和解六、七、八、九、拾 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.9.3日
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【和解六】 |
しかし赤児は遂に助からなかった」。一時頃漸く着いた東京の医者もできるだけの事をしてくれたが、どうする事もできなかった。段々悪くなると、医者はカンフル注射と食塩注射とを二十分或いは十分おきに絶えずした。カンフルは胸に射(さ)した。仕舞いには小さい胸に射す場所がなくなったほど一杯に絆創膏が貼られて了った。赤児はカンフル臭い息を吐いた。食塩水は股(もも)に射した。赤児の身体はその何方(どっち)を射す時でも全く無感覚になって了った。それでも死ぬまいとする何かの強い意志が何も知らない赤児に働いている事は明らかに見られた。こうなるともう医術の力は「知れたもの」になっていた。この小さい赤児自身の死に対する一生懸命な努力が或る時間続くか、続かないかにあった。(そう東京の医者自身が云った)その間に何所かで折り合いがつけば助かりますと云った。 |
腸を洗う事にした。我孫子の医者が助手になって、再三それをやって見た。一度小さくなった腹は何時か又脹(ふく)らんだまま、何度洗っても小さくならなかった。多少血の気を見せた唇も今は土色になって、ひきつって絶えず震えていた。 |
四時頃だった。東京の医者は待たせてある自動車で一度東京にかえると云い出した。自分達は一寸不愉快を感じた。しかしそれはもうとても助からない事を云っているのだと思った。自分はもう何も云う気がしなかった。しかし自分は「危険な御病人でもあるのですか」と訊いた。医者は「いいえそうではないのです」と答えた。Yと我孫子の医者とが露骨に不愉快な顔をしてもっと残るよう云ってくれた。しして丁度東京に洋のあったYが、その自動車で、その医者の友達の小児科の医者を頼みに行ってくれる事になった。頼みに行く先の医者はYも知っている人だった。 |
戸外(おと)は白々と明けて来た。 赤児の身体は段々に冷えて来た。心臓の働きが弱って来たからだ。熱湯で絞ったタウルでそれを防ぐ事にした。その前から来て赤児の事、康子の事に色々世話を焼いていてくれたK子さんが三造を使いにやってYの家からと、自分の家からと、あるだけのタウルを取り寄せてくれた。 |
Yの家からは湯上りに使う一畳敷くらいのが二枚とその他に何枚か来た。自分の家からもあるだけ来た。医者の細君が、竈(かまど)でどんどん湯を沸かしてくれた。K子さんが先になって三造や常やが土間で手もつけられないほどの熱湯からタウルを絞り出しては渡してくれた。初めの程はそれを開いて少し冷ましてから、背中、胸、足と包んでやっていた。温めても温めても赤児は中々温まらなかった。しかしその内に幾らか取り直して来た。しかしそれも二十分とは続かなかった。心臓の働きは又弱って来た。八人ほどの人が今は赤児を温めるだけに忙(せわ)しく立ち働いてくれた。東京からの医者も一生懸命に働いてくれた。自分は腹の中で皆に感謝した。それにしろ、この児の為にもっと近い血縁の麻布の家の人が一人も居ない事は何となくこの児の為に可哀そうな気がした。そして自分も物足らない気がした。 |
背中、胸、足と順繰りに絶え間なく更えていても赤児の身体は少しも温まらなかった。仕舞には吾々の皮膚では一秒でも触れていられない熱さの儘でどしどし包んだ。もう絶望的になっていた自分は不具になろうが、後でどんな事が起ろうが、それらを省みる気はなかった。ともかく死なしたくなかった。 |
腹は益々脹れて来た。この脹れている中のものが今の内に出ればどうかなるかも知れないという気がした。東京の医者は尻からできるだけ深く細いゴムの管を差し込んで中の物を洗い出そうとした。 赤児の力は段々弱々しくなって来た。それでも尚その僅かな力でできるだけの抵抗をしようとした。 |
東京の医者は手早く洗浄器の先から細いゴム管を取り外すと、深く差し込んだまま、口でその管から腸の中の物を吸い出そうとした。医者は吸っては側の金だらいに吐いたが、殆ど何も出なかった。そしてそうしている内に赤児はもう息をしなくなった。赤児の口と鼻から黒いどろどろの液体が湧き出すように流れ出した。それが青白くなった両の頬を幅広く項(うなじ)の方へ流れ落ちた。医者は急いでそれを拭き去(と)ると、人工呼吸を暫くやってくれた。しかしそれは自分達への気休めに過ぎなかった。 |
