続々編2

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【続々編第四章】
 両箇ふたりはやや熱かりしその日も垂籠たれこめてゆふべいたりぬ。むづかしげに暮山ぼさんめぐりし雲は、果して雨と成りて、冷々ひやひや密下そぼふるほどに、宵の燈火ともしびも影けて、壁にうつろふ物の形皆な寂しく、なまじひに起きてあるべき夜頃よごろならず。さては貫一もに就きたり。ラムプを細めたる彼らの座敷もはなはだ静に、宿の者さへ寐急ねいそぎて後十一時は鳴りぬ。すさまじき谷川の響に紛れつつ、小歇をやみもせざる雨の音の中に、かの病憊やみつかれたるやうの柱時計は、息も絶気たゆげに半夜を告げわたる時、両箇ふたりねやともしたちまあきらかに耀かがやけるなり。彼らはともに起出でて火鉢ひばちの前にあり。「ぜんを持つて来ないか」。「ええ」。女は幺微かすかなる声して答へけれど、打萎うちしをれて、なかなか立ちもらず。「狭山さん、は何だか貴方あなたに言残した事がだあるやうな心持がして……」。「ああ、もうかう成つちやお互に何も言はないがい。言へばやつぱり未練が出る」。彼は内向うつむきて、目を閉ぢたり。「貴方、その指環を私のと取替事とりかへつこして下さいね」。「さうか」。おのおのその手にあるを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、※(「てへん+鐶のつくり」、第3水準1-85-3)をはりてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。

 と鳴りて雨は一時ひとしきりしげそそきたれり。「ああ、大相降つて来た」。「貴方は不断から雨が所好すきだつたから、きつとそれで……いとま……ごひに降つて来たんですよ」。「好い折だ。あの雨をさかなに……お静、もう覚悟を為ろよ!」。「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」。「酒を持つて来な」。「あい」。お静も今は心を励して、宵の程あつらへ置きし酒肴しゆこう床間とこのまに上げたるを持来もてきて、両箇ふたりが中に膳を据れば、男は手早くかんして、そのおのおの服をあらたむるせはしさは、たちまきぬり、帯の鳴る音高く※(「糸+卒」、第4水準2-84-39)さやさや[#「糸+察」、436-13]と乱れ合ひて、うたた雨こまやかなる深夜をおどろかせり。「ええ、もうかない!」。帯緊おびしめながら女はそのを振りて身悶みもだえせるなり。「どうしたのだ」。「なあにね、帯がこんなにばつて了つて」。「帯が結ばつた?」。「ああ! あなたいて下さい、よう」。「何かい事があるのだ」。「私はもしも遣損やりそこなつて、はぢでもさらすやうな事があつちやと、それが苦労に成つてたまらなかつたんだから、これでもう可いわ」。「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事はないとは念ふけれど、運悪く遅れたら、はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」。つとしたるお静は、男の膝をみて泣きぬ。「その代り、ひよつとしてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……たましひはおまへの陰身かげみを離れないから、必ず心変こころがはりを……す、するなよ、お静」。「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」。「一処に往くとも!」。「一処に! 一処に往きますよ!」。「さあ、それぢやこ、この世の……別れに一盃いつぱい飲むのだ。もう泣くな、お静」。「泣、泣かない」。「さあ、那裏あすこへ行つて飲まう」。
 男は先づ起ちて、女の手をれば、女はその手にすがりつつ、泣く泣く火鉢のそばに座を移しても、なほ離難はなれがたなに寄添ひゐたり。「猪口ちよくでなしに、その湯呑ゆのみに為やう」。「さう。ぢや半分づつ」。熱燗あつがんの酒は烈々れつれつくんじて、お静がふるふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。女の最も悲かりしは、げにこの刹那せつなの思なり。彼は人の為に酒をたすくるにならひし手も、などや今宵の恋の命も、はかなき夢か、うたかたの水盃みづさかづきのみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、うたにも似たる身の上かなと、そぞろせまる胸の内、何にたとへんかたもあらず。男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時しばし手にせるままにながめゐれば、よし今は憂くも苦くも、く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、わづか一盃いつぱいの酒に対するも、又哀別離苦あいべつりくの感なき能はざるなり。おもへ、彼らの逢初あひそめし、互にこころ)ありてふくみしもこの酒ならずや。更に両個ふたりの影に伴ひて、人のの必ずこまやかなれば、必ずかうばしかりしもこの酒ならずや。その恋中のしみを添へて、三歳みとせうさはらせしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期まつごむくゆるの、可哀あはれに余り、可悲かなしきにすぐるを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々ほろほろと散りてこぼれぬ。「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」。「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情ふぜいで死んで了ふのが……くやしい、私は!」。聞くも苦しと、男は一息に湯呑のあふりて、「さあ、お静」。女は何気なく受けながら、思へば、別のさかづきかと、手に取るからに胸潰むねつぶれて、「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者ふつつかもの我儘者わがままものを、能くも愛相あいそを尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有ありがたいと思つてゐました。その御礼をしたいにも、知つてゐる通りの阿母おつかさんがあるばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事もできず、本当ほんと可恥はづかしいほど行届かないだらけで、これぢやあんまり済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しをしませうと、私は、そればかりをしみに、できない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも…………みづの……泡。つい心易立こころやすだてから、浸々しみじみお礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」。

