「ロシア十月革命」蜂起の様子と経過

 (最新見直し2006.2.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ボリシェヴィキとは縁遠いが、公明正大な愛国者であったアカデミー会員・B・Hシグナーチェフ氏は、ロシア10月革命について次のように述べている。
 「1917年10月にレーニンとトロツキーにより政権がプロレタリアートの手に移されたことにより、ロシアが無政府状態に陥ることが防がれたし、又知識階級と物的資源も温存されたのであり、結果的にロシアが救われたという事実は冷静に認めなくてはならない。ボリシェヴィキは世界革命を夢見つつ、現実的にはロシアそのものを救い、経済的にも文化的にも甦らせたのである。レーニンは真に歴史の偉大なる改革者であったし、これからもそうした人物として名を留めるであろう」。


【レーニンが再度帰還する】

 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」は次のように記している。

 「9.15日〜10.7日、この約20日間、レーニンは、単独権力奪取と『蜂起の技術』を考えに考え抜いた。誰とも、どの組織とも接触がない環境に閉じ込められ、彼は、そのテーマに全思考を集中した。単独武装蜂起に関するあらゆるケースを想定し、吟味した。それには、3つの選択肢があった。彼は、3つのシミュレーション(模擬実験)をたった一人で、頭の中で繰り返した」。

 10.7日、ケレンスキー政権は、予備議会を召集した。7月事件以後フィンランドに亡命していたレーニンはこの日密かにペトログラードに帰った。ボリシェヴィキに幸いしたこれらの決定的な転換を見たレーニンは好機とみて舞い戻り、ソヴィエトにおける多数党の革命的指導権の掌握を目指し、再度武装蜂起による臨時政府打倒を主張した。次のように述べている。

 概要「今やロシア革命において、非常に急激な、また非常に独自な方向転換があらわれてきたため、われわれは党として、自ら進んで妥協を提起することができる。妥協は、われわれの側からすれば、『“すべての権力をソヴィエトヘ”という七月以前の要求、ソヴィエトに対して責任をもつ社会革命党とメンシェヴィキの政府をつくれ』という要求に帰ることである。この政府が全ロシア革命の平和的な前進と、平和と社会主義の勝利のための国際的な運動の前進に対する、きわめて大きなチャンスを保証することは、きわめて確実だといってよい。ただ、革命のこの平和的な発展のためにだけボリシェヴィキは革命的な方法をもって闘うのをやめる。われわれは実際の民主主義のもとでは、なにも恐れるものがない」。

 これは、レーニンの「革命的妥協政策」と評することが出来る。レーニンは、論文「妥協について」を公表する前に、あとがきを付け加えて、「この考えはもはや『時期を失した』」と断じた。そして彼はふたたび、平和的進展という幻想に対してボリシェヴィキに警告しはじめた。レーニンの念頭にあったのは一貫して「全権力をソヴィエトヘ」というスロ−ガンであった。ソヴィエトは、今やボリシェヴィキ・ソヴィエトであった。あるいはやがてそうなるはずであった。


【10月革命蜂起前の喧々諤々】

 レーニンの脅かしは効果があった。中央委員会のより大胆なグループが、レーニンの刺激と公然たる弾薬供給とを同時にうけて、勝利を収めた。

 10.3日、中央委員会は、モスクワ組織の急進派を代表するG・I・ロモフが即時蜂起を主張するのを聞いた。委員会は、ペトログラードに潜入して、権力奪取に関する最後的決定を行なうために委員会と会合するよう、レーニンに要請することを決議した。この措置につづいて、予備議会問題が再検討された。

 トロツキーは、予備議会のために集合したボリシェヴィキ代表団を前に演説して、「会議の第一日目に退場を演出すべきだ」と主張した。カーメネフとリヤザノフがこれに反対して、「ボリシェヴィキ・フラクションは会議を去る前に筋の通った弁明の機会を待つべきだ」、と示唆した。この度は、投票はトロツキーの勝利に帰した。カーメネフは、中央委員会への宣言の中で、退場決定に抗議した。その中で彼は、彼が公けに党を代表していたあらゆる地位から除かれることを要求した。

 予備議会が10.7日に開かれたとき、ボリシェヴィキは、計画どおりに、公然たる反抗の挙に出た。トロツキーが起ちあがって、政府に対する事実上の宣戦布告を行なった。

 概要「この人民を裏切っている政府とは、そしてまた、この反革命を黙認している会議とは、われわれはいかなる共通点ももたない。われわれはこの余命いくばくもない会議を脱退して、全ロシアの労働者、兵士、農民に向って勇気と警戒心を持てと呼びかける。ペトログラードは危機に瀕している! 革命は危機に瀕している! 人民は危機に瀕している! われわれは人民に訴える! 全権力をソヴィエトへ!」。

 ボリシェヴィキは、蜂起の仕事に取りかかり、蜂起の準備に大童わとなった。

 今や事態は急速に変化していったので、レーニンは党と足並みを揃えてはいられなかった。10.3日から7日の間に、彼はこう書いていた。

 概要「ボリシェヴィキはソヴィエト大会を待つ権利をもたない。即座に権力を握らねばならぬ。ソヴィエト大会を待つことは、児戯に等しい形式主義であり革命に対する裏切りである」。

 10.8日、レーニンは、10.10日の中央委員会出席を前にして、2通の手紙内容をさらに具体化した『蜂起の技術』の手紙を書いた。中央委員会が、ボリシェヴィキの単独武装蜂起を了承すれば、その手紙内容が、技術指令になるものだった。(この時の手紙は、宮地氏の「レーニン『蜂起の技術』10月8日手紙」にサイトアップされている。


【トロツキーを長とする軍事革命委員会が設置される】
 10.9日、ボリシェヴィキの支配するべトログラード・ソヴィエトは、トロツキーを長とする軍事革命委員会を設置した。当初はペトログラード守備隊の軍事的支配権を臨時政府の手から奪い取ることを目的にしたこの機関が、蜂起の実際的指導部となった。

 ペトログラード軍事革命委員会の設置を最初に提案したのは、皮肉なことにメンシェヴィキだった。10.9日のペトログラード・ソヴェート執行委において、メンシェヴィキは、首都防衛計画作成のために「革命防衛委員会」を設置することを提案した。この提案は13対12で可決された。この提案には、守備軍の前線への移動を準備することも含まれていた。

 同じ日のペトログラード・ソヴエート総会で、委員会の任務に、1・反革命防止を加えること。2・守備軍の移動に反対することが決議された。この修正と逆転は、ボリシェヴィキの提案によってなされた。こうして、当初、祖国防衛主義の見地から設置されようとした「革命防衛委」は、内外の反革命に対して革命のペトログラードを防衛するための機関に転化することになった。


 1918年の第1回十月革命記念日に於いて、スターリンは、次のように記している。(トロツキー「我が生涯2」)
 「蜂起を実際に組織する仕事は全て、ペトログラード・ソビエト議長トロツキーの直接の指導下に行われた。守備部隊とソビエトの急速な結合と、革命軍事委員会の巧妙な組織化とについて、党は、誰よりも、とりわけてトロツキーの力に負っている、と云える」。

 しかし、スターリン独裁体制確立後は、次のように評されることになる。
 「同志トロツキーは、党内でも、又十月革命でも、何ら抜きん出た役割を演じなかったし、演ずることもできなかった」。

【10月革命蜂起前の喧々諤々】

 10.10日、賽は投げられた。党中央委員会が開かれた。7月事件後一度も中央委員会会議に出席していなかったレーニンが変装してペトログラードに現われ中央委員会と顔をつき合わせた。21人中12名の中央委員が参加した。スヴエルドロフが当面の事態の総括を終えると、それまで多数の手紙によって蜂起の圧力をかけ続けていたレーニンがまる一時間にわたって蜂起を論じ、10.20日蜂起の決議を提案した。

