続々編1 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
(れんだいこのショートメッセージ) |
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【続々編第一章】 |
貫一が胸は益苦く成り愈りぬ。彼を念ひ、これを思ふに、生きてあるべき心地はせで、ろかの怪き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。彼は空く万事を抛ちて、懊![]() |
貫一は活を求めて得ず、死を覓めて得ず、居れば立つを念ひ、立てば臥すを想ひ、臥せば行くを懐ひ、寐ぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、人もあらず、世もあらで、唯憂ひ惑へる己一個の措所無く可煩きに悩乱せり。あだかもこの際抛ち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に大口の言込ありし貸付の緩々急に取引迫りて、彼は些の猶予もなく、自ら野州塩原なる畑下と云へる温泉場に出向き、に清琴楼と呼べる湯宿につきて、密に云々の探知すべき必要を生じたるなり。謂知らず![]() |
【続々編第一章の二】 |
車は駛せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる他の悒鬱を抱きて、遣る方なき五時間の独に倦み憊れつつ、始めて西那須野の駅に下車せり。直ちに西北に向ひて、今尚茫々たる古の那須野原に入れば、天は濶く、地は遐に、唯平蕪の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途、一帯の重巒、塩原はぞと見えて、行くほどに跡は窮らず、漸く千本松を過ぎ、進みて関谷村に到れば、人家の尽る処に淙々の響ありて、これに架れるを入勝橋と為す。輙ち橋を渡りて僅に行けば、日光冥く、山厚く畳み、嵐気冷に壑深く陥りて、幾廻せる葛折の、後には密樹に声々の鳥呼び、前には幽草歩々の花を発き、いよいよ躋れば、遙に木隠の音のみ聞えし流の水上は浅く露れて、驚破や、ここに空山の雷白光を放ちて頽れ落ちたるかと凄じかり。道の右は山を![]() 俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋に三十尺の飛瀑を ![]() かの逆巻く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりしの景色に、似たりとも酷だ似たる岸の布置、茂の状況、乃至は漾ふる水の文も、透徹る底の岩面も、広さの程も、位置も、趣も、子細に看来ればいよいよ差はず。彼は眦を決きて寒慄せり。怪むべき哉、曾て経たりし塲をそのままに夢むる例はあれ、所拠もなく夢みし跡を、歴々とかく目前に見ると云ふもある事か。宮の骸の横はりし処も、又は己の追来し筋も、よ、よと、陰に一々指しては、限りなく駭けるなり。 車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢と言ふ。物可恐しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現の身にも沁む時、宮にはあらで山百合の花なりし怪異を又懐ひて、彼は肩頭寒く顫ひぬ。卒に踵を回して急げば、行路の雲間に塞りて、咄々、何の物か、と先驚かさるる異形の屏風巌、地を抜く何百丈と見挙る絶頂には、はらはら松も危く立竦み、幹竹割に割放したる断面は、半空より一文字に垂下して、岌々たるその勢、幾ど眺むる眼も留らず。 |
貫一は惘然として佇めり。彼が宮を追ひて転び落ちたりし谷間の深さは、正にこの天辺の高きより投じたらんやうに、冉々として虚空を舞下る危惧の堪難かりしを想へるなり。我未だ甞て見ざりつる絶壁! 危しとも、可恐しとも、夢ならずして争か飛下り得べき。又この人並ならぬ雲雀骨の粉微塵に散つて失せざりしこそ、洵に夢なりけれと、身柱冷かに瞳を凝す彼の傍より、これこそ名にし負ふ天狗巌、と為たり貌にも車夫は案内す。貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼れつつ立ち尽せり。既にかくの如くなれば、怪は愈よ怪に、或は夢中に見たりし踪の猶着々活現し来りて、飽くまで我を脅さざれば休まざらんとするにあらずや、と彼は胸安からずも足に信せて、かの巌の頭上に聳ゆる辺に到れば、谿急に激折して、水これが為に鼓怒し、咆哮し、噴薄激盪して、奔馬の乱れ競ふが如し。 この乱流の間に横はりて高さ二丈に余り、その頂は平に濶りて、寛に百人を立たしむべき大磐石、風雨に歳経る膚は死灰の色を成して、鱗も添はず、毛も生ひざれど、状可恐しげに蹲りて、老木の蔭を負ひ、急湍の浪に漬りて、夜な夜な天狗巌の魔風に誘はれて吼えもしぬべき怪しの物なり。その古蒲生飛騨守氏郷この処に野立せし事あるに因りて、野立石とは申す、と例のが説出すを、貫一は頷きつつ、目を放たず打眺めて、独り窃に舌を巻くのみ。彼は実に壑間の宮を尋ぬる時、この大石を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。又は流るる宮を追ひて、道なきに困める折、左右には水深く、崖高く、前には攀づべからざる石の塞りたるを、攀ぢて半に到りて進退谷りつる、その石もこれなりけん、と肩は自と聳えて、久しく留るに堪へず。 数歩を行けば、宮が命を沈めしその淵と見るべき処も、彼が釈けたる帯を曳きしその巌も、歴然として皆なあらざるはなし! 貫一が髪毛は針の如く竪ちて戦げり。彼の思いは前夜の悪夢を反復すに等き苦悩を辞する能はざればなり。夢ながら可恐くも、浅ましくも、悲くも、可傷くも、分く方なくて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止らざらんには、抑も如何! 今や塩原の実景は一々夢中の見るところ、しからばこの景既に夢ならず! 思掛けずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但夢に欠く者とては宮一箇のみ。纔に彼のここに来らざるのみ ![]() |
