので、少しは変な気持にもなった。しかしそれとてもそう大きく考える必要はないと思っていたのだ。が、今度お前のいい出した事で、もしそれをお前が押し通せば、これは少し危険だというような気がして来たのだ。そういう事が二重になる。それが何となく恐ろしい気がしたのだ。お栄さんが、いうのも、他の理由はとにかく、致命的にそれを否定されるところは、そういう事が二重になるのを恐れてなのだ。

 俺は大概の事は賛成したい。実際賛成できた。しかし今度の事はどうしても俺には賛成できない。何か暗いものが彼方(むこう)に見えている。見す見すにその中へ進んで行くのを見るような気がする。お前のお栄さんに対する気持ちには同情する。それを不道徳という風には考えない。しかし道義的の批判は別として、何だか恐ろしい。この感じは軽蔑できないもののように俺は思う。以上で大概書くべき事は書いた。俺は只この手紙がお前に、どれほど大きい打撃を与えるか、それが心配だ。直ぐ東京へ帰って来ないか。それが一番いい。俺が行ってもいいが、帰る方が早い。しかし俺に来て欲しかったら遠慮なく電報を打ってくれないか。一緒に九州の方へ旅しても面白い。しかしなるべく帰って来ないか。自暴自棄を起すお前ではない事は信じているが、随分参る事と思う。何事も一倍強く感ずる性(たち)には一層の打撃だ。しかしどうか勇気を出して打ち克ってくれ。お栄さんからは別に返事を出さない筈だ。まだ風邪も本統でないし、しかしお前が帰ればお栄さんは随分喜ぶ事と思う。俺も会いたい。直ぐ帰る事望む。こう書いてあった。

 読みながら、謙作は自分の頬の冷たさを感じた。そして、不知(いつか)手紙を持って立ち上がっていた。「どうすればいいのか」。彼は独り言を云った。狭い部屋をうろうろと歩きながら、「どうすればいいんだ」と又云った。殆ど意味なく彼はそんな言葉を小声で繰返した。「そんなら俺はどうすればいいのか」。総てが夢のような気がした。それよりも先ず、自分と云うものが---今までの自分と云うものが、霧のように遠のき、消えて行くのを感じた。あの母がどうしてそんな事をしたか? これが打撃だった。その結果として自分が生まれたのだ。その事なしに自分の存在は考えられない。それは分かっていた。が、そう思う事で彼は母のした事を是認できなかった。あの下品な、いじけた、何一つ取り柄のない祖父、これと母と。この結びつきは如何にも醜く、穢(けが)らわしかった。母の為に穢らわしかった。彼はたまらなく母がいじらしくなった。彼は母の胸へ抱きついて行くような心持で「お母さん」と声を出して云ったりした。
 七
 気持にも身体にも異常な疲労が来た。彼はもう何も考えられなかった。彼はそれから二時間ばかり、ぐっすりと眠った。四時頃眼をさました。その時は気分も身体も殆ど日頃の彼になっていた。彼は顔を洗って、少時(しばらく)、縁へしゃがんで、ぼんやり前の景色を眺めていた。その内彼はお栄や信行が心配しているだろう事を想い出した。そして早速返事を出す事にした。お手紙拝見しました。一時はかなり参りました。日頃の自分を見失った程でした。しかし一(ひと)寝入りして今はもうそれを取り戻しています。君が云いにくい事を打明けて下さった事は本統にありがたく思いました。母上の事、今は何も書きたくありません。しかしそういう事の母上にあったというのは何より淋しい気をさす事でした。尤もそれで母上を責める気は毛頭ありません。僕には母上がこの上なく不幸な人だったという事きり今は考えられません。父上に対しては、多分、この事を知ったが為に僕は一層父上に感謝しなければならぬのだろうと云う気が漠然しています。実際父上がこれまで僕にして下さった事は普通の人間にはできない事だったに違いありません。それを感謝しなければならぬと思っています。そして父上がこの事から受けられた永いお苦しみについても想像はつきます。随分恐ろしい事だったに違いありません。只僕としては、これから先、父上とどういう関係をとるか、これを疑問にしています。父上に御苦痛を与える事なしに、やはり今度を機会として、無理のない処まで関係をはっきり落ち着ける方がいいように考えます。しかし君との関係は別です。それからできる事なら、咲子や妙子との関係も別だと云いたい気が実に強くしています。

 自分に就いては、どうか余り心配しないで頂きます。一時は随分まいりましたし、今後もまいる事があるかも知れません。しかし回避かも知れませんが、自分がそういう風にして生れた人間だという事を余り大きく考えまいと思っております。いやです。それは恐ろしい事かも知れません。しかしそれは僕の知った事ではありません。僕には関係のない事がらです。責任の持ちようのない事です。そう考えます。そう考えるより仕方ありません。そしてそれが正当な考え方だと思います。そんな風にして自分が生まれたという事は不愉快な事です。しかし今更にそういう意識で苦しんだところで何にもなりません。無益で馬鹿気ています。そして僕はそれを呪われたものとも考えません。肺病を遺伝される方がよほど呪われた事です。

