前編第2の1(1から5)

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日

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 2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.7.16日 れんだいこ拝


【暗夜行路前編第2の1(1から5)】
 第二
 一
 冬にしては珍しく長閑(のどか)な日だった。謙作の乗った船は何時か岸壁を離れていた。下には群集に混じってお栄と宮本とが立っていた。彼は神戸で降りるのに見送りは仰々しいからと止めたが、船が見たいからとお栄は宮本に頼んで連れて来て貰ったのだ。鐘が鳴って見送り人が船から降りねばならぬ時に、お栄は「身体を大切にね」とか「お便りは始終して下さいよ」とか云った。謙作は一寸感傷的な気持ちになった。

 船は一方の推進機で水を後ろへ、もう一つのでそれを前へやり、時々はそれを止めなどしながら段々と岸壁を離れて行った。三人は時々微笑しながら手を振り合っていた。その内謙作はそうした両方でいつまでもいつまでも見送っているのが苦しくなった。船の方向が定まり船尾が岸壁を三四十間離れた処で彼は口の中で「どやあ」と云いながら頭を下げ、具合悪いような気持ちを無理に二人へ背を向けて自分の室へ下りて来た。四人入りの小さい室だが、他に客がないので、彼は一人でそれを占める事ができた。彼は其処へ置いてある、倚(よ)り掛りのない小さい丸椅子に腰を下ろしたが、さて何をするか、別にする事もなかった。落ち着かない気持ちで、立ち上がると、ベッドの下から小さい旅行鞄(かばん)を引き出し、時計の鎖についた鍵でそれを開けて見たりした。今頃二人がどうしているか、それが気になった。

 彼は又甲板へ出て行った。案(おもい)の外、船は進んでいて、もう人々の顔は分からなかった。しかし群集を離れて、左の方に二人立っている、それがそうらしかった。つぼめた日傘を斜めにかざしているのはお栄に違いなかった。彼は手を挙げて見た。直ぐ彼方でも応じた。宮本が大業(おおぎょう)に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。顔が見えないと謙作も気軽な気持ちでハンカチが振れた。そして船が石堤(せきてい)の間へかかる頃には二人の姿も全く見えなくなった。薄い霧だか煙だか港一杯に拡がっていて、船が進むにつれ、陸(おか)の方は段々ぼんやりと霞(かす)んで行った。そして一寸傍見(わきみ)をしても今出て来た岸壁を彼は見失った。艦尾にミノタワと書いた英国の軍艦が煙突から僅かばかりの煙を立てながら海底に根を張っているかのようにどっしりと海面に置かれてあった。その傍を通る頃はもう、岸壁に添うて建ち並んだ、大きな赤煉瓦の建物さえ見えなくなった。

 彼は今は一人船尾の手すりにもたれながら、推進機にかき廻され、押しやられる水をぼんやり眺めていた。それが冴えて非常に美しい色に見えた。そして彼は先刻自分達の通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮かべていた。下で鐘が鳴った。降りて行くと昼めしの支度ができていた。テーブルには彼の他には英語を話す若い外国人と、一等船客の子守と、それから船の方の役人が一人、それだけだった。船の役人と外国人とが、何か話していた。彼は黙って不味い牛肉を食っていた。する並んでいた外国人が英語で、「貴方は英語を話しますか?」と云った。彼も英語で、「英語は話せません」と答えた。そして横浜に居た西洋人ならまるで日本語を知らない筈はないと云う気がしたので、彼は今度は日本語で「日本語は話せないんですか」と訊いてみた。若い外国人は当惑したように一寸首を傾(かし)げて赤い顔をした。

 子守の女はそれからは一等の方へ行ったきり遂に出て来なかった。そして二等船室の空家(あきや)のような広い所に二人だけとなると、結局彼は彼の不十分な英語でその若者と話す事になった。彼が一人甲板の喫煙室にいる時にその男はトランプを持って入って来た。そして勧めたが、彼は自分の知っているやり方と異っていると面倒臭い気がして断った。若者は仕方なしに一人でテーブルにそれを並べては崩し、並べては崩ししていた。家は豪州と云う事だった。今まで亜米利加にいて、三週間ほど前、横浜へ来たが、母親が病気と云う電報で、これからシドニーへ帰るところだ。富士山を是非見たいと思うが、今日の天気で、どうだろう。こう曇って来ては駄目かしら。などと云った。実際午前の長閑な霞んだような天気は曇りの前兆だった。今はどんよりと薄ら寒い曇り日になっていた。

 三崎の沖を廻る頃から、彼は和服に着かえ寝床へ入ると、直ぐぐっすりと眠った。そして再び眼を覚ました時は四時過ぎていた。和服の上に外套を羽織って、甲板へ出た。夕方の曇った灰色の空に富士山がはっきりと露(あら)われていた。それが、海を手前に、伊豆の山々の上に聳(そび)え立った工合(ぐあい)が如何にも構図的で、北斎のそう云う富士を憶い出さした。喫煙室では下手なピアノが響いていた。そしてそれが止むと若い外国人が其処から出て来た。その男は「初めて富士山を見た」と満足らしく云った。大島ももう後ろになっていた。風が強いので彼は喫煙室から外の景色を見ていた。伊豆の七島が一つ一つその数を増して行った。若い外国人は又下手なピアノを弾き始めた。そして、ブライアの煙管(きせる)を横ぐわえにしたまま何か小声で唄っていた。その間々にパデレウスキーを聴いたとか、自分の女同胞(きょうだい)にヴァイオリンの名手がいるというような事を話した。

 彼はまだ睡(ね)むかった。四五日続いた寝不足は、二時間ばかりの睡眠では何にもならなかった。彼は又寝床へ入った。船は可成りに揺れていた。それに船室が船尾に近い為に、舵を動かす太い鎖が絶えずグロッグロッと変な響きをたてる。それが耳について眠れなかった。ダンダンダンと云う気缶(きかん)の音に混じって、推進機に押される。シャアシャアと云う水音も聴こえた。彼は多少船暈(ふなえい)を感じた。それが酒に酔った時のように、いやに手などが赤くなっている。寝床の向こうが鏡になつていて、白い枕に半分埋まった彼の顔が丁度額縁にはまつたかのように工合よく寝ながら見えた。そしてその顔も亦赤くなていた。度へ出るとよく病気をする方で、もう風邪をひいたかしらと彼は思った。うとうとしている内に、又晩飯の鐘で彼は起された。若い外国人が、本を忘れて来て弱った、しかし明日は船のライブラリーを開けて貰う筈だと云った。謙作はガルシンの英訳本を持っていたので、それを貸してやった。

 寒い晩になった。晩になると、習慣から却って謙作の眼はさえて来た。彼は大きな薄ら寒い食堂で、今日新橋まで送ってくれた人達、信行、咲子、緒方達、それから、お栄と宮本と、それから今頃丁度ペナンあたりまで行っているだろう竜岡に巴里の大使館気付けで端書を書いた。竜岡と別れた事は何といっても彼には淋しい事だった。竜岡は芸術には門外漢らしい顔を何時もしていたが、自身の仕事、飛行機の製作、殊にその発動機の研究に就いては、そしてそれに対する野心的な計画を話す時などには彼は腹からの熱意を示し、よく亢奮した。謙作は仕事は異っていたが、そう云う竜岡を見る事で常にいい刺激を受けた。今、そういう友を近くに失った彼は本統に淋しい気がされたのである。