妻は烈しく泣き倒れた。K子さんはそれを起し、自身の胸へその顔を抱きしめて、「康子さん。しっかり遊ばせ。ねえ。しっかり遊ばせ」と云った。K子さんの眼からも涙が流れていた。 自分は泣いた。実母に死なれた時のように泣いた。 |
【和解七】 |
赤児には自家(うち)から取寄せた、いい着物を着せてやった。自分達は赤児を三造の家内に抱かせて医者の家(うち)を出た。晴れたいい天気だった。妻は新しいハンケチで丁寧に赤児の顔を包んだ。そして自分達は昨晩提灯の光りで急いだ田舎道を夏の午前の太陽に照らされながら自家の方へ帰って来た。赤児を抱いた三造の家内は半丁ほど先を歩いていた。妻は下を向き、自分の三四間後からついて来た。 |
前夜の電報で麻布の母が来た。それから暫くして死去の電報を見た妻の両親が来た。又暫くして麻布からTさんと云う父の従弟(いとこ)の良人(おっと)が来た。「飛んだ事でございました」とTさんが云った。そして、「先ほど電報を拝見しまして早速電話で箱根の御別荘の方へお指図を願いましたところ、慧子さんは我孫子のお寺へ葬るよう御命令で御座いました」と云った。 |
聴いている内に自分はムカムカして来た。「私共もどれだけ此所(ここ)に住んでいるか分かりませんね。葬るこはやはり東京へ葬ってやるつもりです」と云った。「はあ。左様ですか」とTさんは云っただけだった。 |
自分は麻布の人間全体に不愉快を感じていた。祖母にも母にも。前夜打った危篤と云う電報に来てくれとは書かなかったが、医者に自動車で来るよう頼んだ事を書き加えて、来るなら、それで来てくれと云う事を自分は暗示した。ところが電報を見た祖母や母は赤児がひきつけたぐらいに驚いて打ったものと解していたと聴いて自分は尚不愉快になった。他の場合とは異(ちが)う。危篤と云う電報から差引いて考える奴もないものだと思った。殊(こと)に赤児を要京へ連れて行きたがった祖母に対しては腹が立った。それから、第一Tさんもお指図を願いますと云って、そのお指図によっては自分がそれを素直に諾(き)く人間か諾かない人間かはよく知っている筈だと思った。 |
自分はそれまで実は多少感傷的な気持になっていた。青山の墓所(はかしょ)に埋まっている、今の自分より年若く死んだ実母の側にその初孫(ういまご)を埋めてやる事は実母の為にも赤児の為にもそうありたい気が自分にはしていた。しかし自分からそれを云い出す気はすこしもなかった。のみならず東京に葬りたいという考えもそこへ葬って貰いたい気で云っていたのではなかった。自分はTさんに二坪或いは三坪ぐらいの墓地を青山に買って貰う事と、翌日そこに葬る手続きと、用意と、それから、馬の骨のような坊主に経を読んで貰う代わりに赤坂の叔父の先生の建長寺の管長さんに戒名をつけて貰う事とその日鎌倉でお経を上げて貰う事とを頼んだ。 |
東京から画家のSKが来てくれた。そしてその晩は吾々と一緒にお通夜(つや)をしてくれた。 |
棺には色々なものを入れてやった。吾々の写真も入れてやった。妻が大切にしていた佐四郎人形もあるだけ入れてやった。着物も妻の実家から来た紋付を入れてやった。 |
翌朝東京から自動車が来た。SKとYと自分とが一緒に乗る事にした。自動車は町の大光寺で待っていた。其所まで新しい印半纏(しるしばんてん)を来た出入りの大工と植木屋とが太い青竹で小さい棺を担(かつ)いで往(い)ってくれた。田圃路(たんぼみち)から町の方へ坂を登って行く途中に町の知っている家のお婆さんが草花を沢山持って見送りに出ていてくれた。その花は棺の上に乗せて貰った。 産後の七十五日の経っていない妻は自家に残る事にした。 |
その朝赤坂の叔父から、棺は赤坂へ運ぶようと云う電報が来た。父が麻布の家へ運ぶ事を拒んだのだと思った。自分は腹の底から不愉快を感じた。自分にはこういう考えがあった。もし皆に父と自分との関係に赤児を利用する気がなかったら、赤児は死なずに済んだのだ。素(もと)より自分が気が進まないのを折れて赤児の東京行きを承知した事は悔いても悔いても足りない気がしたが、今はもう仕方がなかった。今はせめて死んだ者に対してできるだけの事をしてやりたかった。ところが父は麻布の家へ連れて行く事を拒んだ上に赤児の小さい叔母共や曾祖母(そうそぼ)に、「皆も赤坂へ行く事はない」と云ったと云う事を聴いて、自分は腹の底から腹を立てた。自分に対する怒りをその儘に移して現わされた場合、前々夜から前日の朝までジリジリとせまって来た不自然な死、それにあるだけの力で抵抗しつつ遂に死んで了った赤児の様子を凝視していた自分にはそれは中々思い返す事のできない不愉快だった。