ツノレゲーネフとバクーニンの論争考

 (最新見直し2008.5.13日)

 (なかなか難しいので整理しきれるまで各方面暫し借用ご容赦頼む)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2005.11.28日再編集、2007.3.12日再編集 れんだいこ拝


 外川継男「二つの論争 一一一ゲノレヅェンのツノレゲーネフとパクーニン との論争に寄せて」。
V I土地と岳由 j さきに述べたように1)バクーニ γ が γ ベリアを競出してロ γ ドγ のゲルツェ γのもと にその姿をあらわしたのは, 1861年も撚ろうとする 12月 27日のことで為った O この 1861年という年は 2丹末から 4月はじめにかけてポーラ γ ド各地に騒乱が発生 する一方,ロシア園内におし、ても 3丹 5日の農奴解放令の公平戸以来,いたるところに農民 の騒擾が栢つぎ, 6月には「撮文の時代Jのさきがけをなす『大ロシア人』第 1号があら われた。これは解放令発布後の政府の無能な施策を非難し,国内の「教養ある階級」に対 L,現状を黙携することなく,敢然と政府攻撃の声をあげるよう呼びかけたものである が, ロンドンの『鐘』もさっそくこれを支援する論文をかかげた。即ち 9月 15日付の第 107号にはこの「大ロシア入』第 1号とともに, ニコライ・セノレノーソロヴ 4 エーヴィチ の執筆になると患われる『大ロシア人への回答』を, つづく 10月 1B什の第 108号には オガリョーブの『大ロシア入への回答に対する回答Jをのせ,現状の変革をのぞんでいる 「少数の人びと Jが孤立分散した状態から脱却し,組織を作って,農民,兵士,分離派教 徒,コサックといった幅広い人民大衆と同盟を結ぶよう訴えたのであったJ〉 すでにこれより前 F鐘』の 7月 1B付の第 102号の巻頭に,オガリョーフは『人民には 何が必要か ?Jと題する一文を発表していたが,その官頭に彼は, I きわめて簡単である C 人民には土地と自由が必要なのだ。J と記した03〉 この論文はのちに秘密結社「土地と自 由!の最初の綱領ともいうべきものになるのであるが,この中でオガリョーフは実際に人 民が土地と自由と教育とを受けることができるようになるためには,以下の七つの条件が 満たされなければならないとして,その主張を箇条書に述べている O 1)拙稿仁二つの論争(1 )J, uスラヴ研究JINo. 15, 1971, p. 62. 2)拙稿「橡文の時 RJ,Uスラヴ研究Jj, No. 16, 1972, pp. 164-172. 3) K O/lOICOム IV,853. 71 外 m継 男 (1) 第ーには,すべての人民に十分な土地が与えられなければ、ならなし、しかしその土 地は信人ではなく,共同体が所有すべきである O (2) 人民はその土地の利吊に対し, 国に税を支払うが, これは共同体の連帯責任であ り,またその支払い額は現在国有地農民が払っている額を越えてはならない。 (3) 地主の三百年に及ぶ土地所有は本来不法なものとはし、ぇ,人畏は彼らへの報復をの ぞんでいるわけではなし、。したがってもとの地主に対しては国税の中からしかベき額 (たとえば年六千万ループザ〉を報賞金または補助金の形で支払うことがみとめられよ うO (4) ロシアの人民は平和を欲しており,現在の如き多額な軍事支出は半分におさえられ るべきである O これだけで、も年六千万ノレーブリが浮くことになり,地主への支払いもこれ によって可能になろう O (5) 現在のツアーリ政府の無駄な支出も部減すべきであって,もっと道路や学校など人 民に役立つ施設にあてるべきでるる O (6) 人民に対しては,共同体においても郷においても自治を認めよ O また各共同件農民 の連帯保証を軽減させるために,共同出資によるミール資金の創設をはかり,その運用を 人民に委ねよ O (7) 土地と自由を獲得するために,ツアーりが盗意的に課税できないよう,人民自身を して税の割当を決めさせよ C これは村にはじまり,郷,郡,県をへて冨にまで及ぶべきで ある J〉 ここに主張された農民への土地分与,農村共同体の重視,軍事支出の削減,国産支出と 課税の公正化といった考えは,いず 所でで、印尉されfたミあと 9月はじめにロシア各地にばらまかれたシェルグノーフの撤文『若 き世代へ』の中にも見出されるところである 05〉 事実研究者の中にはシェノレグノーフとと もにこの撤文の作製に加わったミハーイロフのオガリョーフへの影響を指摘する者もいる が P どちらかといえば, !r若き世代へJの方がよりラジカルである J〉いずれにしてもこ のオガリョーフの論文 F人民には何が必要か?J!には,ひとりオガザョーフのみならず, 当時のロシアの反体制的イ γ テリゲンツィアの志向が反挟されているといってよく,事実 この文書の作製には, のちに秘密結社「土地と自由」の指導的メンバーとなるニコライ ・セルノーソロヴィエーヴィチや, ニコライ・オーブノレチェフ, アレクサソドノレ・スレフ ツォーフらが参加していたといわれている J〉そしてこの論文に対するロシア国内からの 需要も多かったために別離の形でも印掛され 9) かなりの部数10) がロシアに持ちこまれて 4) K O.llOKOム IV,854-855. 5) li;撒文の時代j. pp. 178-183. 6) E. JI. Py江HH1J,Ka冗 ,yKa3. CO弘, CTp. 249. 7) ~-撤文の持代J), p. 183. 8) H. n. OrapeB, H36 paflflbte CO勾Ua.llbflO-nO.llUmu切 C1Cue U ttU.IlOcO(tc1Cue npou3BeδeflUfl, T. 1, M. 1952, CTp. 843. 9) TaM iKe, T. 11, CTp. 452 (1861年 7月21日付オガリョーフのシェルグノーフあて手紙〉。 10) レムケは数万部といっているが,これは疑わしい。〈レムケ寂, liゲノレツェン全集jJ,第11巻, 136頁〉。 72 論 争 配布された。 のちにオガリョーフが秘密結社の名祢についてゲノレツェンに相談したとき,ゲノレツェン は「君自身すでに数ケ丹前に言っているだろう O 勿論『土地と自由jだoJ と答え,これ がそのまま結社の名前になった011〉 さらにこの年 9月からは,ベテノレブノレグ大学を皮切りに,ロシア各地の大学・高専に学 生運動が起った。この中でニコライ・ウーチンをはじめとしてかなりの数の学生が放校に なったが 12) 中には長期に及ぶ大学の閉鎖に見切りをつけて,みずからすすんで退学し 外国,とくにドイツの大学に留学する学生も少なくなかった。このようなロシア入学生の うち,とくにハイデノレベルグ大学に留学したウラジーミノレ・バクストらによってコロニー が形成され,彼らもまた秘密結社「土地と自由」に関係するようになる G ロンドンにあらわれたバクーニンは f身を落着けるやすぐにそこにいたすべてのポーラ γ ド入, ロシア人と知己になり,仕事にとりかかった。J13) 彼がまず最初に『鐘j ~こ発表 した論文は, 1862年 2月 15日付第 122-123合併号の巻末に附録の形で掲載されたかなり 長文の『ロシアヲポーランド,すべてのスラヴの友らへJと題する一文でるった。そして この論文を紹介するにあたって『鐘』の編集部はつぎのような一文を添えている O 「われわれは前録にノζ クーニンの第一の論文を印刷する O かくも長く……独房において も雪の荒野においてもその強さと力とを失うことのなかった彼の言葉は,当然IT"~.童 ~こ属 するものである。J14〉 これにつづくバクーニンの文章は以下の言葉で始まっている O 「さまざまな要塞監獄における八年間の拘禁,四年間のシベリヤ流汗IJのあとで私は菩尾 よく自岳の身となった。私は年老い,健康を失い,あの幸福な若者たちに向うに敵なき力 を与えるところの四肢の若々しし、弾力を喪失したc しかしその代り,今でもあらゆるもの に打ち勝つ忠想の剛毅さは持っている。心と意志と情熱によって,友への,偉大な共通の 事業への,自分自身への信念は保持している O 今や私はわれわれと同じ体験を持った古き 友,若き,われわれと i司じ思想,同じ意、志、に生きる友人たる諸君の蔀にあらわれた。そし て私は諸君に懇願する O ふたたび私を諸君の仲間に加えてくれるようにと。諸君の中にあ って,諸君とともに,私の残された人生を Eシアの自由のための,ポーランドの自由のた めの,そしてすべてのスラヴ人の独立のための戦いに捧げることを許してくれるように と。J15) このような書出しではじまった『ロシア,ポーランド,すべてのスラヴの友らへ』はそ 11) repl.(eH, XVII, 372. PY.llHHl.(Ka兄,yKa3. COf{., cTp.248 (この有名な挿話は,アレグサンド/レ・スレ プツォーフのf回想Jに出てくるが,結社の名前がつ汁られたのは 1862年 8月中旬のことであった。〉 12)口紋文の時代J,p. 189, 193. 13) repl.(eH, XI, 359. 14) H O.llOKO.ll, V, 1020. (強調一原文)。 15) H O.llOKO.l, V, 1021. く強諒一罪文〉。 73 外JIl継男 の中で以下の如き主張を展開している O 今やロシア,オーストリア, トルコの崩壊は不可避である O この廃櫨の中からイタリア 入,ギリシャ人,ノレーマニア人,マジャーノレ入,そして偉大なスラヴの同胞が自由を獲得 し,新しい文明を生むことであろう。 今自のロジアは重大な変革の前夜にある C グリミア戦争と 30年にわたるニコライの統 治の冬のあと,春が訪れたかに見え,人びとは期待に胸をふくらませたが,それも長くは 続かなかったO 一度に何千もの問題が生まれ,何を要求すべきか,どこに行くべきかをめ ぐって人びとの意見が二つに分れた。それは改革涼と根本的変革派である O 前者は国家の 根本には触れることなしに,国力の呂奈を考えている O しかし彼らはクリミア戦争の敗北 とともに,ニコライの死とともに,ピョートルの作った国家の最後の一片が死誠したとい う一事を忘れている O このロシア帝菌の崩壊と時を同じくして,オーストリア, トルコ両 国もまた崩れ去らんとしているが,このことは必ずしも同じことを意味しなし、。即ち,た とえロシア帝菌が崩壊し,ポーラ γ ド,自ロシア,ザトワニア,小ロシア,グノレジア,フィ ンランド等が独立したとしても,そのあとには四千万の大人口を有する大ロシアが残るか らである O この大ロシア人こそ知的で,才能に富み,歴史的にも若く,未来ある人種なの だ。そして昔から純スラヴ的な社会・経済制度を維持しつづけてきたのである O いまやロ シアの人民は自分たちがこの国の政治生活に,歴史に参加していることを自覚している O もしこの人民に対して,完全な土地所有とともに完全な自由が与えられなければ,ツアー リにとっても貴族にとっても悲惨な結果が生ずるであろう C 貴族の中にもわずかながら良心的なものがし、る o (デカプリストの一引用者〉ベステリ がそうであった。彼はたしかにすぐれた天才で,社会的,経済的革命の不可避性と自由な スラヴ連邦とを最初に予見し得たが,それでも失敗に終ってしまった。それは彼が人民と ともに行動し,人民とともに生きなかったからである O 今日ではこのような良心的な貴族 の数は何千にも達している O しかし彼らは未だに貴族の特権だけでなく,貴族そのものを 廃する必要性を理解してはいない。彼らはみずからの特権の維持をツアーリに求め,それ とひきかえにツアーリを支持する約束をしている O ここしばらくは,絞らが憲法で、みず、か らを慰め,議会遊びをするのをほっておけばよいだろう O われわれが待つのもそう長いこ とではあるまい。 しかしロシアにはもう一つの力がある O それは一つの階級ではなく,むしろ階級そのも のを否定するものである O それは貴族から農民にいたるあらゆる階級から出て,人民のた めに仕事し,人民との合体を強くのぞんでいる人びとである O 彼らは生きた言葉を武器に して,人民を呂覚めさせようとし-(1.、る O いま私が呼びかけてし、るのは,まさにこのよう な人びとに対してである O そして私はこれらの人びとに質問したい。「われら何をなすべ きか ?JとO 第ーになすべきことは,自覚的な合目的的な人民の党を組識することである O このため にはロシアに沢山の人を送りこみ,できるだけ多くのパンフレットを配布し,全ロシアに 無数の活動家のサークノレを作り,それらを一つの組織に結合することが必要である C 第こには,声を大にして結社の目的を述べることである C 目的とは何か? 人民の王畠 74 二つの論争 の到来以外にありえょうか? われわれは人民のみを愛 L,人民のみを信じ,人民の欲す るところのみを欲する O しからば,人民には何が必要かo U'&童』とともにくりかえしてい うG 土地と自由だと O しかし人民に必要なのは一部の土地で、はない。全ロシアの土地であ る。そして個人の土地所有権は廃止され,他の人びととの共有の形で土地を所有するよう になるべきである O すべての土地の権利が人民にのみ屠 L,すべての土地が共同体によっ て所有されることこそ根本的な全スラヴ的原理であり,その完全な実現こそスラヴ民族の 歴史的使命なのである O 人民には真の自由が, 1言仰,言論,営業,集会の自由が必要である O そしてこの自由が 現実のものとなるためには,人民の自治が必要になってくる O だがロシアの自治とはヨー ロッパのそれの如く上から下へではなく,下から上への自治であり,共同体から始まり, 人民の自発的な賛意にもとづいて,チト1,国家,そして全スラヴ連邦の統治にまでつながる ものでなければならなし、。このことは F鐘Jの紙上でもくりかえし述べられたところであ るが,その際に忘れてはならないのは,われわれは人民の教師ではなく,単なる先駆けに すぎないということである O われわれの仕事は人民の進むべき道を掃き清めることであ り,これは本質的に理論よりも実設に属することがらである O われわれは教条主義者であ ってはならず,憲法を作ったり,前もって人民に法律を与えたりするようなことがあって はならない O 第三にわれわれはすべてのスラヴ人に手をさしのべるべきである O しかし何よりもまず もって凌辱されたわれわれの同盟たるポーランド人にこそ手をさしのべなければならな し、。彼らの運命はわれわれの運命と分ちがたく結びついている O 後らの事業はわれわれの 事業であり,彼らの隷属はわれわれの隷露であり,しかして彼らの独立と自由はわれわれ の自由なのだ。ポーランドを領有している限り,われわれは心ならずもオーストリアやプ ロイセンとの同盟にとどまっていなければならず,またそのための軍事力はロシア冨内に おし、ても抑圧の武力となっている O われわれがポーランドを抑圧しているかぎり,スラヴ 世界への道はない。 しからばいかにしてポーランドを解放するか?この点でポーランド人はあまりにも多く 要 求 Lている O 彼らは昔の国境にそった全ポーランド王国の再建をのぞんでいるが,これ は大きな誤りである。 しかしこの誤りは理解できるところであり,許しうるものでもあ るO というのもみずからの国民性を奪われ,かくも抑圧されている彼らは,自分たちの過 去をつらい気持で見つめているからだ。しかし過去の栄光に巨を奪われて現在の問題を見 失って法なるま L、。過去のポーラ γ ド王忌は騎士の,貴族の国家であって,そこでは人民 は奴隷であった。さらにまたりトワニア,白ロシア,ウクライナ,リヴォニア,クーノレラ γ ド といった地方の農民が欲しないとしたら,どうして彼らの住んでいる土地をポーランドに 合併できるであろうか? 彼らもまたロシアの農民と同じように土地と富岳を必要として いるのだ。今日ポーランド人はわれわれに不信感を持っている C ロシアの軍隊がポーラン ド入を殺し,婦Lぐ子すら巌潤している以上,これは無理からねとく二らである O されば忍耐 と愛と正義と自由の行為をもってこの不信感を克服 Lなければならぬのわれわれは元弟と なるうっこれはわれわれに共通のスラヴの事業にとって不可欠なことである。真の友憶に 75 クト JII 継 男 は率重さが必要だから私は麗蔵なく,くりかえして言う O ポーラ γ ド人がウクライナ人の 意志を開かずに合併を欲しているのは間違いであると O 私はウクライナは小ロシアやガリ ツィアとともに,ポーランド iこもロシアにも属さず,独立すべきだと思う O 全ウクライナ は,自ロシア,フィンラ γ ド,ラトピア,クーノレランド 1ヴォニア, リトワニア,ポ{ ラγ ドと同じように,またオーストリアとトノレコ治下の全スラヴ人とも同じように,ロシ アとともに全スラヴ同盟の独立した一員となるべきである O 彼らがポーラ γ ド連邦に,あ るいはロシア連邦に,あるいは全スラヴ連邦に加入するか否かは彼らの意志で決めればよ いことだ。かくして国境問題はフォプ(ホロープ〉のポーラ γ ドと農民のロシアのいずれ が先に実現するか,ということに帰着する O ロシアの人民はまもなく自らの土地と自由を獲得するであろう O そうなれば能人の土地 は必要ではなくなる O われわれが隣接諸民族の自由と独立を認めるなら,彼らとの結びつ きは現在よりもはるかに強化されよう c その上で、われわれは西プロイセン,ポズナン,シ ロγ スク〈シュレージェ γ ), ブコヴィナ, ガリツィア,大チェコ,全オーストリア,全 トルコのスラヴ人の土地を守るために,共通のスラヴの戦いに方をあわせるであろう。 ロシアの解放は全スラヴ民族,と今わけ,ポーランドの解放と結びついている O ロシア 入の手によってポーラ γ ド人の血が流されていることに対しては,われわれ全ロシア入に 責任がある O この責任をつぐなうためには,言葉だけでは足りなし、。実際の行動が必要で ある O 問題はポーランドがこの事業のためにわれわれに手をさしのべてくれるか否かにあ るO 共通の敵と戦うためには共再行動が必要である C 一致して行動するためには合意がな iすればならない。J16) 以上かなり詳細にパクーニ γがロ γ ドン到着後最初に発表した論文を見てきたが,論冨 はきわめて明確である C しかし一般にこり論文については彼のシベリア脱出直後というこ ともあって,多くの研究者〈たとえばスチェクロープも, また彼に負うところ大きい E.H.カーも,また最近のソビエトのバクーニン研究家ピノレーモヴァも〉はこの中に 1848- 49年当時とまったく変ることのない主張,同じ調子を見ている 017〉そしてその京国はいず れもゲルツェ γ の回想18)に由来していると推挺されるのであるが, これを先に述べた当 時のさまざまな論文や撤文とあわせて考えるとき,ここには新しい清勢に対するバクーニ γ の克解がかなり明瞭に打ち出されているといわざるをえなし、。即ちまず第ーにバクーニ γはロシア園内に反体制的サークルを作り,それらを一つの組織に結集すべきだと述べて いるが,これはオガリョープの F回答への毘答jにも見られる主張であり,次にバクーニ γがロシア圏内の改革勢力を二分して考察しているところは,これまたオガリョーフの同 じ論文に晃出されるところである O 第三として指摘されるのは,農民の土地と岳由に対す る要求を全面的に支持しつつも,土地が{国人ではなく,共同体に麗すべきだとの考えであ るO これもいままで、に見たようにオガザョーフの『人民には何が必要か?Jlなど, Ir鐘』 16) KO.l101CO.l, V, 1021-1028. く強調-)京文〉。 17) 10. CTeKJlOB, M. A. Ea1CyHuH, Ezo :JICU3Hb U δCflmC.IlbHOCmb, T. 2, M. 1927, CTp. 32. E. H. Carr,。ρ.cit., p. 255-256. H. TIHpyMoBa, Ea1CYHUH, M. 1970, CTp. 175, 187. 18) rep~eH, XI, 353-374. とくに 359-360. 76 二つの論争 の中でくりかえし述べられた主張であることは,文中でパグーニ γ 自身も述べている通り である C 最後にポーランドの独立と自告がロシアの白出と不可分の関係にあり,将来の国 境問題の解決の基礎には民族吉決権がその基礎に量かれるべきだとの克解もまた,すでに 1859年の初頭に書かれたゲルツェンの論文『ロシアとポーランドJ}19)や,オガリョーフの 『回容に対する回答J}, r大ロシア人J第 3号, r青年ロシア j~こも述べられているところで 事る。20) このように考えるならば,ロンドンに到着 Lてから一ヶ月の間に,バターニンがゲ ノレツェンやオガワ三ーフから当時の4措勢についていろいろ開いたばかりか, r蓋』ゃいくつ かの撮文をも読んでロシア園内の反体制運動について,学ぶところが少なくなかったと推 挺されるのである。しかし,この『ロシア,ポーランド,すべてのスラヴの友らへJvこは, ゲルツェンやオガリョーフの上述の論文にはない, やはりバクーニン独自の主張が存在 した点も見落すことはできな L、即ち,第一に指摘さるべきはゲ/レツェンやオガリョーブ にあったポーランド側からの一方的な時機尚早の蜂起に対する警戒心がまったく兎られな いというミと,第二には,はやくもここに色濃く見えている彼の無政府主義的国家観の存 在である O この論文の中で彼は国家の主要な欠陥が国家そのものの原理に由来するもので あることを明瞭に述べている。そして最後にロシア園内の改革派に対するバクーニンのき びしい批判的態度も,ゲノレツェンやオガリョ{フとの対比におし、て指摘されねばなるま L 、。バクーニンはここで当時のロシアに存在したいわゆる臼由主義的貴族の要求した憲法 や国会創設の動きに対しては,はっきりと否定的,態度をとっている f)そして後のこのよ うな否定的態度が,文章全体のきびしい調子と椙まって,当時のバクーニ γ とゲ/レツェン の見解との関に微妙な相違が存在していたことをわれわれに示している O そしてこのよう な両者の講が,その後数ヶ月の開に次第に幅を広げてゆくのを以下においてわれわれ江見 るであろう O いずれにしてもパクーニンのこの論文は,文末に「次号に続く」と予告され ながら,ついに『鐘」に連載されることなしに経った。はたしてその理由がゲノレツェンの 拒否にあったのか,それともパクーニン自身執筆しなかったことによるのかは断定しがた L 、022) しかしロンドンに到差後次第に拡大していった両者の関の講については,ゲノレツェ ン自身 E過去と思索Jの中でつぎのように回想している。 fバクーニンは『鐘Jを革命化しはじめた。そして 1847年にペリンスキーについて言 ったのとほとんど同じことを 1862年にわれわれに反対して言ったっ宣伝だけ』では足りな い。 どうしても付け加えなければならな ¥"'0 センターや委員会を作る必要がある O 近い 人,遠い入だけでは走りなし、。『隷身的な,半献身的な兄弟たちJが必要なのだ。地方に 19)後述。 20)日数文の時代よ p.169, 174, 202. 21)ノミターニンはこの論文のあと, はじロントンの ['1白ロシア tl¥J反所から f人誌の 'W業。ロマーノブ, ブ、ガチョーフ,あるい ¥1ペスチマ ?Jを:1¥版 L,その'11で全人民の f全 詩 i議会〔セムスキー・ソボ- ;v)J の設在を要求しているが,これと当 u~,の t'l 由主義的責践の U4 会設之の要求とをい 一割すること は出来ない。それのみか,このあとハクーニンは,この要求 iヨ体を引っ込めて,人民経起の戦備を打 ち出すようになる O 2) スチーヱケローフはゲルヅエンがこの抜きセ『鐘~ ;こではなく, 、日時 n由ロシア iHI提訴から発行して いに fロシアからの声 7tこのせる〈とう提案 L このをノくりーニンが 1t~ 絶したためとしている ゲノ ツェ ンの提案.fIHrll (主. L jJシアカ A らの J~J J ~ニバ樹立~ ,';!i iこ;r;られ f二 BE;誌が J そのままの形で J母校されるので, n分銅人としては,その内有に克正念とる必要が江刀、ったカ a らであった。 CM. CTeK.nOB, Yκa3. co弘, T. II, CTp. 105. 77 タト JII 継 男 組織を,一一スラヴの組織を,ポーラ γ ドの組織を作らなければならなL、。バクーニ γ に はわれわれがなまぬるいように思われたのだ。当時の情勢を利用することができず,好ま しい決定的な手段を十分利用することができないでいるように思われたのである O しかし 彼はくよくよしなかった。そしてすぐにでもわれわれを正しい道に立たすことができると 信じていたり23) バクーニ γにしてみれば,目的がはっきりしている以上,篇賭する理由はまったくなか ったO 内外の情勢からしてもただちに行動を開始すべきだと信じていたので、ある O しかし ゲノレツェ γ の方は当時の体制側,反体制側の力関係を比較考量しさまざまなファグター をも十分考慮に入れていただけに,ただちに行動を開始することにははなはだ壊疑的であ った。この点で、たとえ目的が同じでも,とりうべき手段という点では再者の間に大きな見 解の相違があったので、ある O そしてバクーニン自身もこの相違を 1862年 3月に書いたと 推測される以下のゲルツェンとオガリョーフあての手紙の中で認めている O 「たとえぼくの自尊心を犠牲にしても,また第二義的な重要性しか持たぬとはし、え,ぼ くの確信を犠牲にしてさえも,完全な合意に達するためにあらゆる手段を講ずることなし に君たちに反対行動をとることは,いや君たちと尉々に行動することすら,ぼくには犯罪 だと思われる O とりわけ,われわれは目的では一致しており,多分方法と手段においてだ け違っているのだから,犯罪的なばかうか,愚かなことですらあるように思われる O 君 た ちは一つの力を作った。このような力をもう一つ作今出すことは容易なことではない。才 能という言葉を単に文学上のことに限らずもっと一般的な意味でいっても,ぼくにはゲノレ ツェン的才龍はな L、。しかしたとえ君たちが認めなくとも,ぼくには有用で高潔な力が ある O ぼくはこのことを知っている O それを無為に帰することは欲しないし,またその権 利もぼくにはな L、。この力が君たちとの結合の中に現われ,作用することがないとの確信 に到達したときには,勿論ぼくは君たちから離れて,手段においてもやり方においても自 分自身の行動をとるだろう O そしてぼくは,これによってまず君たちにはいかなる損失も かけないかわりに,ぼく自身の方は大きな支柱を失い,またわれわれの読者の面前で多く のものを失うことも十分自覚している O ぼくはロ γ ドγにやってきた待抱いていた確信を一片たりとも失ってはいない。そして どんなことがあっても,どれほど菌難であろうと,君たちの友となり,君たちの同盟の第 三番自の人間になろうという固い気持を持ち続けている O もしわれわれの結ひ、つきが可能 なら, この形が唯一の条件だが, それが駄自ならわれわれは同盟者, そう, 友人となろ うO しかし完全に独立した,互いに責任のない形においてだ。 返事は急がないでくれ, ナノレバー γ ドフ 24)が来た。それで置手祇をしなければならな い。 しかし続きを書こう O しかしそれまでにぼくの論文を返すよう指示してほしし、。勿 論,最初の印尉に要した費用はゲノレツェンのところにある金でうめてもらいたし、。そして 印刷されたのをぼくに送ってくれ。 23) repu.eH, XI, 359-360. (強調一原文〉。 24)後述。 78 二つの論争 頓首 M.バクーニンJ25) この手紙の中にもバクーニン一流のひとつよがりとともに率直さがにじみ出ている O し かし自分とゲルツェ γ との関係がもはや当初の希望したようなわけにはゆかないだろうと の自覚もはっきり晃てとれる O 全体の調子は双方の一体化をのぞむより,むしろこれから は自分は自分の道を歩くから,という感じである O このあと二ヶ月ほどしてゲルツェンはオガリョーヴァーツチコーヴァにあて「バクーニ γ とは相かわらずうまくいってし、な L、。始終話し合っているが, それでもやはり退屈 だ。J26) と書いたが, これからも両者の関係がますます気まずいものになっていったこと がわかる O この手紙よワも五日前にミシュレーにあてた手紙の中で、ゲノレツェンは「バクー ニンは……われわれと一緒に仕事をしていますO われわれは常に前進していますり27) と 書いているが,この方は第三者に対するよそゆきの言葉であって,気心の知れた相手への 先の手紙の言葉が彼の本意、であったに違いな L、。そしてこのツチコーヴァ・オガリョーヴ ァへの手紙の直前に,ゲノレツェンはバグーニンへあて手続を書いて,今後自分たちの関係 を「親しき,同盟的な近さ j と考えた L、と告げたらしし、。らしい,というのはこのゲルツ ェンの手紙は失われたからだが,これに対する 5月20日付の以下のようなバクーニンの短 い手紙は残っている。 「友よ,君たちは正しL、o ~~親しき, 同盟的な近さ~, これこそぼくが君たちに対して あるべき関係だ。しかしこの関係を有効なものにするためには,はっきりと定義する必要 があろう O われわれの問で個人的な説明は,もうこれ以上必要ではあるまし、。ぼくの心は 満足している O 君たちがぼくの手紙を真剣に受けとって,そこに苛立った表現をさがし出 そうとしなかったことに感謝している O ぼく個人としてはこれ以上何ものぞむところはな L 、。しかし多くの事柄について君たちと会って話したり,手紙で話合う必要を感じてい るO それ故ぼくの考えが固まるにつれ,君らに手紙を書くことは許してもらいたい。もう 一度礼を言う O そしてさよならを。 頓首 M.バクーニンJ2S) 「親しき,同盟的な近さ Jとははなはだ微妙な表現である O ロシア語としてもやや奇妙 な表現といえよう G バクーニンも認めた文学上の「ゲエノレツェン的才能」が生みだしたも のかどうかはともかくとして,この言葉の言外に含まれる気まずい関係が双方の間に今後 ながくあとを引くことになるのでるる O ネ ネ キ ところでロンドンに来たバクーニンは革命の事業のほかに,イノレクーツクに残してきた 25) llucbMa EaKyllUlla K ...... CTp. 194-195. 26) I'epueH, XXVII, 226. (l862JI三5月201cr-)。 27) TaM )是正 e,223. (5 月1511 H). 28) nUCbMa EaKyllUlla K …… CTp. 195. 79 外JfI継男 妻のア γ トーニア〈アントニーナ〉をなんとかしてロンドンに呼びたいと奔走していた。 しかしそのためには少なからぬ旅費もいるし,またロシア政府に妻の旅券を出させる手段 も講ずる必要があった。しかしゲルツェンはこのバターニ γの妻を招く計画には賛成では なかった。29) そこで、バクーニンはパリにいるツノレゲーネフ〈彼は近くロシアに帰国する予 定だった〉と,当時イタリアを経てパリに来ていたアルメニア出身のナノレバンジャン(前の バクーニ γ の手紙に出てきたナノレバンドーフのこと〉が,ロシアに;暴露するのを機会に,こ の件について助力を依頼したのである O しかしただちに妻をロンドンに呼ぶことはいろい ろ困難が伴うので,パクーニンは妻をひとまずイノレクーツクから自分の弟妹の住むトゥヴ ェーリ呆のプレムーとノ村の領地へ移すことを考えた038〉そこで彼は自分の弟たちの名儀 でツノレゲーネフから 2,000ループリの金を借ちることにして,これをナノレバンジャ γが 受 け取って,できるだけ早く妻のもとに送金してもらうように頼んだ。このナノレバンジャン あての手紙31)の末尾にパクーニ γは[謬1令j として,いかにして自分の弟妹に首尾よく会 って手紙を渡すべきかを詳細に書き記しているが,さらに今後ゎ自分との通信のために, 20余人の人名と地名その詑の暗号とを書き送った。しかしこれは暗号というにはあまりに も単純なもので,それによればパクーニ γ 自身はバパノレイキ γ,ゲノレツェンはトクーゼン ハウゼ γ男爵,ツノレゲーネフはラリオン・ア γ ドレーヴィチ,そしてロシア政府はドゥル ノーフ 32) といった変名になっていたにすぎず,第三部ならずとも多少でもバクーニンの事 情に通じている者なら誰でも容易に察しがつくものであった。しかしバクーニンはこれで も足りないと患ったのか 5月訪日付の手紙で,自分の名前をブ、/レイカーロフに変更する とともに,さらに「辞書への増補」として 8項目を付け加えたが, 彼 に L、わせれば, Iこ れで君はベテノレブノレグから確実で全然危険のないやり方で,私と通告ができる J33) という ことであった。 