 「ロシア革命の国際的情勢ならびに軍事的情勢、農民蜂起とならんでプロレタリア諸党がソヴィエトにおいて多数派を占めたという事実、人民の信頼のわが党への移行(モスクワにおける選挙)、そして最後に、第二のコルニロフ事件の公然たる準備は蜂起を日程にのぼせているということを、中央委員会は認める」。

 しかし、中央委員会は「蜂起の問題には一種の無関心」を示した。しかしレーニンは、中央委員会を説き伏せた。動議は賛成10票対反対2票で採択された。ジノヴィエフとカーメネフは、「革命的合法主義」の立場から「第二回ソビエト大会の前にはいかなる企ても行なうべきではない」と主張し、蜂起反対であった。賛成は、レーニン、トロツキー、スベェルドロフ、ウリッキー、ジェルジンスキー、コロンタイ、ブブノフ、ソコルニコフ、ロモフ。トロツキーは、20日蜂起に反対、25日の第2回大会に合わせるべきと主張した。かくて10.10日 ボリシェヴィキ中央委は、「武装闘争が不可欠となり、完全に機が熟したことを認める」決議を採択した。武装蜂起とそれを実行すべき軍事革命委員会の組織を決定した。蜂起日は決まらなかった。

 ジノヴィエフとカーメネフは、かってのレーニンと同様に、自分たちがおろかなことを考えた中央委員会多数派の決定の前に頭をさげる用意など、ありはしなかった。10.11日、彼らは中央委員会の蜂起の決定に抗議する旨を記した一通の手紙を作成し、連名で党内の主要な委員会に配布した。その中で彼らは、蜂起の計画に反対する理由を述べた。

 「我々が深く確信しているところでは、現在武装蜂起を主張することは、わが党の運命のみならず、ロシアおよび国際革命の運命を、一枚のカードに賭けることを意味する。大衆の世論は、間もなくメンシェヴィキと社会革命党に圧力を加え、ボルシェヴィキも含めた連立政権樹立に向かわせるだろう。我々は、労働者はボルシェヴィキによる暴力的な権力収奪を支持するだろうという意見に反対である。レーニンがヨーロッパ社会主義革命は間近だと信じているのは、経験的には実証できないことだ」云々。
 「被抑圧階級が、戦わずして諦めるよりも、前進して敗れる方がよいと判断せねばならない歴史的情勢があることは疑いもない。労働者階級は、現在こうした状況にあるか? 否、千度も否!」。
 「平和的な政策が、未来の大衆的支持を獲得するであろうし、また党は、社会革命党左翼との同盟の中で、憲法制定会議における支配的地位を勝ちとることができるであろう。蜂起と革命戦争の道は、軍事約破滅の前兆となるにすぎない」。
 概要「兵士大衆が我々を支持するのは、戦争のスローガンのおかげではなくて、平和のスローガンのおかげである。もし我々が革命戦争を遂行するならば、兵士大衆は我々の許から走り去るであろう」。
 概要「権力を握るや、労働者の党は、そのことによってヴィルヘルムに一撃を加えること疑いない。しかしこの打撃は、すでにリガその他が陥落した現在の条件下にあっても、ドイツ帝国主義の手をロシアから払いのけるのに十分強力であろうか?」。

 ジノヴィエフとカーメネフは、こうした希望は殆ど根拠がないと考えた。同様にまた彼らは、他の人々の仮定を真に受けなかった。

 「国際プロレタリアートの多数派がすでにわれわれと共にある、といわれる。不幸なことに、そうではないのだ」。

 他方で彼らは、時きたれば行動に出ることを恐れるものではない、と告白した。

 「ヨーロッパにおける革命の発展は、躊躇することなく、即座に権力をわれわれ自身の手に握ることを、われわれに義務づけるであろう。これはまた、ロシアにおけるプロレタリアートの蜂起を勝利に導く唯一の保証である。その時はくるであろう、しかしまだきていない」。

 この経過について、時期ははっきりしないが「ジノビエフは反対の見解を新聞に発表した。そしてレーニンはそれをまた新聞で反論した。「不思議なことに武装蜂起の時期を新聞で論争し始めた」とある。


【各ソヴェートに軍事革命委員会が設置される】

 長尾久・氏の「ロシア十月革命」(亜紀書房、1972年、P.217より抜粋)は次のように記している。

 10.11〜13日、北部地方労兵ソヴェート大会がおこなわれた。ペトログラート、クロンシタット、ヴイボルク、ゲリシンクフォルス、レーヴェリ、ナルヴァ、ノーヴゴロト、ユリエフ、ヴォリマル、アルハンゲリスク、モスクワなどのソヴェートから代表が集った。ペトログラート労働者約四〇万(そのうち赤衛隊員約一万)、ペトログラート守備軍十数万、バルト海艦隊約六万、第四二軍団約五万を含む巨大な力が、この大会に代表された。大会代議員の党派別構成は、ボリシェヴィキ五一、左翼エスエル二四、メンシェヴィキ国際派一、エスエル一〇、メンシェヴィキ祖国防衛派四だった。大会議長はクルイレンコ、主要報告者は、トロツキー、ラシェーヴィチ、アントーノフ=オフセーエンコであり、大会は全面的にボリシェヴィキ指導下にあった。大会は、「革命の軍事的防衛を組織するために軍事革命委員会を設置すること」を各ソヴェートに提案した。

 10.16日、ソヴェート総会で、軍事革命委員会の設置が最終決定された。穏健派(エスエル、メンシェヴィキ、メンシェヴィキ国際派)はこの時反対した。最終決定ではまず、名前が「軍事革命委員会」と改められた。また当初のメンシェヴィキ案では、ソヴェート執行委、兵士部会幹部会、守備軍代表から構成されることになっていたが、全国艦隊中央委、フィンランド地方ソヴェート委、鉄道労組、郵便電信労組、工場委、労働組合、ソヴェート参加諸党軍事組織、「人民軍社会主義者同盟」、労兵ソヴェート中執委軍事部、労働者民警の各代表を加えることとされ、その構成は大幅に拡大された。なおペトログラード・ソヴェートの代表としては、執行委ではなくて幹部会が構成メンバーとされた。

 軍事革命委は、あくまで内外の反革命からの首都防衛をたてまえとしていた。しかし16日のソヴェート総会で、トロツキーは、軍事革命委についての討論の際、「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説した。こうして、軍事革命委が「権力奪取のための司令部」であることは、革命派によって公然と認められたのである。


【蜂起直前の動き】

 10.16日、軍事組織、工場委も参加する25名のボルシェビキ派の党中央委員会拡大会議が開かれた。レーニンは、この日再度ペトログラードに潜入して、叛乱の準備を進めるために、中央委員会および選ばれた地方党指導者たちと会合した。レーニンは、20日蜂起を主張したが、第2回大会前の10.24蜂起をやむなく受け入れた。トロツキーは、25日の第2回大会日での蜂起を主張していたが、大会1日前の24日蜂起説に変更していた。議論は、以前よりも一層激烈を極めた。ジノヴィエフとカーメネフは基本的に蜂起反対で、「憲法制定会議選挙による立憲民主政体への移行とソヴィエト連立政権との共同」戦略にシフトしていた。よって、憲法制定会議の選挙を待つという慎重策を擁護した。

 カーメネフは、次のような「歴史の非個人的諸力に対するマルクス主義的訴え」を行なった。

 概要「問題は、今でなければ駄目だ、というようなものではない。わたしはロシア革命にもっと信頼をもっている。二つの戦術が闘争しつつある――陰謀の戦術と、ロシア革命の推進力を信頼する戦術とが」。