総ては麻布の家との関係の不徹底から来ていると思った。自分は腹立たしかった。しかしそれを徹底させる為に祖母との関係をそれに殉死さす事は自分にはできなかったのである。腹は立つが、不徹底は毎時(いつも)そこから起って来た。この事は自分の創作する上にも毎時邪魔をした。自分はこの五六年間父との不和を材料とした兆篇を何遍計画したか知れない。しかし毎時それは失敗に終った。自分の根気の薄い事も一つの原因であったにしろ、又それで父に私怨を(しえん)をはらすような事はしたくないという拘る気も一つだったにしろ、それよりもその作物(さくぶつ)の発表が生む実際の悲劇を考えると、自分の気分は必ず薄暗くなって行った。殊に祖母との関係の上に投げる暗い影を想う時に、自分は堪らない気がした。三年ほど前松江にいた時自分はその悲劇をできるだけ避けたい要求から長篇に次のようなコムポジションをした事があった。或る陰気な顔をした青年が自分の所へ訪ねて来る。それは松江の新聞にその頃続き物を書いている青年だった。その青年が届けてくれる続き物を読む。それは父との不和を書いたものだった。その内続き物が途中で急に新聞に出なくなる。青年が亢奮してやって来る。それは青年の父が、青年が偽名で出していたにもかかわらず気がついて、東京から人を寄越して新聞社に金をやって連載させなくしたと云うのだ。それから色々気持ちの悪い出来事がその青年と父との間に起って来る。それを第三者として自分が書いて行く。自棄(やけ)に近いその青年が腹立ちから父に不愉快な交渉をつけて行く。父は絶対にこの青年を自家(うち)の門から入れまいとする。その他色々そう云う場合父と自分との間に実際起り得る不愉快な事を書いて、自分はそれを露骨に書く事によって、実際にそれの起る事を防ぎたいと思った。見す見す書かれたようには吾々も進まず済ませる事ができようと思ったのだ。そして最後に来るクライマックスで祖母の臨終の場に起る最も不愉快な悲劇を書こうと思った。どんな防止もかまわず入って行く亢奮しきったその青年と父との間に起る争闘、多分腕力沙汰以上の乱暴な争闘、自分はコムポジションの上でその場を想像しながら、父がその青年を殺すか、その青年が父を殺すか、何方(どっち)かを書こうと思った。ところが不意に自分にはその争闘の絶頂へ来て、急に二人が抱き合って烈しく泣きだす場面が浮んで来た。この不意に飛び出して来た場面は自分でも全く想いがけなかった。自分は涙ぐんだ。 |
しかし自分はその長篇のカタストロ-フをそう書こうとは決めなかった。それは決められない事だと思った。実際其所まで書いて行かねばそれはどうなるかわからぬと思った。しかし書いて行った結果、そうなってくれれば如何(どんな)に愉快な事かと自分は思った。 |
この長篇は少し書いたが、続かずに了った。そしてこんなコムポジションをした後に又結婚の事で父との不和は色濃くなった。なにしろ、この長篇のカタストロ-フで自分に作意なく自然に浮んだその場面は父との関係で何時か起り得ない事ではないという気がした。それは二人の関係が最も悲惨なものになった時にそれが出て来ないとは云えない気がした。或いは必ずしもそう行かないかも知れない。その場まで行って見なければわからないにしろ、そういう急な引繰(ひっく)り返り方をするだけの何物かは父にも自分にも残っていそうな気が自分にはしていた。この事は妻にも、或る友達にも自分は話した。 |
【和解八】 |
赤児に死なれた後の自家は急に淋しくなった。夜庭に椅子を出して涼んでいるような場合、遠く沼向うの森で「あ-ッ。あ-ッ」と啼く鳥の声がして来る。自分達はそれが堪らなかった。 |
我孫子も厭になった。この暮あたりから又京都の郊外へでも往って住もうかと云うような事を話し合った。 |
十日ほどしてYが朝鮮支那の旅へ出てから、我孫子は尚淋しくなった。丁度その頃最も旧(ふる)いそして最も親しい友のМが細君と一緒に泊りがけで遊びに来た。Мは医者から肺が悪いと云われたと云った。自分は淋しい気がした。しかし何となく一時的な身体の不調和のような気もした。自分は我孫子に住む気はないかと勧めて見た。それをいう時は自分が京都へ行く事は念頭になしに云った。又松の多い、冬も水蒸気の多い、割りに温かいこの沼べりは呼吸器病にはいいに違いないと思ったので。 |