 紺足袋に麻裏草履を穿(は)いた彼の足は冷え切っていた。その癖彼の頭の上には大きな旋風機が彼を見下ろしていた。それはこの濠州通いの船が、マニラ辺りへ行くと廻り出す筈の旋風機だった。彼は何枚かの端書を書き終わると、寝る前にもう一度、外の景色を見ようと思って、甲板へ出て行った。真暗な夜で、見えるものは何にもなかった。只マストの高い処に小さな灯が一つ、最初星かと思った程に遠く見えただけだった。人っ子一人いない。ヒューヒューと風の叫び、その風に波がしらを折られる、さあさあというような水音、それだけで、気缶の響きも、鎖の音も今は聴こえなかった。船は風に逆らい、黙って闇へ突き進む。それは何か大きな怪物のように思われた。

 彼は外套にくるまって、少し両足を開いて立っていた。それでも、うねりに従う船の大きい動揺と、向い風とで時々よろけそうになった。風は帽子を被らずにいる彼の髪を穿(うが)つように吹き付けた。そして、睫毛(まつげ)が風に吹き倒されるので眼がかゆくなった。彼は今、自分が非常に大きなものに包まれている事を感じた。上も下も前も後ろも左も右も限りない闇だ。その中心に彼はこうして立っている。総ての人は今、家の中に眠っている。自分だけが、一人自然に対し、こうして立っている。総ての人々を代表して。と、そういった誇張された気分に彼は捕らえられた。それにしろ、矢張り何か大きな大きなえものの中に自身が吸い込まれて行く感じに打ち克てなかった。これは必ずしも悪い気持ちとは云えなかったが何か頼りない心細さを感じた。彼は自身の存在をもっと確かめようとするように殊更下腹に力を入れ、肺臓一杯の呼吸をしたが、それをゆるゆると直ぐ、又大きなものに吸い込まれそうになった。

 真黒い人影が近寄って来た。ボーイだった。何か云っているが、風にさらわれて少しも分からなかった。ボーイは帰って行った。それから暫くして彼は下へ降りて行った。身体がすつかり冷えていた。彼はかなり疲れていた。しかし習慣から、雑誌を持って寝床へ入った。しかしそれは十分しない内に文句の意味が彼から遠のいて行った。半分眠ったようになって、それでも彼はそれへ追いすがろうとし、そして無理に意識をはつきりさすと、字は読みながら、もう意味は勝手な夢になっていた。何時か目蓋が眼を被(おお)う。彼は快く眠りの中へ沈んで行った。が、まだ彼は何かしら考えていた。この二三カ月の眼まぐるしい、いやな生活、その後に漸く来た、これは安らかな大きい眠りだ。こんな事を思っていた。彼が眼を覚ました時には船室の丸い小さな窓の厚い硝子を越して白っぽい外の光が差し込んでいた。彼は枕から頭をあげた。海は前日のように、灰色をした寒そうな空の下で荒れていた。そして彼も食事を済ますと、外套を羽織って甲板へ出て行った。風は幾らか凪ぎ、船は紀州の海岸に添うて進んでいた。

 若い外国人は船尾の方で息を切らし切らし、鼻歌を歌いながら、一つ処(とこ)を行ったり来たりしていた。彼を見ると、「お早う」と云った。そして、温かくなるから一緒に歩かないかと勧めた。彼は着流しに厚い毛のズボン下を穿いていたので、尻端折(しりばしょ)りでもしなければそう早くは歩けなかった。彼は断って、喫煙室に引き返した。間もなく若い外国人は貸したガルシンの本を持って入って来た。そして「四日間」という短編をモルビットとかテリブルとかいう言葉を使って仕切りに讃めた。「神戸へ何時頃に着くかしら」。其処へ入って来たボーイに彼は訊いた。西行きの汽車を調べるつもりだった。「昨晩は少し荒れたので遅れましたが、ノットを一杯にかけてますから、そう遅れは致しますまい」とボーイは答えた。「三時頃には着きましょう」。実際、船は三時に止まった。止まらないうちから、ホテルのランチが何隻か乗客を争う車夫のように船の周りをうろついた。彼は遅れ走(ば)せに来た。郵船会社の大きいランチで岸へ上がった。そして税関で何か白墨でしるしをされた旅行鞄を膝の間に立てて車で三の宮の停車場へ向かった。
 二
 塩屋、舞子の海岸は美しかった。夕映えを映した夕なぎの海に、岸近く小舟で軽く揺られながら、胡坐(あぐら)をかいて、網をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く網を延ばして、もう夜泊(よどまり)の支度をしている漁船がある。謙作は楽しい気持ちで、これらを眺めていた。そして汽車が進むに従って夜が近づいた。彼は又睡むくなった。眼まぐるしい、寝不足続きの生活の後では幾ら眠っても眠(ね)足りなかった。彼は食堂へ行って、簡単な食事を済ますと、和服に着かえて空いている座席に長くなった。そして十一時頃ボーイに起され、尾の道で下車した。

 旅行案内に出ている宿屋は二軒とも停車場の前にあった。彼はその一軒へ入った。思ったより落ち着いた家だったが、三味線の音が聴こえていたので、彼は番頭に、「なるべく裏の静かな部屋がいい」と云った。二階の静かな部屋に通された。彼は起って、障子を開けて見た。まだ戸が閉めてなく、内からさす電燈の明りが前の忍返(しのびがえ)しを照らした。その彼方が一寸(ちょっと)した往来で直ぐ海だつた。海と云っても、前に大きな島があって、河のように思われた。何十隻という漁船や荷船が所々にもやっている。そしてその赤黄色い灯の美しく水に映るのが、如何にも賑やかで、何となく東京の真夜中の町を想わせた。

 金火鉢を持って入って来た女中が縁側にいる彼に、「おあぶりやす」と云った。彼は黙って入ると、障子を閉め、火鉢の前へ坐った。女中は抹茶と菓子を彼の前へすすめた。「今からでも按摩を頼んで貰えるかい?」。「え-え、あんさんの為なら」と馴れ馴れしく云って女中は出て行った。余り馴れ馴れしいので彼は普通の宿屋でない家へ入ったかしらと一寸思った。彼は按摩から、西国寺(さいこくじ)、千光寺(せんこうじ)、浄土寺、それから、講談本にある拳骨物外(げんこつもつがい)の寺、近い処では鞆の津の仙酔島(せんすいとう)、阿武兎(あぶと)の観音、四国では道後の湯、讃岐の金刀比羅(ことひら)、高松、屋島、浄瑠璃にある志度寺(しどじ)などの話を聴いた。彼は東京からの夜着(やぎ)その他の荷の着くまで一週間ほど、何処か旅してもいいと考えた。按摩は話に気を取られると、段々弱くなった。「もう少し強くやってくれないか」。按摩は急に強くし出した。丁度水車の杵が米をつくように肩の上でぐりぐりと乱暴に臂(ひじ)で肉をつき下ろした。「何と云う流儀だね?」。「長崎の緒方流と申しやんすけん」。彼は前日新橋で別れて来たハイカラな緒方と、この薄汚い按摩の緒方流とで、何と云う事なし、一人微笑した。海の方で、ピヨロッピヨロッと美しい啼声だか音だかがしている。丁度芝居で使う千鳥の啼声だ。もう人々の寝静まった夜更け、黙ってこれを聴いていると何となく、淋しいような快い旅情が起って来た。「あれは何だい?」。「あの音かえな。ありゃあ、船の万力(せみ)ですが」。