 君は愛子さんとの事でそれが祟ったといわれますが、あれは何方(どっち)かと云えば、僕が断られる原因を知る事ができなかったところに、変な暗い苦しみがあったのです。原因が分かっていれば、あれ程に弱らずに済んだのです。しかし、そういって君を責める気ではありません。君の打明けられないお気持ちよく分かりました。少しも無理とは考えません。殊に父上想いの君としては当り前の事です。そして僕は今度の機会に又それを繰返さず、打明けて下さった事を心から感謝しています。君が打明けて下さらなければ、僕はまだまだ知らずにいなければならなかったのです。しかも知らぬままにその事は不思議な重苦しいものとして、僕の頭に被(おお)いかぶさっていたかも知れません。どうか僕の事は心配しないで頂きます。僕は知ったが為に一層仕事に対する執着を強くする事ができます。それが僕にとって唯一の血路です。其処に頼(よ)って打克つより仕方ありません。それが一挙両得の道です。

 帰京の事、もう少し延ばします。しかしこの先き余りに参る場合あれば、そう我慢はしません。君にもお栄さんにも随分会いたくなる事あります。弱音を吹けば弱音は幾らもあります。しかしもう少し落ち着く考えです。仕事の収穫が余り少な過ぎます。しかし帰るべき時が来ればなるべく素直に帰ります。それから創作に自家の事の出る事、心配されるお気持、同感できます。それは何かの形で出ない事はないかも知れません。しかし不愉快な結果を生ずる事にはできるだけ注意します。咲子妙子によろしく。お栄さんも余り心配しないよう願います。それからお栄さんとの事はもう少し考えさして頂きます。しかしお栄さんにはっきり断る意志があれば止むを得ませんが、僕としてはもう一度、申出をするか、このまま断念するか、この事をもう少し考えたく思います。

 書き終ると、彼は完全に今は自分を取り戻したように感じた。彼は立って柱に懸けて置いた手鏡を取って、自分の顔を見た。少し青い顏をしていたが、其処には日頃の自分が居た。亢奮から寧ろ生き生きした顔だった。何という事なし彼は微笑した。そして「いよいよ俺は独りだ」と思った。彼には自由ないい気持が起った。外から声をかけて、隣の婆さんが恐る恐る障子を開けた。夕食の飯を持って来たのである。そして彼が何も菜(さい)の支度をしていないのを見ると、「でべらないと焼きやんしょうかの」といった。彼には殆ど食欲がなかった。「後で食うから其処へ置いとって下さい」。婆さんはお櫃(ひつ)を其処へ置いて帰ると、又湯がいたほうれん草を山盛りにつけた皿を持って其処へ置いて行った。

 彼は矢張り何となく家へ落ち着いていられない気持になった。丁度新地の芝居小屋に大阪役者が来ている時で、彼は隣りの老人夫婦を誘って其処へ行って見ようと思った。しかし隣りではその晩三原という処へやってある孫娘が泊りがけで来る筈だったので、行けなかった。爺さんは婆さんにお前だけ行けと仕切に勧めたが、婆さんは「へえ、わしもやめやんしょう」。こんな事をいって笑いながら中々応じなかった。婆さんは後妻で子がなかった。それ故それは義理の孫娘だった。「折角じゃ、お前だけ供をせえ」。爺さんはいい機会を逃すことを惜しむように押して云った。が、婆さんはどうしても応じなかった。切りがないので、「そんなら又この次ぎにすればいい」。こういって謙作は婆さんのつけてくれた小さいぶら提灯を下げて一人坂路を下りて行った。

 盛綱の芝居をしていた。それは今までとは異った平舞台に沢山の金屏風を立て廻してする首実験で、盛綱になった役者が、浄瑠璃の三味線に乗って寧ろよく踊っていた。少しも内面的なところがなく、しかし気楽に見ているにはそれも面白かった。そして三幕ほど見て其処を出た。彼はぶらぶらと一人海添いの往来を帰って来た。彼の胸には淋しい、謙遜な澄んだ気持が往来していた。お栄でも信行でも、咲子でも、妙子でも、その姿が丁度双眼鏡を逆に見た時のように急に自分から遠のき、小さくなって了ったように感ぜられた。そして誰も彼もが。それは本統に孤独の味だった。しかも彼にはそれらの人々に対し、実に懐かしい気持が涌き起っていた。そして彼は亡き母を憶い、何といつても自分には母だけだった、という事を今更に想った。幼時の様々な記憶が甦(よみがえ)ってきた。彼は臆面もなく感傷的な気持に浸ってそれらへ振り返った。それがせめてもの安全弁だった。彼は此処でも屋根に乗った時の記憶を想い浮べ、涙ぐんだ。しかし母の床に深くもぐって行った時の事を憶うと、彼は不意に何かから突き返されたような気がした。その時の母の情けない気持が彼に映ったのだ。母にはそれが自身の罪を突きつけられる事だったに違いない。罪の子、自分は本統に罪の子なるが故に生れながらにして、そう出来ていたのではなかったか。こんなに考えられた。

