後編6章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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【後編第六章】 |
数日前より鰐淵が家は燈点る頃を期して、何処より来るとも知らぬ一人の老女に訪るるが例となりぬ。その人は齢六十路余に傾きて、顔は皺みたれど膚清く、切髪の容などなかなか由ありげにて、風俗も見苦からず、唯異様なるは茶微塵の御召縮緬の被風をも着ながら、更紗の小風呂敷包に油紙の上掛したるを矢筈に負ひて、薄穢き護謨底の運動靴を履いたり。所用は折入つて主に会ひたしとなり。生憎にも来る度他出中なりけれど、本意無げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸く怪しと思初めぬ。 彼のあだかも三日続けて来れる日、その挙動の常ならず、殊には眼色凄く、憚もなく人を目戍りては、時ならぬに独り打笑む顔の坐寒きまでに可恐きは、狂人なるべし、しかも夜に入るを候ひ、時をも差へず訪ひ来るなど、我家に祟を作すにはあらずや、とお峯は遽に懼を抱きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還り来にけるなり。「どうも貴方、あれは気違いですよ。それでも品の良いことは、些とまあ旗本か何かの隠居さんと謂つたやうな、しかし一体、鼻の高い、目の大きい、痩せた面長な、怖い顔なんですね。戸外へ来て案内する時のその声といふものが、実にないんですよ。毎でも極つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍に、緩り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然として、ああ可厭だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」。 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈の点るにはまだ間ありと見るなるべし。直行は可難しげに眉を寄せ、唇を引結びて、「何者か知らんて、一向心当と謂うてはない。名は言はんて?」。「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」。「さうして今晩来るのか」。「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐りませんから、貴方本当に来ましたら、篤り説諭して、もう来ないやうに作つて下さいよ」。「そりや受合へん。他が気違ぢやもの」。「気違だから私も気味が悪いからお頼み申すのぢやありませんか」。「幾多頼まれたてて、気違ぢやもの、俺も為やうはない」。 頼める夫のさしも思はで頼無き言に、お峯は力落してかつは尠からず心慌るなり。「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣りませう」。直行は打笑へり。「まあ、そんなに騒がんともえ」。「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」。「誰も気違の好えものはない」。「それ、御覧なさいな」。「何じや」。知らず、その老女は何者、狂か、あらざるか、合力か、物売か、将主の知人か、正体の顕るべき時はかかる裏にも一分時毎に近くなりき。 |
終日灰色に打曇りて、薄日をだに吝みて洩さざりし空は漸く暮れんとして、弥増す寒さは怪からず人に逼れば、幾分の凌ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖れて、なほ稍明くその色厚氷を懸けたる如き西の空より、隠々として寂き余光の遠く来れるが、遽に去るに忍びざらんやうに彷徨へる巷の此処彼処に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔を放てり。 一陣の風は砂を捲きて起りぬ。怪しの老女はこの風に吹出されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪ちて、披払と飄る裾袂に靡されつつ漂しげに行きつ留りつ、町の南側を辿り辿りて、鰐淵が住へる横町に入りぬ。銃槍の忍返を打ちたる石塀を溢れて一本の梅の咲誇れるを、斜に軒ラムプの照せるがその門なり。彼は殆ど我家に帰り来れると見ゆる態度にて、 ![]() ![]() 実に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立せる火鉢の角に猪口を措き、燈を持て来よと婢に命じて、玄関に出でけるが、先づ戸の内より、「はい何方ですな」。「旦那はお宅でございませうか」。「居りますが、何方で」。答はあらで、呟くか、 ![]() 「鰐淵は私じやが、何ぞ用かな」。「おお、おまへが鰐淵か!」。つと乗出してその面に瞳を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽ち寒く戦けるなり。熟くと見入る眼を放つと共に、老女は皺手に顔を掩ひて潜々と泣出せり。呆れ果てたる直行は金壺眼を凝してその泣くを眺むる外はあらざりけり。彼は泣きて泣きて止まず。「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私に用と云ふのは?」。朽木の自ら頽れ行くらんやうにも打萎れて見えし老女は、猛然として振仰ぎ、血声を搾りて、「この大騙め!」。「何ぢやと!」。「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国の住人武田大膳太夫信玄入道、田夫野人の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井の鈴ちやんがお嫁に来てくれれば、私の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪はあつても、懲役に遣る親はないぞ。二十七にはなつても世間不見のあの雅之、能うも能うもおのれは瞞したな! さあ、さあさ讐を討つから立合ひなさい」。直行は舌を吐きて独語ちぬ。「あ、いよいよ気違じやわい」。 見る見る老女の怒は激して、形相漸くおどろおどろしく、物怪などの ![]() ![]() |