しかしロジアに戻ったナノレパ γ ジャ γは,七月に逮捕されて,その後三年間というもの をかつてバクーニ γ も収容されていたベテロバヴロプスク要塞監獄にすごす破呂になっ た。ω というのは 7月 6日にロンドンをたって,ロシアに帰冨するバーヴェル・ベトゥ ーシニコフなる人物が,ゲノレツェン,オガリョーフ,バクーニンらの手紙を持参するとい うことがスパイの4清報からロシア政府の知るところとなり 7月 17日に彼が昌境で逮捕 されたときに, バクーニ γ の前記ナノレバンジャンあての手紙も発見されたからである oF5〉 そしてこれと時を信じくして,政府はかねてから白をつけていたチェルヌィシェフスキー やニコライ・セルノーソロヴィエーヴィチを 7月 19S (露暦 7月 7日)に逮捕しこれに よって形成途上にあった「土地と自由」に大きな打撃を与えた03S〉この逮捕をきっかけと 29) replleH, XVII, 218 (1862年 4月21日付ツルケ、ーネフあて手紙〉。 30) JIeMKe,。ゼep1CU・H ・H ・CTp.75 (1862年 4月24日付パクーニンのナノLパンジャンあて手紙〉。 31) TaM )Ke, CTp. 76 (1862年 5月 6日付λ 32) これは,ll,ypHO負〈悪い,不快なの;吾~)から来ているのであろう。 33) TaM )Ke, CTp. 81. 34) M. 司aJI6aH,l,bHH,H36pa1t1tble ftU.flOcoftc1Cue U 06叫eCmBe1t1tO-nO.llumu吃eC1Cue npou3Beδe1tUfl, M. 1954, CTp. 15. 35) JleMKe, 0吃ep1CU…… CTp.19-20, 27, 74. 36) JIeMKe, flo.llumurac1Cue npol{eccbt…… CTp. 182. 80 二つの論争 して fロγ ドンのプロパガ γヂストとの関係におし、て起訴された人物の事件J(132人 裁 判J)が開始され, ツノレゲーネフもこれにまきこまれることになる。前述のようにこの時 押収されたパク{ニンのナノレバンジャンあての手紙に,シベリアの妻を呼ぶがための協力 者としてツルゲーネフの名前が再三登場していたからである c そこでこの事件を担当する ことになった特別審問委員会の議長ゴリーツィ γ は, 1862年 12月四日(露暦 7訂〉アレク サ γ ドル二世に対し審問のため国外からアレクサンドル・セルノーソロヴィエーヴィチ (ニコライの弟)やワシーザィ・ケリシーェフらとともにツノレゲーネフの喚問を申請し, これが裁可されたC37〉そこで翌 1863年 2月 3Rに審問のため帰国を命じられた38) ツノレゲ {ネフは,ただちにつぎのような手続を皇帝に書いた c 「皇帝陛下/ 至仁なる国交陛下/ すでに私は二度までも陛下に書記をもってお穎い致しましたが,二度とも私の願いは 嘉納きれま Lj~o 願わくは降下,このたびもまた貴き御注目を私に向けられんことを。 本日私は当地の大使結よりただちにロシアに帰国すべしとの命令を受けました。率直に 申しまして,私にはかかる疑惑の兆候に当る何をなしたのか自分自身に説明することがで きないのでありますO 私は白う〉の考え方を一度たりと隠したことはありません L,私の行 動はすべての者の知るところであります。自分自身について非難すべき行為のあることが 私にはわかりませんの私は作家であります。陸下一一ーしかして私はそれ以外の何ものでも ありませんO 私の全生活は私の著作の中にあらわれております。一一一私を裁くなら著作に よって裁くべきでありますc 私辻自分の著作に注意を向けんとする者は誰でも,完全に自 主的でしかも良心的な私の確信の穏寵性を正しく判断しうると敢えて考えておりますc 控 下が正しき裁判と人類愛の偉大なる事業加とによって櫛名を不朽のものたらしめたまさ にこのi市こ,何故にささやかで立あっても全力を尽 Lて陛下の御高志をお助けしようと努 めている作家である私が嫌疑を受けるようになったか,理解に苦しんでおります。訟の健 康状態並びに遅滞の許されぬ仕事が,現在私がロシアに帰ることを許容しないのでありま す。従いまして睦下,なにとぞ私にあて審問条項を送るようお命じ下さ L、。その一つ一つ についてまったく率直にただちにお答えすることを必ずお約束いたします。 陛下,どうか 私の言葉の嘘いつわりなきことをお信じ下さ L、。私は良分の志良なる亘民としての気持か ら陛下御自身にどうしてもお手紙をさしあけごなければと思いました。そしてこの気持に個 人的感謝を付け加えるものであります。J40) すでに見たようにツノレゲーネフは 1852年にゴーゴリの死を悼む文章を発表 Lたかどで 当局からにらまれた折に,当時まだ皇太子であったアレグサンドル三世に格別記庇護を願 37) TypreHeB, flUCb.Ma, V, 537. 38) TaM JKe, CTp. 691. 39)農奴解放をさす。 40) TaM JKe, CTp. 382-38:1, 81 外 JII 継 男 う手紙を書いたが 41)いま見るこの手紙はそれから 11年たっているにもかかわらず, い ちじるしくこの時の嘆願、文に叡ている O それから 7年たって 1859年にも彼は,今度は皇帝 となったアレグサンドル二世に改革の大事業を遂行するよう期待をかける手紙を書き 42) このたびの手紙は文頭にも見られる通り三度目のもので怠った。そしてツノレゲ{ネフの顕 いは今回もかなえられるところとなった。後はこの手紙を書いてから約半月後の 2月 19 日付で, 書面をもって審問条項に田容することが許されることになり 43)その審問条項は パリのロシア大使館を経て彼に渡された。ところでこの第三項はゲルツェ γ , パクーユ γ,及びオガリョーフらとの関係を問い質すものであって,これに対するツルゲーネフの 回答から,この時の彼がかつての旧友たちをどのように見ていたかを知ることができるの である 044〉勿論これは政宥の審問に対する公式回容であり,たしかにそこには個人の手紙 とはまた違った改まった態度が見られるのであるが, それでもなお先に見た 1862年 10"-' 11見当時のツルゲーネフのゲノレツェ γ にあてた手祇45)に述べられた信条を裏づけるもの がここに晃られる。46) 以下少し長くなるが全文を引用することとしょう O 「私はゲノレツェン,オガザョーフ並びにバクーニンをよく知っておりますO ケリシーエ フ氏は全然知りませんし,一度も会ったことがありません O ゲノレツェンとオガリョーフに は 1842年頃モスクワで知り合いになりました。バクーニンとはもう少し早く, 即ち 1840 年にベノレリ γ で知り合いました。当時私たちは哲学の研究に従事しており,約一年需を同 じ家で,それもほとんど同じ部屋ですごしました。しかし政治的問題法,無援な,二義的 なものだと考えていましたので,それについて議論したことはありませんでした。その後 私は彼を見かけなくなりました。以後時たま外国で設に会うことはありましたが,彼がし、 くらかの役割を演じた 1848年のパザの二月革命の時には,一度も彼を訪問しませんでし た。ある日路上で一度彼を見ただけで、あります。それ以後の彼の運命に関しては男知の 通りで、すO 私が再び彼に会いましたのは,昨年五月ロンド γ に三自ほど行った時のことで す。私はかつて一度たりとも彼と同じ考え方をしたことはなく,直接にも間接にも彼のい かなる企てにも加わったことはありませんO オガリョーフとはかつて親しかったこともなく,彼とはあまり話をしませんでした。ゲ ノレツェ γはよく知っておりますし,友人関係にありました。彼が反政府的行動をとってい ることは知っていましたが,ながし、こと役との関係は絶ちませんでした。しかし私は陰謀 等に類することには,本質的に反対でしたので,一度たりとも彼のかかる行動に加わった ことがないことは,付け加えるまでもありませんO しか L私は自分の彼との関係をはっき 41) If二つの論争 (1)j], p. 25. 42)向上, pp. 43-44. 43) TypI、eHeB,刀UCbMa,V,691. 44)これは全部で九項呂から成り,それぞれの田容の末尾にツルゲーネフは「十等官,貴族,イワン・セ /レゲーエフ・ツノレゲーネフ Jと署名している。 TaM2Ke, CTp. 391-401. 45) Jr二つの論争 (1)_l pp. 73-74, 78ー79,81-82. 46)これ辻バクーニンの有名な F告 白 Jや,後の 1857年 2月14日(露悪〉付のアレグサンドノL二世あての 手紙についても言えるところで,たとえ相手が皇帝であっても自己の信条を率直に披濯するという 点では,ロシアのインテリゲンツイアは特異な存在であった。ここにも彼らの精神的見土を見ること カミで、きょう Q 82 二つの論争 り説明する必要を白覚しております。一一最初から申しましょう O 前述の如く,私は 40年代にゲノレツェンと知り合いましたc ここで過去 20年間の歴史を 詳細に語ることは持宣に適しませんし厄介なことでもありましょう c しかし当時の時流の 中で,どれほど豆大な内的変苧がわれわれに起ったかは,すべてのロシア入の知るところ です。ゲノレツェ γ にも私にも,またその他多くの今呂では生きている者もあれば死んでい る者もあるあの項の若い世代には共通の関心事がありました。そして苦が同じ目的に向っ て努力していたので、すO その目的のいくつかをあげるなら,たとえば,農奴解放です。こ れはすでに達成されました。急ぎつけ加えるならば,政府自身の指導と指令によって達成 されたのであります。しかし相ついで起きた諸条件,王位の交替,世論や市民的信条の著 るしい発達等の彰響下に,時がたつとともに,只今申したところの若い世代のすべての者 が,徐々に成長してグループに分かれるようになりましfこ。あるものは疲れてひとり残さ れ,他の性急なものは前進し,あまりにも前進したがためにロシアそのものをも見失って しまいました。中には自らすすんで亡命者となったものもあります。周知のようにゲノレツ ェンもこのような中に入ります。 1846年 末4わに祖冨を捨てた彼は当時すで宅にすべての穏健 な,王朝=自由主義派とは反目する関係にありましたのこの派の人物の中に私はたとえば 亡くなったグラノーフスキーの名をあげることができるかと思います。ロシアにおいて 辻, 1846年の末まで,私はゲルツヱンとはきわめて稀にしか会っておりませんO 当時私は 文学の舞台に出たは、かりで,純政治的問題にはあまりたずさわっておりませんでした。私 は 1848年のまさに離なる時にパリで彼に会いました。当時ヨーロッパに展開していた光 景は私をはげしく揺り動かしましたが,そこにおいても私は襲いかかってきた嵐の単なる 見物人にとどまりました。その時はゲ/レツェンもまた,あたかも無為の中にありました。 ロシアの公衆に対するプロパガンダや影響については話題にものぼりませんでした。歴史 がどこへ行こうとしているのか,何を欲しているのかをまずもって理解する必要があった からですc ど、れほど彼がそれに成功したか,いや,より正しく言うならば,いかに成功す るところ少なかったかは,彼の著作の中に見ることができます。しかし私は1850年の春に ロシアに帰りましたので,彼をなにか理論家と懐疑家の中間の政治作家として考えており まして,決してプロパガ γ ヂストとか,わが国に社会主義や蜂起を宣伝する者とは全然思 ってもみまぜんでした。ロシアですごした六年が私の運命を最終的に決定しました。私は 作家になりました。作家であってそれ以上のなにものでもありませんC 私は自分が力の及 ぶかぎり,言葉と形象によって公然、と行動すべき使命を負っていることを理解しました。 そしてたえずこの舞台で努力してまいりました。多分これは無益ではなかったと思いま すo 1856年に私が再び外国に行きました時には,すでにロンドンで『鐘』が発行されてか ら二年目になっていましたJS〉しかしそれでも未だゲルツヱンは,すべての 18友と完全に 絶縁して現在のような孤立へと最務的に導くところの取り返しのつかない道へは踏み出し ていませんでした。当時彼はまだ単に否定し構発するだけでした。伎の否定詰断居たる もので,時には無分別なところもあり,構発もしばしば偏酉なものでありましたが,心の 47) これはツルゲーネフの記憶ちがし、で,ゲルツヱンが戸シアを去ったの辻1847年 1月である O 48) これは『北極星』の誤りであろう o r鐘』が発行されたのは1857年 7月 1日からである。 83 外JlI継男 中ではなおロシアの正しい安らかな未来の可能性を信じており,彼が政府の誤ちと考える ところを憂え,自分自身の成功を喜んでいました。本はロ γ ドγ で彼に会いました一一そ してすでにどれほど探い溝が彼と私との間を隔てているかその時惑乙ましたが一一彼との 関係を絶つことが不可欠でもあり,よいことですらあるとは認めませんでした。もっとも この関係というのはしばしば論争の中にだけ現われたものではありますけれど、。しかしそ れでもゲルツェ γ はある力を代表しておりましたし,ロシアの生活,ロシアの良心のある 傾向を代表していました。しかし持は過ぎ,あらゆるものが変り始めました。彼は自らよ く知ることのなかったロシアの実際の要求や必要をしだいに理解しなくなり,古い偏見や 新しい情熱にますます魅せられるようになり,かつて健全な分別によって見向きもしなか った教説についに屈して,農奴解放という聖なる事業についても政府に敵対 L,説教を するようになったかつての壊疑家が通常そうするように,今度は否定をやめて誇張した 騒々しい宣告を始めたのであります。過去七年の聞に彼と会うこともますます稀になり (1860年の秋から今 Eまで私が彼の所ですごしたのは昨年五見のせいぜ、い三日間ほどで す),彼と会うたびにますます私は無縁になってゆきました。そして私だけでなく, かつ ての彼のすべての同志がつぎつぎと彼との関係を断ったのであります。彼らは心から信じ てきた昔の信念を変えませんでしたが,共和主義者,社会主義者となったゲルツェ γ はオ ガリョーフの塁手響を受け,ツアーリと人民を区別することなき,理性的な自由に対する高 潔な愛と君主制の原理の不可欠たることの確信とを区別することなき,ひとしく龍全に思 考するロシア人とは,確実になにひとつ共通のものを持たなくなったのでありますO 最後 に私は昨年五月にゲルツェンに会いました。(彼はその時すでに『父と子』を読んでいま した〉。そ Lて在たちの信人的関係は終ったのです。かつての友人の共通した非難一一被 はそれを裏切りと呼んでいましたが一ーや,自分自身の孤独惑や意義の低下に苛立ったゲ ルツェ γ は,彼の疑いない素晴らしい才能のひらめきそのものを,力のほとんどすべてを 失ってしまったのでした。彼は私のことを冷淡なエピキュリア γ ,時代遅れの古臭い人間 と見ていましたが,このような患についての彼の意見は『務りと始めj と題する書欝の中 に現われて L、ます。私は彼に容赦ない真剣な答をしました。……しかし今やすべてこれら は二度と帰らぬ過去のことであります。 私はまったく率直に説明いたしました。一一私に対する質問にし、まなおいかなる答が残 っておりましょうか? ¥, 、かなる種類のものであれ,政治犯や亡命者との交際が,それだけ で政府から見て犯罪的だと考えられるならば,私は有罪であり,罰せられるべきでありま す。しかし私の裁判官が判決に当り,私が政府自身も骨悟せざるをえない全堂代の上に起 った諸事件の一つの見本であったという事構を考患にいれられることを希望いたしますO 部ち,法的要求を満たすことから生ずる沈着にして覚めた判断を要求いたします。私の裁 判官が,私の告発された関孫というものが,近年においては論争,関争の性揺を帯びたも のであるとしう事実を思い起されることを希望いたします。しかして政滑に対する有害な る傾向との闘争の功績が独立した私個人の私心なきものであることによって減ずるもので 誌ないということも想起きれんことを希望するものであります。j紛 49) TypreHeB. flUCb.Ma, V, pp. 391-395 (強諒一原文〉。 84 二つの論争 以上に見られるように,この上院の審問委員会に対する回答の中でツノレゲーネフは,自 分とゲノレツェ γ との立場の相違をはっきり述べている O その第ーは,白分が f作家であっ て,それ以上のなにものでもな L¥j ということ O 第二には,農奴解放前後からオガリョー フの影響下に(ツノレゲーネフにはこのように思われた)50) ゲノレツェ γ がかつての告条を捨 てて,共和主義者,社会主義者となり,自分たち(ツノレゲーネフの言葉をそのまま使うな ら〉穏健な「王朝=自由主義」者から完全に離れ去ったということである O そのほかにも この回答はいろいろなことを考えさせる O 同じ四十年代に育ったインテリゲ γ ツィアとし て,いかにツルゲーネフとゲノレツェ γ とが知的風土をひとしくしていたかということ,そ して先にわれわれが見た二人の論争にいたる経験や現実認識の違いをツルゲーネフ自身が どのように自己認識していたかということ,さらには身の危険をさとった「文学者」ツル ゲーネフが論争を「闘争」と呼び方ミえて,白己弁護をするやり方等々 O そしてこの最後の 点については欺鴎がまったくな L、とはし、えま L、。彼自身はゲノレツェ γ の公開書簡『終りと 始めJに対して, 自分の名前を出すことを避け,単に私告の中で、反論を述べたにとどま り,公の場では公然、と批判をしていなかったことをわれわれは知っている O それをしも 「関争の功績 iと呼ぶことをツノレゲーネフがまったくためらわなかったか否かはわから ぬが,ゲノレツェ γがもしこれを知ったならボ程然、と非難したであろうことは想像に難く 7工L、。 しかしゲノレツェンはツノレゲーネフが 132入裁判Jに巻き込まれて, ロシアへ帰国を命ぜ られ,それを何とか断るために皇帝へ重接手紙を書いたという事実は,ほかから開いて知 ったc そこで彼は以下のような一文を『鐘』の 1864年 1月 15日付第 177号に発表したが, ここにはかつてないほどのツノレゲーネフに対する痛烈な皮肉が見られる O f新年のあとでロシアからと国外にいるロシア人からの幾通かの手紙を受け取った。 般的印象は汚らわしいものである O ……あらゆる種類の海憶が流行しているが,明らかに 最後の時が近づいているようだ。赤が後悔しているだけでなく,青も,まだらも,まった くの無色もすべての点で後海している…・. われわれの通話員は一人の白髪のマグダレーナ(男性の〉が皇帝に手紙を書いて,自分 をとらえた海慢を未だ皇帝が知らないでいることに悩み,眠ることもならず,食欲も安心 も白髪も歯も失われてしまったと書いている O この'語i長から T彼女は青春時代の友人たち とすべての関係を断った』由である。J51) 1862年 5月の撤文 F青年ロシア』の出現と,それと時を同じくして頻繁に起ったベテノレ ブ、ノレグの火災, さらに 1863年 1丹のポーランドの反乱(次章)によって, ロシアの世論 は急激に右傾し,とくにカトコーフをはじめとする白由主義陣営の「愛国主義的」体制化 は目を見張らしめるものがあった052〉このような中でゲルツヱ γ はツルゲーネフの皇帝へ 50) ツルゲーネフのこのような見方は, 先に引用 Lた 1862年 10月 8日, 11月 4日付のゲノレツヱンあての 書館([J二つの論争 (1)Jl, pp. 73-74,78-76) のほかに,とくに 12丹 3日付の手紙にあらわれている O 51) KO.llOKO.ll, VII, 1460 (強調-J~t 支)。 52) Cf. M. B. Petrovich,“ Russian Pan-slavists and the Polish Uprising of 1863, Harvard Slavic Studies, vol. 1, 1953, pp. 232-236 85 外JlI継男 の直訴を耳にし上のような「白髪のマグダレーナ j という思いきった表現を用いたので ある C そ Lて当時の『鐘』の読者にはそれが誰をさしているのかは一目瞭然であったっさ らに同じ頃オガリョーフもこの件につき以下のような諒刺詩を書いており,ツルゲーネフ の直訴はひろく世器に知れわたるようになった。 しかして赦免を心配しつつ 被はみずからツアーリに書いた。 自分がかくも忠実なるが故に 友清の終を断ち切ったことを053〉 この記事を読んだツルゲーネフは 4月 2日付のパりからの手紙で、ゲノレツェンにつぎの ように書き送った。 「ロシアから戻ってから, u"鐘』にのったU",海恨のために歯も髪も抜けた男性の白髪のマ グダレーナ」等の記事について,君に手紙を書こうかどうしょうかとながし、こと迷ってい た。この記事は明らかにぼくに関するものであり,ぼくを悲しませたことを告白しよう O パクーニンはぼくから金を借りておきながら,女のようなおしゃべりと軽率さでぼくをこ の tなく不檎快な状況に陥れた〈彼は廷かの人たちは完全に破滅させた〉。そうだ, バク ーニンはぼくについてじっに下品で汚らわしい中傷をひろめたのだ。これは事のなりゆき というものだ。そしてぼくはずっと前から彼を知っているから,それ以外のことを彼から は期待して L、なかった。しかし君が二十才の青二才のように,君と信念が違ってし、るから というだけで,まさに同じように人の顔に泥をぬるようなことをするとは想橡もしていな かった。それではまるでぼくが有罪かどうか審問もしないでぼくを裁いた故ニコライ・パ ーヴロヴィチとあまり違わないではないか054〉も Lぼくに送られた審問に対する回答を君 に見せることができたら,多分ぼくが何一つ穏さず¥しかも唯一入の友達も侮辱しなかっ たばかりか,決して見棄てようとも j君、わなかったことを君にも納得してもらえたことだろ うO ぼく自身そのような行為は軽蔑すべきことだと患っている。この回答はその書かれた 語子にもかかわらず,ぼくに対する裁判官たちに尊敬と信頼の念を起させたものであっ て,いささかの誇りの気持なしには西想せざるをえなし、。君があれほど忌むべきやり方で 取り上げた珪下への手紙というのは以下のようなものだっ そうだ,控下はぼくのことはまったく知らないが,問題が正直な人間に関するものであ ることを理解されたのだ。これによって陛下に対するぼくの感謝の念もさらに大きいもの となった。それなのにぼくのことをよく知っていると思われる古い友達たちが,ぼくに卑 劣な行為をしているとも患わないで,文書でそれをひろめたのだった。もしぼくが以詰の ゲノレツェ γ を椙手にしているの 53)司.O. OrapeB, CmUXOm80penUJl U n03Mbt,五.1956, CTp. 368-369. 54) ~二つの論争 (1) J, pp. 25-26参黒。 86 二つの論争 ろう O そしてこの手紙をすぐに破棄してくれというところだっしかし君自身ぼくの君につ いての理解を踏みつけにしたのだ。そこでもうこれ以上ぼくに新たな不愉快な思いをさせ ないでくれとお願いする O 古いのだけでも沢山だ。しかしこの手紙そのものが,君に対す るぼくの惑情がまったく失われたわけで、はないニとを示している C バクーニンにだったら 一言半句も書かなかったことだろう O どうか元気で。 I1B. ツノレゲーネフ J55) すでにここにはゲルツェ γに対するツノレゲーネフの見張りが出ている。『終りと始めJ において最高額に達した両者の[論争」が,いまや泥試合に堕してしまったことは否定す べくもな L、そしてこの手続に対するゲルツヱ γ の返事56) もまた同じようにあけすけなも のであったが,同時ごにその行聞に多くの感情を含んでいるものであったっ 「ぼくも君の手続に返事を書こうかどうかながし、こと迷った。そして過去に対する敬度 さよりも現在親しくなろうとの気持から返事を書く。それに直接説明することによって多 くの誤解を除くことができると患ったからだ。 君が最後に訪問したとき,ぼくにはわれわれが分かれてしまったことがわかった(もっ とも,格J]rjわれわれの間柄が親しかったというのは実際にはー震もなかったが〉。ぼくは, だがその原因が小説の不成功からくる苛立ちだと思って,前と同じ関係に留まっていた。 君は文通をやめた。それを愛国心からだというが,ぼくは信じなし、。なぜ、なら君にはかつ て一度たりともはげしい政治的帯熱などなかったからだ… その後ほどなくして君の名前が〈ポーランドでのー引吊者〉負傷兵に対する(カンパの -引用者〉申込みリストの中にあらわれた……し、たみつけられたアクサーコフだったら単 純に首まで、血の泥淳につかってむりに入り込もうとしたのも理解できるが,一一一彼ならこ れは一貫している一一ーし、ったいどうして君も同じどぶ泥の中に跳び込んだのだ? このようなことがあったあとで,君が書面で以前の交努を断ち拐ったということをぼ くが信じたとしても,なんの驚くべきことがあろうか。それに君は事実そうしたのだか ら・..... われわれは 1863年以来人びとの引潮を経験しているつちょうど 1856年から 1862年ま でその満瀬を経験したように。芸請でも科学でも政治の分野でもあたかも老人が春画をみ るようにおいぼれたちは自漬行為にふけっているつニコライ時代にはロシア出版所を詳誘 していたのに,それが成功するやぼくの崇拝者となったポトキンの輩がそうだ。彼らは再 び愛国主義からわれわれを期罵しているが,これはこっけいなだけだ。……とりわけぼく がパリでポーランドの代表者に会ったとき彼が吾に涙を穿かべてどんなに喜んだか思い出 すならば,まったくの噴飯ものだ。 醜悪な(ポーランドの一引用者〉誤圧にもつばらま正議しこれからも抗議するであろう つ Fhd d pu e H W4 V 72A YZA QU e る C M p--a G 九 刀B 4 -月 唱E A AV 口H の 誤 hり ノ で あ る J ふ μ あ Lさ つ臼『hV 4 , 討つ トて つM14 守、 j 下 4 ι vu 付 MA 日 ω の e Hnqu mz ''1 刀何 u 主 FhdFHU Fbno ¥/¥BJ Tムこ 中れ r't 87 外 m継 男 まじめで,偽りのないロシア人を F父Jlではなく F子』が評価する時代が来るだろう O わ れわれの仕事は多分終ってしまった。しかしロシアがすべてカトコープの寄せ集りの群れ に連なったわけで、はなし、という思い出は残るだろう O 脳軟化したボトキンなら無理に理解 させることも必要だろうが,君には君の良心がこのことを告げることだろう O われわれは ロシアの名誉を救ったのだ。一一一そしてその代りに奴隷の如き多数の人たちから苦しみを 受けた。 君がかつてあった如く,全然傾向的で、はない,独立的な作家,単なる作家になることを 心から望んでいる O バクーニ γに対する君の罵りが,どういう点においてなのか,ぼくにはわからない。彼 の欠点は知っている C しかしわれわれの中に欠点のないものはいない。彼にどんな犯罪行 為があるのか,ぼくは知らない。 君もまた元気でc A.ゲノレツェ γJ57) すで、に見たようにゲノレツェ γ はかつて一度もツルゲーネフを「政治的人間Jと考えたこ とはなかった05S〉さらにまた同じ自由主義陣営にありながらも,カヴェーリン,カトコー フ,ボトキンらとは違った「作家Jとしてのツルゲーネフの f独立性j をも感じていた。 それがポーラ γ ドの反乱を契機としてロシア国内の世論が体制化してゆくにつ紅て,その 独立性を失し¥ 「傾向的j となってゆくのを見て「ツルゲーネフ,汝もか /J の思いを禁 じえなかったのであろう O すでにこの時期には,かつて 2,500部もの発行部数を誇ってい た『鐘』も,ロシアの世論が急激に「愛国主義j 的鼠潮に染まるにつれ 500部に激減して しまって L、アこ05S〉 ゲノレツェンにしてみればすでに自分たちの「仕事は終った」ものと自認せざるをえなか ったが,それにしてもこのー,二年間の自由主義者たちの恥知らずな変身ぶりが痛恨のか ぎりに思われたことであろう O このゲルツェンの手紙に出てくるポーラ γ ドの反乱に対する彼の態震は,次章でもあら ためて問題にするが, この往復書簡を最後に, 二人の関のやちとりは 1867年 5月まで, まる三年間というもの完全に絶たれてしまうのである O VI ゲルツェン,パクーニンと「ポーランド問題j パクーニ γ とゲノレツヱンとの需に f親しき,同盟的な近さ Jという一種奇妙な関係が成立 してから四ヶ月ほどたった九月末の一日,パクーニ γが「特に心配げな,そして幾分もっ たし、ぶったj60)様子で、ゲノレツェ γ の許をおとずれた。彼はワルシャワの「中央委員会jを 代表して,パドレフスキとギノレレノレの二人が『鐘』の編集部と話合うためにやって来たこ とを告げに来たのだった。そしてその晩ゲノレツェンの家で、両者の会合が持たれたが,この 57) replI.eH, XXVII, 453-455. 58) II二つの論争 (1)よ p.50. 59) repll.eH, XI, 374. 60) replI.eH, XI, 368, 88 二つの論争 二人のポーラ γ ドの代表にはさらにミローヴィチも加わって三人になっており,彼が「中 央委員会Jから『鐘』にあてたロシア語で、書かれた手紙を読みあげたC51〉この手抵はさっ そく『鐘』の 10月 1日付第 146号の冒頭に掲載されたが,その大意、は以下のま2きもので あった。 ポーラ γ ドの現在の運動については,すべてのロシア人が正しく理解しているとはし、え ませんO これは情報が公式声明や, ドイツやフランスの薪関を通して入ってくるためで, 多くのロシア人は,ポーランドが未だにひたすら歴史的冨境の回復をめざすシュラフタ的 蜂起のみを考えているのだとの吉い見方にとどまっています。しかし,必ずしもそうではな いのです。 ポーランド入とロシア人がその共通の目的のために同盟することは明らかに双方にとっ て利益であると考えるわれわれは,この新しいポーランドの運動の基礎を『鐘iを通じて 説明することにしました。 現在ポーランドが立ちあがっている基本的思想は f農民iこ対して彼らの耕作している土 地への権科と,すべての畏族に対して自らの運舎を決定する完全な自立権j とを全面的に 認めるものであります。 農民問題については,すでにあらゆる政党によって,買戻しを基礎として農民にその分 与地を与えるべきだとの意見の一致をみています。したがって,われわれは蜂起の際音勺 先に農民にその耕地を分与することを縞領でも述べています。 しかして地主への賠援は 「人民政府Jが冨車から支払うことになりましょう。さらに続領は新しい社会における身 分的特権の廃止をかかげています。 以上の如く,ポーランドの運動の基本的考えは,純粋に人民のものであって,シュラフ タ的保守主義はまったく存在しないのでありますO ロシアとポーランドの農民問題の相違は,両方のおかれた社会的原理,諸条件の違いに 由来しています。ロシアの運動はゼームスコエであるのに対し,われわれの運動はナツイ ォナー 1)ノエなのです062〉ロシアでは社会運動は政治的自由を発達させるものですが,わ が国においては社会の再組織は解放と国土の復帰の結果,はじめて可能でありますC これこそわれわれが希望する提携の基礎であります。いまや第二の問題に移りましょ うO われわれは強制的に政治的存在を奪われましたが,かつて一度たりともこの強制を認 めたことはありませんでした O したがってわれわれはL、かなる新しい国境も,われわれの 自由の嘉撞の上に基礎づけられたいかなる政府をも認めませんO われわれにとってポーラ ンドは一つであり,分裂されたポーラ γ ドは存在しないのであります。ポーランドとりト ワニアとウクライナ (PYCCHHOB) の合体した, しかしてこの三つの民族のうちいかなる 61) TaM )Ke, 369. この!Iを 1+1央委民会 J 工ペリむミエロスゾブスキの所にも代表としてダニウ才スキ ーを送った o 1¥反東宏,がJJ色i'l=, 83J]しなお 1'11央 委 li会J/Jるらロンドンに派遣されたのは,キ~ノL レノし であったが, 伎はノミリでパトレフスキ, ミロー l'iイチの二人に会い人でロンドンに来た。 CM. CTeKJIOB, yKa3. co弘, T. II, CTp. 193. 62) ロシアの運動は各地の 地~<:: " 1',しとする塁上もの運動であるのに対 L/,ポーランドの )jはもっぱらl¥'; 法的なものの怠:。 89 外 JII 継 男 一民族のヘゲモニーもない唯一のポーラ γ ドがあるのみで、すO この観点、からわれわれは以 前の国境をもったポーランドの復興に努力しつつ,そこに住むリトワニア及びウクライナ 人に対しては,ポーランドとの同盟にとどまるか,それとも自ら治めるかは彼ら岳身の意 志にまかせていますO 今日の行動準備の段階では,人民の経起が,わが抑圧された祖国の すべての土地を同時に包みこむことができるように, ザトワニアとウクライナとがポーラ ンドと共詩行動をとるように努力することがわれわれの神聖なる義務と考えています。