「西郷南州翁遺訓41ケ条」

 (最新見直し2008.2.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「南州翁遺訓41ケ条」の原著は、庄内藩の元家老を務めていた菅実秀・氏が、明治22年頃、生前の西郷と親しく交わり薫陶を受けた同藩の藩士・赤沢経言を主として、その他西郷に親しく学んだ同藩藩士への聞き取りを元にして書き上げたとのことである。翌明治23.4月、旧藩主・酒井忠篤が千部印刷して日本中のこれと思う有覚者に頒布したと云う。

 読んでみて原文は漢文体なので、そのままではれんだいこも含め大抵の人が読めない。「南州翁遺訓を読む」(渡部昇一、至知出版社、1996.11.30日初版)を入手した。渡部氏の解説の出来はともかく、分かりやすく訓読み和文体に直しているのでこれを参照する。文中にかなり現代では使わない難解文字が使われており、原意を損なわないように現代語に意訳することにした。その他表記もれんだいこ文法に従った。文責はれんだいこにある。「(遺訓)」も参考にした。以下、出航する。

 2008.2.7日 れんだいこ拝


【遺訓1】
 廟堂に立ちて大政を為すは、天道を行うものなれば、些(いささか)も私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に繰(と)り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能くその職を任(たす)くる人を挙げて政柄(せいへい)を執らしむるが即ち天意なり。

 それゆえ、真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲るほどならでは叶(かな)わぬものぞ。ゆえに、
なにほど国家に勤労有るとも、その職を任(たす)けぬ人を官職を以って賞するは善からぬことの第一なり。官は、その人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以って賞し、之を愛しおくものぞ、と申さるるに付き、然らば、「尚書仲き之書に『徳盛んなるは官を盛んにし、功盛んなるは賞を盛んにする』と之れ有り、徳と官と相(あい)配し、功と賞と相対するはこの義にて候いしや」と請問せしに、翁欣然として「その通りぞ」と申されき。
(私論.私見)
 「功には禄を、能には位を与えよ」と述べ、これほどに宰相及び官吏の適正厳格登用に配慮する必要を説いていることになる。官僚たる者は資質こそが最重要視されていることになる。味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓2】
 賢人百官を統(す)べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、例え人材を登用し言路を聞き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易(か)えると云うようなるも、皆統括するところ一ならずして、施政の方針一定せざるの致すところなり。
(私論.私見)

 「朝令暮改する勿れ」と述べ、同時に宰相及び各級指導者の指導能力及び責任を問うていることになる。これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓3】
 政(まつりごと)の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り。その他百般の事務は皆この三つのものを助けるの道具なり。この三つの中に於いて、時に従い勢いに因り、施行先後の順序は有れど、この三つのものを後にして他を先にするは更に無し。
(私論.私見)

 「政治の要諦は、文、武、農の三権振興に有り」と述べ、国政の基本を指針している。この後で、武に関する要員と予算を戒めている。商工業の振興を言わず農政を主としているが、考えてみれば確固とした農政の上に商工業が成り立つべきで、これも至極当然であろう。これらを総合すれば、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓4】
 万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思うようならでは、政令は行われ難し。然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業を遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戦も偏(ひとえ)に私(わたくし)を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞ、とて頻りに涙を催(もよう)されける。
(私論.私見)

 政治を司る者は率先垂範励行に向かえ、私心私欲を厳に慎むべしと指摘している事になるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓5】
 ある時、「幾度も辛酸を歴してこそ志が堅くなり始める。丈夫は玉となって砕けようとも、ひたすら瓦の如くに身を保全することを恥じる。一家に遺すべき事を人知らずか知ってか。ならば教えよう。それは、児孫に美田を買ってはならぬと云う事である」との七言絶句を示されて、もしこの言に違うなば、西郷は言行反したるとて見限られよ、と申されける。
(私論.私見)

 「子孫に美田を残さず」の名言である。これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓6】
 人材を採用するに、君子小人の弁、酷に過ぐる時は却って害を引き起こすものなり。そのゆえは、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、その長所を取りこれを小職に用い、その材芸を尽さしめるなり。東湖先生申されしは、「小人ほど才芸有りて用便なれば、用いざればならぬものなり。さりとて長官に据え重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ」となり。
(私論.私見)