 翌日(あくるひ)十時頃、彼は千光寺と云う山の上の寺へ行くつもりで宿を出た。その寺は市の中心にあって、一眼(ひとめ)に全市が見渡せるというので、其処から大体の住むべき位置を決めようと彼は思った。いい加減な処から左へ鉄道線路を越すと、前に高い石段があってその上の山門に獅子吼(く)と勢いよく書いた大きな行燈が下っていた。光明寺という寺で、彼は寺内(じない)を出抜けて山へかかったが、うねり、くねった分かりにくい小路(こみち)が幾つもあって、そのどれを選んでいいか見当がつかず、或る分れ路に立って休んでいた。「寄せ來る敵を、みなみな殺せえ---」。突貫喇(らっぱ)の節で大声に唄いながら、十二三になる男の児が上の方から元気よく、細い竹の棒を振りながら駆け下りて来た。「千光寺へ行くのはこれでいいの?」。彼は行く手を指してその児に訊いた。立ち止まった子供は彼と一緒に山を見上げていたが、どう教えていいか迷う風だった。「口で云うても分らんけえ。俺(わし)が一緒に行きやんしょう」。子供は彼の返事も待たずに、今降りて来た細い坂道を前こごみの身体を快活に左右に振りながら、先へ立って登り出した。斜めに右へ右へと登って行った。暫く行くと左手に高く、二三寸に延びた麦畑があつて、その上に屋根の低い三軒長屋があり、その左の端に貸家の札が下がっていた。彼は子供に礼を云って別れ、その家を見に行った。日向(ひなた)で張物をしていたかみさんが、色々と親切に教えてくれた。

 それから斜めに一町ほど登って行って、彼は又三軒長屋で、東の端が貸家になっているのを見つけた。見晴らしは前の家よりよかった。此処でも親切な婆さんがいて、彼の訊く事に親切に答えてくれた。彼には今の子供でも、かみさんでも、この婆さんでも、皆いい人間に思えた。こういう偶々(たまたま)出会った二三人の印象から直ぐ、そう思うのは単純すぎる気もしたが、やはり彼はそれらからこの初めての土地に何となくいい感じを持った。

 漸く千光寺へ登る石段へ出た。それは幅は狭いが、随分長い石段だった。段の中頃に二三軒の硝子戸を閉め切った茶屋があって、どの家にも軒に千光寺の名所絵葉書を入れた額が下がっていた。段を登り切って、左へ折れ、又右へ少し、幅広い石段を登ると、大きな松の枝に被われた掛茶屋ずあった。彼はその床几に腰を下ろした。前の島を越して遠く薄雪を頂いた四国の山々が見られた。それから瀬戸海のまだ名を知らぬ大小の島々、ひういう広い景色が、彼には如何にも物珍しく愉快だった。煙突に白く大阪商船の印をつけた汽船が、前の島の静かな岸を背景にして、時々湯気を吐き一寸間を措いて、ぼー-といやに底力のある汽笛を響かしながら、静かに入って来た。上げ汐の流れに乗った小船が案(おも)いの外の速さでその横を擦れ違いに漕いで行く。そして、幅広い不格好な渡し船が流れを斜めに悠々と漕ぎ上っているのが見られた。しかし彼はこう云う見馴れない景色を眺めていると、やがてこれにも見厭(あ)き、それがいい景色だけに却って苦になりそうだと云うような気がした。

 彼はうで卵を食いながら、茶店の主から、前の島が向かい島、その間の小さい海が玉の浦だと云うような事を聴いた。玉の浦に就いては、この千光寺にある玉の岩の頂辺(てっぺん)に昔、光る珠(たま)があって、どんな遠くからでも見られ、その光で町では夜戸外(そと)に出るにも灯りが要らなかったが、或る時、船で沖を通った外国人が、この岩を見て売ってくれと云いに来た。町の人々は山の大きな岩を売った処でまさかに持っては行かれまいと、承知をすると、外国人は上の光る処だけを刳(く)り抜いて持って行って了った。それからは、この町でも、月のない夜は他の土地同様、提灯を持たねば戸外を歩けぬようになったと云う話である。「今も、岩の上には醤油樽に二廻(ふたまわ)りもあるおおけえ穴があいとりますがのう。まあ今日(こんち)らで申さば、ダイヤモンドのような物じやったろう云う事です」。彼は町の人々が祖先の間抜けだった伝説をそのまま云い伝えているところが、何となく暢気(のんき)で、面白い気がした。

 彼は茶店の主から聴いて、先頃死んだ商家の隠居が住んでいたと云う空家を見に行った。枯葉朽葉の散り敷いたじめじめした細道を入って行くと、大きな岩に抱え込まれたような場所に薄暗く建てられた小さな茶室様の一棟(ひとむね)があった。が、それが如何にも荒れ果てていて、修繕も容易でないが、それより陰気臭くてとても住む気になれなかった。彼は茶店まで引き返して、石段を寺の方へ登って行った。大きな自然石(じねんせき)、その間に巌丈(がんじょう)な松の大木、そして所々に碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石が建っている。彼は久しい以前行った事のある山形の先の山寺とか、鋸(のこぎり)山の日本寺を憶い起した。開山(かいさん)が長崎の方から来た支那の坊主というだけに岩や木のたたずまいから、山門、鐘楼、総てが、山寺、日本寺などよりも更に支那臭い感じを与えた。玉の岩というのはその鐘楼の手前にあった。小さい二階家ほどの孤立した一つの石で、それが丁度宝殊(ほうしゅ)の玉の形をしていた。

 鐘楼の所からは殆ど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟まれた市はその細い幅とは不釣合いに東西に延びていた。家並(やなみ)もぎっしりつまって、直ぐ下にはずんぐりとした煙突が沢山立っている。酢を作る家だ。彼は人家の少しずつ薄らいだ町はずれの海辺を眺めながら、あの辺りにいい家でもあればいいがと思った。暫くして彼は再び、長い長い石段を根気よくこつこつと町まで降りて行った。その朝、宿の者に買わした下駄は下まで降りると、すっかり鼻緒がゆるんで了った。不潔なじめじめした路次(ろじ)から往来へ出る。道幅は狭かったが、店々には割りに大きな家が多く、一体に充実して、道行く人々も生き生きと活動的で、玉の岩の玉を抜かれた間抜けな祖先を持つ人々には見えなかった。

 彼は又町特有な何か臭いがあると思った。酢の臭いだ。最初それと気づかなかったが、「酢」と看板を出した前へ来ると一層これが烈しく鼻をつくので気づいた。路次の不潔な事も特色の一つだった。瓢箪を下げた家の多い事も彼には物珍しかった。骨董屋、古道具屋、又それを専門に売る家は素より、八百屋でも荒物屋でも、駄菓子屋でも、それから時計屋、唐物屋、印判屋のショー・ウィンドウでも、彼は到る所で瓢箪を見かけた。彼は帰って女中から宿の主も丹波行李(ごうり)に幾つかの瓢箪の持主だと云う事を聴いた。