も しわれわれがこれらの民族と同盟を結ぶことに反対したり,以前の冨境の復活を認めない ならば,それはわれわれに分割を認めよ,われわれの自由のために,三つの民族が同盟す るための力を放棄せよ,ということになりましょう O ロシアの自由思想、の代表としてあなた方にわれわれの韓大な戦いの票期を述べた上は, わがポーランドの地におけるロシア人とポーランド人の間盟が必ずや双方に等しく新しき 力を与えることを確信いたします083〉 すで、に述べたように,ゲノレツェンは 1861年 4月訪日のワノレシャワにおけるロシア軍の 発砲以来,ポーラ γ ド入に骨清を寄せるとともに,ロシアの将校・兵士に対し,二変とポー ラ γ ド人に銃を向けることのないよう F鐘』紙上で何度も訴えてきたoS4〉しかしそれと同 時に自分たちロシア人と彼らポーランド入との関に,いかにしても越え難い溝のあること を認めないわけにはゆかなかった。即ちポーランドの弾圧に対して,ロシア人として「間 接的な罪j を感じていたゲルツェンにしてみれば,彼らを助けて共同の行動を起こそうと いう申し出自体,ポーランド人にとって mesallianceと受け耳元られることを知っていたか らである 055〉たしかにロジアではクリミア戦争のま冬結と新帝の即位以来,気分が一新し, やっとこれで一息つけるという喜びがあったが, しかしこのロシア人の「喜びが彼らを侮 辱jするものであり, Iロシアの新しい空気が彼らには希望ではなく喪失を思い出させたj こともゲルツェンは見抜いていた。 1862年の 6月にポーランド総督のコンスタンチン大公 に対する暗殺未遂事件が起った持,ゲノレツェ γ はこのようなテロによって,政府が従来の 多少とも譲歩してきた政策を一切やめて,事態が一層悪化するのではないかとの懸念をホ エツキーにもらしたことがあった。これに対してホエツキーが「それこそまさにわれわれ の望むところですノ われわれにとって譲歩ほど悪い不幸はありません……われわれは決 裂を望んでいます……公然たる戦いをj と述べたことを,ゲノレツェ γは後にかなしい思い で回想している oSE〉このような惑情の面の違和感だけでなく,戦術と綱領の雷でも両者に は大きな相違があった。即ち戦術面では待機尚早の蜂起が必ずやポーラ γ ド入にとって不 幸をより大きなものにするだろうとの確信がゲルツェンの側にあり,縞領面ではりトワニ アやウクライナを含めたポーラ γ ドの昔の冨土回復の主張が,民族自決権という大震則か ら認めがたいものだとの考えがあったのである O 一方バクーニンは, I諸々の藷条件の考量 63) KO/lOKO/l, V, 1205-1206. 64) li二つの論争 (1)j, p. 56, 60. なおこのほか, 3月15日付第94号にのった!FVivat Polonia ほと5月1 日付第97号の!FMater Dolorosa~ を付け加えなければなるまい 65) repueH, XI, 367. 66) TaM )l{e, CTp. 368. 90 二つの論争 にはあまりながし、こと立ちどまらず,遠い目的のみを見つめて,妊娠二ヶ月を九ヶ月とと っていたのであったoJ67) しかしポーランドの i中央委員会jを代表してミローヴィチが先 の手紙を読みあげたとき,ゲノレツェンはウクライナやりトワニアの民族自決権について, もっと明瞭に表現するよう要求し,この串し出はー;豆、受入れられた。だがこの問題に対す る双方の惑情が「同じもので、はなかった j ことも,すでにゲルツェ γ にはわかっていた。 L 、ずれにしてもこの話合いの結果, つぎのような F鐘j の編集者の回答が, r中央委員 会 Jの手抵の掲載されたつぎの号の F鐘』の言頭にのった。 「ワルシャワのポーランド中央委員会へ 拝 啓 『鐘』の前号に掲載されたあなた方・の書簡は,独立のためのポーランドの戦いの偉大な 塵史に新時代を画するものであります。あなた方がポーランドの人民に蜂起を呼びかけて いる原則は,きわめて広汎且つ現代的なものであり,じつに明療に述べられているため に,政府の保護という,腐敗し, f毎辱的な束静から脱した L、と思、ってし、るすべてのロシア 人の中に,あなた方の言葉がふかい心からの共惑を呼ぶであろうことは疑し、えませんO われわれについて申すならば,われわれがあなた方と共に進むことは容易でありますc あなた方は,農民に対し彼らが耕作している土地に対する権利を認めています。あなた方 法すべての民族に対し,みずからの運命を決する権利を認めています。 これこそわれわれの基礎で、あり,われわれの主張であり,旗印であります。 われわれはあなた方の言葉を喜びをもってわが同胞につたえるとともに,あなた方がロ シア人との接近の仲分者としてわれわれを選んだことに対 L感謝し、たします。これに答え るにはポーラ γ ド駐在のロシアの将校にあて f三,われわれの手紙を同時に印刷する以外に ありません O この手紙こそ回答であります。われわれは何ヶ月も手間取りました。しかし 手関取ったことを喜んでいます。あなた方はわれわれに F人民の事業の基本的原則につい ての諸君の考えはわれわれにはわかっていると肯定的に述べる可能性Jを与えてくれたの ですからC この基本原期の名において,不幸の中に経験を蓑み,戦いの中に鍛えられた,独立のポ ーランドは打建てられるべきであワ,中世的甲骨をかなぐり捨てた階級のない,貴族主義 的鎖椎子や楯のないポーランドが建設さるべきで島ります。それは一方の手を会しいホロ ープに,もう一方の子を同じ権利の隣人にさしのべた,スラヴむ若返った豆人となるべき でありますc この基本原理の名において,力こそ衰えたものの信念において変ることなきわれわれの 友好的な手を取られんことを。われわれはこの手をロシア入としてあなた方にさし出すも のです。われわれはみずからの人民を愛し人民を信じ,その未来を信じてし、ます。それ だからこそあなた方に正義と自由の事業に向けて,子をさしのべるものであります。 『鐘』編集者j68) 67) TaM Ae. 68) KO/lOlCO/l, V, 1213 (強調一原文人 91 外 JII 継 男 ここで、ゲノレツェ γがし、っている f回 答Jというのは, この年 6月 1日付の『鐘』にのっ たポーラ γ ド駐在ロシア将校からの手紙約)と,同じく 6丹 7日付でゲルツェンに送られた ポーラ γ ド駐在ロジア第一軍のオルガナイザーであったア γ ドレイ・ポチェブニャーから の手紙70) への返事のことである O この手紙の中でボチェブ、ニヤーは,かつてゲルツェンが fその時が来たら,われわれは諸君に何をなすべきか告げよう」といった言葉を引用し て,いまや「その時が来た j ことを知らせるとともに,ポーランドに註留しているロシア 軍の将校が「近き蜂起の際に董接参加するであろう J ことを告げ, これについてのゲル ツェンの意見を「多くのロシア入の将校の名においてj 求めたのであったJI〉 「ポーランドの蜂起の際に,ポーランドにいるロシアの士宮は向をなすべきか ?Jとい うこの忌示、に対する答は,まことに「困難Jなものであったが, I現下の諸構勢からして, 自分たちの意見を言わないのは,弱さでもあり,ほとんど背信である J72) とも考えたゲノレ ツェンは,以下のような返事を『鐘』に発表したが,そこには彼のポーラ γ ド問題に対す る苦悩と,すべての思想が如実に反映されている O まずはじめにゲルツェ γは,まったく正当にも告らの独立のために立ち上ったポーラ γ ド人に対し,銃を向けることなく, I裁判に付されて, 囚人隊に送られ,銃殺に処せられ る」べきだと, I一毅的に答えることは容易j だけれども,これでは「完全な答j にはな らない。ポーランド人に銃を舟けるな,というのは, I否定的なj 田容にこそなれ, Iな に をなすべきかJという点についてはもっと考えてみる必要がある,といっている O このよ うに考えるならば,ポーラ γ ド人とロシアの士宮の共同行動がポーラ γ ドとロシアを引離 す結果に終ることなく,それによってロシア社会の根本的な変革につながるようなものに ならなければならないということがわかるであろう O そのためにはこのポーランドの蜂起 が,農民="土地問題と民族自決の問題に対して," どのような懇震をとるものであるかが, まず境らかにされるべきであろう O じつはこの点が不明瞭であったために,返事が遅れた のであるが, Iワルシャワの委員会」から, それが農民の f土地に対する権利Jと諸民族 の「自立権j とをめざすものであることをはっきり聞いて, いまや胞のしこりもおりた, とゲルツェンはまず最初に問題の所在を指擁している O ロシア入の将校が,ポーランド人と提携するのは,まさにこの二大原則の上に立つての み可能である O この原則に抜拠するならば,ロシアの人民とロシア軍の兵士に対して,な ぜ、自分たちがポーラ γ ド人と共同行動をとるに至ったかを納得させることも出来ょう O そ して,ポーラ γ ドの人民がロシアの散ではなく,皇帝の専制政治こそが敵なのだというこ とを彼らに告げるべきである O さらにまたポーランドの人民が自分たちの独立のみか,以 前ポーラ γ ドに加わっていた諸民族の独立をも認めているということも説明する必要があ 69) K O/lOKO/l, V, 1117. 70) K O/lOKO/l, VI, 1334. (1863年 5R 1 B仔『鐘Jの 第 162号 tこオガリョーフが紹介した。〉 これは PflPC, T. 1, CTp. 405にも収められている。 71)荒武鉄郎, n863年ポーランド反乱議夜の革命銘隷決定とロシア軍士宮結社J,li史 林J,vol. 51-1, 1968, p. 93参照。 72) K O/lOKOム V,1213. 92 二つの論争 るO このように議論を進めた上でゲルツヱンは以下のように具捧的な行動の指針を示して いる O ポーランドの蜂起は,ロシア人士官たる諸君が呼びかけたものではなく,それは諸君に とって偶然の出来事なのだ。 諸君は彼らとの共同行動の中に独立の組織として参加し,こ の同盟によってわが国の農民="土地問題の解決を前進させるべきである" O このことを銘記 した上で,ポーランドの運動とロシアの運動の共同のプランに立脚して提携するよう努力 しなければいけない。そしてその擦に絶対に忘れてならないのは, Iポーランドにおける 時機尚早の暴発は,ポーランドを解放せず,藷君を破滅させ,必ずやわれわれのロシアの 事業を中止させるであろう j ということである O その理由は沢山あるが,主な二つだけを 指摘しよう。 まず、第ーにわれわれには何の準舗もできていな ¥.'0 なるはど諸君の所には将校の組織が あるが 73) これを過大評価してはならなし、これはまだほんの端緒である O ロシア国内の 至るところにこのような組織を創設しなければならな L、C そして兵士だけでなく,人民と 接近しなければならな L、。人民が士官を散と見たり,士宮が自分白身をツアーザの召{吏と 思ったりすることが絶対なくなるようにすべきである。これらのことが十分になされてい るとはいえなし、。ロシアの地において,ただちに蜂起が起きる可能性はな L、。もしロシア の人民が蜂起に立ちあがるとすれば,それは何か空想的な理想からではなく,もっぱら自 分の土地のためで、ある c 今世紀にロシアの人民は二度頭をあげた O 一回目はロシアの土 地が危機に瀕した 1812年であり,二回目は岳分たちの土地のために戦っている現在であ るO 政府は農民に半分の自由しか与えていないが,来年春の過渡期間が終ったときには, このようなごまかしはもう許されまし、その時はロシアもポーランドも, ザトワニアも小 ロシアも,土地に対する農民の権利の名において立ちあがるであろう O しかしてロシアの革命は,西欧とは異なり農村の,共同体の.土地の性格を有するもので ある。人民は上からの呼ひかけに応じて, 畑から草地から森から立ちあがるであろう C75〉 ゲノレツェンが三人のポーランドの「中央委員会j の代表の前でこの回答を読んだとき, 何よりも問題となったのは,この中でくりかえし述べられてし、る農民の土地への権利と, 民族自決権の二点であったc この点について回答の内容を先に知っていたバクーニンは, これが「必ずしも彼らの気に入るかどうか,わからないが,いず てこのことは大したことでで、はないだろう j と重視 Lていなカか込つ fたLここ C しカかミし, ミローヴィチ はこの回答の問題点につし、て, もっと表現を和らげるよう要求した上で,最後にはこれ を承認した。 この時のゲノレツェンの態度はパクーニ γ の巨からすれポ, ¥あたかもポーラ ンド側を信用しない,あまりにも冷Lづもののように見えた。それはポーランド人の i7白t 立ちやすい国民感憶を第一歩にお L、て毎辱する」ものであり,この点でゲノレツェンは「ま ったく実際的な人間ではない」と彼は非難の気持をこめて見ていたのである cm しかし以 73) 荒式氏の前掲論文(とくに第三章)参照。 74) 地主と i日畏奴との i誌の「約定証文 1t主1863年 2)119[1までに VI'裂されることになっていた。解放令公 カョらこの lf 寺までのーベド i をさ-~-コ 75) KOJIOKOJ1, V, 1213-1215. (強調 hit文九 76) replleH, XI, 369-370. 93 外 111 継 男 上からもわかるように,ゲノレツェ γ にしてみれば,この二つの療則こそ,ロシアとポーラ ンドのこれからの共同行動の基盤となるべきものであって,決してゆるがせにはできない ところであった。もしこの二点を明確にしないまま蜂起の支持を主張したとしても,ロシ ア国内の人民大衆の支持はもとより,ウクライナやりトワニアや白ロシアの諸民族の支持 もえられぬまま,結局はロシア政廃の弾圧の前tこ屈するほかなくなるのを彼は見てとった りである O 一方ポーラ γ ド側の代表も「純戦術的な考慮J7V にもとずいて,一応妥協的に自分たち の手紙を書きかえたものの,この民族自決権を認める態度は,後にワノレシャワに帰ってか らミエロスワフスキら「戦関的なナショナリスト j からはげしく非難されるところとなっ た。〉 さらに叉, パりにあったポーラ γ ドの政治的亡命者たちの機関紙 Fポーランド問題評 論』は,このような F鐘jにのったゲルツェ γ の回答に対して,ただちに次のような記事 をかかげて, I汎スラヴ主義的j であると非難し ロジアの革命家をみず、からの散である とまで宣言した。 fリベラノレなロシアが,分割以前の国境においてポーランドが復活することを認めず, 望まぬかぎち,われわれポーラ γ ド人はるらゆる問題について,ともに手をたずさえて進 むことはできなし、。われわれにできることは,ただツアーザズムを弱体化し打倒するとい う事業において協力するだけである。J79 つまりここにおいて彼らが言わんとしていることは,ポーランドの革命勢力はツアーリ ズムの打倒という点でのみロシアの革命勢力を利用すべきであって,ゲルツェンの主張す るところのウクライナやりトワニアや白ロシアの民族的独立は,結烏はこの地に対するロ シアの褒位を認めることになるということであった。 ところでこの rポーランド問題評論Jという雑誌は,ゲノレツェンとは浅からぬ菌縁をも つものであって,これより 4年前の 1858年 に rアレグサンドノレ・ゲノレツェ γ と白出ロシア 出版所』と題する論文をのせて,ゲノレツェンの活動を紹介するとともに,彼のポーラ γ ド 問題に対する見解を読者に知らせたことがあったosa〉そしてこの記事を読んだゲルツェン は,早速筆をとって『ロシアとポーラ γ ドJと題するこつの書簡形式の論文を『盤JJ vこ掲 載したが,さらにこれに対する『評議』側の批判が第三書欝から第五書欝に及ぶかなり長 文の論文をゲ、ノレツェンに執筆させることとなった081〉このときの『評論』側の批判は,第 二書簡で述べられたゲルツェンのスラヴ連邦の思想をめ亡るものであったが,そのゲルツ 77) H. B. BeJI兄BCKa冗,“ OOJIbCKOeHaUHOHaJIbHO・OCBo6o.ll.HTeJIbHOe.lI.BH)KeHHe H repueH (1860・ rr.) ", JIumepamyplloe llacAedcm80, T. 64, CTp. 761. 78) Ee )Ke, A. H. repl1ell u nOAbClcoe llal1UollaAbllo-0C80dodumeAb1l0e d8U:JICellUe 60・x 20δ08 XIX 8elCa, M. 1954, CTp. 125. なおこの時期の「中央委員会」については絞東氏の前謁書 75頁以下参照。 79) BeJIHBCKa兄. ylCa3. cmambfl, CTp. 761. 80) repueH, XIV, 468. 81) (第一書簡J-KOAOlCOム1859年 1月 1日第32-33合併号, II, 257-260. 〔第二書簡J-KOAOlCOA,同年 1月15日第34号, II, 273-276. 〔第三書館J-KOAOlCOA,民年 3J1 1日第37号, II, 299-302. 〔第四書簡J-KO.!lOKO.!l, 1860年 3月15日第65-66合併号, III, 539-544. [第五書簡J-KOAOlCOム民年 4月 1fI第67号, III, 555-558. 94 二つの纏争 ェンの思想、というのは,ポーランドがロシアから離れて独立する「完全な権利Jを認める と同時に,ウクライナ82)等もまた「自由な独立した冒として認められるべき Jだとし,こ れらの解放され,独立した冨土が「土地をつけて農民を解放したロシア j とともに,スイ スのような「連邦j をその自由意志で構成することを期待するものであった。 この『ロシアとポーランド』と題する五つの書簡形式の論文を通して,そこに述べられ たゲルツェ γ の「スラヴ連邦」の基本的主張を見るならば,それは以下のようにまとめる ことカミで、きる O (1) すでにヨーロッパ世界はその発展の絶頂に達し,年老いてし、る O これに対しスラヴ 世界は若々しい力を秘めている。この再者の関係はさながらギリシャ・ローマの古典世界 とゲルマ γ世界との関係になぞらえることができょう O (2) スラヴ世界の若さと力は,その共同体の中に秘められてきた。スラヴ世界はこの共 同体を基盤とすることによって新しい社会主義の生活に入ることができる O (3) この社会主義世界においては,もはや国境といった概念、はなくなるであろう O (4) 解放され,新しく生まれかわったスラヴ諸民族は,独自の言語・宗教・文化を維持 しつつ,自発的に fスラグ連邦j を構成するであろう O 元来スラヴ民族は中央集権をきら い,自由な連邦最jを好むものだからである O (母 この新しい「スラヴ連邦Jの基礎は,平等にして自由な,新しく生まれかわった農 村共同体である O (6) この fスラヴ連邦」の結成にあたっては,ロシアをはじめ,いかなるー冨のヘゲモ ニーも存在しなし、。各国のまったく平等な関係における「同抱的結合j である O このようにまとめてみると,このゲノレツェ γ の fスラヴ連邦」の思想、は,彼のくりかえ し主張してきた「ロシア的社会主義j の論理的帰結であり,それなりに首尾一貫したもの であると認めざるをえない。 しかしこのような整合的論理が,ナショナザズムという, ある点ではきわめて非論理的であるとともに,霊史的にもぬきさしならぬ要素をもった概 念にはたしてそのまま通用しうるかといえば,それはまた加で、ある O 事実『ポーランド問 題評論』は,このようなゲルツェンの考えに対して, [Jロシアの進歩的思想、とポーランド 人の課題Jと題する一文をのせて,かかる「スラヴ連邦j の思想、は論理的には認められて も実現の可能性はないと批判し,さらにそれは事実上ポーランドをヴィスワ流域に押しこ めんとするがLスラヴ主義的な思想であると非難したのであったo m スラヴ民族の中でも,とりわけポーランドの民族運動は,はげしいものであったが,こ れはロシアとポーラ γ ドの長期にわたる歴史的関努を無視しては理解できなし、。しかも同 時にそこにはロシアとポーランドがスラヴ、世界の二つの異なる文化を代表するものである というイデオロギーの面も考慮しなければならないであろう O この点でスラヴ主義者は, ポーラ γ ドはローマ γ ・カトザシズムの採用という「運命的な選択Jをしたことによって, 82) ウクライナの独立に対しては,ロシア国内の世論は掠守主義舎やナショナリストは勿論のこと,自由 主義者や社会主義者の開でも共惑を寄せるものは,ほとんどいなかった。この点についてボルタルは, ゲルツェンこそウクライナの独立を公黙と支持した唯一の人 IMJtごったと述べている o Roger Portal, Russes et Ukrainiens" Paris, 1970, p. 56. 83) iepu.eH, XIV, 468-470, 538. 95 外JI!継男 正教ロシアから決定的に離反してしまったと考えていた。アクサーコフやサマーリ γ とい ったスラヴ主義者は,ポーランドに対するロシアの歴史的政策を批判的に晃ており,ポー ラγ ド分割をロシアの荘ず、べき所業とすら考えていたが,他方,国家としてのポーラ γ ド の独立は,抱のスラヴ民族に大きな影響力を持つだけに,ロシアの安全をおびやかすもの になろうと危撰してもいた。したがって 1861年 2月のワルシャワにおける暴動をロシアの 軍隊が武力で鎮圧した時に同情を示した彼らも,同じ年の10月にホロドゥウォにおいて, 1413年のポーランド・ 9トワニア連合を記念してデモが行われ, ポーランド人が連合時 代の国境の復活を要求した時には,はげしい憎悪の惑情すら示すに至ったといわれてい る084〉 * 本* パドレフスキ, ギノレレノレ, ミローヴィチの三人がワノレシャワに帰って F鐘』の編集部 との会見のもょうを報告し 先に述べた双方の文書を示したとき, I中央委員会」は国境 問題についての基本的主張は譲歩できないが,独立後のポーランド内での少数民族の自主 的な立場を尊重することは認、めたといわれる oS5〉しかし後に蜂起の独裁宮となるミエロス ワフスキは, このような「中央委員会」のロシアの革命家との妥協は「とんでもない誤 りJであって, まずロシアとポーランドは運動の目的が異なるだけでなく く「ロシアの運 動は農民的であり,われわれのは民族的なのである。J),国境問題について[中央委員会」 がワトワニア入や自ロシア人に将来自立権の録証を与えているのは「祖国への裏切り Jで あるとして,はげしく非難したとのことであった086〉 ところで、バクーニ γは,このロ γ ドン会談のすこし前の八月後半に,パザで個人的にミ エロスワフスキと会っており 87)この時も彼はウクライナやリトワニアに対する自主権の 尊重という考えを主張したが, ミエロスワフスキの方からは, これはまさに「第四次分 割 Jをたくらむ「汎スラヴ主義的陰謀」にほかならぬと受けとられたのであった088) ギノレレノレら三人のワノレシャワの「中央委員会」の代表は, ロンドンを訪問するに当っ て, ロシア{員nの秘密結社「土地と自由Jがかなり強力な組織で,ゲノレツェ γ たち『鐘Jの 編集部がそのセンターとして全組織を把握しそれらに指令を出せばただちに行動が開始 されるものと考えていた。そして自分たちポーランドの運動のためには,是非ともロシア 側の協力が必要であり,この点で文章上の表現や,理論上の些細な桓違は「行動」のため には,大した問題ではないとも思っていたのである O しかし実際には組織はいまだ「最初 の網の目」が出来ただけで, I広桓の織物Jとなるためには, まだまだ多くの時間を要し たのであった。ゲルツェ γ はこのことを彼らに告げ,且つポーランド袋,1]の時機尚早の蜂起 が双方にとって事態を一層悪化させるものであり,慎重を期するように忠告した。さらに ゲルツェ γは革命の成功のためには,どうしても「世論」を味方につける必要があり,そ 84) Petrovich,。ρ.cit., p. 228-234. 85)板東長前謁書84頁。なお j弓氏によれば,このような譲歩は fこむことだけでも,ポーランドの蜂起の 霊史上画期的な進歩である。j とされる。 86) 詩 書84頁。 C M CTeKJIOB, yKa3. co弘, T. II, CTp. 177. 87) CTeKJIOB. TaM 混 乱 CTp. 176. 88) TaM )Ke, CTp. 177. 96 二つの論争 れだカミらこそ農民への土地分与と,藷民族の自立権の承認が不可欠なのだと, くりかえ L 説明したのであった。紛 この最後の点については,ノミクーニンも同意見であったが,せっかくポーランドの「中 央委員会 jが手をさ Lのべてきとこの時期に,直接彼らに問答することな Lに,待機尚早 だからといって,ポーランドに駐在するロシア軍士官への手続をもって回答にかえるやり 方には反対であったっそこで彼は, 1862年 10月 3日付の手紙でゲノレツェンにつぎのよう に書いたc 「ゲ、ノレツェン, ワルシャワの委員会の書簡に対する回答として,士官への手紙で答える という君の意見にぼくは断固として反対するつ文書に対しては文書で,長pち委員会に対し てわれわれのロシア,小ロシア,ポーラ γ ドに対する原則と希望とを簡潔に述べたj二で, われわれ三人の署名した書面で容える必要があるとぼくは国く信じている O 正しさからい っても,われわれの岳尊心からしても,その必要があるように思われるのだ。われわれに はポーランドとの同盟について実際上の責任があるのであって,この責任から身を引くこ とはできなし、そうでないと,控え弓な振舞も臆病や評判を気にしての体面の保持と受け 取られることになるだろうっこのポーランド人への手紙は短かくて然るべきだと思う O 数 言の中にわれわれの政注綱領を述べるべきだ。これと同じ号の中に士宮への手抵を添えれ ば,それが前者への注釈となろう。 ミエロスワフスキの新聞が『鐘』はまったく抽象的,破壊的領向を有 L,将来に対する L 、かなる計画も,いかなる実際 f二の目的も持っていないと述べているのに対 L,君がこの 新聞に好意的に賛成しているのを昨告知って,ぼくはまったくたまげてしまった。第一に この意見は正しくな L、。『鐘』はずっと前から共同体的土地原理や選挙にもとずく共同体や 州の自治やロシア諸州の連邦を宣伝している。したがって,原理と目的ははっきり明荏に 定められており,実際的でもあって,この上なくきびしい実際との要求にも完全に応えら れるものだ O どうかポーランド人にもわれわれと同じぐらい実際的な綱領を作って,われ われに示してもらいたL、ものだ。まったくミエロスワフスキにどんな正しさがあるという のか? すべてこうし、ったことは許し難いほど間違っているといってよいだろう O もう一 度くりカ、えしてし、うが, もしい主君・がより率直な実際行動に踏み切らな L、ならば,控え巨 な態度も麗;病と呼ばれるようになるであろう C ともかく君に対して自己過信の欝称者だと いう非難が残るだろう一一一君を嫉んでいる者や敵がきっとそうするにちがし、ない一一一そし て大胆率重な行動という点での名誉は与えられま L、君は一つの力を,巨大な力を作りあ げた。そしてこの名誉は誰も君から奪い去ることはできな L、c 今や問題はすべて君がこの 力を夜って何をなすかということにある。ロシアは現在実際的目的のための実際的指導を 要求 L-c¥, 、る o [J鐘』がそれにこたえることができるかどうかワ もLできなければ 年後か,多分半年後には T鐘』は意、義も影響力も失って Lまうことだろう。そして君の作 ったすべての力は,君のように考えることもできないのに,君よりも豆、いきって行動する ことができる大担で吉尊心の5齢、青二才の前に崩れ去ることだろう c 行動の旗印をあげる 89) fepl.l,eH, XI, 371, 97 外 JII 継 男 のだ, ゲノレツェ γ。君独特の慎重さと可能な限りの分別をもって,旗印をかかげるのだ。 しかし思い切って大胆にあげたまえO そうすればわれわれは君について進み,君と一緒に 協力して仕事をするだろう O いつ会えるだろうか? 返事をくれたまえO M. バグーニ γJ90) はたしてゲノレツェ γがこの手紙に返事を書いたかどうかはわからない♂〉しかしたとえ 書いたとしてもパクーニンの要求にこたえるには程遠いものであったに違いない。92) 一 方 パクーニ γの方は,これから一ヶ月余たった 11月 10B付のゲノレツェ γ とオガリョーフに あてたかなり長文の手紙の中で,またしても「一瞬たりとも失うことなく,ただちに仕事 にとりかかる Jょう訴えている 093〉 このようなゲルツェ γ とバグーニ γ の見解の梧違は,ポーランド側でもいち早く気づい ており 94)ウワディスワフ・チャノレトルィスキら「オテノレ・ラ γベーノレj派はポーラ γ ド の青年に対しても「権威のある Jゲルツェ γ の慎重な態度を f若者たちをなだめて蜂起に 茨対させる j のに利用せんとしたといわれている 095〉 一方バクーニ γの方は,ロシアとポーランドの亡命家を接近させ,さらにロンド γとワ ルシャワの二つの組識の提携にますます熱中していった098〉 * 本* 1862年 10月 6日ポーラ γ ド王国政府民政部長官ヴィェロポノレスキはIlB刊広報』紙上 に徴兵に関する臨時措壁法を予告した。 これによれば 1859年 3月に出された徴兵令で、定 めたくじ引きに代って「町村長の決定する者および所業悪しき者の大部分j を軍役に競さ せることとなったが,政府の真の狙いとするところは前もって準備していたリストにもと づき 2万 5千人の革命的額向の若者をー絹打尽に徴兵することにあった。これに対し「中 央委員会j は 10月 10日「布告Jを発し政府が接兵を強行すれば直ちに蜂起を開始する と宣言した097〉そして中央委員の一人たるツヴェルツィャケヴィッチはいち早くこのこと 90) nUCb.Ma Ea1CyllUlla 1c …… CTp. 199-2∞〈強調ー原文〉。 91) ゲノレツェンがノくクーニンに出 Lた手紙辻,かなりの部分が失われてったわらない。 92) この当時オガリョーフがパグーニンにあてた手紙(10丹31日付と推定される〉は残っているが,その 中で設はノミクーニンが,かつて一変たりとも富家の問題や社会組織の問題を真剣に考えたことがあ ったかと,率産に疑問を呈している。 TaM )f{e, CTp. 202-204. 93) TaM )f{e, CTp. 204-208. 94) この点についてポーランドの歴史家リマノフスキはこう書いている。「この論文 cr中央委員会Jへ の 手紙のことー引用者〉の中でゲノレツェンは白 Bの下にその姿を現わした。これは思想の人であって,行 動の人ではない。省察と懐疑が,伎が現時点の要求に一身を打ち込んで没入することを許さなかった のである。これに対しパクーニンは,見解の首屠一貫さという点ではゲノレツェンほどではなかった が,真に行動ゎ人であって,実際の状況を素早く評価し,ただちに罰争のあらゆる可能性をとらえ た。 J B. Limanowski, Historya towstania narodu tolskiego 1863 z" 1864, Lwow, 1909 CTeKJIO弘前掲書第 2巻 203頁より引用。 95) P. CJIHBOBCKH負,“ iepueH rJIa3aMH 口OJI兄KOB," np06.1le.Mbl U3yゼellUJl repqella, M. 1963, CTp. 378. 96) CTeKJIOB, y1Ca3. COれ T. II, CTp. 205 H CJIe江. 97)寂東託前掲書85頁。 98 二つの論争 をゲノレツヱ γに手紙で知らせた。これに対する 10月 22日付のゲルツェンの返事は苦悩を 秘めながらも断固たる調子があったっ 「怠は君たちに 2万 5千の人びとをわれわれの企ての犠牲にせよというべきだろうか ?J事態がこうなったからには,とるべき手設は一つしかな L、。徴兵をやらせるがよい。 それに対して反対しても成功の見込みはまったくないし蜂起の失敗はロシアの運動を半 世紀も遅らせ,ポーランドにとっても取ちかえしのつかない破波をもたらす事になるだろ う。ロシアはすでにワルシャワに近衛の三ケ連珠を派遣したが,ロシアだけでなく,プロ イセンも介入するだろう O 前にもいったように,われわれには文章上の力はあるが, I今日 に至るまでいかなる実際的な力も持つてはいないのだ斗われわれの組織は準備にはほど 遠い O われわれがワノレ γ ャワのロシア人の委員会に Fワノレシャワにおけるポーランド人の 叛徒と同時に立ち上れ』といっても,はたして立上るかどうかはわからな L、。