かく言ふ間も忙しげに我が靴を脱ぎて、に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結を釈きて、直行が前に上掛の油紙を披げたり。「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直に落ちるから、早く落してお了ひなさい」。さすがに持扱ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖めて、何処より出づらんやとばかり世にも奇き声を発ちて緩く笑ひぬ。彼は謂知らぬ凄気に打れて、覚えず肩を聳かせり。懲役と言ひ、雅之と言ふに因りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之は、私書偽造罪を以つて彼の被告としてこの十数日前、罰金十円、重禁錮一箇年に処せられしなり。実にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。爾思へりしのみにて直行はその他に猶も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀りて陥れたるなり。 彼らの用ゐる悪手段の中に、人の借るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合の上は貸さんと称へて先づ誘ひ、然る後、但し証書の体を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然き親族知己などの名義を私用して、在合ふ印章を捺さしめ、固より懇意上の内約なればその偽なるを咎めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一は焦眉の急に迫り、一は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息して、この術中には陥るなりけり。 期に ![]() ![]() ![]() 法律は鉄腕の如く雅之を拉し去りて、剰さへ杖に離れ、涙に蹌ふ老母をば道の傍に ![]() 無益に言を用ゐんより、唯手柔に撮み出すに如かじと、直行は少しも逆はずして、「ああ宜いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここではいかんから外へ行かう。さあ一処に来た」。狂女は苦々しげに頭を掉りて、「お前さんの云ふことは皆な妄だ。その手で雅之を瞞したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違ないと云ふ一札をこの通り入れたぢやないか、これでもだ ![]() ![]() 地には落さじとやうに慌て ![]() ![]() 直行は佇みて様子を候ひゐたり。抜足差足忍び来れる妻は、後より小声に呼びて、「貴方、どうしました」。夫は戸の外を指してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴と油紙との遺散れるを見付けて、由無き質を取りけるよと思ひ煩へる折しも、「頼みます、はい、頼みますよ」と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫して、長くここに留るに堪へず、夫を勧めて奥に入りにけり。戸叩く音は後も撓まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺ひける時は、風吹荒ぶ門の梅の飛雪の如く乱点して、燈火の微に照す処その影は見えざるなりき。 |
次の日も例刻になれば狂女は又訪ひ来れり。主は不在なりとて、婢をして彼の遺せし二品を返さしめけるに、前夜の暴れに暴れし気色はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。お峯はその翌日も必ず来るべきを懼れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢を出して不在の由を言はしめしに、こたびは直に立去らで、「それぢやお帰来までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」。彼は戸口に蹲りて動かず。婢は様々に言作へて賺しけれど、一声も耳には入らざらんやうに、石仏の如く応ぜざるなり。彼は已むなくこれを奥へ告げぬ。直行も為ん術あらねば棄措きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。 お峯は心苦がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪ぐを、直行は人を煩すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払ふべき手立のありやと責むるに、害を為すにもあらねば、宿無犬の寝たると想ひて意に介るなとのみ。意に介くまじき如きを故に夫には学ばじ、と彼は腹立く思へり。この一事のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀ると謂ふことなくて、女童と侮れるやうに取合はぬ風あるを、口惜くも可恨くも、又或る時は心細さの便りき余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明の冥護に拠らんと、八百万の神といふ神は差別無く敬神せるが中にも、ここに数年前より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇めたるは、その光紫の一大明星にて、御名を大御明尊と申す。天地渾沌として日月もだ成らざりし先高天原に出現ましませしに因りて、天上天下万物の司と仰ぎ、諸の足らざるを補ひ、総て欠けたるを完うせしめんの大御誓をもて国土百姓を寧く恵ませ給ふとなり。彼は夙に起信して、この尊をば一身一家の守護神と敬ひ奉り、事とあれば祈念を凝して偏に頼み聞ゆるにぞありける。 この夜は別して身を浄め、御燈の数を献げて、災難即滅、怨敵退散の祈願を籠めたりしが、翌日の点燈頃ともなれば、又来にけり。夫は出でて未だ帰らざれば、今日し罵り噪ぎて、内に躍入ることもやあらば如何せんと、前後の別知らぬばかりに動顛して、取次には婢を出し遣り、躬は神棚の前に駈着け、顫声を打揚げ、丹精を抽でて祝詞を宣りゐたり。狂女は不在と聞きて敢て争はず、昨日の如く、ここにて帰来を待たんとて、同き処に同き形して蹲れり。婢は格子を鎖し固めて内に入りけるが、暫くは音も為ざりしに、遽に物語る如き、或は罵る如き声の頻に聞ゆるより主の知らで帰来て、捉へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃に泣いつ怒りつ訴ふるなり。 |
