文革史(三)、
四人組のヘゲモニー確立から、周恩来、毛沢東の死を経て粉砕されるまで

 

 (最新見直し2007.3.7日)

 文化大革命解析中)

 これより前は、「文革史(二)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 「文革」の第三段階は、林彪失脚後の政治局面において、江青ら四人組と周恩来―ケ小平ラインが激しく角逐し、文革派と反文革派のせめぎ合いの局面が出現した。第10回党大会以降の権力闘争は凄まじく四人組優位に進み、批林批孔運動へと進む。1975年、ケ小平が「奇跡の復活」を遂げ、文革派に対抗する。周恩来が死に、それを契機として1976.4月、極左的言辞を弄することで能事終われりとしている江青など文革派に対する民衆の怒りが爆発し、第一次天安門事件が起る。ケ小平が再度失脚し、やがて遂に毛沢東も死ぬ。この1973〜1976年の期間を「文革」の第三段階とみなすことが出来る。



【林彪事件後の四人組の片肺飛行】
 林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、後世“四人組”と称されるグループが「文革」を指導していくことになった。“四人組”は毛沢東の子飼いグループであったことから、その威力も絶大であった。もっとも、10年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。

 林彪の失脚は暫くの間秘匿された。10月1日の国慶節パレードが中止され、人民日報に林彪の名が現れなくなった。何か重大な政変があったのではないかとの観測が世界中にひろまった。産経は11月2日付 け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」というスクープ記事を掲載したが、他の新聞社でそのように報じる社は無かった。ちなみに、中国政府が林彪事件の真相を公にしたのは、7月末に訪中したフ ランスの外相らに毛沢東が直接語ったのが最初である。 


 林彪事件後、毛沢東は文化大革命の失敗を自覚して軌道修正を図ろうとしていた。1972.1.6日文革派の標的となった陳毅が死去し、1.10日に追悼会がひらかれた。毛沢東は病をおしてこれに出席するとともに、旧幹部の復活問題にふれ、ケ小平の問題は「人民内部の矛盾」であると指摘した。これがケ小平復活へ繋がる。周恩来はこの指摘にもとづいて、ケ小平復帰工作をおこなっていくことになる。林彪事件から3カ月後のことであるが、林彪事件がケ小平を復活させることになったということになる。

 1972.1.10日、北京郊外の八宝山革命会議で、陳毅外相(元帥)の葬儀が催され、毛沢東が突然参列した。


【ケ小平の復活】

 この時期周恩来が最後のご奉公とばかり尽力している。 高文謙「最後の日々に」(『人民日報』1986.1.4日)によると、周恩来は1972.5月の定期検査でガンが発見された。林彪事件から8カ月後のことである。 

 1972.8.4日、ケ小平は毛沢東に二通の自己批判書簡を差し出した。これは中共中央弁公庁汪東興を通じて毛沢東に届けられた。毛沢東はこの手紙に8.14日付けでこうコメントを書いた。概要「ケ小平同志の犯した誤りは重大である。しかし劉少奇とは違いがある。総理に閲読してもらったのち、汪主任(汪東興中央弁公庁主任)に手渡して印刷し、各同志(政治局委員)に配付されたい」、概要「ケ小平同志は中央ソビエト区でたかれたことがある(原文=挨整)。彼には歴史問題はない。すなわちケ小平 、毛沢覃、謝唯俊、古柏、四罪人の一人であり、いわゆる毛派の頭として失脚した人物であった。彼を闘争にかけた材料は『二つの路線』『六大以来』の二書に収められている。彼を闘争にかけたのは張聞天である。すなわち敵に投降したことはない。彼は劉伯承同志を助けて戦い、戦功があり、解放以後もよいことをやらなかったわけではない。たとえば代表団を率いてモスクワを訪問したとき、ソ連修正主義に屈伏しなかった。これらのことを私は何度か語ったが、ここでもう一度言っておく」。

 この2000字足らずの「毛沢東批語」によってケ小平の復活が決定したのであるが、もし周恩来の機転なかりせば、ケ小平復活はもっと遅れた可能性がある。陳毅の告別式における毛沢東の態度から心中を忖度し、王震を通じてケ小平と密かに連絡をとり、自己批判の書簡を書くようすすめていたのであった。こうした舞台裏を毛沢東がどこまで承知していたかはわからないが、皇帝毛沢東の片言隻句は、すべて政治的なメッセージとうけとられていた。毛沢東晩年の政治のあり方を示すヒトコマである。

 周恩来は毛沢東のコメントとケ小平の手紙とを若干部印刷させ、政治局会議で討論させた。他方、党中央の名で江西省委員会に通知し、監督労働をやめさせ、党組織生活を復活することを指示した。こうしてケ小平の旧秘書たちが直ちにケ小平 のもとに送られ、ケ小平は政治生活を再開した。1973.2月、ケ小平は家族ともども三年半の監視生活を送った江西省南昌から北京に戻り、3.7日党の組織生活と国務院副総理の職務を復活した。それは周恩来・ケ小平グループと江青グループの新たな権力闘争の激化を意味していた。

 ケ小平の復活は、林彪事件が直接的契機となったこと、周恩来の役割が大きかったことが明らかである。実は、ケ小平復活の背景には、もっと複雑な事情が控えていた。「ケ小平復活を決定したのは毛沢東か、周恩来か」ということに関して、中共中央のイデオロギー研究の本部ともいうべき中央党校や中央文献研究室の石仲泉(中共中央文献研究室理論研究組組長)の解釈は次の通り。

