持久戦論2(1938.5)

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.8.10日

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 2015.02.25日再編集  れんだいこ拝


【毛沢東、「持久戦論」(1938.5)】
 「毛沢東選集第三巻」の「持久戦について」 を参照転載する。
 戦争の目的
 (六八)
 ここでは、戦争の政治目的のことをいうのではない。抗日戦争の政治目的が「日本帝国主義を駆逐し、自由平等の新中国を樹立する」ことである点は既に前に述べた。ここでいうのは、人類の血を流す政治としての戦争、つまり、両軍が互いに殺しあう戦争の根本的目的は何かということである。
戦争の目的はほかでもなく、「自己を保存し、敵を消滅する」(敵を消滅するとは、敵のすべてを肉体的に消滅することではなくて、敵の武装を解除すること、つまり「敵の抵抗力を奪う」ことをいう)ことである。古代の戦争では矛と盾がつかわれた。矛は攻撃するもので、敵を消滅するためのものであり、盾は防御するもので、自己を保存するためのものであった。今日の兵器も、やはりこの両者の延長である。爆撃機、機関銃、長距離砲、毒ガスは矛の発展であり、防空施設、鉄かぶと、コンクリート構築陣地、防毒マスクは盾の発展である。戦車は矛と盾とを一つに結合した新しい兵器である。攻撃は敵を消滅する主要な手段であるが、防御もなくてはならない。攻撃は直接には敵を消滅するためのものであるが、敵を消滅しないと、自己が消滅されてしまうから、同時に自己を保存するためのものでもある。防御は直接には自己を保存するためのものであるが、同時に攻撃を補助するか、または攻撃に転ずる準備をする手段でもある。退却は防御の一種であり、防御の継続である。そして、追撃は攻撃の継続である。戦争の目的のうちでは、敵を消滅することが主要なもので、自己を保存することは第二義的なものだということをここで指摘しなければならない。効果的に自己を保存するには、敵を大量に消滅するほかはないからである。従って、敵を消滅する主要な手段としての攻撃が主要なもので、敵を消滅する補助的手段、また自己を保存する一つの手段としての防御は第二義的なものである。戦争の実際においては、防御が主となることも多く、その他の場合には攻撃が主となるが、しかし、戦争全体を通じてみれば、攻撃がやはり主要なものである。
 (六九)
 戦争のなかで勇敢な犠牲を提唱するのをどう解釈したらよいか。それは「自己を保存する」ことと矛盾するのではないか。矛盾しない。それは互いに反しあいながら、たがいに成りたたせあっているのである。戦争は血を流す政治であり、それは代価を、ときにはきわめて大きな代価を支払わなければならない。部分的一時的な犠牲(保存しないこと)は、全体的永久的な保存のためである。基本的には敵を消滅するためである攻撃手段のなかにも、同時にまた自己を保存する作用がふくまれていると、我々がいう理由はここにある。
防御は同時に攻撃をともなわなければならず、単純な防御であってはならないことも、またこうした道理からである。
 (七〇)
 自己を保存し、敵を消滅するという戦争の目的こそ戦争の本質であり、すべての戦争行動の根拠であって、技術的行動から戦略的行動にいたるまで、すべてがこの本質によって貫かれている。戦争の目的は戦争の基本原則であって、すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的な原理原則は、これから少しも離れることはできない。射撃の原則である「身体を隠蔽(いんぺい)し、火力を発揮する」というのはどういう意味か。前者は自己を保存するためであり、後者は敵を消滅するためである。前者のために、地形や地物を利用したり、躍進運動を行なったり、隊形を疎開させたりするなど様々な方法が生まれる。後者のために、射界を清掃したり、火網を組織したりするなど様々な方法が生まれる。戦術上の突撃隊、牽制(けんせい)隊、予備隊のうち、第一のものは敵を消滅するためのものであり、第二のものは自己を保存するためのものであり、第三のものは状況に応じて二つの目的――突撃隊を増援したり、追撃隊になったりして、敵を消滅すること、または牽制隊を増援したり、掩護(えんご)隊になったりして、自己を保存することに用いようとするものである。このように、
すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的原則、すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的行動は、戦争の目的から少しも離れることのできないものであり、この目的は戦争全体に行き渡り、戦争の初めから終わりまで貫いている。
 (七一)
 抗日戦争の各級の指導者は、中日両国間の互いに対立する
各種の基本的要素を離れて戦争を指導してはならないし、またこの戦争の目的を離れて戦争を指導してはならない。両国間の互いに対立する各種の基本的要素は、戦争の行動のなかで展開されて、自己を保存し、敵を消滅するための相互の闘争に変わる。我々の戦争は、戦いのたびごとに、大小を問わず勝利を勝ち取るようにつとめ、戦いのたびごとに、敵の一部の武装を解除し、敵の一部の人馬器物を損傷させるようつとめることにある。敵を部分的に消滅するという成果を積み重ね、これを大きな戦略的勝利にすることによって、最後には敵を国土から駆逐し、祖国を防衛し、新中国を建設するという政治目的を達成するのである。
 防御のなかでの進攻、持久のなかでの速決、内線のなかでの外線
 (七二)
 次に抗日戦争での具体的な戦略方針を研究しよう。我々は、抗日の戦略方針は持久戦であるといったが、その通りで、これはまったく正しい。だが、これは一般的な方針であって、まだ具体的な方針ではない。どのように具体的に持久戦を進めるか。これが今、我々の論じようとする問題である。我々の答えはこうである。第一と第二の段階、即ち敵の進攻と保持の段階では、それは
戦略的防御のなかでの戦役上戦闘上の進攻戦、戦略的持久のなかでの戦役上戦闘上の速決戦、戦略的内線のなかでの戦役上戦闘上の外線作戦でなければならない。第三段階では、それは戦略的反攻戦でなければならない。
 (七三)
 日本が帝国主義の強国であり、我々が半植民地・半封建の弱国であることから、日本は戦略的進攻の方針をとり、我々は戦略的防御の地位にある。日本は戦略的速決戦をとろうと企てているが、我々は意識的に戦略的持久戦をとるべきである。日本は戦闘力のかなり強い数十個師団の陸軍(現在既に三十個師団に達している)及び一部の海軍をもって陸海両面から中国を包囲、封鎖し、さらに空軍をもって中国を爆撃している。現在、日本の陸軍は既に包頭(パオトウ)から杭州(ハンチョウ)までの長い戦線を占領し、海軍は福建(フーチェン)省、広東(コヮントン)省まできて、大きな範囲の外線作戦を形づくっている。我々は内線作戦の地位に置かれている。これらはすべて、敵が強く、我が方が弱いという特徴によってもたらされたものである。これが一つの面の状態である。
 (七四)
 しかし、もう一つの面では、ちょうどそれと逆である。日本は強いが兵力が足りない。中国は弱いが土地が広く、人口も多く、兵力も多い。ここから二つの重要な結果がうまれる。第一に、敵は少ない兵力をもって大国に臨んでいるので、一部の大都市、主要な交通線および若干の平地しか占領できない。このために、その占領地域では、占領のしようがない広大な土地を空白のまま残しており、このことが中国の遊撃戦争に広大な活動の地盤を与えている。全国では、たとえ敵が広州、武漢、蘭州の線、及びその付近の地区を占領できても、それ以外の地区を占領するのは難しく、このことが中国に持久戦を行い、最後の勝利を勝ち取るための大後方と中枢根拠地を与えている。第二に、敵は少ない兵力をもって多くの兵力に立ち向かっているので、多くの兵力の包囲のなかに置かれている。敵が数路に分かれて我が方に進攻しているので、敵は戦略的外線に立ち、我が方は戦略的内線に立っており、敵は戦略的進攻を行い、我が方は戦略的防御を行なっており、みたところ我が方は非常に不利である。しかし、我が方は土地が広く兵力が多いという二つの長所を利用して、陣地を固守するような陣地戦を行わずに、弾力的な運動戦を採用し、数個師団で敵の一個師団にあたり、数万人で敵の一万人にあたり、数路の部隊で敵の一路の部隊にあたり、戦場の外線から、突如、敵の一路の部隊を包囲し攻撃することができる。そこで、敵の戦略上の作戦における外線と進攻は、戦役上戦闘上の作戦では、内線と防御に変わらざるをえない。我が方の戦略上の作戦における内線と防御は、戦役上戦闘上の作戦では外線と進攻に変わる。一路の敵に対してもそうであるし、他の路の敵に対してもそうである。以上の二つの点は、いずれも敵が小さく、我が方が大きいという特徴から生まれるものである。また、敵の兵力は少ないが強い(兵器および将兵の訓練の程度)、我が方の兵力は多いが弱い(これも兵器及び将兵の訓練の程度だけをさすのであって、士気をさすのではない)という点から、戦役上戦闘上の作戦では、我が方は、多数をもって少数を討ち、外線から内線を討つだけでなく、さらに速決戦の方針をとるべきである。速決戦を行うには、一般には、駐止中の敵を討つべきではなくて、運動中の敵を討つべきである。我が方は、敵の必ず通る道のかたわらに大兵をあらかじめ隠蔽、集結し、敵の運動しているときに突如前進し、これを包囲攻撃し、敵が手をくだす間もないうちに、迅速に戦闘をかたづけるのである。戦いがうまくいけば、全部か、大部分か、または一部分の敵を消滅できるし、うまくいかなくても、敵に多くの死傷をあたえることができる。一つの戦いでもそうであるし、他の戦いでもすべてそうである。たとえ多くなくても、毎月一回、平型関、台児荘の戦いのような比較的大きな勝ちいくさができれば、大いに敵の気勢をくじき、我が軍の士気を振るい立たせ、国際的声援を呼び起こすことができる。このようにして、我が方の戦略的持久戦は、戦場での作戦になると速決戦に変わるのである。敵の戦略的速決戦は、多くの戦役上戦闘上の負けいくさをへて、持久戦に切り替えざるをえなくなるのである。
 (七五)
 上述のような戦役上戦闘上の作戦方針は、一言でいえば、「
外線的速決的な進攻戦」である。これは、我が方の戦略方針である「内線的持久的な防御戦」とは反対のものであるが、しかし、またこのような戦略方針を実現するのにまさに必要な方針なのである。もし、戦役上戦闘上の方針も抗戦当初にとられたような「内線的持久的な防御戦」であるなら、それは敵が小さくて我が方が大きく、敵が強くて我が方が弱いというこの二つの状況にまったく適さないものであり、それではけっして戦略目的は達成されず、全般的な持久戦は達成されないで、敵に打ち破られてしまう。従って、我々は、これまでも、全国でいくつかの大きな野戦兵団を編成して、それに敵の各野戦兵団の兵力の二倍、三倍または四倍の兵力をもたせ、上述の方針をとって、広大な戦場で敵と渡りあうよう主張してきた。この方針は、正規戦争につかえるだけでなく、遊撃戦争にも使えるし、また使わなければならない。それは戦争のある段階に適用されるだけでなく、戦争の全過程にも適用される。戦略的反攻の段階になって、我が方の技術的条件が強化され、弱をもって強にあたるような状況が全然なくなっても、我が方が依然として多くの兵力をもって外線から速決的進攻戦を行うなら、なおさら多くの捕虜と戦利品を獲得する効果をあげることができる。たとえば、我が方が二つ、三つまたは四つの機械化師団をもって敵の一つの機械化師団にあたれば、一層確実にその師団を消滅することができる。数人の大男が一人の大男にたやすく勝てるのは、常識のなかに含まれる真理である。