 「人材は、器量に応じて登用し配置せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓7】
 事大小と無く、正道を踏み至誠を尽くし、一事の詐謀(さぼう)を用いるべからず。人多くは、事の差し支える時に臨み、策略を用いて一旦差し支えを通せば、後は時宜次第工夫のできるように思えども、策略の煩いきっと生じ、事必ず敗(やぶ)るるものぞ。正道を以って之を行えば、目前には迂遠なるようなれども、先に行けば成功は早きものなり。
(私論.私見)

 「策略詭計は後に始末に困り、必ず敗れると心せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓8】
 広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先ず我が国の本体を据え風教を張り、而して後徐(ゆるや)かに彼の長所を斟酌(しんしゃく)するものぞ。否(しか)らずして、猥(みだ)りに彼に倣(なら)いなば、国体は衰頽(すいたい)し、風教は萎靡(いび)して匡救(きょうきゅう)すべからず。終(つい)に彼の制を受くるに至らんとす。
(私論.私見)

 「国体を基に文明開化せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西欧列強の植民地支配政策を念頭に置いて述べており、緊張感が伝わってくる。

【遺訓9
 忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘(わた)り宇宙に弥(わた)り易(か)うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋といえども決して別無し。
(私論.私見)

 「忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万古不易、古今東西共通の理なり」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。ここでも、西欧列強の植民地支配政策を念頭に置いて述べており、緊張感が伝わってくる。

【遺訓10
 人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽し家に勤むるの道明らかならば、百般の事業は従いて進歩すべし。あるいは耳目を開発せんとて、電信を架け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造立し、人の耳目をしょう動すれども、何ゆえ電信鉄道の無くては叶わぬぞ。欠くべからざるものぞと云うところに目を注がず、猥(みだ)りに外国の盛大を羨(うらや)み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物(がんろうぶつ)に至るまで、一々外国を仰ぎ、奢侈(しゃし)の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りのほか有るまじきなり。
(私論.私見)

 「人智の開発こそ基本なり。西洋被れを排し、西洋文明の虚実を見抜いて文明化せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。ここでも、西欧列強の植民地支配政策を念頭に置いて述べており、緊張感が伝わってくる。

【遺訓11
 文明とは、道の普(あまね)く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うるところ、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ。予、かって或る人と議論せしこと有り。西洋は野蛮じゃと云いしかば、否な文明ぞと争う。否な否な野蛮じゃと畳みかけしに、何とてそれほどに申すやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左様には無くして未開蒙昧の国に対するほどむごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮じゃ、と申せしかば、その人口をつぼめて言無かりきとて笑われける。
(私論.私見)

 「西洋は真の文明国にあらずして野蛮なり。植民地主義政策を見抜いて賢く対応せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。ここでも、西欧列強の植民地支配政策を念頭に置いて述べており、緊張感が伝わってくる。

【遺訓12
 西洋の刑法は専ら、懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。ゆえに囚獄中の罪人をも、いかにも緩(ゆる)やかにしてかん戒(訓戒)となるべき書籍を与え、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。もっとも、昔の支那の聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心よりかん寡孤独を哀れみ、人の罪に陥るを憂い給いしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りにしにや。書籍の上には見え渡らず、実に文明じゃと感ずるなり。
(私論.私見)

 「西洋刑法の訓戒主義は文明的である。これは学ぶべし」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。ここで初めて西欧文明の長所について触れている。れんだいこが思うに、西欧刑法の教育主義化はルネサンスの賜物であり、ネオ・シオニズムはそれを継承しない異質な流れであり、明治政府の要人がネオ・シオニズムの徒輩として靡いていった事を思えば、西郷の慧眼が光る。西郷は、西欧文明の中に異質な二筋のものを嗅ぎ分けていた感がある。

【遺訓13
 租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成するなり。ゆえに国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐(しいた)げぬものなり。能く古今の事跡を見よ。道の明らかならざる世にして、財用の不足を苦しむ時は、必ず曲知小恵の俗吏を用い巧みに(税を)収斂(しゅうれん)して一時の欠乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以って苛酷に民を虐たげるゆえ、人民は苦悩に耐え兼ね、収斂を逃れんと、自然きっ詐(悪賢く)狡猾に趣き、上下互いに欺き、官民敵警と成り、終に分崩離折(ぶんぽうりせき)に至るにあらずや。
(私論.私見)

 「重税政策は宜しからず。苛酷な収税を戒めよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西郷派がその後も明治維新を指導しておれば、随分変わったものになっていただろうと思われる。