【後編第七章】 |
子の讐なる直行が首を獲んとして夕々に狂女の訪ひ来ること八日に![]() 夫は決して雅之の私書偽造を己の陥れし巧なりとは彼に告げざれば、悪は正く狂女の子にありて、に恨を受くべき筋はなく、自らかかる事も出来るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒の損耗あるを思へば、所詮仆し、仆さるるは商の習と、お峯は自ら意を強うして、この老女の狂を発せしを、夫の為せる業とは毫も思ひ寄るにあらざりき。さは謂へ、人の親の切なる情を思へば、実にさぞと肝に徹ふる節無きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇き殃にも遭ふなればと唯思過されては窮無き恐怖の募るのみ。 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我らの命を絶たんが為にて、多時門に居て動かざるは、その妄執の念力を籠めて夫婦を呪ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬へん方なく悩されぬ。されば狂女の門に在る間は、大御明尊の御前に打頻り祝詞を唱ふるにあらざれば凌ぐ能はず。かかる中にも心に些の弛あれば、煌々と耀き遍れる御燈の影遽に晦み行きて、天尊の御像も朧に消失せなんと吾目に見ゆるは、納受の恵に泄れ、擁護の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠め、烟を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。 槍は降りても必ず来べし、と震摺れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返りたるこの日の寒気は鍼もて膚に霜を種うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風怒り号びて、樹を鳴し、屋を撼し、砂を捲き、礫を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃に蔽れて、一天晦く乱れ、日色黄に濁りて、殊に物可恐き夕暮の気勢なり。 |
鰐淵が門の燈は硝子を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆りたり。内の燈火は常より鮮に主が晩酌の喫台を照し、火鉢に架けたる鍋の物は沸々と薫じて、はや一銚子更へたるに、未だ狂女の音容はあらず。お峯は半危みつつも幾分の安堵の思を弄び喜ぶ風情にて、「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了ひませうから。ああ、真に天尊様の御利益があつたのだ」。夫が差せる猪口を受けて、「お相をしませうかね。何はなくともこんな好い心持の時に戴くとお美いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然今晩は来ないと極りましたね。ぢや、戸締を為して了ひませうか、真に今晩のやうな気の霽々した、心の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿を短めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒もお美いものですね。なあにあの婆さんが唯怖いのぢやありませんよ。それは気味は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何となく凄くて耐らないのです。あれが来ると、悚然と、惣毛竪つて体が竦むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着れでもするやうな気がして、あの、それ、能く夢で可恐い奴なんぞに追懸けられると、迯げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」。 銚子を更へて婢の持来れば、「金や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」。「好い塩梅でございます」。「お前には後でお菓子を御褒美に出すからね。貴方、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」。「あら可厭なことを有仰いまし」。 吹来り、吹去る風は大浪の寄せては返す如く絶間なく轟きて、その劇きは柱などをひちひちと鳴揺がし、物打倒す犇き、引断る音、圧折る響は此処彼処に聞えて、唯居るさへに胆は冷されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶の湯気は雲を噴くこと頻なれど、更に背面を圧する寒は鉄板などや負はさるるかと、飲めども多く酔ひ成さざるに、直行は後を牽きて已まず、お峯も心祝の数を過して、その地顔の赭きをば仮漆布きたるやうに照り耀して陶然たり。 |
狂女は果して来ざりけり。歓び酔へるお峯も唯酔へる夫も、褒美貰ひし婢も、十時近き比には皆な寐鎮りぬ。風は猶も邪に吹募りて、高き梢は箒の掃くが如く撓められ、疎に散れる星の数は終に吹下されぬべく、層々凝れる寒は殆どあらん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益す冥く、益す凄からんとす。忽ちこの黒暗々を劈きて、鰐淵が裏木戸の辺に一道の光は揚りぬ。低く発りて物に遮られたれば、何の火とも弁へ難くて、その迸発の朱く烟れる中に、母家と土蔵との影は朧に顕るるともなく奪はれて、瞬くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。ややありて、同じほどの火影の又映ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時明を保ちたりしが、風の僅の絶間を偸みて、閃々と納屋の板戸を伝ひ、始めて騰れる焔は炳然として四辺を照せり。塀際に添ひて人の形動くと見えしが、なほ暗くて了然ならず。 数息の間にして火の手は縦横に蔓りつつ、納屋の内に乱入れば、噴出づる黒烟の渦は或は頽れ、或るいは畳みて、その外を引 ![]() ![]() ![]() |
