「ロシア十月革命」蜂起の様子と経過 |
(最新見直し2006.2.17日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
ボリシェヴィキとは縁遠いが、公明正大な愛国者であったアカデミー会員・B・Hシグナーチェフ氏は、ロシア10月革命について次のように述べている。
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【レーニンが再度帰還する】 | ||
宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」は次のように記している。
10.7日、ケレンスキー政権は、予備議会を召集した。7月事件以後フィンランドに亡命していたレーニンはこの日密かにペトログラードに帰った。ボリシェヴィキに幸いしたこれらの決定的な転換を見たレーニンは好機とみて舞い戻り、ソヴィエトにおける多数党の革命的指導権の掌握を目指し、再度武装蜂起による臨時政府打倒を主張した。次のように述べている。
これは、レーニンの「革命的妥協政策」と評することが出来る。レーニンは、論文「妥協について」を公表する前に、あとがきを付け加えて、「この考えはもはや『時期を失した』」と断じた。そして彼はふたたび、平和的進展という幻想に対してボリシェヴィキに警告しはじめた。レーニンの念頭にあったのは一貫して「全権力をソヴィエトヘ」というスロ−ガンであった。ソヴィエトは、今やボリシェヴィキ・ソヴィエトであった。あるいはやがてそうなるはずであった。 |
【10月革命蜂起前の喧々諤々】 | ||
レーニンの脅かしは効果があった。中央委員会のより大胆なグループが、レーニンの刺激と公然たる弾薬供給とを同時にうけて、勝利を収めた。 予備議会が10.7日に開かれたとき、ボリシェヴィキは、計画どおりに、公然たる反抗の挙に出た。トロツキーが起ちあがって、政府に対する事実上の宣戦布告を行なった。
ボリシェヴィキは、蜂起の仕事に取りかかり、蜂起の準備に大童わとなった。
10.8日、レーニンは、10.10日の中央委員会出席を前にして、2通の手紙内容をさらに具体化した『蜂起の技術』の手紙を書いた。中央委員会が、ボリシェヴィキの単独武装蜂起を了承すれば、その手紙内容が、技術指令になるものだった。(この時の手紙は、宮地氏の「レーニン『蜂起の技術』10月8日手紙」にサイトアップされている。 |
【トロツキーを長とする軍事革命委員会が設置される】 | ||
10.9日、ボリシェヴィキの支配するべトログラード・ソヴィエトは、トロツキーを長とする軍事革命委員会を設置した。当初はペトログラード守備隊の軍事的支配権を臨時政府の手から奪い取ることを目的にしたこの機関が、蜂起の実際的指導部となった。 ペトログラード軍事革命委員会の設置を最初に提案したのは、皮肉なことにメンシェヴィキだった。10.9日のペトログラード・ソヴェート執行委において、メンシェヴィキは、首都防衛計画作成のために「革命防衛委員会」を設置することを提案した。この提案は13対12で可決された。この提案には、守備軍の前線への移動を準備することも含まれていた。 同じ日のペトログラード・ソヴエート総会で、委員会の任務に、1・反革命防止を加えること。2・守備軍の移動に反対することが決議された。この修正と逆転は、ボリシェヴィキの提案によってなされた。こうして、当初、祖国防衛主義の見地から設置されようとした「革命防衛委」は、内外の反革命に対して革命のペトログラードを防衛するための機関に転化することになった。 1918年の第1回十月革命記念日に於いて、スターリンは、次のように記している。(トロツキー「我が生涯2」)
しかし、スターリン独裁体制確立後は、次のように評されることになる。
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【10月革命蜂起前の喧々諤々】 | ||||||||
10.10日、賽は投げられた。党中央委員会が開かれた。7月事件後一度も中央委員会会議に出席していなかったレーニンが変装してペトログラードに現われ中央委員会と顔をつき合わせた。21人中12名の中央委員が参加した。スヴエルドロフが当面の事態の総括を終えると、それまで多数の手紙によって蜂起の圧力をかけ続けていたレーニンがまる一時間にわたって蜂起を論じ、10.20日蜂起の決議を提案した。