 男は身をも
しぼらるるばかりにこらへかねたる涙をいだせり。「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路よみぢさはりだ。両箇ふたりが一処に死なれりや、それで不足はないとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」。「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」。涙諸共もろとも飲み干して、「あなた、一つお酌して下さいな」。げば又あふりて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手をりて、顔見合せて、抱緊だきしめて、惜めばいよいよ尽せぬ名残を、いかにせばやと思惑おもひまどへる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。男はいだける女の耳のあたかもくちびるに触るる時、うつつともなく声誘はれて、「お静、覚悟は可いか」。「可いわ、狭山さん」。「可けりや……」。「不如いつそもう早く」。狭山はぢきに枕の下なる袱紗包ふくさづつみ紙入かみいれを取上げて、内よりいだせる一包いつぽうの粉剤こそ、まさ両個ふたりが絶命のやいばふる者なりけれ。女は二つの茶碗を置き並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封をひらきて、男の手よりその内にわかたれぬ。「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」。「ああ可うござんす」。
 雨はこの時漸くれて、軒の玉水絶々たえだえに、怪禽かいきん鳴過なきすぐる者両三声さんせいにして、跡松風の音颯々さつさつたり。狭山はやがて銚子ちようしを取りて、一箇ひとつの茶碗に酒をそそげば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音しのびねに、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏」。代りて酌する彼の想は、吾手わがて男の胸元むなもと刺違さしちがふるきつさきを押当つるにも似たる苦しさに、おのづから洩出もれいづる声も打震ひて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無……阿弥陀……南無阿弥…………南無……」と両個ふたりは心も消入らんとする時、にはか屋鳴やなり震動しんどうして、百雷一処にちたる響に、男はたふれ、女は叫びて、前後不覚の夢かうつつの人影は、たちまあらはれて燈火ともしびの前にあり。

 「
貴方あなた方は、怪からん事を! いけませんぞ」。男は漸く我にかへりて、おどろける目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みひらき、「ああ! 貴方あなたは」。「お見覚みおぼえありませう、あれに居る泊客とまりきやくです。無断にお座敷へ入つて参りまして、はなはだ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」。悄然しようぜんとしておもてを挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個ふたりの姿を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまはしつつ、彼の答を待てり。「勿論もちろんこれには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入こみいつたお話はうけたまはらんでもよろしい、但何故ただなにゆゑに貴下方はきてをられんですか、それだけお聞せ下さい」。「…………」。「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」。男ははなはかすかうなづきつ。「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故に添われんのです」。彼は又黙せり。