 彼は段々自分が、そういう気分に惹き込まれつつある事を意識した。坂路で惰性のままに段々早くなる、それを踏み止(とま)るような心持で、寧ろ意志的に彼は気分を惹き戻そうとした、手段として、彼は広い広い世界を想い浮べた。地球、それから、星、(生憎(あいにく)曇っていて、星は見えなかったが)宇宙、そう想い広めて行って、更にその一原子ほどもない自身へ想い返す。すると今まで頭一杯に拡がっていた暗い惨めな彼だけの世界が急に芥子粒(けしつぶ)程のものになる。---これは彼のこういう場合の手段で、今も或る程度には成功した。

 少し腹が空いて来た。彼は時々行く西洋料理屋まで引き返そうかと思ったが、新地を又通って、行く事がいやに思えた。そして暗い海添い道を一寸後戻りして蠣(かき)船料理へ行った。桟橋からかけ橋を渡って入ると紺のの青くはげ落ちた法被(はっぴ)を着た十四五の生き生きした子供が中腰でないと歩けない小さな廊下から彼を座敷へ案内した。座敷には低い天井から暗い電燈が只一つ下がっているばかりだった。彼は食うものを云いつけた。そして、それを待つ間に座敷の陰気臭さが又彼の気分に影響して来た。彼は殊更に自分の頭を仕事へ向けようとした。それは本統に今の彼には唯一の血路に違いなかった。しかしそう思っても、努めても、彼の気分は却々(なかなか)その方へ入って行かなかった。変な淋しさ、そして、暗い何か知れぬものが四方から被いかぶさって来る。そして今はそれを跳ね返すだけの力は、身内の何処にも潜んでいなかった。頭も胸も全(まる)で空虚だった。そういうものは浸み込み放題だった。彼は浪に捲き込まれた者が浪に身を任せ、その過ぎ去るのを待つような心持で、今は素直にされるままになっていた。それより仕方がないと考えた。

 彼は低い窓障子を開けて、其処から外の景色を眺めた。石垣の上が暗い往来で、向う側に五六軒破風(はふ)を並べて、倉庫がある。新地から宿屋へ呼ばれて行く芸者だろう。三四台続いた車の上で互いに浮かれた高調子で、何か云い合いながら通って行くのがその暗い中に見られた。自分のような運命で生まれた人間も決して少なくないに違いない。謙作はそんな事を考えた。道徳的欠陥から生れたという事は何かの意味でそれは恐ろしい遺伝となりかねない気もした。そういう芽は自分にもないとは云えない気がした。しかし自分には動じにその反対なものも恵まれている。それによって自分はその悪い芽を延ばさなければいいのだと思った。本統につつしもう。自分は自分のそういう出生(しゅっしょう)を知ったが為に一層つつしめばいいのだ。少しもそれに致命的な要素は含まれていないのだ。寧ろ親の泥酔中にできた子の生涯呪われた生理的の欠陥などに較べると、それは遥かに仕合せに思えた。淫蕩な気持、これを本統につつしまねばならぬ。そんな事を思った。

 食事をのせた大きな盆を持って、先刻の子供が大股に入って来た。そしてそれをぐらぐらする小さなちゃぶ台の上に置くと元気に一寸頭を下げ、出て行った。腹が空いているつもりだったが、彼は余り食えなかった。酢にした蠣(かき)だけが食えた。何か小さな物が舌の上に残ったので、彼はそれを指の先に落として見た。それは目高の小さい真珠だった。勿論大きさからいっても別に価(あたい)のあるものではなかったが、口へ入れたものから、そんなものの出たところに何かしら幸運らしい気持ちが感ぜられた。
 
 十日ほど経った。その間彼は幾度か参り、又元気になった。元気になった時はもう参らないぞ、と思った。が、その元気---亢奮が去ると、又ジリジリと参った。それは熱のようなものだった。今は「時」によって自然それのうすめられるのを待つよりなかった。彼は蠣船(かきぶね)から持って帰った小さい真珠を咲子へ送ってやった。そして咲子からその礼手紙が来た時に、一緒に信行からも一通来た。困った事が起った。俺はお前に済まない事をして了った。自分の残慮からお前に思わぬ不快と迷惑を与える結果になつた事をあやまらなければならない。俺はその事で生まれて初めてといっていいくらい烈しい衝突を父上とした。その結果は矢張り思わしくない。実際それは云わなくてもいい事だったが、深い考えもなしに俺はお前がお栄さんに対してした申出(もうしいで)の事を母上に話したのだ。ところが直ぐそれが父上へ伝わった。父上は非常に怒られた。最初俺は何がそれ程に父上を怒らしたか解らなかったほどだ。俺はそんな父上を初めて見た気がした。「そんな事は断然ならんから。お栄は今から直ぐ解雇して了え」。こんな風に云われた。今になれば、俺にも父上の気持はよく解る。何がそれほど父上を激怒させたか。それを想うと、涙が出て來る。それは、お前に対する怒りでも、お栄さんに対する怒りでもない。そういう間違った事(この言葉は父上の言葉だが)に対するそれは激怒なのだ。