【後編第七章の二】 |
人々出合ひて打騒ぐ比には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔を出し、はや如何にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風なりしかど、消防力めたりしに拠りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に![]() 火元と認定せらるる鰐淵方は塵一筋だに持出さずして、憐むべき一片の焦土を遺したるのみ。家族の消息は直ちに警察の訊問するところとなりぬ。婢は命辛々迯了せけれども、目覚むると斉く頭面は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼び捨にして走り出でければ、主たちは如何になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過などありしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。 熱灰の下より一体の屍の半焦爛れたるが見出されぬ。目も当てられず、浅ましう悒き限りを尽したれど、主の妻と輙く弁ぜらるべき面影は焚残れり。さてはとその邇くを隈く掻起しけれど、他に見当るものはなくて、倉前と覚き辺より始めて焦壊れたる人骨を掘出せり。酔ひて遁惑ひし故か、貪りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔の紛糾する処に、独り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。 |
別居せる直道は旅行中にて未だ還らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈なりければ、今は全く癒えて務を執るをも妨げざれど、事の極めて不慮なると、急激なると、瑣小ならざるとに心惑のみせられて、病後の身を以てこれに当らんはいと苦かりけるを、尽瘁して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。 |
枕をも得挙げざりし病人の今かく健に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑にも強かりしを、空く燼余の断骨に相見て、弔ふ言だにあらざらんとは、貫一の遽にその真をば真とし能はざるところなりき。人は皆な死ぬべきものと人は皆な知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族を迫めての一人も余さず、家倉と共に焚尽されて一夜の中に儚くなり了れるに会ひては、おのれが懐裡の物の故無く消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何に成りなんをも料られざるをと、無常の愁は頻に腸に沁むなりけり。 |
住むべき家の痕跡もなく焼失せたりと謂ふだに、見果てぬ夢の如し、まして併せて頼めし主夫婦を喪へるをや、音容幻を去らずして、ほとほと幽明の界を弁ぜず、剰へ久く病院の乾燥せる生活に困じて、この家を懐ふこと切なりければ、追慕の情は極りて迷執し、迫めては得るところもありやと、夜の晩きに貫一は市ヶ谷なる立退所を出でて、杖に扶けられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。 連日風立ち、寒かりしに、この夜は遽に緩みて、朧の月の色も暖に、曇るともなく打霞める町筋は静に眠れり。燻臭き悪気は四辺に充満ちて、踏荒されし道は水に ![]() ![]() |
立尽せる貫一が胸には、ありし家居の状の明かに映じて、赭く光れるお峯が顔も、苦き口付せる主が面も眼に浮びて、歴々と相対へる心地もするに、姑くはその境に己を忘れたりしが、やがて徐に仰ぎ、徐に俯して、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭ひつ。彼は転た人生の凄涼を感じて禁ずる能はざりき。苟くもその親める者の半にして離れ乖かざるはあらず。見よ或るいはかの棄てられし恨を遺し、或るいはこの奪はれし悲に遭ひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者は逝き、![]() 吾が煩悶の活を見るに、彼らが惨憺の死と相同からざるなし、但殊にするところは去ると留るとのみ。彼らの死ありて聊か吾が活の苦きをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼らが死の傷きを弔ふに足らんか。吾が腸は断たれ、吾が心は壊れたり、彼らが肉は爛れ、彼らが骨は砕けたり。活きて爾苦める身をも、なほさすがに魂も消ぬべく打駭かしつる彼らが死状なるよ。産を失ひ、家を失ひ、猶も身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへども未だ曾てかくの如き虐刑の辱を受けず、犬畜生の末までも箇様の業は曝さざるに、天か、命か、或は応報か、れども独り吾が直行をもて世間に善を作さざる者と為すなかれ。人情は暗中に刃を揮ひ、世路は到る処に陥穽を設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作さざるはなし。し吾が直行の行ふところをもて咎むべしと為さば、誰かありて咎められざらん、しかも猶甚きを為して天も憎まず、命も薄んぜず、応報もこれを避るものあるを見るにあらずや。彼らの惨死を辱むるなかれ、適ま奇禍を免れ得ざりしのみ。 かく念へる貫一は生前の誼深かりし夫婦の死を歎きて、この永き別を遣方もなく悲しみ惜しむなりき。さて何時までかここにあらんと、主の遺骨を出せし辺を拝し、又妻の屍の横はりし処を拝して、心佗く立ち去らんとしたりしに、彼は怪くも遽に胸の内の掻乱るる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路の奥に打棄てられたるを悲く、あはれ猶少時留らずやと、いと迫めて乞ひ縋ると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に息へり。 |