 「その次第を伺つて、の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手あひてにも成らうかと、実は考へるので。しかし、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成る程活きてをられんのは御尤ごもつともだ、他人のでさへ外に道はない、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決しておとどめ申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯かいしやくもして上げます。もこの間に入つた以上は、く手を退く訳には行かんのです。貴下方をすくふ事ができるか、できんか、那一箇どつちかです。さいはひすくふ事ができたら、私は命の親。又できなかつたら、貴下方はこの世にい人。この世に亡い人なら、如何なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無さしつかへなからうと私は思ふ。し命の親とすればです、猶更なおさらその者につつみ隠す事はないぢやありませんか。私は何も洒落しやれに貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然ちやんと聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」。

【続々編第五章】
 貫一は気を厳粛おごそかにしてせまれるなり。さては男も是非なげに声いだすべき力もあらぬ口を開きて、「はい御深切に……難有ありがたう存じます……」。「さあ、お話し下さい」。「はい」。「今更おつつみなさる必要はなからう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町こうじまちの者で、はざま貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々よくよくこれは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為ふために成るやうには取計ひません。私もできる事なら、人間両個ふたりの命をすくふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄にしてみたい。私はこれ程までに申すのです」。「はい、段々御深切に、難有う存じます」。「それぢや、お話し下さるか」。「はい、お聴に入れますで御座います」。「それはかたじけない」。彼は始めて心安う座を取れば、恐るおそる狭山はづその姿を偸見ぬすみみて、「何からお話し申してよろしいやら……」。「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰おつしやる――! 何為なぜ添れんのですか」。「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分つかひ込みましたので御座います」。「はあ、御主人もちですか」。「さやうで御座います。私は南伝馬町みなみてんまちよう幸菱こうびしと申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔さやまもとすけと申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋かしわやの愛子と申しまする」。名宣なのられし女は、消えもらでゐたりし人陰のくらきよりわづかにじり出でて、面伏おもぶせにも貫一が前に会釈しつ。「はあ、成る程」。「然るところ、昨今これに身請みうけの客が附きまして」。「ああ、身請の? 成る程」。「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負ひきおひの為に、主人から告訴致されまして、きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何にとも致し方が御座いませんゆゑ、無分別とは知りつつも、つい突迫つきつめまして、面目次第も御座いません」。
 彼らはその無分別をぢたりとよりは、この死失しにぞこなひし見苦しさを、天にも地にもさらしかねて、しも仰ぎも得ざるうなじすくめ、なほも為ん方なさの目を閉ぢたり。「ははあ。さうするとここに金さへあれば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消つかひこみだつて、その金額を弁償して、よろしく御主人にびたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、こつちでも請出すまでの事。さうして、貴方の引負ひきおひ若干いくらばかりのたかに成るのですか」。「三千円ほど」。「三千円。それから身請の金は?」。狭山は女を顧みて、二言三言ふたことみこと小声に語合かたらひたりしが、「何やかやで八百円ぐらゐはりますので」。「三千八百円、それだけあつたら、貴下方は死なずに済むのですな」。打算しきたれば、真に彼らの命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらにころがつてゐやうと私は思ふ。ついては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番ひとつくはしくお話し下さらんか」。

 かかる
きはには如何ばかり嬉き人のことばならんよ。彼はそのいつはりまこととを思ふにいとまあらずして、遣る方もなき憂身うきみの憂きを、こひねがはくば跡も留めず語りてつくさんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたるして、「はい、ついに一面識も御座いません私共、ことに痴情の果に箇様かよう不始末ぶしまつ為出しだしました、ともはや申しやうもない爛死蛇やくざものに、段々と御深切のお心遣こころづかひ、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。折角の御言おことばで御座いますから、思召おぼしめしに甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆な恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。実は、只今申上げました三千円の費消つかひこみと申しますのは、究竟つまり遊蕩あそびを致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始めの内はどうなり融通もきましたので、それが病付やみつきに成つて、段々と無理を致しまして、長い間に※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)うかうか穴を開けましたのが、積り積つて大分だいぶんに成りましたので御座います。しかるところ、もう八方ふさがつて遣繰やりくりは付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦し紛まぎれに相場に手を出したのが怪我けがの元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、いよいよ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂しにものぐるひで、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒おひたふされて了ひまして、三千円と申上げました費消つかひこみも、半分以上はそれに注込みましたので御座います。しかし、これだけの事で御座いますれば、主人も従来これまで勤労つとめに免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、このたびの事は格別を以つてゆるし難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」。「成る程※(疑問符感嘆符、1-8-77)」。