 「劉少奇の問題とケ小平の問題とは、性質が異なる。劉少奇にはイデオロギーの問題(転向問題)があったが、ケ小平にはそれはない」、「私個人の考えだが、林彪事件の発生こそがケ小平復活の最大の背景である。林彪事件は毛沢東の文革理論・方針・実践の破産を宣告したに等しかった」、「当時周恩来は極左批判をやろうとしており、まさにこの問題で毛沢東は周恩来に不満を抱いていた。私の推測では、毛沢東の真意はケ小平を復活させて周恩来と置き換えようとしたのではないか」、「周恩来はにもかかわらず、ケ小平 の復活に積極的であった。たとえば七二年一月、毛沢東は陳毅の追悼会に出席した際に、きわめて小さな場で“ケ小平 と劉少奇には違いがある。ケ小平 は人民内部の矛盾である”と語った。この発言をとらえて周恩来は口コミ〔原文=小道消息〕でこれを社会に伝えた。当時ケ小平の子女が北京の王震家に来た。王震がこのニュースを子女に伝え、“ケ小平 が自己批判を書くように”と勧めた」(なお、詳しくは『中国現代史プリズム』V・1の拙稿参照)。

 つまり、ケ小平復活にかける毛沢東と周恩来の意図とは同床異夢だったわけである。毛沢東は自己批判したケ小平 をもって周恩来と置き換えることを考え、他方周恩来は“四人組”の極左路線是正のために、ケ小平 の力を借りようとしていたわけである。ただこうした経緯を経て奇蹟的に復活しえたケ小平が周恩来評価において中途半端にならざるをえないことは明らかであろう。

 ケ小平はその後、記者の問いに答えて次のような周恩来論を語っている。「われわれは早くから知り合いになり、フランス苦学時代には一緒に暮らした。私にとって終始兄事すべき人物であった。われわれはほとんど同じ時期に革命の道を歩いた。彼は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、われわれは下放したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、いくつも心に違うことを語り、心に違う事をいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身も地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」。

 ケ小平は宰相周恩来にも言論の自由がなかった、と言いたいごとくである。これは一体どうしたことか。無数の革命家たちの累々たる死屍の上に樹立されたこの政治体制の不条理をよく物語るものであろう。

 1973.2.22日、ケ小平一家が下放先の南昌から特急に乗り、北京へ戻った。

 1973.3.10日、政治局会議は江青ら文革派の反対を押し切り、ケ小平の党組織生活の回復と国務院副総理の復活を決定した。

 4.9非、ケ小平夫妻は、北京西郊の玉泉山で療養中の周恩来を見舞う。

 1973.4.12日、北京の人民大会堂で、周恩来首相は、カンボジアの解放区訪問を終え、亡命中の北京に戻ったシアヌーク殿下の歓迎宴を催した。この時、ケ小平が副首相の肩書きで登場し陪席した。文革初期の1967年に失脚して以来、6年余りぶりの復活となった。まもなく毛沢東はケ小平を軍事委員会副主席兼総参謀長に任命した。ケ小平は早速八大軍区司令員の移動を断行するとともに、一連の脱文革路線を推進した(「1969〜72年のケ小平」『華人世界』1988.1期)。 

 1973.4月に、毛沢東は王洪文、張春橋への談話のなかで、周恩来の主管する外交部が「大事を討論せず、小事を毎日報告してくる。この調子を改めなければ必ず修正主義に陥るだろう」と批判している。


第10回党大会

 1973.8.24−28日、第10回党大会が開催され、1249名が全国の2800万人の党員を代表して出席した。周恩来が政治報告を行なった。大会は、林彪反革命集団の犯罪行為を糾弾し、また、林彪反革命集団にたいする中国共産党中央委員会の処置とその他のあらゆる措置を一致して擁護した。王洪文が党規約改正についての報告をおこなった。

 大会は、中央委員195名、中央委員候補124名からなる新しい中央委員会を選出した。10期1中総では、毛沢東が中央委員会主席に、周恩来、王洪文、康生、葉剣英、李徳生が中央委員会副主席に、毛沢東、王洪文、葉剣英、朱徳、李徳生、張春橋、周恩来。康生、董必武が中央政治局常務委員会委員に選ばれている。ケ小平が中央委員に選ばれている。

 大会後、江青、張春橋、姚文元、王洪文が政治局内で“四人組”を結成し、その勢力はますます強化された。


【周恩来と四人組との対立】

 第10回党大会以後、周恩来は経済の再建に取り組もうとしていたが、四人組との対立は激化していく一方となった。周恩来はその後「極左批判」に全力を挙げようとした。たとえば1972.10.14日付『人民日報』は周恩来講話に基づいて三篇の極左批判論文を掲げている。この編集をやったのは、王若水(当時『人民日報』副編集長)、胡積偉(当時『人民日報』編集長)らであった。

 1972年秋、アメリカの女性中国研究者ロクサヌ・ウイトケ(ニューヨーク州立大学助教授)が訪中した。彼女は中国のウーマン・リブについての本を書く予定で、中国対外友好協会は、トウ穎超(周恩来夫人)、康克清(朱徳夫人)など、この分野の先達との会見を予定していた。ところが江青がこの話を聞きつけ、自ら周恩来に電話をかけ、ついに六日間つきあい、六回にわたってしゃべりまくった。

 江青の談話記録は十数冊のタイプ稿に整理され、周恩来、張春橋、姚文元のもとに審査のために回された。周恩来は数十万字の原稿を読んだが、機密にかかわる部分があるので毛沢東のもとに回覧し、封印措置をとった。著者ウィトケは『江青同志』の名で出版をすすめていたので、中国側は外交官を使って版権を買いとり、中国に送った。

 毛沢東は江青をたいへん怒り、「孤陋にして寡聞、愚昧にして無知。直ちに政治局を追い出し、袂をわかつ」と批語を書いて、周恩来のもとにもどした。とはいえ、毛沢東は怒りはしたものの、実際に江青を処分する決意を固めたものではないと判断した周恩来は、しばし執行を延期するほかなかった。

