中編1章、2章、3章、4章、5章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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【中編第一章】 |
新橋停車場(ステーション)の大時計は四時を過(すぐ)ること二分余(よ)、東海道行の列車は既に客車の扉を鎖(さ)して、機関車に烟(けぶり)を噴(ふか)せつつ、三十余輛を聯(つら)ねて蜿蜒(えんえん)として横たわりたるが、真承(まうけ)の秋の日影に夕栄えして、窓々の硝子(ガラス)は燃えんとすばかりに耀(かがや)けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚(わめ)くを余所(よそ)に、大蹈歩(だいとうほ)の寛々(かんかん)たる老欧羅巴(ヨーロッパ)人は麦酒樽(ビールだる)を窃(ぬす)みたるように腹突き出(いだ)して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘(えひがさ)の柄(え)に橙(オレンジ)の色のリボンを飾りたるを小脇にせると推並(おしなら)び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色(けしき)もなく過(すぐ)る後より、蚤取眼(のみとりまなこ)になりて遅れじと所体(しょたい)頽(くづ)して駈け来る女房の、嵩高(かさだか)なる風呂敷包みを抱(いだ)くが上に、四歳(よつ)ほどの子を背負いたるが、何処の扉も鎖したるに狼狽(うろた)うるを、車掌に強曳(しょっぴか)れて漸(ようや)く安堵せる間もなく、青洟(あおばな)垂(た)らせる女の子を率いて、五十余(あま)りの老夫(おやじ)のこれも戸惑(とまどい)して往(ゆ)きつ復(もど)りつせし揚句(あげく)、駅夫に曳(ひか)れて室内に押し入れられ、如何なゆる罪やあらげなく閉(た)てらるる扉に袂(たもと)を介(はさ)まれて、もしもしと救(すく)いを呼ぶなど、未だ都を離れざるにはや旅の哀れを見るべし。 |
五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅に円居(まどい)して、その中に旅行らしき手荷物を控えたるは一人よりあらず、控えたるは一人よりあらず、他は皆な横浜までとも見ゆる扮装(いでたち)にて、紋付の袷羽織(あわせはおり)を着たるもあれば、精縷(セル)の背広なるもあり、袴(はかま)着けたるが一人、大島紬(つむぎ)の長羽織と差向える人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別(せんべつ)の瓶びん)、凾(はこ)などを網棚(あみだな)の上に片附けて、その手を摩払(すりはら)いつつ窓より首を出(いだ)して、停車場(ステーション)の方(かた)をば、求むるものありげに望み見たりしが、やがて藍(あい)の如き晩霽(ばんせい)の空を仰ぎて、「不思議に好い天気に成った、なあ。この分なら大丈夫じや」。「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟(あまかす)」。黒餅(こくもち)に立沢瀉(たちおもだか)の黒紬(くろつむぎ)の羽織着たるがかく言いて示すところあるが如き微笑を洩(もら)せり。甘糟と呼ばれたるは、茶柳条(ちゃじま)の仙台平(せんだいだいら)の袴を着けたる、この中にて独り頬鬚(ほおひげ)の厳(いかめし)きを蓄(たくわ)うる紳士なり。甘糟の答うるに先だちて、背広の風早(かざはや)は若きに似合わぬ皺嗄声(しわがれごえ)を振り搾(しぼ)りて、「甘糟は一興で、君は望むところなのだろう」。「馬鹿言え。甘糟の痒(かゆ)きに堪(た)えんことを僕は丁(ちゃん)と洞察しておるのだ」。「これは憚様(はばかりさま)です」。 |
大島紬の紳士は黏(へばり)着(つ)いたるように靠(もた)れたりし身を遽(にわか)に起して、「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されているのだよ。佐分利(さぶり)と甘糟は夙(かね)て横浜を主張しているのだ。何でもこの間遊仙窟(ゆうせんくつ)を見出して来たのだ。それで我々を引張って行って、大いに気焔(きえん)を吐く意(つもり)なのさ」。・「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂(い)うなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云うのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うておったら、僕を送るのを名として君達は……怪(け)しからん事(こっ)たぞ。学生中からその方は勉強しおつた君達の事じゃから、今後は実に想(おも)い遣(や)らるるね。ええ、肩書を辱(はずかし)めん限りは遣るもよかろうけれど、注意はしたまえよ、本当に」。 |
この老実の言(げん)を作(な)すは、今は四年(よとせ)の昔間貫一(はざまかんいち)が兄事(けいじ)せし同窓の荒尾譲介(じょうすけ)なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙(あ)げられ、踰えて一年の今日(こんにち)愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢(よわい)と深慮と誠実との故を以って、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。「これで僕は諸君へ意見の言い納めじゃ。願わくは君達も宜しく自重してくれたまへ」。面白く発(はや)りし一座も忽ち白(しら)けて、頻(しきり)に燻(くゆ)らす巻き莨(たばこ)の煙の、急駛(きゅうし)せる車の逆風(むかいかぜ)に扇(あお)らるるが、飛雲の如く窓を逸(のが)れて六郷川(ろくごうがわ)を掠(かす)むあるのみ。 |
佐分利は幾数回(あまたたび)頷(うなづ)きて、「いやそう言われると慄然(ぞっ)とするよ、実は嚮(さっき)停車場(ステーション)で例の『美人(びじ)クリーム』(こは美人の高利貸しを戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴(とかげ)啖(くら)うかと思うね、毎(いつ)見ても美しいには驚嘆する。全(まる)で淑女(レディ)の扮装(いでたち)だ。就中(なかんづく)今日は冶(めか)しておったが、何処か旨(うま)い口でもあると見える。那奴(あいつ)に搾(しぼ)られちゃ克(かな)わん、あれが本当の真綿で首だらう」。「見たかったね、それは。夙(かね)て御高名は聞き及んでいる」と大島紬の猶(なお)続けんとするを遮(さえぎ)りて、甘糟の言える。「おお、宝井が退学を吃(く)ったのも、そいつが債権者の重(おも)なる者だと云うじゃないか。余程好い女だそうだね。黄金(きん)の腕環なんぞ篏(は)めていると云うじゃないか。酷(ひど)い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係(かか)ったのは、大いに冒険の目的があって存するのだろうけれど、木乃伊(ミイラ)にならんように褌(ふんどし)を緊(し)めて掛かるがよいぜ」。「誰かそいつには尻押しがあるのだろう。亭主があるのか、或るいは情夫(いろ)か、なにかあるのだろう」。皺嗄(しわがれ)声は卒然としてこの問を発せるなり。「それについては小説的の閲歴(ライフ)があるのさ、情夫じゃない、亭主がある、こいつが君、我々の一世紀前(ぜん)に鳴した高利貸(アイス)で、赤樫権三郎(あかがしごんざぶろう)と云っては、いや無法な強慾で、加うるに大々的![]() ![]() ![]() |
