予備議会直前のボルシェヴィキの対応、それをどう評するべきか。 |
(最新見直し2005.12.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
この頃、ケレンスキーは、憲法制定議会の召集を急ぎ、その選挙を11.12日に行うと発表した。これにどう対応するのかが政治課題となった。 レーニンの提議によるボリシェヴィキとメンシェヴィキ、エスエルの「三者同盟」は成らなかったが、革命的情勢への流動化は一層進行した。そうした折に、ボリシェヴィキが予備議会をボイコットすべきかどうか党内は割れた。 |
【レーニンが蜂起を要求】 | |||||
9.12−14日、レーニンは亡命先のフィンランドの隠れ家からから、歴史的な2通の手紙を中央委員会に送り、武装蜂起を指令した。指導部の革命的合法主義をとがめるものであった。レーニンは、ボルシェヴィキを支持する大衆的熱気に呼応して、「ボリシェヴィキが革命の運命をそれ自身の手中に握り、武装権力奪取のために準備すべき時が来た」と告げた。 第1の手紙「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」は、次のように指令している。
第2の手紙「マルクス主義と蜂起」では、「蜂起を技術としてとりあつかわねばならぬこと」を主張し、蜂起計画を示した。 しかし、レーニンの党は、彼の武装の呼びかけに対して、用意が全くできていなかった。行動を呼びかけるレーニンのアピールが9.15日に受け取られたとき、ボリシェヴィキ党は、いわゆる民主主義会議に参加していた。この会議は、憲法制定会議の選挙が開催される前に支持を集めようとする政府諸党によって招集された諮問機関である。ボリシェヴィキにとって焦眉の問題は、政府がこの協議会に提出した、憲法制定会議が選挙されるまで置かれる擬似代議憲法機関たる共和国会議の設置承認を求める提案によって提起された。 だが但し、この時期、レーニンのボリシェビキの強力なフラクションも含めて多くの革命家達が10月蜂起を不必要で時機尚早ともみなしていたことを示す証言が為されている。
9.15日、ボリシェヴィキ中央委員会は、レーニンの2通の手紙を討議した。蜂起を要求するレーニンの提案は、党中央委員会の慎重なあるいは大胆な諸分派のいずれもが即座に実行に移す用意のあるところを越えていた。指導部の大半は,レーニンの主張に懐疑的だった。情況は日毎ますます過激化しており、ソヴィエトは急速に「ボリシェヴィキ化」しているのになぜことを急ぐ必要があるのか。10.25日に予定されている第2回全ロシア・ソヴィエト大会をなぜ持てないのか。この大会では労働者の大規模なセンターや兵士委員会の代表が、社会革命党が牛耳っている農村のソビエトの代表より多くの代表権を持っているのだから、ボリシェヴィキが大会で相対的な多数を獲得するチャンスは十分ある。大会でボリシェヴィキは確実に多数派少なくともほぼ多数派になるのだから、そこですべての権力がソヴィエトへ移るだろうという見通しを支持していた。
レーニンは、焦りと中央委員会への怒りから、手紙を乱発した。そして、彼を中央委員会の会議に出席させよ、そこで単独武装蜂起問題を討論しなければ、ボリシェヴィキ中央委員を辞任するとほのめかす脅迫状的手紙までも送った。 |
【三者同盟成らず】 | ||
この時期に、レーニンは、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ、エスエルの三者同盟を提議した。この論文がラボーチィ・プーチに発表された日の前日(9.15日)、同紙にレーニンは論文「憲法制定議会をどうやって保障するか」を書き、次のように説いている。
9.16日、レーニンは、論文「ロシア革命と内戦」のなかで、「ボリシェヴィキとエスエルおよびメンシェヴィキとの同盟」という表現を用いて、再び「全権力をソヴェトヘ」の提案を行い、これだけがロシアを内乱から救うだろう、と主張した。
このレーニンの重ねての提議に、エスエルとメンシェヴィキは答えなかった。三者同盟は成らず、レーニンは国際革命に賭けて武装蜂起の道を選択する。レーニンはこのことを十分に予期して、この再提案の直前には武装蜂起の準備をボリシェヴィキ党指導部に呼びかけていた。以後の事態は、よく知られている通りである。 もし、このレーニンの提議にエスエルとメンシェヴィキが応じて「ボリシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキ三党の連立政府が成立」したとすれば、もしレーニンがもっと忍耐強く三者同盟の思想を貫いたならば、その後のロシア革命と世界の共産主義運動の道はどうであったか?、どのような事態の展開が予想されえたであろうか? |
【「三者同盟成らず」考】 |
ならば、10月革命開始後において、このような「三党連合政府」が樹立される可能性は無かったのだろうか。ソ連の歴史家へンリフ・ヨッフェは、10月武装蜂起が決行された10.25日夜から翌26日にかけてペロトグラートのスモーリヌイ館で開かれた第二回全ロシア労働者・兵士ソヴェト大会が、その最後の「失われた機会の夜」ではなかったか、という疑問を提起している。この大会の代議員の構成は開会時でボリシェヴィキ390、エスエル160、メンシェヴィキ72、その他27、合計649九名だった。