 その晩彼は早く寝た。そして翌朝(よくあさ)未明に起きると、まだ電燈のついている掃いたような往来を番頭に送られて近い船つき場へ行った。霜が下りて寒い朝だった。内海の景色は彼が想像した程にはよくなかった。丁度上げ潮時で、海水が東へ東へと落ち着きなく苛波(いらなみ)を立て立て流れている事などが一寸不思議に思えた。高浜と云う処で下りて、汽車で道後へ行って、彼は其処で二泊した。そして又同じ処から船に乗り、宇品で降り、広島から厳島(いつくじま)へ行った。尾の道より気に入った処があれば彼は何処でもよかったが、結局四日目に又尾の道へ帰って来た。淡い旅疲れで、彼は気分も頭もいい位にぼやけていた。荷はまだ着いていなかったが、翌日千光寺の中腹の二度目に見た家を借りる事にして、彼は町から畳屋と提灯屋を呼んで来て、畳表や障子紙を新しくさせた。
 
 謙作の寓居(ぐうきょ)は三軒の小さい棟割り長屋の一番奥にあった。隣は人のいい老夫婦でその婆さんに食事、洗濯その他の世話を頼んだ。その先に松川という四十ばかりのノラクラ者がいて、自分の細君を町の宿屋へ仲居に出して、それから毎日少しずつの小使銭を貰って酒を飲んでいると云う男だった。景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切り人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市(まち)の遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。夕方、伸び伸びした心持で、狭い濡縁へ腰かけていると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が棍棒を振っているのが小さく見える。その上を白い鳩が五六羽忙しそうに飛び回っている。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。

 六時になると上の千光寺で刻(とき)の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰って来る。その頃から、昼間は向い島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島(ひやつかんじま)の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。十時になると多度津通いの連絡船が汽笛を鳴らしながら帰って来る。舳先(へさき)の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市(まち)からは何の騒がしい音も聴こえなくなって、船頭達のする高話(たかばなし)の声が手に取るように彼の処まで聞えて来る。

 彼の家は表が六畳、裏が三畳、それに土間の台所、それだけの家だった。畳や障子は新しくしたが、壁は傷だらけだった。彼は町から美しい更紗(さらさ)の布(きれ)を買って来て、そのきたない処を隠した。それで隠し切れない小さい傷は造花の材料に対する繻子(しゅす)の木の葉をピンで留めて隠した。とにかく、家は安普請で、瓦斯ストーヴと瓦斯のカンテキとを一緒に焚(た)けば狭いだけに八十度までは温める事ができたが、それを消すと直ぐ冷えて了う。寒い風の吹く夜などには二枚続きの毛布を二枚障子の内側につるして、戸外からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風でその毛布が始終動いた。畳は表は新しかったが、台が波打っているので、うっかり坐りを見ずに平ったい辣韭(らっきょう)の瓶を置くと、倒した。その上畳と畳の間がすいていて、其処から風を吹き上げるので、彼は読みかけの雑誌を読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸でその隙へ押し込んだ。

 こう云う東京とは全く異った生活が彼を楽しませた。彼は久し振りに落ち着いた気分になって、計画の長い仕事に取りかかったのである。それで彼は自分の幼時から現在までの自伝的なものを書こうとした。彼は父が海外旅行中に生れた児だった。そして父が何時帰って来たか、それは覚えないが、父の留守中、祖母や母や兄などと住んでいた茗荷谷(みょうがだに)の小さい古ぼけた家を憶い起すことができた。みしみしいう狭い梯子段(はしごだん)を登ると、屋根裏のような天井の低い部屋があって其処で祖母がよく機(はた)を織っていた事、夜は又茶の間の薄暗い釣り洋燈(ランプ)の下で、祖母や母が、真綿から糸を引き出し引き出ししていた事、その糸を紙を張って渋をひいた味噌漉(みそこし)に溜めてある、それをいじって叱られた事、ぶんぶん云う糸車の響き、それらが前(さき)の世の事のように淡く憶い浮んで来た。

 或る日、狐が振りかえり振りかえり悠々と生垣の間から出て行った事、(それが狐という事は縁側で一緒に見ていた祖母から教えられたのだが、)又或る時、柿の木の高い枝にいる油蝉(あぶらぜみ)を見て、非常に大きな蝉だと思った事、それから多分同じ柿の木の下で近所の同い年くらいの子供と「坊や」というのは自分の事だと互いに主張し合った事などを憶い出した。

 本郷竜岡町の家へ引き移ったのは父が帰朝して間もなくの事だった。或る時女中に負(お)ぶさって父の食パンを買いに上野の山下の方へ行った帰り途、池の端(はた)で亀の子を見ていると、通りすがりの綺麗な奥さんが、彼が女中の背中で持たされていた食パンを包みのままツイと引き抜いて持って行って了った事、それから旧藩主が死んだ時に、おかくれになったというのを、「隠れん坊」と解(と)って、棺の後ろへ立て廻した金屏風の裏を頻りに探し廻った事、その葬式が伝通院であった時に、撞木(しゅもく)で叩く小さい釣鐘の響きに震え上がった事、それを叩いている坊主を、無慈悲な奴だと腹から憎らしく思った事等(など)、こういう断片的な記憶が、丁度泥水の底から沼気(しょうき)のぷかりぷかりと浮んで来るように浮かんで来た。そしてそれらは、何(いず)れも毒にも薬にもならないようなものが多かったが、只一つ、まだ茗荷谷に居た頃に、母と一緒に寝ていて、母のよく寝入ったのを幸い、床の中に深くもぐって行ったという記憶があった。間もなく彼は眠っていると思った母から烈しく手をつねられた。そして、邪慳(じゃけん)に枕まで引き上げられた。しかし母はそれなり全く眠った人のように眼も開かず、口もきかなかった。彼は自分のした事を恥じ、自分の仕た事の意味が大人と変わらずに解(わか)った。

 この憶い出は、彼に不思議な気をさした。恥ずべき記憶でもあったが、不思議な気のする記憶だった。何が彼にそう云う事をさせたか、好奇心か、衝動か、好奇心なら何故それ程に恥じたか、衝動とすれば誰にも既にその頃からそれが現れるものか、彼には見当がつかなかった。恥じたところに何かしらそうばかりは云いきれないところもあったが、三つか四つの子供に対し、それを道徳的に批判する気はしなかった。前の人のそう云う惰性、そんな気も彼はした。こんな事でも因果が子に報いる、と思うと、彼は一寸悲惨な気がした。

 彼はそういう幼時の記憶から段々に書いて行ったのである。主に夜中から明け方までを仕事の時間にした。一月(ひとつき)ばかりは先ず総てが順調に行った。生活も、仕事も、健康も。しかしひと月も終わりの頃から少しずつそれが乱れて来た。彼は東京を出てから故意にお栄には余り便りをしなかった。それは一時彼の頭にこびり着いた妄想を振り落としたい気持ちからもあったが、一つは孤独から弱々しくなった自分に自分で抵抗するような心持もあった。が、信行の方には割りに便りをした。しかしそれにも彼は「これは東京ならば友達と雑談している時間にその心持で書くのです」というように云い訳を書いた。お栄からはよく長い手紙が来た。お栄は信行への手紙を大概読んでいるらしかった。