「その赤樫と云う奴は貸金の督促を利用しては女を弄(もてあそ)ぶのが道楽で、こいつの為に汚された者は随分意外の辺(へん)にもあるそうな。そこで今の『美人(びじ)クリーム』、これもその手に罹(かか)ったので、原(もと)は貧乏士族の娘で堅気であったのだが、老猾(おやじ)この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘(とりこ)にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言わずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手がなくて困るから、半月ばかり仲働(なかばたらき)に貸してくれと言い出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いていたからとて、勢い辞(ことわ)りかねる人情だろう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾(おやじ)は六十ばかりの禿(はげ)顱(あたま)の事だから、まさかに色気とは想わんわね。そこで内へ引張って来て口説いたのだ。女房という者はないので、怪しげな爨妾然(たきざはりぜん)たる女を置いておったのが、その内にいつか娘は妾同様になったのはどうだい!」。 |
固唾(かたず)を嚥(の)みたりし荒尾は思うところありげに打ち頷(うなづ)きて、「女という者はそんなものじゃて」。甘糟はその面を振り仰ぎつつ、「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想わなんだ」。「何故かい」。佐分利の話を進むる折から、![]() ![]() |
「驚くべきものじやね」。荒尾は忌(いまわ)しげに呟(つぶや)きて、稍動(うごか)せり。「そこで、敏捷(びんしょう)な女には違いない、自然と高利(アイス)の呼吸を呑み込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、どこへでも出掛けるようになったのは益す驚くべきものだろう。丁度一昨年辺(あた)りから禿は中気が出ていまだ動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛んに商売をしているのだ。それでその前年かに親父は死んだのだそうだが、板の間に薄縁(うすべり)を一板(いちまい)敷いて、その上で往生したと云うくらいの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんだそうだがな、残刻と云っても、どう云うのだか余り気が知れんじゃないかな――し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独りで腕を揮(ふる)って益す盛に遣(や)っている。これ則(すなわ)ち『美人(びじ)クリイム』の名ある所以(ゆえん)さ。 |
年紀(とし)かい。二十五だと聞いたが、そう、漸(ようよ)う二三とよりは見えんね。あれで可愛ゆい細い声をして物柔(やわらか)に、口数(くちかず)が寡(すくな)くって巧い言(こと)をいうこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言いそうな、誠に上品な様子をしていて、書替(かきかえ)だの、手形に願うのと、急所を衝(つ)く手際(てぎわ)の婉曲に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用いて人の心を痿(なや)すかと思うばかりだ。僕も三度ほど痿(なや)されたが、柔能く剛を制すで、高利貸(アイス)には美人が妙! 那彼(あいつ)に一国を預ければ輙(すなわ)ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」。風早は最も興を覚えたる気色にて、「では、今はその禿顱(はげ)は中風(ちゅうぶ)で寐たきりなのだね、一昨年(おととし)から? それでは何か虫があるだらう。ある、ある、それくらいの女で神妙にしているものか、ないと見せてあるところがクレオパトラよ。しかし、壮(さかん)な女だな」。「余り壮なのは恐れる」。佐分利は頭(かしら)をを抑えて後様(うしろざま)に靠(もた)れつつ笑いぬ。次いで一同も笑いぬ。佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕(お)ちて、今はしも連帯一判、取り交(ま)ぜ五口(いつくち)の債務六百四十何円の呵責(かしゃく)に膏(あぶら)を身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後(ご)に又二百円、無疵(むきず)なるは風早と荒尾とのみ。 |
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愁然として彼は頭(かしら)を俛(た)れぬ。大島紬は受けたる盃(さかづき)を把(と)りながら、更に佐分利が持てる猪口(ちょこ)を借りて荒尾に差しつ。「さあ、君を慰める為に一番(ひとつ)間の健康を祝そう」。荒尾の喜びは実(げ)に溢(あふ)るるばかりなりき。「おお、それは辱(かたじけ)ない」。盈々(なみなみ)と酒を容(い)れたる二つの猪口は、彼らの目より高く挙げらるると斉(ひとし)く戞(かつ)と相撃(あいう)てば、紅(くれない)の雫(しづく)の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息(ひといき)に飲み乾したり。 |
これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺(うごか)して、「蒲田は如才ないね。面(つら)は醜(まず)いがあの呼吸で行くから、往々拾い物をするのだ。ああ言われてみると誰でも些(ちょっと)憎くないからね」。甘「遉(さすが)は交際官試補!」。佐「試補々々!」。風「試補々々立って泣きに行く……」。荒「馬鹿な!」。言(ことば)を改めて荒尾は言い出(いだ)せり。「どうも僕は不思議でならんが、停車場(ステーション)で間を見たよ。間に違いないのじや」。唯(ただ)の今、陰ながらその健康を祷(いの)りし蒲田は拍子を抜かして彼の面(おもて)を眺めたり。「ふう、それは不思議。他(むこう)は気が着かなんだかい」。「始めは待合所の入り口の所で些(ちょっ)と顔が見えたのじや。余り意外じゃったから、僕は思わず長椅子(ソファ―)を起つと、もう見えなくなつた。それから有間(しばらく)して又偶然(ふっと)見ると、又見えたのじや」。甘「探偵小説だ」。荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切って歩場(プラットホーム)へ入るまで見えなかったのじやが、入って少し来てから、どうも気になるから振返って見ると、傍(そば)の柱に僕を見て黒い帽を揮(ふ)っとる者がある、それは間よ。帽を揮っとったから間に違いないじゃないか」。横浜! 横浜!と或は急に、或るいは緩(ゆる)く叫ぶ声の窓の外面(そとも)を飛び過(すぐ)るとともに、響は雑然として起り、迸(ほとばし)り出(い)づる、群集は玩具箱(おもちゃばこ)を覆(かえ)したる如く、場内の彼方(かなた)より轟(とどろ)く鐸(ベル)の音(ね)は響と混雑との中を貫きて奔注せり。 |
☆昨七日(さくなぬか)イ便の葉書にて(飯田町(いいだまち)局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム(あるい)はベルクリイムの傍訓有度(ありたく)との言を貽(おく)られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊(いささ)か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用いむと思いしかど、かかる造語は憖(なまじい)に理詰ならむよりは、出まかせの可笑(おかし)き響あらむこそ可(よ)かめれとバイスクリイムとも思い着きしなり。意(こころ)は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗(くだくだ)しさを嫌いて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者(きょうごうしゃ)の思い僻(ゆが)めてん字(じ)は添えたるなり。陋(いや)しげなるびじクリイムの響きの中(うち)には嘲弄(とうろう)の意も籠(こも)らむとてなり。なお高諭(こうゆ)を請(こ)う(三〇・九・八附読売新聞より) |