 王若水の回顧談によると(拙著『中国のペレストロイカ』一二九頁)、1972.12月、人民大会堂のある会議室に呼び出され、江青、張春橋、姚文元から王若水は叱られた。彼らは毛沢東の支持をとりつけており、同席した周恩来もなす術がなかった。かくて周恩来の極左批判路線は否定され、林彪は極右路線として扱われることになった、とある。



【毛沢東が周恩来−ケ小平を重用する】

 1973.12.12日、中南海の毛沢東書斎で政治局会議がひらかれた。書斎によびつけられて毛沢東の発言に耳を傾ける政治局委員たちの態度は、党の会議に参加したというよりは、長者の訓導と教誨をうける姿に似ていた。毛沢東は「政治局は政治を論議せず、軍事委員会は軍事を論議しない」と、政治局および軍委を批判しつつ、こう宣言した。「いま、一人の軍師に来てもらった。ケ小平だ。政治局委員、軍委委員になってもらうので通知されたい」、「政治局に秘書長をもうけてはとおもうが、この名称がよくないならば、参謀長になってもらおう」。在席の政治局委員は静かに聞くのみ。

 毛沢東が傍らのケ小平にむかっていう。君は人さまからいくらか恐れられている。君の性格をしめす二つの言葉は「柔中に剛あり、綿中に針を蔵す」だ。外面は穏やかだが、シンは鉄のように堅い。

 風が吹けば桶屋が儲かるような論理だが、林彪事件のゆえに、陳毅が名誉回復し、ケ小平の復活に連動した。そして、復活したケ小平は「巻き返しはやらない」といった自己批判はかなぐり捨てて、再び脱文革路線を進めた。1976.4.5日の第一次天安門事件を契機として、またも失脚したが、“四人組”粉砕以後返り咲いて、改革開放の路線を大胆に進めることになる。

 8月米中和解、日中国交正常化に活躍した周恩来は現代の孔子として批判されている。毛沢東は夫人の江青をはじめとする“四人組”の讒言を容れて、周恩来批判を指示したのである。これは元来は林彪グループ摘発の運動として始められたものだが、運動の矛先を周恩来にまで拡大したものであった。毛沢東は初めは「批林批孔」運動を許可したが、その後江青らを逆に批判した(“四人組”を組む勿れ、江青には組閣の野心がある、など)。

 1973.11月には、毛沢東はまた確かならざる資料に基づいて周恩来が外事活動で間違った発言を行ったとして、政治局会議で周恩来批判を行わせている(『中国共産党60年』632頁)。このとき周恩来の病状は急速に悪化した。毎日大量の下血があり、時には100cc以上であった。

 この頃、老齢の毛沢東は周恩来と四人組との間でゆれつづけ、今日は周恩来を批判したかとおもえば、明日は江青を叱責する日々がつづいた。晩年の毛沢東は革命の継続こそが重要だと考えており、それを推進する役割を四人組に期待したが、彼らの指導力の限界は明らかであった。そこで文革イデオロギーの鼓吹者の役割を彼らに期待し、現実の経済建設の実務を周恩来を初めとする実務派に期待する形にならざるをえなかった。


【その後の下放運動】

 1973年、福建省の李慶林が息子の生活問題を直訴したのに答えて毛沢東はこう返信を書いた。「三〇〇元を送ります。食費として下さい。全国にこの種の例ははなはだ多く、いずれ統一的に解決しなければなりません」。問題の所在には気づきつつも、毛沢東自身いかんともしがたく、この手紙を書いたようである。

 この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるに至らず、政策は依然混乱していた。ある年は工場で募集したかと思えば、次の年は下放させる。下放した者のなかから、工場で募集するなどという具合に、地方当局によってマチマチの政策(原文=土政策)が行われた。

 1976.2月、毛沢東はふたたび知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ。まず準備し、会議を開き、解決すべきであると指摘した。しかし、毛沢東の死まで彼らの問題は解決されなかった。

 1978年の全国知識青年下放工作会議紀要はこう指摘している。1968〜78年の知識青年下放運動は、全体的計画を欠いており、知識青年の工作はますます困難になった。下放青年の実際的問題は長らく解決されていない。これこそが鳴物入りで大々的に展開された下放運動の総括なのであった。


【「批林批孔」運動】

 林彪事件後、江青ら文革四人組勢力は、周恩来を中心とする実務派の打倒に向かっていった。四人組の基盤は党のイデオロギー宣伝部門に集中しており、背後の毛主席の威光を剣としていた。四人組は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。批林批孔運動は半文革派(ケ小平達)の巻き返しに対して、四人組を中心とする文革派が半文革派を封じこめようとした運動である。四人組は、林彪の思想には儒教的色彩が強く残っているとして、目の上のたんこぶ的存在「周恩来」を攻撃したのである。四人組が、権力を掌握するためには、周恩来の存在は邪魔だったのである。周恩来を現代の孔子として批判する動きは、すでに1973年夏には表面化しているが、1974.1.18日、毛沢東が「林彪と孔孟の道」の配布に同意に指示を出した。これにより、「林彪と孟孔の道」が党中央で承認・通達され、「批林批孔」運動が開始された。

 1974.1.24日および25日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇〜二〇二頁)。こうして江青らによる「批林批孔」運動が開始された。

 江青らは、一方で「批林批孔」運動を画策し、他方で首都空港への数十キロの往復を必要とする来賓出迎えをさせていた。周恩来は輸血に依拠しながら、毎日十数時間の仕事に耐えた。そして1974.4〜5月、4回にわたって酸素不足に陥り、5.31日、マレーシア・ラザク首相と国交回復のコミュニケに調印した後、6.1一日の手術のために入院したこのとき、周恩来はまるまる二五年間総理として働いた中南海西花庁の事務室を離れ、その死去までの1年6カ月の闘病生活に入ることになる。