 仕事がうまく行かなくなるに従って、生活の単調さが彼を苦しめ始めた。彼の一日/\は総て同じだった。昨日雨で、今日晴れたという他は一日/\が少しも変らなかった。彼は原稿紙の一角毎に日を書き、それを壁へ貼って置いて、一日/\と消して行った。仕事ができる間はまだよかったが、気持ちからも健康からも、それが疲れて来ると、字義通りの消日(しょうじつ)になった。誰からも一人になることが目的であつたにしろ、今はその誰もいにい孤独さに、彼は堪えられなくなった。下の方を烈しい響きをたてて急行の上り列車が通る。煙だけが見える。そしてその響きが聴こえなくなると、暫くして、遠く弓なりに百足(むかで)のような汽車が見え出す。黒い煙を吐きながら一生懸命に走っている。が、それが、如何にものろ臭く見えた。あれで明日の朝は新橋へ着いているのだと思うと、一寸不思議なような、嫉(ねた)ましい気がした。無為な日を送っている彼自身の明朝までは実際直ぐだった。間もなく汽車は先の出鼻を廻って姿を隠す。

 しかし彼は東京へ帰ろうとは却々(なかなか)思わなかった。帰れば又来る事はなさそうに思えた。今帰れば余りに元の木阿弥に思えた。出来栄えはとにかく、ともかくもこの仕事をし遂げねばと彼は決心した。彼はよく無意味に郵便局や、停車場へ入ってはぶらぶらしていた。それは東京に一番近い場所という気持があったからである。彼が来た時に二三寸しかなかった麦が今は六七寸に伸びていた。彼は自分の頬の筋肉が変に緩んで了ったような気がした。そして、今は眼もはつきりとは開いていられなくなった。彼は何十日という間、朝から晩まで、絶えず陰気臭い同じ顔をしていた事に気づいた。笑う事も、怒る事もない。第一胸一ぱいの呼吸すらしていなかった。

 或る北風の強い夕方だった。彼は何処か人のいない所で、思い切り大きな声を出して見ようと思った。そして市(まち)を少し出はずれた浜へ出掛けて行った。其処には瓦焼きの釜が三つほどあって、それが烈しい北風を受け、松の油がジリジリと音を立てながら燃えていた。強い光が夕闇の中で眼を射た。彼は暫くぼんやりそれを眺めていたが、暫くして海辺の石垣の方へ行って、海へ向ってその上へ立った。しかし彼にはうたうべき唄はなかった。彼は無意味に大きい声を出して見た。が、それが如何にも力ない悲し気な声になっていた。寒い北風が背中へ烈しく吹きつける。瓦焼の黒い煙が風に押しつけられて、荒れた燻(いぶし)銀の海の上を、千切れ千切れになって飛んで行く。彼は我ながら腹立たしいほど意気地ない気持ちになって帰って来た。

 「旦那さん、銭は出しますけえ、どうぞ、何処ぞへ連れて行ってつかあさい」。こんな上手な事をいう百姓娘のプロスティチュート(淫売)があった。丸々と肥った可愛い娘で、娘は愛されているという自信から、よく偽りの悲し気な顔をして、一円、二円の金を彼から巻き上げた。或る長閑な日の午後だつた。彼は向い島の塩田を見に、渡しを渡って行った帰り、島の向う岸まで出て、日頃頭だけしか見ていない百貫頭を全体見るつもりで、その方へぶらぶらと歩いて行った。或る丘と丘との間のだらだら坂へかかると彼は上から下りて来る男と女の二人連れを見た。その一人がそのプロスティチュートらしかった。彼は何気なく竹藪について細い路(みち)へ曲った。そして十間ほど行った処で立止り、振り返って、往来の方を見ていた。その娘だった。派手な長い袖の羽織を着て、顔を醜いほどに真白く塗っていた。そして何か浮かれた調子で男へ話しかけながら通り過ぎた。男は中折れ帽を眼深く被(かぶ)った番頭という風の若い男だった。

 健康も、気分も、そして仕事も、段々に面白くなくなつた。第一に肩が無闇と凝った。頭が重く、首筋を握ると、ジキジキと気持ちの悪い音がした。食欲も衰えたし、睡眠も充分にできなくなった。うつらうつらと何かしら不快な夢を見つづけた。しかし夜中、仕事にかかっている時は仕事それ自身は殆ど捗(はかど)らぬままに、妙に気分だけが冴(さ)え冴(ざ)えと異状の亢奮を覚える事が却って多くなった。彼は亢奮から狭い六畳間(ろくじょうのま)を、畳の下で根太板がかたかた音をたてるほどに無闇と歩き廻ったりした。そういう時彼は総てと差し向いになったような、自分が非常に偉大な人間になつたような気持になる。夜の生活は多くそうであったが、昼間は丁度反対に、彼は全くみじめな気持ちに追い詰められていた。それは肉体からも精神からも半病人だった。もの憂く、睡く、眼は充実して、全(まる)で元気がなくなった。或る時、隣の奥さんに勧められて、宝土寺の石段下にいる岩兵衛按摩という、以前、浜で小揚他人足(こあげにんそく)をしていた盲人(めくら)の処へ行って見たが、その腹の立つほどの荒療治も彼の肩には何の利き目もなかった。彼はやはり今は仕事を中止するより仕方なかった。
 四
 春めいた長閑な日だった。前の石垣の間から、大きな蜥蜴(とかげ)が長い冬籠(ふゆごも)りの大義そうな身体を半分出して、凝然(じっ)と日光をあびている。そういう午前だった。彼も幾らか軽い心持ちで、前の障子を一つぱいに開け、朝昼一緒の食事をしていた。向い島の山の上には青く、うつすりと四国の山々が眺められた。彼は不図旅を思い立った。そして旅行案内を出し、讃岐行の船の時間などを調べていると、隣の婆さんが、「よう、嗅ぎつけおる」。こんな事をいいながら前の縁へ来て腰を下ろした。飯時に何時でも来る近所の子犬が二匹、濡縁(ぬれえん)の先に黒い鼻の先だけを見せていた。そのヒクヒクと動く鼻の先だけが何か小さい二つの生物のように見えた。「金ン比羅さんへ行くには連絡の方がいいのかしら?」。「へえ、今日(こんち)らは大方御本山さんへ参られる者が仰山(ぎょうさん)出やんしょうでの、商船会社の船はこんでいけやすまい」。「二時ですネ」。「へえ、---ああんさん、金ン比羅さんへ参られやんすか」。「ああ。それから部屋はこのままにしといて下さい。盗られても困らないものばかりだから」。「へえ。しゃあごじゃかせん」と婆さんは笑った。「大事なものは鞄へ入れとくから、それだけ預かって下さい」。「へえ。---今日(こんち)らは鞆のお月様がよう見えやんしょうの」。「お婆さんは行って見たことがあるの?」。「え-え」と否定して「戦ねんお四国遍路に出やしての。その機(お)り船で通っただけでござんすけ」。「そう。今晩鞆でお月見をして、あした金ン比羅さんへ行って、それから、あさって、高松で、今度開くというお城の庭を見て来ましょう」。「立派なものじゃんすのう。岡山のよりええんじゃ云いよられやんした」。