【中編第二章】 |
柵(さく)の柱の下(もと)にありて帽を揮(ふ)りたりしは、荒尾が言(ことば)の如く、四年の生死(しょうし)を詳悉(つまびらか)にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自(みづか)らの影を晦(くらま)し、その消息をさえ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略(あらまし)を伺うことを怠らざりき。こ回(たび)その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所(よそ)ながら暇乞(いとまごい)もし、二つには栄誉の錦(にしき)を飾れる姿をも見んと思いて、群集に紛れてここには来(きた)りしなりけり。 |
何の故に間は四年の音信(おとづれ)を絶ち、又何の故にさしも懐(おもい)に忘れざる旧友と相見て別を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自から解釈せらるべし。柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独り間貫一のみにあらず、そこもとに聚(つど)いし老若貴賤の男女(なんにょ)は皆な個々の心をもて、愁うるもの、楽しむもの、虞(きづか)うもの、或るいは何とも感ぜぬものなど、品変われども目的は一(いつ)なり。数分時の混雑の後車の出づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久しう立ち尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんように彼の漸(ようや)く踵(きびす)を旋(めぐら)せし時には、推し重なるまでに柵際(さくぎわ)に聚(つど)いし衆(ひと)は殆(ほとん)ど散り果てて、駅夫の三四人が箒(ほうき)を執りて場内を掃除せるのみ。 |
貫一は差し含(ぐま)るる涙を払いて、独り後(おく)れたるを驚きけん、遽(にわか)に急ぎて、蓬莱橋口(ほうらいばしぐち)より出(い)でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。「間さん!」。慌(あわ)てて彼の見向く途端に、「些(ちょっ)と」と戸口より半身を示して、黄金(きん)の腕環の気爽(けざやか)に耀(かがや)ける手なる絹ハンカチイフに唇辺(くちもと)を掩(おお)いて束髪の婦人の小腰を屈(かが)むるに会えり。艶(えん)なる面(おもて)に得も謂(い)われず愛らしき笑みをさえ浮べたり。「や、赤樫(あかがし)さん!」。婦人の笑みもて迎うるには似ず、貫一は冷然として眉だに動かさず。「好(よ)い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事ができましたので、まあ、些(ちょっ)とこちへ」。婦人は内に入れば、貫一も渋々跟(つ)いて入るに、長椅子(ソファー)に掛(かく)れば、止むなくその側(そば)に座を占めたり。「実はあの保険建築会社の小車梅(おぐるめ)の件なのでございますがね」。彼は黒樗文絹(くろちょけん)の帯の間を捜(さぐ)りて金側時計を取り出(いだ)し、手早く収めつつ、「貴方(あなた)どうせ御飯前でいらっしやいませう。ここでは、御話しもできませんですから、何方(どちら)へかお供を致しませう」。紫紺塩瀬(しおぜ)に消金(けしきん)の口金(くちがね)打ちたる手鞄(てかばん)を取り直して、婦人はやおら起上(たちあが)りつ。迷惑は貫一が面に顕(あらわ)れたり。「何方へ?」。「解りませんですから貴方のお宜(よろし)い所へ」。「私にも解りませんな」。「あら、そんな事を仰有(おっしゃ)らずに、私は何方でも宜しいのでございまい」。荒布革(あらめがわ)の横長なる手鞄を膝の上に掻き抱(いだ)きつつ貫一の思案せるは、その宜き方(かた)を択ぶにあらで、倶(とも)に行くをば躊躇(ちゅうちょ)せるなり。「まあ、何にしても出ませう」。「さよう」。 |
貫一も今は是非なく婦人に従いて待合所の出会頭(であいがしら)に、入来(いりく)る者ありて、その足尖(つまさき)を挫(ひし)げよと踏み付けられぬ。驚き見れば長(たけ)高き老紳士の目尻も異(あやし)く、満枝の色香に惑いて、これは失敬、意外の麁相(そそう)をせるなりけり。彼は猶(なお)懲(こ)りずまにこの目覚(めざまし)き美形(びけい)の同伴をさえ暫(しばら)く目送(もくそう)せり。二人は停車場(ステーション)を出でて、指す方(かた)もなく新橋に向えり。「本当に、貴方、何方へ参りませう」。「私は、何方でも」。「貴方、何時までもそんな事を言っていらしってはきりがございませんから、好い加減に極(き)めようでは御坐いませんか」。「さよう」。満枝は彼の心進まざるを暁(さと)れども、勉(つと)めて吾意(わがい)に従わしめんと念(おも)えば、さばかりの無遇(ぶあしらい)をも甘んじて、「それでは、貴方、鰻![]() ![]() |
この時貫一は始めて満枝の面に眼(まなこ)を移せり。百(もも)の媚(こび)を含みて![]() |
懼(おそ)れたるにもあらず、困(こう)じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色(けしき)にて貫一の容(かたち)さえ慎(つつま)しげに黙して控えたるは、かかる所にこの人と共にとは思い懸けざる為体(ていたらく)を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早く満枝が好きに計いて、少頃(しばし)は言(ことば)なき二人が中に置れたる莨盆(たばこぼん)は子細らしう一![]() |
「いや、私は日本莨は一向いかんので」。言いも訖(おわ)らぬ顔を満枝は熟(じっ)と視(み)て、「決して穢(きたな)いのでは御坐いませんけれど、つい心着(つ)きませんでした」。懐紙(ふところがみ)を出(いだ)してわざとらしくその吸口を捩拭(ねじぬぐ)えば、貫一も少しく慌(あわ)てて、「決してそう云う訳じゃありません、私は日本莨は用いんのですから」。満枝は再び彼の顔を眺めつ。「貴方、嘘をお吐(つ)きなさるなら、もう少し物覚(ものおぼえ)を善く遊ばせよ」。「はあ?」。「先日鰐淵(わにぶち)さんへ上った節、貴方召上っていらしったではございませんか」。「はあ?」。「瓢箪(ひょうたん)のような恰好(かっこう)のお煙管で、そうして羅宇(らう)の本(もと)に些(ちょっ)と紙の巻いてございました」。「あ!」と叫びし口は頓(とみ)に塞(ふさ)がざりき。満枝は仇無(あどな)げに口を掩(おお)いて笑えり。この罰として貫一は直(ただち)に三服の吸付莨を強(し)いられぬ。 |
