後編6章

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【後編第六章】
 数日前すじつぜんより鰐淵わにぶちが家は燈点あかしともる頃を期して、何処いづこより来るとも知らぬ一人の老女ろうによとはるるが例となりぬ。その人はよはひ六十路むそぢ余にかたふきて、顔はしわみたれど膚清はだへきよく、切髪きりがみかたちなどなかなかよしありげにて、風俗も見苦からず、ただ異様なるは茶微塵ちやみじん御召縮緬おめしちりめん被風ひふをも着ながら、更紗さらさの小風呂敷包に油紙の上掛うはがけしたるを矢筈やはずに負ひて、薄穢うすきたな護謨底ゴムぞこの運動靴をいたり。所用は折入つてあるじに会ひたしとなり。生憎あいにくにも来るたび他出中なりけれど、本意無ほいなげにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯はやうやく怪しと思初おもひそめぬ。

 彼のあだかも三日続けてきたれる日、その挙動の常ならず、ことには眼色凄まなざしすごく、はばかりもなく人を目戍まもりては、時ならぬに打笑うちゑむ顔の坐寒すずろさむきまでに可恐おそろしきは、狂人なるべし、しかも夜にるをうかがひ、時をもたがへずおとなひ来るなど、我家にたたりすにはあらずや、とお峯はにはかおそれいだきて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはやかへり来にけるなり。「どうも貴方あなた、あれは気違いですよ。それでも品のいことは、ちよいとまあ旗本か何かの隠居さんとつたやうな、しかし一体、鼻の高い、目の大きい、せた面長おもながな、こはい顔なんですね。戸外おもてへ来て案内する時のその声といふものが、実にないんですよ。いつでもきまつて、『頼みます、はい頼みます』とかうしとやかに、ゆつくり二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然ぞつとして、ああ可厭いやだ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」。

 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。あかしともるにはまだ間ありと見るなるべし。直行は可難むづかしげにを寄せ、を引結びて、「何者か知らんて、一向心当こころあたりと謂うてはない。名は言はんて?」。「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」。「さうして今晩来るのか」。「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られてはたまりませんから、貴方本当に来ましたら、とつくり説諭して、もう来ないやうになすつて下さいよ」。「そりや受合へん。さきが気違ぢやもの」。「気違だからも気味が悪いからお頼み申すのぢやありませんか」。「幾多いくら頼まれたてて、気違ぢやもの、おれも為やうはない」。

 頼めるつまのさしも思はで頼無たのみなことばに、お峯は力落してかつはすくなからず心あわつるなり。「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡してりませう」。直行は打笑うちわらへり。「まあ、そんなに騒がんともえ」。「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」。「誰も気違のえものはない」。「それ、御覧なさいな」。「何じや」。知らず、その老女ろうによは何者、狂か、あらざるか、合力ごうりよくか、物売か、はたあるじ知人しりびとか、正体のあらはるべき時はかかるうちにも一分時毎にちかづくなりき。
 終日ひねもす灰色に打曇りて、薄日をだにをしみてもらさざりし空はやうやく暮れんとして、弥増いやます寒さはけしからず人にせまれば、幾分のしのぎにもと家々の戸は例よりも早くさされて、なほ稍明ややあかくその色厚氷あつこほりを懸けたる如き西の空より、隠々いんいんとして寂き余光の遠くきたれるが、にはかに去るに忍びざらんやうに彷徨さまよへるちまた此処彼処ここかしこに、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白きほのほを放てり。

 一陣の風は砂をきて起りぬ。怪しの老女ろうによはこの風に吹出ふきいだされたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪さかだちて、披払はたはたひるがへ裾袂すそたもとなびかされつつただよはしげに行きつ留りつ、町の南側を辿たどり辿りて、鰐淵が住へる横町にりぬ。銃槍じゆうそう忍返しのびがへしを打ちたる石塀いしべいあふれて一本ひともとの梅の咲誇れるを、に軒ラムプの照せるがそのかどなり。彼はほとんど我家に帰りきたれると見ゆる態度にて、※(「にんべん+從」、第4水準2-1-81)つかつかと寄りて戸をけんとしたれど、啓かざりければ、かのしとやかゆるしと謂ふ声して、「頼みます、はい、頼みます」。風は※(「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8)ひようひようと鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯はすくみて立たず。「貴方、来ましたよ」。「うん、あれか」。