 (七六)
 もし我々が、戦場作戦での「外線的速決的な進攻戦」を断固として採用するなら、戦場における敵と我が方の間の強弱、優劣の形勢を変えるばかりでなく、次第に全体の形勢を変えることとなろう。戦場では、我が方が進攻し、敵が防御すること、我が方が多くの兵力で外線にたち、敵が少ない兵力で内線にたつこと、我が方が速決でいくので、敵が持久によって援軍を待とうとしても、彼らの思い通りにならないこと、こうしたことのために、敵側は強者から弱者に変わり、優勢から劣勢に変わるが、我が軍は逆に弱者から強者に変わり、劣勢から優勢に変わる。多くのこのような勝ちいくさをすると、敵と我が方の全体の形勢に変化がおこる。つまり、多くの戦場作戦の外線的速決的な進攻戦の勝利を積み重ねていくと、次第に自己を強め、敵を弱めていくようになり、そこで
全体的な強弱、優劣の形勢が、その影響を受けて変化を起こさざるをえなくなる。そのとき、我々自身のもつ他の条件とあいまって、さらに敵の内部の変動および国際的に有利な情勢とあいまって、敵と我が方の全体の形勢を均衡に転じ、均衡からさらに我が方の優勢、敵の劣勢に転じさせることができる。そのときこそ反攻にでて敵を我が国土から駆逐する時機である。
 (七七)
 戦争は力の競争であるが、力は戦争の過程でその本来の状態を変えていく。その場合、主観的努力、つまり勝ちいくさを多くし、誤りを少なくすることが決定的な要素である。客観的要素には、このような変化の可能性がそなわっているが、この可能性を実現するには、正しい方針と主観的努力とが必要である。そのときには主観の役割が決定的なものとなる。
 主動性、弾力性、計画性
 (七八)
 以上に述べた戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦は、進攻という点にその中心がある。外線とは進攻の範囲をさし、速決とは進攻の時間をさすところから、それを「外線的速決的な進攻戦」と呼ぶのである。これは持久戦を行う最良の方針であり、また運動戦というものの方針でもある。だがこの方針を実行するには、
主動性、弾力性、計画性をはなれることはできない。そこで、次にこの三つの問題を研究してみよう。
 (七九)
 先に自覚的能動性について述べたのに、なぜまた主動性について述べるのか。自覚的能動性とは、自覚的な活動と努力のことであり、人間が物と区別される特徴であって、人間のこのような特徴は、戦争のなかでとりわけ強くあらわれるが、これらの点については先に述べた。ここでいう主動性とは、軍隊の行動の自由権のことで、これは、不自由の状態に追い込まれることとは区別されるものである。
行動の自由は軍隊の生命であり、この自由を失えば、軍隊は敗北または消滅に近づくことになる。ある兵士が武装を解除されるのは、この兵士が行動の自由を失い、受動的地位に追い込まれた結果である。ある軍隊が戦いに敗れるのも同じである。この理由から、戦争する双方はどちらも受動性を避け、主動性を握ろうとつとめる。我々の提起した外線的速決的な進攻戦と、この進攻戦を実現するための弾力性、計画性は、いずれも敵を受動的地位に追いやり、自己を保存し敵を消滅する目的を達成できるように主動権を勝ち取るためだといって良いのだが、主動か受動かということは、戦力が優勢か劣勢かということと不可分である。従って、それはまた、主観の指導が正しいか誤っているかということとも不可分である。そのほかに、また敵の錯覚と不意に乗じて自己の主動性を勝ちとり、敵を受動的な地位に追いやる場合もある。次にこれらの点を分析してみよう。
 (八〇)
 主動は戦力の優勢と切り離せないし、受動は戦力の劣勢と切り離せない。戦力の優勢または劣勢は、主動または受動の客観的基礎である。戦略上の主動的地位は、もちろん戦略的進攻戦の場合、割合によく掌握し発揮することができるが、しかし、始めから終わりまで、どこででも主動的地位を占めること、つまり絶対的な主動権を握ることができるのは、絶対的優勢をもって絶対的劣勢にあたるときだけである。体の丈夫なものと重病患者との格闘では、前者が絶対的な主動権を握る。もし日本に克服できない多くの矛盾がないなら、例えば彼らが一度に数百万から一千万にのぼる大兵をくりだすことができ、財源が現在の何倍もあり、民衆や外国からの敵対もなく、また野蛮な政策を実行して中国人民の必死の抵抗を招くようなことがないとすれば、彼らは一種の絶対的な優勢を保持できるし、始めから終わりまで、どこででも一種の絶対的な主動権を握るであろう。

 だが、歴史上、このような絶対的優勢というものは、戦争と戦役の終局においては存在するが、戦争と戦役の当初には稀である。例えば、第一次世界大戦で、ドイツが屈服する前夜には、当時の連合国側が絶対的優勢に転じ、ドイツが絶対的劣勢に転じた結果、ドイツが敗北し、連合国が勝利した。これは戦争の終局に絶対的な優勢と劣勢が存在する例である。また台児荘における勝利の前夜には、当時その地に孤立していた日本車が苦戦を重ねたのちに絶対的な劣勢に陥り、我が軍が絶対的な優勢をつくりあげた結果、敵が敗北し、我が方が勝利した。これは戦役の終局に絶対的な優勢と劣勢が存在する例である。戦争でも、戦役でも、相対的な優劣または均衡状態のままで終結することがあるが、その場合、戦争では妥協があらわれ、戦役では対峙があらわれる。だが、一般的には、絶対的な優劣によって勝敗がきまることが多い。これらすべては、戦争または戦役の当初のことではなくて、戦争または戦役の終局のことである。

 中日戦争の終局については、日本が絶対的劣勢をもって敗北し、中国が絶対的優勢をもって勝利することは予断できる。しかし、今のところ、双方の優劣はいずれも絶対的ではなくて相対的である。日本は強い軍事力、経済力、政治組織力という有利な要素をもつことによって、我々の弱い軍事力、経済力、政治組織力に対して優勢をしめ、それが彼らの主動権の基礎となっている。だが、彼らの軍事力その他は量的に少ないし、他に多くの不利な要素もあるので、彼らの優勢は彼ら自身の矛盾によって減殺されている。そして中国にやってくると、中国の広大な土地、膨大な人口、膨大な兵力、頑強な民族的抗戦にぶつかって、その擬勢はさらに減殺された。そこで「全体としては、彼らの地位は相対的な優勢に変わり、従って、その主動権の発揮や維持も制約され、相対的なものになってしまった。中国側は、力の強さのうえでは劣勢であり、従って、戦略上のある種の受動的様相が形成されているが、地理、人口、兵員数のうえでは、また人民及び軍隊の敵愾心(てきがいしん)と士気のうえでは優勢であり、このような優勢にさらにその他の有利な要素が加わって、自己の軍事力、経済刀などの劣勢の程度は減殺され、戦略上の相対的な劣勢に変わっている。従って、受動の程度も減少し、戦略上の相対的な受動的地位におかれているにすぎない。しかし、受動はなんといっても不利であり、それから抜け出すよう努めなければならない。軍事上の方法としては、断固として外線的速決的な進攻戦をおこない、また敵の後方での遊撃戦争をおこし、戦役上の運動戦と遊撃戦で、敵を圧倒する多くの局部的な優勢と主動的地位とを獲得することである。このような多くの戦役上の局部的な優勢と局部的な主動的地位を通して、戦略上の優勢と戦略上の主動的地位とが次第につくられ、戦略上の劣勢と受動的地位を抜け出すことができるようになる。これが主動と受動、優勢と劣勢のあいだの相互関係である。
 (八一)
 このことからも、主動または受動と主観の指導とのあいだの関係がわかる。上述のように、我が方の相対的な戦略上の劣勢と戦略上の受動的地位は、抜け出すことのできるものであり、その方法は、人為的に我々の多くの局部的な優勢と局部的な主動的地位をつくりだして、敵の多くの局部的な優勢と局部的な主動的地位を奪いとり、敵を劣勢と受動的地位に投げ込むことである。これらの局部的なものを積み重ねていけば、我々の戦略上の優勢と戦略上の主動になり、敵の戦略上の劣勢と戦略上の受動になる。このような転化は主観の正しい指導にかかっている。なぜか。我が方も優勢と主動を求めるし、敵もまたこれを求めるのであって、この点からみれば、戦争は両軍の指揮員が軍事力、財力などの物質的基礎を土台にして、互いに優勢と主動を奪いあう主観の能力の競争である。競争の結果、一方が勝ち他方が負けるが、これは、客観的物質条件の対比のほかに、必ず勝者は主観の指揮の正しさにより、敗者は主観の指揮の誤りによるものである。我々は、戦争という現象が他のどのような社会現象よりも、一層とらえにくく、確実性が少ないこと、即ち「蓋然《がいぜん》性」というものを一層おびたものであることを認める。だが、
戦争は神のしわざではなく、やはり世の中の一種の必然的運動であり、従って、孫子の法則、「彼を知り、己を知れば、百戦するも危うからず」は、やはり科学的真理である。誤りは彼我についての無知から生ずるし、戦争の特質もまた、多くの場合、彼我を完全に知ることをさまたげるので、そこから戦争状況、戦争行動の不確実性がうまれ、誤りと失敗がうまれる。しかし、どのような戦争状況、戦争行動であろうと、その大略を知り、その要点を知ることは可能である。まずはじめに各種の偵察手段により、次には指揮員の聡明な推論と判断とによって、誤りを少なくし、一般的に正しい指導を実現するのは、できることである。我々がこの「一般的に正しい指導」を武器にすれば、多くの勝ちいくさをすることができ、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることができる。これは主動または受動と主観の指導が正しいかどうかということとのあいだの関係である。
 (八二)
 主観の指導が正しいかどうかが優勢、劣勢および主動、受動の変化に影響することは、強大な軍隊が敗北し、弱小な軍隊が勝利するという歴史的事実をみれば、一層うなずける。内外の歴史には、こうした例がたくさんある。中国では、例えば、晉と楚の城濮(じょうぼく)の戦い、楚と漢の成皐(せいこう)の戦い⑦、韓信が趙軍をやぶった戦い、新と漢の昆陽の戦い⑧、袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)の官渡の戦い⑨、呉と魏の赤壁の戦い⑩、呉と蜀の彝陵(いりょう)の戦い⑪、秦と晉の[シ+肥]水《ひすい》の戦い⑫など、外国では、例えば、ナポレオンの行った数多くの戦役、十月革命後のソ連の内戦などは、皆な少数で多数をうち、劣勢で優勢にあたって勝利したものである。これらは皆なまず自分の局部的な優勢と主動をもって、敵の局部的な劣勢と受動にあたり、一戦に勝利して、それをさらに他に及ぼし、各個撃破し、それによって全局面が優勢に転じ、主動に転じたのである。これとは逆に、元々優勢と主動とをしめていた敵も、その主観の誤りと内部矛盾によって、極めて良好な、または比較的良好な優勢と主動的地位を完全に失い、敗軍の将、亡国の君になることがある。このことから分かるように、戦力の優劣そのものは、もとより主動か受動かを決定する客観的基礎ではあるが、それはまだ現実の主動または受動ではなく、事実上の主動または受動は、闘争を通じ、主観の能力の競争をつうじない限りあらわれはしない。闘争のなかでは、主観の指導が正しいか誤っているかによって、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることもできるし、優勢を劣勢に変え、主動を受動に変えることもできる。すべての支配王朝が革命軍にうち勝つことができなかったことからも、単にある種の優勢だけでは、主動的地位がきまるものではなく、まして、最後の勝利がきまるものでないことがわかる。主動と勝利は、劣勢と受動的地位にあるものが、実際の状況に基づき、主観の能力の働きを通じ、一定の条件を勝ち取ることによって、優勢で主動的地位にあるものの手から奪取できるものである。
