「7月事件」の様子と経過 |
(最新見直し2005.12.17日)
只今書き換え中、各方面ご理解頼む。
(れんだいこのショートメッセージ) |
以下追跡してみたい。 |
【「四月テーゼ」が全党的承認される】 | |
4.28日、ボリシェヴィキ党の第7回全ロシア党協議会が開かれ、レーニンはみずからが起草した「四月テーゼ」を精力的に説き続け、下部組織からの突き上げと相まって全党的承認を勝ち取る。71票対39票、棄権8票の採決であった。遂に、レーニンは形勢を逆転させ、「レーニンあっての革命」路線へ向かうことになる。但し、社会主義政策の導入や臨時政府打倒については、いつからやるとはまだ公然と宣言するには至らなかった。とりあえずは「全ての権力をソヴィエトへ」、「戦争反対」というスローガンを党の方針として採用したことに意味があった。 4.24-29日、第7回党協議会で、憲法制定議会の選挙に対する対応が問われた。レーニンは、既に1917年4〜5月中に執筆した「党綱領改正資料」で次のように記していた。
レーニンは、これを「最小限綱領」としていた。すなわち、ここでは、「古い国家機関の破壊ではなく、ブルジョア議会制的代議機関からソヴェトへの平和的な改造」が語られていた。その後の事態の推移と関連して注目に価する。 この頃までのソビエト内のイニシアチブは、メンシェヴィキとエスエルが握っていた。メンシェヴィキとエスエルは、レーニンの「四月テーゼ」の根幹である「全ての権力をソビエトへ!」スローガンを拒否し続けたが、「四月テーゼ」の発表以来次第にソビエト内におけるボルシェビキの勢力が増大し、民衆によるデモが激化した。臨時政府はボルシェビキを押さえようとしたが、ボルシェビキの勢力は逆に全国に広がっていった。4月の終わり頃には、ボリシェヴィキが多数派になる兆しが見え始めた。 |
【トロツキーがペトログラードに帰還】 | |
5.4日、トロッキーが釈放され、ニューヨークからカナダの収容所を経て、スカンジナビア諸国を経由してペトログラードに帰還した。レーニンより一ヶ月遅れであった。メジライオンツィ(どの分派にも属していない国際主義派の地区間組織)に加わり、ボリシェヴィキと歩調を合わせて活動を開始する。 トロツキーは、これまで党組織論を廻る対立からメンシェヴィキ寄りの立場を採っていたが、この帰還以降はレーニンと提携していくことになる。トロツキーは、革命を見つめ非妥協的にこれを遂行しようとするレーニンを評価し、帰国早々に「四月テーゼ」支持を表明した。この同調につき、トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように記している。
6月、トロツキーが「言葉から行動へ」を書いてボリシェヴィキとの合同を支持した。トロツキーは、その天才的な弁舌によって労働者や兵士をボリシェヴィキの側へとひきつけていき、 以降のボリシェヴィキはレーニンとトロツキーという車の両輪によって引っぱられることになる(トロツキーは、7月末に正式に入党する)。 トロツキーは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキの戦闘的な部分と協力、ぺテルブルク・ソビエトの活動に積極的に参加し、その雄弁さにおいても傑出した指導者の一人として認知されていった。ソビエトは、大衆の自立的な行動機関であると共に革命諸派の統一戦線の場であった。この共同戦線上にトロツキーの才能が開花し頭角を現していく。トロツキーは、ぺテルブルク・ソビエトの議長ノサーリが逮捕されるとこれを後継し、指導していくことになった。時に27歳。 |
【レーニンとトロツキーの革命理論の相似と相違考】 | ||||
レーニンとトロツキーの革命理論及びその戦略戦術には明らかな違いがあった。双方が見解の差を認めつつ噛み合わせてその後の歴史を創っていくことになる。 この時点でのトロツキーの革命理論の骨子は次のようなものであった。トロツキーとレーニンは、「ロシアの後進性」認識即ち1・ロシアのブルジョアにはブルジョア革命を遂行する意志も力もないこと、2・一方のプロレタリアートもまた弱体なことに於いて一致していた。問題は、レーニンが労農民主独裁によるブルジョア革命遂行、然る後に社会主義革命という青写真を提起していたのに対し、トロツキーは、農民を革命勢力の主体として対等に位置づけるのに反対し、「労働者派主体民主独裁」を唱え、革命政権樹立後直ちにプロレタリア革命の開始に向うべきではないか、としていた。そういう戦略戦術に違いが見られた。しかし、これは若干の違いであり、殊更に論うほどの差異ではなかった。 ちなみに、トロツキーは、農民問題と革命論の関係を次のように位置づけていた。