 に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立こなべだてせる火鉢ひばちかど猪口ちよくき、あかして来よとをんなに命じて、玄関に出でけるが、づ戸の内より、「はい何方どなたですな」。「旦那だんなはお宅でございませうか」。「居りますが、何方どなたで」。答はあらで、つぶやくか、※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやくか、小声ながらしきりに物言ふが聞ゆるのみ。「どなたですか、お名前は何と有仰おつしやるな」。「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花はなはやつぱりこの梅がよろしからうと存じます。さあ、どうぞこちらへお入り下さいまし、御遠慮なしに、さあ」。けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩うちたたきてはげし案内あないす。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにてはふとも立去るまじきに、一度ひとたびは会うてとにもかくにもんと、心ならずも戸を開けば、聞きしにたがはぬ老女ろうによ入来いりきたれり。

 「鰐淵は
わしじやが、何ぞ用かな」。「おお、おまへが鰐淵か!」。つと乗出のりいだしてそのおもてひとみを据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれてたちまち寒くをののけるなり。つくづくと見入るまなこを放つと共に、老女は皺手しわでに顔をおほひて潜々さめざめ泣出なきいだせり。あきれ果てたる直行は金壺眼かなつぼまなここらしてその泣くを眺むる外はあらざりけり。彼は泣きて泣きて止まず。「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、わしに用と云ふのは?」。朽木のおのづかくづれ行くらんやうにも打萎うちしをれて見えし老女は、猛然もうねんとして振仰ぎ、血声をしぼりて、「この大騙おほかたりめ!」。「何ぢやと!」。「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之まさゆきのやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国かいのくにの住人武田大膳太夫たけだだいぜんだゆう信玄入道しんげんにゆうどう田夫野人でんぷやじんの為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井かしわいすうちやんがお嫁に来てくれれば、の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てるやぶはあつても、懲役に遣る親はないぞ。二十七にはなつても世間不見みずのあの雅之、うも能うもおのれはだましたな! さあ、さあさかたきを討つから立合ひなさい」。直行は舌を吐きて独語ひとりごちぬ。「あ、いよいよ気違じやわい」。

 見る見る老女のは激して、形相ぎようそう漸くおどろおどろしく、物怪もののけなどの※(「馮/几」、第4水準2-3-20)いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯のまばらなるをきばの如くあらはして、一念のれるまなじりは直行のほかを見ず、「歿なくなられた良人つれあひから懇々くれぐれも頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子ひとりつこ、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方このほうを女とあなどつてさやうな不埒ふらちを致したか。長刀なぎなたの一手も心得てゐるぞよ。恐れ入つたか」。彼はたちまちさも心地快ここちよげに笑へり。「さうあらうとも、ゆるします。内にはすうちやんが今日をはれと着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致きりようと云ひ、気立と云ひ、諸芸もできれば、よみかき針仕事はりしごと、そんなことは言つてゐるところではない。くびを長くして待つておいでだのに、早く帰つて来ないと云ふ法があるものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物はきものはここにあるよ。なあに、おまへ私はね、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやで行くから訳はないとも」。
 かく言ふ間もせはしげに我が靴を脱ぎて、そこに直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結なかゆひを釈きて、直行が前に上掛うはがけの油紙をひろげたり。「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。ぢきに落ちるから、早く落してお了ひなさい」。さすがに持扱もてあつかひて直行の途方に暮れたるを、老女は目をほそめて、何処いづこより出づらんやとばかり世にもあやしき声をはなちてゆるく笑ひぬ。彼は謂知いひしらぬ凄気せいきに打れて、覚えず肩をそびやかせり。懲役と言ひ、雅之と言ふにりて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之あくらまさゆきは、私書偽造罪をつて彼の被告としてこの十数日ぜん、罰金十円、重禁錮じゆうきんこ一箇年に処せられしなり。にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。爾思しかおもへりしのみにて直行はその他になほも思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼のはかりて陥れたるなり。

 彼らの用ゐる悪手段の
うちに、人のるを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合はなしあひの上は貸さんととなへていざなひ、しかる後、ただし証書のていを成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然しかるべき親族知己しるべなどの名義を私用して、在合ふ印章をさしめ、もとより懇意上の内約なればそのいつはりなるをとがめず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、いつ焦眉しようびの急に迫り、いつは期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息こそくして、この術中には陥るなりけり。

 期に
※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて還さざらんか、彼はたちま爪牙そうがあらはし、陰に告訴の意を示してこれをおびやかし、散々に不当の利をむさぼりて、その肉尽き、骨枯るるの後、※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)くなき慾は、更にくだんの連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここにおいか恐慌し、狼狽ろうばいし、悩乱し、号泣し、死力をつくして七所借ななとこがり調達ちようだつを計らざらん。この時魔の如き力はのんどやくしてその背を※(「てへん+府」、第4水準2-13-22)つ、人の死と生とはすべて彼が手中にありて緊握せらる、欲するところとして得られざるはなし。雅之もこのわな[#「(箆-竹-比)/民」、265-5]かかりて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻はたんに及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学してあらず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為はつひに第二百十条の問ふところとなりぬ。