その上君た ち自身農民のポーラ γ ドについて語ったが,ロシアの百姓たる兵士が,どうして都会の人 間の利益のために立ち上るだろうか。さらに反乱の時が来たら,叛徒たちは抱の軍隊とも 戦わねばならないが,はたして君たちのワルシャワの委員会に軍事的指揮官となりうる者 がし、るだろうか? ロシア側にはいな L、。 2万 5千の徴兵たちも各都市に散在していよ うO どうして彼らを人民に結びつけることが出来るというのか? Iもし君たちがロシアの 岳由にいささかでも共感を持ち,ポーランドの自由に対する君たちの愛が君たちの苦悩を 克較できるものなら,そしてもし君たちが無駄な議牲を出すことを恐れるならば,ぼくは いかなる動きも起すなと君たちに懇顧する。なぜ、なら成功の見込はまったくな L、からだ… …約j 反動が何故つねに勝利するか君たちは知っているだろうか。それは彼らがあらゆる 状況においてまったく確実にふるまっているのに対しわれわれはチャンスをもて遊んで L 、るカミら7ごっ ゲルツェ γはこのように率直に自分の気持を打ちあげて,蜂起に反対したが,オガリョ ーフもまた『ポーラ γ ドに駐在するロシア士官の委員会あてメッセージj の中で,時期尚 早の蜂起を回避しできる限りその時期を延期するよう訴えているoss〉しかしこのオガザ ョーフのメッセージのあとパクーニンは宅つぎのようなこれとはややニュアンスの異なる 一文を仔け加えた。 トー…現在のロシア及び全ョーロッバの状況からみて,このような蜂起の或功の望みが 少ないことは認めざるをえない。そしてポーランドにおける運動の敗北は,必ずやロシア におけるツァーワの専制の一時的勝利を招来するであろうことも認めないわけにはゆか ぬっしかし他方ポーラ γ ド人の状態はあまりにも耐え難いものであり,これ以 tながく忍 酎したままでいることはとても出来ないところであろう O 政府岳身がその組織的にして兇 暴な圧迫の忌むべき手段で彼らに蜂起をうながしているかに晃える O たしかに韓起を延期 することがロシアにとって不可欠であるのと同じくポーランドにとって必要なのかもしれ ない。経起を先へ延ばすことはたしかに後らにとってもわれわれにとっても有益なことか 98) repueH, XXVII, 257-258. 99) repueH, XI, 375-376, 99 クト JII 継 男 もしれなし、。このために諸君は全力を額けて努力すべきである。しかし同時に彼らの聖な る権利と民族的誇りとを傷つけではならないのだ。事請が許す浪り,できるだけ彼らを説 得したまえO しかし同時に時を無駄にしてはならなし、。決定的な瞬間にそなえて宣伝し, 組織化するのだ。そしてわれらの不幸なポーランドの同胞が最終の手段を尽して堪忍袋の 緒を切って立ち上った時には,諸君も彼らに抗してではなく,彼らのために立ち上がるべ きだ。ロシアの名誉の名において,スラヴの義務の名において, ¥f土地と富由i のスロー ガ γ とともにロシアの人民の事業の名において立ち上がるべきだ。たとえ諸君が滅びる運 命にあるとしても,君たちの死そのものは共通の事業にとって有益なものとなるであろ うO 持のみぞ知るだ/ あらゆる冷静な分別の計算とは正反対に,諸君の英雄的偉業が思 いがけず花の冠で飾られるようになるかも知れない。 ぼく自身についていえば,君たちに成功が待っていようと死が待ちうけていようと,君 たちと運命を共にすることを望んでいる O 一一ーさらばだ。しかしきっとすぐにまた会える だろう O M. ノ ζ クーニ γJ100) ここで、パクーニ γ は明らかにゲノレツェ γ との見解の相違を示している O ゲノレツェンは準 錆不足の蜂起が成功するとはまったく考えなかった。そして革命運動の敦北が今後ながき にわたってロシアとポーランドの解放事業にとりかえしのつかぬ損失をもたらすであろう と考えていた。さらにまた成功の見込みがまったくない以上 2万 5干のポーラ γ ドの若 者や,ポーラ γ ドに駐留するロシア軍の将兵を犠牲にすることがあっては絶対にならない と信じてもいた。一方パクーニ γ は,蜂起の可能性が少ないこは認めながらも,虐げられ てきたポーランド人の心情を察するとき,たとえ滅びるとわかっていても,ひとたび蜂起 が開始されたら全身をあげてロシアの将兵もポーランド人に協力すべきであり,いたず、ら に事態を静観して時を無駄にすることは許されないと考えていたのである。彼はこのメッ セージを書いてから 8年もたった 1870年に再び『ロシア軍の士宮へJ と題する一文を書 いているが,その中でも蜂起に加わって夢されたポチェプニャーのことを回想しつつ,あら かじめ滅びる運命にあることを知りながら,ポーラ γ ド人の反乱を他人事として坐して見 ることのできなかった彼の心構にふかし、同慣を示している。101) ヰ ネ キ 新しい徴兵令の予告とともに,蜂記への準備をすすめてきたワルシャワの「中央委員会J は,さきのロンドンでのゲノレツェンたちとの会見のあと, 11丹末にパドレフスキをベテノレ ブ、ノレグに派遣しこの地の「土地と自由Jとの提携をはかった。彼は士宮コソフスキーを 通じて「土地と自由j の中央委員会の代表で-あるアレクサ γ ドノレ・スレプツォーフとニコ ライ・ウーチンとに会い,その結果さきに『鐘J祇上に掲載されたワルシャワ「中央委員 会Jの書簡の中で述べられた諸原則にもとずいて双方の同盟が締結された。102) しかしこの 100) TaM .>Ke, CTp. 376-377. 101) Archives Ba1Counine, T. IV, pp. 14 ff. 102) CTeKJIOB, Yl(a3. COtt., T. II, CTp. 199. 100 ごつの論争 時期は先述の如く政府当高によって「土地の日由 jの指導的メンバーが逮捕されたあとで もあり,またロシア匝]内の世論も急激に件HJU{JtIJ ~二傾いていた時だけに 103) ポーラ ド側が 期待したほどの実質的協力はえられなかった,というのが実情であった。即ち f土地と岳 由 jの二人の代表もまた,さきにゲノレツェンがロンドンで告げたと同じように,ロシアの 秘密結社の組織はまだ出来たばかりで影響力も弱く, 1863年 5月以誌のロシアにおける蜂 起は考えられないとパドレフスキに語ったのであるJ04〉 その後ベテノレブノレグの f土地と自由 Jは,アレグサンドノレ・スレプツォーフを「全権」 としてロ γ ドγ へ派遣し, rr鐘」をもって「土地と自由 Jの機関紙とし, 立つゲノレツェ γ ら F鐘 j の編集部が結社の代理人 (areHT) となることを提案したC185〉しかしゲノレツェン はバクーニ γ のみかオガリョーフも賛成していたこの提案を拒否した。このときゲルツェ γ はスレプツォーフに結社のメンパーの人数を質問し 「ベテノレブ/レグに数百人, 地方に は 3千 j との容を需いたが,とても信ずる気にはなれなかった。「君は信ずるか ?Jとゲ ノレツェンはバクーニンに訊いた。「勿論だ!とパグーニンはいったが,さらに「現在それ 迂ど多くなくとも後にはそうなるだろうさ。」と付け加えた。106) このエピソードの中にも, 二人の考え方の相違が知実に反映している O * 本 本 1863年 1丹 14日から 15fJの夜にかけて徴兵が実施に移され, 22日には「中央委員会j の蜂起の宣言が出されてポーラド γ はついに立ちあがったっ F鐘 Jの 2月 1日付第 155号は冒頭に lrResurrexit1 . JJ と題するゲ、ルツェンの一文を搭 載した。この中で彼i主立ち上ったポーランドの人民をたたえるとともに,蜂起がツアーり 政府によってやむなく玄起されたものであり, ロシア政府の武力ほかつてベズドナの反苦し ゃべテノレプノレグ大学の紛争の鎮圧に黒いられたのと同じものであり,明日にはロシアの農 民を弾圧するために使用されるであろうと予言した。そして「ポーランドの蜂起が早く到 来したのは大きな不幸である Jが, !今日起りつつある事態を前にしては謙虚にならざる をえない。批判辻できぬ。問題を解決するのは言論の力ではなく別の力なのだofG7〉と書 いた。ここには今までの白分の考え方を含めて現実に起った事態を客観的に昆ょうとする ゲルツェ γ の態震が見てとれる O つづく『鐘』の第 156号 (2月 15日付〉は, rrポーランド における犯罪」と題する論文を言頭にかかげて,またしても徴兵によってポーランド人に 蜂起を起こさざるをえなくせしめたツアーリ政府を攻撃した。(尚 F終りと初め』の最後 の書簡である第八書簡はこの号にのった。) rr鐘 Jの次の号 (3月1日付第 157号〉は,はじ めてロシア各地に「土地と白出」の結社が生まれたことを伝えたが,これはロシアにはポー ランドで弾圧をたくましゅうする政府のほかに,これに反対する勢力が存在することを内 103) この墳のロシア i廷内の世論の変化は, fiiJにも克た如くこの年 5Jjにあらわれた橡文 7青年ロシア j における極端にラジカんな主長や,べ子/1-プノL グの連続火災事件とも関係していた c 104) f'epueH, XI, 371. 105) TaM )Ke, 372. 106) TaM )Ke, 372-373. 107) KO/101iOム VI,1285. 101 外 )11 継 男 タトに知らせる呂的で‘書かれたものであった019S〉 しかしゲルツェン自身は 2月 15日のオガ ザョーフへの手紙の中で述べるように,いまだこの結社の力と将来については懐疑的な態 度を捨てきれなかったCIG9〉その後彼辻 4月 1B付の第 160号の冒頭にも『土地と自由Jの 宣言と題する以下の如き一文を発表したが,その目的とするところも,先の論文と同じく, 急激に体制イヒするロシアの世論の変化を批判するとともに, ロジア間内にはそれとはまた 別のポーラ γ ドの蜂起に共惑を抱く勢力が存在することをひろく宣伝することにあった。 「ついにロ γ アにポーラ γ ド問題に共惑を寄せた生きた言葉が発せられた…… F土地と 自由』によって発せられたのである o 2月19日 (3月 3日〉にそスグワとベテルブノレグに おいて散布された撮文は(その原文をわれわれは受取っていないが〉ポーランドに関する ものであった。この横文を書いた者は,若きロ γ アの名においてポーランドに手をさしの べるとともに,兵と士宮に対して犯罪的な服従をやめるよう呼びかけているつ この声は不可欠なもので怠った。ロジアの名誉回復はこれとともに始主るのである O そ れ故にこれを可能ならしめた人びとに深く感謝する O 言論の奴隷,文学的親衛i議員,警察への通報者たちは……われわれをロシアの裏切り者 と呼び,われわれがロシアのもっとも悪しき敵の戦列に立っているなどといっている O しかしわれわれは彼らには答えない。……彼らと話すことは何もなし、からだ。 しかしわれわれの友人たちの中にも,伝統的偏見から完全に免がれることなく,祖菌と 国家とを意識の中で、明確に区別することもできずに,みずからの人民に対する生まれなが らの愛や,人民のために苦しみ,人民のために仕事し人民のために命を捧げる覚悟と, 政府のいうことは何んでも文句なく服従することとを寵同している人びとがし、るかも知れ なL、。こういった人びとにこそわれわれは数言を費やしたし、と思うのである O われわれはポーラ γ ドと共にある。なぜ、ならばわれわれはロシアの味方だからだ。われ われはポーラ γ ドの債]に立っている O なぜ、ならわれわれはロシア人だからだ。われわれは ポーラ γ ドの独立を要求する。なぜならわれわれはロシアの自由を求めるからだ。われわ れはポーラ γ ド人と共にある O なぜなら一つの鎖がわれわれ双方を繋いでいるからだ。わ そわれは彼らと共にある O なぜ、ならスウェーデγ から太平洋まで,自海から中国にまで進 出している帝国の愚行は,ベテルブ、ノレグが結合さぜている諸民族にはし、かなる幸せももた らすものでないことを確信しているからだ。ジ γ ギス汗やチムーノレの類の堂界君主国は発 達のもっとも初期の,もっとも粗野な時代に麗するものである O 即ち,広さや力が国のす べての栄光をなした時代のものである O こういった爵は,下には出口とてなき奴隷制と, 上には無制限の暴政があってはじめて可能なものであるO われわれの膏雷の形態がはたし て必要なものであったか否かは,現在では問題ではなく,これは事実なのである O しかし 108) このほかにも設は 1863年 2月 15日付“ LaCloche"第 14号と,英国の新開“ TheMorning Star" に「土地と自由 Jの設立をつたえる一文を書いた。前者の中で彼は f士地と喜由」とは「土地に対 する各人の権科と,選挙による連邦最府」の確立をめざすものであると定義している。 repueH, XVII, 53-54. 109) rep江eH,XXVII, 290ー291.なおこの手紙の注釈によれば,このオガリヨーフあての手紙法ゲルツ ェンの「土地と自由」に対する覆麗的協力の証拠であるとされるが,これはおかし L、。 102 三つの論争 この帝国が今や命運尽き,片足を墓場に入れたということも事実である。われわれは全力 を尽くしてもう一方の足を入れる手助けをしようの そうだ,われわれは帝冨には反対である G なぜな bわれわれは人民の味方なのだか ら。J110) ここで言っている「搬文j というのは,ポーランドにおける蜂起を目撃した「土地と自 由Jの中央委員アレグサンドノレ・スレプツォーフによって書かれた『ポーラ γ ドの血が流 れる O ロγ アの血が流れる……Jという表現で始まる一文111)のことである C この中でス レプツォーフは,ゲノレツヱ γ 同様,蜂起がポーランド調iによってではなく「ロシア政府その ものによってひき起されたj ものであり,しかもその理由が, Iポーランドの白自の中に, ロシアの自由を,期ちみずからの破滅を j 政府が見てとったからであると述べている O そ して初めて「土地と岳由Jの名においてポーラソドに駐在する士官と兵士に対し「帝国主 義的政府j への協力を拒否し,ポーランド人に「和解と新しい自由な同盟の手j をさしの べるよう訴えたのであった。 しかしポーランドにおける蜂起は,突如開始され, しかもそれは以前から蜂起への協力 の意志を披摂していたポーラソド駐在ロシア軍の士官の委員会にも知らされることがなか った。112) 期待されたロシア軍の「叛徒J側への寝返りもわずかな例外を除いてはまったく 起らず 113) むしろこの事件を契機としてロシア国内の世論法急激に「愛国主義」的色彩を おびるようになったc このことはたとえばカトコーフの γ ョーヴィニスト的 Fモスクワ通 報』や,スラヴ主義者の「ヂェーニ』のみか,一年前まで辻「あらゆる額向性から解放さ れ,偏向のない客観性Jを標博していた「祖国の記録Jまでもが, 「ロジアにおいては反 政府的な近視眼的人間のみが,ポーランド王宮の政治的独立を望むことができる。 J114> として致府と世論の一体化を主張するに至ったことにも示されていた0115〉 したがってゲルツェンにしてみれば,次第に孤立化してゆく F鐘』や「土地と自由 j の 立場をロシア国内の反捧制的分子にいま一度訴えることがどうしても必要に思われたので あった。しかし彼が国家と祖国とを識別し,政府と人民との区別をさかんに語るとき,さ らに帝国主義的侵略戦争に手をかすなと訴えるとき,それがはたして蜂起直後にポーラ γ ド側によってみずからの軍隊の一部を殺されてショーヴィニスト的になっていたロシアの 世論にどれほどの影響を与え得たかは大いに疑問である。この点で蜂起以前には 2,000か ら2,500部の当時としてはかなりの発行部数を誇っていた了鐘Jが, 1863年の末には 500 110) HO.llOKO.ll, VI, 1318 (強謹一原文)0 111) pnpc, T. II, CTp. 77-81. 112) CTeKJIOB, yKa3. CO弘, T. II. CTp. 209-210. 113) この事に関 Lてゲノレツヱンは 1863年 2月 5日付のオガリョーフあての手紙の中でこう書いてい るo rミローヴイチから手紙が来たっ今日までのところロシアの兵の中で寝返った者は一人もな く,また土守の中でポーランド人に対抗せよとの命令を拒否した者も,一人もいないということであ るc ぼくはにわかに恐怖に身をつつまれたの これは銃殺よりもまだ恵い・・・・・・パクーニンは企んでい る。しかしこの企みを静かに実行することはあるま L、c だが彼はいつもより悲しげだ。J repueH, XXVII,288. 114) 伺誌 1863年, No. 5-6. cTp.7. 115) BeJI完BCKaH,jiKaS. COtt., CTp. 157-162. 103 外 JII 継 男 部に減少してしまった事116) をあわせて考えてみる必要があろう O 少なくとも表面的に見 る限り F鐘iの孤立化は否定できない事実であった。 ネ キ ネ バクーニ γ はポーランドの蜂起の報に対 L,更に事態の急激な展開を耳にするや 2月 21日にロンド γ からワルシャワの「中央委員会j に手紙を書き送った。この中で被はまず 初めに「中央委員会」が「決定的瞬間にJポーラ γ ドに駐在するロシア軍と提携するとい う以前の見解を「完全ζ 変更しム武器を獲得するために突如ロシアの将兵を襲撃した点 を批判しこれをもって「ワルシャワの中央委員会は計算違いをしたとしか忠、えない」と 告げた。そして,今後の成功のためには,ロシアの革命勢力のみならず, ザトワアニやウ グライナの民衆の支援が不可欠であり,自分たちロシアの反体制派からすれば,第ーにロ シア国内において政時に対する「牽制攻撃」をかけ勢力を分散させるために,軍隊及び地 方農民のプロパガンダを行うことと,第二にポーランド園内に「土地と自由j の旗印をか かげる「ロシア軍国」を組織する事によって, f全ロシア軍に巨大な精神的インパクトを 与える」ことができるだろうといった。117) しかしこれに対して「中央委員会j は,バクーニンの期待したような返事は何ひとつ送 ることなく, ょうやく来た手紙もロンド γ にとどまるようすすめたものであったOIls} そ こでしびれをきらしたバグーニンはこの手抵を書いた当昌にロンド γ を発って,ストッグ ホノレムに向ったOIls〉 しかしこの時バクーニンは時を同じくしてワピ γ スキーの指揮する 「遠征隊」がウォード・ジャグソ γ 号に乗り込んでリトワニアに上陸する計画があるとは 夢にも知らなかった。ゲノレツェンの方はこのことについて最初から知っていたが, Iバター ニγ の陰謀を信用していなかったためか,多分あるいはポーランド人の頼みで」この事を 知らせなかったのである 0120〉そこでこの計画をあとで知ったバクーニンは 3月 31B付 のへルシ γ グボノレグからの手紙121)でこの点につきゲノレツェ γ が自分を「子供扱いしたj となじったが 122) つづく 4月 9日付の追書で以下のようにゲ、/レツェンとオガリョーフに 書いている C 「友よ,悪かった......前の手抵で、君たちを詳訴した表現はよくなかった。ぼくは君たち が全生涯を捧げた事業に一身を犠牲にすることをためらっているなどとは一度も思、ったこ とがないし,そのような事は考えることもできなし、。君たちがぼくに対して抱いていると ころから,ぼくの君たちに対する確信を推し量らないでくれたまえO 君たちの中には今な 116) repueH, XI, 374. 117) P刀PC,T. II, CTp. 22-25. 授はこれより前 2月初めにも f中央委員会j に手紙を書き,その「計 算違い j を批判している。 CM.CTeKJlOB, yKa3. CO弘, T. II, CTp. 210. 118) E. H. Carr. oj.う.cit.,p. 293. 邦訳, 382頁. なおこの時擦の rrfl央委員会」については阪東前掲書 第三章参照G 119) CTeKJIOB. yKa3. CO弘, T. II, CTp. 222. 120) TaM滋 e,CTp. 233. 121) これは正しくは 3月31臼と 4丹 9日の二回にわけて書かれた:長文の手紙の第ーの部分であるが, ド ラゴマーノアは誤ってこれを二通に分けた。 CM.JlumepamypHoe Hac.Iledcm80, T. 62, cTp.771. 122) PflPC, T. II, CTp. 41. 104 二つの論争 お動揺があるが,ぼくにはなし、。どれほどほ、くが君たちと論争し,君たちに反対しようと も,君たち二人はぼくの究極的良心であり,砦なのだ。そして君たちがぼくに満足するな らばぼくは自分自身に満足なのだし,この世で何一つ不安なものはない。ただ言わせても らえれば,君たちはぼくが一身を捧げている仕事にただ善意のみを与えたのだ。ぼくは君 たちが関係している広汎なロシアの事業ではなく,もっと特殊ポーラ γ ド的な事業のこと を考えていたのだ。友ょこのことを信じてくれ。なぜならこれは真実なのだから・・・…ただ どうして君たち法妻が着いたことをぼくに知らせてはくれなかったのだ。しかし有難い。 彼女はここに今ぼくと一緒にいる C そしてぼく i主まったく幸福だ……話を戻そう O 乗船 してみてぼくは全遠征軍の中で君たちのすばらしい真実の友であるデモントヴィチ123) 以 外ただの一人の盟友もいな L、ことを確信するようになったc しかしデモントヴィチは不 幸なことに病気で,心痛と疾患のためすっかり参っている。 ワピ γ スキは勇敢で抜目な コンド く,頭の回転の平い男だが,無恥かあるいは,少なくともあまり良心を気にかけない傭兵 チヱー JV 隊長であり,立つ又ロシア人にとうも我慢のならない和解し難い憎悪を抱いて L、るという 意、味で、の愛国主義者だ。又軍人としての職業からあらゆるものに対して,自分自身の人民 に対してすら嫌悪と軽蔑の気持を持っている O このような性格を身近かに眺め,デモント ヴィチの助けで伎をより理解するにつけても,ポーランド人の仲間に入ってわれわれが ロシアの企てを成功させるという点については,考え込んでしまったと自認せざるをえな L 、...… J124) ここで、バグーニ γ は,ゲノレツェ γ とオガリゴーフに対 L,少し碗曲な言い方だが二人の 動揺を責め,善意だけでは事は成就しないことを指摘してし、る O しかし後半ではポーラン ド側と自分たちロシア側との間に大きな需があることを白分でも認めている O 後年になっ て彼は,この 1863年のポーランド革命の際の双方の食い違いについて, ポーランド{Jtljが 戦術面でロシアの革命勢力をもっぱら自分たちの目的達成のためにのみ利用せんとしたほ かに,原則面でもシュラフタ的・中央集権的・国家主義的ポーランドと人民的・連邦的・ 共同体的ロシアとの相違を指摘しているが 125) とりわけ遠征隊長ワピンスキに見られる ようなロシア人への憎悪と,シュラフタ的人民蔑視の態度が双方の協力にとって最初から 大きな捧害となっていたことがこの子紙からもわかる O パクーニ γ はこの手紙以外tこもく りかえしこの遠証計画についてゲノレツェンが前もって知らせてくれなかったことをうらん でし、るが,有名な「ウォ{ド・ジャクソン号の遊にj がみじめな失敗に終ったことは男知 の通りである J2S) しかし当時彼法遠征琢の一員としてポーランドに入り革命に参加する 目的で次のようなアピーノレを書き残している C 123) ポーランドの 1,1,央委J1会 j のメンメーで,このワピンスキの遠征隊には「中央委品会 Jの代去と して加わった O 124) pnpc, T. II, CTp. 41-42. 125) Archives Bαkounine, T. IV, crp. 13 H Cd1eJl., 126) このエピソート~に 丸、 法『過去と.',!}, -k Jl立~7 ,首都 章及び E.H. カー『浪漫的亡命 またち 11 章, Lパクーニンj] ;;wn-22章にくわ Lい。 105 外 )(1 継 男 「ポーラ γ ドの兄弟たちょ/ 君たちは自分たちの自岳のために,自分たちの聖なる祖国のために,世界中でもっとも 悪しき政府たるべテノレブ、ノレグ政府によって惹起された不平等の戦いに立ちあがったのだ。 以前からポーランドの独立とポーラ γ ドの自由がロシアの解放の事業と分ち難いものであ ることを確信しているわれわれロシア人法,ロシアとポーランドとを破滅させプロイセン その飽のドイツ人の手に委ねてきたベテノレプノレグのドイツ入の帝位を諸君に劣らず憎悪し てきたO われわれはこれらドイツ人の命令でその指揮下に不孝にもまどわされ酔わされた 兵士たちのなした恐るべき行為に対しいきどおっており,諸君と共に共通の自由の聖なる 事業をなすために,あるいは諸君と共に滅びるために,諸君と運命を共にすべく,諸君の 許へ身を現わしたのである O 必要とあらばわれわれは喜んで死ぬであろう O なぜならわれ われは,邑由は死ぬことなく,また解放されたホ。ーランドがやがてロシアの解放に兄弟と しての手をさしのべるであろうことを知っているからだ。J127) 一方ゲノレツェ γ は先のパグーニ γ の手祇から一ヶ月足らず後にオガザョーフあてに以下 の如き手紙を書き送っているがそこに試すでに蜂起の前途の見通しに対する彼の憂いがに じみ出ている。 1[1土地と自由』の神話は続けさせるべきだ。なぜなら彼らは自分たちのことを信じて いるからだ。しかし現在なお『土地と自由Jが存在していないということは嬰自だ……ぼ くは以前に君とバグーニ γ に予言していたo - da ist kein Sto笠(実体がない〉と O 君 は ぼくのスケプティシズムの真極を認めてはいなかったのだ。……バクーニ γ はぼくにとっ て,ぼくが革命性というものを責める lnbegr近 Bceroくすべての総体〉だ。彼に対してぼ くが必ずしもオープγ でないことは遺憾だ。ポチェブニャーの死はロシアの名を薄めるに はよいが,彼の死によっても,バグーニンを通してでも接近(ポーランドとロシアの-引 用者〉は存在しないoJ128) 一方スウェーデンに着いたバターニンは f土地と自岳Jの代表としてこの地で名声を博 し,国王カーノレ 15世に拝謁までしたが 129) さらにこの結社を宣伝するためにゲルツェン 自身の来訪をうながした。しかし上の手紙にも見られるように懐疑的であったゲルツェ γ は,自分の息子アレグサンドルを送っただけで,心の中では「土地と自由」の神話につい ても,パクーニ γ の「革命性Jについても信用せず,ロ γ ドγ にとどまっていた。 しかしバクーニ γ の方もポーラ γ ドの革命政府から予期した招待が得られず,それのみ か直分の「汎スラヴ主義」を批判されたと開いて,ストッグホ/レムから以下のような手紙 をゲノレツェンとオガリョーフに書き送った。 「ポーラソドの出来事は依然、として長ヲ iし、ている O 帰国したデモ γ トヴィチから, 国 民政府の中の自党が,われわれの友人たるスメリンスキを長とする運動の支持者によって 127) flUCb.Ma Ea1CYflUJW 1c …… CTp・231-232. 128) iepu.eH, XXVII, 319-320. 129) CTeKJIOB, y1Ca3. co弘, T. II, CTp. 224. 106 二つの論争 完全に打ち負かされたと手紙で、言ってきた。国民政府〈多分まだ白党時代〉の君に対するは げしい非難の中からぼくの名前を書lJ黙したと知って,君に劣らず驚いたのみか,ふかく悲 しんでもいる。ぼくはポーラ γ ド人の前でもロシア人の前でも,君たちとの国い結びつき を拒否するつもりはさらにないっぼくはこのことを誰にも言った事はないし,これからも 君たちの許可がない限り言わないつもりだ。しかし彼らがわれわれに与えた f汎スラヴ主 義 者Jとしづ名称に時,できる眠り強く抗議すべきだ。君はかつて一度たっとも汎スラヴ 主義者であったことはないし,スラヴの運動をいつでも軽蔑の目で見てきたからだ。ぼく もスラヴ主義者であったことは決してなし、。しかしスラヴの運動にはもっとも熱心に取組 んできた。そして今日でもなおスラヴ連邦こそがわれわれの唯一の可能な未来だと思って いる O なぜならそれだけが帝国主義のいつわれる道の上で駄目になってしまった,また必 らずや歎自になるであろう,わが国の人民の生き生きとした偉大さの感情に,まったく自 由な形で、新たな満足を与えることができるものだからだ。しかしこれはまだずっと先のこ とだ。現在スラヴ民族について考えることは愚かなことかも知れなし、。もしわれわれが彼 らについて,今なお心配するとすれば,それは現在の膏国主義的ロシアとの破滅的同盟を 担止せんがためにiまかならな L、c ぼくはスラヴ民族について考えることすら忘れてしまっ ている O 現在ではあらゆる問題がロシアとポーランドの間を緊迫させている。そうだ,ポ ーラ γ ド人と一緒にやることはわれわれには困難なことだ。われわれが仲良くやってゆけ るような人間はあまりにも少ない。デモ γ トヴィチがぼくについに何と言ったか知って いるかし、? 彼はロシアの革命を望まないばかりか,ひどい厄災として恐れてし、るという のだ。ロシアの革命によってポーラ γ ドが教われるか,それとも帝国主義が新たに勝利す るか,どちらかを選ばなければならないとしたら,彼はむしろ一時的な帝国主義の勝利を 欲するというのだ。なぜなら遅かれ早かれ帝国主義からは解放されようが,ロシアの社会 革命誌外からポーラ γ ドの文化の張壌を惹起しポーラ γ ド文明を決定的に沈めてしまう ことになるからだという。かくて友よ,君たちはこの点で正しかったのであり,ぼくは間 違っていたわけだ。われわれがロシア人である眠り,最良のポーラ γ ド人といえどもわれ われの敢なのだ。しかしそれでもなお,われわれはポーランドの運動を傍観視することは できないしわれわれの取った方向を後海するわけにもゆかなL、。このような破局に際し て黙って伺もし、ないでいることは, {合理的にも政治的にも白殺を意味することになるだろ うO 忌むべき死刑執行人と立派な犠牲のどちらかを選ばねばならないとしたら,立派なも のかどうかも問うことなく犠牲の方を取らねばなるまい。その上,ポーランドの隷属はわ れわれの不幸でもある O ポーランドにおけるロシア寧の手柄は,われわれの恥だ。ポーラン ドにおいてベテルブノレグが勝利することはロシアにとって破滅となろう。それだからこそ われわれはベテルブノレグやモスグワの,またワルシャワのわめき戸などに一顧だに与える ことなしに,聖なる義務として仕事をしてきたのだし,これからも続けてゆくのだ。ぼく はわれわれの主たる歎は,フランス人,イギリス人よりも,いやドイツ入よりも,ベテル ブルグだと酉く信じている O まったくこいつこそ変装したドイツなのだ。それだからこい つに対してぼくが永久に戦いを続けることは何ものといえども阻止できなし、わけ、だO そう だ,ぼくは芦を大にしてロシアの国家主義的=帝国主義的愛国心を否定する G そしてどこ 107 外 JII 継 男 から来るものであれ,帝国の崩壊を歓迎しょう O 勿論ぼくはフラ γ ス人やイギザス人やス ウェーデン人や彼らの友人たるポーランド人のあとについてロシアに行くようなことはし ない。しかしもし外国人の戦いの最中に,農民を蜂起させるためにロシア国内に潜入する ことが可能になったら,聖なる義務を果 L,偉大なるロシアの事業に奉仕するという完全 な自覚をもって,ロシアに入り込むだろう O これが諸君へのぼくの信仰告白だ・・・… 130)J ここにもポーラ γ ドの革命運動におけるロシア人の参加がし、かに困難なものであったか が,如実に示されている O デモ γ トヴィチに代表されるような考えは,ポーランド侵uに も少なくなかったからである O 後年になってバグーニンは「ロシア備の綱領とポーラ γ ド 1J{Uの綱領との関には共通なものはほとんど向ーっとして存在しなかったJ,rこのような深 い醤が存在するのに,ロシアとポーランドの二つの組織の莫撃で、より完全な結合が可能で ありえただろうか。ポチェブニャーの友人をも含めて,ポーランド人は当然のこととして ポーラ γ ド王国内のロシアの軍事組織を排他的に,自分たちの目的達或の手段としてのみ 考え,ロシアの革命の吾的に対しては無関心であるばかりか,敵対的な懇度さえとってい たのである oJ13l)と述べ,さらに「ポーラ γ ドの革命家の志向とロシアの革命家の志向と の関には,まさに貴族と農民の世界を峻別している深淵が存在していたし,今でも存在し ているのである。