 6月、江青が、「この運動の重点は党内のある大儒を批判するにある」と述べ、「批林批孔」運動が「大儒」=周恩来を打倒しようとするものであることが明らかにされた。それが次第に癌で闘病中の周恩来に代わり、1975.1月、10期2中全会で党副主席に返り咲いたケ小平への批判に向かう。「右傾巻き返しの風潮に反撃する運動」が展開され、ケ小平の「全党全国の各活動の総綱について」などの文書は「大毒草」と決め付けられた。

 1974.6.1日、周恩来の手術が行われ、8月に再手術している。9.30日夜、周恩来は総理として病をおして建国25周年祝賀会を主宰した。国慶節前後、毛沢東は周恩来と図って四期全人代の人事問題を提起し、ケ小平を第一副総理に指名した。ケ小平の復活である。「老齢の毛沢東は周恩来と四人組との間でゆれつづけ、今日は周恩来を批判したかとおもえば、明日は江青を叱責する日々がつづいた。晩年の毛沢東は革命の継続こそが重要だと考えており、それを推進する役割を四人組に期待したが、彼らの指導力の限界は明らかであった。そこで文革イデオロギーの鼓吹者の役割を彼らに期待し、現実の経済建設の実務を周恩来を初めとする実務派に期待する形にならざるをえなかった」とある。

 1974.7.17日、毛沢東は政治局会議を主宰したさい、粗雑な四人組の活動を批判した。面と向かって江青を批判し、「江青同志、君は注意しなさい! 他人は君に不満があっても面と向かっては言いにくい。君はそれを知らない」。夫婦間のこうしたやりとりのあと、毛沢東は在席の政治局委員たちにこう言明した。「聞いたかね。彼女は私を代表していない。彼女は自分を代表できるだけだ。彼女に対しては一を分けて二となす、の態度をとる。一部はよいが、一部はよくない」。

 政治局会議での夫婦喧嘩というのも妙なものだが、実際には別居してすでに10年であるから、元夫婦の対話である。ここでの議題は、イタリアの映画監督アントニオーニの映画であった。周恩来が許可してこの映画の撮影が行われたが、江青はこれに難クセをつけ周恩来を陥れようとしていた。最後に毛沢東はこう言った。「彼女は上海幇だ。君たちは注意したまえ。四人の小セクトをつくってはならない」。

 この頃、毛沢東の病気が悪化しており、四人組は焦りを覚えてか周恩来批判をエスカレートさせる。10月1日に発行された「中華人民共和国25周年」の記念切手には、毛沢東を称えるスローガンと並んで、「批林批孔」の文字も書き加えられた。

 10.17日、江青らは輸入貨物船「風慶輪」号について「西洋に媚びるもの」と、周恩来、ケ小平攻撃に乗りだした。王洪文は10.18日、長沙まで飛んで、周恩来、ケ小平を誣告している。周恩来はこれを知って、10.19日、毛沢東の連絡員〔王海容あるいは唐聞生を指す〕を病床に呼び、事の顛末を毛沢東に報告させている。この報告を受けて毛沢東は10.20日、「総理はやはり総理だ。四期全人代の準備工作と組閣構想は総理に委ねる」と指示し、さらにケ小平の第一副総理、党副主席、軍事委員会副主席兼総参謀長案を再度提起したのであった。

 11.12日、毛沢東は江青への書簡にこう批語を書いた。「あまりでしゃばるな。文件を批准してはならない。お前が(黒幕となって)組閣してはならない。お前は怨みを買うこと甚だしい。多数の者と団結しなければならない。申し渡す」、「人は己れを知る明をもつことを尊しとする」。

 12月、周恩来はケ小平 、李先念らと協議して、四期全人代と国務院人事案を練った。そして12.23日から5日間長沙に飛び、毛沢東に報告した。毛沢東がケ小平を「得難い人材だ。政治思想が強い」とほめ、「江青には野心がある」と指摘したのはこの時であった。

 1974.12.26日、毛沢東は、総理はやはりわれわれの総理であると周恩来支持を語り、81歳の誕生日の夜は寝室で周恩来と長い間語り合っている。

 1975.1.8−10日、二中全会が、北京で開催された。1975.1.5日に党中央が発した一号文件で、党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長、国務院第一副総理にケ小平を任命した。またケ小平を党副主席、政治局常務委員に選んだ。

 1975.1.13日、周恩来は全人代で政府工作報告を行った。高文謙によれば、周恩来はこの過労のために、病状が悪化した。三月に検査したところ、大腸の肝臓に近い部分にクルミ大の腫瘍が発見され、月末にふたたび手術が行われた。三月から九月までに周恩来は102回仕事の指示を行い、外国賓客と三四回会見し、病院外の会議に七回、病院内の会議に三回出席している。

 毛沢東は、1975.2月までの間に、「理論問題についての指示」としてこう述べている。いまでもなお、八級賃金制、労働に応じた分配、貨幣による交換が行われている。これらは旧社会とたいして変わらない。異なっているのは、所有制が変わったことである。いまわが国で行われているのは商品制度であり、賃金制度も不平等であり、八級賃金制度が存在している。これらはプロレタリア独裁のもとで、制限を加えるほかない。プロレタリア階級の中にも、機関の工作要員の中にも、ブルジョア的生活作風に染まる者がある(『人民日報』七五年二月二二日)。

 文革によって、修正主義の禍根を断つことを夢見たが、ふと見直すと現実は旧社会とあまりにも似ていて、社会主義建設の歩みはあまりにものろい。それだけではなく、ややもすれば、容易に逆流してしまう。文革の開始時期において、構想したものはほとんど実現できず、夢の残骸のみが残っている。孫文も「革命未だ成らず」と遺言した。毛沢東の心境もこの点では似ていよう。しかし、理想を追求し続けた断固たる革命家毛沢東にとって、夢が粉々に砕けていく現実のなかで迎える老年とは、いったいいかなる味の晩年であったのか。