 法律は鉄腕の如く雅之を
らつし去りて、あまつさへつゑに離れ、涙によろぼふ老母をば道のかたはら※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)けかへして顧ざりけり。ああ、母は幾許いかばかりこの子に思をけたりけるよ。親につかへて、此上無こよなう優かりしを、柏井かしわいすずとて美き娘をも見立てて、この秋にはめあはすべかりしを、又この歳暮くれにはかた)ありて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆なみぬ、彼は人のよはひせざる国法の罪人となりをはれり。耻辱ちじよく、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。

 
無益むやくことばを用ゐんより、唯手柔ただてやはらかつまみ出すにかじと、直行は少しもさからはずして、「ああよろしいが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここではいかんからおもてへ行かう。さあ一処に来た」。狂女は苦々しげにかしらりて、「お前さんの云ふことは皆なうそだ。その手で雅之をだましたのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着だまくらかして、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違ないと云ふ一札いつさつをこの通り入れたぢやないか、これでも※(「白/(白+白)」、第3水準1-88-65)しらじらしい顔をしてゐるのか」。打披うちひろげたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香うつりがにや、胸悪き一種の腥気せいきありておびただしく鼻をちぬ。直行はなほも逆はでむなくおもてそむけたるを、狂女は目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりつつ雀躍こをどりして、「おおおお、あれあれ! これはうれしい、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」。

 地には落さじとやうに
あわ※(「りっしんべん+草」、第4水準2-12-63)ふためき、油紙もて承けんとる、その利腕ききうでをやにはにとらへて直行は格子こうしの外へ※(「てへん+雙」、第4水準2-13-63)おしださんと為たり。彼はおされながら格子にすがりて差理無理しやりむり争ひ、「ええ、おのれはひとをこのがけから突落す気だな。この老婦としより騙討だましうちに為るのだな」。わめきつつ身を捻返ねぢかへして、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷ふみすべらして尻居に倒るれば、彼ははやし立てて笑ふなり。たちまち起上りし直行は彼の衿上えりがみ掻掴かいつかみて、力まかせに外方とのかた突遣つきやり、手早く雨戸を引かんとせしに、きしみて動かざるひまに又駈戻かけもどりて、狂女はそのすさましき顔を戸口にあらはせり。余りの可恐おそろしさに直行は吾を忘れてその顔をはたとち、ひるむところを得たりととざせば、外より割るるばかりに戸を叩きて、「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊くつどろぼう大騙おほかたり! 首を寄来よこせ」。

 直行は
たたずみて様子をうかがひゐたり。抜足差足ぬきあしさしあし忍びきたれる妻は、後より小声に呼びて、「貴方、どうしました」。夫は戸の外をゆびさしてなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴ゴムぐつと油紙との遺散おちちれるを見付けて、由無よしなき質を取りけるよとわづらへる折しも、「頼みます、はい、頼みますよ」と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫どうぶるひして、長くここにとどまるに堪へず、夫を勧めて奥にりにけり。戸叩く音はのちたゆまず響きたりしが、直行の裏口より出でてうかがひける時は、風吹荒ふきすさかどの梅の飛雪ひせつの如く乱点して、燈火のほのかに照す処その影は見えざるなりき。
 次の日も例刻になれば狂女は又ひ来れり。あるじは不在なりとて、をんなをして彼ののこせし二品ふたしなを返さしめけるに、前夜のれに暴れし気色けしきはなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。お峯はその翌日も必ずきたるべきをおそれて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試にをんないだして不在のよしを言はしめしに、こたびはぢきに立去らで、「それぢやお帰来かへりまでここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」。彼は戸口かどぐちうづくまりて動かず。婢は様々に言作いひこしらへてすかしけれど、一声も耳にはらざらんやうに、石仏いしぼとけの如く応ぜざるなり。彼はむなくこれを奥へ告げぬ。直行もすべあらねば棄措すておきたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。

 お峯は心苦こころぐるしがりて、この上は唯警察の手を借らんなどさわぐを、直行は人をわづらはすべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払おひはらふべき手立のありやと責むるに、害をすにもあらねば、宿無犬やどなしいぬの寝たると想ひてこころかくるなとのみ。こころくまじき如きをことさらに夫には学ばじ、と彼は腹立はらだたしく思へり。この一事いちじのみにあらず、お峯は常に夫の共にはかると謂ふことなくて、女童をんなわらべあなどれるやうに取合はぬ風あるを、口惜くちをしくも可恨うらめしくも、又或る時は心細さの便りき余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明しんめい冥護みようごらんと、八百万やほよろづの神といふ神は差別無しやべつなく敬神せるが中にも、ここに数年ぜんより新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体とあがめたるは、その光紫の一大明星みようじようにて、御名おんな大御明尊おおみあかりのみことと申す。天地渾沌てんちこんとんとして日月じつげついまだ成らざりし先高天原たかまがはらに出現ましませしにりて、天上天下万物のつかさと仰ぎ、もろもろの足らざるを補ひ、すべて欠けたるをまつたうせしめんの大御誓おほみちかひをもて国土百姓をやすらけく恵ませ給ふとなり。彼はつとに起信して、この尊をば一身一家いつけ守護神まもりがみと敬ひ奉り、事とあれば祈念をこらしてひとへに頼み聞ゆるにぞありける。