【続々編第二章】 |
一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方りて箒川の緩く廻れる磧に臨み、俯しては、水石の![]() ![]() ![]() 貫一はこの絵を看る如き清穏の風景に値ひて、かの途上険き巌と峻き流との為に幾度か魂飛び肉銷して、理むる方なく掻乱されし胸の内は靄然として頓に和ぎ、恍然として総て忘れたり。彼は以為らく。誠に好くこそ我は来つれ! なんぞ来るの甚だ遅かりし。山の麗しと謂ふも、壌の堆き者のみ、川の暢しと謂ふも、水の逝くに過ぎざるを、牢として抜く可からざる我が半生の痼疾は、争で壌と水との医すべき者ならん、と歯牙にも掛けず侮りたりし己こそ、先づ侮らるべき愚の者ならずや。 看よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀る峰も、流るる渓も、峙つ巌も、吹来る風も、日の光も、鶏の鳴く音も、空の色も、皆な自ら浮世の物ならで、我はここに憂を忘れ、悲を忘れ、苦を忘れ、労を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希はくは今よりかくの如くして我生を了らん哉。恋もあらず、怨もあらず、金銭もあらず、権勢もあらず、名誉もあらず、野心もあらず、栄達もあらず、堕落もあらず、競争もあらず、執着もあらず、得意もあらず、失望もあらず、止だ天然の無垢にして、形骸を安きのみなるこの里、我思を埋むるの里か、吾骨を埋るの里か。 |
性来多く山水の美に親まざりし貫一は、殊に心の往くところを知らざるばかりに愛で悦びて、清琴楼の二階座敷に案内されたれど、内には入らで、始より滝に向へる欄干に倚りて、偶ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢ひけんやうに、少時はその傍を離れ得ざるなりき。楼前の緑は漸く暗く、遠近の水音冱えて、はや夕暮るる山風の身に沁めば、先づ湯浴などせばやと、何気なく座敷に入りたる彼の眼を、又一個驚かす物こそあれ。鞄を置いたる床間に、山百合の花のいと大きなるを唯一輪棒挿に活けたるが、茎形に曲り傾きて、あたかも此方に向へるなり。貫一は覚えず足を踏止めて、その![]() 奇を弄して益出づる不思議に、彼は益懼を作して、或はこの裏に天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。やがて傍近く寄りて、幾許似たると眺むれば、打披ける葩は凛として玉を割いたる如く、濃香芬々と迸り、葉色に露気りて緑鮮に、定て今朝や剪りけんと覚き花の勢なり。少く楽まされし貫一も、これが為に興冷めて、俄に重き頭を花の前に支へつつ、又かの愁を徐々に喚起さんと為つ。「お風呂へ御案内申しませう」。その声に彼は婢を見返りて、「ああ、姐さん、この花を那裏へ持つて行つておくれでないか」。「はあ、その花で御座いますか。旦那様は百合の花はお嫌ひで?」。「いや、匂が強くて、頭痛がして成らんから」。「さやうで御座いますか。唯今直に片付けますです。これは唯一つ早咲で、珍う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒に挿して置いたんで御座います」。「うう、成る程、早咲だね」。「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯一つありましたんで、紛れ咲なので御座いますね」。「うう紛れ咲、さうだね」。「御案内致しませう」。 |
風呂場に入れば、一箇の客先ありて、だ燈点さぬ微黯の湯槽に漬りけるが、何様人の来るに駭けると覚く、甚だ忙しげに身を起しつ。貫一が入れば、直に上ると斉く洗塲の片隅に寄りて、色白き背を此方に向けたり。 年紀は二十七八なるべきか。やや孱弱なる短躯の男なり。頻に左視右胆すれども、明々地ならぬ面貌は定かに認め難かり。されども、自ら見識越ならぬは明なるに、何が故に人目を避るが如き態を作すならん。華車なる形成は、ここ等辺の人にあらず、何人にして、何が故になど、貫一は徒に心牽れてゐたり。 やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入れ替りて、なほ飽くまで此方を向かざらんと為つつ、蕭索に浴を行ふ音を立つるのみ。その膚の色の男に似気無く白きも、その骨纖に肉の痩せたるも、又はその挙動の打湿りたるも、その人を懼るる気色なるも、総て自ら尋常ならざるは、察するに精神病者の類なるべし。さては何の怪むところあらん。節は初夏のだ寒き、この寥々たる山中に来り宿れる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈けては、はや目も遣らずなりける間に、男は浴み果てて、貸浴衣引絡ひつつ出で行きけり。 暮色はいよいよ濃に、転激き川音の寒さを添ふれど、手寡なればや燈も持来らず、湯香高く蒸騰る煙の中に、独り影暗く蹲るも、少く凄き心地して、程なく貫一も出でて座敷に返れば、床間には百合の花もあらず煌々たる燈火の下に座を設け、膳を据ゑて傍に手焙を置き、茶器食籠など取揃へて、この一目さすがに旅の労を忘るべし。先づ衣桁にありける褞袍を被ぎ、夕冷の火も恋く引寄せて莨を吃しゐれば、天地静に石走る水の響、梢を渡る風の声、颯々淙々と鳴りて、幽なること太古の如し。乍ちはたはたと跫音長く廊下に曳いて、先のにはあらぬ小婢の夕餉を運び来れるに引添ひて、に出でたる宿の主は、「今日は好うこそ御越し下さいまして、さぞ御労様でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下し置れまして、甚だ恐入りました儀で、難有う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。 