 「と申すのには、少し又
仔細しさいが御座いますので。それは、主人の家内のめひに当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私にめあはせやうと云ふ意衷つもりで、前々ぜんぜんからその話はありましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延いひのばして御座いましたのを、決然いよいよどうかと云ふ手詰てづめはなし相成あひなりましたので。究竟つまり費消つかひこみは赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」。「大きに」。「そこには又千百いろいろ事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実にことわるにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘わがままを申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」。「ああ、さうなのですか」。「そこへ持つて参つて、こんどの不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、まるかたきをば恩で返してくれますやうな、申し分のない主人の所計はからひ。それをもどきましては、私はばちあたりますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何にともその気に成れませんので、むを得ず縁談の事は拒絶ことわりを申しましたので御座います」。「うむ、成る程」。「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘わがままを言ふのなら、費消つかひこみまとへ、それができずば告訴する。さうしては貴様の体に一生のきずが附く事だから、思反おもひかへして主人の指図さしずに従へと、中に人まで入れて、だまだ申してくれましたのを、どこまでも私は剛情を張り通して了つたので御座います」。

 「
ああ! それは貴方が悪いな」。「はい、もう私の善いところは一つでもあるのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置かきおきも致しましたやうな次第で、既に覚悟をきはめましたきはまで、心懸こころがかりと申すのは、唯そればかりなので御座いました。で又その最中にこれの方の身請騒みうけさわぎが起りましたので」。「成る程!」。「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあくはしく申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いたかかへも同様の取扱とりあつかひを致して、為て遣る事は為ないのが徳、かせげるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡りようけんで、長い間無理な勤をせまして、散々にしぼり取つたので御座います。で、私のある事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあやかましく言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷したやに富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」。
 「え※(感嘆符疑問符、1-8-78) 何……何……何ですか!」。「御承知で御座いますか、あの富山唯継ただつぐと云ふ……」。「富山? 唯継!」。その面色、その声音こわね! 彼は言下ごんか皷怒こどして、その名にをどかからんとするいきほひを示せば、愛子はおどろき、狭山はおそれて、何事とも知らず狼狽うろたへたり。貫一は轟く胸を推鎮おししづめても、なほ眼色まなざしの燃ゆるが如きを、両個ふたりが顔にせはしく注ぎて、「その富山唯継が身請の客ですか」。「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」。「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」。狭山の打惑うちまどそばに、女はひそかに驚く声を放てり。「那奴あいつが身請の?」。問はるる愛子は、会釈して、「はい、さやうなんで御座います」。「で、貴方は彼に退かされるのをきらつたのですな」。「はい」。「さうすると、去年の始めから貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」。「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」。「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」。「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」。「ああ、さうですか! それぢや旦那だんなに取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」。女は聞くもけがらはしと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣しりめづかひして、「私には、さう云ふ事ができませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然まるつきり)ないんで御座います」。「ああ、さうですか! うむ、成る程……成る程な……解りました、好く解りました」。狭山はうつむきゐたり。「それではかう云ふのですな、貴方はつとめを為てをつても、外の客には出ずに、この人一個ひとりを守つて――さうですね」。「さやうです」。「さうして、余所よその身請をことわつて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」。「はい」。
 ※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)たちまちひとみこらせる貫一は、愛子のおもてを熟視してまざりしが、やがてそのまなこの中に浮びて、輝くと見ればうるほひて出づるものあり。「嗚呼ああ……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」。何のゆゑとも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個ふたりあきるるのみ。貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦いつひつぷも、知らずなんぢに教へて、死にいたるまでなほこのがたき義にり、守りかたき節を守りて、つひに奪はれざる者あるに泣けるなり。その泣く所以ゆゑんなるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、たふとく優くも、高くうるはしくも、又は、まつたくも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度ひとたび目前まのあたりるを得て、その倒懸の苦をゆるうせん、と心※(「くさかんむり/熱」、第4水準2-80-7)くが如く望みたりしを、今却りて浮萍うきくさの底に沈める泥中の光にへる卒爾そつじ歓極よろこびきはまれればなり。「勿論さうなけりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さうあるべきです、さうあるべき事です。今日こんにちのこの軽薄きはまつた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決してあるものではないと念つてをつた。で、もしあつたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事はありません。私はこの通り泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事ひとごととは思はん、人事とは思はん訳があるので、別して深く感じたのです」。