М夫婦は我孫子ではないが、隣村の松林に後ろをかこまれた高台に気に入った所があってそこに新しい家を建てる事にした。そしてそれが決まると間もなくМの肺病は医者の全く誤診だった事が知れた。 |
自分達は旅行でもして赤児の死によって受けた心の打撃を早く忘れたかった。三日を七日と数え、二十一日目を七々四十九日として、それが丁度妻にも産後七十五日になるところから八月二十日を旅立ちの日と決めて置いた。 |
画家のSKがその少し前から家族を連れて信州の上林(かんばやし)温泉に行っていたので自分達もそこへ行く事にした。八月二十日朝我孫子を出て妻は初めて赤この墓参りをした。それから自分は友達の家へ行った。妻だけ麻布の家へ行った。時間を決めて自分は麻布の六本木の停車場へ行って、そこで妻と一緒になって上野へ行く心算(つもり)だった。ところが約束の時間に妻は中々来なかった。自分はイライラして少し麻布の方へ歩いて行った。妻は弱り切った顔をして、それでも急ぎ足でやって来た。こういう場合、妻が約束を遅れた以上、麻布の家へ自分が入って行けないという屈辱が自分の気を怒りっぽくさしていた。自分は妻を叱りつけた。 |
電車の中で妻は父の部屋に行くとイキナリ何故(なぜ)赤児の死骸を東京へ連れて来たと怒られたと云って泣いた。その日は祖母も母も小さい妹達も箱根の別荘へ行って不在だった。只二番目の妹の淑子と父だけがいた。感傷的になっている妻は誰に会ってもその頃は直ぐ涙が出そうになっていた。妻は父の部屋に入ろうとするともう涙が出かかって来た。その時の妻には「慧子も可哀想な事をしたな」と云う父の言葉が意識しない予期となっていたに違いない。ところがイキナリ父は怒った。妻は吃驚(びっくり)してしまった。---それを云いながら妻は泣いた。自分は父に対し、腹から腹を立てながら、慰めるとも怒るともつかない調子で何か云った。乗合の客が妙な顔をして自分達を見ているのに気がついたが、恥ずかしい気も起らぬほど腹立ちの方が強かった。 |
上野から信越線廻り神戸行の夜行に乗った。自分は汽車の中でその汽車が衝突しそうな気がして仕方がなかった。自分は妻の燈心でできた帯揚げを借りてそれを板張りと頭の間に挟んで置いた。衝突した場合頭を板張りに打ちつける時幾らかいいだろうと云う気だった。人も込んだので殆ど眠れなかったが、とにかく汽車は無事に済んだ。しかし上林へ着くとその晩から自分は又他の脅迫に脅かされた。時々ど-んと云って地響きがする。三日目にとうとう自分は我慢しきれなくなった。平気でいる皆の気が知れなかった。自分は仕切りにSKにここを引上げようといった。SKはそこで充分に仕事をする気で、その時も七分通り描けた十二号ぐらいの油絵の仕事を控えている時だった。自分は一分でもそこにいるのが不安だった。しかしもう夜だった上に沢山な荷物を始末して、少し健康を損なっている子供などを連れて五六里の道を車で行く事は他の人には思いもよらなかった。 |
翌日五人は二カ月ほど居る心算(つみり)で用意して来た沢山な荷物を持って、そこを出た、宿屋の主(あるじ)や女中は皆笑っていた。 |
実際結果から云ってSKには気の毒な事をしたが、その時の自分には笑っていり主や女中が命知らずの馬鹿に思えた。自分達が出発(たっ)てから山鳴りは段々烈しくなって県庁の役人がその笠法師山(かさほうしざん)と云うのに調べに行ったと云う新聞記事を自分達は暫くして加賀の山中温泉で見た。 |
一ト月ほどして自分達はSKと別れて京都に行った。奈良、法隆寺、石山辺を歩いて、そして十月初め我孫子へ帰って来た。Мの場所では東京から来た大工が三四人せっせと働いていた。 |
旅の初めには妻は何よりも死んだ児ぐらいの赤子を見る事を恐ろしがった。自分は割りに無神経だった。一緒にいると妻だけ何所かへ行って了う事がある。そう云う時よく其所に、誰かに抱かれた赤子がいた。しかしそれも段々に薄らいで来た。 |
十一月の幾日か海軍士官に嫁いで鎌倉に住んでいる自分の一番上の妹が産をした。女の子だった。祖母から今度の日曜に小さい連中を連れて行くが一緒に行かないかと云う便りがあった。多少危ぶみながら妻も一緒に行きたがった。 |
その日、朝早く我孫子を出て祖母等の一行とは新宿駅で落ち合って行った。最初叔父の家へ行った。叔父は十何年か建長寺で参禅していたが眼病の為め一年余り赤坂に借家して其所から医者に通っていたが、九月初め漸く少し良くなったので又鎌倉に引移っていた。 |