とかくする間(ま)に盃盤(はいばん)は陳(つら)ねられたれど、満枝も貫一も三盃(ばい)を過し得ぬ下戸(げこ)なり。女は清めし猪口(ちょく)を出(いだ)して、「貴方、お一盞(ひとつ)」。「いかんのです」。「又そんな事を」。「今度は実際」。「それでは麦酒(ビール)に致しませうか」。「いや、酒は和洋ともいかんのですから、どうぞ御随意に」。酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑(すす)めて酌せんとこそあるべきに、甚(はなはだし)い哉、彼の手を束(つか)ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思えり。「私も一向不調法なのでございますよ。折角差し上げたものですからお一盞(ひとつ)お受け下さいましな」。貫一は止むなくその一盞を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言いし用談に及ばざれば、「時に小車梅(おぐるめ)の件と云うのはどんな事が起りましたな」。「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」。彼は忽ち眉を攅(あつ)めて、「いやそんなに」。「それでは私が戴(いただ)きませう、恐れ入りますがお酌を」。「で、小車梅の件は?」。「その件の外(ほか)にまだお話があるのでございます」。「大相ありますな」。「酔はないと申上げ難(にく)い事なのですから、私少々酔いますから貴方、憚様(はばかりさま)ですが、もう一つお酌を」。「酔っちや困ります。用事は酔わん内にお話し下さい」。「今晩は私酔う意(つもり)なのでございますもの」。 |
その媚(こび)ある目の辺(ほとり)は漸(ようや)く花桜の色に染みて、心楽しげに稍(やや)身を寛(ゆるや)かに取り成したる風情(ふぜい)は、実(げ)に匂いなど零(こぼ)れぬべく、熱しとて紺の絹精縷(きぬセル)の被風(ひふ)を脱げば、羽織はなくて、粲然(ぱっ)としたる紋御召の袷(あわせ)に黒樗文絹(くろちょろけん)の全帯(まるおび)、華麗(はなや)かに紅(べに)の入りたる友禅の帯揚(おびあげ)して、鬢(びん)の後(おく)れの被(かか)る耳際(みみぎわ)を掻き上ぐる左の手首には、早蕨(さわらび)を二筋(ふたすじ)寄せて蝶の宿れる形(かた)したる例の腕環の爽(さわや)かに晃(きらめ)き遍(わた)りぬ。常に忌(いまわ)しと思える物をかく明々地(あからさま)に見せつけられたる貫一は、得堪(えた)うまじく苦(にが)りたる眉状(まゆつき)して密(ひそか)に目を![]() |
彼を識(し)れりし者は定めて見咎(みとが)むべし、彼の面影は尠(すくな)からず変りぬ。愛らしかりしところは皆な失(う)せて、四年(よとせ)に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自づから暗き陰を成してその面を蔽(おお)えり。撓(たゆ)むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色(がんしょく)の表に動けども、嘗(かっ)て宮を見しようの優しき光は再びその眼(まなこ)に輝かずなりぬ。見ることの冷(ひやや)かに、言うことの謹(つつし)めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎(な)るるを憚(はばか)れば、自(みづか)らもまた苟(いやしく)も親しみを求めざるほどに、同業者は誰も誰も偏人として彼を遠ざけぬ。焉(いづく)んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失いし身のいかで狂人たらざりしかを怪(あやし)むなりけり。 |
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃(さかづき)を重ぬる体(てい)を打ち目戍(まも)れり。「もう一盞(ひとつ)戴きませうか」。笑みを漾(ただ)うる眸(まなじり)は微醺(びくん)に彩られて、更に別様の媚(こび)を加えぬ。「もう止したがよいでせう」。「貴方が止せと仰有(おっしゃ)るなら私はよします」。「敢えてよせとは言いません」。「それじゃ私酔いますよ」。答なかりければ、満枝は手酌(てじゃく)してその半ばを傾けしが、見る見る頬の麗く紅(くれない)になれるを、彼は手もて掩(おお)いつつ、「ああ、酔いましたこと」。貫一は聞かざる為(まね)して莨を燻(くゆ)らしいたり。「間さん、……」。「何ですか」。「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」。「それをお聞き申す為に御同道したのじゃありませんか」。満枝は嘲(あざけ)らむが如く微笑(ほほえ)みて、「私何だか酔っておりますから、或るいは失礼なことを申し上げるかも知れませんけれど、お気に障(さ)えては困りますの。しかし、御酒(ごしゅ)の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意(つもり)で、宜(よろし)うございますか」。「撞着(どうちゃく)しているじゃありませんか」。「まあそんなに有仰(おっしゃ)らずに、高(たか)が女の申すことでございますから」。こは事難(ことむづかし)うなりぬべし。克(かな)わぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱(こまぬ)きつつ俯目(ふしめ)になりて、力(つと)めて関わらざらんように持て成すを、満枝は擦り寄りて、「これお一盞(ひとつ)で後は決してお強い申しませんですから、これだけお受けなすって下さいましな」。 |
貫一は些(さ)の言(ことば)も出(いだ)さでその猪口(ちょく)を受けつ。「これで私の願いは届きましたの」。「易(やす)い願いですな」と、あわや出(い)でんとせし唇を結びて、貫一は纔(わづか)に苦笑して止みぬ。「間さん」。「はい」。「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方にまだお長くいらっしゃるお意(つもり)なのですか。しかし、いずれ独立あそばすので御坐いませう」。「勿論です」。「そうして、まず何頃(いつごろ)彼方(あちら)と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」。「資本のようなものが少しでもできたらと思っています」。満枝は忽ち声を斂(おさ)めて、物思わしげに差し俯(うつむ)き、莨盆の縁(ふち)をば弄(もてあそ)べるように煙管(きせる)もて刻(きざみ)を打ちていたり。折しも電燈の光の遽(にわか)に晦(くら)むに驚きて顔を挙(あぐ)れば、又旧(もと)の如く一間(ひとき)は明かるうなりぬ。彼は煙管を捨てて猶(なお)暫(しば)し打ち案じたりしが、「こんな事を申上げては甚(はなは)だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方にいらっしゃるよりは、早く独立あそばした方が宜しいでは御坐いませんか。もし明日にもそうと云う御考えでいらっしゃるならば、私……こんな事を申しては……烏滸(おこ)がましいので御坐いますが、大した事はできませんけれど、都合のできるだけは御用達申して上げたいのでございますが、そう遊ばしませんか」。意外に打れたる貫一は箸(はし)を扣(ひか)えて女の顔を屹(きっ)と視(み)たり。「そう遊ばせよ」。「それはどう云う訳ですか」。実に貫一は答に窮せるなりき。「訳ですか?」と満枝は口籠(ごも)りたりしが、「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だって何時までも赤樫(あかがし)に居たいことはないじゃございませんか。そう云う訳なのでございます」。「全然(さっぱり)解らんですな」。「貴方、ようございますよ」。恨(うらめ)しげに満枝は言(ことば)を絶ちて、横膝に莨を拈(ひね)りいたり。 |