 この夜は別して身をきよめ、御燈みあかしの数をささげて、災難即滅、怨敵退散おんてきたいさんの祈願をめたりしが、翌日あくるひ点燈頃ひともしごろともなれば、又来にけり。夫は出でていまだ帰らざれば、今日ののしさわぎて、内に躍入をどりいることもやあらば如何せんと、前後のわかれ知らぬばかりに動顛どうてんして、取次には婢をいだり、みづから神棚かみだなの前に駈着かけつけ、顫声ふるひごゑ打揚うちあげ、丹精をぬきんでて祝詞のりとりゐたり。狂女は不在と聞きてあへて争はず、昨日きのふの如く、ここにて帰来かへりを待たんとて、き処に同き形してうづくまれり。婢は格子をし固めて内にりけるが、しばらくは音も為ざりしに、にはかに物語る如き、あるひののしる如き声のしきりに聞ゆるよりあるじの知らで帰来かへりきて、とらへられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗さしのぞけば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここのあるじに欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃あとさきぶぞろひに泣いつ怒りつ訴ふるなり。

【後編第七章】
 子のかたきなる直行が首をんとして夕々ゆふべゆふべに狂女の訪ひ来ること八日に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およべり。浅ましとは思へど、ひて去らしむべきにあらず、又門口かどぐちに居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措すておかるるなりき。直行が言へりし如く、畢竟ひつきよう彼は何らの害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たるとはなはえらばざるべけれど、縮緬ちりめん被風ひふ着たる人の形の黄昏たそがるる門の薄寒きにつくばひて、灰色の剪髪きりがみ掻乱かきみだし、妖星ようせいの光にも似たるまなこ睨反ねめそらして、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見ればいかり、おのれの胸のやうにそこひも知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてそのしみと恨とを訴へ、なまぐさき油紙をひねりては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何らの害を加へずとも、つひにはこの家にたたりすべき望をくるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄をつんざき、いはほを砕くのためし、ましてや家をめつし、人をみなごろしにすなど、ちりを吹くよりもやすかるべきに、可恐おそろしや事なくてあれかしと、お峯は謂知いひしらず心をいたむるなり。

 夫はして雅之の私書偽造をおのれの陥れしなりとは彼に告げざれば、悪はまさしく狂女の子にありて、こなたに恨を受くべき筋はなく、おのづからかかる事も出来いでくるは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒かしだふれの損耗あるを思へば、所詮しよせんたふし、仆さるるはあきなひの習と、お峯はおのづかこころを強うして、この老女ろうによくるひを発せしを、夫のせるわざとはつゆも思ひよするにあらざりき。さはへ、人の親の切なるなさけを思へば、にさぞと肝にこたふる節無ふしなきにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、あやしわざはひにもふなればと唯思過ただおもひすごされては窮無きはまりな恐怖おそれの募るのみ。

 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我らの命を絶たんが為にて、
多時しばらくかどに居て動かざるは、その妄執もうしゆう念力ねんりきめて夫婦をのろふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地はたとへん方なく悩されぬ。されば狂女のかどに在る間は、大御明尊おおみあかしのみこと御前おんまへ打頻うちしき祝詞のりとを唱ふるにあらざればしのあたはず。かかるうちにも心にちとゆるみあれば、煌々こうこう耀かがやわたれる御燈みあかしかげにはかくらみ行きて、天尊てんそん御像みかたちおぼろ消失きえうせなんと吾目わがめに見ゆるは、納受のうじゆの恵にれ、擁護おうごの綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念をめ、けむりを立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。