妹も赤児も元気だった。自分の赤児ができるまでは赤児は何(ど)れもこれも同じに見えていたが、妹の児を見ると自分の死んだ赤児とは全く異(ちが)っていた。少しは憶いだしたが、自分はそれほどではなかった。自分が十五の正月にこの妹が生まれた。その際の事などを自分は話した。それまで同胞(きょうだい)のなかった自分は非常に楽しみにして茶の間で待っていると今鎌倉にいる叔父の祖母が赤児を抱いて来た。それは頭の無闇と長い真っ赤な変な物だった。その赤児が又こんな赤児を生んだのだなど云った。 |
一番下の妹の禄子が、顔を寄せて赤児の匂いを嗅(か)ぐとうな事をしていると不意に、「慧ちゃんお死にになっていい匂いがしたわ」とそんな事を云い出した。棺の中に香水をまいて置いた。それを憶い出したのだ。妻は驚いて禄子の背中をつついた。 間もなく妻は変な顔をして急いで起って玄関の方へ出て行った。少しして自分も出て行くと、妻は泣きながら、「皆さんに済みませんわ。私どうしたんでしょう」と云って、「済まない」を頻(しき)りに繰返した。そして、「貴方(あなた)は平気で、いいのネ」とそんな嫌味を序(つい)でに云った。 |
妻は直ぐ叔父の家へ帰した。暫くして自分も祖母や小さい連中と一緒に叔父の家へ帰って行った。 妻は自分の顔を見ると直ぐ物陰に連れて行って、「どうしたらいいでしょう」と云った。「皆さんに悪いから決して泣かない心算で来たんですのに---」、「仕方がない。もうそれでいい。誰も悪く解(と)る人はいない」。 そう云っても妻は中々それを云うのを止めなかった。自分は妻を措(お)いて祖母のいる方に来て了った。 |
自分は祖母と話していた。祖母は背を丸く、自身の膝に被(かぶ)さるような恰好をして煙草(たばこ)をのんでいた。其所に康子が眼を赤くした儘出て来た。康子は祖母の前へ来て坐ると、いきなりお辞儀をして震え声で。「お祖母様(おばあさま)、御免遊ばせ」と云った。 祖母は前からの姿勢で下を向いた儘、煙管(きせる)の吸い口を銜(くわ)えて黙っていた。祖母の唇は震えていた。 自分はその時、赤子の死で祖母に不愉快を感じた自分を恥じた。 |
【和解九】 |
鎌倉行きから間もなくであった。吾々は妻が又懐妊した事を知った。自分は余り早過ぎるような気がした。できるにしても、もう少し経ってからでもいいような気がした。しかし妻は喜んだ。祖母も喜んだ。そして自分も、前に多少でも赤子の死で祖母に非難する気を持っただけ、それの早く来た事は祖母の為に嬉(うれ)しかった。 |
Мが暮れ近くから隣村に住むようになってからは我孫子も賑やかになった。五六年前から多く他の地方で住んでいた自分は久し振りでМと繁々(しげしげ)往来するようになった。そして日が過ぎるに従って自分の中(うち)にあったМに対する旧(ふる)い愛が、又何か新しいものを付加しながら眼覚めて行くのを感じた。この事は愉快だった。そして自分の心にいい影響を与えた。彼は実際相手の内にあるよきものを抽(ひ)き出す不思議な力を持っていた。又彼は心と心の直接に触れ合う妙味を良く理解していた。この事で彼に失望させられた事は一度もなかった。自分には和らいだ、そして緩みのない気持ちの日が続くようになった。 |
自分は足掛け四年前、松江にいた頃、それは前に書いたような長篇のコムポジションをして、それが書き続けられず、止して了った後(のち)、或る期間創作に筆をとる事はよそうと決心した事があった。それはその前後の自身の精神状態が余りに悪く如何にも惨めな貧し心で、そんな自分が放射的な創作と云う仕事をしようというのが最初から間違った事だと考えたからであった。そしてその儘自分は最近まで殆ど何も書かなかった。偶(たま)に書けば直ぐ失敗した。自分は創作の仕事を捨てる気はなかったが、偶に試みる創作で、六七年前感じたような亢奮を感じられない点で多少の不安を感じもした。 |
二月頃だった。自分は或る親しい友(その友も健康の不調和から暫く創作に筆を絶っていた)と毎土曜二人だけで回覧雑誌を作る事にした。半分笑談(じょうだん)だった。しかしその笑談から駒を出そうと云う気は二人共あった。自分は懲りずに又長篇にかかった。三回ほど出した限(きり)、中止にして、今度は短篇を出した。その次も又短篇を出した。しかしそんな事をしている内に友は無遠慮な医者から健康について不愉快な事を云われた。自然回覧雑誌も立消えになった。しかし惰性で自分は又一つ短い物を書いた。それは誰にも見せなかった。そして何(いず)れも土曜という期日の前に一ト晩か二タ晩でなぐり書きしたもので、自信もなし、発表する気もしていなかった。 |