 (八三)
 錯覚と不意のために、優勢と主動を失うことがある。従って、計画的に敵に錯覚をおこさせ、不意打ちをかけることは、優勢をつくりあげ、主動を奪い取る方法であり、しかも重要な方法である。錯覚とはなにか。「八公山の草木みな兵なり」というのは錯覚の一例である。「東を撃つとみせて西を撃つ」というのは、敵に錯覚をおこさせる一つの方法である。情報が漏れるのを防げるようなすぐれた民衆的基盤がある場合、敵をあざむくいろいろな方法をとれば、しばしば効果的に、判断を誤り行動をあやまるような苦境に敵をおとしいれ、これによって敵の優勢と主動を失なわせることができる。「兵法はいつわりを厭(いと)わず」というのは、このことを指すのである。不意とは何か。それは準備のないことである。優勢ではあるが準備がないなら、真の優勢ではなく、また主動性もない。この点が分かっていれば、劣勢ではあるが準備のある軍隊は、しばしば、敵に対し不意の攻勢にでて、優勢な敵を打ち破ることができる。我々が運動中の敵は攻撃しやすいというのは、敵が不意、つまり準備のない状態にあるからである。この二つのこと――敵に錯覚をおこさせることと、不意打ちをかけることは、敵には戦争の不確実性をあたえ、自分はできるだけ大きな確実性をつかみ、これによって我が方の優勢と主動をかちとり、我が方の勝利をかちとることである。これを実現するには、すぐれた民衆組織が前提条件となる。従って、敵に反対するすべての民衆を立ちあがらせ、彼らをことごとく武装して、広範に敵を襲撃させる一方、それによって情報を封じ、我が軍を掩護させて我が軍がどこで、いつ攻撃にでるかという手がかりを敵につかませないようにし、敵が錯覚をおこし、不意をくらう客観的基礎をつくりだすこと、これは非常に重要である。かつての土地革命戦争時代の中国赤軍が、弱小な軍事力でいつも勝ちいくさをしたのは、組織され武装化した民衆の力に負うところが非常に大きかった。民族戦争は、道理からいって、土地革命戦争よりも一層広範な民衆の援助を勝ち取ることができるはずである。しかし、歴史的誤りのために、民衆はばらばらで、すぐには我々の役にたたせることがむずかしいばかりか、ときには敵から利用されることもある。戦争のすべての必要を無限にみたすには、断固として、ひろく、全民衆を立ちあがらせる以外にはない。このことは、敵に錯覚をおこさせ、敵の不意をついてこれにうち勝つというこの戦法においても、きっと大きな役割をはたすことになる。我々は宋の襄公ではなく、彼のようなばかげた仁義道徳を必要としない。自己の勝利を勝ち取るためには、我々は、敵の目と耳とをできるだけ封じて、彼らを肓とつんぼにし、敵の指揮員の頭をできるだけ混乱させて、彼らを気狂いにしてしまわなければならない。これらのこともすべて、主動または受動と主観の指導とのあいだの相互関係である。日本に勝利するにはこうした主観の指導は欠くことのできないものである。
 (八四)
 だいたいにおいて日本は、その進攻の段階では、その軍事力の強さや、我が方の歴史上および現在における主観の誤りを利用することによって、一般的には主動的地位にたっている。しかし、こうした主動は、既に、それ自身がもつ多くの不利な要素、彼らが戦争のなかでおかしたいくつかの主観の誤り(この点は後に詳しく述べる)、そしてまた、我が方に備わる多くの有利な要素によって、部分的に弱まりはじめている。敵の台児荘での失敗や、山西省での苦境は、そのあきらかな証拠である。敵の後方での我が方の遊撃戦争の広範な発展は、敵占領地の守備軍を完全に受動的地位にたたせている。敵はいまなお主動的な戦略的進攻をおこなってはいるが、その主動は、その戦略的進攻がやむにつれて終わりをつげるであろう。敵が兵力の不足から、無制限に進攻をおこなう可能性がないことは、敵が主動的地位を保ちつづけることのできない第一の根源である。我が方の戦役的進攻戦、敵の後方での遊撃戦争、およびその他の条件は、敵が一定の限度で進攻をやめなければならず、また主動的地位を保ちつづけることのできない第二の根源である。ソ連の存在とその他の国際情勢の変化は第三の根源である。このことからわかるように、敵の主動的地位には限界があり、また打ち破ることのできるものである。中国が、もし作戦方法のうえで主力軍による戦役上戦闘上の進攻戦を堅持し、敵の後方での遊撃戦争を猛烈に発展させるとともに、政治の面でも大いに民衆を立ちあがらせることができれば、我が方の戦略上の主動的地位は次第に確立していくことができる。
 (八五)
 次に弾力性について述べよう。弾力性とは何か。それは主動性を作戦のなかで具体的に実現していくものであり、つまり兵力を弾力的に使用することである。兵力を弾力的に使用することは、戦争指揮の中心任務であり、またそれをうまくやるのは、もっとも難しいことである。戦争という事業は、軍隊を組織し教育し、人民を組織し教育することなどをのぞけば、軍隊を戦闘に使用することであって、これらはすべて戦闘の勝利のためである。軍隊を組織することその他は、もとより困難ではあるが、軍隊を使用することはいっそう困難であり、弱をもって強にあたっている状況のもとでは特にそうである。そうするためには、きわめて大きな主観の能力が必要であり、戦争のもつ特質のうちの混乱、暗黒および不確実性を克服して、そのなかから条理、光明および確実性を探し出すことが必要である。そうしてはじめて、指揮のうえでの弾力性を実現することができるのである。
 (八六)
 抗日戦争における戦場作戦の基本方針は、外線的速決的な進攻戦である。この方針を遂行するには、兵力の分散と集中、分進と合繋、攻撃と防御、突撃と牽制、包囲と迂回(うかい)、前進と後退など様々の戦術または方法がある。これらの戦術を知るのはたやすいが、これらの戦術を弾力的に使いこなし、切り替えていくのは容易なことではない。そこには、時機、地点、部隊という三つのかなめがある。その時をえず、その所をえず、部隊の状態が当をえていないならば、いずれも勝利することはできない。例えば、運動中のある敵を攻撃するさい、攻撃が早過ぎれば、自己を暴露し、敵に防備の条件をあたえることになるが、攻撃が遅れれば、敵は集中、駐止してしまい、手ごわい相手となる。これが時機の問題である。突撃点を左翼にえらべば、ちょうど敵の弱い部分にあたって、容易に勝利をうるが、右翼にえらべば、敵の強い部分にぶつかって、効を奏することができない。これが地点の問題である。わが方のある部隊にある任務を実行させれば、容易に勝利をうるが、他の部隊に同じ任務を実行させても効果をあげにくい。これが部隊の状態の問題である。
戦術を使いこなすだけでなく、戦術を切り替えなければならない。敵と我が方の部隊や地形の状況に基づいて、適時、適切に、攻撃を防御に、防御を攻撃に、前進を後退に、後退を前進に、牽制隊を突撃隊に、突撃隊を牽制隊に切り替え、また包囲迂回などを相互に切り替えること、これが弾力的な指揮の重要な任務である。戦闘の指揮もそうであるし、戦役上戦略上の指揮もまたそうである。
 (八七)
 「
運用の妙は一心に存す」という古人の言葉のこの「妙」を、我々は弾力性と呼ぶのであり、それは聡明な指揮員の創作である。弾力性は盲動ではなく、盲動は拒否すべきである。弾力性とは、聡明な指揮員が客観的状況にもとづいて、「時機と形勢を判断し」 (この形勢には、敵の形勢、我が方の形勢、地勢などが含まれる)、適時、適切に処置をとる才能、つまり「運用の妙」というものである。この運用の妙にもとづくならば、外線的速決的な進攻戦は、より多くの勝利を勝ちとり、敵と我が方の優劣の形勢を転化させ、敵に対する我が方の主動権を実現し、敵を圧倒してこれを撃破することができ、最後の勝利は我々のものとなる。
 (八八)
 次に、計画性について述べよう。戦争に特有な不確実性のために、戦争で計画性を実現することは、他の事業で計画性を実現するよりもはるかに困難が多い。しかし、「
およそ事は前もって準備すれば成り、準備せざれば成らず」で、事前の計画と準備がなければ、戦争の勝利を勝ち取ることはできない。戦争には、絶対的な確実性はないが、ある程度の相対的な確実性がないわけではない。我々の側のことは比較的確実である。敵側のことはきわめて不確実であるが、探索すべき兆候もあれば、察知すべき糸口ももあり、思考に供すべき前後の現象もある。これがある程度の相対的確実性というものを構成しており、そこに戦争の計画性の客観的基礎がある。近代技術(有線電信、無線電信、飛行機、自動車、鉄道、汽船など)の発達が、さらに戦争の計画性を一層可能にしている。しかし、戦争には、かなり程度が低くて時間の短い確実性しかないので、戦争の計画性が完全かつ固定的であることは難しく、それは戦争の運動(または流動、推移)につれて運動し、また戦争の範囲の大小によって程度の違いがうまれる。戦術計画、たとえば小兵団や小部隊の攻撃計画、または防御計画は、一日のうちに数回変えなければならないことがよくある。戦役計画、即ち大兵団の行動計画は、だいたいにおいて戦役の終局まで続くが、その戦役のなかで、計画の部分的な変更はよくあるし、全面的な変更もときにはある。戦略計画は、戦争する双方の全般的状況に基づいて立てられるもので、固定の程度はより大きいが、やはり一定の戦略段階に適用されるだけであり、戦争が新しい段階に移れば変更する必要がある。戦術計画、戦役計画、及び戦略計画を、それぞれその範囲とその状況に応じて確定し変更することは、戦争指揮の重要なかなめであり、戦争の弾力性を具体的に実行することでもあり、また実際的な運用の妙でもある。抗日戦争の各級の指揮員は、この点に心を配るべきである。
 (八九)
 
一部の人は、戦争の流動性を理由に、戦争の計画、または戦争の方針の相対的固定性を根本から否定し、そのような計画または方針は「機械的」なものだという。このような見解は誤りである。前項で述べたように、戦争の状況は単に相対的な確実性しかもたず、戦争は迅速に流動する(または運動し、推移する)ものであるから、戦争の計画または方針にも、相対的固定性しかあたえられず、状況の変化と戦争の流動にもとづいて、これを適時に変更または修正しなければならない、そうしなければ機械主義者になってしまう、このことを我々は完全に認めるものである。しかし、一定期間内の相対的に固定した戦争の計画または方針を決して否定することはできない。この点を否定するならば、すべてを否定することになり、戦争そのもの、そういっている人自身までも、否定することになる。戦争の状況と行動にはいずれも相対的固定性があるので、それに応じてうまれる戦争の計画または方針にも、相対的固定性を与えなければならない。

 