 やりは降りても必ずべし、と震摺おぢおそれながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返さえかへりたるこの日の寒気ははりもてはだへに霜をうらんやうに覚えしめぬ。外には烈風はげしきかぜいかさけびて、樹を鳴し、いへうごかし、砂をき、こいしを飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるるほこりおほはれて、一天くらく乱れ、日色につしよくに濁りて、こと物可恐ものおそろしき夕暮の気勢けはひなり。
 鰐淵がかどともし硝子ガラスを二面まで吹落されて、火は消え、ラムプはくつがへりたり。内の燈火あかしは常よりあざやかあるじが晩酌の喫台ちやぶだいを照し、火鉢ひばちけたるなべの物は沸々ふつふつくんじて、はや一銚子ひとちようしへたるに、いまだ狂女の音容おとづれはあらず。お峯は危みつつも幾分の安堵あんどの思をもてあそび喜ぶ風情ふぜいにて、「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もういつもきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されてしまひませうから。ああ、ほんに天尊様の御利益ごりやくがあつたのだ」。夫が差せる猪口ちよくを受けて、「おあひをしませうかね。何はなくともこんな好い心持の時にいただくとおいしいものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方あなた。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然いよいよ今晩は来ないときまりましたね。ぢや、戸締とじまりして了ひませうか、ほんに今晩のやうな気の霽々せいせいした、しんの底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿いのちちぢめたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒ごしゆもおいしいものですね。なあにあの婆さんが唯怖ただこはいのぢやありませんよ。それは気味きびは悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何となくすごくてたまらないのです。あれが来ると、悚然ぞつと、惣毛竪そうけだつてからだすくむのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着とつつかれでもするやうな気がして、あの、それ、く夢で可恐おそろしい奴なんぞに追懸おつかけられると、げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」。

 銚子をへてをんな持来もちきたれば、「きんや、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」。「好い塩梅あんばいでございます」。「お前には後でお菓子を御褒美ごほうびに出すからね。貴方あなた、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」。「あら可厭いやなことを有仰おつしやいまし」。

 
吹来ふききたり、吹去る風は大浪おほなみの寄せては返す如く絶間なくとどろきて、そのはげしきは柱などをひちひちと鳴揺なりゆるがし、物打倒すひしめき、引断ひきちぎる音、圧折へしおる響は此処彼処ここかしこに聞えて、唯居るさへにきもひやされぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶てつびんの湯気は雲をくことしきりなれど、更に背面を圧するさむさ鉄板てつぱんなどや負はさるるかと、飲めども多くひ成さざるに、直行は後をきてまず、お峯も心祝こころいはひの数を過して、その地顔のあかきをば仮漆布ニスしきたるやうに照り耀かがやかして陶然たり。
 狂女は果してざりけり。よろこへるお峯も唯へる夫も、褒美もらひし婢も、十時近きころほひには皆な寐鎮ねしづまりぬ。風はなほよこしまに吹募りて、高きこずゑははきの掃くが如くたわめられ、まばらに散れる星の数はつひ吹下ふきおろされぬべく、層々れるさむさほとんどあらん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色はますまくらく、益すすさまじからんとす。たちまちこの黒暗々をつんざきて、鰐淵が裏木戸のあたり一道いちどうの光は揚りぬ。低くおこりて物にさへぎられたれば、何の火ともわきまへ難くて、その迸発ほとばしりあかけむれる中に、母家もやと土蔵との影はおぼろあらはるるともなく奪はれて、またたくばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。ややありて、同じほどの火影の又うつろふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時しばしあかりを保ちたりしが、風のわづかの絶間をぬすみて、閃々ひらひら納屋なやの板戸を伝ひ、始めてのぼれるほのほ炳然へいぜんとして四辺あたりを照せり。塀際へいぎはに添ひて人のかたち動くと見えしが、なほ暗くて了然さだかならず。

 数息すそくの間にして火の手は縦横にはびこりつつ、納屋の内に乱入れば、噴出ふきいづる黒烟くろけふりの渦はるひくづれ、或るいは畳みて、その外を※(「韋+慍のつくり」、第3水準1-93-83)ひきつつむとともに、見えわたりし家も土蔵もうづたか※(「黯のへん+甚」、第4水準2-94-61)あんたんの底に没して、闇は焔に破られ、焔はけふり揉立もみたてられ、けむりは更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢のおびただしければ、猶ほ所狭ところせみなぎりて、文目あやめも分かず攪乱かきみだれたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然さだかならざりし形はこの時あきらかに輝かされぬ。宵にべかりし狂女のたたずめるなり。をどり狂ふ烟の下に自若として、おもてただれんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。に彼は火の如何え、如何にくや、とおごそかるが如くまなじりを裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟とほのほとの相雑あひまじはり、相争あひあらそひ、相勢あひきほひて、力の限を互にふるふをば、いみじくもたりとや、そぞろゑみもらせる顔色がんしよくはこの世にたぐふべきものありとも知らず。風の暴頻あれしき響動どよみに紛れて、寝耳にこれを聞着ききつくる者もなかりければ、誰一人いでさわがざる間に、火は烈々めらめら下屋げやきて、くりやの燃立つ底より一声叫喚きようかんせるは、狂女は※(「口+喜」、第3水準1-15-18)ききとして高く笑ひぬ。
【後編第七章の二】
 人々出合ひて打騒うちさわころほひには、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々よりほのほいだし、はや如何にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風ごうふうなりしかど、消防つとめたりしにりて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて鎮火するを得たり。雑踏のうちより怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りもやらざりしがとらはれしなり。