ええ前以てお詑を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、まだ些と時候もお早いので、自然お客様のお越も御座りませんゆゑ、何分用意等も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日中にはお麁末ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日のところは御勘弁を下さいまして、御寛と御逗留下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁をお易へ申して来ないか」。 主の辞し去りて後、貫一は彼の所謂何もなき、椀も皿も皆な黄なる鶏子一色の膳に向へり。「内にはお客は今幾箇あるのだね」。「這箇の外にお一方で御座りやす」。「一箇? あのお客は単身なのか」。「はい」。「先に湯殿で些と遇つたが、男の客だよ」。「さよで御座りやす」。「あれは病人だね」。「どうで御座りやすか。――そんな事無えで御座りやせう」。「さうかい。も不良いところはないやうかね」。「無えやうで御座りやすな」。「どうも病人のやうだが、さうでないかな」。「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」。貫一は覚えず噴飯せんと為つつ、「成る程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」。「いんえ、昨日お出になりやしたので」。「昨日来たのだ? 東京の人か」。「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」。「それぢや商人か」。「私能く知りやせん」。「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」。「そりやなさりやす」。「俺と那箇が為る」。「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」。「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌なのだな」。「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様が直にいらしやる筈で、それを、まあ酷う待つてお在なさりやす」。「おお、伴が後から来るのか。いや、大きに御馳走だつた」。「何も御座りやせんで、お麁末様で御座りやす」。 婢は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然と臥たり。二十間も座敷の数ある大構の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽れたる孤村の片辺に倚れる清琴楼の間毎に亘る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許心細くも可恐き夜道ならんよ。戸一重外には、山颪の絶えずおどろおどろと吹廻りて、早瀬の波の高鳴は、真に放鬼の名をも懐ふばかり。折しも唾壺打つ音は、二間ばかりを隔てて甚だ蕭索に聞えぬ。貫一は何の故とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識る人ならずとば、何を以つて人を懼るる態を作すならん。抑も彼は何者なりや。又何の尤むるところありて、さばかり人を懼るるや。貫一はこの秘密の鑰を獲んとして、左往右返に暗中摸索の思を費すなりき。 |
【続々編第二章その二】 |
明る朝の食後、貫一は先づこの狭き畑下戸の隅々まで一遍見周りて、略ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格を考へなどして、磧に出づれば、浅瀬に架れる板橋の風情面白く、渡れば喜十六の山麓にて、十町ばかり登りて須巻の滝の湯ありと教へらるるままに、遂にまで往きて、午近き頃宿に帰りぬ。汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面を見せじとやうに、慌忙く打背きて過行くなり。今は疑ふべくもあらず、彼は正く人目を避けんと為るなり。則ち人を懼るるなり。故は、自ら尤るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈よ深く怪みぬ。 昨日こそ誰乎彼の黯 ![]() 午飯の給仕には年嵩の婢出でたれば、余所ながらかの客の事を問ひけるに、箸をも取らで今外に出で行きしと云ふ。「はあ、飯も食はんで? へ行つたのかね」。「何でも昨日あたりお連様がお出の筈になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着がないもんで御座いますから、今朝から御心配遊して、停車場まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰いまして、それでお出ましに成つたので御座います」。「うむ、それは心配だらう。能くある事だ。しかし、飯も食はずに気を揉んでゐるとは、どう云ふ伴なのかな。――年寄か、婦ででもあるか」。「如何で御座いますか」。「お前知らんのか」。「私存じません」。彼は覚えず小首を傾くれば、「旦那も大相御心配ぢや御座いませんか」。「さう云ふ事を聞くと、俺も気になるのだ」。「ぢや旦那も余程苦労性の方ですね」。「大きにさうだ」。「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方、お美い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」。「どう大変なのか」。「又御心配ぢや御座いませんか」。「うむ、大きにこれはさうだ」。 |