しかし、中央委員会は「蜂起の問題には一種の無関心」を示した。しかしレーニンは、中央委員会を説き伏せた。動議は賛成10票対反対2票で採択された。ジノヴィエフとカーメネフは、「革命的合法主義」の立場から「第二回ソビエト大会の前にはいかなる企ても行なうべきではない」と主張し、蜂起反対であった。賛成は、レーニン、トロツキー、スベェルドロフ、ウリッキー、ジェルジンスキー、コロンタイ、ブブノフ、ソコルニコフ、ロモフ。トロツキーは、20日蜂起に反対、25日の第2回大会に合わせるべきと主張した。かくて10.10日 ボリシェヴィキ中央委は、「武装闘争が不可欠となり、完全に機が熟したことを認める」決議を採択した。武装蜂起とそれを実行すべき軍事革命委員会の組織を決定した。蜂起日は決まらなかった。 ジノヴィエフとカーメネフは、かってのレーニンと同様に、自分たちがおろかなことを考えた中央委員会多数派の決定の前に頭をさげる用意など、ありはしなかった。10.11日、彼らは中央委員会の蜂起の決定に抗議する旨を記した一通の手紙を作成し、連名で党内の主要な委員会に配布した。その中で彼らは、蜂起の計画に反対する理由を述べた。
ジノヴィエフとカーメネフは、こうした希望は殆ど根拠がないと考えた。同様にまた彼らは、他の人々の仮定を真に受けなかった。
他方で彼らは、時きたれば行動に出ることを恐れるものではない、と告白した。
この経過について、時期ははっきりしないが「ジノビエフは反対の見解を新聞に発表した。そしてレーニンはそれをまた新聞で反論した。「不思議なことに武装蜂起の時期を新聞で論争し始めた」とある。 |
【各ソヴェートに軍事革命委員会が設置される】 | |
長尾久・氏の「ロシア十月革命」(亜紀書房、1972年、P.217より抜粋)は次のように記している。
10.16日、ソヴェート総会で、軍事革命委員会の設置が最終決定された。穏健派(エスエル、メンシェヴィキ、メンシェヴィキ国際派)はこの時反対した。最終決定ではまず、名前が「軍事革命委員会」と改められた。また当初のメンシェヴィキ案では、ソヴェート執行委、兵士部会幹部会、守備軍代表から構成されることになっていたが、全国艦隊中央委、フィンランド地方ソヴェート委、鉄道労組、郵便電信労組、工場委、労働組合、ソヴェート参加諸党軍事組織、「人民軍社会主義者同盟」、労兵ソヴェート中執委軍事部、労働者民警の各代表を加えることとされ、その構成は大幅に拡大された。なおペトログラード・ソヴェートの代表としては、執行委ではなくて幹部会が構成メンバーとされた。 |
【蜂起直前の動き】 | ||||||||
10.16日、軍事組織、工場委も参加する25名のボルシェビキ派の党中央委員会拡大会議が開かれた。レーニンは、この日再度ペトログラードに潜入して、叛乱の準備を進めるために、中央委員会および選ばれた地方党指導者たちと会合した。レーニンは、20日蜂起を主張したが、第2回大会前の10.24蜂起をやむなく受け入れた。トロツキーは、25日の第2回大会日での蜂起を主張していたが、大会1日前の24日蜂起説に変更していた。議論は、以前よりも一層激烈を極めた。ジノヴィエフとカーメネフは基本的に蜂起反対で、「憲法制定会議選挙による立憲民主政体への移行とソヴィエト連立政権との共同」戦略にシフトしていた。よって、憲法制定会議の選挙を待つという慎重策を擁護した。
中央委員会における10.16日の論争の終りに、「臨時政府の打倒とソビエトによる全権力の掌握をめざし、叛乱と武装蜂起の準備をする」というレーニンの決議案に対する投票が行なわれた。10.10日と同様に、効果のあがらない反対を乗り越えて、決定がなされた。投票の結果は、賛成19、反対2(ふたたびジノヴィエフとカーメネフ)、棄権4であった。「武装蜂起の準備を全面的に、全力をあげて行う」決議を採択した。申し合わせで、武装蜂起の日を10.25日の第2回ソヴィエト大会直前と定めた。 党中央委員会とトロッキーのペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会との連絡にあたるべきいわゆる軍事センターを中央委員会が創設したのは、この会議においてであった。この新しい機関に任命されたのは、スターリン、スヴェルドロフ、ブブノフ、ウリツキー、およびジェルジンスキーであった。このセンターは独立のグループとして活動したことはなかったのであるが、その設置を決定したことは、その後公認の歴史において主張された、スターリンこそ叛乱の衝にあたった人物であるという伝説を支える典拠となったのであった。