【遺訓14】
 会計出納は制度の由って経つところ、百般の事業皆これより生じ、経輪中の枢要なれば、慎まずばならぬなり。その大体を申さば、入るを量りて出づるを制するのほか更に他の術数無し。一歳の入るを以って百般の制限を定め、会計を総理する者身を以って制を守り、定制を超過せしむべからず。否(しか)らずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし出づるを見て入るを計りなば、民の膏血(こうけつ)を絞るのほか有るまじきなり。然らば例え事業は一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救すべからず。
(私論.私見)

 「会計出納は入るを量りて出づるを制すべし」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西郷派がその後も明治維新を指導しておれば、随分変わったものになっていただろうと思われる。

【遺訓15】
 常備の兵数も、亦(また)会計の制限に因る。決して無限の虚勢を張るべからず。兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は寡(すくな)くとも、折衝で侮(あな)どられることを防ぐにも共に事欠くまじきなり。
(私論.私見)

 「兵費を抑制せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西郷派がその後も明治維新を指導しておれば、随分変わったものになっていただろうと思われる。

【遺訓16】
 節義廉恥を失いて、国を維持するの道決して有らず。西洋各国同然なり。上に立つ者が下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆之に倣い、人心忽ち財利に趨(はし)り、卑吝(ひりん)の情日々に長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相い警視するに至るなり。

 この如く成り行かば、何を以って国家を維持するべきぞ。徳川氏は将士の猛(たけ)き心を殺(そ)ぎて世を治めしかども、今は昔時戦国の猛士よりなお一層猛き心を振るい起こさば、万国対峙は成るまじきなり。普仏の戦い、仏国三十万の兵三ヶ月糧食有りて降伏せしは、余り算盤に精(くわ)しき故なりとて笑われき。
(私論.私見)

 「節義廉恥の志操を失えば親子も国も維持できない。西欧列強の植民地化時代に於いてはなおさら肝要である」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西郷派がその後も明治維新を指導しておれば、随分変わったものになっていただろうと思われる。

【遺訓17】
 正道を踏み国を以って斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全(まった)かるべからず。強大に畏縮し円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親(親しい交わりをするつもりが)却って破れ、終に彼の制圧を受くるに至らん。
(私論.私見)

 「西欧列強に対しては正道で対峙し、卑屈に陥ることなく親睦せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。西郷派がその後も明治維新を指導しておれば、随分変わったものになっていただろうと思われる。。

【遺訓18
 談、国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、例え国を以って斃(たお)るるとも、正道を践み、義を尽くすは政府の本務なり。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、いかなる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯(ただ)目前の気休めを謀るのみ。戦いの一事を恐れ、政府の本務を堕(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非(あら)ざるなり。
(私論.私見)

 「国を商法支配所にするなかれ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。国の商業化は、国際金融資本ネオ・シオニズム派の得手とする戦略であり、西郷が、これに汚染される事を嫌悪していた事が分かる。

【遺訓19
 古(いにしえ)より、君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるものなり。己れを足れりとすれば、人が己れの非を言えば忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。
(私論.私見)

 「政府の要職にある者は、驕るべからず、下々の意見を聞け」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓20
 何ほど制度方法を論ずるとも、その人に非ざれば行われ難し。人有りて後に方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己れその人に成るの心掛け肝要なり。
(私論.私見)

 「人、器量有りて制度であり、人材こそ第一の宝である」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓21
 道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以って終始せよ。己れに克つの極功(きょくこう)は「ままをせず、無理押しせず、固執せず、我を通さず」(論語)と云えり。

 総じて人は己れに克つを以って成り、自ら愛するを以って敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人その事大抵十に七八までは能く成し得れども、残り二つを終わりまで成し得る人の稀なるは、始めは能く己れを慎み事をも敬するゆえ、功も立ち名も顕(あらわ)るるなり。

 功立ち名顕るるに随(したが)い、いつしか自ら愛する心起こり、恐懼(きょうく)戒慎(かいしん)の意緩(ゆる)み、驕矜(きょうきん)の気漸く長じ、その成し得たる事業を負(たの)み、いやしくも我が事を仕遂げんとてまづき仕事に陥り、終に敗るるものにて、皆自ら招くなり。故に己れに克ちて、賭(み)ず聞かざるところに戒慎するものなり。
(私論.私見)

 「政治の要諦は敬天愛人精神に有り。これを目的とし修身し克己勉励せよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓22
 己れに克つに、事々物々時に臨みて克つようにては克ち得られぬなり。かねて気象を以って克ち居れよとなり。
(私論.私見)