丁度その頃或る本屋から叢書(そうしょ)の一つとして自分の前に書いたものを出したいと云って来た。最初本屋はМの物を頼みに行って、その時Мに自分のも出したいと話した。Мは多分承知しまいと考えて、その儘自分にも話さなかったが、Мの細君が一寸それを云い出した時に、自分は出して貰っていいと思った。 自分はその出版が自分に新しい創作をさす何かの刺激になりそうな」気がしたからであった。自分は何か書けそうな気もしていた。 |
或る日自分は回覧雑誌に書いた短篇を二つだけМに見せた。Мはその一つに「しっかり書いてあると思う」と云ってくれた。もう一つの物には「しんみりした味がよく出ていると思う」と云ってくれた。そしてそれを発表する事をすすめた。Мの帰る時自分は田舎路を一緒に歩いた。路々Мは理解のある気持ちのいい評をしてくれた。自分は翌月の「白樺(しらかば)」でその一つを発表する事にした。 |
それから多分二三日してからだった。多分偶然或る雑誌社の人がその雑誌に創作を載せる事を勧めに来た。自分はもう一つをその翌々月に出して貰う事にした。又間もなく他の雑誌から頼まれた。自分にはまだ一つ短篇が残っていたが、それには新しく書く事にした。昨年の夏妻が産の為め東京の病院に行っていた留守に不図(ふと)浮んだ空想から得た材料、それを書く事にした。 |
それは、ここに正直な、しかし習慣的に品行方正とは云われない良人(おっと)がある。細君は何かの都合で暫く自家(うち)を留守にする。その留守中に女中が懐妊する。しかしその相手は良人ではなかった。良人はその良心から云っても疑われても仕方がない人間だったが、或る時、女中の懐妊が明らかになった時に、良人は細君に「女中の相手は俺ではないよ」と云う。すると細君はその儘に「ああ、そうですか」とそれを信ずる。それだけが自分は書きたかった。良人も細君も賢かった。悲劇はとうとうつけ込み損なった。そう云う事を自分はそれで現わしたかった。少しずつ調和的な気分になりつつある自分には実際の生活で、その儘に信じていい事を愚かさから疑(うたぐ)って、起こさなくてもいい悲劇を幾らも起しているのは不愉快な事だと云う考えがあった。そしてそれは必ずしも他人に就いての考えでないのは勿論の事だった。 |
自分はしかし失敗した。もし期日の約束なしの仕事としてかかっていたら、書き直す事でもう少しその気持を出せたかも知れなかった。が、期日が来たのでそれは不満の儘で送って了った。 |
間もなく或る新聞から十枚ぐらいの日記か、感想を送ってくれと云われた。自分は「或る親子」と云う題をつけて僅(わず)か二枚半の文章に、註文(ちゅうもん)とは違うから、もし不要だったら直ぐ返送して貰いたい、返送されても不服には思わない、という手紙を添えて送った。それは自分の書いたものではなく、或る市で知り合いになった其所の郵便局員の書いた二百枚近い長い物から勝手に自分で抜いて文章だけ少し直したものだった。それにも簡単にそう断って置いた。 |
その人は電話の方の係りで其所の美しい交換手との関係から、局長からは「君達は実に破廉恥極まる大醜事を行っていたのだ」と云われて、早速二人共に免職させられたが、その少し前にその人が両親にそれを打明けて結婚の許しを乞う、その会話の所だけを自分は新聞に送った。許しを乞うと父は直ぐ承知し、母もそれを喜んで涙を溢(こぼ)している事が書いてある。これでも自分は吾々は簡単に調和して差支えない事を妙にヒネクれる所から起さずに済む悲劇を起して苦しむ、その反対がそれに現わされているところが好きで自分は書き抜いて置いたのであった。自分は父と自分との親子に対してこれも亦(また)或る親子の心算(つもり)で「或る親子」と云う題をつけたのだが、それはそれだけでは、結婚の事で前後四度(たび)と不和を起した事を知っている自分に近い少数の人だけにしか解(わか)らぬ事とは知っていた。 |
自分は自分が段々に調和的な気分になりつつある事を感じた。これでいいかしらと云う気も少しはした。しかし今までの不調和よりは進んだ調和だと考えた。そして自分も好人物の好運ばかりを何時までもは書いていられまいと云うような事も考えた。 |