 が、俺はその場にあって、其処まではつい考えられなかった。その時の俺の気持を云えば先ず何よりも父上の激怒に度肝を抜かれて了ったのだ。次に俺はお前に対し、これは大変済まない事をして了ったという気がした。そうしてこれはどうしても父上を説いて、お栄さんを出して了えというような今となれば最早父上としても僭越過ぎる、そういう命令的な言葉を取消して貰わねばならぬと、思ったのだ。面食らっている俺にはその場合、それだけしか考えられなかった。しかも、俺として、近頃段々好意を感じて来たお栄さんを、そんな調子で出して了うと云う事は長い間散々世話になった人に対する如何にも道でない気がしたのだ。其処でお前の為にも弁じたが、それよりもお栄さんの為に弁じて、かなり烈しく反対したのだ。「貴様までがそんなことをいうか」。父上は机の筆筒(ひっとう、ふでつつ)を、いきなり俺の膝の前へたたきつけられた。その時筆筒の底にあったペン先が、どうしたはずみか一本畳へささった。俺はそれを見詰めながら、これはとても今話したところで駄目だと思った。それでも俺は、「そんな事を仰有(おっしゃ)っても、謙作が承知しますまい」といった。「いや断然それは俺が許さん」と父上は云われた。仕方がない。俺はそのままその場を切り上げたが、後で亢奮が少し静まると、初めて俺には父上の気持がハッキリ映って来た。俺は何年振りかで泣いた。そして自分でつくづく馬鹿だと思った。俺の残慮は一度にお前やお栄さんに思わぬ迷惑をかけ、父上には漸く忘れかけた苦痛を呼び起して了ったのだ。どうか俺を余り責めないでくれ。云うまでもなく、それは全く悪意からではなく、残慮からの過失だったのだ。

 ---俺は本統にこの手紙が書きにくい。何一つお前に気持のいい事が書けず、又自分としても、何一つ頼み甲斐のある兄らしい事(事実はどうあろうと、俺はお前を何時までも弟と思っている)ずできず、反(かえ)ってお前を失望さす事ばかり続けている事は実に俺も心苦しい。俺はお前に愛想(あいそ)を尽かされるだろう。俺は同じ晩又父上と会った。その時は父上も俺も前とは全く変わっていたが、それは気分の上の事で、平静ではあったが、父上の云い分は前と少しも変っていなかった。もう俺はそれに反対できなかった。そして俺は父上の云われる通りを承知してしまったのだ。

 表面上の理由はこうだ。お前がそうして尾の道にいる以上、別に東京に家を持っている必要はないし、お栄さんとしても、永久に一緒にいる筈の人でないのだから、早く一人になって、生涯安心の道を立てた方がいいだろうと云うのだ。で、お栄さんの為には父上は前からそのつもりでいたように、二千円だけの金をあげると云うのだ。俺は二千円ばかり、今時どんな商売をするにしても足りはしないから、五千円くらい出して頂きたいと云ったのだ。父上は中々承知されなかったが、仕舞いに三千円だけ出すと云う事になった。こんな事まで書くのはお前の気を悪くする事に違いない。しかし万々一、お前の気持が変って、これを承知する場合がないとも云えないので、こんな事も決めたわけだ。母上は俺と同様、父上にこれを話した事を後悔していられる風だ。しかし一切、この話の中に入られないのは、却って吾々の為に好都合だ。で、俺は昨日とにかく、この事を云いに福吉町へ行った。勿論、この事は父上の意見だけで決められる事ではない。だから、俺のは寧ろ只その報告に行ったのだ。---其処で露骨に云えばこういう事になる。

 父上の命令的な云い条は、それを認める認めないは実はお前たちの勝手なのだ。只認めないとなると、お栄さんの受け取る筈の金を請求する事は一寸困難になりそうだ。これだけだ。俺はその事も、加古氏露骨だったがお栄さんにハッキリ云ったのだ。しかしお栄さんはそれに対し、何もハッキリした返事はされなかった。無論大した金ではないが、お栄さんのような境遇の人にとって、そう冷淡ではいられなかったに違いない。お栄さんからすれば、自身お前と結婚しようとは思っていないから、早晩お前が誰かと結婚した場合、別れる事に変りはないと考えられるのが本統らしい。只それは時期の問題だ。今、直ぐ別れるか、他日かという。しかし金の方は今なら受取れるが、他日では駄目だとなると、これは問題が変って来る。それ故お栄さんは自身のこれからを考えれば、父上の云われるように今お前と別れるのがいい事にもなるのだが、又まるで異う気持から、今お前と引き離される事は随分つらいらしく、それは俺の眼にも見えた。「私には解りませんわ、何事も貴方(あなた)と謙さんにお任せ致します」。こうお栄さんは云われた。実際そうとよりお栄さんとしては云えない事だ。結局ハッキリした事は何も聴かずに帰って来たが、お栄さんはお前がまだ尾の道に居るようならば、一人でこんな家に住んでいるのは贅沢過ぎるから、とにかく最近、もっと小さい家に引越ししたいと、それは頻りに云っておられた。で、俺もその事は賛成して来た。