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」。貫一が飯桶(めしつぎ)を引寄せんとするを、はたと抑えて、「お給仕なれば私致します」。「それは憚様(はばかりさま)です」。満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀をそれに伏せて、あなたの壁際に推し遣(や)りたり。「まだお早うございますよ。もうお一盞召上れ」。「もう頭が痛くて克(かな)わんですから赦(ゆる)して下さい。腹が空いているのですから」。「お餒(ひもじ)いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛(つら)うございませう」。「知れた事ですわ」。「さうでございませう。それなら、こちらで思っていることが全(まる)で先方(さき)へ通らなかったら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐(はるか)に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすって下さいましな」。「返事と言はれたって、有仰(おっしゃ)ることの主意が能く解らんのですもの」。「何故(なぜ)お了解(わかり)になりませんの」。責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰(なじ)るが如く見返しつ。「解らんじゃありませんか。親しい御交際の間でもない私に資本を出して下さる。そうしてその訳はと云えば、貴方も彼処(あすこ)を出る。解らんじゃありませんか。どうか飯を下さいな」。「解らないとは、貴方、お酷いじゃございませんか。ではお気に召さないのでございますか」。「気に入らんと云う事はありませんが、縁もない貴方に金を出して戴く……」。「あれ、その事ではございませんてば」。「どうも非常に腹が空(す)いて来ました」。「それとも貴方外(ほか)にお約束でも遊ばした御方がお在(あん)なさるのでございますか」。彼終(つい)に鋒鋩(ほうぼう)を露(あらわ)し来(きた)れるよと思えば、貫一は猶(なお)解せざる体(てい)を作(な)して、「妙な事を聞きますね」と苦笑せしのみにて続く言(ことば)もあらざるに、満枝は図を外(はず)されて、やや心惑えるなりけり。「そう云うようなお方がお在(あん)なさらなければ、……私貴方にお願いがあるのでございます」。貫一も今は屹(きっ)と胸を据えて、「うむ、解りました」。「ああ、お了解(わかり)になりまして?!」。嬉しと心を言えらんようの気色(けしき)にて、彼の猪口(ちょく)に余(あま)せし酒を一息(ひといき)に飲み乾(ほ)して、その盃をつと貫一に差せり。「又ですか」。「是非!」。発(はずみ)に乗せられて貫一は思わず受(うく)ると斉(ひとし)く盈々(なみなみ)注(そそ)がれて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜(よろこび)!「その盃は清めてございませんよ」。一々底意ありて忽諸(ゆるがせ)にすべからざる女の言を、彼はいと煩(わずらわし)くて持て余せるなり。「お了解(わかり)になりましたら、どうぞ御返事を」。「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」。僅(わずか)にかく言い放ちて貫一は厳(おごそ)かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔いを冷(さま)して、彼の気色(けしき)を候(うかが)いたりしに、例の言(ことば)寡(すくな)る男の次いでは言わざれば、「私もこんな耻(はずかし)い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」。貫一は緩(ゆるや)かに頷(うなづ)けり。「女の口からこう云う事を言い出しますのは能々(よくよく)の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰(おっしゃ)って、どうぞ十分に私が得心の参るようにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」。 |
「御尤も(ごもっとも)です。私のような者でもそんなに言って下さると思えば、決して嬉しくないことはありません。ですから、そのご親切に対して裏(つつ)まず自分の考量(かんがえ)をお話申します。けれど、私はご承知の偏屈者でありますから、衆(ひと)とは大きに考量が違っております。第一、私は一生妻(さい)という者は決して持たん覚悟なので。ご承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷(や)めて、この商売を始めたのは、放蕩(ほうとう)で遣(や)り損なったのでもなければ、敢えて食い窮(つ)めた訳でもありませんので。書生が厭(いや)さに商売を遣ろうと云うのなら、まだ外(ほか)に幾多(いくら)も好い商売はありますさ、何を好んでこんな極悪非道な、白日(はくじつ)を盗(とう)を為すと謂(い)おうか、病人の喉口(のどくち)を干すと謂(い)おうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪い取る高利貸しなどを択(えら)むものですか」。 |
聴き居る満枝は益(ますます)酔いを冷やされぬ。「不正な稼業と謂うよりは、もう悪事ですな。それを私が今日(こんにち)始めて知ったのではない、死って身を堕(おと)したのは、私は当時敵手(さき)を殺して自分も死にたかったくらい無念極まる失望をした事があったからです。その失望と云うのは、私が人を頼みにしておった事があって、その人達も頼れなければならん義理合いになっておったのを、不図とした欲に誘われて、義理は捨てる、そうして私は見事に売られたのです」。 |
「火影(ひかげ)を避けんとしたる彼の目の中に俄(にわ)かに輝けるは、なお新たなる痛恨の涙の浮かべるなり。「実に頼み少ない世の中で、その義理も人情も忘れて、罪もない私の売られたのも、原(もと)はと云えば、金銭(かね)からです。仮初(かりそめ)にも一匹の男子たる者が、金銭の為に見易(みか)えられたかと思えば、その無念と云うものは、私は一(い)-----一生忘れられんです。軽薄でなければ詐(いつわり)、詐でなければ利欲、愛相(あいそう)の尽きた世の中です。それほど厭な世の中なら、なぜ一思いに死んで了わんか、と或いはご不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障りになって死に切れんのです。売られた人たちを苦しめるようなそんな復讐なぞしたくはありません、唯自分だけでよいから、一旦受けた恨み!それだけは屹(きっ)とはらさなければ措かん精神。片時でもその恨みを忘れることのできん胸中と云うものは、我ながらそう思いますが、全(まる)で発狂しているようですな。 |
それで、高利貸のような残刻の甚だしい、殆ど人を殺すほどの度胸を要する事を毎日扱って、そうして感情を暴(あら)していなければとても堪えられんので、発狂者には適当の商売です。金銭ゆえに売られもすれば、辱(はずか)しめられもした、金銭のないのも謂わば無念の一つです。その金銭があったら何とでも恨みがはらされようか、とそれを楽しみに義理も人情も捨てて掛かって、今では名誉も色恋もなく、金銭より外には何の望みも持たんのです。又考えてみると、なまじい人などを信じるよりは、金銭の方がはるかに頼みになりますよ。頼りにならんのは人の心です! 先ずこう云う考えでこの商売に入ったのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣ろうとおっしゃる資本は欲しいが、人間の貴方には用がないのです」。 |
彼は仰ぎて高笑いしつつも、その面は痛く激したり。満枝は、彼の言(ことば)の決して譌(いつわり)ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実(げ)にさるべき所見(かんがえ)を懐けるも怪しむには足らずと思えるなり。されども、彼はまだ恋の甘きを知らざるが故に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉を閉じて、詐(いつわり)と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁(さと)らざるならん。やがて我そを教えんと、満枝は輙(たやす)く望みを失わざるなりき。「では何でございますか、私の心もやはり頼りにならないとお疑い遊ばすのでございますか」。「疑う、疑わんと云うのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌いで、総(すべ)ての人間を好まんのですから」。「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思う者がございましても?」。「勿論! 別して惚れたの、思うのと云う事は大嫌いです」。「あの、命を懸けて慕っているというのがお了解(わかり)になりましても」。「高利貸の目には涙はないですよ」。 |