J132) とも言ってし、る O ポーランド側にすれば,バクーニンはまさに招か れざる客であり,ゲノレツェンがし、みじくも指摘したような mるsalliancevこも似た関係が両 者の間に最初から最後まで拭いきれなかったのである O しかしだからといって腕をこま ねいていることはバクーニ γ にはできなかった。彼はつづ、く 8月 10日付の長文の手紙の 中でロシア国内に私密出寂物を配布すべき手筈を語り,ゲノレツヱ γ に資金の出資とベテノレ プノレグの「土地と岳由」のメ γバーの紹介を頼んだが,ゲノレツェンはこれに色よい返事を 与えなかった。さらにバクーニンはこの手紙の中で,ゲノレツェ γ の長男のアレクサ γ ドル 〈サージャ〉との気まずい関係を述べたが,これはそれまで自分がスウェーデンにおける 「土地と自由 j の代表だと信じてきたにもかかわらず,サーシャがストックホノレムに来る に及んで,いずれが真の代表なのかをめぐって内輪もめがあったためで、あった0133〉 しかしてこの手紙に対する 9月 1日付のゲルツェ γ の返事は,いつもよりも茜に衣をき せぬきびしい諒子のものであった。 「君たちのどっちが『土地と自由jの chargる d'a妊aires(代理大使〉なのかという論争 は,最高に喜劇的なものだ。……君の本134) のとくに前半はぼくを非難によってふるえあ がらせはしなかったが,むしろおしゃべり,接近,離反,釈明の空しさ,不必要さ,幻想 性によってちぢみあがらせた。…… 若い時にドイツの観念論の中に飛び込み一ーもっとも時間がたてば demScheine nach 130) flUCb.Ma Ea1(ynuna 1c …… CTp. 233-235. (1863年 8月 1日付手紙)0 131) Archives Bakounine, T. IV, p. 15. 132) ibid., p. 4. 133) flUCb.Ma Ea1Cynuna 1c …… CTp. 236-241. この点についてはE.H. Carrの議場二喜にくわしい。 134)先にノミクーニンが 8月 1A付で送った手紙をさす。 108 二つの論争 (外見上は〉観念論から現実主義的な見解も生まれて来ょうが一一牢獄に入るまでも,ま たシベリアへ流されたあとでも,ロシアを知らず,立派な仕事に対するあくなき海望に満 たされてきた君は,五十年間というものを幻影の世界に,書生流の開けっびろげの,偉大 な志とつまらぬ欠点の世界に生きてきたのだ。……十年間の幽閉のあとでも,君は前と同 じだった。 duvagueく漠黙としjこ〉あいまいな理論家で侵舌家である点も変らなかった。 〈サージャが君にこう言ったのはまたしても彼の悪いところだ。しかしこのことを知らな い,また恐れぬ者は一人としていないJ 君は金銭については気にせず,のんきで,生まれ っき変ることなきエピュキュリアンで,革命がないのに革命活動の済癖にかぶれている点 でも同じだった。君がその侵舌で薮誠させたのはナノレバーンドフ一人ではない。たとえば ヴォーロノフもそうだ。君が必要もないのにナノレバーンドフへの子紙の中で彼の名前を出 したために,彼は最初カフカースから要塞監獄に入れられ,ついでにシベリアへと流され たのだ。ツヴェノレツャケーヴィチが出発したあと,ぼくの所に暗号で書かれた一通の手紙 が来たつおしなべて陰謀をもてあそぶことに反対のぼくは,それを放っておいた。しかし トホノレジェーフスキーが来て,どこか自分のところに君の『解読書Jがある筈だといって 持って来た。ところがどうだ。ぼくとオガリョーフは呆然となったo 冊のノーいこロシ アの信頼できるすべての人の住所が詳細な注釈までつけられて記されていたで、はないか。 そしてこのノートが人びとの子から手へ廻され,ツヴェルツャケーヴィチにもトホノレジェ ーフスキーの所にも渡ったというのだ。ジホーニのところに廻らなかったならばよ L、が。 スウェーデン人がこのことを知ってふるえあがったとしても,何の驚くことがあるであろ うか。君はからだでかく,人を罵り,わめき立てる O だから誰一人として君に面と向つて は, ['肩もすくめず,頭もふらずにJ秘密をもらさないでいることができないものは捨謀 家として失格だなどとは言わないのだ。そうだ/ ぼくも失格だ。しかし親愛なるバクー ニンよ O ただぼくはこの肩書を強いてもらし、たいとは思っていな L、。 君もミロラードヴィチと同じようにエネノレギーはあるが,重観力が足りなし、。その一番 よい証拠はポーランドとの同盟だ。これは不可能な事だったのだ。彼らはわれわれに対し 率直に行動しなかったc その結果君はすんでのところでこの同盟の中で溺死するところだ ったしわれわれは浅瀬に乗り上げてしまったのだ。……ぼくは F鐘j]vこ士宮たちの挨拶 を碍崩することには反対だったのポチヱブニャーを生訟に捧げる議式にも,君の旅行にも 反対だった。しかし君がブラニツキーの金で旅立ち,メッセージがし、たるとこるでコピー されたとき,ぼくは君と士官たちが事実によって自らの言葉を裏付けなければならなかっ たのだと思ったものだc そして君がスウェーデン人の中に居坐ったとき,ぼくは君のため に心置してオガザゴーブと一緒に電報でまlJらせたっそして君が乗船したニとを認めたひそ れなのに一体なんだって君はぼくとオガリョーフが君を説得したり電報を打ったことを 何度も答めるのだ。かつてポーランドにいたことのない君には, 解決の手設はなかった のに。 ポーラ γ ドの事業がわれわれの側からみてうまくいっていないのは,それがたとえある 程度正しし、と Lて 16,われわれの事業ではないからど。こ二の 4 とは詰iJにも君にf='iったが, 君がすっカミり事を台なしにして;しまったことにも示されて L、るつどうかお鋲¥, ,だから,も 1a タト )11 継 男 し今後君が向かを印刷する時には蛇の如く聡くあってもらいたし、ものだ。われわれの家賠 は社会的なものだというが,いったし、どっちの側が社会的原理なのだ? デモソトヴィ チの側か,それとも農民主こ地主の土地を分与したベテノレプノレグの太守の側か? Fそうだ,われわれはムラヴィヨーフと共に進むことは出来ないだろう』と君はしづ O たしかに出来な L、。しかし時には日や月に食があるようにそっと姿を消して,静かに仕事 することもできるはずだ。そこに calami話 publi司ue(大衆の悲穆〉はなし、。仕事をする か,それともあるいは静かに何もしないでいるべきだ。待機尚早の大騒ぎが時として事を 数自にするとフィンランド人は言っているが,これはまったく正しい0 ・ ぼく白身どこか行き場所をさがしているのに,なんだって君が比処に来る必要があろう か。またイタリアで君は何をしようというのか。ポーランド問題が片づくまでは,いぜん としてスウェーデ γ で暮している方がためになるとぼくは思う O さらばだ。しかしぼくの率直さに援を立てないでくれ。半世紀も生きたのだから,今や 自らの力を知る時だ。 A.ゲノレツェン J135) かなり辛掠な書き方で怠る O ゲノレツェ γ はこの中で二十年間つきあってきたノミクーニ γ の人柄から錨人的な性癖Uこいたるまで批判しているが,とくにポーラ γ ド問題についてい うならば, Iすでに事終れり J とし、う気持が彼には強かったのがはっきり見てとれる O ナ ノレバー γ ドフといい,ポチェブニャーといい,それぞれある意味では不,必要な「生賛の犠 牲Jであったかも知れず,さらにこの点でバクーニ γ の鏡舌と無神経とに責任の一端があ るとすれば,もはや舞台の上から身をヲ札、て,事のなりゆきを静観していた方がはるかに よいように思われたので、ある o U過去と思索』の中の Fエム・バクーニンとポーラ γ ド問 題』においても,ここで、述べたのと同じような冷たい批判的な見方が述べられているが, つづく 『汽船《ウォード・ジャクソン》号j の叙述の仕方は,もっとカザカチュアイじし た,っき離したものであった。 ゲノレツェ γ とバクーニ γ の関係は, とくに ζ の 1863年秋のポーランドの蜂起の失敗以 後さらに悪化していった。一方ロシア冨内にあってはカトコーフが『モスグワ報知Jの 10 月 17日付第 225号に,ポーラ γ ド{閣のパ γ プレットを引用して,ポーラ γ ドの蜂起は「ロ γ ドγ の三人組Jの;扇動によるものであるとまで非難した0135〉 これに対しゲノレツェンは 10月 30-31日付オガザョーフ及びツチコーヴァあての手紙の中で, 自分とオガリーョフ に関していうならば,乙れは[嘘Jだが,バクーニ γ については, Iどうして嘘だといえ ようか? それに同じことを彼はストックホノレムの演説で、語ったで、はないか? 彼のもた らした利益はぼくにはまだわからないが,害は目の前にはっきり存在している O くりかえ していうが,ぼくは彼に会いたくない。J137) とそっけない調子で書いたO 更に彼は『鐘J の12月 15日付第 157号に『未来の出発点としての 1863年にあたりて』と題する一文を発 表したが,この中でも『モスクワ報知』の[ゲノレツェン氏とその一味Jという表現を非難 135) repu:eH, XXVII, 370-372 (強諒一原文〉。 136) repu:eH, XVII, 292-293, 468, XXVII, 798. 137) TaM滋 e,XXVII, 378. 110 二つの論争 L, [f鐘』の編集者は誌かには誰もいない。自分とオガザョーフの二人だけだと言努した。 この『未来の出発点としての 1863年にあたりて』という論文はゲルツェンのポーラ γ ド 蜂起に対する弔詞ともいうべきものであってその中で、彼はつぎのような見解を披濯してい るO ポーランドはカトヲックの古き世界において,若さと勇気とを代表するものである O ポ ーランドの中にこそ古き世界の輝かしい終末が,障大で尊敬すべき最後がある O このポ ーランドを西欧列強は見殺しにしてしまったのだ。ロシアにとってもポーランドの蜂起は 不幸なできごとであった。それはようやく始ったばかりの事業を混乱させ,ロシアの政府 の力を強める結果になり,さらには国民の中に血に凱えた動物的な感構を呼び起すことと もなった。実に歴史というものは即興的な歩みをするものであって,自らの無知と血の道 を思うままに進む。時には目前もって予見し,回避することもできるが,一方何ひとつ予見 することも予拐することもできない時がある O ポーランドの蜂起を担止する事は密難であ った。ロシア政府は,つぎからつぎへと誤りを重ね,ポーランドの人びとは自ら舞れると わかっていながら死におもむいたのであった。 われわれは「農民に土地を,各チ-liに自由をj というスローガγ をかかげたが,これがポ ーラ γ ド入にとってどれiまど困難なことかはわかっていた。西欧的な観点からすれば,農 民に土地を配分することはおよそ愚かしいことであり,塵史的見地からすればウクライナ やリトワニアに自由を与えることは,裏切りとも思われたことであろう O しかしわれわれ ロシア人には西欧的観点は無縁なものであり,歴史的旗印は存在しなし、。われわれはロ シアの人民とロシアの国とを愛するが,客観的真理を人種的色彩で粉飾したり,愛冨主義 的な色呂で祖国を見たりすることはない。われわれにとってロシアの人民は祖国以上のも のであっ,その中にわれわれは新しい国家形態が発達すべき基盤を見ているのである O こ の基盤の中にこそ解決り糸口が,発達の全条件がるると信じているからであって,その未 来はわれわれにとって論理的結論なのである O しかしこれは聖なる箆舎などというもので はない。妊婦を見て,彼女の使命が母親になるなどとはわれわれは言わな L、。ただもし彼 女を邪魔するものがなければ彼女は子を生むだろう,と言うだけのことである O しかるに現在のロシアは,このようなわれわれの期待を裏切るものである O しからばわ れら何をなすべきか,といえば,これははっきりしている O 来るべき年に急ぎ臨終の椋!藷 をなし,新たに生まれんとするロシアの未来について再び計画を立てることである O そし てそのほかの問題はすべて放っておいて,若者の運動を見守ってゆこう O ポーラ γ ド問題については,われわれはできるだけのことはやった。これからもわれわ れは混じことをくワかえさなければなるまし、。この問題のためにわれわれの人気が落ち方 の一部が失われたことを,われわれは誇りに思っている O ロシアの愛国主義者や第三部の 手先がわれわれに悪口雑言を浴びせたことを誇りにすら感じてし、る O また琢や羊の輩が, ついに本性を現わしてわれわれの許から政府の側へと走り去ったことを苦笑しながら眺め ているのしか Lロシアの問題の範囲外のことについては,自分たちの無力を感じている。 したがってこれ治るらは, もっぱらロシアのこ二とについてだけ語らう O ポーランドを引裂い 111 外 JII 継 男 たロシアではなく,黙々と畑を耕やしつつロシアを愛している人びとに対し,われわれは 若き世代と一緒に『鐘』を鳴らして呼びかけるで島ろう C 五年間というもの,われわれはたゆみなく生ける者を呼び集めてきたO 今や死者は去 り,誰一人死せる者は残っていないのだから,朝の勤行の鐘を鳴らし,自覚的な仕事へと 呼びかけよう。138) ゲノレツェ γ はこの論文を 1863年 11月 10日にフィレンツェで書いた。いまやポーラン ドの蜂起は峠を越え,その帰趨はあきらかであった。バクーニンとの決裂も決定的となり, ゲノレツェンはふたたび自らの仕事の意味について,歴史の歩みと,その巨的と手段につい てまたしても考え込むようになっていった。 VII ゲ)J...ツェン,パク一二ンと「第一インターナショナ)J...J ポーランドの蜂起は西欧諸国にひろい同情を呼び起し,イギリス,フランス,スイス, スウェーデンなどのヨーロッバのほとんどの国に蜂起を支持する救援委員会が生まれた。 しかしその中でも, イギリスにおいてその活動は呂ざましく, National League for the Independence of Poland, the Central Polish Committee, the Literary Association of the Friends of Poland などとし、った組織が出来て,ロシアの武力鎮圧に対抗してポーラ γ ドを援助すべきことが叫ばれた。このような雰密気の中に 1863年 7月 22自にはロンド γ のセント・ジェイムズ・ホー/レにおいて,フランスの労働者代表を迎えてアンザ・トラ γ を議長とするポーラ γ ド支援の会が持たれ,さらに翌年 1864年 の 9月 28日には,セン ト・マーチンズ・ホールにイギリス,フランスの代表者を中心にポーランド問題を主題と する集会が開かれて,これが「第 1インターナショナノレ」の発足の場となった。勿論「第 1インターナショナノレ」の創設は,それまでの労働運動の努力の結実したものであるが, 11863年のポーランドの蜂起がその直接の動機になったj ことは否定しえない0139〉 しかし「第 1インターナショナノレj のロシア支部がジュネープに生まれたのは,これよ り6年後の 1870年春のことであり 140) しかもゲルツェンはこの年の 1月に死んでいる O のみならずゲルツェンと「第 1イγ ターナショナノレ」の関係について,ゲノレツェンの最初 の全集を編集したレムケは,彼が fインターナショナノレとその諸大会について知ってい たJにもかかわらず, 1この運動には興味を示さず,従って当時の農業国ロシアの基礎は, 発生過程にあった国際労働者協会の綱領の外にあると考えていたoJ141) とかつて言ってい るO もっともこのレムケの言葉は,その後コジミンの研究などによって,必ずしも上のよ うに断定できるものでないことが明らかにされており 142) また以下の記述においてもゲル 138) KO.JlOlCO.Jl, VI, 1437-1439 (強誠一原文〉。 139) J. Borejsza,“ La Premiるre Internationale et la PologneアLaPremiere Internationale, Actes du Colloque, Paris, 1968, pp. 363-364. 140) B. ltenberg,“ La Premiere Internationale et le mouvement revolutionnaire eロ Russie,"Actes du Colloque, p. 448. 141) A. H. repueH, flO.JlH. Co6p. Co弘 ufluceJ.t, nod ped. M. K. JleMlCe, T. XX, M.ー瓦.1920, CTp. 102. 142) B.口.K03bMHH,“ K Borrpocy 06 OTHOllleHHH A.討. repu.eHa K 1 I1HTepHau.HoHa.ny," Hcmopu'teclCue 3anuclCu, T. 54, 1955, CTp. 430-435, B. B. OKC陪 30B,“fIOBOpOT A. 11. repueHa K 1 I1HTepHaUHoHa.ny," BonpocbtφU.JlocoifJuu, 1962ぬ, 4, CTp. 47-55. 112 二つの論争 ツェンと「第 1インターナショナノレj の関係がたどられるであろうが,いずれにしてもそ の関誌は,間接的なものを出ないと言ってよ L、。従って本章においては,主として後にイ ンターで活躍ーするパクーニン及びインターのロシア支部を創設したユコライ・ウーチンら r-=fiき亡命者たわ!とゲ、/レツヱンとの関係が中心になって考察されるであろうわ 本 辛 * 1861年秋のベテルブ、ノレグ大学に始まる一連の学生運動の結果,大学を追放されたり,あ るいは閉鎖された大学に見切りをつけてすすんで菌外に留学する学生が増加した。 このような中で,とくに生活費の安いこと,すぐれた教授障のいるハイデ)レベルグに多 くのロジア入留学生が集まりラ 1862年の春にはバクスト兄弟やノレギーニンを中心とする約 60人ほどのロシア入学生によって読書室が設けられた。ここでは合法的な出版物の外に当 時ロシア国内では非合法的とされていたゲノレツヱ γ の作品や『鐘Jを読むことができ,ま たこれと並んで,ロ、ンアでは入手がむずか Lかったピュヒナーやそレショットといったド イツの唯物論者の作品も重かれていた。 ゲノレヅヱンは当時まだ彼らの聞に大きな権威を持っており,息子のアレクサンドノレがハ イデノレベノレグを訪れた時には,父親の名誉をたたえる祝宴が関擢されたが,一方,ベテノレ ブルグ大学の関鎖を命じた前文相プチャーチン拾が来訪した時には,学生たちは宿泊せる ホテルの前で、大騒ぎを演じて,彼をこの町から追い出したと言われている。143) 彼らはまた 1862年 に F号 外Jlと題する 78頁ほどの小冊子を発行 Lたが,これには『大 ロシア人JlJ大ロシア人の回答jJ大ロシア人の回答に対する回答jlJ若き註代へ』といった 当時ロシア菌内でぽら撤かれた四つの撤文が収録されてあった。はたしてこの作者が誰か はいまだに判明しないが,パクスト兄弟が参加していたことは指摘されている 0144〉 ハイデノレベルグにはまたポーラ γ ド人の留学生も少なくなかったが, 1863年の一月蜂起 の前になると,これらの学生の中には,オスカール・アヴェイデのように,急逮故国に帰 って蜂起の際に指導者的役割を果すようになる者も出てきた。145) またロシア入学生の中に も,ポーランドの革命に共鳴する者もいて,涯学部のヤコーピのようにポーランドに行き, 軍医として芋命軍に加わった者もいたのさらにハイデルベノレグに残った学生の間で,負傷 したポーランドの蜂起者のための義損金が集められたともいわれている O しかしすべてのロシア人留学生がこのようにポーランドの革命に同情的だったわけで、は なかった。当初のロシア人留学生は大別して二つの派に分かれており,一方はベテ/レブル グ派(叉はゲノレツェン派),飽方はモスクワ派(又はカトコーフ派〉と呼ばれていた。後者 はショーヴィニスト的傾向を持ち,ロシア軍が勝利するたびに塞大な祝宴をあげたといわ れる O 主た前者のすべてがゲノレツェンの支持者であったわけで、もなく,中には彼の活動を あきたらなく患ったり,金持であることを批判的に取沙汰する者もいた。そ Lて早くもゲ ルツヱンと|若き亡命者たち Jとの不協和音がこ三で奏でられるようになる。146) 143) E. n. K03bMHH,“ repu.eH, OrapeB H <ア H3ucmopuu peoo.ll/Ol{u・ OliliOii .htbtCJlU 8 POCCUU, M吋 1961,CTp. 49(ト491. 144) TaM Ae, CTp. 493. 145) TaM )Ke, CTp. 495. 146) TaM A e, CTp. 497-498. 113 外 JII 継 男 ベテノレプノレグ大学の再開とともに,ロシア人留学生の中には帰国する者が椙ついであら われたが,飽方バクストなどロシアに帰ることを断念した学生の中にもスイスへ移住する 者が出てきて,ハイデノレベノレグのロシア人留学生の数はいちじるしく減少するようになっ たのしか Lロシア圏内からは大学を追放になったワ, 1土地と自由 J~こ関係したりして,す すんで亡命する者が桔つぎ, 1862年から 63年にかけては,単に留学生としてではなく 「若き亡命者Jとして国外に出た者の数は少なくなかった。このような若者は多くスイス を居住地に選んだが,パリやイタリア各地がこれについで人気があった。かつて亡命者た ちの巣であったロ γ ドγやハイデルベノレグにはこの頃になるともはや魅力が感じられなく なってきたのである 0147〉 このようにして増えてきた「若き亡命者たち」を救うためと,あわせて革命的プロパガ ンダを行うために, []鐘』の編集部は「共同資金」の設置を呼びかけ紛独身者で年に銀 2,000ノレーブリに及ぶ収入のあるものはその 5 %,それ以上のものは 10%,家族持ちはそ の半分の拠金を提唱した0149〉このようにして 1862年から 64年までの期間 F鐘Jには「編集 者からj として,しばしば寄金の報告が掲載されたが,それにしてもその額はきわめて窪 少であり,早くも 1863年 9月 1B付の第 170号には「共同資金には一文も残っていないば かりか,ロシアに嬉ることのできないロシア人を援助するために赤字が続出している。J150) との記事すらあらわれるようになった。 ところで 1863年のポーラ γ ドの蜂起以後,それまで閉ざされていたロシアとプロイセ ン及びオーストザアの留境が事実上開かれ, []鐘Jをはじめとする国外非合法出版物の国内 持込みは従来よちも容易になった。さらにロシア屋内からの需要も増加し,ロンド γ の自 由ロシア出寂所だけではこれにこたえることができなくなったために,スイスに移ったバ クストによってベノレγ に設けられていたロシア語の出版所を利吊することが「若き亡舎者 たちj によって考え出された。そこで後らはこの目的達成のために,ロ γ ドγ の自由ロシ ア出版所とこのベノレンの出版所の統合を計画しこの企画をもってロ γ ドγ のゲノレツェ γ のところに代表を派遣した。このとき選ばれたのはさきに 132人事件」で逮捕されたニコ ライ・セルノーソロヴィエーヴィチの弟で,自らも「土地と自由j に加入していたアレグ サ γ ドノレ・セルノーソロヴィエーヴィチと,その友人でベテノレプルグで出版と書庖をやっ ていた同じ「土地と自由j のメ γ バーたちしアレクサンドル e チュルケーソフの二人であ った。この時の会談の詳結は今日にいたるまでよくわかっておらず,ゲノレツェ γ もほとん ど何一つ語っていないが,この会談のあとベテノレプルグの「土地と自由j はアレクサ γ ド ル・スレプツォーフをロ γ ドγ に送って,統合された印刷所を「土地と自由Jの国外にお ける機関紙の発行所とし, []鐘』の編集者をその代理人とする提案をしたが,これが結烏 ゲノレツェ γ の拒否するところとなったのは先に見た通りである 0151〉このあとゲルツェ γ は オガリョーフへの手紙で、次のように書いているが,ここには「若き亡命者j に対する彼の 不信が早くも見てとれる O 147) TaM )l{e. CTp. 520. 148) Ko.llolCO.ll, V, 1101 (1862年 5月 15日付第 133号〉。 149) Ko.llolCO.ll, V, 1204 (1862年 9月15日付第 149号〉。 150) KO/loICOム VI,1404. 151) 101互参照。 114 ごつの論争 「君の判断にもぼくは賛成できない。第一に volovidere quomodo aedificates (どんな にやるか見てみたいと思う。〉からだ。後らが一つの方であることを,彼ら自身に示させ るがよし、。われわれと同じ道をゆく者は,彼らでebろうと誰であろうとわれわれとー籍だ ということは,彼らも知って L、るのしか L,われわれが築いた基礎のーおこ立つならぽー一一 それも未だ堅田だとは思われないが一一-fiasco (大失敗)や愚行に巻込まれることはある まL、ぼくも彼らに尽そう C しかし連帯責任をとる前に彼らの新聞を,その profession de foi (信条告白〕を見てみたいと君、う o I土地と自由j がすべてではあるまし、o U青年ロ シア』も同じだ0152〉 し、ずれにしてもゲルツェンは,彼らの力や能力を未だ信じてはおらず,さらに自分の事 業の独立性がこれによって失われることを考えて,頭からこの企てを問題にしなかったの であるつ153) その後このベノレンのロジア出版所は,ゲノレツェンの F終りと始めJをはじめ,二つのパ ンフレットといくつかの激文とを出版したが,早くも 1863年の夏には仲間割れと資金不 足のために活動の停止を余議なくされる O しかしこの時のゲルツェン吋巨否が,若い世代 の革命家に不快以上の思い出を残したことは想像に難くな L、。 牢 事 * 「若き亡命者ーたち」にはさまざまなタイプがあって,一人ひとちの亡命後の生き方にも いろいろ考えさせられるところが多いが, アレクサンドノレ・セルノーソロヴィエーヴィチ と並んでニコライ・ウーチγ をその代表的存在の一人と見ることには異論があるま L、。ウ ーチンもまた 1861年のベテ/レブ、ノレグ大学における学生運動の積極的骨子の一人であって, このため同大学を四年生の時に放校になった。154) その後彼は 1862年 の 3月に[土地と自 由Jの中央委員であったアレグサンドノレ・スレプツォーフのすすめで,この秘密結社に加 入した。155) ところで「土地と岳由j は五人一組を単位とするものであったが,彼は早速パ ンテェレーェフ,グレーヴィチ,ジューク,ロバーノフの四人の友人を加入させてその五 人組を作った。さらに彼は 5月にはモスクワに赴いて,ザイチネーフスキーのグループと の接触をはかった与したが, T度これは F青年ロシア jがモスグワやベテノレプノレグにばら撒 かれた時で、あった。 しかし,このウーチンによる両グループ接近の試みは, I青年ロシア J の方が, I土地と自由jよりもはるかにラジカルで、あって実現しなかっといわれている O こ の年 6丹から 7月にかけては,前述の如く,ニコライ・セルノーソロヴィエーヴィチとノレイ マレンコという二人の「土地と自由j のもっとも中心的メンバーが政府によって逮捕され, これによって「土地と自虐」は潰滅的打撃をこうむった。しかしウーチ γ と彼の五人組は 独自の活動を続け,この年の夏にはスダケーヴィチやオストロープスキーのサークノレと共 に,バクストの持っていた活字を引きついで秘密印刷所を創設したっ彼はこれを利用して 152) repu.eH, XXVII, 291. (1863年 2月 15日付の手紙〉。 153) CM. K03hMHH, yKa3. co弘, CTp. 510-511. 154) !r接文の時代.lLp. 186-189. 155) JlumepamypHoe Hac/ledcmoo, T. 62, CTp. 614. 115 外 m継 男 9月には自分の書いた撤文『教養ある階級へ』などを部制している C その後アレクサンド ル・スレプツォーフがロシア各地をまわって「土地と自出」の地方組織の設立に努力して ベテルプノレグに帰ったあと, 11月にウーチγ はこの結社の中央委員となった0155〉したがっ て 12月にポーラ γ ドの「中央委員会jを代表してパドレフスキがベテルブノレグに来た時, ウーチンはスレプツォーフと共に「土地と自由」の中央委員として結社を代表して彼らに 会ったわけであるが,その顛末は先に述べた通りである。157) しかしその後ベテルブ、ルグ郊外から地方に移した秘密出版社が思いがけぬことから政府 の発見されるところとなり,二人の同志が逮捕されたことによって 1863年の 5月 8 日の 夜にウーチンの家も捜索される破自になった。しかし彼はそれ以前にうまく身を置し,黒 海を経由して国外に説出した。156) その後彼は軍事裁判所によって欠露裁判で, r土地と自 由」に加盟し非合法出版物を刊行したことと, 1"反乱を宗める目的でポーランドの革命政 府と関係Jしたかどにより,銃殺7flJの宣告を受け,生涯ロシアに'帰国する望みを断たれる こととなった0159〉 ウーチ γ がロ γ ドγ のゲノレツェンの許に姿を現わしたのは 8月のはじめのことである O 8 }j 15 13村の『鐘』の第 169号に彼は「土地と自由」の中央委員会に対し, 国外説出の 援助を「公けに感議Jずる旨の手紙を発表している 0160〉イギリスには翌年の初めまで滞在 して,主として自由ロシア出坂所の出版物をロシアに送り込む仕事に当っていた。161)しか し当初の彼とゲノレツヱ γ との好関係は,その後次第に悪化するようになった。その産接の 原因は,彼の書いた論文をそのままの形で、ゲルツェ γ が『鐘Jに掲載することを承知しな かったことにあったが 162) このことはと〈に自尊心の強い163) ウーチンの心を傷つけたと 推測される O しかしその背景にはゲルツェンの 61年以前の皇帝への手紙などに見られた 煮え切らない態度や,部として尊敬していたチェルヌイ γ ェフスキーとの論争を通じて, ウーチンが前々からゲルツェンに不満を抱いてたことと,さらに「ポーラ γ ド問題Jや 地 下運動についての最近のゲノレツェ γ の考え方を彼があきたらなく思っていたことが指擁さ れている 0154〉一方ゲルツェ γの方もウーチ γの「専門学校風の調子と甘ったれた態度 11紛 が我慢できなかった上に, r土地と自由Jのマーグを『鐘Jの紋章として用いることを拒 否されたことも手伝って 166)彼に対しては次第に冷たし、態度をとるようになった。かくて ウーチ γ は 翌 1864年の 4月にベルギーへ渡り,ついでスイスへ移ったが,プザュッセル から 4月 27B付でオガザョーフ及び『鐘』の編集部へあてて(ゲノレツェ γ あてとはしてい ない〉以下のような手紙を書いたO この中には当時の彼のゲノレツェ γ に対するはげしい批 156) TaM )Ke, CTp. 615-616. 157) 100-101.頁参照。 158) TaM )Ke, CTp. 617. 159) TaM )Ke, CTp. 618. 160) K O.l101CO.ll, VI, 1396. 161) JIumepamypltoe ltaC.IledCm80, T. 62, CTp. 620. 162) repu.eH, XXVII, 378. 163) ウーチンの自尊心の強さはラグロープも後年回想しているし,パクーニンも記している。 164) Jlumepamypnoe nac.Iledcmoo, T. 62, CTp. 621, 636-639, 648-650, 651-655, 657-659. 165) repu.eH, XXVII, 438. 166) JJ. H. T. 62, CTp. 637. くなおこのマークの実例は CTp.649に出ている。〉 116 二つの論争 判が明らかに晃てとれる。 「…-一私は詑処で,親 Lきよき友,親愛な総主教167) としてのあなたにではなく, ~鐘 の編集部にあてて書きます…・- あなた達の昨られたメッセージ 168) は,私にとっては驚くほど不4愉快なものであるのみ か,不都合な誤りをおかしているように思われるので,これを詳細に検討した上でこのメ ッセージに署名をして送られた編集者としてのあなた方に対し釈明を求めなければなりま せん・- F政府は国内の変草を市民的自由の意味で企てたが,これらの変苧は唯一人をも満足さ せていないJ これらの言葉こそいままでのすべての宣伝や, ベテノレブ、ノレグ政府に対する われわれの態度との矛君をもっともよく反挟しています。「市民的自由の意味でj とおっ しゃいますが,いったいどこに突如として市民的自由の意味を認められるのですか? ス ラヴ人と話し始めながら,島なた達は良分が意味もないことをくりかえしていることを, つま与ベテルブ/レグ致府の下では l'iJ速なる白出を愛好する変革も不可能であることを忘れ てし主ったのです。