 そして夜遅く(一つは父上と会うのがいやだったので)帰って来ると、二十八日出しのお前の手紙が来ていた。俺はそれを読みながら、流石(さすが)お前らしく、参りながらも、その苦しみから抜け出す路(みち)を見出そうとする気持に感心した。本統に随分苦しかった事と思う。しかしその苦しみに又添えて今度のような問題を云ってやらねばならぬ事を考えると俺は全く気が滅入って了った。のみならず、俺はお前がお栄さんに対する申出をまだ断念していないのを見ると、これはもしかすると今度の問題でその決心を一層堅くしはしまいかという不安を感じた。不安と云っては済まぬ気もするが、実際俺にはそれは不安だ。お前の為にも不安だが、父上がそれから受けられる苦痛を考えると、変に不安になる。俺は本統に自分の無力を歯がゆく思う。全く板ばさまりだ。もし自分に力があればこんな事もどうかできる事かも知れない。しかし俺にはどうする事もできない。父上は父上の思い通りに主張される。お前はお前の考えに従って何でもしようとする。両方それは正しく、両方に俺はよく同情できる。が、さて自分の立場へ帰って、それを考える時に、俺は本統にどうしていいか分からなくなる。

 全く俺は臆病なのだ。二三年前一年家を持たした事のある女とも、約束しながら、仕舞いに俺はそれを破って了った。これは恥ずべき事とは思うが、逆も承知する筈のない父上との衝突が考えてもいやだったからだ。衝突はいいが、俺が勝ったとしても父上がそれで弱られる事を考えると、俺にはそれを押してやる気にはなれない。幸いにその女も簡単に納得したからいいようなものの、こういう事はお前としては考えられない事かも知れない。それからお前がたつ前日にも一寸いったが、俺は今の生活をどうかして変えねばならぬという気を随分強く感じている。精(くわ)しい事は長くなるから書けないが、あの時お前は「それなら直ぐ会社をよしたらよかろう」といったが、それすら俺にはできない。---今更こんな事を書くまでもないが、どうして、こう弱いか自分でも歯がゆくなる。

 其処で仕方がない。俺は俺の希望を正直に書く。できる事なら、どうかお栄さんの事を念(おも)い断(き)ってくれ。これは前の手紙にも書いた通り、必ずしも父上を本位にしていうのではない。その事は何故かお前の将来を暗いものとして思わせる。そして尚できる事なら、この機会に思い切ってお栄さんと別れてくれ。これは後になれば皆にいい事だったという風になると思う。それはお前の意地としては、中々承知しにくい事とは思う。が、それをもしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ。俺は俺の過失に重ねて、こんな虫のいい事をいえた義理でない事をよく知っている。が、俺の希望を正直に現わせばこういうより他ない。重ね重ね俺はお前に済まぬ気がしている。この手紙もっと、ずっと前に出せたのだが、続け様にいやな事を聴かす事も恐れたし、それに、俺もいいたくない事を書かねばならぬので、つい今まで延ばして了った。俺はその後、気にしながらまだ福吉町へも行かない。そして父上ともあの晩以来何だか会うのがいやで、会わぬよう避けている。云々。

 謙作は漸く、この彼には不快な手紙を読み了った。そしてやはり彼は何よりも父の怒りに対する怒りで一杯になった。しかも彼は自分の怒りが必ずしも正しいとは考えなかった。同様に父の怒りも正しいとは考えられなかった。とにかく彼は腹が立った。愛子の事に、「そう云う事は自分でやったらいいだろう」と変に冷たく云い切った父が、何時か彼には浸み込んでいた。そしてその時はそれをかなり不快に感じたが、段々に彼は「それもいい」という風に考えるようになった。それ故、今度の場合でも父が不快に感ずる事は勿論予期していたが、それ程に怒り、それ程に命令的な態度を執ると云う事は考えていなかったから、何となく腹が立って仕方なかった。

 彼は信行に対しても余りいい感じがしなかった。事の決まらぬ内に義母に話したという事も、義母に相談する必要はないのだから、雑談以上の事でなかったに違いないと思われる点で、全くそれは要らざる事だった。そして、信行は自分に同情しているように云いながら、結局は父の気持を絶対にしている処が気に入らなかった。しかし謙作にも信行の気持、同情できない事はなかった。同情しなければ、いけないという気持すらあった。が、同時に其処まで同情したら、自分の方はどうするのか? という気がした。それに信行は自分がお栄に申出(もうしい)でをした事だけを話したらしく書いているが、自分に自分の出生(しゅっしょう)を打明けた事を話したか話さないか、まるで書いていない。この事も彼は一寸不快に感じた。それは勿論話したのだ。只自身の軽挙を幾つも云いたくない気持から、それが書けなかったに違いないと彼は思った。其処まで話したとすれば尚の事、自分の事は自分だけで処理さすよう徹底的に父を納得させるのがいいのだ。三千円に執着しているようなところも、感心できなかった。