例えば、華北の戦争の状況と八路軍の分散作戦の行動には一定段階内での固定性があるので、この一定段階内では、「基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない」という八路軍の戦略的作戦方針に、相対的固定性をあたえることが、ぜひとも必要である。戦役方針は、先に述べた戦略方針に比べると、適用の期間がいくらか短いし、戦術方針はそれよりももっと短いが、しかし、どちらも一定期間の固定性はもっている。この点を否定したら、戦争はやりようがなく、あれでもなく、これでもないとか、あれでもよく、これでもよいという、まったく定見のない、戦争の相対主義になってしまう。例えある一定期間内に適用される方針でも、それは流動するものであって、このような流動がなければ、その方針の廃止および他の方針の採用もありえないということは、誰も否定しない。しかし、この流動は制約のある流動、つまりこの方針を遂行する各種のことなった戦争行動の範囲内での流動であって、この方針の根本的性質の流動ではない、つまり質的な流動ではなくて、量的な流動である。このような根本的性質は、一定期間内は決して流動するものではなく、我々のいう一定期間内の相対的固定性とは、この点をさすのである。絶対的に流動している戦争全体の長い流れの過程には、それぞれの特定段階における相対的な固定性がある――これが戦争の計画または戦争の方針の根本的性質についての我々の見解である。
 (九〇)
 戦略上の内線的持久的な防御戦と戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦について述べ、主動性、弾力性、計画性についても述べたので、我々は、次のように締め括ることができる。抗日戦争は計画的に行われるべきである。戦争の計画、即ち戦略戦術を具体的に運用するに当っては、戦争の状況に適応するようそれに弾力性を持たせなければならない。また、敵と我が方のあいだの形勢を改めるために、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることを常に心がけなければならない。そして、これらはすべて、戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦にあらわれるし、同時にまた戦略上の内線的持久的な防御戦にもあらわれる。
 運動戦、遊撃戦、陣地戦
 (九一)
 戦争内容としての戦略的内線、戦略的持久、戦略的防御のなかでの戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦は、戦争形態のうえでは運動戦としてあらわれる。運動戦とは、正規兵団が長い戦線と広い戦区で戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦を行う形態である。同時に、それはこの進攻戦遂行の便宜のために、ある必要な時機に遂行されるいわゆる「運動的な防御」をも含むとともに、補助的役割をはたす陣地攻撃および陣地防御をも含んでいる。運動戦の特徴は、正規兵団、戦役と戦闘での優勢な兵力、進攻性と流動性である。
 (九二)
 中国は国土が広く、兵員も多いが、軍隊の技術と訓練が不足している。敵は兵力が不足しているが、技術と訓練とは比較的すぐれている。こうした状況のもとでは、疑いもなく、進攻的な運動戦を主要な作戦形態とし、他の形態を補助として、全体としての運動戦を構成すべきである。このばあい、「後退するだけで前進しない」という逃走主義に反対しなければならないし、同時に「前進するだけで後退しない」という体当たり主義にも反対しなければならない。
 (九三)
 運動戦の特徴の一つは、その流動性であって、野戦軍の大幅の前進と後退がゆるされるばかりでなく、またそれが要求ざれる。しかし、これは韓復榘(ハンフーチュイ)流の逃走主義
〔23〕とはなんの共通点もない。戦争の基本的要求は敵の消滅であり、もう一つの要求は自己の保存である。自己を保存する目的は敵を消滅することにあり、敵を消滅するのはまた自己を保存するもっとも効果的な手段である。従って、運動戦は決して韓復榘のたぐいの口実にはならないし、決して後退運動だけで前進運動がないというものではない。そのような「運動」は、運動戦の基本となる進攻性を否定するもので、それを実行すれば、いくら中国が大きくても、「運動」しつぶされてしまうであろう。
 (九四)
 しかし、もう一つの考え、即ち前進するだけで後退しない体当たり主義も間違っている。我々は戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦を内容とする運動戦を主張するが、このなかには補助的役割をはたす陣地戦も含まれるし、「運動的な防御」と退却も含まれており、これらがなければ、運動戦は十分に遂行できない。体当たり主義は軍事上の近視眼であり、その根源は往々にして土地の喪失をおそれるところにある。体当たり主義者は運動戦の特徴の一つが流動性であって、野戦軍の大幅の前進と後退がゆるされるばかりでなく、またそれが要求されるということを知らないのである。積極面からいえば、敵を不利におとしいれ、我が方の作戦を有利にするためには、常に、敵が運動中にあることが要求され、また、有利な地形、攻撃に通した敵情、情報を封ずることのできる住民、敵の疲労及び不意など、我が方に有利な多くの条件が要求される。そのためには、敵の前進が要求されるのであり、一時的に一部の土地を失なっても、惜しくはない。なぜなら、一時的、部分的な土地の喪失は、全面的、永久的な土地の保持と土地の回復の代価だからである。消極面からいえば、不利な地位に追い込まれ、軍事力の保存が根本から危うくなった場合には、軍事力を保存して、新しい時機に再び敵に打撃を加えるため大胆に退却すべきである。体当たり主義者はこの道理がわからず、決定的に不利な状況にあることがはっきりしているのに、なおも一都市、一地区の得失を争い、その結果は、都市も地区も失うだけでなく、軍事力さえも保存できなくなる。我々がこれまで「敵を深く誘いいれる」ことを主張してきたのは、それが戦略的防御の立場にある弱軍が強軍と戦うもっとも効果的な軍事政策だからである。
 (九五)
 抗日戦争の作戦形態のうち、主要なものは運動戦であり、その次には遊撃戦があげられる。我々が戦争全体を通じて運動戦が主要なものであり、遊撃戦は補助的なものであるというのは、戦争の運命を決するものが主として正規戦、なかでも運動戦であって、遊撃戦は戦争の運命を決する主要な責任をになうことができないということである。しかし、このことは、抗日戦争における遊撃戦の戦略的地位が重要でないという意味ではない。遊撃戦の補助がなくては、敵にうち勝つこともできないから、抗日戦争全体における遊撃戦の戦略的地位は、運動戦につぐにすぎない。それは、遊撃戦を運動戦に発展させるという戦略的任務を含めてこういっているのである。長期の残酷な戦争のなかで、遊撃戦はもとの地位にとどまらず、それ自身を運動戦にたかめていくであろう。このように、遊撃戦の戦略的役割にはニつの面がある。一つは正規戦を補助すること、もう一つは自らをも正規戦に変えていくことである。中国の抗日戦争における遊撃戦の空前の広大さと空前の持久性という意義からいえば、その戦略的地位はなおさら軽視できないものである。従って、中国では、遊撃戦そのものに、戦術問題だけでなく、特殊な戦略問題もふくまれている。この問題については、既に私は『抗日遊撃戦争の戦略問題』の中でのべておいた。先にのべたように、抗日戦争の三つの戦略段階での作戦形態としては、第一段階では、運動戦が主要なもので、遊撃戦と陣地戦が補助的なものである。第二段階では、遊撃戦が主要な地位にのぼり、運動戦と陣地戦がこれを補助する。第三段階では、運動戦が再び主要な形態となり、陣地戦と遊撃戦がこれを助ける。しかし、この第三段階での運動戦は、もはや元の正規軍がすべてを担当するのではなく、もとの遊撃軍が遊撃戦を運動戦にまでたかめて、その一部、おそらく相当重要な一部を担当するであろう。三つの段階からみて、中国の抗日戦争での遊撃戦は、決してあってもなくてもよいものではない。それは人類の戦争史に、空前の偉大な一幕を演ずるであろう。こうした理由から、全国の数百万の正規軍のうち、少なくとも数十万を指定し、かれらを敵のあらゆる占領地区に分散させて、民衆を武装化させ、これに呼応して遊撃戦争を行なわせることが、ぜひとも必要である。それに指定された軍隊は、自覚をもってこの神聖な任務をになうべきであり、大きな戦いをあまりしないため、一時は民族英雄らしくみえないところから、格がさがるかのように考えてはならない。これは誤った考え方である。遊撃戦争は正規戦争のような迅速な成果と派手な名声はないが、「
道遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を知る」といわれるように、長期の残酷な戦争のなかでその大きな威力をあらわすであろう。それは実になみたいていな事業ではないのである。そのうえ、正規軍は分散して遊撃戦を行うが、集結すれば運動戦を行うこともできるのであって、八路軍はまさにそのようにしている。八路軍の方針は、「基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない」というものである。この方針はまったく正しく、この方針に反対する人々の観点は正しくない。
 (九六)
 防御的、攻撃的な陣地戦は、中国の今日の技術的条件のもとでは、どちらも一般に行うことのできないものであり、これは我々の弱さの現れでもある。そのうえ、敵は中国の土地が広いという点を利用して、我々の陣地施設をよけるのである。従って、陣地戦は重要な手段として採用できず、まして主要な手段として採用できないことはいうまでもない。しかし、戦争の第一、第二の二つの段階では、運動戦の範囲に含まれていて、戦役作戦のうえで補助的役割をはたす局部的な陣地戦を行うことは、可能であり、必要でもある。一歩ごとに抵抗して敵を消耗させ時間的余裕をかちとるという目的で、半陣地戦的ないわゆる「運動的な防御」を採用するのは、なおさらのこと運動戦の必要な部分である。中国は、戦略的反攻の段階で十分に陣地攻撃の任務をはたせるよう、新式兵器の増加に努力すべきである。戦略的反攻の段階では、疑いもなく、陣地戦の地位は高まるであろう。なぜなら、その段階では、敵は陣地を固守するであろうし、我が方としても運動戦に呼応する強力な陣地攻撃を行なわなければ、失地回復の目的を達することができないからである。そうはいっても、第三段階では、我々はやはり運動戦を戦争の主要な形態とするように努めなければならない。なぜなら、第一次世界大戦の中期以後における西ヨーロッパのような陣地戦となると、戦争の指導芸術と人間の積極性は、おおかた役にたたなくなってしまうからである。そして、広大な国土をもつ中国の領土内での戦いでは、相当長期にわたって、中国側には、依然として技術的に貧弱という事情が続くので、「戦争を塹壕から解放する」ということがおのずからあらわれる。第三段階でも、中国の技術的条件は改善されるとはいえ、やはり敵をしのぐことができるとは限らず、従って、どうしても、高度の運動戦に力をそそがなければ、最後の勝利の目的は達っせられない。このように、抗日戦争全体を通じて、中国は陣地戦を主要な形態とすることはありえず、主要な、また重要な形態は運動戦と遊撃戦である。これらの戦争形態では、戦争の指導芸術と人間の積極性を十分に発揮する機会があたえられる。これはまた我々にとって不幸中の幸いでもある。