 中央委員会における10.16日の論争の終りに、「臨時政府の打倒とソビエトによる全権力の掌握をめざし、叛乱と武装蜂起の準備をする」というレーニンの決議案に対する投票が行なわれた。10.10日と同様に、効果のあがらない反対を乗り越えて、決定がなされた。投票の結果は、賛成19、反対2(ふたたびジノヴィエフとカーメネフ)、棄権4であった。「武装蜂起の準備を全面的に、全力をあげて行う」決議を採択した。申し合わせで、武装蜂起の日を10.25日の第2回ソヴィエト大会直前と定めた。

 「軍事革命センター」を6名人で設置し、蜂起の時期と方法の選択は、党中央委員会とペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会に委任した。次の課題は、レーニンが強調した「蜂起の技術」に従い具体的な戦術が決められた。未だ細部は公表されていない。恐らく、1・7月事件の教訓からデモ・ストライキによらない数千人のボリシェヴィキ部隊での冬宮占拠、戦略拠点占拠、2・他党派にはその秘密計画を知らせず、、ボリシェヴィキ支持のクロンシュタット水兵の一部・ペトログラード守備隊兵士の一部、ボリシェヴィキ党員からなる労働者赤衛隊からなる単独武装蜂起の要領が打ち合わされたと推定される。


 しかしながら、委員会の若干のメンバーは、レーニンに敢えて反対はしないものの、反対動議にも同時に賛成投票する用意があった。ジノヴィエフが、「ソビエト大会のボリシェヴィキ・フラクションとの会議を開く前には、如何なる行動も許されない」という、つまり「ソヴィエト大会が開かれる段になってそのボリシェヴィキ代議員団にも諮ることが可能となる時まで、蜂起の準備を延期するよう要求する」反対決議を提出したところ、彼は反対15票、棄権3票に対して、6票の賛成票を集めていることが注目される。カーメネフは――9.28日のレーニンの前例にならって――抗議のため中央委員会から辞職した。

 この時トロツキーは、この会議には出席しておらず、蜂起の準備に取り掛かっていた。後にスターリンは、「十月革命期の我が国にとって比較的新顔であったトロッキーは、党内でも、又十月蜂起でも、何も特別の役割を果たさなかったし、又果たすことが出来なかった」(「スターリン全集第六巻」)と記し、「ソ党史」の記述に影響を与えることになったが、これは歴史の偽造の罪に値する。

 同日のペトログラード・ソビエト総会は、軍事革命委員会を設置し、トロツキーがその議長に就任した。ひきつづき各地のソビエトにおいても同様の機関が設置され、革命への態勢が整えられていった。臨時政府は、革命派の指導者の逮捕を命令したが、もはや弾圧は不可能であった。

 党中央委員会とトロッキーのペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会との連絡にあたるべきいわゆる軍事センターを中央委員会が創設したのは、この会議においてであった。この新しい機関に任命されたのは、スターリン、スヴェルドロフ、ブブノフ、ウリツキー、およびジェルジンスキーであった。このセンターは独立のグループとして活動したことはなかったのであるが、その設置を決定したことは、その後公認の歴史において主張された、スターリンこそ叛乱の衝にあたった人物であるという伝説を支える典拠となったのであった。

 レーニンは隠れ家に戻って、反対派への長文の返事を書き綴った。自身の以前の留保条件を放棄した彼は、問題の論議さえ許さずと断ずることによって、党に対する多数者の支持に関するあらゆる躊躇を一掃してしまった。

 「人民の大多数がボリシェヴィキに従っており、これからも従うであろうということを疑うのは、恥しらずに動揺することを意味し、実際に、プロレタリア革命の事業のすべての原則をなげすて、ボリシェヴィズムを全く放棄することを意味する」。

 延引は、彼がたえず主張してきたように、許しがたいものであった。

 「大衆の気分について論じながら、自分個人の無性格を大衆のせいにする人々の立場は、何とも救いようのないものである」。

 誰々と名指してはいないが明らかにジノヴィエフとカーメネフに狙いをつけたレーニンの手紙は、党機関紙『ラボーチィ・プーチ』(労働者の道)に、10.19、20、21日とつづけて公表された。10.20日号にのせた反論の中で、ジノヴィエフは、自分の見解はレーニンがきめつけたほど悲観論的なものでは決してない、と抗弁した。これらの声明には、編集者スターリンによって、びっくりするほど調停的な註釈がつけ加えられた。

 概要「われわれは、同志ジノヴィエフの声明をもって問題は決着がついたと考えることができるという希望を表明する。同志レーニンの論文の激しい調子は、われわれが根本的には意見を同じくしているという事実を変化させるものではない」。

 この間、10.11日のジノヴィエフ――カーメネフ声明が、党外に漏洩していた。10.17日、ゴーリキーの『ノーヴァヤ・ジーズニ』が、「二名の指導的ボリシェヴィキの名において行動に反対する内容の、手でかかれたビラが市内で配布された」というメンシェヴィキ国際主義者(以前には右翼ボルシェヴィキ)バザロフの報告を発表した。カーメネフは、ジノヴィエフと彼自身の名において、「蜂起は絶望的な賭けとなろう」という彼らの見解を反覆した論評を、『ノーヴァヤ・ジーズニ』に送って、これに応じた。彼らは、ボリシェヴィキが蜂起の期日をすでに設定したことを否定して、中央委員会が彼らの反対を押し切って実際に叛乱に関する決定を下したという事実を隠蔽しようとした。

 これで、瞞されたり、宥められたりした者はいなかったに相違ない。レーニンにとっては、ジノヴィエフとカーメネフによって公表されたこの声明は、彼らが犯した最も悪質な犯罪であった。彼は激怒して、直ちに答えた。

 概要「10.20日という決定的な日の前夜に、最も重要な闘争問題について、二人の『重要な地位にあるボリシェヴィキ』が、党外の出版物で党中央の公表されていない決定に対して攻撃をくわえたのである。私は、彼ら二人をもう同志とはみなさず、全力をあげて、彼ら二人を党から除名するために闘うであろう」。

 10.19日、彼は二人の反対派を中央委員会に告発した。佐久間元・氏の「革命の挫折」は次のように見立てている。

 「レーニンは、これを裏切りと断じ、二人の除名を要求した」。

 そして彼らを追放する際の気まずさを見越して、こうかいた。

 「ストライキ破りどもが『重要』人物であればあるだけ、ますます除名によって彼らをすぐさま罰しなければならないのである。こうやってのみはじめて労働者党は健康となり、一ダースほどの無性格なインテリから清められ、革命家の隊列をかため、ありとあらゆる困難に向って革命的労働者とともにすすむことができるのである」。

 これは、正真正銘、レーニンの言葉である。ボルシェヴィキは革命の主力となる赤衛軍を増強し10.20日までに2万人以上とすることとし、その訓練・武器の製造・食糧の準備も整えた。

 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」は次のように記している。

 蜂起反対派のカーメネフ・ジノヴィエフが、武装蜂起計画の存在を党内外に漏らした。レーニンは激怒して、2人に「反革命だ、除名だ!」と叫んだ。よって、ボリシェヴィキのクーデター計画は「公然の秘密」となった。しかし、それはマイナス・プラス両面の情勢を産み出した。マイナス面は、クーデター計画を知ったケレンスキー臨時政府が、ボリシェヴィキ攻撃を先に開始する危険が高まった。一方、クーデター遂行の最高責任・具体的指揮者となったペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーは、それをプラス面に転化できると考えた。ケレンスキーが少しでも攻撃行動を起せば、「後手の先手」として、単独武装蜂起に防衛的性格を持たせ、クーデターを合法化できる。「先に攻撃されたから、防衛的蜂起をしただけ」という言い訳が成り立つからである。よって、トロツキーは、ケレンスキーがボリシェヴィキ攻撃に動き出す瞬間を、今か今かと待ち構えた。