 「克己は俄仕立てでは叶わず、日頃より心掛けよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓23
 学に志す者、規模を宏大にせずば有るべからず。さりとて唯ここにのみ偏(かた)よれば、あるいは身を修するに疎(おろそか)に成り行くゆえ、終始己れに克ちて身を修するなり。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思えよと、古語を書きて授けられる。「志宏くを志す気持ちの有る者にとって、その人の欠点になり易いところは、自らを私し吝嗇することである。卑俗な生活に安んじてしまい、昔の聖人を手本にしようとする気が無くなることである」。古人を期するの意を請問せしに、暁舜(ぎょうしゅん)を以って手本とし、孔夫子(孔子)を教師とせよとぞ。
(私論.私見)

 「克己は修身と志広くを両建てせよ。私心吝嗇に陥るなかれ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓24
 道は天地自然のものにして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人、我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり。
(私論.私見)

 「敬天愛人の愛人とは、我を愛する心を以って人を愛することなり」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓25
 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
(私論.私見)

 「不足のあるところは、己の人事を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねよ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。。

【遺訓26、自愛を戒めよ
 己れを愛するは善(よ)からぬことの第一なり。修行のできぬも、事の成らぬも、過ちを改むることのできぬも、功に誇り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為ならば、決して己れを愛せぬものなり。
(私論.私見)

 「自己偏重愛は、己の為ならば叶わず」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓27
 過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思いつかば、それにて善し。その事をば棄てて顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。過ちを悔しく思い、取り繕わんとて心配するは、例えば茶碗を割り、その欠けを集め合わせ見るも同じにて、詮も無きことなり。
(私論.私見)

 「過ちは気づき次第に直ちに改めれば良し、取り繕うことなかれ」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓28
 道を行うには尊卑貴賎の差別無し。摘んで言えば、暁舜は天下に王として万機の政事を執り給えども、その職とするところは教師なり。孔夫子は魯国を始め、何処へも用いられず、しばしば困厄(こんやく)に逢い、匹夫にて世を終え給いしかども、三千の徒皆道を行いしなり。
(私論.私見)

 「道の教師となり暁舜の正道を歩め」と述べていることになるが、これも味わいのある遺訓であるように思われる。

【遺訓29
 道を行う者は、もとより困厄に逢うものなれば、いかなる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに少しも関係せぬものなり。事には上手下手有り。ものにはできる人できざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、できざる人も無し。故に、ひたすら道を行い道を楽しみ、もし艱難に逢うて之を凌がんとならば、弥々(いよいよ)道を行い道を楽しむべし。予、壮年より艱難と云う艱難に罹りし故、今はどんな事に出会うとも、動揺は致すまじ。それだけは幸せなり。
(私論.私見)

 艱難辛苦を乗り越え道を行い楽しめ。

【遺訓30】
 命も要らず、名も要らず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困るも人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。されども、かようの人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独りその道を行う。富貴も淫(いん)すること能わず、貧賎(ひんせん)も移すこと能わず、威武も屈すること能はず」と云いしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにもその通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。
(私論.私見)

 命も要らず、名も要らず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。

【遺訓31】
 道を行う者は、天下こぞって毀(そし)るも足らざるとせず、天下こぞって誉むるを足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり。その工夫は、韓文公が伯夷の頌(しょう)を熟読して会得せよ。
(私論.私見)

 自らを信じ頼んで歩め。「韓文公が伯夷の頌(しょう)」とは、「韓文公、叔斉兄弟が節を守って餓死した文」を指す。

【遺訓32】
 道に志す者は、偉業を尊ばぬものなり。司馬温公は閨中(けいちゅう)にて語りし言も、人に対して言うべからざる事無しと申されたり。独(ひとり)を慎むの学推して知るべし。人の意表に出でて一時の快適を好むは、未熟のことなり、慎むべし。
(私論.私見)

 自慢をせず、謙虚に学を執れ。

【遺訓33】
 平日道を踏まざる人は、事に臨みて狼狽(ろうばい)し、処分のできぬものなり。例えば、近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取り始末も能くできるなり。平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取り始末どころでには之無きぞ。それも同じにて、平生道を踏み居る者に非ざれば、事に臨みて策はできぬものなり。予、先年出陣の非、兵士に向かい、我が備えの整不整を、唯味方の目を以って見ず、敵の心に成り一つ衝いて見よ、それは第一の備えぞと申せしとぞ。
(私論.私見)