風恬に草香りて、唯居るは惜き日和に奇痒く、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還れば寂く夕暮るる頃なり。例の如く湯に入りて、上れば直に膳を持ち出で、燈も漸く耀きしに、かの客、だ帰り来ず、「閑寂なのもよいけれど、外に客と云ふ者がなくて、全でかう独法師も随分心細いね」。託言がましく貫一は言出づれば、「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸が悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」。婢はわざとらしう高笑しつ。「成る程、これは恐れ入つた。今度から善く心得て置く事だ」。「今度なんて仰有らずに、旦那も明日あたり電信でお呼び寄になつたら如何で御座います」。「五十四になる老婢を呼んだつて、お前、始まらんぢやないか」。「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」。「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」。「ですから、旦那、づつと外にお在んなさるので御座いませう」。「そりや外には幾多でも在るとも」。「あら、御馳走で御座いますね」。「なあに、能く聴いて見ると、それが皆人の物ださうだ」。「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰るもんですよ」。「本当にも嘘にもその通だ。私なんぞはそんな意気な者があれば、何為にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」。「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」。「青臭いどころか、お前、天狗巌だ、七不思議だと云ふ者がある、可恐い山の中に違いないぢやないか。そこへ彷徨、閑さうな貌をして唯一箇で遣つて来るなんぞは、能々の間抜と思はなけりやならんよ」。「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事があるものですか」。「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜一人と附けてある」。「その傍に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴きませう」。「面白い事を言ふなあ、おまへは」。「やつぱり少し抜けてゐる所為で御座います」。 彼は食事を了りて湯浴し、少焉ありて九時を聞きけれど、かの客はだ帰らず。寝床に入りて、程なく十時の鳴りけるにも、水声空く楼を繞りて、松の嵐の枕上に落つるあるのみなり。始めよりその人を怪まざらんにはこの咎むるに足らぬ瑣細の事も、大いなる糢糊の影を作して、いよいよ彼が疑の眼を遮り来らんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限り疑ひて、躬もその妄に過るの太甚きを驚けるまでに至りて、始て罷めんとしたり。これに亜いで、彼は抑も何の故りて、肥瘠も関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念を懸るの固執なるや、その謂無き己をば、敢て自ら解かんと試みつ。されども、人は往々にして自ら率るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんとば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想の間に纏綿して、或は理外にある者あるなからんや、と疑はざらんとする傍より却りて惑しむるなり。 |
表階子の口に懸れる大時計は、病み憊れたるやうの鈍き響を作して、廊下の闇に彷徨ふを、数ふれば正に十一時なり。かの客はこの深更に及べども未だ帰り来ず。彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放つ能はずして、貫一は寝苦き枕を頻回易へたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂に眠を催せり。日高き朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢は雑巾掛してゐたり。「お早う御座りやす」。「睡さうな顔をしてゐるな」。「はい、昨夜那裏のお客様がお帰になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」。「ああ、あのお客は昨夜は帰らずか」。「はい、お帰が御座りやせん」。貫一はかの客の間の障子を開放したるを見て、咥楊枝のまま欄杆伝ひに外を眺め行く態して、その前を過れば、床の間に小豆革の手鞄と、浅黄キャリコの風呂敷包とを並べて、傍に二三枚の新聞紙を引※[#「捏」の「日」に代えて「臼」、418-16]ね、衣桁に絹物の袷を懸けて、その裾に紺の靴下を畳置きたり。さては少く本意無きまでに、座敷の内には見出すべき異状もあらで、彼は宿帳に拠りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢て背くところありとも覚えざるなりき。 拍子抜して返れる貫一は、心私にその臆測の鑿なりしを ![]() |
鍔広なる藍鼠の中折帽を前斜に冠れる男は、例の面を見せざらんとすれど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳を二つ三つも越したるし。銀杏返を引約めて、本甲蒔絵の挿櫛根深に、大粒の淡色瑪瑙に金脚の後簪、堆朱彫の玉根掛をして、鬢の一髪をも乱さず、極めて快く結ひ做したり。葡萄茶の細格子の縞御召に勝色裏の袷を着て、羽織は小紋縮緬の一紋、阿蘭陀模様の七糸の袱紗帯に金鎖子の繊きを引入れて、嬌き友禅染の襦袢の袖して口元を拭ひつつ、四季袋を紐短かに挈げたるが、弗と此方を見向ける素顔の色蒼く、口の紅も点さで、やや裏寂くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰を帯びたれど、美目の盻たる色香尚濃にして、漫ろ人に染むばかりなり。両箇は彼の見る目の顕露なるに気怯せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着の唐突なるに打惑ひて、なかなか精く看るべき遑あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独り合点せり。 |