 10.20日、レーニンとジノヴィエフを除く中央委員が、規律違犯の処理のため集合した。カーメネフとジノヴィエフを処罰すべしと要求するレーニンの手紙を、スヴェルドロフが読みあげた。トロッキーは、彼の親友アドルフ・ヨッフェ(メジュライオンツィ出身、当時は中央委員候補)の支持をうけつつ、最も活発な弾劾を行なったが、カーメネフの中央委員辞任を受理することで満足して、犯罪者たちを党から追放せよという、レーニンの要求に賛成するには至らなかった。スヴェルドロフとジェルジンスキーの意見も同じ調子であつた。反対の立場を擁護したのはスターリン、ミリューチン、およびウリツキーで、彼らは問題を弥縫しようとして、中央委員全員の会合が可能となるまで、棚上げとするよう提案した。「党からの除名は得策でない――われわれは統一を保持せねばならない」、とスターリンは言った。彼はやがてこの立場から遠く離れるはずである。

 トロツキーは、怒りの鉾先をスターリンに転じた。スターリンには、カーメネフとジノヴィエフを編集上で擁護したという弱味があった。スターリンと共に『ラボーチィ・プーチ』の編集局にいたソコリニコフは、ジノヴィエフ擁護の論評を批判する側に与した。スターリンは編集局からの辞任を申し出た――彼がその後も一度ならず用いて成功した戦術である――そして辞任の申し出が却下されたことによって暗黙の信任投票を受けた。カーメネフの辞任を受理した投票は、党指導部内の重大な対立をふたたび暴露した。討論中にあらわれた対立どおり、賛成5票、反対3票となったのである。ここに、レーニンの果断な対応、トロッキーの調停的対応、スターリンの右派的対応が如実に現われており興味深いものがある。

 ボリシェヴィキ指導者たちは、その後、権力奪取に全力をあげた。レーニンは、成功は蜂起の技術にかかっているという(マルクス主義者に余りふさわしくない)主張を繰り返した。結局のところは軍事行動が決定するであろう。「ロシア革命と世界革命の成功は、二、三日の闘争にかかっている」。トロツキーと軍事革命委員会は10.23日までには計画を完成していた。

 10.20日夜、ソヴィエト軍事委員会は、首都および近郊の守備隊との連絡・統制のため政治委員を任命し、翌日これを派遣して〈今後一切の軍命令は政治委員の副署を要する〉と布告した。


【ペトログラード守備隊のボリシェヴィキ支持化・中立化工作】

 長尾久・氏の「ロシア十月革命」を引用(P.230〜231)する。

 10.23日、ペテロパウロ要塞が、軍事革命委コミサール・ブラゴンラーヴォフの就任を拒否した。都心を制する位置にある要塞は、武器庫をも持っており、その動向は重要だった。軍事革命委は慎重に対策を検討した結果、トロツキーとラシェーヴィチを要塞に送って説得することを決定した。同昼、二人は要塞内集会で演説し、守備隊の支持を獲得した。一発も射たずして要塞は革命側に獲得された。この頃までに、騎兵第九連隊もペトログラート・ソヴェート支持に変った。また軍事革命委は、印刷工組合と協力して、反革命的内容のものは印刷されないよう措置をとった。

 同夕刻、ペトログラート・ソヴェート総会で軍事革命委の活動について報告したアントーノフ=オフセーエンコは、報告を次のように結んだ。「われわれは、革命的秩序を樹立しつつ、そしてソヴェート権力が反革命を武装解除し、その反抗を押しつぶし、革命勢力の勝利をもたらす瞬間に近づきつつ、前進している」。総会は、「嵐のような、長く続く拍手」でこれに応えた。


【蜂起前最後の党中央委員会】
 10.24日、党中央委員会が開かれ(なぜかスターリンが欠席していた)、蜂起のための最後の具体的打合せを行った。党は既に行動の準備ができていた。カーメネフは、叛乱に参加し、第2回ソヴィエト大会に出席するために、恥ずかしそうに立ち戻った。この日、臨時政府とソビエトの決戦が始まった。

【ケレンスキー政府の動き】
 長尾久・氏の「ロシア十月革命」(P.231)を参照する。

 この頃、ケレンスキーは憲法制定議会(二月革命時に約束されたもの)の11月選挙実施を決めるなど、臨時政府の建て直しに躍起となっていた。

 10.23日、陸相ヴェルホフスキーが「賜暇」をとるという形で、事実上辞任した。辞任理由は、彼が、即時講和締結が必要だということを二〇日の予備議会小委員会で独断的に述べたことだった。一方で軍事革命委が首都をしだいに掌握しつつある時、臨時政府は内部から瓦解し始めたのである。そして政府を瓦解させ始めたのは、またしても平和の問題だった。

 臨時政府は、最後のあがきを始めた。ボリシェヴィキが公然と武装蜂起を論じはじめたのをみて不安にかられた。10.23日夜、すべての士官学校を戦闘態勢に入れ、アヴローラ号に出航を命令し、軍事革命委活動の捜査を命令し、七月闘争関係保釈者で革命派指導者である人物(トロツキー、アントーノフ=オフセーエンコ、ドゥイベンコら)の再逮捕を命令した。

 10.24日、軍管区総司令部は、ペトログラード・ソヴェートのコミサールを廃止し、これらコミッサール全員を軍事裁判にかけること、軍管区総司令部命令なしに兵営から出ることを禁止することを命令した。

 同朝5時半、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じ、蜂起を煽動したという理由でボリシェヴィキの機関紙印刷所を襲撃させた。士官学校生を主力とする部隊ユンケルが、「ラボーチー・プーチ(労働者の道)」と「ソルダート(兵士)」(どちらもボリシェヴィキ党機関紙)の印刷所を襲い、ここを封印し占領した。同昼、政府側が、ネヴァ河にかかる橋を制圧し、これを揚げて、労働者地区と都心との交通を遮断しようとした。


【単独武装蜂起開始される】

 トロツキーは、ケレンスキーが攻撃をしかけてくるのを待っていた。革命軍事委員会は直ちに次の決定を下した。1・革命的諸新聞紙の印刷所を再開すべし。2・発刊を継続するため編集者及び記者達を招集すべし。3・反革命の攻撃に対し、革命的印刷所を防衛する光栄ある義務は、これをリトウスキ連帯及び第6工兵予備大隊の勇敢なる兵士に与う。

 ボリシェビキが招集した兵力は6000あるいは7000人(ほとんど全員パーブロフスキーならびにケヒョールム連隊員からなる兵士2500人、クロンシュタットの水兵2500人、そして推定―あくまでも推定―約2500人の赤衛軍であったとされている。


 この時の、レーニンの貴重な指示が遺されている。宮地健一氏の「1917年10月、レーニンがしたこと」は、「レーニンの手紙にはこうあった」と前置きして掲載している。これを転載する。

 「私はこの手紙を二十四日夕刻に書いている。情勢は極度に危機的である。いま蜂起を遅らせることは死を待つに等しいということは、このうえなく明らかだ。……待っていてはならない! 万事を逸することになるかもしれない! …誰が権力を掌握すべきだろうか? これは当面重要ではない。軍事革命委員会が権力を掌握してもよいし、「あるいは他の機関が」掌握してもよい。

 すべての市区、すべての連隊、すべての勢力をただちに動員し、彼らをしてただちに軍事革命委員会とボリシェビキ中央委員会に向けて代表団を送らせ、いかなる情勢になろうともけっして、断じて権力をケレンスキー一派の手に残しておかないよう、ぜひともきょうの夕刻のうちに事を決するよう、強硬に要求させなければならない。

 革命家がことを遅らせるなら、歴史は彼らを許さないだろう。……きょう権力を掌握するなら、われわれはそれをソヴェートに反対して掌握するのでなく、ソヴェートのために掌握することになる。……十月二十五日の動揺的な表決を待つということは、破滅するか、それとも形式主義か、そのどちらかだろう。人民は、自分の代表たち、自分の最良の代表たちさえ待たずに、彼らに指図をあたえる権利と義務をもっている。