 江青をはじめとする四人組の執拗な攻撃に周恩来はどのように対処したのか。1975.3.20日、周恩来は毛沢東宛てに病状を知らせる書簡を書いた。「今年の会議後(七四年一二月〜七五年初めの四期全国人民代表大会を指す)、大便に毎日潜血が混じり、便通もよくない。そこで三月のヒマを見てバリウム検査を行い、大腸の肝臓に近い部分に腫瘍を発見したが、クルミほどの大きさである。もしこの腫瘍が大きくなれば腸を塞ぐことになる。この大腸内の腫瘍の位置は、四〇年前に私が沙窩会議(35.8月、毛児蓋ちかくでひらかれた政治局会議)のさいに患った潰瘍が治ったところであり、まさに主席がわれわれを導いて草地を通過したとき以来、今日まで生きてきたものである。治った瘡蓋がいま腫瘍になった。良性であれ悪性であれ、手術して採るほかに治療方法はない。政治局の四人の同志(王洪文、葉剣英、Deng Xiaoping 、張春橋─周恩来原注)は医療組報告を聞き、レントゲン写真とビデオを見て手術に同意している。以上を報告し、主席の批准を求める……」。

 宰相の手術ひとつでさえ、許可が必要なほど皇帝の権力は肥大化していた。周恩来は中国人民を革命に動員するシンボルをつくるために、毛沢東神話の形成に尽力したが、その神話は文革期に決定的に成長し、変態し、いまやこのような形で周恩来を呪縛するにいたっていた。

 江青は4.27日の政治局会議で自己批判し、さらに後日自己批判書(原文=書面検査)を書いた。これに対して毛沢東は1975.5.3日こう指摘した。「“四人組”問題は(75年)前半に解決できなければ、後半に解決する。今年中に解決できなければ、来年解決する。来年解決できなければ、再来年に解決する」。毛沢東のいう「解決」の意味はよくわからない。ただし、華国鋒はこの批語にもとづいて四人組逮捕を敢行することになる。

 1975.8月には『水滸伝』批判にこと寄せた“四人組”のケ小平批判を許している。


【周恩来没す】

 1975.9月、病状は急速に悪化した。65キロの体重が「数十斤」に激減した。9.20日再度の手術が決定され、10月下旬に行われた。以後、周恩来はもはや病床から立ち上がれなくなった。しかし、まさにこの時に「右傾翻案風に反撃する運動」が江青らによって展開されたのであった。

 周恩来は1975年末に13回目の手術を行ったが、病状は進む一方であった。見守る葉剣英に対してこう遺言した。「闘争の方法に注意しなければならない。たとえどんなことがあれ、大権を彼らの手に渡してはならない……」。彼らとはむろん四人組をさしていた。

 1976.1.8日午前9時57分、周恩来が死去した。高文謙の描く周恩来の最晩年は文字通り「悲劇の宰相」である。

 停止までの十数時間、周恩来の病状は、不断に毛沢東の許に報告されていた。このとき毛沢東はベッドに横たわり、『魯迅選集』を読んでいた。正午に昼食をとったあと二時間寝て、午後三時すぎに政治局から逝去訃告の清刷りが届いた。孟錦雲は毛沢東の精神状態が悪くないことを見届けてから周恩来の訃報を告げた。彼女はいつものように読みあげた。「中国人民の偉大なプロレタリア階級革命家、傑出した共産主義の戦士周恩来同志は、癌のために薬石効なく……」。毛沢東はゆっくり目を閉じて眉を固くし、まもなく涙が溢れ、頬に流れ、首にまで流れた。毛沢東は一言も発しなかった。

 周恩来の葬儀は、1976.1.5日午後に行われた。周恩来の葬儀の際、人民全員が涙を流す中、江青は一人帽子を取らず、死者に敬意さえ表さないように見えた。その不遜な様子が全国放送され、国民の江青への怒りが爆発、追悼のため天安門に集まった民衆は、江青打倒のデモ隊と化すのである。そしてその10ヶ月後、周恩来の思いを受け継いだ葉剣英らが江青ら四人組を逮捕!江青たちは歴史の表舞台から姿を消していくことになる。

 毛沢東の態度はどうであったか。張玉鳳が総理の追悼会に出席されますか?と聞くと、毛沢東は片手で文件を置く間もなく、片手で腿をさすりながら、わしはもう歩けないよと言った。毛沢東は坐れないだけでなく、まったく立てないほどの状態だった。他方、毛沢東は周恩来の葬儀を知らされさえしなかった、との説もある。一四日夜、孟錦雲が汪東興に対して、周恩来葬儀の件を毛沢東に知らせるべきかどうか指示をこう。汪東興は「葬儀に出席されたいとの通知を主席に出していない。君たちは出席の有無を主席にたずねてはならない」。

 毛沢東の欠席はさまざまの憶測をよんだ。「毛沢東は他のいかなる者にも、毛沢東の威望を超えることを許さない」、「周恩来が病院から出て四期全人代の政府工作報告を行ったとき、人民大会堂の爆発的な拍手は数分つづいた。毛沢東は現場でその熱烈な場面を見て嫉妬の念を禁じえなかった」などなど。これらの憶測について孟錦雲から、晩年の毛沢東を取材した郭金栄は、こうコメントしている。「晩年の毛沢東がほんとうに嫉妬深くなったとしても、彼の良心、ヒューマニズム、感情が嫉妬によってなくなるものであろうか」。周恩来死後の一時期、毛沢東の顔から笑みが消え、沈黙の続くことが多かった。

 毛沢東は1973.8月の第10回党大会以後、老いた身を人々に見られるのを望まなくなり、避けるようになっていた。周恩来死後は、両手が震え、文件を手に持つ力も失われた。そこで張玉鳳らが本や文件を支えた。このころは書籍や文件を読むときにだけ、病の苦痛から逃れるごとくであった──。これが張玉鳳の描く晩年の毛沢東である。