トロツキーは、「後進国ロシアに於ける革命と先進国西欧諸国との連動問題」について次のように位置づけていた。
トロツキー理論は、ロシア革命を契機とする世界革命の到来を大前提としていた。
トロツキー理論の特徴は、ブルジョア革命をそれとして目指すのではなく、ブルジョア革命をプロレタリア革命の中に包摂し、不断のプロレタリア革命によって解決していくという見識にあった。これをトロツキーの「永続革命論」と云う。
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【エスエルの臨時政府支持の動き】 |
5月、全ロシア農民代表大会が開かれ、エスエルの主導で、臨時政府支持を決議している。 5.4日、臨時政府は、ソヴィエト側から強い批判を受けていたグチコフ・ミリューコフらを罷免し、メンシェヴィキ、エスエルから数名の大臣を入閣させ政局の安定をはかった。 |
【第一回全ロシア・労兵ソビエト大会】 |
6.3日、第一回全ロシア・労兵ソビエト大会が開かれ、822名の代議員が参加した。エスエルは285名、メンシェヴィキは248名、ポルシェヴィキは105名の代議員を送り込んでいた。帰国したばかりのトロツキーは、10名の「統一社会民主主義者」派に加わっていた。過半数を占めたエスエルは、臨時政府を支持した。 |
【ケレンスキーが陸相に就任し、軍事攻勢に出る】 |
6月**日、ケレンスキーは陸相に就任し、ドイツ軍に対し軍事攻勢作戦にでる意欲を固めた。まずアレクセイエフを更迭し代わりにブルシロフを据えた。ブルシロフは7月攻勢の目標としてレンベルクを設定し、南西軍(コルニロフ)で前と同じ広正面での浸透をはかる作戦をたてた。しかし年初からすでに脱走兵は200万人を越え各部隊に督戦委員を配置せねば軍隊は動かない状態と化していた。それでも前線にいる兵士は650万人を数えた。少なくとも独墺軍を60%上回る数だった。 *月**日、攻勢が開始され、またも東ガリシアで独墺軍の前線を崩壊させた。ここから奇妙な状態が生じる。独墺軍は前年の経験から後方の第2線の防御陣地を作りまた第1線は薄く配置していた。独墺軍の撤退はワナに似たところがあった。ところがロシア軍の最前線の兵士はこれを見破ってしまう。6.20日以降、前線兵士とりわけ突撃部隊が前進を拒みはじめた。革命をみて兵士は考える兵士に変わっていた。将校はこの兵士が疑問をもつことを、反抗と解した。奇妙な停滞が2週間続いたあと、独墺軍が7.6日に反攻に出て結局元の戦線に戻って終了した。 |
【7月革命】 |
以下、宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「3、七月事件のデータ」の項を参照(目下は転載)する。(長尾久「ロシア十月革命」P.159〜162) |
7.3-5日、首都に駐屯する機関銃兵第一連隊が前線出動に抵抗して武装デモを起こし、これに各地の兵や労働者が参加して大規模なデモに発展した。彼らは、ソビエトよる全権力の掌握を要求したが、ソビエトの指導部は協調派が主流であり、レーニンも又概要「時期尚早であり得策でない、待て」と訴えた。デモ隊の半蜂起的決起には「受け皿」が用意されておらず、蜂起隊と政府軍間に戦闘が行われ翌日まで続き、4百余名の死傷者を出した。かくて失敗した。七月闘争は間もなく鎮静化した。7月革命は鎮圧した臨時政府はレーニンらの逮捕を命じ、革命派の弾圧に乗り出した。レーニンはまたもや逃亡を強いられフィンランドに逃亡した。トロツキー、ルナチャルスキー、コロンタイら主要幹部が逮捕された。これを「7月事件」と云う。以下、この経緯を見ておく。 同午後7時頃、機関銃兵第一連隊、新レスネル工場、新パルヴィアイネン工場の労兵を先頭として、大武装デモが開始された。