 消耗戦、殲滅戦
 (九七)
 前にも述べたように、戦争の本質即ち戦争の目的は、自己を保存し、敵を消滅することである。そして、この目的を達するための戦争形態には、連動戦、陣地戦、遊撃戦の三つがあるが、これが実現されたさいの効果に程度の違いがあることから、一般的には、いわゆる消耗戦と殲滅戦の区別がある。
 (九八)
 まず第一に、抗日戦争は消耗戦であると同時に、殲滅戦でもあるといえる。なぜか。敵の強さの要素がまだ作用しており、敵の戦略上の優勢と主動性が依然として存在しているので、戦役上戦闘上の獺減戦を通じなければ、効果的に迅速に敵の強さの要素を減殺し、敵の優勢と主動性をうちやぶることはできない。わが方の弱さの要素も依然として存在しており、戦略上の劣勢と受動性からまだぬけきっていないので、国内的、国際的な条件を強化し、自分の不利な状態を改める時間をかちとることも、戦役上戦闘上の殲滅戦を通じなければ、できるものではない。従って、戦役上の殲滅戦は、戦略上の消耗戦という目的を達するための手段である。この点からいえば、殲滅戦は即ち消耗戦である。中国が持久戦を行うことができるのは、殲滅で消耗をはかることを主要な手段とするからである。
 (九九)
 だが、戦略的消耗の目的を達するものとしては、このほかに戦役上の消耗戦がある。だいたいにおいて、運動戦は殲滅の任務を遂行するもの、陣地戦は消耗の任務を遂行するもの、遊撃戦は消耗の任務を遂行すると同時に殲滅の任務をも遂行するものであって、この三者のあいだには違いがある。この点からいえば、殲滅戦は消耗戦と異なる。戦役上の消耗戦は補助的なものではあるが、やはり持久作戦に必要なものである。
 (一〇〇)
 理論上また必要上からいえば、中国は防御段階では、敵を大量に消耗させる戦略目的を達するため、運動戦のもつ主要な殲滅性、遊撃戦のもつ部分的な殲滅性を利用し、それに加えて、補助的性質の陣地戦の持つ主要な消耗性と、遊撃戦の持つ部分的な消耗性を利用すべきである。対特段階では、さらに敵を大量に消耗させるため、遊撃戦と運動戦の持つ殲滅性と消耗性を引き続き利用する。すべてこれらは、戦局を持久させ、次第に敵と我が方の形勢を変化させて、反攻の条件を準備するためである。戦略的反攻のさいには、最終的に敵を駆逐するために、引き続き殲滅で消耗をはかるのである。
 (一〇一)
 だが、事実上、十ヵ月の経験では、いくたの、それどころか大多数の運動戦の戦役が消耗戦になってしまい、遊撃戦のもつべき殲滅の役割も、一部の地区では、まだそれにふさわしい程度にまでたっしなかった。このような状況の長所は、なにはともあれ、我々が敵を消耗させたことであって、それは持久作戦と最後の勝利にとって意義があり、我々の血はむだに流されたのではないということである。しかし、欠点は、一つには、敵を消耗させることが不十分であったこと、二つには、われわれ自身、消耗が比較的多く、戦利品が比較的少なくならざるをえなかったことである。このような状況の客観的原因、つまり敵とわが方の技術および兵員の訓練の程度の相異は認めるべきであるが、しかし、理論的にも、実際的にも、あらゆる有利なばあいに、主力軍はつとめて殲滅戦をおこなうべきことを、どうしても提唱しなければならない。遊撃隊は、破壊や攪乱などの多くの具体的任務を遂行するために、単純な消耗戦をおこなわなければならないとはいえ、やはり、敵を大量に消耗させしかも自己を大量に補充する目的をたっするよう、戦役上戦闘上のあらゆる有利なばあいの殲滅的な戦いを提唱し、その実行に努力すべきである。
 (一○二)
 外線的速決的な進攻戦のいわゆる外線、速決、進攻、そしてまた運動戦のいわゆる運動は、戦闘形態のうえでは、主として包囲と迂回の戦術をとるものであり、従って優勢な兵力を集中しなくてはならない。だから、兵力を集中して、包囲迂回の戦術をとることは、運動戦、つまり外線的速決的な進攻戦を実行するのに必要な条件である。そして、すべてこれらは敵を殲滅するという目的のためである。
 (一○三)
 日本軍隊の長所は、その武器にあるばかりでなく、さらにその将兵の訓練―その組織性、過去に敗戦したことがないために生まれた自信、天皇や神に対する迷信、傲慢不遜(ごうまんふそん)、中国人に対する蔑視などにある。これらの特徴は、日本軍閥の多年の武断的教育と日本の民族的慣習によってつくられたものである。我が軍は日本軍にきわめて多くの死傷者をださせたが、捕虜にしたのはきわめて少なかったという現象の主な原因はここにある。この点については、これまで多くの人々の評価は不十分であった。こうしたものをうちこわすには、長い過程が必要である。何よりもまず我々がこの特徴を重視し、そのうえで、辛抱強く、計画的に、政治、国際宣伝、日本人民の運動など多くの面から、この点に対して働きかける必要がある。そして軍事上の殲滅戦もその方法の一つである。ここで、悲観主義者はこの点をよりどころにして亡国論にもっていくだろうし、消極的な軍事家はまたこの点をよりどころにして殲滅戦に反対するだろう。これとは反対に、我々のみるところ、日本軍隊のこのような長所は打ち壊せるものであり、しかも打ち壊されはじめている。打ち壊す方法は、主として政治の面から勝ち取ることである。日本の兵士に対しては、その自尊心を傷つけるのではなくて、彼らの自尊心を理解し、それを正しく導くことであり、捕虜を寛大に取り扱うやり方からはじめて、日本の支配者の反人民的な侵略主義を理解できるように彼らを導くことである。もう一つの面では、彼らの前に、中国軍隊と中国人民の不屈の精神と英雄的な頑強な戦闘力を示すこと、即ち殲滅戦による打撃を与えるることである。作戦上からいえほ、十ヵ月の経験は殲滅が可能なことを立証しており、平型関、台児荘などの戦役がその明らかな証拠である。日本軍の士気は動揺を見せ始め、兵士は戦争目的が分からず、中国軍隊と中国人民の包囲のなかにおちいって、突撃の勇気は中国兵よりはるかに劣っているなど、これらは皆な我が方が殲滅戦を行うのに有利な客観的条件であり、これらの条件は戦争の持久にともない日ましに発展していくであろう。殲滅戦によって敵軍の気勢をそぐという点からいえば、殲滅はまた戦争の過程をちぢめ、日本の兵士と日本の人民を解放する時期を早める条件の一つでもある。世の中には、猫と猫が仲よしになることはあっても、猫と鼠が仲よしになるようなことはない。
 (一〇四)
 もう一つの面では、技術及び兵員の訓練の程度のうえで、現在我々が敵に及ばないことを認めるべきである。従って、最大限度の殲滅、たとえば全部又は大部分を捕虜にすることは、多くの場合、ことに平原地帯での戦闘では困難である。速勝論者のこの面での過大な要求も間違っている。抗日戦争の正しい要求は、できるかぎりの殲滅戦を行うことでなければならない。有利な場合にはすべて、一つ一つの戦いで優勢な兵力を集中して、包囲迂回の戦術をとる――その全部を包囲できなくてもその一部を包囲し、包囲した全部のものを捕虜にできなくても包囲したものの一部を捕虜にし、包囲したものの一部を捕虜にできなくても包囲したものの一部に大量の死傷者をださせる。しかし、
殲滅戦を行うのに不利な場合にはすべて、消耗戦を行う。前者の場合には兵力集中の原則を用い、後者の場合には兵力分散の原則を用いる。戦役上の指揮関係では、前者の場合には集中的指揮の原則を用い、後者の場合には分散的指揮の原則を用いる。これらが、とりもなおさず抗日戦争における戦場作戦の基本方針である。
 敵のすきに乗ずる可能性
 (一〇五)
 敵にうち勝つことができる基礎は、敵の指揮の面にもある。昔から、誤りをおかさない将軍はない。ちょうど我々自身も手落ちを避けがたいのと同様、利用される手落ちは敵にもあり、敵のすきに乗ずる可能性は存在する。戦略上戦役上からいえば、敵は十ヵ月の侵略戦争中に、既に多くの誤りをおかした。そのうち大きなものをあげると五つある。第一は、兵力を小出しに増やしたこと。これは敵の中国に対する評価の不十分さからきたもので、また彼ら自身の兵力不足という原因もある。敵は、従来我々をみくびり、東北四省のことでうまい汁を吸ってから、さらに河北省東部、察哈爾(チャーハール)省北部をも占領したが、これらは敵の戦略的偵察とみることができよう。彼らの得た結論は、中国人はばらばらの砂だということであった。そこから、彼らは、中国は一撃にも値しないと思い込み、いわゆる「速決」の計画をたてて、わずかばかりの兵力を繰り出し、我々をおどかしてつぶそうと企てた。十ヵ月来、中国が示したこれほど大きな団結とこれほど大きな抵抗力を、彼らは予想もしなかったし、中国が既に進歩の時代にあること、中国には既に先進的な政党、先進的な軍隊及び先進的な人民があることを念頭においていなかった。いよいよだめだとなると、十数個師団から次々と小出しに三十個師団に増兵した。さらに前進するには、もっと増兵しなければならない。しかし、ソ連との対立により、また彼らの人力、財力の先天的な不足によって、日本の最大の出兵数と最後の進攻点はどちらも一定の制約をうけざるをえない。第二は、主攻方向がないこと。台児荘戦役以前は、敵は華中、華北にだいたい兵力を均分しており、両者の内部でもそれぞれ兵力を均分していた。例えば、華北では天津=浦口(プーコウ)鉄道、北京=漢□鉄道、大同=風陵渡鉄道の三路に兵力を均分していたが、各路とも死傷者を一部だし、占領地の駐屯守備に一部をさいたので、それ以上前進する兵力はなかった。台児荘の敗北後は、その教訓を総括して、主力を徐州方面に集中したので、この誤りは、ひとまず一時的に改められた。第三は、戦略的協同がないこと。敵の華中、華北の両集団のうち、それぞれの集団内部にはだいたい協同があるが、両集団間には協同がきわめて少ない。天津=浦口鉄道の南部区間の部隊が小[虫+”邦の「へん」”]埠《シァオパンプー》を攻撃したさいには、北部区間の部隊は動かず、北部区間の部隊が台児荘を攻撃したさいには、南部区間の部隊が動かなかった。両方面ともに苦杯をなめたのち、陸軍大臣が視察にやってきたり、参謀総長が指揮のためにやってきたりして、ひとまず一時的には協調ができた。日本の地主・ブルジョア階級および軍閥の内部にはかなり深刻な矛盾があって、この矛盾は発展しつつあり、戦争における協同の欠如がその具体的なあらわれの一つである。第四は、戦略的時機を逸したこと。この点は南京(ナンチン)、太原両地占領後の停頓に顕著にあらわれているが、それは主として兵力が不足し、戦略的追撃隊がなかったからである。第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州(ツァンチョウ)、保定(パオティン)、南口(ナンコウ)、忻口(シンコウ)、臨汾(リンフェン)の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。この五つの点――兵力を小出しに増やしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を逸したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役以前、日本の指揮のまずかった点である。