 政府は動揺している。是が非でもそれをたたきのめさなければならない! 行動を遅らせることは死を意味する!」


 これによれは、この時点で依然としてポルシェヴィキ内に於いて待機主義の傾向があったことが判明する。「レーニンは午前十一時以来、激怒に身をまかせていた。冬宮の占領が遅れていたからだ」と記述されている。

 宮地健一氏の「1917年10月、レーニンがしたこと」は、次のように記している。

 スモーリヌイに到着した瞬間から、レーニンはポドボイスキーに、覚え書につぐ覚え書、命令につぐ命令を浴びせかける――わずか二語か三語のものも度たびあった。「中央電話局、電信局は占拠したか?」「鉄道駅と橋の占領は?」。しかし、レーニンの督促にもかかわらず、敏速に接収された目標は一つもなかった――原因は、一部は兵力不足、一部は全般的な怠慢からだった。そんなに焦っていたのはレーニンだけだったのだ。

 ポドボイスキーの計画によれば、冬宮占領は二十五日朝におこなわれることになってはいた。しかし彼の手もとには十分な兵力がない。ソヴェートは開会中であり、宮殿はまだ占拠されず、閣僚は逮捕されていない。レーニンは行動を要求する。さもなければ、彼は軍事委員会を銃殺刑に処したことだろう――それも即座に!

 レーニンが午前十時に、臨時政府は打倒されたという宣言を発したとき、ポドボイスキーは正午には冬宮を占領すると約束した。しかし、これも結局はかの見積もり同様、実現されなかった。彼は遅ればせながらやっと午後一時すこし前にマリインスキー宮殿を接収し、冬宮については午後三時という新しい予定を提出する。これが「最終時限」となるはずだった。 しかし時計はレーニンの思惑に逆らってまわっていた。

 革命後亡命し、アメリカで著作活動をしていたケレンスキーは、1965年に発表した回想録のなかで淡々と書いている。

 「24日から25日にかけての夜は緊張した期待のうちにすぎた。我々は前線からの軍隊の到着を待っていた。それは25日朝にはペトログラートに着くはずでであった。しかし、我々がうけとったのは、軍隊の代わりに、鉄道がサボタージュしているという電報と電話のことづけだけだった」。

 ケレンスキー政府が鎮圧に乗り出した翌日の10.25日(西暦11.6日)、ボリシェヴィキによる首都ペトログラートの武装蜂起は、この日に開かれることになっていた第二回全ロシア労働者・兵士ソヴェト大会の直前(同日午前二時頃)に開始された。10.24日未明、トロツキーはただちに反撃を指令した。ボルシェヴィキは直ちに中央委員会を開き行動を開始した。トロツキー率いる軍事革命委員会はただちに行動を開始、発行所を奪回した。蜂起した赤衛隊や兵士は強力な抵抗をうけることなしに、市内の重要な拠点を占領していった。同朝までに、蜂起部隊は、計画どおり駅・橋・発電所・兵器庫・電信局・国立銀行などを占領していた。中心の官庁街をのぞく首都全域が軍事革命委員会の支配下にはいった。トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。 

 同午前10時、ペトログラード・ソビエト総会において、トロツキー率いる軍事革命委員会は、声明文「ロシア市民へ」を発表し、概要「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラート=ソヴェトの機関である軍事革命委員会に移った」と宣言した。そして夕方から官庁街への攻撃をはじめ、冬宮をのぞいて、すべての建物を占領した。ボリシェヴィキは事前に首都にいた部隊の大部分を味方につけていたため、ほぼ無血で市内要所を占領した。25日朝までに市内の主要建物はことごとく赤衛軍に占領された。

 トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。

 「市街では、何の混乱も小競り合いもなく、殆ど一発の射撃もせず、一滴の血もこぼさずに、公共施設は次から次へとスモルニー院の命令に従って兵士と水兵と赤衛軍の手によって、占領されていった」。

 銃で武装した労働者が兵士と並んで街の焚き火に当るという光景が現出した。

【「ロシア革命に於けるユダヤ人グループの動き」】

 トロツキーの「我が生涯2」は、「ロシア革命に於けるユダヤ人グループの動き」に関連して、僅かこの箇所限りであるが次のように記述している。

 「24日以来、街でユダヤ人虐殺の動きが見え次第武器を使用し、容赦なく行動するよう命令が下されていた」。

 ラビ・М・トケイヤーの「ユダヤ製国家日本」には次のように記されている。
 「トランペルベールは、ロシア革命によってロシアで帝政が倒れると、1917.6月にロシアへ、一時、戻った。そして、ケレンスキーに従う自由主義者と、レーニンが率いる共産主義者が連合したケレンスキー臨時政府のもとで、ユダヤ人兵士協会の政治委員となり、ユダヤ人連隊を創設した」。

 この部隊が相応の働きをしたことが考えられる。

冬宮無血開城
  午前11時、ケレンスキーは援軍を求めようとして冬宮の周りの非常線を突破して脱出した。首都の外にいる軍隊を結集しようとした。臨時政府の他の閣僚は籠城した。

 政府は大本営に救援部隊の急派を命じたが部隊は到着しなかった。ニコラ・ヴェルトは、「ロシア革命」(創元社、原著1997年、P.124)の中で、ソ連崩壊後に発掘されたアルヒーフ(公文書)に基づき、冬宮襲撃経過を次のように記している。
 「ついに援軍が来なかったことに落胆して、宮殿を守っていたコサック兵や士官候補生が、次々に持ち場を離れはじめた。真夜中になってもまだ任務を放棄していなかったのは,女性大隊とわずかばかりの士官だけだった。そして最初に到着したパヴロフスキー連隊の水兵と兵士たちが,宮殿のドアや窓をこじ開けていったのである」。

 首都の各部隊もボルシェヴィキ側に投じた。ペトロパウロフスク要塞の守備隊がボルシェヴィキ側に投じ武器を提供したことは赤衛軍を強化した。この日のうちに中央電信局、都心と労働者街をつなぐネヴァ川の橋梁の九分通りまで赤衛軍の手に落ち市内の要所要所にその歩哨が立った。夜半、レーニンは党本部のあるスモールヌィイ女学校に入り本格的な軍事行動をとった。

 午後2時35分、学院の大ホール(スモーリヌイ)で、ペトログラード・ソヴィエトの緊急集会が開かれた。トロツキーが次のように演説した。
 「革命は成功した。血は一滴たりとも流されていない。冬宮が持ちこたえているのは事実だが、その占領はほんのここ二、三分のうちにもおこなわれるだろう」。

 ペトログラード・ソヴィエトの拍手を受けながら、トロツキーは社会主義的政権が権力を握りつつあると説明を続けた。最後に、ほかならぬレーニンの演説があると声明した。拍手は数分間続いた。拍手が静まると、レーニンは意気高らかに次のように演説した。
 概要「いまこそロシア史の新しい時代が始まるのだ」、「そして、この第三次ロシア革命は究極的には社会主義の勝利にまで導かれなければならない」。
 「同志諸君! ボルシェヴィキは労働者と農民の革命が必要であるとここしばらく話してきたが、その革命が実現された。労働者と農民の革命の意義は何か。とりわけこのクーデタ〔perevorot〕の意義は、我々は我々自身の権力の機関としてソヴィエト政府を有しており、ブルジョワジーはまったく参加していないという事実にある。抑圧されてきた大衆が自らの権力を作り出すであろう。古い国家機構は根元から破壊され、新しい行政機構がソヴィエト組織という形式で作り出されるであろう」。