その土「誰一人として溝足させていな L、』という言葉は,きまり文句 以 iコにひどいものです。適切でないどころか,まさに反対です/・ 私にとってあなた方のこのようなメッセージが耐えがたいのは,まず何よりも短かくて 見すぼらしい上に,患いもかけなかったことに,これがあなた岳身のプロパガンダとも指 導原理とも矛盾するものだからです。この指導原理こそ「土地と日出Jの直接の機関紙で ある r白色 (cBo6o瓦8リ169) によって高らかに唱われているところです。わたし達は F自 由Jの中で,政府と直ちに手を切る必要があることをはっきり述べました。わたしたちは 改革と呼ばれている政府のいつわりの策略の中に,断じていかなる意味もないことを明示 しました。わたし達辻何故岳分たちが現在の帝位を完全に不条理なものとして扱っている かを示しました。あなた達の『市民的自由の意味での改革』という言葉は,現在までの全 プロパガ γ ダと正反対のものです。わが国においては Tゼ、ムスキー・ソボール及びその決 議を通じての根本的変革の必要性が増大している』とか, rrこの成長にはながし、時間がか かる iとかし、った言葉はあまりにも不明瞭であって,そのためにいままで語られてきたす べてとの矛盾が見落されてしまいます。以上引用 Lた言葉からは,結論として,黙って腕 をこまねいて待機しているべきだということになります。しかしわれわれは,人民の解放 を促進するために,誠実でエネルギュシュな信人を組織化するべきであることを宣言しま したげ自由』第 1号C さらに私は同じことを仮定の手紙の中でも宣言しました。〉しかし てこのような正しい宣言を棄てることは,生きながら自らを埋めることをのぞまぬわれわ れには不可能なことです。沢山で‘すo …J170) 167) オガリョーフのi軍名。 168) コンスタンチノープルで需かれたスラグ会議に送つだメッセージをさす。この会議についてはほと んどわかっていな L、。 CM.‘!l.H., T. CTp. 650, 656. 169) これは第 1号 が 1862年 12月十こ,第 2号が 1863年 1月 13日頃書カミれた o PI1PC, T. II, CTp. 62-72に 収められている o (なお第 l号 注 PCP,1960, CTp. 537-542 I'こも収録されている。〉 170) JI. H., T. 62, CTp. 652-655. 117 外 JI! 継 男 ウーチ γはこの手紙の中で,さらにポーランド問題に対する『鐘Jの編集部の態度の不 明確さも指摘しているが,先に見たようなゲノレツェ γ のツアーリ政府及びポーラ γ ド蜂起 に対する態度の中に,中途半端でなまぬるいものを霜惑して,心から苛立っていたことが これかちもわかる。 しかもこのように『鐘j の編集部に対する不満は,ひとりウーチンのみならず,当時ジ ュネーブに住んでいた「若き亡命者たちj の間にひろく見られたところであった。一方ロ シア冨内においても,政府の反動の強化とともに F鐘』の配布が事実上不可能となり,さ らに愛冨主義的風潮の勃興とともに, [J鐘』の発行部数はみるみる減少の一途をたどった。 このような状況の下で,ゲノレツェ γ はその自由ロジア出坂所をロ γ ドγから大陸へ移すこ とを考えて, 1864年の 5月にイタリアのノレガノに移転させることがひとまず決まった。し かしオガリョーフはこの移転には反対であり,さらに当時のナポレオン 3世治下のフラン スやピスマルクのドイツの進出を見たゲノレツェ γ のイタザア構勢に対する考憲もあって, 結局この移転(スイスのジュネーブへ〉は 1865年 3月までひきのばされた。しかしこのよ うな遅延のもうひとつ有力な原国として,ゲノレツェンが, r若き亡命者たちj の自分の仕事 に対する干渉をきわめて警戒していたという事実が背後としてあったことも指摘されなけ ればならな L、0171〉 「土地と自由Jの秘密出版所が政府によって摘発され,ウーチンが亡命してからロシア 冨内には非合法活動のセ γ ターとしての出版所はまったく無くなっていた。一方国外の出 版所も先述のベノレ γ のロシア語出寂所の中絶以来ロンド γ 以外には存在しなかったため に, [J鐘』の編集方針に不満を抱いてた「若き亡命者たちjは,自由ロシア出版所の大陸移 転をきっかけに再びこれを新しい亡命者の機関紙として利用しようと考えるようになっ た。一年前にアレグサ γ ドノレ・セルノーソロヴィエーヴィチとともにゲルツェ γ に会って ロγ ドンとベノレンの両出版所の統合を提案して断られたアレクサンドル・チェノレケーソフ は,またしても F鐘』と並んで亡命者の機関紙となるべきもうひとつの出寂所を作ること を 1864年 の 3月に提案したが,再びゲノレツェ γ に頭からはねつけられてしまった0172〉こ のことに関してゲノレツェンは 3月 31日にマノレヴィーダ・マイゼ γ ブークに次のように書 いている。 「チェノレケーソフの意見には真実の一面もあります。そしてわれわれはそのことについ て一度ならず考えました。まず彼が間違っている面から串しましょう O われわれが見捨て られたのは『鐘Jの要求がすでに実現されたからではなく,ポーラ γ ドの戦いが粗暴にして 始末におえないナショナリズムを喚起し,政府がムラヴィヨーフへの礼賛もカトコーフの 人気もおさえることが出来なかったからです。これら紳士諸君はいかなる文明化された階 較について語っているのでしょうか?全貴族階級は拍手喝采することによって,恐るべき 所業を彼らと共になしたことにはならないで、しょうか?信じて下さい。われわれはロシア に対して再び大きな奉仕をしたので、すO われわれは一民族の普殺しに反対する抗議の生き 171) K03bMHH, yKa3. co吃., CTp. 521-522. 172) TaM )Ke, CT予.522. 118 三つの論争 た証拠なのです。私はまったく後揮していません O しかし他方,私はあれらの若い人びと が,われわれが彼らの壊罪の,あるいは少なくとも罪ぼろぼしのために犠牲の役を果して いるという点を第一の功績として評価しなかったことについて,若者達を非難していま す。われわれや, ミハーイロフのように死んだ人びとや,チェノレヌィシェフスキーやセル ノーソロ〈ヴィエーヴィチ〉のように投獄された者たちだけが,血vこ汚れた所業を共にしな かったのです。教条的開化主義者の役割とは,それで、はいったし、何だというのでしょうか ?小粒のピョートノレ大帝の役割か,それとも文明の奴隷とでもいったものでしょうか?人 は黙っていることもできますし,あれこれ書くこともできます。しかしこの HohePriester 〈大祭可〉の役割は私は御免です。 Weiter (さらに),もう一つ問題がありますのどうしてこれらの若い人びとは, at home (国内〕でも abroad (国外〉でも, 定期刊行物を出すだけの力も才能も愛情も根気もな いのでしょうか?われわれば,論文でも印崩所でもチヱノレニエツキ 173)でも譲りましょう O 左様,彼らにやらせてみましょう O ロシア文学の不毛さは驚くべきほどです。これは砂漠 の不毛さで、すO チェルケーソフに言って下さ L、。わたしたちは協力する用意はあるが,編 集の仕事は(精神的にも肉体的にも〉引受けないつもりだと…… Jl74) この短かし、手紙の中に,ゲノレツェ γ の考えや立場がかなりはっきり出ている O 彼 i土カト コーフをはじめとする掠制派に対しては,彼らが政府のポーランド弾圧に加担したことを 非難するとともに, リベラノレな貴族震もまたそれを支持したことを責める一方,地方では 若き反体制派がゲノレツェンの立場を正しく評価できず,いたずらにはげしい言辞のみを弄 L,さらにはゲルツェ γ が苦労して作りあげたロシア出版所を利用することのみを考えて いることに不満を表明しているのである O しかし「若き亡命者たちj にしてみれば,殺さ れたり投獄されたりした同志,先輩たちと,ロンドンで潤沢な資金をもって,口先だけの それも生ぬるい政府批判をやっているゲルツェンとを同一視することは絶対にできないと ころであったっ ゲノレツヱンが自由ロシア出版所をロンド γから大陸に移す意志、があると聞いて,これを ロシアの「すべての亡命者の機関祇J175)に変えようとの考えは,ひとりチェルケーソフの みならず,ウーチンを中心とするスイスの「若き亡命者たちJの共通の意向でもあった。 ウーチ γ はこのような改造の必要性をこの年 6月 22日と 7月 9日の二回にわたってオガ リョーフへの手紙176)の中で、述べたが,ゲ/レツェン自身ジュネープを訪れると聞いて 12月 16日にめずらしくゲノレツェン本人にあてて以下のような手紙を書いた。 「まず最初に友人たちからの頼みをお伝えします。あなた御自身当地を来訪される御意 向の由,またスイスへ移住され,当地ヘチヱノレニエツキをお連れにななるという御決心を 173) リュードヴイグ・チヱノレニエツキ(1825-1872)のこと O 彼はポーランドの亡命者で, ロンドンの告 由ロシア出版所にながく働いていたが,ゲルツェンは 1866年に彼に印刷所を譲った。 174) repueH, XXVII, 449. 175) JI. H., T. 62 CTp. 675. 176) TaM )Ke, CTp. 657, 663. 119 クト川継男 変更されてはいけないとの御返事に対 L,感諜申し上げるとのことです。……私はあなた にわれわれの共通の友人たちが各地からジュネーブに集まったと書き主した。実際に,メ ーチニコフはイタザアから,あなたも御存知のポーランド革命の活動家のヤコーピもチユ ーザッヒでの急ぎの仕事を捨てて当地での共同会議にやって来ましたc 此処にはこの夏あ なたの所にお連れした百姓女177) もい主す L, ソロヴィエーヴィチも, ジュコーフスキー もグレーヴィチもいます…… 尊敬するアレグサンドル・イワーヌィチ,すべてこれらの人びとと一緒にやってゆく か,あるいは分散してしまうかは, あなたにかかっております……あなたはお年間とい うものを伝道してこられました。われわれはあなたの許で学び,それと同時に,ロシアに 居たので,もう一人の師であるチェルヌィシェフスキーの許で学びました……われわれは 戎長し,強くなりました。そして現在此の地に集った人間は傍外なくすべて直接的な,護 極的な仕事へと進んだ者たちで、す……たまたまわれわれはロシア国内の革命活動の外へと 放り出されましたが,われわれの希求も,われわれの心がまえも前と同じで,変わって はおりませんO 今日のロシアの状態を仔細に検討してみますとき,亡命生活にあるわれわ れの心がまえば,以下の四点において仕事を追求すべきであると確信するようになりまし た。 (1)プロバガンダ。 (2)確実な組識的方法でロシアへ宣伝文書を恒常的に売りさばくとと もむ,ロシアとの通信ならびにロシアから情報を受け取ること o (3)われわれの事業にとっ て多少とも有益たりうる人びととの結びつきをはかること o (的資金を組織し拡大するこ と。 目下のところ,主たる問題は第 1と第 4点,即ちプ Eパガンダとフォンドにあります… …あなたを迎えるべく集ったわれわれは,共通の事業についてさまざまな問題を討議しま したし,論じあっています,あなたがお着きになったら,共通の意見にできるだけ近い, よく考えぬかれた事柄について最終的な審議に入りたし、と思ったものですから……あな たは昨日のお手紙でも Fすべて過去のことは不満足である』旨くりかえしていられますO あなたはロンド γで私にも飽の者にも,一度ならずこのようにおっしゃいましたc あなた 御自身これ以上自分たちだけで、 F鐘』をやってゆくのは不可能だと一度ならず申されまし たc 一一私は F鐘』のプロゲラムを拡張し,その意義を明白に定めるべきだと思いますの そしてその上で紙面が偶発的論文によってで誌なく,一定の欄によって,生ける資料によ って満たされるべきだと考えています。このような資料はいつで、もありますし,これから もありましょう O しかしこのような仕事は二人の人だけでやるにはあまりにも大きすぎま す o e下のところあなたの過去のお仕事に花を添える最上の方法は,あなたの個人的な機 関紙である F議』を,すべての亡命者の機関紙にすることだと私は信じています。こうす ることによってあなたはすべての敢に対し,言葉と文章による共感によってあなたの層圏 の仕事もまたゲ)J..ーブで行なわれていることを示すことになりましょう oU鐘jが全亡命者 の機関紙になったことを告げ,示されることによって,あなたは一党の,より正しく言え ば,革命的グループの,当地にもおり,ロシアにもいて行動を欲している人びとのグルー プの一致毘結を示されることになるのです。このような F鐘』の一語一語によって,散も 177)誰を指すか不明。 120 二つの論争 味方も,個人的ではない,私的ではない,普遍的な,全体の力を,今日では十人か二十人 の団結の力ではあっても,積極的にロシア国内に呼びかければ,まもなくロシア中の生き 生きとした革命的なすべてが団結するであろう力を感ずるようになるのです。そしてこの ような方こそ重視すべきです……f7SJ たしかに『鐘1はよい意味でも悪い意味でも,ゲノレツェン倍人の新聞だった。それは今 日の新聞という言葉から連想さ ;hるようなものとはかなり違っており,たとえばゲルツェ ンの F終りと始めJなどのかなり長文の論文も連載されたりする,見方によっては性格の はっきりしないものでもあったc しかもその編集者はゲノレツェ γ とオガリョーフの二人き りで,記事の取捨選択については,ほとんどゲルツヱン一人が独裁的に決めていたといっ てよし、そこで文中にもあるように, ゲ/レツヱンがジュネーブを訪れるのを機会に, I若 き亡命者たちJが集って,事前に協議を行なっていたのであるが,これがコジミーンの名 付けた[亡命者たちのジュネープ会議j である O この席上で, もしゲ/レツェンとの間に合 意が成立して,新しい新聞が出されると Lたら,それはどのようなものであるべきかをめ ぐって意見がかわされたc その結果として,次のような改造案がまとめられたが,これ法 1956年になってはじめて発表された資料の中に出てくるものである。179) (1)政治喜子論。 (2)経済欄, (a)ロシアの国民経済の原理を明らかにする理論的論文o (b)制 度 ・政策の批判。(寸法髄度と経済制度の緊密な関係を明らかにし,法理論を批判するものO (3)諸問題の壁史的研究。 (4)ロシア国内の記事。 (a)ロシアの新聞や重要な政令の抜粋。 (b)外 国の新聞からのロシアに関する記事の抜粋。 (c)通信員からの記事。新聞からではなく,ロ シアからiJ[接個人的手段でもたらされたもの。 (5)文芸欄,新刊紹介。 (6)雑録。 この文書の初めの部分は失われて伝わらないが,われわれにとってもっとも興味ある のは,薪胃の発行の必要性を述べた後半の部分と誰誤iJされる以下の言葉である O そこには 次のように書かれている O 「今日のヨ{ロッバ各盟の政治・経済状態は,国家的な道によっても,市民的な道によ っても,どうにもならたくなっていることを (iっきり瓦三している。しカ、しヨーロッバの長女 治・経済生活の諸事実と社会主義との開に現存する結ひ、っきは,各人にとって明らかにさ れてはおらず,これは政治生活の多面的な諸現象を多少なりとも深く検討することによっ てのみ明らかにされ得るのである。ニのためにわれわれは告白ロシア新聞に特別な棋を設 定したし、と思う。J180) つまりここには,後ら「若き亡命者たち」の視野が,ロシア a 国からヨーロッバ諸国の政 治・経済現象へと拡大 L,さらにそれらと社会主義との結ひ、つきが認識されているのであ 178)‘11. H., T. 62, CTp. 674-675. (強,m,j 話(丈〉。 179) これは j八リ・コレグシニf ン j川町主』の YノL !二 :7;:.あったしのたが ,JI. H., T. 63, cTp.245- 246初めて J立去さ ,}ttニ心 180) JI. fよ, T. 63, CTp. 245. 121 外 )11 継 男 るO この文章の前に,ロシア圏内の解放事業の必要性が述べられていたであろうことは, 先のウーチ γ のゲルツェンるて手紙からも推測されるが,彼らの観点がし、まやロシアー昌 にとどまらず,全ヨーロッパに及び,とくに後述の f第 1インターナショナノレ」との関係 でいうならば,社会主義運動にも向けられている事実はきわめて重要であろう O しかしこのジュネーブの「若き亡命者たち」の提案をゲノレツェ γ ははっきり拒否した。 『鐘』の 1865年 1丹 1日付第 193号の冒頭で,彼はオガリョーフと連名で iW鐘』は前と 同じく,ロシアにおける社会的発展の機関紙としてとどまる」と宣言したが,さらに拒否 の理由として,プロパガンダには「言葉,協議,分析,摘発,理論」によるものと Iサ ークルを作ったり,内外の関係をつける手段を講ずること」とがあるが,後者はロシア国 内でこそ行なえるのであって,自分達の仕事はもっぱら前者であるといっている0181〉この ことはまた彼の先のウーチ γ の手紙に対する返事の下書きにおいても,くりかえされてい るが 182) この他に拒否の理由として彼が「若き亡命者たち」の才能も力も信じて L、なかっ たことと,さらに彼らが「バフメーチェフ資金」の横領をたくらんでいると考えていた ことが考えられる。18幻このジュネーブでの「若き亡命者たち」との話し合いの与と,彼は オガ予ョーフにあてて以下のように書き送った。 「当地では平和的に解決した 若い人たちは〈腹蔵の~るなしはわからぬが〉自分たち の要求を引っ込め 5月 113までに山ほどの仕事と通信を約束してくれた。印刷その他に ついて彼らからは何の援助も期待できなし、むしろカサートキンが向かやってくれること だろう C 彼らと一緒にいることは,私にとってこの上なく退屈だ。みんな狭量で, 小粒 で,個人的で,誰一人として,興味あるもの,学問的なもの,政治的なものすら学ぶこと なく,読んでもいない。ウーチ γ はその限りない自己過信によって他のものよちも悪い。 ぼくは現在に至るまで君の彼への loveが理解できなし、。どうして君が彼にあんなに恋文 を書いたのか,すまないが,その四分の三は酒のせいだと思っている……J184) 結局ゲノレツェンはこの手紙を書いた二日後の 1月 613 vこジュネープを立ち去った。彼に はこの中で触れられているカサートキン一人が,頼りになる人需のようは思われたが, r若 し、亡命者たち J はカサートキンを「ゲノレツェンの犬の鎖J185) と呼んで信用していなかっ た。しかもゲノレツェンが f平和に解決した」と記したこの時の妥協案も,会議の直後にな ってアレグサンドル・セルノーソロヴィエーヴィチとヤコーピの強力な反対で葬られてし まった0186〉その京国はゲノレツェンの出発車前になって, I若い亡命者たち J が『鐘』とは 181) Ko.tloICOム VIII,1581. 182) repll,eH, XXVII, 552-553 (1864年 12月25日付)0 183) CM. TaM )l{e, XVIII, 608-609. 184) TaM )l{e, XXVIII, 9 (1865年1見4日付〉。 185) K03bMHH, ylCa3. co吃・, CTp. 531. 186) この持アレグサンドノレ・セノレノを支持した一人に, a若き世代へ jの作者たるシェルグノーフの妻リ ュドミーラ・シェルグノーグアがし、たO 彼女立政治的信念というよりアレクサンドルに心ひかれて, 支持したといわれる o H. B. llIeJIryHoB,五.口.llIe.nrYHoBa,お1.瓦.MHxa説JIOB,BOCnO.MUflaflUfl, T.l, M., 1967, CTp. 22-23, K03bMHH, lf3 ucmopuu・....., CTp. 530-531. 122 二つの論争 また加の機関紙を「パフメーチェフ資金一!を使って発行することを考え,ゲノレツエンがこ れを拒否したからでるる 0187} このようなゲルツェンと「若き亡命者たち iとの反吾は,さらにゲノレツェンの二麦にわ たる皇帝アレクサ γ ドル二世あて公開書簡と, Iカラコープフ事件jについての見解の表明 によって,ますます拡大されていった。 すで、に見たように, ゲノレツェ Y は 1855年に新たに即位した皇帝に期待の a 文を『北極 星j に発表したが,それから丁度十年たった 1865年 5月 25日待の F鐘』の第 197号に, 久しぶりにまた皇帝への手紙をのせた。これはこの年 4月12臼に皇太子ニコライ・アレク サンドロヴィチ大公がニースにおいて脳膜炎で亡くなったのを機会に,皇r帝がふたたび即 位当時の改革の道へ復帰することを願ったものであったJ紛この中で彼は,権力に反対し ている岳分たちの誰一人として,皇帝の個人的不幸を喜んではいないが,しかしその不幸 とても,自分たちの息子を失ったポーランドの人びとにくらべるならば,悲しみが凌辱さ れないだけまだ幸せなのだと述べ,現にロシア国内にあって苦役に苦しんでいる多くの政 治犯I紛の釈放を要求したのであった019B〉 ゲルツェ γ の次の皇帝にあてた公開書簡は翌 1866年 6月 1日付『鐘Jの第 221号に発 表されたものであるが,これはつい二ヶ月たらず前の 4丹 4日に記ったカラコーゾフの皇 帝暗殺未遂事件のニュースが執筆の動機となっている O ゲルツェンは皇帝が一年前の自分 の手訟をよく読まず,皇太子の死を反省のきっかけとして即位当初の自由な政策に立ち戻 ろうとしなかったが故に,自分が警告していたような不幸の事態が今度は皇帝自身の身の 上に起ったのだといい,さらにこの事件は皇帝の取り巻きによって大々的な陰謀のように 扱われているが,決してそのようなものではなく,陰謀をでっちあげることによって利益 を得る虫干臣や買収されたジャーナリストたちこそこの際思いきってしりぞけられるべきだ と主張している oISl} さらに彼はこの手紙の中で,前に公開状を発表したとき,自分が[多 くの者によって罵られたj ことを述べ,多分「この手紙が最後のj ものになるだろうとも 言っている O この「多くの者」のなかに f若き亡金者支こちjを中心とするラジカルな「ニヒ リストたち」があったことはいうまでもな L、。 「カラコーゾフ事件j についてのゲノレツェンり意見は,まずこの事件の亘後の 5月 1日 付 F鐘j の第 219号にのった Fイノレクーツクとベテノレブ、/レグ』という題の論文にあらわれ た。この副題は U1866年 3月 5日と 4月 4Bj となっているが 3丹 5日というのはゲル ツェンの間違いで 2月14日のことであり,これはニコライ・セルノーソロヴィエーヴィチ の死んだ日であって 4月 4Bはカラコーゾフの暗殺未遂の日のことである G 187) JI. H., T. 67, CTp. 701. 188) repu.eH, XVIII, 622. 189) とくに彼はニコライ・セルノーソロヴイエーヅイチとチェルヌ 4シェフスキーの二人の名蔀をあげ ている C 190) K O.l101CO.l, VIII, 1613-1614. 191) K O.l101CO.l, IX, 1789. 123 外 JII 継 男 はつれわれが間接的にもせよ当局の利益になるような言葉を言う場合は絶対にな L、。 4 え 4Bの狙撃はわれわれの心にはそぐわないものであった。われわれはこのことから大い なる不幸を予期し,誰か狂信者が取った責任に対じていきどおりを感じている…・ われわれには銃弾は必要で、はない。われわれは大道を力強く進むものである O 道の上に は沢山の民もあれば泥淳も多いが,それでもなおわれわれには大きな希望がある O 足に重 い足掛がはまってし、ても,心には大きな,奪うことのできない権利の主張がある O われわれ を止めることはできなし、。ただ一つの大道から別の道へと方向を転ずることができるだけ だ。調和のとれた発展の道から全面蜂起の道へと転じさせることができるだけである oJl昭〉 このようにゲルツェ γ は,まずはじめにテロ戦術に反対の言を表明する O さらにカラコ ーゾフについては「狂人,狂信家,あるいは貴族出身の怨燥を抱いた人間」と L、う表現す ら用いて, このような者を死んだミハーイロフやセルノーソロヴィエーヴィチや病めるチ ェノレヌィシェフスキーと同列に扱うことはできないともいっている O ところで,この時の 報道によれば,皇膏は引き立てられたカラコーゾフに対し,まず fお前はポーランド人か ?Jと開いたとのことであったJgS〉またこの時カラコーゾフが暗殺に失敗したのは,たま たまそこに岩合わせた農民出身のコストロマーの商人コミッサーロフなる者が飛び出して 彼の腕を打ったからであって,その後コミッサーロフは貴族に叙せちれ,昌由経済協会の 名誉会員にも推挙されたということも報じられた01M この事実は農民のツアーリに対する 信抑を意図的に京めるために,政府の御用新聞によって大々的に宣伝されたが,ゲノレツェ ンはこれをもってポーラ γ ド人及びロシアの農民に対する非常な侮辱であると口をきわめ て非難している O しかしこの事件に関して辻,農民を含むロシアの全世論が,圧倒的に暗 殺者に対するはげしい憤りに満ちていたのは事実であって,革命家たちは,皇帝と農民と のきずながし、かに強いものであるか,一方自分たちと人民との間の深淵が今なおいかに大 きいものでるるかを改めて j思い知らされねばならなかった01953 ゲノレツェ γ のこのようなテロリズム批判はさらにこの年12月から翌年 2月にかけて 3自 に分けて『鐘Jl~こ掲載された長文の論文 秩序は勝誇る/Jlの中により詳結に理論立って 述べられている ol拘〉ところでこの論文は『鐘』に掲載された彼の数多い文章の中でも,内容 的に見て『終りと始めJ と並ぶ豊富さを持つだけでなく, r昔の同志への手紙Jに重接つ ながるところの晩年の晃解がよく述べられているものである C もっともこのような論文が F鐘j とし寸新開に掲載されること自体, r若い亡命者たち」の側からみれば, Ir鐘Jがゲノレ ツェンの個人的新聞と見なされてきたことを裏付ける一助にもなったで、あろう O しかし同 時にこのことは,この新開が越の類似の出張物には見られない特徴を有するものであるこ とを物語るものでもある O 192) K O.llOICO.ll, IX, 1789. 193) Venturi, ot. cit., p. 347. 194) repueH, XIX, 382-383. 195) Venturi, 01う.cit., p. 348. 196) [第一論文J1866年 12月 1日付第 230号, [第二論文J1867年 1丹 1日付第 231-232合併号, [第三 論文]同年 2月 1日H第233-234合併号。 124 二つの論争 この三回に分載された第ーの論文において,まず初めにゲノレツェンは 1848年の革命の 控折後のヨーロッパ政治情況を考察する O 一言でいうなら今日のヨーロッパにおいては, 「革命は打負かされ,赤は打負かされ,社会主義は打負かされ,秩序は勝誇り,帝位は強 化され,警察はととのえられ,裁判所は死刑の宣告を下し,教会は祝福を与えている oJ 197) しかしてこのようなヨーロッバを動かしてし、るのは二人の人物,即ちナポレオン 3i止とピ スマルクであろう C ナポレオンはプランスが革命を裏切ったこと,革命に恐れをなして立ちどまったことを 理解したc 彼は古くから組織されてきた社会が欲したものは白白ではなく代議制という飾 りにすぎないことをさとってい t::..o そしてこの古い社会を増悪し,社会変革へ直進しよう とする新しい力が喜弘、ということも知っていた。彼はすべてのことを理解したが故に1848 年の共和制の終らんとする喧騒の中で,ひとり黙って, !l梨の実が熟する Jのを待ってい たのであった0198〉 -方ピスマノレグもナポレオンに劣らず自国の俗物たちの本質を見抜いていた。彼はドイ ツにとって必要な自由とは理論上のものだけであり,自国民が権力に頴従することに慣れ ていることを理解していた。それだけではない。今日のドイツ人がフランスを嫉み,ロシ ア人をj指悪していること,そこからして,侵略的な註格をもって強力な統一昌家を欲して いるということも見抜いていた。 他方ヨーロッバ藷国に目を転ずるならば,オーストリアは人種の上からも民族性の上か らも,ばらばらの国である O それはひび割れた自らの王冠の上に,スラヴ, ドイツ,ある いはハンガリーのし、ずれの記章をつけたらよいのかわからないでいる O ヨーロッパの中で も今や取ワ残されてしまったこの国は,連邦の道によってのみ復活が可能かも知れない が,それとてもむずかしいであろう G スイスはスイスでフラ γ スとプロイセンにはさまれ,その偉大な最後をとげようとして いる O ひとりイギリスだけがし、まだ安泰であるが,それとても中世的生活の最後の局面を 華麗にくりひろげているにすぎない。 このような中にあって,何が滑稽だといってヨーロッパの革命家の役割ほど滑稽なもの はないであろう O 政詩の方は少なくとも強力な統一昌家を作りあげるという自分の仕事を 知っているが,革命家ははたして自分たちが向をなしているか知っているだろうか。彼ら は自由・平等・友愛を夢みてきた。しかしそれらを与えることはできなかった。だが「ロ ーマは一日にして成らずj というわけで,彼らは個人の自由の代りに国家の自由を,民族 の独立を,一言でいうならばロシアやベノレシヤが昔から享受している自由を口実に反動と 和解したというわけである O まったくもってこれは大 Lた前進である c7こだ残念なのは平 等の代りに人種差別が,友愛の代りに語民族の憎悪が生まれるかも知れない,ということ だ。 かくして全ヨーロッバに秩序が勝誇り,伝統的な王国と合法的君主制に代って,軍事独 裁と非合誌の帝国が出現することになるであろう O しかしこれは老いたるヨーロッバが死 に近づきつつあることを意味するものにはかならぬ C しかしそのTiIvこ二,三度熱病の発作 197) K OJlOKOJl, IX, 1879-1880. 198) TaM me, CTp. 1880. 125 外 )l! 継 男 にも似た最後の戦争が起るかも知れないし, あるいは医師ピスマルクの芙雄的治療が更 に二,三婁ほどこされるかも知れない。 人間が歴史上の出来事によって作られるように,歴史上の出来事もまた人間によって作 られるものである O これは宿命論ではなく,継続するプロセスの諸要素の相互作用であ るO 歴史的な仕事とは,現に存在するものの生き生きとした理解の仕事にほかならないc もし十人の人間が,千人が漠然と欲することを現瞭に理解するならば,千人はその十人の あとについて進むであろう O だからといってこの十人が善へ導くということにはならな し、。それは良心の問題である O このようにゲルツェ γ はその議論を展開しているのであるが, この中ではじめて彼は 「第 1インターナショナノレ」についてごく簡単に触れている O それはヨーロッパにおいて は「今 Bまで、見せかけだけの秩序のみが可能であったが,伺千とし、う地下のもぐらがこれ を掘り崩し,何千とし、う地下の小川がこれを浸蝕してきた。これから何をなすかといえば, 自由出版所と並んで鉄道がある O 今日では移動が容易になり,外国主で追跡するのが冨難 になっている O そしてこれらのことが,互いに補い合っている O 一年前にパリの学生たち がドイツの学生と一緒にリェージュに行ったことがあったが,今年はフランスとドイツの 労犠者がイギリスやスイスの労働者と協議するためにジュネープに集った。J199) と述べて いるくだりである O いうまでもなくこれはこの年 9月に開かれた「第 1インターナショナ ノレj の第 1回大会のことをさしている O そして前後のコンテキストから,ゲルツェンがこ の集まちに,将来ヨーロッパの「秩序j を「掘り崩す何千という地下のもぐら j の活動の 一つを見ていたことも明らかである C つづく第二論文は,ゲノレツェンがこれまでくりかえして述べてきた歴史観とその「ロシ ア的社会主義j のいわば要約ともいうべきものである O まず最初に彼はゲーテの詩を引用しつつ, r老いたるヨーロッパ Jvこ対して, 新しい未 来の世界を代表するこつの国,アメリカ合衆患とロ γ アの存在を指摘する O ヨーロッパと アジアの間にまたがるロシアは,そのいずれとも異なる発達の仕方をしてきた。征服によ ってではなく,植民によって成長してきたロシアは,ローマ法に依拠せずに国家を形成す る一方, r人間と土地との関係にあって独白の理解Jを保持してきた。