 彼は直ぐ返事を書いた。お手紙只今拝見、父上のお怒り、僕には不愉快でした。この問題は前の手紙にも書いた通り、父上との関係が本統のところまで、はっきり落ち着いていないところから起った事です。それがはっきりしないうちに父上のお耳に入れたのは面白くない事でした。しかし今更それをいったところで始まりません。が、僕としては---僕の行動としては関係がはっきりした後にとるべき行動と、同様のものを今もとるより仕方ありません。いいかえれば僕は僕の考え通りにするより仕方ありません。結婚の事は勿論僕だけの勝手には行きません。しかしお栄さんと別れる、別れないは、---或る時別れる場合があるとしても、---それは二人の間だけの問題にしたいと思います。しかし只これだけの事は云えます。僕はこれからお栄さんと正式に結婚すればよし、もしそれができないとすれば、できないままに今までと全く同じ関係を続け、決して深入りはしまいと決心しているという事を。それなら父上には今までと同じわけです。尤もこれは父上の為にした決心ではなく、僕は僕の運命を知る事で、一層そういう事につつしみ深くならねばならぬと云う気がしているからの事です。

 それから金の事は僕直接の事ではありませんが、お断りします。僕の金も元々父上から頂いたものですが、お栄さんには、それから分けます。それから家を引越す事、これもそんな必要ないとも思いますが、お栄さんが気になるなら、引越す事賛成します。何処か郊外へでも行ったらいいでしょう。父上の怒られたお気持、僕にも解ります。しかし僕には君のように父上のお気持を全然主(しゅ)にしては、自分の事だけに考えられません。君の板挟みの立場についても同様です。これは僕の我儘かも知れません。しかし君の望まれる通りになる事は僕には性格的に不自然です。どうか悪しからずお思い下さい。
 九
 信行へ出した手紙の返事を受取らぬ内に謙作は到頭尾の道を引き上げて了った。それは軽い中耳炎にかかったからで、土地には専門医がなく、かかった医者からもし最近帰る気でもあるなら、なるべく早く帰った方がいいだろうといわれたからである。実際そう云う事がなくても恐らく謙作は間もなくこの地を引き上げたに違いない。只彼には帰ってからの生活が想われた。又前と同じような生活を繰返すことかと考えると、それだけでも進んで帰る気にはなれなかった。仕かけた仕事も余りに半端だった。彼は落ち着いていられそうになく、又、引き上げて後の生活が如何にも不満に想い浮ぶのであった。出発前の二三カ月間のあの眼まぐるしい、その癖、何となくうじうじした不快(いや)な生活、---それも前はまだあれでいいとして、あま頃とは又自分も変っている。今のような自分にして猶(なお)且(か)つ、ああいう生活を繰返すとすれば、それは益々落ち着けない不安な気持に追いやられる事が如何にも見えていた。それなら、あんな生活を再び繰返さないようにすればいいとも思う。帰るとすれば勿論、その決心を堅くして帰るのである。ところが、事実、その決心はどれだけ堅いか? どれだけ続くか? それが彼では我ながら心許(こころもと)なかった。そういう事では経験的に自分で自分が信じられなかった。

 或る夜、それは宵に曇っていて、夜中から急に晴れ渡った夜があつた。蒸し暑かった夜が明け方になって急に冷え冷えして来た。薄い掻巻(かいまき)一つで寝ていた彼は寒さの為に眼を覚ました。しかし睡(ねむ)く、起きるのが面倒だったので、彼はそのまま又眠ったが、やはりそれで風邪を引いて了った。翌日は終日水洟(みずばな)をかんで暮らした。そしてそれを強くかんだのが少し耳の方へ入ると、その晩から耳は痛みだした。鈍い、重みのある痛みで、眠れぬ程ではなかったが、それでも彼は時々その為に眼を覚ました。夜の明けるのが待たされた。翌朝、医者へ行くと、中耳炎のなりかけだと云われた。医者は早く専門医に見て貰う方がいいだろうといって、少量のオリーヴ油とあん法の薬とをくれた。しかし尾の道には耳鼻科専門の医者がいなかったので、広島か岡山まで行かねばならず、もし通う事にでもなれば相当の時間を取られるし、直るまで宿をとる場合を考えても甚(ひど)く億劫に思われた。結局、やはり東京へ帰る事にした。帰りたくもあり、帰りたくもなし、そういう曖昧な気持でいた彼はこんな事ででも帰ると決定できた事を却って喜んだ。そして帰ると決まると、急に所謂帰心矢の如しという風な気持になって了った。