 かく言ひて、貫一は忙々いそがはし鼻洟はな※(「てへん+鼾のへん」、第4水準2-13-55)うちかみつ。「ふむ、それで富山はどうしました」。「来るたびに何のかのと申しますのを、体好ていよことわるんで御座いますけれど、もう※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさく来ちや、一頻ひとつきりなんぞは毎日揚詰あげづめに為れるんで、私はふつふつ不好いやなんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうしてで利巧ぶつて、可恐おつそろしい意気がりで、二言目ふたことめには金々と、金の事さへ言へば人は難有ありがたがるものかと思つて、俺がかうとおもや千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんなあり余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、みんなが『御威光』と云ふ仇名あだなを附けて了つて、何処へ行つたつて気障きざがられてゐる事は、そりや太甚ひどいんで御座います」。「ああ、さうですか」。「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、けもしない事を不相変あひかはらず執煩しつくどく、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇こつちも剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局しまひには手をへて、内のお袋へ親談ぢかだんをして、内々話はできたんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全(まる)で気違いのやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もうはし上下あげおろしには言れますし、狭山と切れろ切れろのやかましく成りましたのも、それからなので、私はつらさは辛し、つくづくこんな家業は為る者ぢやないと、なんにも解らずに面白可笑おもしろをかしく暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身があんまりつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、とふさぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」。「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事もなくて、すぐに身請と云ふのですか」。「さうなので」。「変な奴な! さう云ふ身請の為方しかたが、しかし、ありますか」。「まあ御座いませんです」。「さうでせう。それで、身請をしてほかかこつて置かうとでも云ふのですか」。「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分はなからうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうなうれしがらせを言つちやをりましたけれど」。
 まゆげたる貫一、なぞ彼の心のうちに震ふものあらざらんや。「妻君に就いてどう云ふ話があるのですか」。「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供はなし、用には立たず、あつてもないも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気くちぶりなんで御座います」。「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」。「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなかあてにはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなであんまり内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」。「ははあ」。彼はにはかに何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」。宮の悔、宮の恨、宮のなげき、宮のしみ、宮のしみ、宮うれひ、宮が心のやまひ、宮が身の不幸、ああつひにこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今たこのあはれむに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許いかばかりさいはひにかつ愚ならざるかを思ひて、又みづからの、先にはおのれの愛する者をすくふ能はずして、今かへりて得知らぬ他人に恵みて余りある身の、幾許いかばかりさち)なくも又愚なるかを思ひて、謂ふばかりなく悲めるなり。
 時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。「そんな捫懌もんちやく最中に、狭山さんの方が騒擾さわぎに成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金がない日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚びつくらして了つて、唯もう途方にれて、これは一処に死ぬより外はないと、その時すぐにさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如いつそ富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうにしやうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのがよいか、死ぬのがよいか、とかう申すので御座いませう」。「うむ、大きに」。「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方がましだと、初中終しよつちゆう言つてをりますんですから、あんな奴に身をまかせるの、不好いやは知れてゐます」。「うむ、さうとも」。「さうなんですけれど金ゆゑで両個ふたりが今死ぬのもあんまり悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏あつちへ行つたつて、ぢきげて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、不好いやな夢を見たと思へば、それでも死ぬよりはましだらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取かたりだ……」。「それは詐取かたりだ! さうとも」。
 あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りてべぬ。「詐取かたりで御座いますとも! 情婦をんなを種に詐取を致すよりは、費消つかひこみの方が罪ははるかに軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体をまかせるとは、如何なる事にも、あんまり意気地がなさ過ぎて、それぢや人間の皮をかぶつてゐるかひが御座りませんです。私は金につまつて心中なんぞを為た、と人にわらわれましても、情婦をんなの体を売つたお陰で、やうやう那奴あいつ等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好いやで御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個ふたりの命ぐらゐ助ける方は外に幾多いくらも御座いますので。ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外はない! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」。「成る程。そこで貴方が?」。「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟つまり私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇ひとり残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」。「いや、善く解りました!」。