軍隊では、モスクワ連隊、擲弾兵連隊、バヴロフスキー連隊、工兵第六大隊、歩兵第一八〇連隊の一部、歩兵第一連隊の一部があとに続いた。労働者の方は、ルースキー・ルノー、アイヴァス、フェニックス、ペトログラート金属、旧パルヴィアイネン、バルト造船、ラジオ電信工場、ペトログラード鋼管、ジーメンス・シュッカート、製釘工場などの労働者があとに続いた。 デモ隊の一部はクシェシンスカヤ邸(ボリシェヴィキ党本部所在地)に向かい、ここでボリシェヴィキ党幹部数名から、デモを中止して帰るようにという演説を聞いた。「ひっこめ!」という怒号でデモ隊は応えた。ついにボリシェヴィキ党指導者もデモを中止させることはできないことを覚った。その場にいた同党ペトログラード市委員は、緊急に協議し、「組織的」「平和的」なデモをおこなうよう提案することを決めた。この決定が発表されると、デモ隊は嵐のような拍手とマルセイエーズで応えた。この方針転換は、党中委によってもあとで追認された。この間、タヴリーダ宮で午後七時からおこなわれていたペトログラード・ソヴェート労働者部会も、デモ支持を決議し、これに「平和的性格を与える」ための委員会を選出した。この会議が終った頃からデモ隊がここに到着し始め、やがてタヴリーダ宮前はデモ隊でうめつくされた。 だが、社会協調派のソヴェート権力反対の決意は固かった。深夜から翌早朝までおこなわれた労兵ソヴェート中執委事務局と全国農民ソヴェート執行委の合同会議は、圧倒的多数でデモ隊の要求を拒否し、デモ中止を要求した。この会議の終るまでにデモ隊はしだいに帰っていった。だが夜半頃、タヴリーダ宮でおこなわれたボリシェヴィキ党、メジライオンツィ、ペトログラード・ソヴェート労働者部会の幹部の会議は、翌日再度の武装デモを呼びかけることを決定した。 7.4日、政府およびソヴェート中央のデモ禁止令をけって、前日を上まわる大武装デモが展開された。この日は、クロンシタット一万をはじめとし、ペチェルゴーフ、リゴヴォ、オラニエンバウム、クラースノエ・セローなどの近郊都市からもデモ隊がやってきた。四日のデモ参加者は、ソ連史家ズナーメンスキーの推定では、兵士四〜六万、労働者三〇〜三五万だった。デモ隊は、一二時頃から続々とタヴリーダ宮に到着し、再びソヴェート中央に圧力をかけた。だが協調派の決意はゆるがなかった。午後五時半に始まった労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議は、二週間後に労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議を地方代表を加えておこなうこと、それまで現政府の権力を認めることを決議した。この間、政府側のカザーク部隊とデモ側の部隊との間で銃撃戦がおこなわれ、死者まで出た。銃撃はこの他何度か起った。 散発的な銃撃戦までおこなわれる中にあって、政府側武力はまことに弱少だった。政府とソヴェート中央は懸命になって部隊をかき集めたが、4日昼までに、プレオブラジェンスキー連隊、カザーク諸連隊、ヴラヂーミル士官学校から忠誠をとりつけることができただけだった。だが法相ベレヴェルゼフが使った奥の手、つまりレーニンがドイツのスパイであることを「証明」する文書を見せたことから、中立を保っていたセミョーノフスキー、イズマイロフスキー両連隊が夜になってソヴェート中央支持に転換し、タヴリーダ宮に現われた。この時から力関係が変化し始めた。しかも、あまりにも情勢が緊迫してきたため、夜に入るとボリシェヴィキ党はデモ隊に解散するよう説得し、9時頃までにデモ隊はタヴリーダ宮から姿を消した。 |
【7月革命が失敗し、レーニンらが逃亡、トロツキーらが逮捕される】 |
1917.7−8月、レーニン、ジノヴィエフはまたもや逃亡を強いられフィンランドに逃亡し潜伏した。レーニンは、農家の庭で木の切り株を机に「国家と革命、マルクス主義の国家学説とプロレタリアートの任務」の推敲執筆に向かっている。レーニンは、同書で「既存の国家機構の横滑り的引継ぎを拒否してソビエトのような新機構を創出していくことによる文字通りの革命」を指針させた。 |
【ケレンスキー臨時政府のレーニン=ドイツのスパイ批判】 | |||