延引は、彼がたえず主張してきたように、許しがたいものであった。
誰々と名指してはいないが明らかにジノヴィエフとカーメネフに狙いをつけたレーニンの手紙は、党機関紙『ラボーチィ・プーチ』(労働者の道)に、10.19、20、21日とつづけて公表された。10.20日号にのせた反論の中で、ジノヴィエフは、自分の見解はレーニンがきめつけたほど悲観論的なものでは決してない、と抗弁した。これらの声明には、編集者スターリンによって、びっくりするほど調停的な註釈がつけ加えられた。
この間、10.11日のジノヴィエフ――カーメネフ声明が、党外に漏洩していた。10.17日、ゴーリキーの『ノーヴァヤ・ジーズニ』が、「二名の指導的ボリシェヴィキの名において行動に反対する内容の、手でかかれたビラが市内で配布された」というメンシェヴィキ国際主義者(以前には右翼ボルシェヴィキ)バザロフの報告を発表した。カーメネフは、ジノヴィエフと彼自身の名において、「蜂起は絶望的な賭けとなろう」という彼らの見解を反覆した論評を、『ノーヴァヤ・ジーズニ』に送って、これに応じた。彼らは、ボリシェヴィキが蜂起の期日をすでに設定したことを否定して、中央委員会が彼らの反対を押し切って実際に叛乱に関する決定を下したという事実を隠蔽しようとした。 これで、瞞されたり、宥められたりした者はいなかったに相違ない。レーニンにとっては、ジノヴィエフとカーメネフによって公表されたこの声明は、彼らが犯した最も悪質な犯罪であった。彼は激怒して、直ちに答えた。
10.19日、彼は二人の反対派を中央委員会に告発した。佐久間元・氏の「革命の挫折」は次のように見立てている。
そして彼らを追放する際の気まずさを見越して、こうかいた。
これは、正真正銘、レーニンの言葉である。ボルシェヴィキは革命の主力となる赤衛軍を増強し10.20日までに2万人以上とすることとし、その訓練・武器の製造・食糧の準備も整えた。 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」は次のように記している。
10.20日、レーニンとジノヴィエフを除く中央委員が、規律違犯の処理のため集合した。カーメネフとジノヴィエフを処罰すべしと要求するレーニンの手紙を、スヴェルドロフが読みあげた。トロッキーは、彼の親友アドルフ・ヨッフェ(メジュライオンツィ出身、当時は中央委員候補)の支持をうけつつ、最も活発な弾劾を行なったが、カーメネフの中央委員辞任を受理することで満足して、犯罪者たちを党から追放せよという、レーニンの要求に賛成するには至らなかった。スヴェルドロフとジェルジンスキーの意見も同じ調子であつた。反対の立場を擁護したのはスターリン、ミリューチン、およびウリツキーで、彼らは問題を弥縫しようとして、中央委員全員の会合が可能となるまで、棚上げとするよう提案した。「党からの除名は得策でない――われわれは統一を保持せねばならない」、とスターリンは言った。彼はやがてこの立場から遠く離れるはずである。 ボリシェヴィキ指導者たちは、その後、権力奪取に全力をあげた。レーニンは、成功は蜂起の技術にかかっているという(マルクス主義者に余りふさわしくない)主張を繰り返した。結局のところは軍事行動が決定するであろう。「ロシア革命と世界革命の成功は、二、三日の闘争にかかっている」。トロツキーと軍事革命委員会は10.23日までには計画を完成していた。 |
【ペトログラード守備隊のボリシェヴィキ支持化・中立化工作】 |
長尾久・氏の「ロシア十月革命」を引用(P.230〜231)する。 10.23日、ペテロパウロ要塞が、軍事革命委コミサール・ブラゴンラーヴォフの就任を拒否した。都心を制する位置にある要塞は、武器庫をも持っており、その動向は重要だった。軍事革命委は慎重に対策を検討した結果、トロツキーとラシェーヴィチを要塞に送って説得することを決定した。同昼、二人は要塞内集会で演説し、守備隊の支持を獲得した。一発も射たずして要塞は革命側に獲得された。この頃までに、騎兵第九連隊もペトログラート・ソヴェート支持に変った。また軍事革命委は、印刷工組合と協力して、反革命的内容のものは印刷されないよう措置をとった。 |