 貫一は
宛然さながら我が宮の情急じようきゆうに、誠壮まことさかんに、りんたるその一念のことばを、かの当時に聴くらん想して、り自ら胸中の躍々として痛快にへざる者あるなり。正にこれ、はてしも知らぬ失恋の沙漠さばくは、濛々もうもうたる眼前に、うるはしき一望のミレエジは清絶の光を放ちて、はなはゆたかに、甚だあきらかに浮びたりと謂はざらん。彼はほとんどこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃しばらく破除はじよするのいとまを得つ。まことに得難かりしこのいとまこそ、彼が宮を失ひし以来、ただこれにへて望みに望みたりし者ならずとんや。嗚呼ああうるはしきミレエジ!

 貫一が
久渇きゆうかつの心は激くうごかされぬ。彼は声さへやや震ひて、「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇ひとりの男をじつと守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来これから花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴あつぱれなもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、すなはち貴下方夫婦の宝なのです! 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日いつでも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。よう御座いますか。千万人の中から唯一人見立てて、この人はとおもつた以上は、勿論もちろんその人の為には命を捨てるくらゐの了簡がなけりや成らんのです。その覚悟がないくらゐなら、始めから念はん方がよいので、一旦念つたら骨が舎利しやりに成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、し好いた、れたと云ふのは上辺うはべばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇こつちは一心に成つて思窮おもひつめてゐる者を、いつか寝返ねがへりを打れて、突放されるやうな目につたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」。彼の声音こわねは益す震へり。「さう云ふのがあります! 
 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾いたづらな色恋は、為た者の不仕合ふしあはせ、棄てた者も、棄てられた者も、互にい事はないのです。私は現にさう云ふのをてゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身はだみに附けて、どんな事があらうとも、決して失はんやうに為て下さい!――よう御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、いつも今夜のやうなこの心を持つて、むつまじく暮して下さい、私はそれが見たいのです!今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでもして上げます」。聞訖ききをはりし両個ふたりが胸の中は、諸共もろともうしほの如きものに襲はれぬ。

 
だ服さざりし毒のにはかに変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりはおどろかれ、愕くとよりは打惑うちまどはれ、惑ふとよりはあやしまれて、鬼か、神か、人ならば、如何なる人かと、彼らは覚えず貫一のおもてを見据ゑて、更にその目をひそかに合せつ。四辺あたりも震ふばかりに八声やこゑとりは高くうたへり。夜すがら両個ふたりの運星おほひし常闇とこやみの雲も晴れんとすらん、隠約ほのぼの隙洩すきもあけぼのの影は、玉の長く座に入りて、光薄るる燈火ともしびもとに並べるままの茶碗の一箇ひとつに、ちひさ)ありて、落ちて浮べり。[#改ページ]




(私論.私見)