 火元と認定せらるる
鰐淵方わにぶちかた塵一筋ちりひとすぢだに持出もちいださずして、あはれむべき一片の焦土をのこしたるのみ。家族の消息はただちに警察の訊問じんもんするところとなりぬ。をんなは命辛々からがら迯了にげおほせけれども、目覚むるとひとし頭面まくらもとは一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼び捨にして走りでければ、あるじたちは如何になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、あやまちなどありしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。

 
熱灰ねつかいの下より一体のかばね焦爛こげただれたるが見出みいだされぬ。目も当てられず、浅ましういぶせき限りを尽したれど、あるじの妻とたやすく弁ぜらるべき面影おもかげ焚残やけのこれり。さてはとそのちかくを掻起かきおこしけれど、他に見当るものはなくて、倉前とおぼしあたりより始めて焦壊こげくづれたる人骨を掘出ほりいだせり。ひて遁惑にげまどひしゆゑか、むさぼりて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦あるじふうふはこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜のけふりとなりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外にもとむべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔ちようえんたんえんの紛糾する処に、り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道ただみちは旅行中にていまかへらず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着かけつけたり。彼は三日の後には退院すべき手筈てはずなりければ、今は全くえて務を執るをも妨げざれど、事のきはめて不慮なると、急激なると、瑣小さしようならざるとに心惑こころまどひのみせられて、病後の身をてこれに当らんはいとかりけるを、尽瘁じんすいして万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙えあげざりし病人の今かくすこやかに起きて、常に来ては親く慰められし人のかたくなにも強かりしを、燼余じんよの断骨に相見あひみて、弔ふことばだにあらざらんとは、貫一のにはかにそのまことをば真としあたはざるところなりき。人は皆な死ぬべきものと人は皆な知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族をめての一人も余さず、家倉と共に焚尽やきつくされて一夜の中にはかなくなりをはれるに会ひては、おのれが懐裡ふところの物の故無ゆゑなく消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何に成りなんをもはかられざるをと、無常の愁はしきりはらわたむなりけり。
 住むべき家の痕跡あとかたもなく焼失せたりとふだに、見果てぬ夢の如し、ましてあはせて頼めしあるじ夫婦をうしなへるをや、音容おんようまぼろしを去らずして、ほとほと幽明のさかひを弁ぜず、あまつさへ久く病院の乾燥せる生活にこうじて、この家をおもふこと切なりければ、追慕の情はきはまりて迷執し、めては得るところもありやと、夜のおそきに貫一はいちなる立退所たちのきじよを出でて、つゑたすけられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。

 連日風立ち、寒かりしに、この夜は
にはかゆるみて、おぼろの月の色もあたたかに、曇るともなく打霞うちかすめる町筋は静に眠れり。燻臭いぶりくさき悪気は四辺あたり充満みちみちて、踏荒されし道は水に※(「執/水」、第3水準1-87-3)しとり、もえがらうづもれ、焼杭やけくひ焼瓦やけがはらなど所狭く積重ねたる空地くうちを、火元とて板囲いたがこひ得為えせず、それとも分かぬ焼原の狼藉ろうぜきとして、鰐淵が家居いへゐは全く形を失へるなり。黒焦に削れたるみきのみ短く残れる一列ひとつらの立木のかたはらに、つちくれうづたかく盛りたるは土蔵の名残なごりと踏み行けば、灰燼の熱気はいまだ冷めずして、ほのかおもてつ。貫一は前杖まへづゑ※(「てへん+(麈-鹿)」、第3水準1-84-73)いて悵然ちようぜんとしてたたずめり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨をおこせし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉のきれの棄てられたるやうにあかける満地の瓦を照して、目にるものは皆な伏し、四望の空く寥々りようりようたるに、黒く点せる人の影を、彼はおのづか物凄ものすごく顧らるるなりき。
 立尽せる貫一が胸には、ありし家居のさまの明かに映じて、あかく光れるお峯が顔も、にがき口付せるあるじおもても眼に浮びて、歴々まざまざ相対さしむかへる心地もするに、しばらくはその境におのれを忘れたりしが、やがてしづかに仰ぎ、徐にして、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭おしぬぐひつ。彼はうたた人生の凄涼せいりようを感じて禁ずるあたはざりき。いやしくもその親める者の半にして離れそむかざるはあらず。見よ或るいはかの棄てられし恨をのこし、或るいはこの奪はれししみひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者はき、※(「煢-冖」、第4水準2-79-80)けいぜんとして吾れ独りあり。あるが故によろこぶべきか、きが故にいたむべきか、ある者は積憂の中にき、亡き者は非命のもとたふる。そもそもこのかつとこの死とはいづれあはれみ、孰をかなしまん。