【蜂起前最後の党中央委員会】 |
10.24日、党中央委員会が開かれ(なぜかスターリンが欠席していた)、蜂起のための最後の具体的打合せを行った。党は既に行動の準備ができていた。カーメネフは、叛乱に参加し、第2回ソヴィエト大会に出席するために、恥ずかしそうに立ち戻った。この日、臨時政府とソビエトの決戦が始まった。 |
【ケレンスキー政府の動き】 |
長尾久・氏の「ロシア十月革命」(P.231)を参照する。 この頃、ケレンスキーは憲法制定議会(二月革命時に約束されたもの)の11月選挙実施を決めるなど、臨時政府の建て直しに躍起となっていた。 10.23日、陸相ヴェルホフスキーが「賜暇」をとるという形で、事実上辞任した。辞任理由は、彼が、即時講和締結が必要だということを二〇日の予備議会小委員会で独断的に述べたことだった。一方で軍事革命委が首都をしだいに掌握しつつある時、臨時政府は内部から瓦解し始めたのである。そして政府を瓦解させ始めたのは、またしても平和の問題だった。 |
【単独武装蜂起開始される】 | ||||
トロツキーは、ケレンスキーが攻撃をしかけてくるのを待っていた。革命軍事委員会は直ちに次の決定を下した。1・革命的諸新聞紙の印刷所を再開すべし。2・発刊を継続するため編集者及び記者達を招集すべし。3・反革命の攻撃に対し、革命的印刷所を防衛する光栄ある義務は、これをリトウスキ連帯及び第6工兵予備大隊の勇敢なる兵士に与う。
これによれは、この時点で依然としてポルシェヴィキ内に於いて待機主義の傾向があったことが判明する。「レーニンは午前十一時以来、激怒に身をまかせていた。冬宮の占領が遅れていたからだ」と記述されている。 宮地健一氏の「1917年10月、レーニンがしたこと」は、次のように記している。
革命後亡命し、アメリカで著作活動をしていたケレンスキーは、1965年に発表した回想録のなかで淡々と書いている。
ケレンスキー政府が鎮圧に乗り出した翌日の10.25日(西暦11.6日)、ボリシェヴィキによる首都ペトログラートの武装蜂起は、この日に開かれることになっていた第二回全ロシア労働者・兵士ソヴェト大会の直前(同日午前二時頃)に開始された。10.24日未明、トロツキーはただちに反撃を指令した。ボルシェヴィキは直ちに中央委員会を開き行動を開始した。トロツキー率いる軍事革命委員会はただちに行動を開始、発行所を奪回した。蜂起した赤衛隊や兵士は強力な抵抗をうけることなしに、市内の重要な拠点を占領していった。同朝までに、蜂起部隊は、計画どおり駅・橋・発電所・兵器庫・電信局・国立銀行などを占領していた。中心の官庁街をのぞく首都全域が軍事革命委員会の支配下にはいった。トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。 同午前10時、ペトログラード・ソビエト総会において、トロツキー率いる軍事革命委員会は、声明文「ロシア市民へ」を発表し、概要「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラート=ソヴェトの機関である軍事革命委員会に移った」と宣言した。そして夕方から官庁街への攻撃をはじめ、冬宮をのぞいて、すべての建物を占領した。ボリシェヴィキは事前に首都にいた部隊の大部分を味方につけていたため、ほぼ無血で市内要所を占領した。25日朝までに市内の主要建物はことごとく赤衛軍に占領された。 トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。
銃で武装した労働者が兵士と並んで街の焚き火に当るという光景が現出した。 |
【「ロシア革命に於けるユダヤ人グループの動き」】 | ||
トロツキーの「我が生涯2」は、「ロシア革命に於けるユダヤ人グループの動き」に関連して、僅かこの箇所限りであるが次のように記述している。
ラビ・М・トケイヤーの「ユダヤ製国家日本」には次のように記されている。
この部隊が相応の働きをしたことが考えられる。 |
【冬宮無血開城】 | |||||
午前11時、ケレンスキーは援軍を求めようとして冬宮の周りの非常線を突破して脱出した。首都の外にいる軍隊を結集しようとした。臨時政府の他の閣僚は籠城した。 政府は大本営に救援部隊の急派を命じたが部隊は到着しなかった。ニコラ・ヴェルトは、「ロシア革命」(創元社、原著1997年、P.124)の中で、ソ連崩壊後に発掘されたアルヒーフ(公文書)に基づき、冬宮襲撃経過を次のように記している。