西歌にあっては[六 月のバリケード J におし、ても「土地という言葉を聞くことなく J, またラッサーノレは土地 をもって個人の自由を邪魔立てし,労働者の足を縛りつける鍾りだと考えている O しかし ロシアでは茜欧的理解とまったく違う理解の仕方をしている O そこでは「土地に対する権 利は, ユートピアではなく,現実にあり,生活慣習からくる事実である。」しかもこの権 利の自覚が遅かったことは,ロシアにとって大いなる幸いであった。もしもっと早かった ら,西欧的見解の一方的重圧の下に,土地に対する権利が頭から否定されていたことであ ろう O この点で「社会主義はわれわれに大きな手助けとなったj のである O ところでこのようなロシア独自の「土地」に対する観念を最初に指摘したのはスラヴ主 義者であった。しかし彼らはロシア農村共同体に着呂しながら,問題のもう一つの側面, 199) TaM )Ke, CTp. 1879. 200)τaM )Ke, 1888. 126 二つの論争 郎ち「自由」を忘れていた。しかし「個人の自由 Jこそ全ヨーロッパの壁史が作りあげた 律大な遺産でありわれわれの今吉の全課題は,共同体的土地所有と共同体そのものと を失うことなく,完全な個人の自由を発達させることにある。J20l) しかしてそれが可能か否かということは,はつれわれの将来の問題であるりしかし人聞 が動物と異なるのは,壁史によってである O 人間は記震の助けを借りて,多少なりとも自 覚的立努力して吉らの生活形態を作ってきた。人間の歴史は個人が自らを併呑する家族に 服従しないことから始まった。各人の勝手な意志と法律,倍人と社会,そしてそれらの様 々なバリエーションを伴った果てしなき戦いこそ人間の歴史の全ドラマである O 理性によ ってのみ社会の中で自らを解放することもできる倍入は,社会に逆らう存在でもある。そ して個人なしに存在しえない社会は,この反抗する錨入を抑圧する O 個人にとっては自分 自身が E的で島り,社会はそれ i主体が日的だからである O かつてノレソーは人間は生まれな がらにして自由であるといい, ゲーテは人間は告白たりえないといった。両方とも正し いし,両方とも正しくなし、。この二律背反の中にこそすべて生ける者の極がある C 生はつ ねに運動の中にあるのであって,その解決は死だけである c もし個人あるいは社会のいず れかが完全に勝利するならば,塵史は人間同士の食い合いか,おとなしく草を食らう動物 の群れになってしまうであろう C しかし権力は自らの権利を,偶人の目的としての国家な どとし寸抽象的な概念や, Salus populi (公共の福祉〉とか,偶人の良心を社会の良心に従 属させるといったキリスト教的観念にもとづいて説明してきた。しかし理論的に解放され た個性などというものは,抽象的な空しさにすぎず,現実的には,国家や社会に立脚した 政府権力の前ではまことに喜弘、ものである O 個人主義の代表で、あるブルジョアジーもま た,政府の中に自らの支柱と!克護を求めて,大衆の攻撃から身を守っている O 新しい警 察国家の基礎はここにある C ここからの出口は唯一つO それはイタリアの統ーでもなけれ ば,ピスマノレクのプロイセンの道でもなく,またイギリス流の選挙権獲得運動でもない。 それはかつてフランスが二度かかげた社会的道だけで、ある C フランスによって提起された 「社会問題三こそが,全ヨーロッパにとっての[未解決の問題Jなのである C202〉 ゲルツェンはこのように第二論文を結んでいるが,すで、に見たように,ここには 1840年 代のはじめに彼が註記に書いた疑問が,二十余年の歳月を経て多くの体験を積んだ上でそ れなちの回容となって述べられてし、る C しかしそれはすでに F向う岸から』の中でも『終 りと始めjの中でもくりかえし,くりかえし述べられているところでもあることをわれわ れ辻知っている O ただこの論文の中で,ゲノレツェンは全ヨーロッパを覆う民族主義と幸田 主義の動きの中に,ヨーロッパがながし、歴史をかけて作りあげてきた「個人の自由」に対 する大いなる危険を予見し,それ故にこそ社会的解決の仕方こそが唯一のものと考えられ るゆえんを適確に述べている O 最後の第三論文は,ニコライ一世の死からカラコーゾフ事件に至る十年間のロシア社会 の動きと,ゲノレヅェン自身の仕事の意味について論じたものである O 201) TaM JKe. 202) TaM米 e.は虫謁一時{文〉。 127 クト JII 継 男 ニコライ一世の死とともに,今まで抑圧されてきた言論が花咲き始めた。このような中 にあって,自分たちロ γ ドンの自由出張所は「土地と自由」のスローガンをかかげて, rロ シア的社会主義J を説いてきた。われわれは「土地なくして自由はなく J「自由なくして 土地は確固たりえない」と信じてきた。それではこの「ロシア的社会主義j とは何か。「わ れわれ法以下の如き社会主義を aシア的社会主義と称する O 即ち土地及び農民の生活慣習 から発し,事実上の土地の分与と現存する分与地の割替えとから出発して,共同鉢的所有 と共同体的統治から発したところの,社会主義一般が志向し,科学が保証するところの, 労働者のアルテリと共に経涯的公正に向かつて進む社会主義,これである oJ203) それと i可時にわれわれは,ロシアにおける変革が「流血の破局j なしに始められるべき だと信じてきた。そしてこの信念法今も変っていない。それ故にツアーりが土地をつけて の農奴解放を原則として認めたとき,われわれはこれを「ガリラびとよ,汝は勝てり /J という表現をもって心から喜んだものである O しかしこのようなわれわれの政府に対する 態度は, r教条主義的な忠良なる臣民jからも「デマゴギーのピューリタン」からも共に理 解されず,わ仇われの fロシア的社会主義」も笑いものとされたのであった。 われわれが自分達の社会主義をこのように名付けたのは,特にベテルブノレグにおいて純 西欧的社会主義の理論が,われわれの教説と並んで勢を得てきたからであった。この最初 の代表はベトラシェーフスキー派であって,彼らは fフーリエ主義者Jとして裁判にかけ られた。〈もっともわれわれは 1834年に政府によってサン"シモン主義のそをで有罪とされ たが。〉そのあとチェルヌィシェフスキーの強力なf菌性があらわれた。彼はとくにある一 つの社会主義理論に属していたわけで、はなく,現存する秩序に社会的意味を与え,鋭い批 判を下した。彼やミハーイロフたちは,ロシアにおいて最初に,資本によってのみならず 家庭によっても苦しめられている勤労者に対し, ~Ijの生活への呼びかけをなし, r何をな すべきか」を示したのであった。彼の仲間はもっぱら都市や大学の知的運動の従事者,プ ロレタリアート,インテリゲンツィア及び f才能ある人びと Jから成っていた。彼のプロ パ ガ γ ダは現在の苦しみに対する回答であり,それはとくに若い世代に受けた。それは単 に文筆活動のみならず,実際行動をも呼びかけたもので,歴史的意義を有するものであ るO ベテノレブノレグやモスクワに若者のサークノレが出来,社会主義の一般理論が言葉と行動 で宣伝された。しかしそこでは農村問題は f特殊な場合Jでしかなかった。だがロシアの 再建にとって,この f特殊な場合」こそがアルキメデスの挺の原点、なのである O 経済,行 政,司法等の改革も,すべて農民の改革から出発するものだからである O しかし設府によ る解放は,不十分なばかりか,あらかじめ歪められたものであった。それにも拘らず,た とえ奇型ではあっても,この中には生きた訟児が動いていたのである O それ故にわれわれ はたとえそれがわれわれの理想には程遠いものであっても,解放の全過程を注意;ぶかく見 守ってきた。だがここに改革をのぞまぬ政府にとって思いがけない救いがあらわれた。そ れはベテノレブノレグの火災であり, カトコーフの輩の中毎であり, ポーランドの蜂起であ るO もともとロシアの人民は皇帝はきらいだが,自らの守護と正義の代表としてのツアー リは愛してきた。人民にとってツアーリは理想であるが,皇帝はアンチ・キリストであ 203) KO.llOKO.ll, IX, 1903. (強諒一諒文〉。 128 三つの論争 るO この時起った愛国主義的力を,われわれは予想もしていなかった。われわれはもっと も強い力,却ち「愚かさの力Jを忘れていたのであるつこの愛国心によって,人びとは心 の中のすべて人間的なものを忘れ,帝自のすべて非人間的なものをも忘れてしまったので ある ρ この愛同心の拍手の中にツアーリは再び皐.帝と Lて戴冠 Ltこっ政府は再び迫害を開 始し,何人かの若者がその犠牲となったc すべてこれらの中には何か狂気じみたものがあったが,この狂気は 4月 4f1のカラコー ゾフの皇帝暗殺にまで到達した。希望を抱L、てきた者は,その希望が実現しなかったこと に怨みとは:ずしい慣りを感じるものである O 狂気と暗い宗教的感情に満たされた心辻ピス トルへと走る。しかし復讐は成功しなかった。反対にそれは反動を正当化 L,より一層の 反動の口実となった。だが復警が成功しなかったかわりに,政府のテロもまた成功しなか った。脆いつわりから始ったテロは警察的泥沼にはまり込んで,わけがわからなくなって しまったっテロは人間だけで足りなくなると,思想やイ言条をも殺さんとする O しかして政 府のテロは,政府そのものの;言、味を倫理的に殺す結果となった。政府が恐れるのは,法で も共和制でも民主主義でもな L、c それはことリズムと混合した社会主義で、ある O このニ ヒリズムとし、う言葉は間違われて安易i二使われているが, 真面白な意味では, I科学と懐 疑,信仰の代りの研究,従}[震の代りの理解 lを意味する言葉である C ところでカラコープ ブ事件の裁判ば、モスグワの若者の中にこの二つの患想を組織的に工場の労働者=農民に 宣伝しようという考えがあることを示してはいないであろうかつこのような若者はひっ捕 えて流刑に処せばそれですむという者があるかも知れない O しかしニコライ時代を思い起 してみるがよ L、。あの反動の時代にこそ,地下でもぐらが活動を始めてはいなかっただろ うか。歴史がかくも泥浮の荒涼とした田舎道をたどることは,実に残念なことだが,ひと り意識だけはまっすぐな道を進むものだ。われわれは自分たちの綱額を変えることなく, 迂回し押返しながら,この道を進んでゆこう。204) この 文を見てもチヱノレヌイシェアスキーの弟子をもって t~ 認する若い世代の関心が, 次第にヨーロッパの社会主義運動の方へ傾斜 Lていっている事実が察せられる c 彼らの場 合,ツアーリ政府への期待は最初から持無であって‘この点で改革初期にゲノレツェンがツ アーりを賞讃した襲度は「動揺j としかうつらなかった。また農民問題も後らの場合その 関心の一部であって,すでにその自が工場労働者に向けられていたことがわかる O しかしてゲルツェンのこの論文に対する[若き亡台者たち jからの批判は,まずアレク サンドノレ・セルノーソロヴィエーヴィチによってなされた。ジュネーブ会議の直後,病にた おれた設は,治療を受ける費用にもこと欠き,しばしばゲルツヱン,オガリョーフ及びツ チコーヴァーオガリョーヴァの援助を受けたが 205)それとても自らの主義にのみ生きるこ の若者をして,ゲノレツヱ γ に対する痛烈な批判を書く妨げとはならなかったのである。 J-: の第三論文の出た 1867年に,彼は fわれらの内輪事三と題する小冊子を発表し,その中 204) KOJIOKOJI, IX, 1901-1905. 205) JJumepamypflOe lWC.IleδcmBO, T. 67, CTp. 730 H C,,'Ie,n. 206) TaM iKe, CTp. 702. 129 外JIf継男 で,もはやゲノレツェ γは「死せる人間Jであって, I若い世代」は完全に「彼から顔をそむけ た。J206) と記した。とくにアレクサ γ ドル・セルノーソロヴィエーヴィチにとって許し難い と思われたのは,いま見た第三論文におけるゲ/レツェンのチェノレヌィシェフスキーに対す る評価である C ゲノレツヱンはあたかも彼の宣伝が, ロシアの農民の現実的要求に応、えるも のではなく,チェノレヌィシェフスキーの仲間がもっぱら都市や大学を中心とする「純粋に 西欧的社会主義」の理論家であるかの知く措いたが,これは大きな誤りである O むしろゲ ルツェ γ こそ政府による無血の改革を期待し,革命を信じない点で,非難さるべきである O ゲノレツェンは自分の理論とチェノレヌイシェフスキーの理論が,それぞれ農民及びインテリ ゲヅツィアを対象とする「ロシア的社会主義」と「西欧的社会主義jを代表するもので, この二つは相補うべきもののように述べたが, アレグサ γ ドノレ・セルノーソロヴィエーヴ ィチに江,これは絶対に認められないところであった。 「あなたがチェノレヌイシヱフスキーの足りないところを補ったですと/とんでもな L、。 ゲルツェン氏,今になってチェノレヌイジェフスキーの陰に隠れようとなさっても遅いとい うものです……あなたとチヱルヌイシェフスキーの関には,し、かなる共通のものもなかっ たし,ありえなかったし,いまもありませんO あなたたちは互いに並存することはできな い二つの対立する要素なのです。あなたたちは樟い合うのではなく,互いに一方を駆逐 する二つの敵対的性格の代表者なのですO 世界観から自分自身及び抱入に対する態度ま で,一般的問題から個人生活の些細な点まで,すべての点でまったく違い主す……J207) このようにゲルツェンとチヱルヌィシェフスキーの相違を述べたあと,さらに彼はゲル ツェ γ の「若き亡命者たち j に対する態度についてもつぎのようにはげしく批判してい るO 「若い亡命者たちと,彼らに対するあなたの態変法どうでしょうか……あなたが涙を流 したところの聖なる心の痛みを負ったこれらの若者が,苦役や絞首台から逃れて突知亡命 者となり,スイスに移り住み,ぼろをまとい,腹をすかせて,百蔦長者で変ることなき社 会主義のあなたに,指導者としてのあなたに頼んだ時一一一それも日々の糧ではなく,一緒 に仕事をしましょうと提案した時十こ一一一あなたは背を向けて, 高慢な侮蔑をもって答え たではありませんかo rr亡命とは何だ? わしは亡命など認めない/ 亡命など不必要だ /Jlと oJ20S) このように主張するアレグサンドノレ・セルノーソロヴィエーヴィチは, Iカラコーゾフに ふかい共惑J209)を寄せ,彼をゲノレツェンが「ファナチッグ」とか「狂人Jと呼んだことに 対しでも噴りをかくさなかった。210) 207) K03bM羽H,H3 ucmopuu…… CTp. 545-546よりヲ i用 O 208) TaM iKe, CTp. 534. 209) JIumepamypHoe HacJledcm80, T.67, CTp. 727. 210) TaM iKe, CTp. 703. Cf. Venturi, op. citり pp.277 ff. 130 二つの論争 この[iJ)れらの内輪事Jを書いた翌年, アレクサンドル・セルノーソロヴィエーヴィチ は同擦的な労働運動の場に登場するようになる O 当時彼が往んでいたジュネーブには,ロシアの亡命者の抱にイタリア人,サヴォワ人, ドイツ人などの外国人の建築労揚者が多く働いていたが,彼らの賃金は重労識にも拘らず スイス人のn寺計職人の半分にも j蒔たず,また桔互扶助のための金庫もなかった。そこでこ れらの建築労働者ほ 1868年 1月四口に大会を開き, セルノーソロヴィユーヴィチの指導 下に賃金の 20%アップと, 12時間から 10時間への労働時間の短縮とを決議したっさらに 彼らはセルノの提案で「イ γ ターナショナノレj のジュネーブ中央支部へも公式に援助を依 頼することを決めた。しかし経営者はこの要求に応ぜ、ず,このため 3月24l::lから五工,左 官,大工がストライキに入ったJ11〉これは約 1万 2千もの労識者を傘下におさめ各国の労 働者や亡命者の援助も受けて 212)三週間以上にもわたったが,一応その目的を達して終る ことができたC213〉この事件は当時全ヨーロッパに報道され, 1"インターナショナノレj の 歴 史の上でも少なからぬ意味を持つものであったが,この大ストライキによってセルノの名 は一躍有名になり,この年 5月には「インターナショナノレj のジュネーブ中央支部の書記 に選出されたC214〉 ところでゲノレツェ γはこのストライキの始った時ジュネーブにいて,ストライキがほぼ 終息、に向った 4月 7日までこの地に滞在していた。しかしそれにも拘らず,この間に彼が 残している 7通の手紙には,国際情勢に離れることがあっても,ストライキについてはひ とことも書いていない。彼がジュネープのストライキについて触れているのは 4月26- 28日にニースから二人の娘にあてた手紙の中だけであって,それは次のようなごく簡単な ものである O ト・…そう,ジュネーブのストライキはあまり楽し¥,、終り方をしなかったc 労働者が仕 事場に現われた時,経営者たちは F張本人たちが』仕事に着くことを拒否した。そこで全 部の者が仕事場から出ていったというわけだ。何という犬どもだろう,経営者たち止。そ れ以とどういうことなのか,私は知らない・一一.J215) 先のセノレノの論文を思い起す時,二人の生活環境の相違や,関心のあり方がし、かに違っ ていたか,この手紙は示している O 事実ジュネーブに滞在していた間ゲ/レツェンは毎朝 6 時半に起きて 12時には寝るといった,判で押したようなきわめて規尉正しい,且つのん びりした E々をすごしている。そしてこの頃になるとそろそろ健康の衰えを感じ始めたの 211)民.C. KHlDKHHK-BeTpOB, PyccKue aeflme.llbHuqbl flep8020 HHmepHaquoHa.lla u flapu:JICCKoii KO.M.MyHbl, M. -JI., 1964, cTp.31-32. 212)一般にソビエトお学者立この時の 11ンターナショナノレ J総評議会の指導を強調するが,ヴェント ゥーリはこれを否定している。 Venturi,ot. cit., p. 283. 213) 5. I1TeH6epr, flep8blu HHmepHaquoHa.ll u pe80.lllO勾uOHHaflPOCCUfl, M. 1964, CTp. 16.その 妥結内容は冬期 9持詞,夏期日時間労働で,賃金は 1時間当り 45-50十ンチーム漸時アップするとい うものであった KH珂iKHHK-BeTpOB,yKa3. CO'l., CTp. 330 しかしグヱントゥーリによれば ,セル I~ 身はこれを勝利とは見なさなかった Venturi, 0)り.cit., pp. 283-284. 214) KmliKHHK・.BeTpOB,yKa3. CO'l., CTp. 33. 215) repueH, XXIX, 323, 131 タト JII 継 男 か,手紙の中で,コーヒーはよくないの,コニャックはからだに悪いの,といった愚痴を ~sf LてL、る。216) ところで先に見たアレグサンドノレ・セルノ p ソロヴィエーヴィチの『われらが内輪事J の出寂された直後,これを読んだゲ/レツヱンはジュネーブからイタリアのイスキア島にい るパグーニ γに以下のような手紙を書き送った。
「親愛なるパグーニ γ。 セノレノーソロヴィエーヴィチを送る O 被は厚かましく,気遣いだ。 しかし恐ろしいのは若 者の大部分がこのようであり,われわれもまたすべて彼らに対してこのようになるかも知 れないということだ。ぼくは最初このことについて随分考えもし,書きもしたが,いまそ れを印刷にする考えはない。これはニヒザズムでほない。ニヒリズム出ロシアの発展の中 の韓大な現象だ。いや,これはこヒリスチックな寂を着て空白の上に現われてきた部屋着 であり,将校であち,書記であり,坊主であり,小地主なのだ。これはその下劣さで政府 の擁策を正当イとするところのぺてん師どもであり,カトコーフやポゴージ γやアクサーコ フ等が指している無学な輩なのだ……君とオガリョーフがこれらのサソザどもをその乳で 育てたのだ。これは確かだ。 Caro mio (まあ君),よく考えてみてくれ。彼らに未来はな い。これは死んでゆく性病病みの弟なのだ。そしてその墓の上で、元貴がそのまた弟と出会 うことになるわけだ。 ぼくはツノレゲーネフと Campo Formio217) の間柄だ。彼は mitZartlichkeit (やさし L ウ手紙を書いてきた。ぼくの方も mitGemutlichkeit (愛想のよしう返事を出したo F煙」に対するぼくの悪評にもかかわらずこういった次第だoJ218) おそらくこの手紙ほどゲルツェ γ の「若きご命者たち」に対する憤濯をぶちまけたもの はほかにあるまし、表現もかつて見られぬほどどぎついものである O ゲノレツェンはかつて F青年ロシア」を批判した時に, バクーニンが岳分の意見を支持してくれた219) ことをお ぼえていて,彼に心の中を打ち割った手紙を書いたのであろうが,その思惑は今回ははず れた。これに対するバグーニンの返事は,二人の「若き亡命者たちj に対する見方がどれ ほど異なるものであったかを知実に示している O なお上の手紙の中でゲノレツェンはツノレゲーネフと和解したと述べているが,このバクー ニγ の手紙を書く少し前に,彼は三年ぶりでツノレゲーネフから手紙をもらっており,その 上ツノレゲーネフの近作 F題 jを送られている O ツノレゲーネフはその手紙の中で、ゲルツェン のことを「スラヴ主義者にして愛国主義者j と呼び, ~煙.il220 に対する若い世代の悪評と 216) TaM )Ke, 295, 297. (1868年 3月23ヨ及び28-30日付の手紙〉。 217) 1797年イタリアのカンポ・ブオルミオでフランスとオーストリアとの詞に講和条約が結ぼれたとこ ろから,和解の意味で用いられている。 218) repueH, XXIX, p. 110,く1867年 5丹30日付) (強龍一原文〉。 219) [";撤文の時代JJ.p. 206参類。 220) この作品に登場するグノくりョーフが,はたしてオガリョーフをモデルにしたものかどうかは,にわ かに断定し難し、。 CM.TypreHes, flucuca, VI, 546. 132 ごつの論争 彼らの自分ひとりに対してだけでなく,ゲノレツェンにも向けられた冷たい態度から親近惑 を抱くようになった気持を伝えている。221) このようにゲルツェ γ とツルゲーネフが, r若き亡命者たら j に対して 4憎しみに近い感 精を共有していたのに対 L,バクーニ γは先のゲノレツェ γからの手紙に対して次のような 返事を書いた円 「親愛なるゲ/レツェン O ぼくはセルノーソロヴィエーヴィチのパンフレットを待ちに待 ったが,ついに待ちきれなくなったO しかし君の手祇がぼくを驚かしたことは白状する O しかしそれはセルノ倒ソロヴィエーヴィチのためではなく, 君のためだ。彼に対する君の 憎悪に法何か年寄りとみたものが感じられる。セルノーソロヴ千エーヴィチが君に汚い悪 口を書き,君の彼に対する i憤既が正しいものであることは,ぼくも信ずるにやぶさかでは なL、。しかし君は彼一人だけではなく,また彼と同じジュネープの亡命一年生だけを罵っ ているのではなく,すべての若し、世代に対して呪謹を浴びせているのだ。このことは,ポ ゴージンやカトコーフやアクサーコフやツルゲーネフの輩がこの世代に属する若者たちを 指差しているとか,彼らがその下劣さで政府の施策を正当化している/とかいった書き方 からも証明されるように思われる・・ 違うのだ,ゲノレツヱ γ 。現在の若い世代にたとえどんな欠点があろうとも,彼らはカト コーフやポゴージ γ や,君のアグサーコフやツルゲーネフの輩よりもはるかにすぐれたも のなのだO 従ってかの放蕩老人どもが指差していることは,彼らにとって名誉にこそな れ,決して不名誉なことではない……君の最後の手紙は不当な不平に満ちている O 君はツ ノレゲーネフと CampoFormioの間柄だと書いている G 待ってくれ,ゲルツヱン o Campo Formioはナポレオンの辞書の最初の言葉で,その最後の言葉がワーテルローであり,セ γ トーへレナであったことを思い出してくれ O ツルゲーネフが図々しくも君に Z註rtlichkeit (心をこめて〉近づいたのは,君と若い世代の不和を嘆ぎつけたからではないだろうか。 彼自身は若者たちとの決裂の後,おし、ぼれて回復できぬほどもうろくしてしまったのに。 そして同じ原因からは同じ行動が生まれると思って,今後は君と同亡立場に立つことにな るだろうと考えたからではないだろうか。 一人ひとりをとって見れば,若い世代の個々の場合に,不愉快な,無秩序な蒙昧さもあ ろう O 汚い{良u面さえあるだろう O しかしこれはまったく自然な現象だ。宗教的,族長的, 身分的伝説にもとづいた古いそラルは,崩れ去ってもう取り返しがつかなくなってしまっ た。一方新しいモラルは未だ創られていないが,予感されている C 実際にそれが実現する のは,根本的な社会変革によってだけだっそのためには,たとえどれほど強く賢明でも, 一人の人間の孤独な力では不足だ。だからこそ新しいモラルが未だないわけだc 若 いt世代 はそれを求めているが未だ見出していない。そこから動揺や矛盾や醜態や,時として汚い スキャ γ ダノレが生まれる……すべてこれら辻きわめて不愉快な事であり,痛ましくも悲 しくもある O しか L自然で避けられないところなのだ。これらすべては,われわれの貧し く,経験のないロシアの亡命者の中にあっては,君があれほどたしかに学びとっ手記の中 221) TaM )I{e, VI, 246-247. (1867年 5月 17日付〉。 133 外 JII 継 男 でも書いたかの亡命生活の病いによって倍加されたに違いなし、。しかしだからといって, こういったことがわれわれの若い世代の真面白な,そう,偉大なといってもよい,資質を われわれから隠すことになってはならない O 彼らの中には,温室的な,人工的な,反射的 なものではなく,平等や労働や正義や自由や理性に対する本当の情熱だけがあるのだか らO この情熱のために,彼らの中の何十人かはすで;こ撃され,何百人かはシベザアへと送ら れたのだ。彼らの間にも,いつでもどこでもいるように,つまらぬ抵ら吹きや口先だけの 徒も多くいることだろう O しかし美辞麗句を並べない英雄もいるし,あるいは自分に対し てのみ悪口を言う者も,極端に誇張した否定的言辞を吐く者もいよう O いや君の勝手だ が.ゲノレツェ γ ,これからの新しい正義と新しい生活の潔白にして不器患な,時としてま ったく場所がらをわきまえぬバイオニアたち辻,君のきし義正しい故人たちよりも何百万倍 もすぐれているのだ。J2Z2) もとよりバクーニ γ はツルゲーネフのゲノレツェ γ にあてた手祇を読んで、はいなかった が,何故にこの時期に彼がゲノレツェンとの仲を復活させようとしたかをただちに見抜いて いる O そしてあたかも説教するかむように,ゲルツェンの「若い世代J~こ対する憤惑を解 説し,その誤りを指摘したのであった。ここで彼が「若い聖代j の弁護をし,新しいモラ /レについて述べたのは,心からそのように信じていたからであったに違いない O しかしこ れに対してゲルツェ γがし、かなる反応を示したかは,このあと二年余もバターニンにあて た手紙がないので、わからない。芝生らく返事は書かなかったので、あろう O そしてこれ以後二 年余の間にゲルツェ γの中に積み重ねられた考えが四通の『昔の詩志への手紙」となって 結実することになるとも言えるのである O キ キ キ パグーニ γ が四年間にわたるイタリア生活を切り上げ、てスイスに移って来たのは,この ゲルツヱ γ へり手萩を書いてから三ヶ月沼どたった 1867年の 9月であった。彼はこの年 9月 9日からジュネ{プで開催された「平和自由同盟」の第 1回大会にオガザョーフ及び ヴィノレボフと共にロシアの代表として参加した。この大会はプロイセ γ とフラ γスの関の 関係が次第に切追してゆくのを前にして,ヨーロッパの平和主義者や自由主義的共和主義 者が,政治的自由と平和主義の宣伝のために 6,000入にのぼる各国代表を集めて開催した ものであったが,パク{ニンは大会第二日自に演説を行っている 0223〉一方ゲルツェ γ の方 はオガリョーフのすすめにもかかわらず,この会議にはまったく冷い態震をとり,ニース から震を上げようとしなかった。224)バーグニ γはこの「平和自由同盟Jの中央委員として 活濯し, 10月 26日の中央委員会に「理由付き提案J として間盟の綱領ともいうべき長文 の論文「連合主義,社会主義及び皮神学主義J225)を提出した。この論文はパグーニンの 222) fluCMta EaKyH.UH.a K …… CTp. 314-317. (1867年 6月23S付). (強調一罪文〉。 223) E. H. Carr, Ojう.cit., p. 344. 224) fepueH, XXIX, 183. (1867年 8月27日付オガリョーアあて手紙〉。 225)乱1ichelBakounine, Oeuvres, T. 1, (6・色meedition), Paris, 1912, p. XXIV, pp. 1-205. 邦訳 『ノミクーニン TIJl三一書房, 1970, pp. 161-294. 134 二つの論争 大部分の論文と同じように完成されてはおらず,しかも連合主義と社会主義については, 綱領にふさわ Lく比較的短かく主とめられているのに対 L,持!と国家の否定とうたった反 神学主義は哲学的議論に立ち入ってついに未完に終っている O 彼はジュネーヴ湖畔のヴヱヴェイに身を落ちつけたが,そこは少し前からウーチン夫婦 がジュコーフスキー夫妻やオリガ・レヴァショーヴァと一緒に共同で暮していた家で、あっ たむかくて間もなくバグーニ γ の周囲には,新しい亡命者のサークノレが作られ,上記の誌 かにエノレピジン, トノレーソフ,ジヱマノブラシチヱノレパコーフ,バノレチェーネフ夫妻など が加入してきた。このグループによって翌 1868年 の 9月はじめに,新しい機関紙 F人 民 の事業 (HapO~Hoe ~e~o)l の第一号が出されたがラ 226) その中の Fわれわれの縞領Jは バクーニ γ 一人によって書かれている C227〉その中で彼はまず「人民の知的,社会的,経済的, 解 放Jをかかげ,まず知的解放については了神に対する信仰及び霊魂の不死と J Iあらゆ る種類の観念論一般の信仰Jをまっこうから否定し, I無神論と唯物論の味方j であるこ とを宣言したっつづく社会的,経済的解放に関しては, I人民の経済的生活こそが根本問 題であって,人民の政治的存在iの真の説明もその中に含まれる」と述べ,現在の政治機講 の基礎にある椙続権及び家庭における父親と夫の権利を否定した。この椙続権及び父権の 否定は, I結婚告Ij震の廃止j の主張や男女同権の主張とともに, パクーニンによってくり かえし強調されるところであるが,後にゲノレツェンは F昔の局主への子萩」の中でこの点 を批判の対象に取上げることになる O さらに経済的権利の基礎としては,土地がそれを耕 作する農村共同体に窟することと,資本並びにすべての生童子設が労働者の連合に属する ものであることを「二つの基本的命題」としてかかげている O そして最後の政治的な自由 については,了まずはじめに国家の完全な破壊j の上に労働者並びに農民, 手工業者の連 合を打ち出しているつ228) 即ちこの論文は,まさしく彼の『連合主義,社会主義,反神学主義j の主張の要約とも いえるものであったが,この内容をめぐって内部で、意見が別れ,とくにウーチンがこれに 反対した。このn寺バクーニ γ はつにはロシアの問題からより広い国際的な場へ活動の 舞台を移すことを望んだことと,二つにはゲソレツェンの了若き亡命者たち」との「経験に 学んだj m〕こともあって,この F人民の事業』から去って行った。そこで第二号以後は彼 に代ってもっぱらウーチ γ が編集,執筆に当るようになるが,後年のマルクスをはさんで のバクーニ γ とウーチンの「第一インタ{ナショナノレJ内部における対立の芽が早くもこ こに生まれることになる 0239〉 226)口HpyMoBa,j.iKa3. CO弘, CTp. 264-265. 227) Lかしパクーニン自身はこのことについてまったく相反する発言を Lており, ジュコーフスキーに よって書かれたという説もある。だがそのもとになるのはノくクーニンの『国際同胞司』の綱領であ ると考えられるのでここでは一応ノくクーニンの著作として扱う CM.E. n. K03bMHH, PyccKa刃 ceK勾Uflflep8OZ0 J1llmeplla勾UOlla.lla,M., 1957, CTp. 87. 