 吾が煩悶はんもんの活を見るに、彼らが惨憺さんたんの死と相同あひおなじからざるなし、但殊ただことにするところは去ると留るとのみ。彼らの死ありていささか吾が活のきをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼らが死のいたましきを弔ふに足らんか。吾がちようは断たれ、吾が心はやぶれたり、彼らが肉はただれ、彼らが骨は砕けたり。活きて爾苦しかくるしめる身をも、なほさすがにたましひぬべく打駭うちおどろかしつる彼らが死状しにざまなるよ。産を失ひ、家を失ひ、なほも身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへどもいまかつかくの如き虐刑のはづかしめを受けず、犬畜生の末までも箇様かようごうさらさざるに、天か、めいか、あるは応報か、しかれどもり吾が直行をもて世間に善をさざる者とすなかれ。人情は暗中にやいばふるひ、世路せいろは到る処に陥穽かんせいを設け、陰に陽に悪を行ひ、不善をさざるはなし。し吾が直行の行ふところをもてとがむべしと為さば、誰かありてとがめられざらん、しかもなほはなはだしきを為して天も憎まず、命もうすんぜず、応報もこれをさくるものあるを見るにあらずや。彼らの惨死さんしはづかしむるなかれ、たまたま奇禍を免れ得ざりしのみ。

 かくおもへる貫一は生前しようぜん誼深よしみふかかりし夫婦の死を歎きて、この永き遣方やるかたもなく悲しみ惜しむなりき。さて何時いつまでかここにあらんと、主の遺骨をいだせしあたりを拝し、又妻のかばねよこたはりし処を拝して、心佗こころわびしく立ち去らんとしたりしに、彼は怪くもにはかに胸の内の掻乱かきみだるる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路やみぢの奥に打棄てられたるを悲く、あはれなほ少時しばし留らずやと、いとめて乞ひすがると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土にいこへり。
 に彼も家の内に居て、遺骸なきがらの前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人のそばにも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらんおもひして、立てたる杖に重きかしらを支へて、夫婦が地下にもたらせし念々を冥捜めいそうしたり。やがて彼は何の得るところやありけん、しげき涙は滂沱はらはらほほを伝ひてこぼれぬ。夜陰にとどろく車ありて、一散にばしきたりけるが、焼場やけばきはとどまりて、ひらり下立おりたちし人は、ただちに鰐淵が跡の前に尋ね行きてとどめたり。焼瓦やけがはら踏破ふみしだかるる音におもてもたげたる貫一は、くだんの人影の近く進来すすみくるをば、誰ならんと認むるひまもなく、「間さんですか」。「おお、あなたは! お帰来かへりでしたか」。その人は待ちに待たれし直道なり。貫一はいそがはしく出迎へぬ。向ひて立てる両箇ふたり月明つきあかりおもてを見合ひけるが、おのおの口吃くちきつしてにはかに言ふ能はざるなりき。

 「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」。「はい。このたびは留守中と云ひ、別してお世話になりました」。「は事の起りました晩はだ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつてやうや駈着かけつけたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽ろうばいされる方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多のこりおほい事を致しました」。直道はふさぎしまなこたゆげに開きて、「何もかも皆な焼けましたらうな」。「唯一品ひとしな、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」。「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」。「かねも少しはありませうが、帳簿、証書の類がおもでございます」。「貸金に関した?」。「さやうで」。「ええ、それが焼きたかつたのに!」。

 口惜くちをしとの色はしたたかそのおもてのぼれり。貫一は彼が意見の父と相容あひいれずして、年来としごろ別居せる内情をつまびらかに知れば、めてその喜ぶべきをも、かへつてかくうれひさとれるなり。「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無さしつかへないのです。むしろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿なくなつたのも、であれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞみんなが喜んでゐるだらうと思ふと、唯親をなくなしたのがいばかりではないのですよ」。されどもせきへず流るるは恩愛の涙なり。彼をはばかりし父と彼をおそれし母とは、決して共に子として彼をいつくしむを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛をかうむりき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、そのきかれざりし恨より、親としてつかへざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。