首都の各部隊もボルシェヴィキ側に投じた。ペトロパウロフスク要塞の守備隊がボルシェヴィキ側に投じ武器を提供したことは赤衛軍を強化した。この日のうちに中央電信局、都心と労働者街をつなぐネヴァ川の橋梁の九分通りまで赤衛軍の手に落ち市内の要所要所にその歩哨が立った。夜半、レーニンは党本部のあるスモールヌィイ女学校に入り本格的な軍事行動をとった。 午後2時35分、学院の大ホール(スモーリヌイ)で、ペトログラード・ソヴィエトの緊急集会が開かれた。トロツキーが次のように演説した。
ペトログラード・ソヴィエトの拍手を受けながら、トロツキーは社会主義的政権が権力を握りつつあると説明を続けた。最後に、ほかならぬレーニンの演説があると声明した。拍手は数分間続いた。拍手が静まると、レーニンは意気高らかに次のように演説した。
この時点では、現実には臨時政府はまだ存続していたし、ペトログラードの闘争はまさに始まったばかりであった。しかし、レーニンは、闘いの帰趨を見越していた。ペトログラード・ソヴィエトは、社会主義を目指す権力奪取のための決定的闘争にすでにほとんど勝利したと確信していた。 レーニンは、中央委員会に対して「彼らを理解できない。何を恐れているのか」と叱咤した。夕刻、中央委員に次のような手紙を書いている。
冬宮は、午後6時半頃までに完全に包囲された。宮殿内の一室(現在エルミタージュ博物館の一室として公開されている)では閣議が開かれていたが、守兵わずか2700人程度で(しかもそのなかからつぎつぎに脱落者がでて、最後には1000人位になった)、到底、反撃の力はなかった。 予定されていた第二回ソヴェト大会の開会の時間もせまった。10.25日夜9.40分、ボリシェヴィキ党員からなる労働者武装部隊である赤衛軍が冬宮包囲網を縮め午後9時、冬宮総攻撃を開始した。アヴローラが冬宮にむけて警告射撃を行なった。午後11時に、ペテロパウロ要塞から砲撃がなされ、包囲軍が少しずつ宮殿内にはいりはじめた。宮殿内で小競合いがつづいたが、5時間の戦闘の後、26日午前2時、革命軍は冬宮を完全に制圧し、残っていた臨時政府の閣僚全員を逮捕した。彼らは、ベトロバブロフスタ要塞へ連行された。 赤衛隊の犠牲者は9人といわれるが、大半は事故によるものであった。かくて、冬宮を占拠し、首都ペトログラードにおける革命は、大きな流血を見ることなく成功した。遂に、武装した労働者と叛乱した農民兵士によって、歴史の年代記に【10.25日 十月革命――ボリシェヴィキによる臨時政府の打倒】と刻みこまれた。 |
【「臨時労農政府」樹立される】 | ||||||||||
10.25日午後10時35分、冬宮攻撃の銃声がまだ鳴り響く中、予定通り第2回全国労兵ソビエト大会が開かれた。ソヴィエト中央執行委員会を代表してフョードル・ダンが会場のベルを鳴らし、議事を開始することになった。この大会は、全国のソヴィヱトを代表するものとはいえなかった。労働者が住む大都市のソヴィエトや兵士委員会の代表者は大勢いたのに、農村のソヴィエトの代表者はあまりにも少なかった。第2回ソヴィエト大会の代議員構成は、レーニン・トロツキーらの策略によって、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会の強烈な反対を押し切って、かなりの代議員が、圧倒的なボリシェヴィキ支持である「北部地方委員会」ソヴィエトの代議員にすり替えられていた。
トロツキーは次のように批判した。
正確かどうか分からないが、マルトフの「全民主主義者によって承認される政権の創造」が万場一致で採決された(とのことである)。
会議は再開され、臨時政府の打倒を告げ、国家権力が革命委員会の手に移ったことを布告した。次に、蜂起の評価を軸に、ボリシェヴィキと他の党派との問に激しい応酬を繰り返しながら進行した。
エスエル右派とメンシェヴィキが「ソヴィヱトに隠れて軍事的陰謀を企てた」と非難し、ボリシェヴィキの権力奪取に抗議して退席した。レーニンの思惑通りに、エスエル、メンシェヴィキが退場した。大会に残ったのは、ボリシェヴィキ代議員390人と、ボリシェヴィキ支持の左翼エスエル代議員だけになった。 ボリシェヴィキとエス・エル左派の独壇場となった会議は、翌26日未明、革命を承認(権力掌握宣言)し、臨時政府の打倒とソビエト権力の樹立を宣言した。同時にソヴィエト政府すなわち人民委員会議の創設が定められた。議長レーニン、外務トロツキー、内務ルイコフ、教育ルナチャルスキー、民族スターリンがそのメンバーであった。