マールトフの提案は、ただちに左派エスエルのムスチスラフスキーの支持を得、次に発言したボリシェヴィキのルナチャールスキーは、「ボリシェヴィキのフラクションは、マールトフの動議に反対することはなに一つない」、と宣言した。カーメネフはただちにマールトフの提案を採択にかけ、「提案は万場の拍手で可決された」(トロッキーの革命史がいかに正確かは、大会議事録にもとづくこのヨッフェの記述とトロッキーの叙述とを対照すると、実によくわかる)。 だが、メンシェヴィキの軍代議員ハラーシュとクーチンが興奮しながら「権力奪取の試みに強く抵抗せよ」、と要求し、蜂起を「冒険であり内乱の挑発だ」と非難したことから、論議は紛糾し、やがてメンシェヴィキと右派エスエルの約70名の代議員が「人民の敵!」、「コルニーロフのところへ行け!」などの罵声を浴びながら退場する。 マールトフはなお諦めず、平和的解決のための同質的な民主主義政府の形成を、すべての革命的民主主義の諸団体の協議を通じてめざすよう、大会の権威的介入を求める。そして続いて、マールトフに向けたペトログラート・ソヴェト議長トロッキーの有名な演説概要「君たちの役割は終った、君たちは今から、君たちにふさわしい場所へ歴史の屑籠に行け」が行われ、マールトフは怒って「ではわれわれは出よう」と叫んで退場する。マールトフの可決された動議も、こうして大会から消えたのである。メンシェヴィキのニコライェフスキーの回想によると、ヴィボルグからのボリシェヴィキ代議員だった若い労働者アクーロフは、出口でマールトフを押しとどめ、「少なくともマールトフはわたしたちと一緒に残るはずだ、と信じていた」と興奮して語りかけた。するとマートルフは、しばらく沈黙したのち、こういった。「いつか君たちはわかるだろう、君たちがどんな罪を犯したかを」。 もし、マールトフの可決された動議が生きていたならば、歴史はどう変わっていただろうか? この時期ではもう遅すぎた、という人も、かりに三党連立政権が誕生しても、どうせすぐに分解しただろうから、それほど変りはない、という人も多いだろう。だが、この日の一カ月前には、レーニンも次のように語っていたのだ。そしてこれが、メンシェヴィキとエス・エルに対する、この問題での彼の最後の呼びかけであった。「もしソヴェトが全権力を握るなら、それは――いまでもまだ――おそらく、これが最後の機会であろう――革命の平和的発展を保障することができるであろう。すなわち、人民が自分の代表を平和的に選挙し、ソヴェトの内部で諸党が平和的にたたかい、さまざまな党の綱領を実地にためし、一つの党の手から他の党の手へ平和的に権力を移すことを、保障することができるであろう。もしこの機会を逃せば、その時には、ブルジョアジーとプロレタリアートのもっとも鋭い内戦が避けられないということは、4.20日の運動からコルニーロフ陰謀までの全経過が示している」。 ところで、第二回全ロシア労働者・兵士ソヴェト大会は、ソヴェトの最高決議機関のはずであり、マールトフの動議はここで可決されていたのだから、「ソヴェトが全権力を握る」という命題に忠実であるならば、この動議に従う義務がボリシェヴィキにあったはずである。ところが、実際には、こうして武装蜂起に勝利した時点で、ボリシェヴィキはそれまで掲げてきたソヴェト民主主義を実質的に否定する道へ踏み出した。 なぜか? 二月以降のメンシェヴィキやエス・エルの行動に対する深い不信、ボリシェヴィキの完全な主導を保証する政権の必要という判断、等々を挙げることがもちろん可能であろう。しかしレーニンは、先に引いた9.6〜7日の論文のなかでも、エス・エルやメンシェヴィキの間で左翼反対派が増大し、四割程になったことを指摘しているのだから、連立形成の可能性は、ますます高まっていたはずである。 |
【「呼び議会を廻る喧々諤々」】 | ||||
レーニンの最初の反乱の呼びかけをお預けにしたのち、ペトログラードのボリシェヴィキ指導部は、民主主義会議と共和国会議、もしくは(通常呼ばれた形では)予備議会に関する彼らの見解の相違を解消する努力に立ち戻った。民主主義会議は9.14日から9.22日まで存続したのち、予備議会(実際には10.7日に招集された)の設立にひきつがれることになった。 民主主義会議におけるボリシェヴィキ代表団すなわちフラクションは、いかなる態度をとるべきかについて中央委員会の指令を求めた。トロツキーは予備議会のボイコットを唱えた。委員会は、9対8で賛成に割れたが、のち、問題を民主主義会議のボリシェヴィキ・フラクションに送り返した。トロッキーとスターリンは――珍しくも協力して――フラクションに報告するにあたって中央委員会の左翼ブロックに味方したが、ルイコフとカーメネフは、右翼を代弁してボイコットに反対した。討論の末にフラクションによる投票が行なわれ、代議員たちは77票対50票でボイコットを否決した。トロッキーは彼の敗北を、地方ボリシェヴィキの代表のせいにしたが、革命的情勢に関する彼らの評価は、首都で行なわれている評価よりも多少保守的なものだったのである。 その間レーニンは、急進的な戦術を推進しつつあった。
そこでレーニンは、権力奪取は達成されうるし、またされなければならないと同僚に説得するために、猛烈な手紙キャンペーンを開始した。彼の攻撃に対する貧弱な反応に彼は激怒した。次のように宣言した。
この一撃に加えて、レーニンは敢えて威嚇した――彼は中央委員会を辞職し、また(彼自身の組織原則を無視して)直接党に訴えるつもりだと。
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【第4次臨時(第3次連立)政府】 |
9.25日、ケレンスキー政権は、第3次連立政府を作り、最後となる内閣改造を行い体制を固めた(9.25〜10.25日)。カデット2、エスエル2、メンシェヴィキ2からなる連立政府であった。 |
(私論.私見)