今は取りつく島もなくて、満枝は暫(しば)し惘然(ぼうぜん)としていたり。「どうぞ御飯を頂戴」。打ち萎(しお)れつつ満枝は飯(めし)を盛りて出(いだ)せり。「これは恐れ入ります」。彼は啖(くら)うこと傍(かたわら)に人なき若(ごと)し。満枝の面は薄紅(うすくれない)になお酔いはありながら、酔える体(てい)もなくて、唯打ち案じたり。「貴方も上りませんか」。かく会釈して貫一は三盃目(さんばいめ)を易(か)えつ。ややありて、「間さん」と、呼ばれし時、彼は満口に飯を啣(ふく)みて遽(にわか)に応(こた)うる能(あた)わず、唯目を挙げて女の顔を見たるのみ。「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知のない時には、とそれ等を考えまして、もう多時(しばらく)胸に畳んでおったのでございます。それまで大事を取っておりながら、こう一も二もなく奇麗にお謝絶(ことわり)を受けては、私実に面目なくて……余(あんま)り悔(くやし)うございますわ」。慌忙(あわただし)くハンカチイフを取りて、片手に恨み泣きの目元を掩(おお)えり。「面目なくて私、この座が起(たた)れません。間さん、お察し下さいまし」。 |
貫一は冷々(ひややか)に見返りて、「貴方一人を嫌ったと云う訳なら、そうかも知れませんけれど、私は総ての人間が嫌いなのですから、どうぞ悪し思って下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! そうして小車梅(おぐるめ)の件についてのお話は?」。泣き赤めたる目を拭いて満枝は答えず。「どう云うお話ですか」。「そんな事はどうでも宜しうございます。間さん、私、どうしても思い切れませんから、そう思召(おぼしめ)して下さい。で、お厭ならお厭で宜しうございますから、私がこんなに思っていることを、どうぞ何日(いつ)までもお忘れなく……きっと覚えていらっしやいましよ」。「承知しました」。「もっと優しい言(ことば)をお聞せ下さいましな」。「私も覚えています」。「もっと何とかおっしゃりようがありそうなものではございませんか」。「御志は決して忘れません。これなら宜いでせう」。満枝は物をも言わずつと起ちしが、飜然(ひらり)と貫一の身近に寄添いて、「お忘れあそばすな」と言うさえに力籠(こも)りて、その太股(ふともも)を絶(したた)か撮(つめ)れば、貫一は不意の痛に覆(くつがえ)らんとするを支えつつ横様に振り払うを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打ち鳴して婢(おんな)を呼ぶなりけり。 |
【中編第三章】 |
赤坂氷川(ひかわ)の辺(ほとり)に写真の御前と言えば知らぬ者なく、実にこの殿の出づるに写真機械を車に積みて随(したが)えざることあらざれば、自ずから人目をのがれず、かかる異名は呼ばるるにぞありける。子細を明めずしては、「将棊(しょうぎ)の殿様」の流れかとも想わるべし。あらず!才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器(うつわ)を抱きながら、五年を独逸(ドイツ)に薫染せし学者風を喜び、世事を抛(なげう)ちて愚かなるが如く、累代の富を控えて、無勘定の雅量をほしいままにすれども、なお歳(とし)の入るものを計るに正(まさ)に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春(たづみよしはる)その人なり。 |
氷川なる邸内には、唐破風(からはふ)造りの昔を摸(うつ)せる館(たち)と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦(れんが)造りの異(あやし)きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄(すき)にて、独逸に名ある古城の面影を偲(しの)びてここに象(かたど)れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充(あ)てて、万(よろ)づ足らざるなき閑日月(かんじつげつ)をば、書に耽り、画に楽しみ、彫刻を愛し、音楽に嘯(うそぶ)き、近き頃よりは専ら写真に遊びて、齢(よわい)三十四におよべども頑として未だ娶(めと)らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然(ひょうぜん)として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自らなる七万石の品格は、面白(おもてしろ)う眉秀(ひい)でて、鼻高く、眼(まなこ)爽(さわや)かに、形(かたち)の清らに揚(あが)れるは、皎(こう)として玉樹(ぎょくじゅ)の風前に臨めるとも謂う、御代々(ごだいだい)御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。 |
かかれば良縁の空(むなし)からざること、蝶を捉えんとする蜘蛛の糸より繁しといえども、反顧(かえりみ)だに為(せ)ずして、例の飄然忍びでは酔いの紛れの逸早き風流(みやび)に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌(いさ)めなどふつに用いざるなりけり。 |
さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛して、末の契りも堅く、月下の小舟に比翼の櫂(かい)を操り、スプレイの流れを指さして、この水の終に涸(か)るる日はあらんとも、我が恋の炎(ほのお)の消ゆる時あらせじ、と互いの誓詞に詐(いつわり)はあらざりけるを、帰りて母君に請うことありしに、いと太(いと)う驚かれて、こは由々しき家の大事ぞや。 |
夷狄(いてき)は□□(#「□□」は2倍の長方形)よりも賤(いや)しむべきに、畏(かしこ)くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣(きんじゅう)の檻(おり)と為すべき。あな、疎(うとま)しの吾子(あこ)が心やと、涙と共に掻き口説きて、悲しび歎きの余は病にさえ伏したまえりしかば、殿も所為無(せんな)くて、心苦しう思いつつも、猶(なお)行く末をこそ頼めと文の便りを度々に慰めて、彼方(あなた)もあるにあられぬ三年(みとせ)の月日を、憂(き)は死ななんと味気なく過ごせしに、一昨年(おととし)の秋物思う積りやありけん、心自ら弱りて、存(ながら)えかねし身の苦悩(くるしみ)を、御神(みかみ)の恵みに助けられて、導かれし天国の杳(よう)として原(たづ)ぬべからざるを、いとど懐かしの殿の胸は破れぬべく、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかわせんと、唯懐(おもい)を亡(な)き人に寄せて、形見こそ仇(あだ)ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女(かのおんな)が十九の春の色を苦(ねんごろ)に手写(しゅしゃ)して、嘗(かっ)て貽(おく)りしものなりけり。 |