【続々編第三章】 |
かの男女は![]() ![]() 色を作せる男の眼は、つと湧く涙に輝けり。「貴方の事さ!」。 女の目よりは漣々と零れぬ。「俺の事だ ![]() |
彼らは相背きて姑く語無かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。「おい、お静、おい」。「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情ない!」。お静は竟に顔を掩うて泣きぬ。「何だな、お前も考へて見るがよいぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘にも水臭いなんて言れりや、俺だつて悔いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」。「狭山さん、貴方もそんなに言はなくたつてよいぢやありませんか」。「お前が言出すからよ」。「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情なくなつて、どうしたらよからうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝ります。ねえ、狭山さん、些と」。お静の顔を打矚りつつ、男は茫然たるのみなり。「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」。「知れた事さ、彼我の身の上をよ」。「何だつてそんな事を考へてゐるの」。「…………」。「今更何も考へる事はありはしないわ」。狭山は徐々に目を転して、太息を![]() ![]() |
「生木を割いて別れるよりは、まあ愈だ」。「別れる? 吁!可厭だ! 考へても慄然とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句がこんな事に成つたのも、想へば皆那奴のお蔭だ。ええ、悔い! 私はきつと執着いても、この怨は返して遣るから、覚えてゐるがいい!」。女は身を顫せて詈るとともに、念入りて呪ふが如き血相を作せり。不知、この恨み、詈り、呪はるる者は、何処の誰ならんよ。「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」。男は歯咬しつつ苦しげに嗤笑せり。「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓のある女が金で靡くか、靡かないか、些は考へながら遊ぶがよい。来りや不好な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう![]() 「なあにね、貴方に別れたあの翌日から、延続に来てゐやがつて、ちつとでも傍を離さないんぢやありませんか。這箇は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠くて耐らないから、病気だと謂つて内へ遁げて来りや、直に追懸けて来て、附絡つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁と渉が付いてゐるんだから、阿母さんは傍から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目ぢや見ちやゐられないお手厚さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸せだ事の、ビイルを冷せだ事のと、あの狭い内へ一個で幅を為やがつて、なかなか動きさうにも為ないんぢやありませんか。私は全で生捕に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇の事があるから、さうしてゐる空はなし、あんな気の揉めた事はありはしない――本当にどうせうかと思つた。 ええ、なあに、あんな奴は打抛出して措いて、這箇は掻巻を引被つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤れたくて耐らなくなつて来たから、不如かまはず飛び出して了はうかと、余程さう念つたものの、丹子の事も、ねえ、考へて見りや可哀さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼にしてゐるものを、さぞや私の亡い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽されて、色々話もあるものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、しておかなけりやならない事もあるしするので、到頭遅々して出損つて了つたんです。さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それでも不承々々に還つたのはよい。すると翌日は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞き飽きてゐるわ。それを追繰返し、引繰返し、悪体交りには、散々聴せて、了局は口返答したと云つて足蹴にする。 なあに、私は足蹴にされたつて、撲れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇だつて貴方と云ふ者があると思ふから、もう一生懸命に稼いで、するだけの事は丁としてあるのに、何ぼ慾にきりがないと謂つても、自分の言条ばかり通さうとして、他には些でも楽をさせない算段を為る。