実に彼も家の内に居て、遺骸の前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人の傍にも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん想して、立てたる杖に重き頭を支へて、夫婦が地下に齎せし念々を冥捜したり。やがて彼は何の得るところやありけん、繁き涙は滂沱と頬を伝ひて零れぬ。夜陰に轟く車ありて、一散に飛ばし来りけるが、焼場の際に止りて、翩と下立ちし人は、直ちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて歩を住めたり。焼瓦の踏破かるる音に面を擡げたる貫一は、件の人影の近く進来るをば、誰ならんと認むる間もなく、「間さんですか」。「おお、は! お帰来でしたか」。その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は忙く出迎へぬ。向ひて立てる両箇は月明に面を見合ひけるが、各口吃して卒に言ふ能はざるなりき。 「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」。「はい。この度は留守中と云ひ、別してお世話になりました」。「私は事の起りました晩はだ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸く駈着けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽される方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多い事を致しました」。直道は塞ぎし眼を怠げに開きて、「何もかも皆な焼けましたらうな」。「唯一品、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」。「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」。「貨も少しはありませうが、帳簿、証書の類が主でございます」。「貸金に関した?」。「さやうで」。「ええ、それが焼きたかつたのに!」。 口惜しとの色は絶かその面に上れり。貫一は彼が意見の父と相容れずして、年来別居せる内情を詳かに知れば、迫めてその喜ぶべきをも、却つてかく憂と為す故を暁れるなり。「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無いのです。ろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿つたのも、私であれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ衆が喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を喪したのが情いばかりではないのですよ」。されども堰敢へず流るるは恩愛の涙なり。彼を憚りし父と彼を畏れし母とは、決して共に子として彼を慈むを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被りき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴れざりし恨より、親として事へざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。 生暖き風は急に来りてその外套の翼を吹捲りぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無く彼は憶起して、さばかりは有のすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙を与ふる者ぞ、我は今聘せられし測量地より帰来れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳に迢に隔つる世の人となりぬ。 |
炎々たる猛火の裏に、その父と母とは苦み悶えて援を呼びけんは幾許ぞ。彼らは果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽は渾身をして涙に化し了らしめんとするなり。「喜ぶなら世間の奴は喜んだがいいです。一箇のお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日まで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私などの身から見ると何よりお可羨いので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐のないものは決して御座いませんな、私は十五の歳から孤児になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊られます。余り見縊られたのが自棄の本で、遂に私も真人間に成損つて了つたやうな訳で。固より己の至らん罪ではありますけれど、抑も親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合で、そんな薄命な者もかうしてあるのですから、それはもう幾歳になつたから親に別れていいと謂ふ理窟はありませんけれど、聊か慰むるに足ると、まあ、思召さなければなりません」。 貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例はあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪み遠けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始めより畜生視して、得べくば撲つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言の端々に人がましき響あるを聞きて、いと異しと思へり。