 支度は早かった。隣の老夫婦も手伝って一時間たらずで総ては片付いて了った。婆さんは荷造りを手伝い、爺さんは電燈会社や瓦斯会社などの払いに廻った。尾の道には急行は止まらなかった。彼は普通列車で姫路まで行き、其処で急行を待つ事にした。午(ひる)少し前、彼は老夫婦と重い旅鞄を下げた松川に送られて停車場へ行った。大袈裟に三角巾(きん)で頬被りをした謙作が窓から顔を出していると、爺さん、婆さんは重い口で仕切りに別れを惜しんだ。彼もこの人達と別れる事は惜しまれた。しかしこの尾の道を見捨てて行く事は何となく嬉しかった。それはいい土地だった。が、来てからの総てが苦しみだった彼にはその苦しい思い出は、どうしてもこの土地と一緒にならずにはいなかった。彼は今は一刻も早くこの地を去りたかった。

 客車の中は割りに空いていた。それは春としては少し蒸し暑い日だったが、外を吹く強い風が気持よく窓から吹込んで来た。彼は前夜の寝不足から、窓硝子に頭をつけると間もなく、うつらうつらし始めた。やがて騒がしい物音に物憂く眼を開くと、いつか岡山の停車場へ来ていた。彼の前に坐っていた、三人連れの素人か玄人か見当のつかない女達が降りて行くと、そのあとに二人の子供を連れた若い軍人夫婦が乗って来た。軍人は背の高い若い砲兵の中尉だった。荷の始末をすると、膝掛を二つに折って敷き、細君と六つくらいの男の児、それからその下の髪の房々した女の児とを其処へ坐らせた。そして自身は其処から少し離れて、腰かけの端へ行って腰を下ろした。

 謙作は疲れていた。彼はいつか眠っていた。姫路へ着く一時間ほど前から漸く彼は本統に眼を覚ました。その汽車は京都止りの列車だったから、彼は京都で急行を待ち合わせてもよかったのだ。しかし、姫路の白鷺(しらさぎ、はくろ)城を見る事も興味があったし、それに出掛けにお栄から明珍(みょうちん)の火箸を買って来てくれと頼まれた、それを想い出していたからであった。前の席にいた男の児は二つ折りの毛布の間に挟まって、寝ころんだ。すると、女の児もそうして寝たがった。若い、しかし何処か落ち着いた感じのある母親は窓硝子に当てていた自身の空気枕を娘の為に置いてやった。男の児は父親の方を、女の児は母親の方を枕にして寝た。女の児は喜んだ。母親自身は空気枕の代りに小さいタウルを出し、幾重にもたたんで又窓硝子へ額をつけた。「お母様、もっと低く」と娘が下からいった。母親は物臭そうに手を延ばし、枕の空気を少し出してやった。「もっと低く」。母親は又少し出した。「もっと」。「そう低くしたら枕にならんがな」。女の児は黙った。そして眼をつぶって、眠る真似をした。

 軍人は思い出したようにポッケットから小さい手鏡を取り出した。それから又小さいチューブを出し、指先に一寸油をつけて、さも自ら楽しむように手鏡を見つめ、短く刈って、端だけ細く跳ね上げた赤いその口髭をひねり始めた。細君は最初、タウルの枕に顳顬(こめかみ)をつけたまま、ぼんやり見るともなく見ていたが、軍人が余り何時までも髭を愛玩しているのに、細君の無表情だった顔には自然に微笑が上って来た。細君は肩を少し揺すりながら声なく笑った。が、軍人は無頓着に尚油をつけ、髭の先を丹念に縒(よ)り上げていた。

 眠れない子供達は眼をつぶったまま、毛布の中で蹴り合いを始めた。もくもくと其処が持ち上った。女の児の方が一人忍び笑いをした。軍人は鏡から一寸眼を移し、二人を叱った。細君は黙って微笑していた。しかし男の児は尚乱暴に女の児の足を蹴った。毛布がずり落ちて、むき出しの小さい脛(すね)が何本も現れた。二人はとうとう起きて了った。二人はそれから二つの窓を開け、その一つづつを占領して外を眺め始めた。外には烈しい風が吹いていた。男の児は殊更窓の外に首を突き出し、大声に唱歌を唄った。女の児は首を出さずにそれに和した。風が強く、声はさらわれた。男の児は風に逆らって尚一生懸命に唄った。それでもよく聴こえないと、わざわざ野蛮な銅鑼声(どらごえ)を張り上げたりした。風に打克とう打克とうと段々熱中して行く。其処に子供ながらに男性を見る気が謙作にはした。彼はそれが何となく愉快だった。「八釜ましいな!」と不意に軍人が怒鳴った。女の児は吃驚(びっくり)して、直ぐやめたが、男の児は平気で、やめなかった。細君は只笑っていた。