 1976.1.15日、周恩来の追悼会のあと、ケ穎超未亡人は身辺の人々、医療関係者などに、遺骨は祖国の山河にまくこと、そうすれば肥料となり、魚の餌にできる。また遺体は解剖用に献体せよといいのこしたことを明らかにした。遺骨を空中からまいた経緯はこうである。

 1.11日、周恩来の遺体は大衆の見守るなかで北京西郊の八宝山で火葬され、遺骨は北京労働人民文化宮の霊安室に安置された。1.15五日午前、二台の紅旗乗用車が中南海西門を出て通県張家湾付近の三間房空港に着いた。下りたのは空軍副司令員、北京衛戌区司令兼八三四一部隊政治委員であり、会議室に消えた。そこに待機していた空軍某特運団一大隊副隊長胥従煥、二中隊飛行員唐学文に対して、張副司令員は、周恩来の遺骨をまく飛行任務を命じ、「この任務は機密性が高い。ごく些細なことも他言無用」と厳命した。

 その日の夕刻、王洪文が釣魚台11号楼から電話で計画の執行を命じた。その頃労働人民文化宮の正門前には数千の市民があつまっており、人ごみの中には私服の警官も多数含まれていた。何者かが周恩来遺骨を強奪しようとしているとのウワサも公安部に届いていた。

 6時40分、1台のベンツが5台のオートバイに守られて文化宮を出ると群衆が追うが、これはオトリである。ついで中古のジープが文化宮をでる。護送する偽装警察車が後を追う。ジープはまもなく三間房空港につき、7225号機のそばに停車した。30×20センチの白い布袋4個が飛行機につまれ、離陸した。機長が王洪文の命令通りに密雲ダム上空で高度を500mにさげ、農薬散布器のハンドルを回すと、4個ともに密雲ダムに落ちて行った(未名「周恩来的骨灰撒在何処?」『中国之春』1990.8月号)。この記述は高振普「最後の使命」(『人民日報』1991.7.21日)によってうらづけられている。

 周恩来は遺骨をまくことを遺言して死んだが、ここには周恩来の最晩年の苦悩が象徴されているようにおもわれる。四人組から執拗な攻撃をうけていた周恩来は死後に墓をあばかれるような危険さえ憂慮していたのではないか。「遺骨強奪のウワサ」などは、周恩来後の指導権をめぐって四人組とケ小平ら実務派との権力闘争がつばぜり合いの段階にあったことを示唆している。民衆は四人組に対する嫌悪の情と周恩来追悼の念とをかさねて、慈母周恩来をしのんだ。特に、墓をつくることさえ禁じた周恩来の遺言は民衆の琴線に触れ、清明節の天安門事件(第一次)として爆発した。

 1976.1.15日に人民大会堂で追悼会が催され、ケ小平 が弔辞をのべた。2.3日、毛沢東の提案により、華国鋒が国務院総理代理に就任した。これはケ小平 が四人組との抗争にやぶれ、再失脚することを示唆ししていた。


【周恩来評価考】
 「文革」における周恩来の位置付けは極めて難しい。周恩来評価は未だ「棺を蓋うて論定まる」段階には至っていない。『選集』のなかに、文革期の周恩来発言がごく一部しか収録されていないことが、周恩来評価の曖昧さを端的に示している。周恩来は1949年の建国以後1976年に死去するまで27年の長きにわたって国務院総理を務めた。毛沢東が文革の推進において、林彪の軍事力に頼ったことは、すでに書いたが、毛沢東の依拠したもう一つの力が周恩来の行政処理能力であった。

 『周恩来選集』(下巻)には1949〜75年の文献56篇が収められているが、文革期のものは6篇、479頁中の30頁、すなわち6%にすぎない。内容は幹部保護に関するもの、経済の秩序維持に関するもの、教育再開に関するもの、外交問題(中米関係、中日関係)に関するもの、である。これを『中共文化大革命重要文件彙編』(台北、七三年)と比べて見よう。『彙編』には1967.1月から1968.7月の1年半だけで33篇の文献が収められており、これを読むと、周恩来が文革の推進にいかに深く関わっていたかを知ることができる。しかし、『選集』からは文革期の周恩来の姿は、きわめて限られた一面しか知ることができない。

 文革期における周恩来と毛沢東の関係を、晩年の周恩来を描いて注目された高文謙(中共中央文献研究室周恩来研究組)はこう書いている。「毛沢東は周恩来に依拠し、支持してこそ、情勢を安定させ、国家生活全体の継続的な運行が可能であると考えていた」(「艱難にして輝く」『人民日報』1986.1.5日)。

 文革で打倒されたケ小平 は、周恩来の役割をどう評価しているのであろうか。イタリアの女性記者オリアナ・フアラチの鋭い問に対するケ小平 の答えを聞いて見よう。

 フアラチ:周恩来総理は一貫して舞台の上におり、一貫して権力の座にいた。時には彼は困難な立場に立たされたとはいえ、彼が当時のあの誤り〔文化大革命の誤り〕を是正できなかったのはなぜか。

 ケ小平 :〔周恩来とケ小平 の交際がフランスの勤工倹学時代にさかのぼることに触れ、周恩来の人柄を紹介したあと〕“文化大革命”の時に、われわれのような者はみな下りた。幸い彼は残った。“文化大革命”において彼の置かれた立場は非常に困難であった。多くの心にもないこと〔原文=違心的話〕を語り、多くの心に違うこと〔原文=違心的事〕をやった。しかし人民は彼を許している〔原文=人民原諒他〕。というのは彼がそれをやり、その話をしなければ、彼自身がポストを守れず、そのなかで中和作用を果たし、損失を減らす役割を果たすことができなかったであろう。彼はかなり多くの幹部を保護した(『ケ小平文選』307頁)。