台児荘戦役以後、多少は改められたが、その兵力の不足や内部矛盾の諸要素のため、誤りをくり返すまいとしてもそれは不可能である。そのうえ、こちらで得れば、あちらで失ううというありさまである。例えば、華北の兵力を徐州に集中すると、華北の占領地には大きな空白が生じて、遊撃戦にぞんぶんに発展する機会をあたえることになった。以上は、敵が自分でしでかした誤りであって、我々が誤まらせたのではない。我が方はなお、意識的に敵の誤りをつくりだすこと、即ち自己の聡明で効果的な行動によって、組織された民衆の掩護のもとに、敵に錯覚をおこさせ、敵を我々の土俵に引き入れることができる。例えば、東を撃つとみせて西を撃つなどがそれであるが、こうしたことの可能性については前に述べた。これらすべては、我が方の戦争の勝利が敵の指揮の面にもある種の根源を見いだせることを説明している。もちろん、我々はこの点を我が方の戦略計画の重要な基礎とすべきではなく、反対に、我が方の計画はむしろ敵があまり誤りをおかさないという仮定のうえに立てるべきであり、これこそ確かなやり方である。しかも、我が方が敵の隙に乗ずるとすれば、敵も我が方の隙に乗ずることができるわけで、敵に利用されるような隙をできるだけあたえないことが、我々の指揮の面での任務でもある。しかし、敵の指揮の誤りは、事実上あったし、また今後もおこるであろうし、そのうえ、我が方の努力によってつくりだすこともできる。これらはいずれも我が方に利用できるもので、抗日の将軍たちは極力それをとらえるようにしなければならない。敵の戦略上戦役上の指揮にはまずいところが多いが、その戦闘の指揮、即ち部隊の戦術や小兵団の戦術には、かなりすぐれたところがあり、この点については我々は彼らに学ぶべきである。
 抗日戦争における決戦の問題
 (一〇六)
 抗日戦争における決戦の問題は次の三つに分けることができる。即ち勝算のあるすべての戦役と戦闘では断固として決戦を行うべきこと、勝算のないすべての戦役と戦闘では決戦を避けるべきこと、国の運命をかける戦略的決戦は絶対に避けるべきことである。抗日戦争が他の多くの戦争と異なる特徴は、この決戦の問題にもあらわれている。第一、第二の段階では、敵が強くて我が方が弱いので、敵は我が方が主力を集中して敵と決戦することを要求する。これとは逆に、我が方の要求は、平型関、台児荘、その他の多くの戦闘のように、有利な条件を選び、優勢な兵力を集中して、戦役上戦闘上の勝算のある決戦を行い、彰徳(チャントー)などの戦役でとられた方針のように、不利な条件のもとでの勝算のない決戦を避けることである。国の運命をかける戦略的決戦は断じて行わない。最近の徐州撤退はその例である。こうして、敵は「速決」計画を破られ、我々にひきずられて持久戦を行わざるをえなくなる。このような方針は、領土の狭い国ではとれないし、政治的にひどく遅れた国でもなかなかとれない。我々は大国であり、そのうえ進歩の時代にあるので、これが実現できるのである。もし戦略的な決戦を避けたならば、「青山あるかぎり、薪(たきぎ)に心配なく」、若干の土地を失っても、なお、広大な機動の余地があって、国内の進歩、国際的増援及び敵の内部的崩壊を促し、これを待つことができる。これが抗日戦争の上策である。せっかち病の速勝論者は、持久戦の苦難な道のりを耐え抜くことができないで、連勝を企て、形勢が少しでも好転してくると、すぐに戦略的決戦の声を張り上げるが、もしそのようにすれば、抗戦全体が大損害を蒙って、持久戦はそのために葬りさられ、まんまと敵の奸計にひっかかってしまう。これはまったく下策である。決戦しない以上、土地を放棄しなければならなくなることは疑問の余地がないが、避けることのできない状況のもとでは(またこのような状況のもとでだけ)、大胆に放棄するほかない。このような状況になった場合には、いささかも未練を残すべきでなく、これは土地を時間と取り替える正しい政策である。歴史上では、ロシアは決戦を避けて、大胆に退却し、一世を風靡(ふうび)したナポレオンにうち勝った
。現在、中国もまたそうすべきである。
 (一〇七)
 「無抵抗」と他人に非難されるのを恐れないのか。恐れない。全然戦わず、敵と妥協すること、これは無抵抗主義であって、非難すべきであるばかりか、まったくゆるせない。断固として抗戦するが、敵の奸計を避け、我が軍の主力が敵の一撃のもとについえさって、抗戦の継続に響くことがないようにするため、一言でいえば、亡国を避けるために、そうすることはぜひとも必要である。この点に疑いを差し挟むのは、戦争問題における近視眼であって、その結果はかならず亡国論者の仲間入りをすることになる。我々が、「前進するだけで後退しない」という体当たり主義を批判したのは、このような体当たり主義が一般の風潮となれば、その結果は、抗戦の継続を不可能にし、最後には亡国に導く危険があるからである。
 (一〇八)
 我々は、戦闘であろうと、大小の戦役であろうと、有利な条件のもとではすべて決戦をおこなうことを主張し、この点では、どのような消極性もゆるさない。敵を殲滅し、敵を消耗させる目的をたっするには、このような決戦をおこなう以外になく、抗日軍人はだれでもみな、断固としてそうしなければならない。この目的のためには、部分的な、かなり大量の犠牲が必要であり、どのような犠牲をもさけようとする観点は臆病者と恐日病患者の観点であって、それには断固として反対しなければならない。李服膺《リーフーイン》、韓復榘らの逃走主義者を死刑に処したが、それは正しかった。戦争において勇敢な犠牲、英雄的な前進の精神と行動を提唱することは、正しい作戦計画のもとでは絶対に必要なことであり、持久戦及び最後の勝利ときりはなすことができない。我々が「後退するだけで前進しない」という逃走主義をきびしく非難し、厳格な規律の励行を支持したのは、こうした正しい計画のもとでの英雄的決戦をおこなわないかぎり強敵にうち勝つことができないからであり、逃走主義は亡国論の直接の支持者だからである。
 (一〇九)
 先に英雄的に戦っておいて、あとで土地を放棄するのは、自己矛盾ではないか。これらの英雄的な戦闘員の血は、むだに流されたことにならないか。これはまったく当をえない問題提起である。先に飯をたべておいて、あとで便所にいくのでは、たべた飯がむだにならないか。さきに眠っておいて、あとで起きるのでは、眠ったのがむだにならないか。問題をこんなふうに提起できるであろうか。私はできないとおもう。飯をたべれはずっとたべつづけ、眠ればずっと眠りつづけ、英雄的に戦えばずっと鴨緑江の岸辺まで戦い続けるというのは、主観主義と形式主義の幻想であって、実際生活には存在しない。誰でも知っているように、時間をかちとり、反攻を準備するために血を流して戦ったことによって、例え一部の土地の放棄は避けられなかったとしても、時間は勝ち取られ、敵を殲滅し、敵を消耗させる目的は達せられ、我が方の戦闘経験はえられ、これまで立ちあがらなかった人民は立ちあがり、国際的地位は高まった。このような血は無駄に流されたのだろうか。少しも無駄に流されたのではない。土地を放棄するのは軍事力を保存するためであり、またまさに土地を保存するためでもある。なぜなら、不利な条件のもとにありながら土地を部分的に放棄することをせず、勝算のまったくない決戦を盲目的にやるならば、その結果は、軍事力を喪失したのち、必ず続いて全部の土地を喪失し、失地回復どころの話ではなくなってしまうからである。資本家が商売をするには元手が必要で、すっかり破産してしまえば、もう資本家ではなくなる。ばくち打ちにも元がいり、一か八か有り金を全部張ってしまって、運悪くあたらなければ、それ以上賭けようがなくなる。事物は思い通りにまっすぐ進むものではなく、反復したり、曲折したりするものであり、戦争もこれとおなじであって、この道理に納得がいかないのは、形式主義者だけである。
 (一一〇)
 私の考えでは、戦略的反攻の段階での決戦においてもまた同じである。そのときには、敵が劣勢で、我が方は優勢にたつが、やはり「有利な決戦をおこない、不利な決戦を避ける」という原則が適用され、鴨緑江の岸辺に進撃していくまですべてそうである。このようにすれば、我が方は終始主動にたつことができるのであり、敵の「挑戦状」や、他の人の「けしかけの手」は、すべてたな上げにし、無視すべきで、少しでもそれに動かされてはならない。抗日の将軍たちは、このような確固としたところがなければ、勇敢で聡明な将軍とはいえない。これは「触れるとすぐ跳びあがる」ような人間には、縁のないことである。第一段階では、我が方はある程度の戦略的受動にあるが、戦役のうえではすべて、主動にたつべきであり、その後のどの段階においても主動にたつべきである。
我々は、ばくち打ちのような一か八か論者ではなく、持久論者であり、最後勝利論者である。
 兵士と人民は勝利のもとである
 (一一一)
 日本帝国主義は、革命的な中国を前にして、けっしてその進攻と弾圧の手をゆるめるものではなく、その帝国主義的本質がこれを規定している。中国が抵抗しなければ、日本は一発の弾丸も使わずに、楽々と中国を占領できるのであり、東北四省の喪失がその前例である。中国が抵抗すれば、日本はこの抵抗力に圧迫を加え、その圧力が中国の抵抗力をしのげなくなるまでは停止しない。これは必然の法則である。日本の地主・ブルジョア階級の野心はきわめて大きく、南は東南アジアを攻撃し、北はシベリアを攻撃するために、中間突破の方針をとり、まず中国を攻撃しているのである。日本は華北と江蘇、淅江一帯を占領してしまえば、適当に停止するだろうと考えている人々は、新しい段階に発展して死線に近づいてきた日本帝国主義が、もはや過去の日本とは異なっていることを全然みていないのである。我々が、日本の出兵数と進攻点には一定の限界があるというのは、次のことを意味している。即ち、日本の側は、その力の基礎のうえでは、さらに他の方面にも進攻するとともに、別の方面の敵をも防御する必要があるため、中国を攻撃するのに一定程度の力しかさくことができず、しかもその力の及びうる限度までしか攻撃できないということ、一方中国の側は、自己の進歩と頑強な抵抗力を示しており、一日本が猛攻するだけで中国には必要な抵抗力がないなどとは考えられないということである。日本は全中国を占領することはできないが、その力の及びうる地区では、全力をあげて中国の抵抗を弾圧し、その内外の条件によって日本帝国主義が墓場においこまれる直接的な危機がやってくるまでは、このような弾圧を停止することはありえない。
日本の国内政治には二つの道しかない。その一つは、権力をにぎる階級全体が急速に崩壊し、政権が人民の手にわたり、それによって戦争が終わることであるが、当分その可能性はない。もう一つは、地主・ブルジョア階級が日ましにファッショ化していき、自己の崩壊の日がくるまで戦争を持続していくことであり、日本がすすんでいるのはまさにこの道である。このほかに第三の道はない。日本のブルジョア階級の穏健派がでてきて戦争をやめさせるだろうと望むのは、単なる幻想にすぎない。日本のブルジョア階級の穏健派は、既に地主と独占金融資本のとりこになっており、これが長年の日本の政治の実際である。日本が中国を攻撃してのち、もし中国の抗戦がまだ日本に致命的な打撃をあたえず、日本にまだ十分な力があるとすれば、日本はさらに東南アジアまたはシベリアを攻撃するに違いないし、ひいてはその両方とも攻撃するかもしれない。ヨーロッパで戦争が起これば、日本はこの挙にでるであろう。日本の支配者の皮算用は非常にけたが大きい。もちろん、ソ連が強大なことや、日本が中国での戦争で大いに弱まることから、日本がもとのシベリア進攻計画を中止して、シベリアに対する根本的な守勢をとらざるをえなくなる可能性もある。しかし、このような状況があらわれたときには、日本は中国への進攻をゆるめるのではなくて、逆に中国への進攻をつよめるであろう。なぜならそのときには、日本には弱者を餌食(えじき)にする道しか残っていないからである。そのときには、中国の抗戦堅持、統一戦線堅持、持久戦堅持の任務は、なおさら重大さをまし、いささかのたるみもゆるされなくなる。