私だつて金属でできた機械ぢやなし、さうさう駆使はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇の身が立ちはしない。別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓は堰いて了ふし、旦那取はしろと云ふ。そんな不可な真似を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴にするとは……何……何事で……せう!それぢや私も赫として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉つて了つて、の場図で迯るには迯られず、阿母さんは得たり賢しなんでせう、一処に行け行けと聒く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ ![]() |
聴ゐる狭山は小気味好しとばかりに頷けり。「それで那奴は全然慍つて了つて、それからの騒擾でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟を持つて引擦り仆された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全で夢中で、唯那奴の憎らしいのが胸一杯に込上げて、這畜生と思ふと、突如にあったお皿を那奴の横面へ叩きけてやった。丁度それが眉間へ打着つて血が淋漓流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙を見て、窃と飛出した事は飛出したけれど、別に往所もないから、丹子の阿母さんの処へ駈込んだの。ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程廻つてゐるんでせう。![]() 歔欷して彼は悶えつ。「さう云ふ訳ぢや、猶更内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」。「大変でせうよ」。「それだと余り遅々しちやゐられないのだ」。「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」。「さうだ」。「だからねえ、もう早い方がよぅござんすよ」。女は咽びて其処に泣き伏しぬ。狭山は涙を連 ![]() |
【続々編第三章の二】 |
両箇は此方にかつ泣きかつ語れる間、彼方の一箇は徒然の柱に倚りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。その待人の如何なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに![]() ![]() |
彼はこの際熱海の旧夢を憶はざるを得ざりしなり。世上貫一の外に愛する者なかりし宮は、その貫一と奔るを諾はずして、僅に一瞥の富の前に、百年の契を蹂躙りて吝まざりき。噫我が当時の恨、彼が今日の悔! 今彼女は日夜に栄の衒ひ、利の誘ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容れざる愛に随つて奔らんと為るか。爾思へる後の彼は、陰にかの両個の先に疑ひし如き可忌き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷るばかりに冀へり。もしさもあらば、彼は具に彼らの苦き身の上と切なる志とを聴かんと念ひぬ。心永く痍きて恋に敗れたる貫一は、殊更に他の成敗について観るを欲せるなり。彼は己の不幸の幾許不幸に、人の幸の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交せる情の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終に如何ならんかを想ひて。昼間の程は勗めて籠りゐしかの両個の、夜に入りて後打連れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益す人目を避るならんよと念へり。 |
還り来て多時酒など酌交す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈のみいと瞭に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼らは竟に酔を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。為す事もあらねば、貫一は疾く臥内に入りけるが、僅に![]() 夜の静なるを動かして、かの男女の細語は洩れ来ぬ。甚だ幺微なれば聞知るべくもあらねど、 ![]() |
貫一は咳きも遣らで耳を澄せり。或は時に断ゆれども、又続ぎ、又続ぎて、彼らの物語は蚕の糸を吐きて倦まざらんやうに、限も知らず長く亘りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼らはここに来つるにやあらん。されども、日は明日も明後日もあるを、甚だ忙くも語るもの哉。さばかり間遠なりし逢瀬なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かくあらでは慊らぬ恋中か、など思ふにつけて、彼はさすがに我身の今昔に感なき能はず、枕を引入れ、夜着引被ぎて、寐返りたり。何時罷みしとも覚えで、彼らの寐物語は漸く絶えぬ。貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤かりけれど、目覚めしままに起き出でし朝冷を、走り行きて推啓けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼を驚して、かの男女は浴しゐたり。貫一ははたと閉して急ぎ返りつ。 |
(私論.私見)