 ケ小平によるこうした周恩来評価が現在の公認の周恩来評価になっている。たとえば高文謙はこう書いている。「周恩来は“文化大革命”によってもたらされた損失をできるかぎり減らそうとしたが、若干の心にもない話をせざるをえず、心に背くことをせざるをえなかった。しかし当時の条件のもとで、こうしなければ前述の二つの歴史的役割〔1)文革の損失や誤りを減らしたこと。2)文革の転機となる段階で「撥乱反正」の機会をとらえて局面を転換させたこと〕を果たせなかったであろう。これは歴史の悲劇のなかで、党と国家の最高の利益のために行いえた妥当な選択であった。これは代価を払わなければならない強靱な戦闘であった。そのなかでわが国全体が置かれていた歴史の陰影のなかで免れ難い歴史の屈折に対しては過度に非難してはならない(「艱難のなかで輝く」)。私は八八年夏に、中共中央文献研究室を訪れた際に高文謙とも少し背なしをした。当年三五歳、思考する世代を自任するこの青年が一切の制約なしに周恩来を論じたらどんなことになるか。想像するだけでも興味津々であった。

 苦渋に満ちた周恩来讃歌に対して、香港の政論家牧夫は真向からこれを否定する周恩来論を展開している(「もう一人の周恩来」『争鳴』1986年1期、4期)。彼によれば、周恩来は遵義会議(1935.1月)以後、40年一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東・林彪・江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。

 文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」と題した論文を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほどであり、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物である。まさに現代の大儒にふさわしい。

 牧夫はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。「周恩来は宰相で、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐〔元国防部長〕と同じ道をたどったであろう」(『日中経済協会会報』1988.7月号)。


【第一次天安門事件】

 周恩来の死に対する四人組の冷淡な態度を見て、抗議運動が始まった。3月下旬、南京で「周総理擁護、張春橋打倒!!」といったスローガンが張り出され不満が表出した。やがて、天安門広場の人民英雄記念塔の前に多数の人が集まり、周総理を尊び献花してスローガンの掲げ、詩を朗読したり演説が為され始めた。した。

 4.4日、清明節のこの日天安門広場に数十万人があつまった。30万人、50万人ともいわれる民衆で埋まり最高潮に達した。当局の警告を無視しつつ人民英雄記念碑の周辺で周恩来の遺影を前に花輪を捧げて追悼し、あわせて四人組への抗議の意志を表明した。当局側は1万の民兵と3000の武装警官を動員し、花輪や大字報、横断幕などを深夜に撤去したため、激昂した大衆が民兵や警官と衝突するという前例のない大衆暴動事件が広場でおきた。

 4.5日、当局はこれを「反革命事件」として処理し、約300人が逮捕した。死者はなかった。概要「これは一つの計画的な行動であり、ケ小平が時間をかけて準備してきたものであり、反革命事件である」と断じていた。これを第一次天安門事件(四五運動と云う。

 この時広場に掲示されたある詩の一節は次の通り。「中国はすぎし中国にあらず。人民も愚かきわまるものにあらず。始皇帝の封建社会はふたたび返らず。われらはマルクス・レーニン主義を信奉する。マルクス・レーニン主義を骨抜きにした秀才どもよ、引きさがれ!」。毛沢東を秦の始皇帝になぞらえる評価が天安門広場にあらわれたことになる。毛沢東神話の崩壊、毛沢東時代の終焉をつよく印象づけるものであった。


【ケ小平再失脚】

 さて復活したケ小平は、1975年以来ガンが重くなった周恩来の期待に応え、ケ小平が党中央の日常工作を主持するようになり、一連の重要会議を開き、各方面での工作を整頓した。毛沢東の意図に反して、脱文革路線を強力に推進した。

 毛沢東はこれを許さず、“小平批判、右傾巻き返しに反撃する”運動を発動した。「あいつという男は、階級闘争をつかまず、これまでこのカナメを口にしたことがない。依然として白猫黒猫だ。帝国主義であろうとマルクス主義であろうと頓着なしだ」と毛沢東をして激怒させた(『人民日報』七六年三月二八日付社説)。
事柄は「ケ小平批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東はケ小平 を得難い人材と評したわずか10カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、ケ小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。中国はふたたび混乱に陥った。

 4.5日の第一次天安門事件の黒幕にケ小平を見て取った毛沢東は、これを契機にケ小平の再解任を指示した。「あいつはマルクス・レーニン主義がわかっておらず、ブルジョア階級を代表している。永遠に巻き返しはやらないと言っておきながら、あてにならない」と最晩年の毛沢東をして嘆かせた(『人民日報』七六年四月一〇日付社説)。4.7日党中央は、第一次天安門事件の黒幕はケ小平だとして一切の職務から解任し、「留党監察」処分に附した。ケ小平 をみずからの後継者にしようとした周恩来の願いはひとまずついえた。こうしてケ小平は党内外の一切の職務を剥奪され再失脚した(江西ソビエト時代を含めれば、三度目の失脚であった。毛沢東の死後、再復活する)。

 「最晩年の毛沢東は左派の“四人組”と右派の周恩来の間で、右へ揺れ、左へ揺れていたのであった。
ケ小平氏は毛主席に二度非難され、二度失脚した。毛主席はケ小平氏を信頼していなかったが、いつかは彼が権力を握るだろうと考えていた(『読売新聞』八九年八月二日付)」とある。

 さて後日談。胡耀邦に辞任を強要し、趙紫陽を解任した際のケ小平語録が彼らは「ブルジョア自由化反対」をやらなかったというものであったことは、歴史の痛烈な皮肉である。ケ小平はかつて毛沢東から投げつけられた悪罵をそっくり後継者の胡耀邦、趙紫陽に投げつけたことになるからだ。七六年四月の天安門事件では、その黒幕としてケ小平処分を決定している。結局、周恩来の死後、再びケ小平は再々度失脚に追い込まれた。