殿はこの失望の極放肆(ほうし)遊惰の裏(うち)に聊(いささ)か懐(おもい)を遣(や)り、一具の写真機に千金を擲(なげう)ちてねこれに嬉戯すること少児の如く、身をも家をも外(ほか)にして、遊ぶと費すとに余念はなかりけれど、家令に畔柳元衛(くろやなぎもとえ)ありて、その人迂(う)ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴(いただ)ける田鶴見家も、幸いに些(さ)の破綻を生ずるなきを得てけり。彼は貨殖の一端として密(ひそか)に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至(ないし)一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以(も)て、高利貸の大口を引受くる輩(はい)のここに便(たよ)らんとせざるはあらず。されども慧(さかし)き畔柳は事の密なるを策の上と為して叨(みだり)に利の為に誘はれず、始めよりその藩士なる鰐淵直行(ただゆき)の一手に貸出すのみにて、他は皆な彼の名義を用いて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺(いずれ)にか金穴あるを疑わざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。 |
鰐淵の名が同業間に聞こえて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢いあるは、この資本主の後ろ盾ありて運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見家の藩士にて、身柄は謂うにも足らぬ足軽頭(がしら)に過ぎざりしが、才覚ある者なりけば、廃藩の後(のち)出(い)でて小役人を勤め、転じて商社に事(つか)え、一時或るい地所家屋の売買を周旋し、万年青(おもと)を手掛け、米屋町に出入りし、何(いづ)れにしても世渡りの茶を濁さずということなかりしかど、皆な思わしからで巡査を志願せしに、上官の守備好く、竟(つい)には警部にまで取り立てられしを、中ごろにして金(きん)これ権と感ずるところありて、奉職中蓄えたりし三百余円を元に高利貸を始め、世間のいまだにこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或いは欺き、或いは嚇(おど)し、或いは賺(すか)し、或いは虐(しいた)げ、纔(わづか)に法網を潜り得て辛くも縄付きたらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比(ころ)、あだかも好し、畦柳の後見を得たりしは、虎に翼を添えたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆ど数万に上るとぞ聞こえし。 |
畔柳はこの手より穫(とりい)るる利の半ばは、これを御殿の金庫に致し、半ばはこれを懐(ふところ)にして、鰐淵もこれに因りて利し、金は一(一)にしてその利を三にせる家令が家令が六臂(ろっぴ)の働きは、主公が不生産的なるを補いて猶(なお)余りありとも謂うべくや。 |
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨て鉢(ばち)の身を寄せて、牛頭馬頭(ごずめず)の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年(よとせ)の今日まで寄寓せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与えられて、名は雇い人なれども客分に遇(あつか)われ、手代となり、顧問となりて、主(あるじ)の重宝大方ならざれば、四年(よとせ)の久しきに弥(わた)れども彼を出(いだ)すことを喜ばず、彼もまた家を構うる必要もなければ、敢えて憖(なまじ)いにここを出でい痩せ臂(ひじ)を張らんよりは、然るべき時節の到来を待つには如かずと分別せるなり。 |
彼は啻(ただ)に手代として能く働き、顧問として能く慮(おもんばか)るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢(よわい)を以ってして、色を近づけず、酒に親しまず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、なすべきは必ず為して、己(おのれ)を衒(てら)わず、他(ひと)を貶(おとし)めず、恭謹にしてしかも気節に乏しからざるなど、世に難有(ありがた)き若者なり、と鰐淵は心陰(ひそか)に彼を畏(おそ)れたり。 |
主(あるじ)は彼の人(人となり)を知りし後(のち)、かくの如き人の如何にして高利貸などや志せると疑いしなり。 |
貫一は己の履歴を詐(いつわ)りて、如何なる失望の極身をこれに墜(おと)せしかを告げざるなりき。 |
されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕(あらわ)れにき。他の一事の秘に至りては、今もなお主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿(せんさく)もせられで、やがては、暖簾(のれん)を分けて屹(きっ)年たる後見(うしろみ)は為てくれんと、鰐淵は常に疎かならず彼の身を念(おも)いぬ。 |
直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯(みね)は四十六なり。夫は心猛(たけ)く、人の憂いを見ること、犬の嚏(くさめ)の如く、唯貪りて![]() |
彼も貫一の偏屈なれども律儀に、愛すべきところとてはなけれど、憎ましきところとては猶更(なおさら)にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。 |
いと幸(さち)ありける貫一が身の上哉(かな)。彼は世を恨むる余りその執念の駆るままに、人の生ける肉を啖(くら)い、以って聊(いささ)か逆境に暴(さら)されたりし枯膓(こちょう)を癒(いや)さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起せる心中には、百の呵責(かしゃく)も、千の苦艱(くげん)も固(もと)より期(ご)したるを、なかなかかかる寛(ゆた)かなる信用と、かかる温かき憐愍(れんみん)とを被(こうむ)らんは、羝羊(ていよう)の乳(ち)を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉、彼はこの喜こびを如何に喜びけるか。今は呵責をも苦艱(くげん)をも敢えて悪(にく)まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終(つい)には慾の為に剥(は)がされ、この憐愍も利の為に吝(おし)まるる時の目前なるべきを固く信じたり。 |
【中編第三章の二】 |
毒は毒を以て制せらる。鰐淵が債務者中に高利借の名にしおう某(ぼう)党の有志家某あり。彼は三年来生殺しの関係にて、元利五百余円の責(せめ)を負いながら、奸智(かんち)を弄し、雄弁を揮(ふる)い、大胆不敵に構えて出没自在の計(はかりごと)を出(いだ)し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところなかりければ、同業者のこれに係りては、逆捩を吃ひて血反吐を噴されし者尠からざるを、鰐淵は弥よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿も折れぬべきに持余しつるを、克はぬまでも棄措くは口惜ければ、せめては令見の為にも折々釘を刺して、再び那奴の翅を展べしめざらんに如かずと、昨日は貫一の曠らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。 |