 事に臨みての始末に器量が現れることを知るべし。

【遺訓34】
 作(策)略は平日致さぬものぞ。策略を以ってやりたる事は、その跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有るなり。唯戦に臨みて策略無くばあるべからず。しかし、平日策略を用うれば、戦に臨みて策略はできぬものぞ。孔明は平日策略を致さぬゆえあの通り詭計を行われたるぞ。予、かって東京を引きし時、弟(従道のこと)へ向かい、これまで少しも策略をやりたる事有らぬゆえ、跡はいささかも濁るまじ、それだけは見れと申せしとぞ。
(私論.私見)

 平素に策略は要らぬもの。

【遺訓35】
 人を篭絡して陰に事を謀る者は、よしんばその事を為し得るとも、慧眼より之を見れば醜状著しきぞ。人に推すに公平至誠を以ってせよ。公平ならざれば英雄の心は決してとられぬ(掴むことができない)ものなり。
(私論.私見)
 策略は醜きものなり、公平至誠を旨とせよ。

【遺訓36】
 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、とても及ばぬと云う様なる心ならば、戦に臨みて逃ぐるよりなお卑怯なり。朱子も白刃を見て逃ぐる者はどうにもならぬと云われたり。誠意を以って聖賢の書を読み、その処分せられたる心を身に体し心に験する修行を致さず、唯今様の言今様の事と云うのみを知りたるとも、何の詮無きものなり。

 子、今日人の論を聞くに、なにほど尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心これ無し。真にその処分有る人を見れば、実に感じ入るなり。聖賢の書を空しく読むのみならば、例えば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心できず、自分に得心できずば、万一立ち合えと申されし時、逃ぐるよりほか有るまじきなり。
(私論.私見)

 事に動ぜず、身に体する学問を身につけよ。

【遺訓37】
 天下後世迄も信仰悦服(えっぷく)せらるるものは、只これ一ケの真誠なり。古より父の仇(あだ)を討ちし人、その数挙げて数え難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて誠の篤(あつ)きゆえなり。誠ならずして世に誉めらるるは、僥倖の誉れなり。誠篤ければ、例え当時知る人無くとも、後世必ず知己有るものなり。
(私論.私見)

 何事も真誠篤かれ。

【遺訓38
 世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを云う。真の機会は、理を尽して行い、勢いを審(つまび)らかにして動くと云うに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時の弾みに乗じて為し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
(私論.私見)

 僥倖に便乗せず、真の機会をつかめ。

【遺訓39
 今の人、才職有れば事業は心次第に成さるるものと思えども、才に任せて為す事は、危うくして見て居られぬものぞ。体有りてこそ用は行わるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬようになりたりとて嘆息なされ、古語を書きて授けらる。「それ天下誠に非ざれば動かず。才非ざれば治まらず。誠の至りたる者は、その動くや速やかなり。才の周(あま)ねきの者は、その治まるや広し。才と誠が合して、然る後に事成るべし」。
(私論.私見)

 才と誠を兼備して身を挺してこそ用は行われる。

【遺訓40
 翁に従いて犬を駆り兎を追い、山谷を跋渉(ばっしょう)して終日狩り暮らし、一田家に投宿し浴終わりて心神いと爽快に見えさせ給い、悠然として申されけるは、君子の心は常にかくのごとくにこそ有らんと思うなりと。
(私論.私見)

 心身いと爽快こそ君子の心なり。

【遺訓41
 身を修し己れを正して、君子の体を具えるとも、処分のできぬ人ならば、木偶人(でくの坊)も同然なり。譬(たと)えば、数十人の客不意に入り来たらんに、例え何ほど饗応したく思うとも、兼ねて器具調度の備え無ければ、唯心配するのみにて、取り賄うべき様ありまじきぞ。常に備えあれば、幾人なりとも、数に応じて賄わるるなり。それゆえ平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書いて賜りき。「文は文筆の技に非ざるなり。事を処するの才にこそ有り。武は剣や盾に非ざるなり。敵を料(はか)る智にこそ有り」。
(私論.私見)

 諸事臨機応変に解決し得る器量を養え。

【遺訓補足1
 事に当り思慮の乏しきを憂うること勿れ。凡そ思慮は平生黙座静思の際に於いてすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、例えば臥床夢びの中(うち)、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し」。
(私論.私見)

 思慮は平素より練っておき、優柔不断に陥ったり軽率に処することなかれ。

【遺訓補足2
 官学を成せる者は、弥(いよいよ)漢籍に就いて道を学ぶべし。道は天地自然のもの、東西の別無し。いやしくも当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるには孫子を以ってすべし。当時の形勢と略(ほぼ)大差無かるべし。
(私論.私見)

 洋学も良かれども漢学も学べ。




(私論.私見)