【晩年の毛沢東の様子】
 林彪事件以後、毛沢東は急速に老けこみ、ニクソン訪中前後から外国賓客の接見はすべて自宅書斎でおこなっている。七三年八月の一〇回党大会には人民大会堂に顔をみせたが、通常の政治局会議はこの部屋にメンバーを呼びつける形でおこなわれた。七四年一〇月から七五年二月まで一一四日間を故郷の長沙で暮らしたのを除けば、外出は北戴河へ静養にいく程度であった。

 晩年の毛沢東は四人組と周恩来、Deng Xiaoping らの間でゆれていた。とくに最後の批語は未練たっぷりであり、解決したいのか、したくないのかよくわからない。毛沢東の老衰ぶりがよくあらわれている。このような老人が権力の座にすわりつづけることができたのはなぜか。制度的には党の主席として、軍隊の指揮権を含む権限を一手に掌握していた。文革を通じて、毛沢東の権威はほとんど神格化していた。地位をおびやかすライバルは、惨死するか(彭徳懐、劉少奇、林彪など)、あるいは去勢されていた(たとえば周恩来)。

 要するに、毛沢東は中南海の厚い壁の外にほとんど出ることなく、そこは要人警護の八三四一部隊によって厳重に守られていた。権力奪取の直前、毛沢東自身が集団指導を呼びかけていた党内民主主義はすでに片鱗さえなく、毛沢東は皇帝そのものであった。

 毛沢東の晩年身辺の世話をした女性が二人いる。張玉鳳(七一〜七六年に毛沢東の生活秘書、機要秘書を務めた)と孟錦雲である。張玉鳳は回想録「毛沢東、周恩来二三事」をかいており、孟錦雲の回想は郭金栄『毛沢東的黄昏歳月』として一冊の本になっている。

 孟錦雲は七五年五月二四日から七六年九月九日までの四八九日間、日夜使えた。張玉鳳との四時間おき、六交替シフトである。つまり、毛沢東が寝ているときも起きているときも、絶えず張玉鳳か孟錦雲がそばにいる形である。彼女たちは四時間以上つづけて寝ることは許されなかったので、睡眠薬を飲んで寝ることが普通だった。

 毛沢東は七四年春に眼病を患い、診断したところ「老人性白内障」と診断された。このニュースは極秘にされ、周恩来、汪東興らごく少数の者にしか知らされなかった。七五年八月本人の同意を得て、手術が行われ成功した。

 この手術を成功させたのは眼科医唐由之である。一時間ちかくの手術の間、毛沢東は京劇「李陵碑」のレコードをかけて気をまぎらした。この手術をうけるよう毛沢東を説得したのは孟錦雲であった。眼の癒えた毛沢東は、孟錦雲がカーキ色のスカートをはいてあらわれたのをとがめて「色がよくない。赤いスカートをはきなさい。赤いバラのような。私がプレゼントしよう」と提案した。孟錦雲が言いつけ通りにしたところ毛沢東はたいへん喜んだ。

 あるとき孟錦雲は美容院に行くが、どんな髪型にしたらよいかとたずねた。毛沢東の答えは「短髪がよい。前髪は切り揃え、後髪はきっちりととのえるとよい」と実に具体的に指示した。後日、毛沢東好みの髪型のイメージは最初の夫人楊開慧の髪型だとわかった。

 孟錦雲が身辺で仕えるようになったとき毛沢東はすでに病気がちの老人であった。「毎日一三、一四時間働き、往々深夜二、三時になってからようやく寝る」生活はもはや過去のものとなっていた。薬を飲み、食事をたべさせてもらい、眠り、本や文件を読んでもらい、決裁すること、そういう生活になっていた。

 毛沢東は脳系統の病のために食事を飲み込むことが難しく、また手もひどく震え、箸も持てないので、張玉鳳が食べさせていた。毛沢東が水を飲み、薬を飲み、果物を食べるときは、孟錦雲が助けるという役割分担であった。


 7.6日、人民解放軍の創始者、朱徳が逝去した。
 7.28日、河北にある工業都市・唐山にマグニチュード7・8の大地震が襲い、死者24万人、重傷者16万人といわれる大惨事になった。それは、社会、経済を打撃しただけではなく人々に多大な心理的不安を与えた。
 1977.7.16−21日、三中全会が北京で開かれた。会議は、「華国鋒を党中央主席、中央軍事委員会主席に追認する決議」、「ケ小平同志の職務を回復する決議」を採択し、王洪文、張春橋、江青、姚文元を党から永遠に除名することを決定した。
 1978.12月、11期中央委第3回総会(3中総会)で、毛沢東の階級闘争至上路線を打破し、経済建設に重点を移した。但し、このとき、陳運中央顧問委ら社会主義原理派は、計画経済、公有制を主にすべしと主張し、改革・解放を資本主義化と批判した。
【毛沢東没す】

 1979.9.9日、毛沢東が死去した。中国革命史の栄光と矛盾を一身に担ったかのような83年の生涯であった。この巨星が落ちたとき、中国の民衆は前途への不安を感じると同時に、いくぶんかの開放感をおぼえたという。前者と後者の交錯するなかでその後の中国はいきつもどりつすることになる。

 毛沢東の晩年は無残の感がある。1954年から76.9月の死去まで22年にわたって毛沢東の侍医を務めた李志綏(六九歳、中華医学会副会長)の証言が興味深い。毛主席は早くから神経衰弱と不眠症に悩まされた。彼に施された医療の一つは、毎晩睡眠薬を大量に与えることであった。(毛沢東の死因について)七六年には五月、六月、八月と三回にわたって心臓発作を起こした。これで体が弱り、肺炎と喘息を併発し死去につながる。

 彼は自分は神でも聖人でもない普通の人間だと言っていた。一般の人間と同様に毛主席にも長所と短所があった。自分の敵、とくにケ小平氏や右派にたいしては残酷なまでに容赦せず、こうした性格が文化大革命時の大弾圧につながった。 


 これより後は、「文革史(四)





(私論.私見)