この間の闘争を表舞台で指導したのはぺトログラード・ソビエト議長・トロツキーであった。レーニンは潜行中の身として地下から指導した。
この流れが10月革命を呼び込んだことになるという観点が必要と思われる。 |
【「人民委員会議委員」】 | |
大会は、レーニンを議長とする「人民委員会議」という名の「臨時労農政府」を樹立した。「憲法制定議会が召集されるまで」 の「臨時労農政府」であることを確認し、制憲議会の選挙日を旧臨時政府が指定した期日通り11.12日にすることを申し合わせ、27日午前5時15分、大会は終了した。 そのメンバーはボルシェビキ派からなり、外務人民委員トロツキー以下、内務ルイコフ、民族スターリンなどの陣容だった。遂にソヴィエト政府が樹立され、レーニンは人民委員会議議長となり、ボリシェヴィキが権力の座についた。 次のような評も為されている。
これをどう評するか、視座が必要であるが、銘記しておくべきであろう。 10月革命以降ユダヤ人の占有は政治のみならず軍事、法律、マスコミ等々あらゆる分野に及んだ。これを眺めれば、あれはロシア革命というよりもロシアに於けるユダヤ革命だったのではなかろうか。但し、真に考察せねばならないことは、この時のユダヤ人のうち今日のネオ・シオニズムに繋がる系譜であろう。ユダヤ人であるが故に批判されるべきではなかろう。問題はあくまで、革命を利用したネオ・シオニスト・ユダヤであろう。この辺りの考察が為されていないように思われる。 |
【「士官学校生徒らの抵抗」】 |
10.27日、モスクワでも士官学校生徒を主力とする義勇軍がクレムリンにより反乱したが11.2日、鎮圧された。ボルシェヴィキは首都とモスクワを支配下に治め,全国各地でも地方ソヴィエトを通じて支配権を握った。 |
【「平和声明」】 |
11.7日、トロツキーがラジオを通じて、連合国及び中央ヨーロッパ諸国に対し、全面的平和勧告を行った。連合国政府は、出先機関を通じて、ロシア軍総司令官・ドゥホーニン大将に対して、今後単独講和に向って進むなら「甚だ重大なる結果をもたらすであろう」と通告してきた。革命政府は、「我々はブルジョアジーを転覆した以上、外国のブルジョアジーの指揮の下に、我々の軍隊の血を流す必要は全くない」とアッピールし返した。 11.22日、革命政府は、バルチック海から黒海にわたる全戦線にそって休戦する協定に調印した。更に、連合国に対し、「我々と共に平和会議に参加するよう」要請した。 12.25日、革命政府と四国同盟諸政府間で、革命政府の「民主的講和の基本的原則」即ち「無併合、無賠償、民族自決の原則」に基づく合意が為された。 |
【「ケレンスキーの抵抗」】 |
11.11日、首都を脱出し北部軍司令部に到着したケレンスキーはクラスノフに率いられた700騎のコサックと一緒にペトログラードに反攻にでた。そしてツァールスコエ・セロまで迫った。しかし一度は増援軍を送る手はずだった北部軍司令官チェレミソフはボルシェビキと意を通じ、またクラスノフの裏切りにもあい、十分な兵力が集まらず壊滅した。ケレンスキーは水兵の格好をして捕縛寸前に逃れ、翌年亡命することになる。。 ケレンスキーのその後の様子は次の通りである。付近の農家にかくまわれイギリスのジャーナリスト、ロックハートの助けでついに国外逃亡に成功する。臨時政府はよくもわるくもケレンスキーの政府だった。どこか演説だけ巧みな現実感の乏しい才子だった。しかしケレンスキーは政敵を殺害することは注意深く避けた。臨時政府が倒されると共産政府につきもののあたり構わない殺戮が開始された。 |
【「レーニンとドイツ政府の関係裏秘史」】 | |||
11月、革命臨時政府は、ドイツとの単独講和交渉を開始した。
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トロツキーが、「平和綱領」(1916年の連載論文を大幅改訂したもの)、「この殺戮はいつ終わるのか」、「次は何か――総括と展望」(2月革命以降の革命過程を跡づけ、永続革命の戦略を展開)を出版する。
(私論.私見)