「それでは、貴方真人間に成損つたとお言ひのですな」。「さうでございます」。「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」。「勿論でございます」。直道は俯きて言はざりき。「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐れた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」。彼はなほ俯き、なほ言はずして、頷くのみ。夜は太く更けにければ、さらでだに音を絶てる寂静はここに澄徹りて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙る靴の下に、瓦の脆く割るるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀れたる中に一箇は立ち、一箇は偃ひて、言あらぬ姿の佗しげなるに照すともなき月影の隠々と映添ひたる、既に彷彿として悲の図を描成せり。 かくて暫くありし後、直道は卒然言を出せり。「貴方、真人間に成つてくれませんか」。その声音の可愁き底には情も籠れりと聞えぬ。貫一は粗彼の意を暁れり。「はい、難有うございます」。「どうですか」。「折角のお言ではございますが、私はどうぞこのままにお措き下さいまし」。「それは何為ですか」。「今更真人間に復る必要もないのです」。「さあ、必要はありますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶をして下さいな」。「いや、お気に障りましたらお赦し下さいまし。貴方とは従来浸々お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂を伺つて、能く貴方を存じてをります。極潔いお方なので、精神的に傷いたところのない御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正い、直なお耳へは入らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗けた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流 に願ひます」。「ああ、善く解りました」。 「真人間になつてくれんかと有仰つて下すつたのが、私は非常に嬉いのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛いのでございます。そんな思をしつつ何為してゐるか! 曰く言難しで、精神的に酷く傷けられた反動と、先づ思召して下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒でも吃つて、体を毀して、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可かず、腹を切る勇気はなし、究竟は意気地のないところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」。 |
彼の潔しと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見したる述懐の為に稍動されぬ。「お話を聞いて見ると、貴方が今日の境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉く聞して下さいませんか」。「極愚な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他には語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟或事に就いて或る者に欺かれたのでございます」。「はあ、それではお話はそれで措きませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧づべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或る時は不如父の前で死んで見せて、最後の意見をするより外はない、と決心したこともあつたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄てては措かん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾で。一時に両親に別れて、死目にも逢はず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうのない……凡そ人の子としてこれより上の悲があらうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、愈よ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難は免れたに違いない。いや私はさう信じてゐる。しかし、過ぎた事は今更為方がないから、父の代に是非貴方に改心して貰ひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念も霽れる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。 成る程、お話の様子では、こんな家業に身を墜されたのも、已むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのは罷めて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の喜はありません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非を悛めて下さい」。 聴ゐる貫一は露の晨の草の如く仰ぎ視ず。語り訖れども猶仰ぎ視ず、如何にと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。忽ち一閃の光ありて焼跡を貫く道の畔を照しけるが、その燈の此方に向ひて近くは、巡査の見尤めて寄来るなり。両箇は一様に ![]() |
(私論.私見)