 彼は食事の余りを一つ皿に集めて、それを犬にやった。一匹が仕切に唸(うな)って他を威嚇した。「しっ、しっ」。婆さんは腰かけたまま、藁草履(わらぞうり)をはいた足でその犬を蹴る真似をした。下の方から、隠居仕事に毎日商船会社の船つき場に切符きりに出ている爺さんが細い急な坂路をよちよちと登って来るのがみえた。「帰って来た」。「へえ」。こういって婆さんは笑ってその方を見ていた。近所の六つばかりになる女の児が自分の家の小さい門の前に立って、「お爺さ-ん」と大声に呼んだ。爺さんは立止り、腰をのして此方を見上げた。ぶくぶくに着ぶくれた爺さんの背中は、幾ら腰をのしても未だ屈(まが)つていた。そして、「芳子さあ-」。幅のある気持ちのいい濁声(だみごえ)で呼びかえした。「お爺さーん」。「芳子さあー」。こう甲高い声と幅のある濁声とが呼び交わした。そして爺さんは又前こごみの姿勢に変ってよちよちと登り出した。婆さんは隣りへ帰って行った。

 暫くして、謙作は金を取りに山を下りて行った。市の郵便局は近かった。貯金為替(かわせ)と書いた口へ、彼は持って来た為替の紙を出すと、「今日は午前中だけですがのう」と云われた。日曜を彼は忘れていた。「今、決算を済まして渡したところです」と局員は気の毒そうにいった。彼は未練らしく二三歩下がって頭の上の大時計を見た。二十分ほど過ぎていた。仕方なく、彼は旅を一日延ばす事にした。翌日は薄日のさした、寒い、いやな日だった。空模様も本統でなく、風もあった。彼は一寸迷ったが、やはり出かける事にして、一時半頃汽船の出る処へ行った。着くのが三十分遅れた為に、それだけ二時発から遅れて、船は出発した。彼は祖父の着古した、きたない二重廻しをきて、甲板へ出ていた。船は細長い市に添うて東へと進む。千光寺の山の中腹に彼の住む小さい家が一層小さく眺められた。先刻まで着ていた、綿入れと羽織とが軒の物干竿(ものほしざお)に下っている。それも如何にも小さく眺められた。その前に婆さんが腰かけて此方を見ている。彼は一寸手を挙げて見た。婆さんも直ぐ不器用に片手を挙げた。そして笑っているらしかった。

 山と山との間の一番奥にある西国寺(さいこくじ)という寺が見え出した。間もなく、船は浄土寺の前を過ぎ、市を出はずれて、舵を南へ南へととり、向い島を廻って、沖へ出て行った。彼は因の島、百貫島、そのくらいで島の名を知らなかった。しかし島は一つ通り越すと又一つと並んでいた。島と島との間を見通せないので、只船で通っては湾曲の多い海岸を見ると余り変りなかった。先刻まで薄日のさしていた空は何時かどんよりと曇って、寒い風が西から吹いていた。彼は船室へ入ろうかと思ったが、何かしらそれも惜しい気持から、二重まわしの羽根をかき合せ、立てた襟に頤(あご)を埋めて、尚甲板のベンチへ腰を据えていた。

 船は島と島との間を縫って進んだ。島々の傾斜地に作られた麦畑が、一畑(ひとはた)毎に濃い緑、淡(うす)い緑と、はっきりくぎりをつけて、曇った空の下にビロードのように滑らかに美しく眺められた。それから、島々の峯(みね)の線が如何にも力強く美しく眺められた。曇り日を背にした方が殊(こと)に輪郭がくっきりとよく見えた。彼は市の瓢箪屋で見た瓢(ひょう)の割れ目の線を想い出した。自然の作る線、これにはやはり共通な力強さ、美しさがある事に感服した。或る島は遠く、或る島は直ぐ側(そば)を通った。少し人家のある浜辺には出鼻の潮風に吹き曲げられた十二本の老松(ろうしょう)の下に屹度常燈明(じょうとうみよう)と深く刻(ほ)りつけられた古風な石の燈台が見られた。他の島の若い娘が毎夜その燈明をたよりに海を泳ぎ渡って恋人に会いに来る。或る嵐の夜、心変わりのした若者は故意にその燈明を消して置いた。娘は途中で溺れて死んだ。こういうよくある伝説にはどれも似合わしい燈明だった。

 阿伏兎(あぶと)の観音と云うのが見え出した。それは陸と島との細い海峡の陸の方の出鼻にあり、拝殿が陸にあって、奥の院は海へ出ばった一本立ちの大きな石の上に、二間ほどに石垣を積み上げて、その上に立っていた。その間五六間が、かなりの勾配の廊下でつないである。その他は自然のままで、人家もなく、如何にも支那画を見る心持であった。其処を廻って汽船は陸添いに進む。庭に取り入れていいような松の生えた手頃な小さい島が幾つかあって、やがて鞆の津に船は止まった。仙酔島が静かに横たわっている。絵葉書で勝手に想像していた向きとは全く反対側にそれがあったので多少彼は物足らなかったが、とにかくそれは気持のいい穏やかな島であった。町の方は人家でごちゃごちゃしていた。保命酒醸造元とか、元祖十六味保命酒とかペンキで塗った煙突が所々に立っていた。彼はその晩此処で月見をするつもりだったが、空模様が、とても見られそうもないので、そのまま乗り越す事にした。段々身体が冷えて不愉快になって来た。彼は船室へ降りて行った。二等というので、客五六他人しか居なかった。その中に混じって彼も横になった。船は少しずつ揺れて、ばたんばたんと船の胴を打つ波の音が聴こえた。彼は少し睡かったが、眠れば風邪をひきそうなので又起きて、持って来た小説本を読み始めた。

 「御退屈でござります」。洋服の腕に二本金筋を巻いた船員が自分はレコード、蓄音機は水夫に持たせて入って来た。「どうぞ、御自由に御散財下さりませ」。笑いながら、こんな事をいつて、大概は寝ているので、起きていた謙作の前にそれを置いた。謙作はそのまま本を読んでいたが、誰も手を出す者がないので、レコードの函を引き寄せて見た。浪花節が多かったが、義太夫もあった。義太夫は好きだったので、彼はそれを三四枚続けてかけた。「呂昇(ろしょう)の艶は別じゃのう」。二人で寝ながら株の話をしていた一人がこんな事をいった。その男は又謙作の方を向いて、「浮かれ節はありやんせんかえなあ」といった。「うう?」。謙作は浪花節の事だろうとは思ったが、よく通じないような、そして故意に不愛想な顔をして、又義太夫をかけた。その男はそれきり黙った。一寸気の毒な気がして、彼はその次に吉原芸者「四季の唄」というのをかけた。「春は花、いざ見にごんせ、東山」という唄だろうと思っていると、最初ジイジイいっていた喇叭から、突然、突拍子もない浮かれ調子で「春は嬉しや、二人揃うて---」という唄が出て来た。気むずかしい不機嫌らしい顏が自身見えるだけにこの浮かれ唄との滑稽な対照が自分でも一寸可笑しくなった。そのままにしていると、夏は嬉しや秋は嬉しやと蓄音機は無遠慮に浮かれた。ダンダンダンという気缶の響き、ぼうぼうと甲板で鳴らす汽笛、船の胴を打つ波音、それらと入り混じって、凡そ不調和に「雪見の酒」と浮かれている。彼は蓄音機をやめて又甲板へあがって行った。