 生暖なまあたたかき風は急にきたりてその外套がいとうの翼を吹捲ふきまくりぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無はしなく彼は憶起おもひおこして、さばかりはありのすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙いつしを与ふる者ぞ、我は今へいせられし測量地より帰来かへりきたれるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へてはるかはるかに隔つる世の人となりぬ。
 炎々たる猛火のうちに、その父と母とはもだえてたすけを呼びけんは幾許いかばかりぞ。彼らは果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽あいえつ渾身こんしんをして涙に化しをはらしめんとするなり。「喜ぶなら世間の奴は喜んだがいいです。あなた一箇ひとりのお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日こんにちまで御両親をお持ちになつてゐられたのは、などの身から見ると何よりお可羨うらやましいので、この世の中に親子の情愛ぐらゐいつはりのないものは決して御座いませんな、私は十五のとしから孤児みなしごになりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊みくびられます。余り見縊られたのが自棄やけもとで、に私も真人間に成損なりそこなつて了つたやうな訳で。もとよりおのれの至らん罪ではありますけれど、そもそも親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合ふしあはせで、そんな薄命な者もかうしてあるのですから、それはもう幾歳いくつになつたから親に別れていいと理窟りくつはありませんけれど、いささか慰むるに足ると、まあ、思召おぼしめさなければなりません」。

 貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き
ためしはあらず、彼の物言はずとよりは、この人のにくとほざけたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始めより畜生視して、得べくばつて殺さんとも念ずるなりければ、今彼がことば端々はしはしに人がましき響あるを聞きて、いとあやしと思へり。「それでは、貴方真人間に成損なりそこなつたとお言ひのですな」。「さうでございます」。「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」。「勿論もちろんでございます」。直道はうつむきて言はざりき。「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐ふてくされた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」。彼はなほうつむき、なほ言はずして、うなづくのみ。夜はいたけにければ、さらでだに音をてる寂静しづかさはここに澄徹すみわたりて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙ふみにじる靴の下に、瓦のもろるるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物はこぼたれたる中に一箇ひとりは立ち、一箇ひとりいこひて、ことばあらぬ姿のわびしげなるに照すともなき月影の隠々と映添さしそひたる、既に彷彿ほうふつとしてしみの図を描成ゑがきなせり。

 かくてしばらくありし後、直道は卒然ことばいだせり。「貴方、真人間に成つてくれませんか」。その声音こわね可愁うれはしき底にはなさけこもれりと聞えぬ。貫一はほぼ彼の意をさとれり。「はい、難有ありがたうございます」。「どうですか」。「折角のおことばではございますが、はどうぞこのままにおき下さいまし」。「それは何為なぜですか」。「今更真人間にかへる必要もないのです」。「さあ、必要はありますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶あいさつをして下さいな」。「いや、お気にさはりましたらおゆるし下さいまし。貴方とは従来これまで浸々しみじみお話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々おうはさを伺つて、く貴方を存じてをります。極潔ごくきよいお方なので、精神的にきずついたところのない御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、い、すぐなお耳へはらんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、ねぢけた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流ききながし に願ひます」。「ああ、善く解りました」。

 「真人間になつてくれんかと
有仰おつしやつて下すつたのが、私は非常にうれしいのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、つらいのでございます。そんな思をしつつ何為なぜしてゐるか! いは言難いひがたしで、精神的にひどきずつけられた反動と、思召おぼしめして下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒やけざけでもくらつて、からだこはして、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒はかず、腹を切る勇気はなし、究竟つまりは意気地のないところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」。
 彼のきよしと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見ほのめかしたる述懐の為にやや動されぬ。「お話を聞いて見ると、貴方が今日こんにちの境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、くはしきかして下さいませんか」。「極な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事はひとには語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟つまり或事に就いて或る者に欺かれたのでございます」。「はあ、それではお話はそれできませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決してづべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或る時は不如いつそ父の前で死んで見せて、最後の意見をするより外はない、と決心したこともあつたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄ててはかん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾いかんで。一時に両親ふたおやに別れて、死目にもはず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうのない……そ人の子としてこれより上のしみがあらうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、いよいよ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難はのがれたに違いない。いや私はさう信じてゐる。しかし、過ぎた事は今更為方がないから、父のかはりに是非貴方に改心してもらひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念もれる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。

 成る程、お話の様子では、こんな家業に身をおとされたのも、むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのはめて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上のよろこびはありません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非をあらためて下さい」。

 聴ゐる貫一は露の
あしたの草の如く仰ぎず。語りをはれども猶仰ぎ視ず、如何にと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。たちま一閃いつせんの光ありて焼跡を貫く道のほとりを照しけるが、そのともしび此方こなたに向ひてちかづくは、巡査の見尤みとがめて寄来よりくるなり。両箇ふたりは一様に※(「目+是」、第4水準2-82-10)みむかへて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無くまなく彼らをさらしぬ。巡査は如何に驚きけんよ、かれもこれもおのおの惨としてあをおもてに涙垂れたり――しかもここは人の泣くべき処なるか、時はまさに午前二時半。[#改ページ]




(私論.私見)