 ロート・サーヴィスの「レーニン・下」(岩波書店、原著2000年)のP・81(宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」、「1917年10月、レーニンがしたこと」)

 この時点では、現実には臨時政府はまだ存続していたし、ペトログラードの闘争はまさに始まったばかりであった。しかし、レーニンは、闘いの帰趨を見越していた。ペトログラード・ソヴィエトは、社会主義を目指す権力奪取のための決定的闘争にすでにほとんど勝利したと確信していた。

 レーニンは、中央委員会に対して「彼らを理解できない。何を恐れているのか」と叱咤した。夕刻、中央委員に次のような手紙を書いている。
 概要「遅滞はあり得ない。すべてが失われるかもしれない。誰が権力を握らねばならないのか。これは今では重要でない。軍事革命委員会でも『それとは別の組織』でも権力を奪取させればよい。人民の利益−軍隊の利益(直ちに平和を提案すること)、農民の利益(直ちに土地を収奪し、私有財産を廃止すること)、飢えたるものの利益――を真に代表するものだけに、権力を手渡せばよいのだ」(P.77〜78)。

 冬宮は、午後6時半頃までに完全に包囲された。宮殿内の一室(現在エルミタージュ博物館の一室として公開されている)では閣議が開かれていたが、守兵わずか2700人程度で(しかもそのなかからつぎつぎに脱落者がでて、最後には1000人位になった)、到底、反撃の力はなかった。
 
 予定されていた第二回ソヴェト大会の開会の時間もせまった。10.25日夜9.40分、ボリシェヴィキ党員からなる労働者武装部隊である赤衛軍が冬宮包囲網を縮め午後9時、冬宮総攻撃を開始した。アヴローラが冬宮にむけて警告射撃を行なった。午後11時に、ペテロパウロ要塞から砲撃がなされ、包囲軍が少しずつ宮殿内にはいりはじめた。宮殿内で小競合いがつづいたが、5時間の戦闘の後、26日午前2時、革命軍は冬宮を完全に制圧し、残っていた臨時政府の閣僚全員を逮捕した。彼らは、ベトロバブロフスタ要塞へ連行された。

 赤衛隊の犠牲者は9人といわれるが、大半は事故によるものであった。かくて、冬宮を占拠し、首都ペトログラードにおける革命は、大きな流血を見ることなく成功した。遂に、武装した労働者と叛乱した農民兵士によって、歴史の年代記に【10.25日 十月革命――ボリシェヴィキによる臨時政府の打倒】と刻みこまれた。

【「臨時労農政府」樹立される】

 10.25日午後10時35分、冬宮攻撃の銃声がまだ鳴り響く中、予定通り第2回全国労兵ソビエト大会が開かれた。ソヴィエト中央執行委員会を代表してフョードル・ダンが会場のベルを鳴らし、議事を開始することになった。この大会は、全国のソヴィヱトを代表するものとはいえなかった。労働者が住む大都市のソヴィエトや兵士委員会の代表者は大勢いたのに、農村のソヴィエトの代表者はあまりにも少なかった。第2回ソヴィエト大会の代議員構成は、レーニン・トロツキーらの策略によって、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会の強烈な反対を押し切って、かなりの代議員が、圧倒的なボリシェヴィキ支持である「北部地方委員会」ソヴィエトの代議員にすり替えられていた。

 代議員649人の内訳は、ボリシェビキ390、エスエル160、メンシェヴィキ72、その他であった。第2回ソヴィエト大会代議員の党派別人数は、著書によって異なる。大会アンケート委員会データによれば、13の党派が参加している。このうち、エスエルのうち左派は、ボルシェヴィキ党と同盟しようとしていた。他に政党には全然属していないが、ソヴィエトを基盤にした政府を望んでいる数十人の代議員がいた。レーニンでなくてむしろトロツキーが、ボルシェヴィキ党と左翼社会革命党のグループを率いていた。

 そういう事情に支えられ、ほとんど全員がボリシェビキ、団長レーニンという幹部団が承認される。 カーメネフが議長に選出され、、冒頭、マルトフが「全民主主義者によって承認される政権の創造」を提案した。マルトフは、「ペトログラードの街頭で流血がつづけられている。ソヴェートはこれに無関心でいることはできない」と述べ、敵対行為の終結を呼びかけた。ルナチャルスキーがボリシェビキを代表して「その提案に反対すべき点は何ひとつない」と答えた。マルトフの提議は議事日程の第一項として記載された。ところが、市議会議長が冬宮との調停会談の斡旋を申し出たこと、さらに軍事革命委員会が解決策を探るために代表団を送ったことが発表されたことにより議論が割れはじめた。

 
トロツキーの「ロシア革命史1〜5」(岩波文庫、2001年、藤井一行訳、5巻P.244〜255、抜粋)は次のように記している。

 概要「マールトフが読み上げた宣言は徹底してボリシェヴィキを敵視する結論に意味がないもので、革命を『ボリシェヴィキ党のみによって純粋に軍事的な陰謀の手段で遂行されたもの』と非難し、あらゆる社会主義政党との合意に達するまで大会の議事を中止するよう要求する。革命で合力(ごうりょく)を追求することは、自分自身の影をつかむことよりまずい!」。

 トロツキーは次のように批判した。

 概要「起こったこと、それは蜂起であって、陰謀ではない。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。我々はペテルブルグの労働者と兵士の革命的エネルギーを鍛えた。我々は大衆の意志を、陰謀ではなく、蜂起に向けて公然と鍛えてきた。我々の蜂起は勝利した。ところがいまになって、自分たちの勝利を放棄せよ、協定を結べと我々に提案する。誰と? 私は訊く――我々は誰と協定を結ばなければならないのか? ここから出ていった一握りのみじめな集団とか?。しかし、我々は彼らを充分に見てきたではないか。

 もはやロシアには彼らの味方は誰もいない。この大会に代表を送った何百万という労働者と農民、彼ららがブルジョアジーの恩恵といつでもひきかえにする用意があったその労働者と農民が、彼らと、対等の立場で協定を結ばなければならないとは。いや、そこでは合意は無駄である! ここから引きあげた連中にも、そのような提案をした連中にも我々はこう云ってやらなければならない。『諸君はみじめな一握りの連中だ、諸君は破産者だ、諸君の役割は終わった、諸君は、今後行くべきところへ行け―歴史の屑かごへ!」。

 正確かどうか分からないが、マルトフの「全民主主義者によって承認される政権の創造」が万場一致で採決された(とのことである)。

 午前一時をまわっていた。休憩が告げられる。舞台裏では、レーニンを核として議事日程の折衝が続けられていた。次のような遣り取りが遺されている。

 宮地健一氏の「1917年10月、レーニンがしたこと」は、ハリソン・E・ソールズベリー著「黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下・第七部、革命の十月」の次の一節を紹介している。これを転載する。
 政府を組織しなければならなかったが、それをなんと呼ぶかが問題だった。「大臣(ミステル)というのだけはよそうや」レーニンはいった。「なんともかとも不快で陳腐な言葉だ」。「委員(コミッサール)と呼んだらどうかな」トロツキーが提案した。「あるいは最高委員とでもいうか? いや、“最高”というのはひっかかるな。“人民”委員てのはどうだろう」「“人民委員”か。うん、こいつはいい、気にいった」レーニンが答えた。「で、政府をひっくるめては?」「むろん、協議会(ソヴェート)さ・・・人民委員協議会(ソヴェート)だ。どう?」「人民委員協議会(ソヴェート)?」レーニンは繰り返した。「すてきだ、こいつはすこぶる革命的な響きがする」。