自分の調和的な気分は父との関係にも少しずつ働きかけて行った。しかし或る時、例えば妻と一緒に上京して電話で祖母を見舞うと、丁度父が留守だから直ぐ来てくれと母が云う。自分達は電車で直ぐ麻布へ向う。そして門を入ろうとすると其所に立って待っていた隆子が駆け寄ってきて、小声で「お父さんがお帰りになったのよ」と云う。自分達は門を入っただけで誰にも逢わず、直ぐ引っ返して来る。こ云う場合、流石(さすが)に自分の調和的な気持も一時調子が変る。しかし又或る時、人の口から、父が自分の妹達などの事でジリジリと苛立(いらだ)って気難しい事を云う噂などを聴くと、父のそういう気分の根が猶且(なおか)つ自分との不快にある事を考えずにはいられない点で、そして今の自分が自分だけで調和的な気分になりかけているのにという気のする点で、段々年寄って行く父の不幸なその気分に心から同情を持つ事もあった。 |
【和解十】 |
出産の日が段々に近づいた。今度は我孫子で産をする事にした。東京の病院で産をして三四週刊で汽車に乗せて来る危険を冒すよりは田舎でもできるだけの注意を払って、産後動かさずに置く方が赤子の為にも産婦の為にも遥(はる)かにいいと思ったからである。しかし時には万一難産ででもあったらと云う不安が自分の頭を掠(かす)める事もあった。自分は去年の事から自分が少し臆病になり過ぎていると思った。用心深いのはいい。しかし臆病過ぎる事から反(かえ)って危険を冒す愚をする場合があるという考えも自分にはあった。自分は故(ことさ)らその不安は打消すようにしていた。 |
産婆は去年の産婆を頼む事にした。医者は我孫子の医者を頼む事にした。看護婦は産婆の家(うち)にいる産婆としても開業できる産科専門の割りに年のいった看護婦を頼む事にした。 その看護婦は七月十三日に来た。 一週間ほど経ったが、赤児は中々生まれそうもなかった。自分は赤児が生れそうになったらYの所へ行っていて、生れてから帰って来る事にしていた。 或る日勘で東京から産婆が出て来た。しかし勘は外れて産婆は翌朝早く帰って行った。 |
又或る日二年ほど前から友になったK君が久し振りで訪ねて来た。K君は最近に人の父になっていた。K君は赤児が嚏(くさみ)を一つしても何だか冷や冷やすると云うような話をした。 |
K君の所では東京の病院で産をしたのだそうだ。産まれそうだと云う電話がかかってからK君は妙に落ち着かなくなって、自家(うち)にいても何をしていいか分からないような気がして一人そわそわしていると、安産と云う知らせが来た。早速病院へ出掛けて行くと其所には、もう生まれた赤児が細君の側(わき)の小さい蒲団(ふとん)に寝かされていた。其所でK君は「な-るほど」と思ったと云う事だった。この「な-るほど」に何だか感じがあるので、自分達は随分笑った。 K君は育児法について、もう一廉(ひとかど)の知識を持っていて、その事では看護婦とも色々話の種があった。 |
その内妻が腹の具合が少し変だと云い出した。看護婦は様子を訊(き)いて、「そのくらいではどうですか?」と云った。K君は、「明日の昼の二時頃(ごろ)かも知れませんよ。何だか僕はそんな気がする」と云った。よく聴くとK君の所のお産が昼の二時頃だったと云うのだった。 間もなくK君は帰って行った。自分は停車場まで送って行った。K君には帰ったら麻布の家へとにかく電話をかけて置いて貰う事にして別れた。しかし妻の腹の具合はその儘又直って了った。 |
二十二日の晩だった。庭へ椅子を出して、沼を渡って来る風に吹かれながら涼んでいる時、妻は、「少しおなかが張って来たようよ」と云い出した。産婆を呼ぶにしても、もう終列車には間に合わなかった。看護婦はどうせ自動車で来て貰うなら、もう少し様子を見てからでもいいだろうと云った。「明日の午前か午(ひる)頃にでもなりはすまいか」とも云った。 |
寝る事にした。妻も大した痛みもなく、その儘皆も眠った。しかし一時半頃自分は妻の声で覚まされた。自分は起きて看護婦を起した。それから常と久(ひさ)を起して早速湯を湧かすよう命じた。そして自分は提灯をつけて停車場へ出掛けて行った。テル(犬)が一緒について来た。 |
我孫子では時間外の電報を扱わない。自分は駅員の好意に頼って規則外の電話を掛けて貰うより仕方なかった。去年赤児の死んだあと、その頃いた助役の人が、急な場合には駅の電話をお使いくださいと親切に云ってくれた。その人は転任していなかったが、その後に来た助役の人に自分は電話を頼んだ。その人は快く承知してくれたが、上野の駅で中々出なかった。漸く出たと思っても中々洋が通じなかった。その内下りの貨物が着いたので助役はタブレットを渡しにプラットホ―ムに出て行かねばならなかった。顔馴染み(なじみ)のある他の駅員が代って電話をかけてくれて漸く用が通じた。 自分は急いで帰って来た。「そんな事ではまだまだ」。そんな事を云いながら看護婦は一人で立働いていた。 |