 五時頃姫路へ着いた。急行までは尚四時間ほどあった。彼は停車場前の宿屋に入り、耳のあん法を更(か)え、夕食を済ますと、車で城を見に行った。老松の上に聳(そび)え立った白壁の城は静かな夕靄(ゆうもや)の中に一層遠く、一層大きく眺められた。車夫は土地自慢に、色々説明して、もう少し側(そば)まで行って見る事を勧めたが、彼は広場の入口から引き返さした。それから、彼はお菊神社というのに連れて行かれた。もう夜だった。彼は歩いて暗い境内を只一廻りして、其処を出た。お菊虫という、お菊の怨霊の虫になったものが、毎年秋の末になると境内の木の枝に下るというような話を車夫がした。明珍の火箸は宿で売ると聞いて、彼はそのまま車を宿の方へ引き返さした。彼は宿屋で何本かの火箸と、お菊虫とを買った。その虫に就いては口紅をつけたお菊が後手(うしろで)に縛られて、釣る下げられた所だと番頭が説明した。

 急行は九時だった。寝台をとる事ができて彼は直ぐ横になった。そして起きたのは静岡近くで、もう日が昇っていた。静岡で東京の新聞を買ったが、出てから全で見ない東京新聞が変に懐かしかった。富士を見、襞(ひだ)の多い函嶺(はこね)の山々を見ても彼は何となく嬉しかった。沼津から乗り込んだ一家族の東京弁も気持よかった。彼は早く東京へ帰りたい気持で一ぱいになった。近づくほど、待ち遠しくなった。国府津(こうづ)、それから、大磯、藤沢、大船、こう、段々近づくと、彼は寧ろ短気な気持になって行った。時間つぶしに困った彼は、羽織の紐の縒(よ)り返しになっている房の一本/\を根気よく数える無意味な事で、漸く気紛(まぎ)らしをした。お栄には前日姫路から電報を打って置いた。多分新橋へ迎いに出ているだろうと思った。彼にはお栄と顔を合す瞬間の具合悪さが一寸想い浮んだ。が、何れにしろ、もう二三十分で会える事は嬉しかった。

 間もなく、汽車は速力をゆるめ始めた。プラットフォームへかかる前から、彼は首を出し、それらしい姿を探した。そして、彼は直ぐそれを見出した。お栄も此方を見ているので、手を振ったが、見ていると思ったお栄は間抜けな顔をして、直ぐ見当違いの窓をしきりに眼で追っていた。彼は幾つかの小さい荷物を赤帽へ渡すと、急いでその方へ歩いて行った。五六歩の近さで漸く気がつくと、お栄は今までの不安そうな様子から急に変わって駆けよって来た。「よかった。よかった」とこんな事を云った。そして、「まあ、どうして?」とお栄は彼のあん法の頬被りに驚いて訊いた。「一寸耳が悪かったが、もう今は痛くないんです」。謙作は予期通り嬉しかった。会って具合悪いような事もなかった。いつものお栄だった。そしてそういう事は少しも念頭にない風に見えた。殊更そうしているとも見えなかった。

 一緒に人込みを歩きながらお栄は尚二言三言(ふたことみこと)、耳の事を訊いた。「でも、早く帰って来て下すってよかったわ」。讃(ほ)めでもするようにいった。が、急に声を落して、「謙さん、瘠(や)せましたよ。もう、これからそんな処へ一人で行くのはおやめですね」ともいった。謙作は只笑っていた。「信さんへは先刻会社の方へ電話をかけさしたの。帰りに寄るという御返事でした」。「そう」。改札口に膝掛を抱えた、出入りの車夫が待っていた。彼はそれに赤帽の荷を渡し、チッキの荷も頼んで、お栄と一緒に電車で帰る事にした。「お昼はまだでしよう?」。「ええ」。「自家にも何か取ってあるけど、何処かへ行きますか?」。「僕はどうでもいいが」。「尾の道は御馳走がありまして?」。「魚はいいのがあるんだが、何しろ自分じゃあ作れませんからネ」。二人は清賓亭の前を通って行った。謙作はお加代でもお鈴でもそういう連中に見られたくない気持から、なるべく俯向(うつむ)き勝ちに歩いて行った。電車通りに出ると、お栄はもう一度、「どう? 何方(どっち)がいいの?」と云った。「そんなら、行きましょう。久し振りで、西洋料理が食いたい」。

 二人はそれからそう遠くない、風月堂へ行った。お栄はしきりに尾の道の生活に就いて訊きたがった。謙作は其処から信行へ電話をかけた。そして、間もなく二人は帰って来た。謙作は先ず二階の自分の書斎へ入って行った。額も机も本棚も総てが出かける前の通りだった。寧ろきちんと整(かた)づいていた。床に椿などの生けてあるのが却って自分の部屋らしく見せなかった。「やっぱり自家(うち)が一番いいでしょう?」。こんな事を云いながらお栄も昇(あが)って来た。「大変立派な家(うち)へ来たような気がする」。「尾の道ではきたなくしてた事でしょうネ。男やもめに蛆が湧くというから。蛆が湧かなかったこと?」。「隣りの婆さんがよく掃除をしてくれるので割に綺麗でした」。「ああお風呂が丁度いいの。直ぐお入りなさい」。





(私論.私見)