 いつか、もう讃岐の海岸が遠く見えていた。其処には三四人の客が立っていた。「事務長さん、金ン比羅さんのお山はどれですかいな」。「あれでござります」。先刻蓄音機を持って来た金筋を腕に捲(ま)いた男が指さして答えた。「あれが、その、象の頭(かしら)に似とる云うので、それで象頭山(ぞうずさん)、金ン比羅、大権現、ですかいな、そう申すのじやそうにござんす。あのこちら側に黒う見えとりますの、此処からはほんこまい森のようにござんすけえ、そら、いたらエライ森でござんすが」。帆を張った漁船が四五艘(そう)、黒ずんだ藍色の海を力強く走っていた。事務長はこの辺りが内海の真ん中で西からも東からも潮が上げて来て、此処で又別れて両方へ干(ひ)いて行くのだと説明した。「来月は善通寺さんの御開扉(おかいひ)で又一段と賑わう事でござんしょう」。こんな事も云った。

 謙作は一人船尾へ行って、其処のベンチに腰かけた。彼は象頭山、それから、それに連なる山々を眺めた。彼は今事務長が云った山よりもその前の山がもっと象の頭に似ていると思った。そして彼はそれだけの頭を出して、大地へ埋まっている大きな象が、全身で立ち上がった場合を空想したりした。それから起る人間の騒ぎ、人間がその為に滅ぼし尽されるか、人間がそれを倒すかという騒ぎ、世界中の軍人、政治家、学者が、智慧をしぼる。大砲、地雷、そういうものは象皮病というくらいで、その象では皮膚の厚みが一町くらいある為に用をなさない。食料攻めにするには朝めしと昼めしの間が五十年なのでどうする事もできない。賢い人間は怒らせなければ悪い事はしないだろうと云う。印度の或る宗旨の人々は神だと云う。しかし全体の人間はどうかして殺そうと様々な詭計(きけい)を弄する。到頭象は怒り出す。---彼は何時か自分がその象になって、人間との戦争で一人亢奮した。都会で一つ足踏みすると一時に五万人がつぶされる。大砲、地雷、毒瓦斯、飛行機、飛行船、そういうあらゆる人智をつくした武器で攻め寄せられる。しかし彼が鼻で一つ吹けば飛行機は蚊より脆(もろ)く落ち、ツェッペリンは風船玉のように飛んで行って了う。彼が鼻へ吸い込んだ水を吐けば洪水になり、海に一度入って駆け上がって来ると、それが大きな津波になる------。

 「御退屈でござりました。もうあれが多度津でござります。十分で着きますので、御支度を---」。こう、事務長が知らせに来た。彼は退屈どころではなかったのである。ぼうぼうと耳の底へいやに響く汽笛を頻りにならしながら船は屋根の沢山見える多度津へ向って進んでいた。彼はたわいない空想から覚めた。しかしそれをそう滑稽とも彼は感じなかった。人類を対手(あいて)取るところに、変な気がしたが、子供からの空想癖が、一人になって話し相手もないところから段々に嵩じて来たこの頃、彼は今した想像に対しても別に馬鹿馬鹿しいとも感じなかった。彼は別に支度もなかったので、洋傘(こうもり)を取りに一度船室へ降りて又出て来た。夕日が沖の島という上に赤く輝き出した。甲板には十四五人の客が立っていた。

 「金ン比羅さんへ参られますか」。「ええ」。「お一人ですか」。「そうです」。「お淋しいですの」。「ええ」。「お宿は」。「何という家がいいんですか」。「先ず虎屋。それから備中屋ですが、これらはお一人で行かれても、どうですか」とその男が云った。謙作は只点頭(うなず)いて見せた。「よし吉と云うのがよろしいでしょう。俺(わし)も用は多度津ですが、今夜は其処へいって泊まろうと思うとります。何でしたら御一緒に」。顏でも手でも甚(ひど)くきたない皮膚をした下品な二十五六の商人風の男だった。その男はもう自分から一緒に泊る事に決めて、「よし吉」のあり場所などを説明した。

 多度津の波止場には波が打ちつけていた。波止場の中には達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。謙作は誰よりも先に桟橋(さんばし)へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。丁度汐(しお)が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になつていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄(ひよりげた)を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分からなかったが、訊いているとその男に追いつかれそうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。もうその男はついて来なかった。郵便局の間尾を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行った。停車場の待合室ではストーヴに火がよま燃えていた。其処に二十分ほど待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。
 五
 その夜、彼は金刀比羅で、一人では泊めまいと云われた宿屋へ行って泊まった。そして翌朝金刀比羅神社へ行った。其処の宝物(ほうもつ)の或る物が彼を楽しました。伊勢物語、保元平治物語などの昔の装ていを彼は美しく思った。それから日頃嫌いな狩野探幽の雪景色を描いた墨絵の屏風もいいと思った。それ程にそういうものに飢えていたようにも彼は感じた。本社へ行くまでの道にも人工の美を見出した。本社へ上る急な石段がある。その前が殊にいいように思った。しかし本社から奥の院までの道は、最近に作ったものらしく、人工の美は皆無だった。只、尾の道で松ばかり見ていた眼に色々変った山の大きい木が物珍しかった。が、その内、不図その木の肌を気味悪く思い出すと、彼の弱った神経は、それから甚(ひど)く脅かされた。

 午後、予定に従って彼は高松に行った。的(あ)てにして来た城内の庭は見られなかったが、栗林公園というのを見た。それから彼は町を少し歩いた。或る町角に洋酒洋食品を売る軒の低い、しかし割りに品物の充実した店があった。其処へ入った。尾の道にはいいそういう店がないので何か缶詰を買い込んで行くつもりだった。彼は黙って棚を探し歩いた。しかし大和煮、五三焼、そういう尾の道にもある物ばかりで欲しいようなものはなかった。「何か御入用ですか」。髪を油で光らした番頭だか、若主人だかが出て来た。「舶来の肉の缶詰がありますか?」。「ございます」。こういって若い男は直ぐ奥から大きい濃藍色(のうらんしょく)の缶詰を持って出て来た。貼紙には pure english oats と書いてある。「これは肉だね?」。「そうです」とその男は何の遅疑(ちぎ)なしに答えた。謙作は缶を振って見た。中で乾いたゴソッというような音がした。彼はそれを返しながら、「肉かい?」と又云った。その男は受取った缶の貼紙を見ながら、至極流暢な発音で、「ええ、ピューワ・イングリッシュ・オーツ」と云った。彼は黙ってその店を出た。一寸腹も立ったが、その若者の眼に映った自分がどんな者だったろうと思うと、彼は初めて自身の見すぼらしい姿に心づいた。きたない鳥打帽、二十年も前にできた黒綾羅紗(くろあやらしゃ)の二重廻し、鼻緒のゆるんだ安下駄、太巻の洋傘(こうもり)、それに無精髯(ぶしょうひげ)を生やした物憂げな顔---肉の缶詰に選(よ)り好みをする柄でなかったに違いない。しかし彼はもう一度還(かえ、もど)って、其処でそれを開けさして、返してやろうかしらというような小さな余憤も感じた。