自分は座敷にしている八畳の部屋を産室にするつもりでいた。看護婦は次の間の六畳をそれにする気でいる。親切な性質はいい女だが、中々我を張る性(たち)で、自分の云う事を諾(き)かない。自分は腹を立てて、自分で看護婦の用意した産の床を座敷へ引っ張って来た。 |
戸外(そと)はまだ真っ暗だった。自分は眠っているYの所へ逃げて行くわけにもいかなかった。「いよいよとなったら、俺は庭へ出ているからね」。自分はこんな事を云っていた。自分は昔からの習慣で良夫(おっと)は妻の産を見ないものだと云う事に何か理由がありそうな気がしていた。赤児をともかく無事に産み落すと云う事以外良夫に醜い顔、醜い姿勢を見せたくないと云う心使いを妻にさす事はいい事ではないと云う気があった。自分としても妻の醜い顔やそういう醜い姿勢を見る事はいい事ではないと云う気があった。その上苦しむ妻を凝(じ)っと見ていねばならぬ苦痛も厭(いや)だった。 |
腹の痛みは時々来ては又休む。しかしその休む時間が段々に短くなって来た。自分は久を三造お家(うち)へやって、三造を町の医者へ迎えにやらした。 夜が明けて来た。玄関の軒にいる鳩の飛び立つ羽音などが聴えた。 |
妻の痛みは段々烈しくなって来た。自分も妙に落ち着かなくなって、部屋へ入ったり出たり、家の中を用もないのに只歩いた。何しろ人手がなかった。まだ若い女中達に産室の用をさして、自分だけ庭へ出ている気はしなかった。しかし何をしていいか---別に自分のする用もなさそうだった。 「旦那様、旦那様」と看護婦が叫ぶ。自分は行った。「奥さんの両方の肩をしっかり持って上げて下さい」。 自分は直ぐ枕元の妻の両方の肩を大きな手でしっかりと抑えてやった。妻は両手を胸の上で堅く握り合わせて全身に力を入れている。妻は少し青白い顔を顰(しか)めて、幾つにも折ったガ-ゼを一方の糸切歯で、堅く堅く噛んでいる。妻の顔は普段より美しく見えた。それは或る一生懸命さを現わしていた。 |
「赤さんが先か、自家(うち)の先生が先か。ここの先生が先か。競争です」。看護婦は落ち着きを見せてこんな事を云った。しかし看護婦が緊張した気持でいる事はよく解った。 妻は息を止めて眼を堅くつぶった。自分もつられて手に力を入れた。「赤さんがお勝ちだお勝ちだ」。 |
水が少し噴水のように一尺ほど上がった。同時に赤児の黒い頭が出た。直ぐ丁度塞(せ)かれた小さい流れの急に流れ出す時のようにスルスルと小さい身体(からだ)全体が開かれた母親の膝(ひざ)と膝との間に流れ出て来た。赤児は直ぐ大きい生声(うぶごえ)を挙げた。自分は亢奮した。自分は涙が出そうな気がした。自分は看護婦の居る前もかまわず妻の青白い額に接吻(せっぷん)した。 |
「偉い偉い、赤さんのお勝ちだお勝ちだ」。看護婦は顔中玉の汗にして、手早く後始末をしながらいった。看護婦は赤子をその儘にして起って行った。赤児は尚勢いよく泣き続けながら、小さい足を動かして母親の内ももを蹴っていた。 |
妻は深い呼吸をしながら、自分の眼を見上げて力のない、しかし安らかな微笑みを浮かべた。「よしよし」。自分も涙ぐましい気持をしながら首肯(うなず)いた。自分には何か感謝したい気が起った。自分は自分の心が明らかに感謝を捧ぐべき対象を要求している事を感じた。 |
生れたばかりの赤児に対しては別に親らしい感情も起らなかった。自分は其所に泣いて暴れている赤児を近寄って見たいとも思わなかった。それが男か女か早く知りたいとも思わなかった。只自分にはその児の出生(しゅっしょう)によって起った快いそして涙ぐましい亢奮が胸の中で後(あと)までその尾を曳(ひ)いている事が感じられた。 |
出産、それには醜いものは一つもなかった。一つは最も自然な出産だったからであろう。妻の顔にも姿勢にも醜いものは毛ほども現れなかった。総ては美しかった・ 後も総て順調にいった。町の医者が来て、東京の産婆が来て、暫くして東京の母が来た。 |
自分は母に命名を祖母に頼む事を頼んだ。 出産届をする為に二三日して自分は実印を持って上京した。祖母は別にいい名も考えられないから、自身の留女(るめ)と云う名をつけてはどうかと云った。二番目の妹がそんな名は可笑(おか)しいと云って笑った。今の女学校にそんな名の生徒が居ないからかも知れない。しかし自分は祖母の名は好きだった。母も賛成だった。 純粋に同姓同名も困る事があるかも知れないと云うので、子の字をつけて留女子とした。 |
(私論.私見)