228) BJI. 5ypueB, 3a cmo .Ilem, London, 1897, CTp. 87-89. 229) M. 5aKyHHH,“日HTpHrr-Ha YTHHa," MamepUa.llbl d.llfl 6uozpactuu M. EaKylluHa, T. 3, M. -JI., 1928, CTp. 409. 230) TaM )Ke, 410-411, 135 外 JII 継 男 ノミクーニ γがエノレピジンの紹介で「インターナショナノレ」のジュネーブ支部に加入した のは, 1868年の 7月であったと考えられる 0231〉彼はこの年 9月21Aから 25日にかけてベ ノレンで、開かれた「平和自由同盟j の第二回大会に出席したが,同じ 9月のはじめにプリュ ッセノレで、開かれた「インターナショナノレjの第三回大会は,三票の差で「平和自由同盟jの 大会へ代表を送る招待を拒絶し 232)逆に「同盟Jの会員がイ γ ターの支部の会員になるこ とを要藷した0233〉このベノレンの同盟の大会において,パクーニ γは,はじめてそのアナキ ズムの諸原理を公けに宣言した234)が, 国家と私的相続権の廃止を要求する彼の決議案は 多数によって否決されるところとなった。 かくしてパクーニ γは『大会を去る会員の集 毘的抗議』を叩きつけて;平和自由再盟jを脱退し, 18入の同志と共に,大会最終日の 9 79アシス 月25日に「国際社会民主同盟Jを設立した0235〉この時イタリア人やフランス人の同志は, この「同盟jが「イ γ ターナショナノレJとは別の独立した組織になるべきだと主張したが, バクーニ γ はそれで、は両組織が対抗関係に立つことになるとして反対し,討論の結果, 「同盟」は「インターナショナノレj 全体にとってその必要欠くべからざる一部であり,し かしてインターの規約は「詞盟Jの全員にとって義務と見なされるものであることを決め た0235〉しかしてこの同盟の綱領はインターの規約よりももっとラジカノレなものであった が,その内容は以下の如くであった。 (1) !司盟は無神論たることを声明する O それは礼拝の廃止及び科学を以て信仰に代え, 人間の正義を以て神の正義に代えることを要求する O (2) それは何よりもまず搭毅及び男女個人個人の政治的,経済的並びに社会的平等化を 要求する O これは桔続権の廃止に始まり,将来各人が生産を平等に享受しうるために,主 たブリュッセ/レにおける最近の労働者の大会が決議したところに従って,土地や労働手段 が他のすべての資本と同様社会全体の集間的財産となり,労働者によってのみ,即ち農業 及び工業の連合によってのみ使用されうるようになることを要求する。 (的 それは男女の子供が誕生以来成長の手段において平等たることを欲する O 民主ち扶 養,教育並びにあらゆる程度の学問技術,芸術の教援が等しく施されることを欲する。 け だし当初は単に経済的,社会的たり Lこの平等が,最後には次第次第に個人の韓大な生 得の平等にまで達し儀りにして不正なる社会組織の歴史的産物たるあらゆる人為的不平 等を楕減させるであろうことを確信するが故である C (4) それはあらゆる専制の款であり,共和制以外のいかなる政治形態をも認めず,すべ ての反動的同盟に断国反対し,資本に反対する労働者の勝利のみを直接の目的とはしない 全致治行動を拒否するものであるむ (5) それは現存するすべての政治的独裁国家が,それぞれの国において次第に単なる公 231) Archives Bakounine, T. 1 (1), p. XXIV, [1HpYMoBa, yKa3. COll., CTp. 267. 232) E. H. Carr, 0ρ. cit., p. 353. 邦訳, p.460. 233) G. M. Steklo苛,History of the First lnternational, 1928 (Reissued, N. Yけ 1968),p. 123. 234) E. H. Carr, ot. cit., p. 356. 邦訳, p.464. 235) ibid., p. 359,邦訳, p. 469, Archives Bakounine, T. 1, (1), p. XXIV. 236) Archz'ves Bakounine, T. 1 (1), p. XXIV. 136 二つの論争 共の奉仕の行政機関となっ,自由な農業と工業の連合の全世界的同盟へと解関するであろ うことを認めるものである。 (6) 社会問題の真の最終的解決が,万国の労働者の国際的ないし全世界的連帯の上に立 つてのみ可能であると考える同盟は,いわゆる愛国主義や諸民族の敵対にもとづくすべて の政策を拒否する。 (7) それはすべての地方連合が自由によって全世界連合となることを要求する C237〉 ここに打ち出された生産手段の共有や国家の発止といった考えは,すべて 1864年以来 バクーニンの頭の中で考えられてきたものであり, とくにそれは 1866年に彼がイタリア において創設した秘密結社「国際同胞団j の縞領を発展させたものであった。238) ところで「インターナショナノレ」のブザュッセ/レ大会においては,戦争の問題をはじめ, ストライキ,労働時間,機械の使用,綜合教育といった議題が取り上けごられたが,このほ かすでにローザ、ンヌの第 2回大会で問題となった財産及ひ、国家の機能の問題が再び耳元り上 げられた0235) しかしてこの「大会の活動中もっとも重要な出来事は土地所有に関する決議 の採択であった。J240)はげしい討論の後,大会は土地の私有が,社会に対する倍人の独立 と自由の保証であるというフ。ノレードン主義者の主張に対し, 30対 4,棄権15をもって耕地 をも合め土地とその埋蔵物の社会的所右の確立の必要性を室三したC M〉 ロシアのジャーナザズムはこの時まで「イ γ ターナショナルj については何ひとつ詳多国 な報道をしなかったが, このプザュッセルの第 3回大会にはじめてグラェーフスキーの 編集するベテノレブノレグのiJiも抵 f声」が,特派員としてボボノレイキンを派遣した。彼は ib. b. b.J の署名で 8月3011 (新麿 9月11日)の第 239号から 14回にわたってこの大 会について詳細な報告記事を書き送ったが, これはきわめて客観的な報道で今立でも資 料的倍値を失っていないといわれる cH2〉ゲノレツェ γ はこの 1戸』の記事を丹念に読んで おり山ブリュッセル大会の資料をジュネーブにいたオガリョーフに送るよう頼んでい る。244) 一 方 9月25[Jに成立した「出際社会民主同盟Jはその後その書記局の代表であるベッカ ーを通じて「インターナショナノレj への加盟を請求したにもかかわらず,これ辻12月28日 付でロンドンの総評議会によって拒否されるところとなった。その理由は「インターナシ ョナノレ」の中に第二のインターを認めることはできないというマルクスの考えによるもの 237) ibid., pp. XXIV-XXV. 238) A1amepUa/lbl d/lfl 6uozpaftuu JH. EaKyflufla, T. 3, CTp. 558-560. 239) Stぞkloff,op. cit., pp. 121-127. 240)刀epBbl il Jf flme p fla~UOfla/l, 江 O .ll peぇ. 5ax, fOJIbMaHa, Kym1Ho詰, LJ. 1, M. 1964, CTp. 161. Jj J~ !r話 Iイン〆タ→ショサノし!と,];X~ 1 ,';[;,江.~ 1 (1, )Jì工,-!:I~'é 1966, p. 172. 241) TaM iKe, CTp. 162, JIS,J(, p. 174. 242) 6.口.K03bMHH,“ K Bonpocy 06 OTHoweHHH A. 11. fepueHa K 1 I1HTepHaUHoHa.'ly'ヘ JfclllopulfeCKue 3anUCKll, T. 54, 1955, CTp. .4:32. 243) ['epueH, XXIX, 450 (lS6Si十'.9n 26[:1 H宇カリゴーブへの予選¥0) 244) TaM )Ke, 451. (9丹28片 付つ。 137 外 JII 継 男 であった。245) これに対し f同盟Jの主としてジュネーブの会員が総評議会と手を坊るべき だと主張したが, バクーニ γ とベロンはこれをおしとどめ, r同盟」の中央書記烏並びに 地方委員会は解散し, その支部をもって「イ γターナショナルj の支部に変え, I同盟」 の規約は「インターナショナノレJの規約と矛居するものではないので保持することを提案 したom〉このような考えにもとずき, I同盟」は再度インタ{への加盟を申請したが,こ の申し出に対し総評議会~ì. ,翌 1869年 3月 9日付で回答247)を寄せ, r同盟Jの支部が[イ ンターナショナノレJの支部に変ることは何ら障害がないが,規約については「階級並びに 個人の政治的,経済的,社会的平等化J としづ表現を「階級の最終的麗止と個人の政治 的,経済的,社会的平等化」と改めることを求めた。かくて「国際社会民主同盟j の先の 規約辻 fインターナショナノレ」のジュネ{ブ支部たる「同盟」の規約として残ることが認 められたものと理解され,バターニンはこの「社会民主同盟ジュネ{プ支部」の「綱領と 規約」を新たに 49条にまとめ,これに「イ γ ターナショナノレjの規約を冒頭に添えて出張 した0248〉かくて 1869年 6月22EI ,シャノレノレ・ベロ γは総評議会に対し, I国際社会民主同 盟j はこの日をもって解散したことを告げるとともに,同盟のジュネーブ支部〈実際に存 在したものとしては「同盟」の唯一の支部であった)24めを「インターナショナル」の支部 として公式に認めてくれるよう,新たな規約を添えて要請したc これに対して 7月28日総 評議会の書記長エッカリウエは,万場一致で加入が承認された旨り返事をした0258〉しかし 以上に見た面倒ないきさつが,後に「イ γ ターナショナノレ」におけるマルクスとノミクーニ γの対立となって尾を引くこととなる 0251〉 これより前「自自平和同盟」を脱退したバターニンが, I国際社会民主同盟」を設立した ことは,いち早くロ γ ドンのマルクスの耳に入っていた。かねてからバクーニンの思想と 行動に不安を抱いていたマルクスは,そこで、バクーニンについての問合せをアレグサンド ル・セルノーソロヴィエーヴィチに手続で聞いたが, この事実をセルノから開いたバクー ニンは, 12月22E1にマルグスにあてて次のような手紙を書き送った。 「わが親しき旧友ノ セノレノが君の手紙のぼくに関する部分を知らせてくれた。君はぼくが法然として君の友 であるかどうか,被にたず、ねている O その通りだ。親愛なるマルクス,今までのいつの時 にもましてぼくは君の友達だ。今のぼくには君が経済的革命の大道を選んでわれわれに後 245) Archives Bakounine, T. 1, (2), p. XXII, XXV. A. Lehning, From Buonarroli 10 Bakunin, Leiden, 1970, p. 267., nHpyMoBa, yKa3. co吃・, CTp. 269. 246) Archives Bαkounine, T. 1, (2), pp. XXVI-XXVII.ピルーモヴァはこれをもって「インターナョナ ノレJの中に「出盟j を温存させる考えであり,ギヨームは最初この考えに反対したと説明している o f1HpyMoBa, j!'Ka3. co弘, CTp. 273. 247) この罰答はマルクスに委ねられたが,彼は12月15日にエンゲルスに手紙を書き,その意見を「フラ ンス語jでただちに送るよろ要求している o CM. f1HpyMoBa, yKa3. co弓・, CTp. 299-270. 248) Archives Baたounine,T. 1, (2), p. XXVII. 249) Lehning, ot. cit., p. 267. 250) Archives Bakounine, T. 1, (2), p. XXVII. 251) Lehning, op. cit., pp. 273宜. 138 二つの論争 に続くことを呼びかけた時,どれほど君が正しかったかがわかる O その時君はわれわれの 中で民族主義的な,あるいは純政治的な企ての小道をさまよっている連中を場笑していた ものだ。 ぼくは今, 君がすでに 20年以上も前に始めた仕事をしている O ベノレンの大会で ぼくがブ、/レジョワと呼んだもったし、ぶった公衆に接して以来,ぼくは労働者の世界以外の いかなる社会も仲間も知らないっ爾後ぼくの祖国は『インターナショナノレ』となろう。そ してその創設者の一人が君なのだ。従って,親しき友よ,ぼくが君の弟子であるというこ とを了解されよう O そしてぼくはそのことを誇りに思っている O ぼくの君に対する留人的 感情や関係について,言わなけれぽならないと思うのは以上で全部だ。 今や別の問題に移ろう C セルノの手紙の中で,君は階級と個人の平等化についてわれわれが問題の出し方を間違 えていると述べている O この指捕はわれわれが用いた術語や表現に関する眠りまったく正 しいc しかしこの表現はわれわれのブルジョワ的聴衆の愚かしさと,信じられないほどの 物分りの悪さによって,無理に押しつけられたものだ……しかしぼくは,そう,以下のよ うな別の表現で言うなら,喜んで賛成しよう O 即ち, u様々な階級の存在の経済的京国の 徹底的な完棄と,性,国籍,人種の区別なく,すべての個人の存在と発達の環境並びに諸 条件の経済的,社会的,及び政治的平等化』という嵐に。 ぼくはベ/レンでやった以外のすべての告分の演説を郵捷で送ろう O ゲ/レツェ γ氏誌これ を最後のモヒカン族たる自分の新聞の最新号に掲載する許可を求めてきた。この新聞は読 者がし、なくなって中止になっていたので,ぼくは彼に断り切れなかった。しかしぼくと被 の間にはいかなる一致も絶対に存在しないということは信じてもらいたL、。 とくに 1863 年以来,われわれの全政治的関係辻,そして今では個人的関係すら完全に絶たれてしまっ ている O 彼はぼくがベノレンで友人のムロチコフスキーの演説に対する国答としてロシアに 関して語った演説の内容を,彼の意味に変更するように頼んできた。これは君も F鐘Jの中 に見られる筈だ。ぼくの友人のロシアのすべての社会民主主義者と同じように,ぼくは自 分の作った綱領の一一ぼくはこれも君に送ろう一一第一の条件として真の解放,即ちロシア 人及びロシア帝国内に含まれる非ロシア人の経済的,社会的,政治的解放とこの帝国の徹 意的な絶滅とをかかげ、た。これはゲノレツェ γにとってあまりにも激しいものだったので, われわれは分かれた。 ぼくは君にぼくがベッカーやイタリアやポーランドやフランスの沢山の友人と作った F同盟』の綱領も送ろう O このことについては,われわれはまだ多くのことを話し合わな ければなるま L、ぼくはこの件について友人のセザール・ドゥ・ベープに書いた長文の手 紙一一一殆んどパ γ フレヅトと L、ってもよ L、一一ーのコピーをじき君に送ろう O だが今は此処 の出来事について少し話そう O 今やバーゼノレには大ストライキが起っており,その結果『イ γ ターナショナノレj には新 しい 5,000人のメンバーの加入をみた。ジュネーブの方は素晴らしい調子だ。われわれは ここで大集会を開いたが,こ,rL(之バーゼノレとの通信のための常置委員会を任命 Lた。ぼく とベッカーがその委員になったc ぼくは労働者の開にまったく素晴らしい人々を見出して し、る C 139 外 JII 継 男 ェ γ ゲノレスにはぼくからよろしくとったえてもらいたL、。もし彼がもう一変死んでなけれ ばの話だが一一役が龍に一度葬むられたことは君も知っているだろう。一一そしてどうか 後にぼくの演説を一部渡してもらいたL、。エッカリウスとユックにも G 頓 首 M. バクーニ γ マルクス夫人によろしく伝えてくれるように。J252) マルクスはかねてからセルノーソロヴィエーヴィチがバクーニンと不仲のことを知って いて,それを利用してバターニンについての不利な情報を入手しようと患っていたが,ま さかそのセノレノがマルグスの手紙をバグーニンに見せるとはまったく予期していなかっ た。このバクーニ γの手紙を読んだあとの彼のエンゲルスにあてた手紙には,いまいまし い気持が如実にあらわれている 0253〉ところでこの文章の調子は,その書かれたのがあきら かに「同盟」の「インターナショナノレj 加盟申講の時期であることを抜きにしては正しく 理解できなし、。ポロ γ スキーは,バクーニ γ のこのようなゲノレツェンに対する誹誘も,彼 の「戦術j であったといっているが, 2 Wたしかにそれもあろう O ゲノレツェンとマルクスの 反巨はそれこそイ γ ターナショナノレに知られていた周知のところだったからである O しか し少なくともこの手紙を書いた当初のバクーニ γが決してそれだけでなかったこともゲノレ ツェ γ との往復書簡から知れる O ゲノレツェ γは 1869年 10月28日付の手紙の中で「君は自 分の関係を害わないように,単にマルクスをやっつけたがらないでいる O それもよかろう …J255) と書いたが,バクーニンの方はこれに対する例のま口き長文の手紙の中で自分とマ ルクスの関祭256)を次のように述べているからである O 「現 5ぼくはノレガノへ行く O 君の手紙を受けとって注意、して読んだ。 1.マルクスに関しては,ぼくの回答はつぎのようだ。ぼくも君と同様マルクスが他の すべてと同じくわれわれに反対していることはよく知っている O それのみか彼がわれわれ に対して投げられたあらゆるけがらわしい誹誘の張本人であり扇動者だということすら 知っている O それなのになぜぼくが彼を容赦したり,偉大だなどと呼んで称讃するのか? ゲルツェン,その理由を少し考えてみてくれ。第一の理由は,公正なことだ。われわれに 対する彼のあらゆる誹誌を別とすれば,彼の社会主義の事業に対する巨大な貢献は認めざ るをえない。少なくともぼくはそうだO この事業に彼は 25年近くも賢明に,精力的に,確 実に打ち込んできた。この点では疑いもなくぼくの(? )257)われわれの誰をも凌駕してい るO 彼は『インターナショナノレJの最初の一人であり,その主要な創始者の一入ですらあ るO これは誰から見ても巨大な貢献であり,たとえ彼がわれわれにどのような反対行動を 252) Mamepua.llbt d.ll匁 6uozpattuuM. EαKyltUlta, T. 3, CTp. 137-139. (強調一京文〉。 253) CM.耳目pyMoBa,yKas. co弘, CTp. 270-271. 254) Mamepua.llbt…… T.3, CTp. 560. 255) repueH, XXX, 228. 256) このあとバクーニンは1871年 12月に[ずルクスとの個人的関孫』と題する一文を書き,その中で 1844にパリ℃初めてマルクスに会って以来の二人の関係を詳述している。 ArchivesBakounine, T. 1, (2), pp. 121-130. 257)原文不明。 140 二つの論争 とったとしても,ぼくは常にこのことを認めるつもりだ。 第二の理由は政策と,ぼくの考えではまったく確実な載街だ。君がぼくのことを実にひ どし、政治家だと思っていることは,ぼくも知っている O しカかミし君君.の開違いだと亘亘晶つても, 自惚 会の中でで、の,ブ、ノレジョワ世界の中でのぼくの行動を基準にしてきたこと,そして今もって そうしていることにある O 事実ぼくはこういう世界の中では,まったく計算なしに,いさ さかのもったし、ぶりもなしに,悪口も言い,無遠慮な率重さでやってきている一 マルクスはたしかに Fインターナショナノレj では有用な人間だ。その中での彼は今日に いたるまで,社会主義のもっとも確実で,賢明で,影響力のある支柱の一つだ。いかなる もので、あれ,ブ、ノレジョワ的傾向や考えがその中に侵入してくるのを防ぐもっとも強い障壁 の一つなのだ。彼のこの疑いようのないすぐれた影響力を,もしぼくが個人的な復讐心か らけなしたり,過少評価するようなことがあったら,決して自分自身を許しはしないだろ うっしかし個人的な腹立ちからで iまなく,累理上の問題で、彼と戦わなけれぽならなくなる 時があるかも知れな L、。多分あるどるう G それは,彼と彼によって代表される一派やイギ ザスやドイツの熱烈な擁護者どもの説く,国家共産主義の原理についてだ。その持は死を 賭して争うことになろう O しかしその時はその時だ。未だその時が来てはし、なL、。J258) 先のマルクスにあてた手紙が「戦術J上の考患にもとずいたものだとしても,この手抵 がすべてそうだと考えることはできなし、おそらくここには当時のバクーニンの気持がか なり率重に述べられているものと考えても的外れではあるまし、。 ところでこの手抵の末是でバクーニンが言っているマルクスとその一派の「国家共産主 義 j の原理についての対立は,その後;ーインターナショナノレ」の内部でマルクス派とバク ーニン派の対立となってあらわれ,ついにはインターの分裂と,ニューヨークへの移転, さらにはインターそのものの消滅へとつながるものであるが, それはまずこの 1869年 9 月 6Hから 11民主でバーゼノレで、開方通れた第 4回大会において,相続権の問題としてあらわ れ fこO この椙続権の問題は iインターナショナル jのジュネーブ支部の提案によるものであっ たが,この支部が「国際社会民主同盟」の実際に存在するIlit-~ の支部たるジュネープ支部 と同ーのものであることは前述の知くである c この相続権の問題はすでに[インターナシ ョナノレj のローザンヌ大会(第 2回 1867年 9月〉でもブリュツセノレの第 3回大会でも,部 分的制i裂かそれとも完全な廃止かという形で多くの代表によって何度か提案されたところ であったが, ノミクーニンは ¥-11斗盟→;の綱領でも見た如く, I相続権の麗止jをもって社会 革命の出発点たと与え、μ 、f;二0 ・7jニれによ1L~C マルクスジ'XJj は[労働者階級が相続権を 廃止するに足るだけの権力を獲得すれば,労働者階級は生産手段を剥奪するだけの力を持 つミとになり,それははるかに簡単で有効な措置になるどんう。J25[i)と Jっていた。即ち, 彼 はIU!主子設が社会化され,各人!J、ミl'Jう/U)労 働)Jを行{むよふ権利と口Iug性を持つに二とにな 258) nUCbMa Ea1cyliulia K ・・・… CTp. 337-339 (1Í"~(j 9~ド1OJ1 28IiH) く強調一原文〉。 259) 子ず L-ケ ・エンケ、/しス全*~い三シア infU~ 2 J反)沼16当:, 593瓦。Ji;訳『第一イン〆ーブショブール 141 外 JII 継 男 れば,相続権はあらゆる意味を失うだろうが,これがないうちは,このようなスローガ γ を掲げることは政治的にまちがっているO これは人々をまどわすだけで,なんの利益もも たらさないであろうし,このような手段は,社会革命の開始とはならないで,ただそれを 終らせることにしかならないであろう,と考えていたのであった。2的 このようなマルクスの考えは,総評議会を代表するユッカリウスによってこのパーゼル の大会で述べられた。これに対してバクーニ γは,法的ないし政治的権利が既存の産物の 表現にほかならないのは歴史的に確かだが,同時にそれがその後に生ず、る諸事実の原因と なることも同様に確かである O したがって法津は新しい社会を創始せんと欲する者によっ て廃止されねばならず¥政治的国家の基礎となり法的に確立された家庭の基礎となった相 続権は廃棄されるべきだと反論した。この結果二つの決議が票決に付されることになった が,総評議会の決議案は賛成 19,反対 37,棄権 6,欠席 13で否決されたのに対し,バク ーニンの決議案の方比賛成 32,反対 23,棄権 13,欠霜 7で多数の支持を得た。 しかしそ れにもかかわらずこの決議案は全代表の過半数が得られなかったために,大会の正式決議 と誌ならなかった。261) だが総評議会の方は明らかに投票総数の過半数によって反対され たことになり,マルクス派がバクーニ γ派に敗れたことは,ここにはっきり数の上で、示さ れた。 さらにこの大会では,前のプリュッセノレ大会に引き続いて土地所有の問題が取りあげら れ, 14入から成る特別委員会が決議案を大会に提出し,圧倒的多数をもって土地の私的所 有の廃止が決議された。この時のバクーニ γは,総評議会の代表と共に決議案に賛成の演 説をしている。262) ところで土地問題がバーゼルの大会で取り上げ、られることは, ゲノレツェンも知ってお り,かねてからこの大会に注目していた彼は 263) オガリョーフへの手紙の中でも f土地の 共同体的所有Jに関して,ロシア人で説明する人間がいればよいが,バクーニンはどこに いるのだろうか, と質している 025りさらにその二日後の手紙でも「バーゼノレにおける彼 くバクーニンー引用者〉の農民についての回答は失敗だったJ265) とも記しているが,これ からもゲルツェンがこのバ{ゼル大会に並々ならぬ関心を抱いていたことがわかるO そのようなゲソレツェンがパクーニンにあてた書簡形式の論文 F昔の向志への手紙」を書 いたのはまさにこの;インターナショナノレj のプヲュツセノレ大会の産前の 1869年 1月か ら 8月にかけてのことであった。 VIII ['苦の同志への手紙J ロシア園内における反動の強化と, r若き亡命者たち j との反目から, u鐘』の発行部数 史 i第 1部 第 1巻, 200頁より引用 O 260) flepBblu Hnmepnal1uonaム可.1, CTp. 185. Os訳 第 1i}s第 1'{5;, 200頁参照。なお邦訳では 日士会革命Jが f社会主義革命」となっている。〉 261) Stekloff, 0ρ. cit., pp. 144-145. フォスター, 三つのインターナショナノ の壁史~,大月書宿, 1968, 84支参照。 262) Stekloff, 0ρ. cit., p. 141. 263) fepueH, XXX, 189. (1869年 9月 4司Hオガザョーフあて手紙〕参照G 264) TaM LKe, CTp. 195. (1869年 9月17日付〉。 265) TaM米 e,CTp. 197. 142 二つの論争 の減少とニュースーソースの入手国難を見てとったゲノレツェンが,その発行の一時中止を考 えるに至ったのは 1867年 5月のことであったC2叩この年 7月 1日の『鐘』の第 244-245 合併号の冒頭におし、て,ゲノレツェンはオガリヨ{プと連名で r1857-1867jJと題する記事 をかかげ,第一号が発行されてから 10年間の F鐘jの歩みを記 L, とくに後半の 5年間 は発行を維持することがかなり国難であったことを率重に述べている O そして半年間の発 行停止の後,次の 10年間に向って前と同じく 「ロシア的社会主義とその発達の機関祇j として,この新聞の発行を続けてゆく決意を披歴した0267j この記事を読んだバクーニンは,先に引用したイスキア島からの手紙の中で,ゲノレツェ ンが老けこんで「ジャン・ジャック・ノレソ一流の空論家」となることなく「われらが力強 きヴォノレテールとして留まる」ょう激励し,ひきつづいての『鐘Jの発行をうながした。268) しかし「鐘』はこのあと半年して 1868年 1月 1日からは, フランス語で一年間出ただ けで,ついに最終的にその幕を関じることとなった。ゲノレツェ γはこの廃刊の辞を次のよ うなオガリョーフへあてた書簡形式で述べている O 「親しい友よ O ぼくは君に一つの「クーーデター J~こはかならないことを,即ち『鐘 の即時中止を,も し君がそう言いたければ,無期延期を提案する O われわれの石臼は止まってしまった。小JIIは別の場所を流れて L、る O 別の土地と別の水 脈をさがしにゆこう。 君 は1864年以来ぼくがどれほど「鐘jの継続を頑強に主張してきたかを知っていよう O しかしついにその存在がわざとらしい不自然なものになってしまったという確信に到達 L た。も法やぼくにはこれ以上続けられな L、。仕事の精神は消えうせ,ただその音を聞く楽 しみのためにだけわれわれの「鐘」をプラトニックに動かすことはまったく不可能だとい うことを,ぼくは感じている O われわれの新聞は決して目的ではなかったc それは手段であり,道具であった。われわ れがこれを捨てるのは,最初の見込み違いとか,疲労とか軽薄な考えといった,理由のな いことではない。強情を張って,この瀕死の重病人を無理に生かし続ける理由がないと考 えるからだ。 すべて物事には時期がある,と賢者は言っている C 石を集める時期もあれば,それを投 げる時期もある。 われわれは逆戻りすゐにはあ去りにも長く白分遠の道を歩いて米たひしかし今やそれが 通れないのに,日々の糧がないのに, jujじ道を歩む必要はまったくなし、国からの通信も なしに,外国で新聞を編集することは不可能だ。現実性を失って,亡命者の聖務日課書と なるか,苦情の要約,嘆きの記録となるのが落ちだろう。 266) rεpu.eH, XXIX, 89, 92, 93 (1867"4三 5月 611, 10IJ H:/チコーヅアーAノJ リ」ーツァ J!;ζ ,5月11- 1211 H息子あて子紙。) 267) J{OJlOKOJl, IX, 1991. 268) flUCb.Ma EaJcyHuHa K…… CTp. 318. 143 外 )11 継 男 われわれは自分たちの確信のもっとも大切なことの大部分はすでに言ったし,百回もく りかえした‘ 若い世代は自分の速度で進む。彼らはわれわれの言葉を必要としない O 彼らは一入誌の 成年であり,またそのことを知っている。佳の者に対しては,われわれは何一つ言うべき 言葉を持たぬ・...... われわれはロシアの世論とはあまりにもかけ離れてしまった。いまや橋をかけることは できなし、。われわれの声を聞かせるだけ長い海底のケーブノレもない… われわれは新しい道をさがす方がずっとよいだろう O そして万一それが見付からないと しても,震史的発展の奇妙な移り気を学ぶ材料には,その後の人生に事欠くまし、。歴史の 歩みは, 猟師の猟犬と同じように, どれほど本道からそれて,通れない道に入り込んで も,決して元の道を見失うことはないものだ。一-… 一年前ぼくはロシア語の『鐘Jに代って,フランス語版をもってすることができると考 えた。これは間違いだった。われわれの本当の使命は,生ける者への呼びかけと,われら の死者に事鐘を鳴らすことにあったのであり,われわれの隣人に自分たちの墓や揺りかご の物語りをすることではなかったのだ……。 ベノレンにおける「平和同盟Jの f大会j はまたしてもわれわれに,西ヨーロッパという 家族の合奏の中では,一般にロシアの戸が場違いだということを示してくれた。われわれ はきわめて不愉快な真理を不器用に示 L,場所柄をわきまえぬ粗野な態度と峻薮で散慢な 論理でもってこの合奏をかき乱すO 残忍な力によって屈服させてきたわれわれは,あまち にも長いこと黙っていたので,ひとたび自分が自由だと仮定するや,あまりにも多くのこ とを日にする O われわれの経験を護んだ賢い兄たちが, アヵ γサスやブドーの葉で飾っ て,それとなく subrosa (そっと〉誌のめかすところを,われわれは屋根の上から大戸で わめきたてかねない O これは彼らを怒らせ,われわれの言葉を開いただけで背を向けさせ ることになる O 人びとが平和の理論を作り上げることと,戦争の準儀に余念のないこのさなかに,われ われは誰にも気づかれずに,鐘を鳴らすことを止めにしよう O 親しき友よ O これがぼくのクーーデターだ。時期はよし、。今は 12月だ。 この上に立って,われわれの道を読けよう O 最初の時ーのように,手に手をとって O 宿場 は遠くなし、。 A. Herzen 1868年 12月 1日J269) ロシア語で読まれなくなった F鐘」は,プランス語になってもやはり読者を獲得-するこ とはできなかった。どうにか一年間だけ発行してはみたものの,もはや F鐘』は空しく響 くだけであった。今や残されたことは「別の土地と別の水脈」をさがすほかはなかったの である。しかし「平和自由同盟Jvこ;おけるロシア代表のぶざまなやり方が示すように,ま たフランス語に変った F鐘iの不振ぷりからしてみてもそれが泊.ヨーロッバにおいて容易 269) fepll.eH, XX, 395-398. (強調一原文〉。 144 二つの論争 に「水原j を見出せるとは忠われなかったっそしてこれ以後のゲルツェンは, I当分の著作 をフランスの雑誌 <や <





(私論.私見)