 (一一二)
 このような状況のもとで、中国が日本に勝利する主要な条件は、全国的に団結することと、各方面でこれまでより十倍も百倍も進歩することである。中国はすでに進歩の時代にあり、すでに偉大な団結もできているが、現在の程度ではまだ非常に不十分である。日本の占領する土地がこのように広いのは、一方では日本の強さ、地方では中国の弱さによるが、この弱さはまったく百年らい、ことにこの十年らいのいろいろな歴史的あやまりがつみかさなった結果であって、これが中国の進歩的要素を今日の状態に限定しているのである。現在、このような強敵にうち勝つには、長期にわたる大きな努力なしには、不可能である。努力すべきことはたくさんあるが、わたしは、ここではただもっとも根本的な二つの面、即ち軍隊の進歩と人民の進歩についてだけのべよう。
 (一一三)
 軍制の革新には、その近代化、技術的条件の増強がなくてはならず、この点がなければ、敵を鴨緑江の向こう側に追い出すことはできない。軍隊を使用するには進歩的な、弾力的な戦略戦術が必要であり、この点がなければ、やはり勝利することはできない。しかし、軍隊の基礎は兵士であって、進歩的な政治精神を軍隊に注ぎ込まなければ、それを注ぎ込むための進歩的な政治工作がなければ、将校と兵士とのあいだの真の一致は達成できず、将兵の抗戦の熱情を最大限に燃えたたせることはできず、すべての技術や戦術もそれにふさわしい効力を発揮する最良の基礎はえられなくなる。日本は技術的条件はすぐれているが最後には必ず失敗するというのは、我々が彼らに殲滅や消耗の打撃をあたえるということのほかに、その軍隊の士気が我々の打撃につれて、遂には必ず動揺して、武器と兵員との結合がしっくりいかなくなるということである。我々はその逆で、抗日戦争の政治目的では、将兵ともに一致している。この点にすべての抗日軍隊の政治工作の基礎がある。軍隊では、一定限度の民主化を実行すべきであり、主として、なぐったりどなったりするような封建主義的な制度を廃止して、将兵が苦楽を共にするようにすべきである。こうすれば、将兵の一致という目的が達せられ、軍隊はこのうえなく戦闘力を増し、長期の残酷な戦争が支えられない心配はなくなる。
 (一一四)
 戦争の偉力のもっとも深い根源は民衆のなかにある。日本が我々をあなどるのは、主として中国の民衆が無組織の状態にあるからである。この欠点が克服されれば、日本侵略者は火の海にとびこんできた野牛のように、立ちあがった我々数億の人民の面前にひきすえられ、我々の一喝でとびあがり、かならず焼け死んでしまう。我々の側では、軍隊はたえまなく補充しなければならないが、現在地方ででたらめにやられている「兵隊狩り」、「身代わり兵買い」をただちに禁止して、広範な熱烈な政治的動員にきりかえるべきであり、そうすれば、数百万人を軍隊に参加させることも容易である。抗日のための財源には大きな困難があるが、民衆を動員すれば、財政も問題にならない。このように土地が広く、人口の多い国で財政窮乏を憂える理由などがどこにあろうか。軍隊は、民衆から自分の軍隊とみなされるよう、民衆と一体になるべきである。そうなれば、この軍隊は天下無敵となり、日本帝国主義ぐらいを打ち破るのは物の数ではなくなる。
 (一一五)
 将兵関係、軍民関係がうまくいかないのは、方法が間違っているからだと思っている人がたくさんいるが、私は、常に彼らに、それは兵士を尊重し人民を尊重するという根本的な態度(あるいは根本的なたてまえ)の問題であるといってきた。この態度からいろいろの政策、方法、方式がうまれるのである。この態度がなければ、政策、方法、方式も必ず間違ってくるし、将兵のあいだ、軍民のあいだの関係もけっしてうまくいかない。軍隊の政治工作の三大原則は、第一が将兵一致であり、第三が軍民一致であり、第三が敵軍瓦解である。これらの原則を効果的に実行するには、兵士の尊重、人民の尊重、すでに武器を放棄した敵軍の捕虜の人格の尊重という根本的な態度から出発しなければならない。これらのことを根本的な態度の問題ではなくて、技術的な問題だと考える人々は、まったく考え違いをしているのであって、ぜひ改めなければならない。
 (一一六)
 武漢地方の防衛が緊急任務となっているこのさい、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて戦争を支えていくことは、非常に重大な任務である。武漢地方を防衛する任務は、疑うまでもなく、真剣ににこれを提起し遂行しなければならない。しかし、はたして、確実に防衛できるかどうかは、主観的な願望によって決まるのではなくて、具体的な条件によってきまる。全軍隊、全人民が奮起するよう政治的に動員することが、もっとも重要な具体的な条件の一つである。すべての必要な条件を勝ち取ることに努力しないなら、それどころか必要な条件の一つでも欠けるなら、いきおい、南京などを失った二の舞いを演じることになる。中国のマドリード⑬がどこになるかは、どこにマドリードの条件が備わるかにかかっている。これまでは一つのマドリードもなかったが、今後はいくつかのマドリードをつくりだすよう努めるべきで、それはまったく条件如何にかかっている。条件のうちのもっとも基本的なるのは全軍隊、全人民の広範な政治的動員である。
 (一一七)
 すべての活動において、抗日民族統一戦線の全般的方針を堅持すべきである。なぜなら、この方針によってのみ、抗戦を堅持し、持久戦を堅持することができ、将兵関係、軍民関係を広く深く改善することができ、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて、まだ失われていないすべての地区を防衛し、既に失われたすべての地区を奪回するために戦うことができ、そして最後の勝利を闘いとることができるからである。
 (一一八)
 軍隊と人民を政治的に動員するという問題は、実際あまりにも重要である。我々が重複をいとわず、この点について述べてきたのは、実際、この点がなければ勝利が得られないからである。他の多くの必要なものがなければ、もとより勝利は得られないが、しかしこの点が勝利のもっとも基本的な条件である。抗日民族統一戦線は、決していくつかの政党の本部や党員たちだけの統一戦線ではなく、全軍隊、全人民の統一戦線である。全軍隊、全人民を統一戦線に参加させることこそ、抗日民族統一戦線結成の根本目的である。
 結論
 (一一九)
 結論は何か。結論はこうである。
スノウ  「(どのような条件のもとで、中国は日本帝国主義の武力に打ち勝ち、これを消滅することができるのでしょうか」。
 「三つの条件が必要です。第一は中国抗日統一戦線の達成、第二は国際抗日統一戦線の達成、第三は日本国内の人民と日本の植民地の人民の革命運動の盛り上がりです。中国人民の立場からいえば、三つの条件のうち、中国人民の大連合が主要なものです」。
スノウ  「この戦争はどのくらい長びくでしょうか」。
 「それは、中国の抗日統一戦線の力と中日両国の他の多くの決定的な要素のいかんによってきまります」。
 「もしこれらの条件がすぐに実現しなければ、戦争は長びくでしょう。だが、結果はやはり同じで、日本は必ず敗北し、中国は必ず勝利します。ただそれだけ犠牲が大きくなり、非常に苦しい時期を経過するだけのことです」。
 「我々の戦略方針は、主力を、たえず変動する長い戦線での作戦に用いるべきだということです。中国の軍隊が勝利するには、広い戦場での高度の運動戦が必要です」。
 「訓練された軍隊を配置して運動戦をおこなうほか、さらに農民のあいだに多くの遊撃隊を組織しなければなりません」。
 「戦争の過程で、……中国の軍隊の装備を次第に強化していくこともできます。従って、中国は戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地に対して陣地攻撃を行うことができます。このようにして、日本は、中国の抗戦による長期の消耗によって、経済は崩壊し、無数の戦いに疲弊して、士気は衰えていくでしょう。中国の側では、抗戦の潜在力が日ましに大きく高まり、大量の革命的民衆が続々と前線に赴むき、自由のために戦うでしょう。これらすべての要素が他の要素と結びつくと、我々は、日本の占領地の堡塁や根拠地に対して最後の致命的な攻撃を加え、日本の侵略軍を中国から駆逐することができます」(一九三六年七月、スノウとの談話)。
 「中国の政治情勢は、このときから新しい段階にはいった。……この段階でのもっとも中心的な任務は、あらゆる力を動員して抗戦の勝利をかちとることである」。
 「抗戦の勝利をかちとる中心の鍵は、すでに口火のきられた抗戦を全面的な全民族の抗戦に発展させることである。このような全面的な全民族の抗戦でなければ、抗戦は最後の勝利をおさめることはできない」。
 「当面の抗戦にはまだ重大な弱点があるので、今後の抗戦の過程では、挫折、退却、内部分化、裏切り、一時的、局部的な妥協など、多くの不利な状況がうまれる可能性がある。従って、この抗戦は、苦難にみちた持久戦になることを見てとるべきである。だが、我々は、既に口火のきられた抗戦が、必ず我が党と全国人民の努力によって、あらゆる障害をつきやぶってひきつづき前進、発展することを確信する」(一九三七年八月、「中国共産党中央の当面の情勢と党の任務についての決定」)。

 これらの点が結論である。亡国論者は敵を神わざをもつもののように考え、自分をちりあくたのように考えており、速勝論者は敵をちりあくたのように考え、自分を神わざをもつもののように考えているが、これはどちらも誤りりである。我々の意見はその反対である。即ち抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利は中国のものである――これがつまり我々の結論である。
 (一二〇)
 私の講演はこれで終わる。偉大な抗日戦争がいま、まさに展開されており、その全面的な勝利を勝ちとるために、経験の総括されることを多くの人々が望んでいる。私が述べたのは、この十ヵ月の経験のなかの一般的なものにすぎないが、これも一つの総括といえよう。この問題は広範な注意と討議を引き起こすに値するものであり、私が述べたのは一つの概論にすぎないので、諸君の研究、討議によって、訂正、補足されるよう希望する。

 〔注〕