 屋島へ行く事にして、車で電車の出る処へ向う。志度寺行きの電車に乗る。彼が乗った電車は空(す)いていたが、帰って来る電車はどれも一杯の客だった。それは市の新聞社と電車の会社とが一緒になって、屋島で宝探しとか、芸者役者の変装競争とか云う催しをした、その帰り客だった。彼が屋島で下りてからもまだ帰り客がゾロゾロと通った。鬱金木綿(うこんもめん)の揃いの手拭(てぬぐい)を首へかけたり鉢巻きにしたりした番頭小屋の連中(れんじゅう)、芸者を連れた酔漢、帽子のリボンから風船玉を上げている子供連れの男、十日戎(えびす)のほい駕籠(かご)のような駕籠に乗った連中、書生、駅員、その他荷をかついだ縁日商人(あきんど)等、種々雑多な連中が大概は赤い顔をして、疲れた身体を互いにもたれ合って、帰って来た。彼は一人それらの連中とは全く異った気持ちで擦(す)れ違いに歩いて行った。が、彼の心は淡い情緒を楽しんでいた。

 子供の頃、亀井戸の藤見、大久保の躑躅(つつじ)見、それでなければ駒場の運動会の帰途(かえり)、何かしらそういう漠然とした淡い情緒が起っていた。平地の塵埃(ほこり)っぽい処から、漸く坂道にかかる頃から帰り客も段々疎(まば)らになって行った。彼は松林の中の坂道を休み休み静かに登って行った。高松からずっと続いている塩浜が段々下の方に見えて来た。塩焼きの湯気が小屋の屋根から太い棒になって、夕方の穏やかな空気の中に白く立っている。それが点々と遠く続く。彼の物憂い沈んだ気分も流石(さすが)に慰められた。彼が上の平地へ上がった頃は、其処にはもう殆ど人影もなく、折(おり)の壊れ、蜜柑の皮、そんなものが落ち散っているばかりだった。絵葉書や平家(へいけがに)の干物(ひもの)を売る小さい家が店を仕舞いかけていた。彼は歩いている内に自然に、下の方に海を望む、小松林の中の宿屋の前へ出た。一組帰り遅れた客が離れの一つで騒いでいたが、女中達は忙しく後片づけに立ち働いているところだった。

 彼は海を見下ろす、崖の上の小さな風雅作りの離れに通された。右の方に夕靄(ゆうもや)に包まれた小豆島が静かに横たわっている。近く遠く、名を知らぬ島々が眺められた。遥か眼の下には、五大力(ごだいりき)とか千石船とかいう昔風な和船がもう帆柱に灯りをかかげて休んでいる。夕闇は海の面(おも)から湧き上った。沖から寄せるうねりの長い弓なりの線が、それでも暗い中に眺められた。---とにかくいい景色だった。が、彼の心は不思議にそれを楽しまなかった。女中が食事を持って来た。彼には殆ど食欲がなかった。膳を下げる時に女中は、「お床はあちらへお延べ致しますから」といった。「支度ができたに直ぐ知らせてください」。彼の気持ちは変に沈んで行った。それは旅愁というような淡い感じのものではなく、もっと暗い重苦しい気持だった。

 間もなく女中が迎いに来た。彼はそれに導かれて庭から直ぐ座敷の方へ行った。裏の松林の上に、大きなバラ色の月が出ていた。庭へ入ろうとする処に屋根のついた小さな門がある。その側に、彼が通る殆ど足下(あしもと)に、一人の男が死人のようにぐつたりと俯伏(うつぶ)して倒れていた。髪のぼうぼうと延びた、乞食のような男で、寝たまま小便をしたらしく、腰の辺りの地面が黒く湿っていた。女中は、殆ど注意を払わなかった。しかし彼は何となく気になった。座敷へ入ると、彼は、「今の人は病気じゃあるまいね」と訊いた。「酔うとりますの」。「この辺りの人かい?」。「新太さんという独り者の乞食でございます。今日のむおふれまいで仰山飲みましたので」。宣徳(せんとく)火鉢によく火がおこっていた。謙作はそれにあたりながら女中が部屋を出て行くのを待っていた。それは其処に出している宿屋の寝間着を着るのが嫌だったからである。女中は手持ち無沙汰にまだ其処にいた。到頭彼は、「もうよろしい」と云った。「お召し物をたたんで参りましょう」と女中が云った。「そうだな。---たたまなくてよろしい」。女中は笑いながら出て行った。彼は直ぐ立って羽織だけを脱ぎ、着のみ着のまま、帯の結び目を前へ廻して寝床へ入った。

 彼は寝ながら持って来た本を拡げたが、どうしても、それに惹き込まれて行かなかった。暗い淋しい気持ちが廻りから絞めつけて来る。彼はそれにおさえられ、身動きもならず、只凝然(じっ)としているより仕方ない気持だった。実に静かな夜だ。そして寒く、火のある部屋でも頬は冷え冷えと、まだ足の先は温まりきらずにいた。戸外から先刻の乞食の鼾(いびき)がかすかに聞こえて来た。彼は眠れぬままに、帰る家もなく、それを待つ人もない乞食の身の上を想い、それが丁度自分の身の上だと思わずにいられなかった。自分の仕事が成功しようが、失敗しようが、それを心(しん)から喜ぶ者も悲しむ者もない。父や母や、同胞(きょうだい)や、しかしそれらは自分の家族ではない。それは差支えないが、---こんな風に思った。

 何といっても感情的に、一番近い人間はお栄だ。そのお栄が何故もっと本統に自分の生活に結びついては来ないのだろう。そして、結びついてはいけないのだろう。自分にとってもお栄にとっても、気持ちの上では殆ど肉親の近さにいながら、本郷の父が決めた関係、以前雇人(やといにん)、そして、自分の結婚と同時に身を退(ひ)く筈の女として、何故二人共がそれを無条件に認めているのだろう。この事は本統に何という変な事だったろうと彼は考えた。祖父の妾(めかけ)だった女と結婚する事は変な事だ。しかし心にお栄を穢(けが)している事からすれば、実際の関係に進まない前に正式に結婚して了う事の方がどのくらい気持がいいか知れないと思った。嘲罵(ちょうば)の的となる事、それも自分の気持ちをひきしめてくれる。年の余りに違う事、かって祖父の妾だった事、この二つを別にすればこの結婚は自分にもお栄にも一番いい事だ。自分も落ち着けるし、お栄も本統の安定が得られるわけだ。何故自分はこの事をもっと早く考えなかったろう。お栄と結婚するという考えは彼の気持ちを明るくした。この決心が尾の道へ帰るまで変わらなかったら、早速手紙を書こうと思った。しかしお栄が承知するかどうかが疑われた。もし承知しないとすれば帰京しよう。そして自身彼女を勇気づけよう。そう彼は考えた。





(私論.私見)