 それはいいとしても、誰を“人民委員”にするべきか。全員ボリシェビキとするのか。あるいは左派残留者をも参加させるのか。左派――つまりメンシェビキ、エス・エルの大部分、その他の左翼諸派――は昨夜、ソヴェート大会から退場してしまっていた。ボリシェビキ中央委員会は依然として、たぶんレーニンはそうではなかったようだが、むしろ極左派と権力を共有しようという気だった。しかし、マリヤ・スピリドーノバに率いられる左派エス・エルはボリシェビキ派と大会退場諸派との調停をしようと目論んでいる。クループスカヤは、レーニンがスピリドーノバと彼女の同志連を政府に参加するよう説得しようとして、第二回ソヴェート大会の二時間前に彼女と議論を闘わしたことを回想している。彼らはみんなスモーリヌイの小さな部屋に集まっていた。スピリドーノバは小さなえんじ色のソファーにかけ、レーニンは傍らに立って、「独特の穏かな、誠実な態度」で議論をつづけたという。

 交渉はまとまらず、全員ボリシェビキの政府で発足しようということに決定する。最初、レーニンは首班の位置につくことを嫌がってトロツキーを推した。トロツキーはぴしゃりとはねつける。レーニンが主導者だ、それ以外考えられないではないか。「なぜ考えられないんだ」レーニンがいう。「きみは権力を奪取したペトログラード・ソヴェートの議長だったじゃないか」。トロツキーの動議でこの提案は棚上げされる。レーニンが議長となり、トロツキーは外務人民委員となった。(P.240)

 会議は再開され、臨時政府の打倒を告げ、国家権力が革命委員会の手に移ったことを布告した。次に、蜂起の評価を軸に、ボリシェヴィキと他の党派との問に激しい応酬を繰り返しながら進行した。

 蜂起の危機的数日間一時的に緩和されていたボリシェヴィキ多数派と右派との対立が、ソヴィエト内の他の諸政党をどう扱うかという問題を機に再発した。ソヴィエト内のすべての非ボリシェヴィキ諸党派のうち社会革命党の左派だけが、十月革命に全面的支持を与えた。ソヴィエトやいくつかの労働組合、また右派ボリシェヴィキのは、全社会主義政党を代表する内閣をつくれと主張した。ボリシェヴィキと他の諸政党との間で、この目的のための交渉が続けられた。

 ダンが、ボリシェヴィキがエスエルとメンシェヴィキと連合して政権を作ることを要求した。これに対し、トロツキーは次のように反論した。「我が生涯2」の中で次のように記している。

 概要「昨夜までは、権力の席に在り、我々を弾圧し、牢獄に投じていた諸政党が、その権利を句を我々に転覆させられた今、今度は協力を要求し始めている」。
 「現に起っていることは蜂起であって謀反ではない。人民大衆の蜂起は一々正当化する必要は無い。我々は労働者と兵士達の革命的エネルギーに焼きを入れた。我々は蜂起に向う大衆の意思を公然と鍛えたのである。我々の決起は勝利を獲た。そして今日ここで、我々はこの勝利を放棄し、協同することを求められている。一体誰とか? 諸君はみじめなる個人だ。破産者だ。諸君の役割は終わったのだ。さぁ、諸君に相応しいあの場所へ行け。歴史のくずかごへ。これが、4.3日、レーニンがペトログラードに到着したその時から始まった、あの偉大なる対話の最後の答えであった」。

 エスエル右派とメンシェヴィキが「ソヴィヱトに隠れて軍事的陰謀を企てた」と非難し、ボリシェヴィキの権力奪取に抗議して退席した。レーニンの思惑通りに、エスエル、メンシェヴィキが退場した。大会に残ったのは、ボリシェヴィキ代議員390人と、ボリシェヴィキ支持の左翼エスエル代議員だけになった。

 ボリシェヴィキとエス・エル左派の独壇場となった会議は、翌26日未明、革命を承認(権力掌握宣言)し、臨時政府の打倒とソビエト権力の樹立を宣言した。同時にソヴィエト政府すなわち人民委員会議の創設が定められた。議長レーニン、外務トロツキー、内務ルイコフ、教育ルナチャルスキー、民族スターリンがそのメンバーであった。

 大会2日目、大会はレーニンの報告にもとづいて二つの宣言を採択した。一つは、無併合・無賠償の原則にもとづいて全交戦国に即時停戦をよびかける「平和に関する布告」で、もう一つは、地主の土地を没収して国有化し、農民に土地を分配するという「土地に関する布告」であった。革命政権が最初に取り組んだことがこれらのことであった。

 注意すべき点は、レーニンは「平和に関する布告」 の提案に際しても、講和の条件や提案は11.28日に開会が予定されている憲法制定議会の審議に委ねるとしており、また「土地に関する布告」でも、土地問題の最終的解決はやはり制憲議会を待つとしていた。

 「土地に関する布告」は、エスエル政策をそのまま請け売りしていた。その主要な条項は、「土地の私有は補償金なしに廃止される。すべての土地は再配分のため地方農地委員会の自由裁量下に置かれる」としていた。これは事実上、多くの農村共同体が1917年の夏以来行なってきた大地主とクラークの土地を有無をいわせず没収するという行為を合法化していた。


 レーニンが、概要「またもし農民が憲法制定議会でこの党 (エス・エルのこと)に過半数を与えるに到ったとしても、その時でもわれわれはいうであろう――それならそれでよい」、と述べていることも記憶に価する。

 宮地健一氏の「1917年10月、レーニンがしたこと」は、次のような遣り取りがなされたことを記している。
 かつてのボリシェビークでいまはゴーリキーの『新生活(ノーバヤ・ジーズニ)』の協力者の一人となっている知的な風貌の、フロック・コートを着こんだ若者のアピーロフが、ささやかな警告をもらした。クーデタが成功したのは左翼に実力があったからではなく、臨時政府が人民に平和とパンをあたえる能力を欠いていたからだ。新政府は果たしてこの問題を解決することができるのだろうか。自分は信を措くことができない。穀物は欠乏している、農民はおそらくおいそれとは協力しないだろう。講和ときたら、話はもっとむずかしいことになる。連合国が話に乗るはずはない。ドイツ、フランス、イギリスの革命運動を当てにすることは論外だ。どの党も単独ではこの難題を解決することはできまい。というわけで、彼は連立を呼びかけたのだった。

 ソヴェートはボリシェビキ単独政府を承認する。そこへ、もう一つ警告が放たれた――それは、ロシアにおけるもっとも強力な労働組合、革命勢力の砦、一九〇五年反乱の要め石、反ツァーリ、反コルニーロフ、反ケレンスキーに秤の目盛りを傾けた組織体、そしてボリシェビキが事実上なんの影響力も持たず、であるがゆえにボリシェビキが故意にソヴェートから除外した組織体、全露鉄道労働者組合(ビクジエーリ)によってなされたものだった。

 いまや、鉄道労働者たちは組合自治権と上部委員会での議席を要求していた。同組合は権力の一党独占を弾劾した。政府は全革命民主勢力に責任を負うものでなければならない。かかる政府が創設されるまで、あるいは不在であるかぎり、組合は全鉄道路線をその支配下に置く。組合は反革命部隊がペトログラードに到着することは決して許すものではないが、あらゆる行動は組合の承認を得るべきものとする。

 この間の闘争を表舞台で指導したのはぺトログラード・ソビエト議長・トロツキーであった。レーニンは潜行中の身として地下から指導した。

 「1917年10月のボリシェヴィキの勝利はロシアにおける状況、大部分の労働者と兵士の過激化により可能なものとなった。ロシアのボリシェヴィキは1903年から1918年の間、世界のマルクス主義運動、社会民主主義運動のなかで最も急進的であった」。