彼は散々に飜弄せられけるを、劣らじと罵りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣らで壮に言争ひしが、病者に等き青二才と侮りし貫一の、陰忍強く立向ひて屈する気色あらざるより、有合ふ仕込杖を抜放し、おのれ還らずば生けては還さじと、二尺余の白刃を危く突き付けて脅せしを、その鼻頭に待ひて愈よ動かざりける折柄、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来にけるが、これが為に彼の感じ易き神経は甚く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転た勝れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠れるなりけり。 かかることありし翌日は夥く脳の憊るるとともに、心乱れ動きて、その憤りし後を憤り、悲みし後を悲まざれば已まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故に彼は折に触れつつその体の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざることなし。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸く慣れてけれど、彼の心は決してこの悪を作すに慣れざりき。唯能く忍び得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来終天の失望と恨との一日も忘るる能はざるが為に、その苦悶の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或は人の加ふる侮辱に堪へずして、神経の過度に亢奮せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙を得ることあり。 |
朗に秋の気澄みて、空の色、雲の布置匂はしう、金色の日影は豊に快晴を飾れる南受の縁障子を隙して、爽なる肌寒の蓐に長高く痩せたる貫一は横はれり。蒼く濁れる頬の肉よ、![]() 髪は薄けれど、櫛の歯通りて、一髪を乱さず円髷に結ひて顔の色は赤き方なれど、いと好く磨きて清に滑なり。鼻の辺に薄痘痕ありて、口を引窄むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅めたるが、かかるをや烏羽玉とも謂ふべく殆ど耀くばかりに麗し。茶柳条のフラネルの単衣に朝寒の羽織着たるが、御召縮緬の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、「何為ですか」。お峯は羽織の紐を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅へる風情なるを、強ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃なる栗を取りて剥きゐたり。彼は姑く打案ぜし後、「あの赤樫の別品さんね、あの人は悪い噂があるぢやありませんか、聞きませんか」。「悪い噂とは?」。「男を引掛けては食物に為るとか云ふ……」。貫一は覚えず首を傾けたり。曩の夜の事など思合すなるべし。「さうでせう」。「一向聞きませんな。那奴男を引掛けなくても金銭には窮らんでせうから、そんな事はなからうと思ひますが……」。「だから可けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭があるから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」。「はて、な」。「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところはない、へお貸しなさい」。「これは憚様です」。 |
お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々と手を束ねてあらんより、事に紛らしつつ語るの便あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択みて、その頂よりナイフを加へつ。「些と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人だからよいけれど、本当にあんな者に係合ひでもしたら大変ですよ」。「さう云ふ事がありますかな」。「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事はなからうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣ると云ふのは評判ですよ。金窪さん、鷲爪さん、それから芥原さん、皆その話をしてゐましたよ」。「或はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成る程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」。「外の人にはこんな話はできません。長年気心も知り合つて家内の人も同じのお前さんの事だから、私もお話をするのですけれどね、困つた事ができて了つたの――どうしたらよからうかと思つてね」。お峯がナイフを執れる手は漸く鈍くなりぬ。「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」。「非常ですな」。「虫が付いちやいけません! 栗には限らず」。「さうです」。お峯は又一つ取りて剥き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運は愈よ等閑なりき。「これは本当にお前さんだから私は信仰して話をするのですけれど、きりの話ですからね」。「承知しました」。 |
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自から潜りぬ。「どうも私はこの間から異いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫があの別品さんに係合をつけてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違いないの!」。彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑して、「そんな馬鹿な事が、貴方……」。「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房の私が……それはもう間違いなしよ!」。貫一は熟と思ひ入りて、「旦那はお幾歳でしたな」。「五十一、もう爺ですわね」。彼は又思案して、「何ぞ証拠がありますか」。「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違いないの![]() ![]() |
お峯は彼が然諾の爽なるに遇ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧く覚ゆるなり。「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、し行つたのなら、何頃行つて何頃帰つたか、なあに、十に九まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つできたのですから」。「では行つて参りませう」。彼は起ちて寝衣帯を解かんとすれば、「お待ちなさいよ、今俥を呼びに遣るから」。かく言捨ててお峯は忙く階子を下行けり。迹に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、「女房に振られて、学士に成り損つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」と端無く思ひ浮べては漫に独り打笑れつ。 |
(私論.私見)