〔1〕 こうした亡国論は国民党の見解である。彼らは抗日を望まなかったのであり、のちにやむなく抗日したのである。蘆溝橋事変以後、蒋介石一派は不本意ながら抗日に参加したが、汪精衛一派は亡国論を代表して、日本への投降を準備し、はたしてのちには投降してしまった。だが、亡国論の思想は国民党内に存在していたばかりでなく、一部の中間層、ひいては一部の遅れた勤労人民にさえも影響を及ぼしていたのである。これは、腐敗無能な国民党政府が、抗日戦争のなかで次々に失敗を重ね、しかも日本軍がまっしぐらに侵入して、戦争の一年目に武漢付近にまで進撃したため、一部の遅れた人民のあいだに、深刻な悲観的気分が生じたからである。
〔2〕 ここにあげられている見解は皆な共産党内のものである。抗日戦争の最初の半年間、党内には、日本は一撃にも値しないと考える、敵を軽視する傾向があった。そのわけは共産党の指導する軍隊と組織された民衆の力が、当時、まだ小さいことを知っていた彼らとして、自己の力が大きいと感じたからではない。国民党が抗日したので、彼らは、国民党が共産党と呼応して日本を効果的に叩くだけの大きな力をもっていると感じたからである。彼らは、国民党の反動的な、腐敗した面を忘れて、国民党の一時的な抗日の面だけをみていたので、誤った評価を行ったのである。
〔3〕 これは蒋介石らの見解である。蒋介石国民党は抗戦を余儀なくされると、ひたすら外国からのすみやかな援助にのぞみをかけた。かれらは自己の力を信じなかったし、それにもまして人民の力を信じなかった。
〔4〕 台児荘は山東省南部の町である。一九三八年三月、中国軍隊と日本侵略軍とが台児荘一帯で会戦した。中国軍隊は四十万の兵力で七、八万の日本軍に対抗し、それで勝利をおさめた。
〔5〕 これは、当時、国民党の政学系の新聞『大公報』が社説でのべた論調である。かれらは持久戦の過程で人民の力を動員することによって、自分たちの階級の安全がおびやかされることのないように、僥倖《ぎょうこう》をたのむ気持ちかち、台児荘のような勝利を何回かかさねて日本をうちやぶることにのぞみをかけた。国民党全体に、当時、こうした僥倖をたのむ気持ちがあった。
〔6〕 一八世紀の末から数十年間、イギリスは中国向けのアヘン輸出を日ましにふやしていった。アヘンの輸入で、中国人民はひどい害毒をうけ、中国の銀は大量に奪いさられた。アヘン貿易は、中国の反対にあった。一八四〇年、イギリス政府は、通商の保護を口実に、派兵して中国を侵略した。中国軍隊は、林則徐の指導のもとに侵略に抵抗する戦争をおこなった。広州の人民は、自然発生的に「平英団」を組織して、イギリス侵略軍に大きな打撃をあたえた。一八四二年、腐敗した清朝政府は、イギリス侵略者と「南京条約」を結んだ。この条約は賠償金を支払い、香港を割譲するほか、上海、福州、廈門、寧波、広州を通商港として開放し、また、中国の輸入するイギリス商品にたいする税率を中英両国が共同で議定することを規定している。
〔7〕 戊戌維新とは、戊戌の年(一八九八年)におこった改良主義運動をさす。この運動は、一部の自由主義ブルジョア階級と開明地主の利益を代表し、康有為、梁啓超、譚嗣同らが中心になってすすめたもので、光緒皇帝の賛助をえたが、人民大衆のなかに基盤をもっていなかった。当時、武力をにぎっていた袁世凱が頑固派の首領西太后に維新派の機密をうりわたしたので、西太后はふたたび政権をにぎり光緒皇帝を幽閉するとともに、譚嗣同ら六人を殺した。この運動は、こうしてみじめな失敗に終わった。
〔8〕 一九三八年一月十六日、日本の内閣は、武力によって中国を滅ぼすという方針をあきらかにする声明を発表すると同時に、国民党政府が「依然として抗戦の策動をつづける」以上、日本政府としては「爾後《じご》国民政府を対手とせず」、中国に新しいかいらい政権をもりたてると公言し、国民党政府にたいして威嚇と投降勧誘をおこなった。
〔9〕 ここでは、主として、アメリカをさす。
〔10〕 イギリス、アメリカ、フランスなどの帝国主義諸国の政府をさす。
〔11〕 毛沢東同志がここで予言している、抗日戦争の対特段階における中国側の上向きの変化は、中国共産党の指導下にある解放区で完全に実現された。国民党支配区では、蒋介石をかしらとする支配集団が、抗日には消極的で、反共、反人民には積極的であったために、上向きにならなかったばかりでなく下向きになった。だが、こうした状況も広範な人民の反抗と自覚をよびおこすことになった。毛沢東同志の『連合政府について』にあるこれらのすべての事実にかんする分析を参照。
〔12〕 「唯武器論」は中国の武器は日本におとるから、戦争ではかならず中国が敗北すると考える論調である。国民党反動派の頭目たちは(蒋介石をもふくめて)みなこのような見方をしていた。
〔13〕 如来仏は仏教の創始者釈迦牟尼をさす。孫悟空は一六世紀の中国の神話小説『西遊記』のなかの英雄である。この神話小説によると、孫悟空は猿であって、もんどりを一つうてば、十万八千里もとぶことができる。しかし、如来仏のたなごころのなかでは、どんなにもんどりうっても、たなごころからとびだすことができず、逆に如来仏がたなごころをびるがえしておさえると、五本の指が五行山と化して、孫悟空を下敷きにしてしまう。
〔14〕 一九三五年八月、ディミトロフ同志はコミンテルン第七回代表大会でおこなった『反戦・反ファシスト闘争における当面の諸問題』という報告のなかで、「ファシズムとは傍若無人な排外主義であり侵略戦争である」といった。一九三七年七月、ディミトロフ同志はまた『ファシズムとは戦争である』と題する論文を発表した。
〔15〕 レーニンの『社会主義と戦争』の第一章と『第二インターナショナルの崩壊』の第三節にみられる。
〔16〕 『孫子』巻三「謀攻」編にみられる。
〔17〕 城濮は平原省濮県内(現在の河南省范県内――訳者)にある。西紀前六三二年、晉と楚の両国がここで大規模な戦争をおこなった。戦争のはじめには、楚軍が優勢をしめた。晉軍は、九十華里退却し、楚軍の力の手うすな左右両翼をえらんで手痛い打撃をあたえた。楚軍はついに大敗した。
〔18〕 西紀前二〇四年、漢の将軍韓信のひきいる軍勢は井[”こざとへん”+坙]で、趙王の歇と大規模な戦いをまじえた。趙の軍勢は二十万と号し、漢の軍勢に数倍していた。韓信は背水の陣をしき、軍勢をひきいて奮戦し、同時に超軍の防備の手薄な後方に兵をおくってこれを襲撃、占領させ、前後からはさみうちして趙軍を大いに破った。
〔19〕 一八世紀末から、一九世紀のはじめにかけて、フランスのナポレオンはイギリス、プロシア・オーストリア、ロシアおよびヨーロッパのその他の多くの国ぐにと戦った。何回もの戦争で、ナポレオンの部隊は、数のうえでは敵軍におとっていたが、いずれも勝利をおさめた。
〔20〕 西紀三八三年、まえから晉軍をみくびっていた秦王苻堅は兵をだして、晉を攻めた。晉軍は安徽省の寿陽、洛澗の地方で秦軍の先陣をうちやぶり、水陸両面から前進をつづけた。苻堅は寿陽城にのぼって、遠くからこれをながめ、晉兵の布陣が整然としているのをみ、また遠くの八公山上の草木をみて、これをみな晉兵だとおもいこみ、強敵に出会ったようにおそれを抱きはじめた。本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔29〕を参照。
〔21〕 蒋介石、汪精衛らが、一九二七年、国共間の第一次民族民主統一戦線を裏切ってから、十年にわたって反人民戦争をすすめ、中国人民が広範に組織されるのを不可能にしたことをさす。この歴史的あやまりは蒋介石をかしらとする国民党反動派がその責任を負うべきである。
〔22〕 宋の襄公は西紀前七世紀の春秋時代の宋国の君主である。西紀前六三八年、宋国は強大な楚国と戦った。宋兵はすでに列を組んで陣をしき、楚兵はちょうど河を渡るところであった。宋国のある役人は、楚兵は多く、宋兵は少ないとみて、楚兵の渡河が終わらない機会をとらえて撃ってでるよう主張した。しかし、宋の襄公は、「それはいけない。君子は他人がこまっているのに乗じて人を撃つようなことはしない」といった。楚兵が河を渡って、まだ兵の布陣が終わらないとき、宋の役人が撃ってでるようふたたび願いでた。宋の襄公はまたも、「それはいけない。君子は陣容をととのえていない隊伍を攻撃するようなことはしない」といった。楚兵がすっかり準備ができたとき、はじめて、宋の襄公は出撃命令をくだした。その結果、宋国は大敗し、宋の襄公自身も負傷した。この物語は『左伝』債公二十二年にみられる。
〔23〕 一九三七年、日本侵略軍は、北平、天津を占領すると、天津=浦口鉄道にそって南下し、山東省に進攻した。多年山東省を支配していた国民党軍閥韓復榘は戦わずに山東からずっと河南にまで逃げた。
〔24〕 一八一二年、ナポレオンは五十万の大軍をもってロシアに進攻した。ロシア軍はモスクワを放棄し、それを焼きはらった。このため、ナポレオンの軍隊は、飢えと寒さにおそわれ、後方連絡線をかきみだされ、四方から包囲される羽目におちいって、撤退しなければならなくなった。ロシア軍は、機に乗じて反攻にで、ナポレオンの軍隊は逃げられたものわずかに二万余であった。
〔25〕 国民党の軍隊拡充のやり方は、軍隊や警官を四方にくりだして人民をとらえてきて兵隊にするもので、とらえた兵隊は囚人同様、なわでしばられていた。多少金のある人は、国民党の官吏に賄賂をつかい、金で人を買って身代わりにした。
〔訳注〕
① 一九三七年七月七日の蘆溝橋事変ののち、日本帝国主義は、全中国を滅ぼす方針をつらぬくため、侵略戦争をさらに拡大して、同年八月十三日、上海方面でも大規模な軍事的進攻をおこした。これが、ここでいう上海戦争である。
② 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔33〕にみられる。
③ 本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』注〔3〕にみられる。
④ 『孟子―告子章句下』にみられる。その原文は「先生の志は大なり。先生の説は不可なり」となっている。
⑤ 『抗日救国十大綱領』とは、抗日戦争勃発後の一九三七年八月二十五日、洛川でひらかれた中国共産党中央政治局拡大会議で採択された綱領である。これは、全面的抗戦の路線を貫徹して、日本帝国主義に徹底的に勝利するための救国綱領である。この綱領の全文は、本巻の『すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう』にみられる。
⑥ 本巻の『陝西・甘粛・寧夏辺区政府、第八路軍後方留守本部布告』訳注①にみられる。
⑦ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔24〕にみられる。
⑧ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔25〕にみられる。
⑨ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔26〕にみられる。
⑩ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔27〕にみられる。
⑪ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔28〕にみられる。
⑫ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔29〕にみられる。
⑬ 本巻の『すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう』注〔13〕にみられる。




(私論.私見)