 この流れが10月革命を呼び込んだことになるという観点が必要と思われる。

 レーニン派ボリシェヴィキの急速な勝利は、ボリシェヴィキ右派の「マルクス的躊躇」がいかに根拠のないものであったかを証明した。十月革命そのものが、カーメネフ―ジノヴィエフ派の悲観論の一つの理由を吹きとばしてしまった。ボリシェヴィキは、成功裡に権力を掌握して、レーニンを人民委員会議議長として戴くソヴィエトの名において新しい政府を組織した。大方のボリシェヴィキは、国外の諸事件が、西欧における成功的プロレタリア革命の勃発に伴って、右派の悲観論の他の根拠をたちまち覆えしてしまうだろう、と期待した。


【「人民委員会議委員」】

 大会は、レーニンを議長とする「人民委員会議」という名の「臨時労農政府」を樹立した。「憲法制定議会が召集されるまで」 の「臨時労農政府」であることを確認し、制憲議会の選挙日を旧臨時政府が指定した期日通り11.12日にすることを申し合わせ、27日午前5時15分、大会は終了した。

 ここに、史上初の「労働者と農民の政府」が誕生した。この政府が「臨時」と名乗っているのは、十月革命以前の臨時政府のもとで、将来「憲法制定議会」を開催して正式の政府を発足させる予定になっていたからである。臨時政府がなかなかこれを実行しないのに対して、革命派はその即時実行を要求していた関係もあり、「臨時」とは正式の政府が発足するまでのつなぎの意味でつけられたものである。

 そのメンバーはボルシェビキ派からなり、外務人民委員トロツキー以下、内務ルイコフ、民族スターリンなどの陣容だった。遂にソヴィエト政府が樹立され、レーニンは人民委員会議議長となり、ボリシェヴィキが権力の座についた。

 次のような評も為されている。

 概要「この時の人民委員会22名中17名、外務委員会16名中13名、財務委員会30名中24名etcがユダヤ人であった。レーニンも曽祖父がユダヤ人であり、赤軍の創始者であるトロツキーもユダヤ人、スターリン然り。そのスターリンとその後トロイカ(三頭政治)を組むことになるカーメネフ、ジノヴィエフもユダヤ人、クレムリンの狼といわれた副首相で石油相のカガノヴィッチがユダヤも然り。秘密警察長官べリヤもユダヤ人だった。総じてこのような状態であったロシア革命とはほとんどユダヤ人が主体のユダヤ人の革命であり革命政権はユダヤ人の政権となっていたことになる。ボリシェヴィキ幹部の95%がユダヤ人で、人口の2%しかいなかったユダヤ人がロシアの天下を取った状況であった」。


 これをどう評するか、視座が必要であるが、銘記しておくべきであろう。

 10月革命以降ユダヤ人の占有は政治のみならず軍事、法律、マスコミ等々あらゆる分野に及んだ。これを眺めれば、あれはロシア革命というよりもロシアに於けるユダヤ革命だったのではなかろうか。但し、真に考察せねばならないことは、この時のユダヤ人のうち今日のネオ・シオニズムに繋がる系譜であろう。ユダヤ人であるが故に批判されるべきではなかろう。問題はあくまで、革命を利用したネオ・シオニスト・ユダヤであろう。この辺りの考察が為されていないように思われる。

【「士官学校生徒らの抵抗」】

 10.27日、モスクワでも士官学校生徒を主力とする義勇軍がクレムリンにより反乱したが11.2日、鎮圧された。ボルシェヴィキは首都とモスクワを支配下に治め,全国各地でも地方ソヴィエトを通じて支配権を握った。

 10.30日、都の士官学校生徒の一団は反ボルシェヴィキの軍事蜂起を起こしたが失敗。

 10.31日、ケレンスキーが救援を求めたクラスノフ軍も敗退し、最初の反撃の芽も枯れた。

 ボルシェヴィキは兵士ソヴィエトを通じて軍隊の実権を握り、各地でドイツ軍と休戦協定を結び兵士は帰郷し始めた。

 11.9日、総司令官ドゥホーニンは罷免され、一伍長のクルイレンコが司令官に任命された。


【「平和声明」】
 11.7日、トロツキーがラジオを通じて、連合国及び中央ヨーロッパ諸国に対し、全面的平和勧告を行った。連合国政府は、出先機関を通じて、ロシア軍総司令官・ドゥホーニン大将に対して、今後単独講和に向って進むなら「甚だ重大なる結果をもたらすであろう」と通告してきた。革命政府は、「我々はブルジョアジーを転覆した以上、外国のブルジョアジーの指揮の下に、我々の軍隊の血を流す必要は全くない」とアッピールし返した。

 11.22日、革命政府は、バルチック海から黒海にわたる全戦線にそって休戦する協定に調印した。更に、連合国に対し、「我々と共に平和会議に参加するよう」要請した。

 12.25日、革命政府と四国同盟諸政府間で、革命政府の「民主的講和の基本的原則」即ち「無併合、無賠償、民族自決の原則」に基づく合意が為された。

【「ケレンスキーの抵抗」】

 11.11日、首都を脱出し北部軍司令部に到着したケレンスキーはクラスノフに率いられた700騎のコサックと一緒にペトログラードに反攻にでた。そしてツァールスコエ・セロまで迫った。しかし一度は増援軍を送る手はずだった北部軍司令官チェレミソフはボルシェビキと意を通じ、またクラスノフの裏切りにもあい、十分な兵力が集まらず壊滅した。ケレンスキーは水兵の格好をして捕縛寸前に逃れ、翌年亡命することになる。。

 ケレンスキーのその後の様子は次の通りである。付近の農家にかくまわれイギリスのジャーナリスト、ロックハートの助けでついに国外逃亡に成功する。臨時政府はよくもわるくもケレンスキーの政府だった。どこか演説だけ巧みな現実感の乏しい才子だった。しかしケレンスキーは政敵を殺害することは注意深く避けた。臨時政府が倒されると共産政府につきもののあたり構わない殺戮が開始された。


【「レーニンとドイツ政府の関係裏秘史」】

 11月、革命臨時政府は、ドイツとの単独講和交渉を開始した。

 レーニンとドイツ政府の関係を廻る次のような調査が報告されている。

 「ルーデンドルフは8月31日秘密裏にレーニン支持を打ち出していた。ドイツ政府はレーニンに開戦時相当の資金援助を行い一時途絶えたものの封印列車乗り込み時また再開していた。封印列車には各派の亡命者32人がいたがその中でレーニンはドイツ政府公認のリーダーだった。そして資金援助は7月以降も続いていた公算が強い。レーニンの即時講和要求はドイツの意向に沿ったものではなかったか。ドイツ軍はケレンスキーの立場が強化されたときに限り攻勢に出ていることもその裏付けになる」。

 「11月22日レーニン政府は無併合、無賠償を前提に休戦交渉にはいることを提案した。連合国政府はこれを無視した。ドイツ軍東部軍参謀長ホフマンはこれをとりあげ11月27日レーニン政府によって任命されたロシア軍総司令官クリレンコに12月1日からブレストリトウスクで休戦交渉に入る事を連絡した。東部戦線でついに3年4ヶ月ぶりに砲声がとだえた。休戦交渉でロシア側は直ちにドイツ東部軍を西部戦線におくらないことを条件に即刻休戦することを提案し、受け入れられた。ホフマンは事前にこの条件を承知していて、必要な西部戦線への転属は終了していた」。
 「12月15日公式に休戦となり、連合国はロンドン協約に反するこの同盟離脱に激怒した。アメリカはこの協約に不参加で違った考えをもった。ボルシェビキに先をこされたことを憾みながらウィルソンは1918年1月8日休戦のための14ヶ条を発表した。内容は国際連盟の設立と民族自決を除けば、ボルシェビキの提案と変わる事がなかった。また分離和平についての非難もない」。

 トロツキーが、「平和綱領」(1916年の連載論文を大幅改訂したもの)、「この殺戮はいつ終わるのか」、「次は何か――総括と展望(2月革命以降の革命過程を跡づけ、永続革命の戦略を展開)を出版する。





(私論.私見)