ケレンスキー臨時政府は、この時、次のような批判をしている。
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【ケレンスキーを首班とする第二次連立政府が成立】 | |
*月**日、東部軍参謀長ホフマンはズロチョフで反攻に出た。約20Kmに亘りロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走し壊乱に近い状態となった。そのニュースがペテログラードに着くとルォウ首相は辞任した。 7.8(新暦7.24)日、対ドイツ6月攻勢敗退の報のなかで時局を乗り切るため、ケレンスキーを首相とする臨時政府の新内閣(第二次連立政府)が発足した(7.24〜8.26日)。カデット4、エスエル2、メンシェヴィキ3からなる連立政府であった。第2次連立政府は、「外敵と闘争し反革命より国家を守る政府である」と宣言し発足した。彼はブルジョワとソヴィエトの対立を調停する役回りを演じることで権力を維持しようとした。しかし、戦争継続の方針は変えず、悪化する経済に有効な対策を打てなかった。 ケレンスキー政府は、これ以上の革命の進展には反対するが、他方で民主主義化を推進しようとした。しかし、この中間主義的な政策は、革命派、反革命派の双方から不満を持たせた。 7.18日、臨時政府はコルニロフ将軍を最高総司令官に任命、軍隊の刷新をはかった。コルニロフ将軍は、戦闘部隊内での政治的集会の禁止、前線の兵士ソヴィエトの解散・軍紀の回復を求めた。 ガリシア東部ではオーストリア軍の前進が開始され7.29日タルノポリに到達した。*月にはいるとドイツ軍第8軍(フーチェル)が冬期と同じくリガで攻勢にでた。今度は逆にドイツ軍がブルシロフの方法をまね強襲部隊による浸透作戦を実験的に導入した。これ以降この方法はフーチェル戦術と呼ばれる事になった。ロシア兵は脱走があいつぎ弱体化していたがそれでもよく戦った。2万人以上の捕虜は出しリガを失ったが、後方で踏みとどまった。 ドイッチャーは、「ロシア革命50年」の中で、次のように評している。
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【トロツキーその他ボリシェヴィキ党に入党】 | |
7.26-8.3日、ペトログラードで、ボリシェヴィキ第6回党大会が開かれ、この時、武装蜂起による権力奪取を決定した。トロッキー、メジライオンツィその他がボリシェヴィキ党に入党した。トロツキーは中央委員に選出された。
「七月事件」以後の展開は、革命の平和的発展の可能性についてのレーニンの期待を、いったんは打ち砕いたが、この時期に彼は「立憲的幻想について」を書き、次のような見通しを語っている。
「ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の経過と結果が、制憲議会のありかたを規定するのであって、その逆ではない」、というのがレーニンの理解だった。 |
【コルニロフのクーデター未遂事件】 | ||
8月の後半、ケレンスキー政府の下でロシア軍の最高総司令官に就任した参謀長L・G・コルニーロフ将軍は、反戦を主張するソヴィエトを打倒しなくては戦争指導は難しいと考え、ケレンスキーの協調主義的な態度に不満を抱き、臨時政府と軍指導部との対立が深まった。ペテログラードに前線の軍を派遣しソビエトの打倒をはからねば、有効な戦争指導は難しいと考え、軍の首都への導入を依頼した。当初はケレンスキーもこれを支持し、かくて8.24日、コルニーロフ将軍は、第三騎兵軍団を首都に向けて進撃させた。 ところが、コルニーロフ将軍が、「臨時政府は即時政権を最高司令官の手中に引き渡せ」と主張し始めた。8.25日、コルニーロフ将軍の反乱が発生した。 9.12日、ケレンスキーは、コルニロフの軍が首都に近づくにつれ、「コルニーロフ軍が権力の奪取を狙って軍事攻撃によって臨時政府を転覆しようとしている」ことに脅え、反乱と見なすこととなった。 ケレンスキー政府は一転、この右からの脅威に対抗するため集められるかぎりの左の支持を受け入れねばならなかった。臨時政府の危機にあたって、ケレンスキーはソビエトに「無条件支持」を要求し、ボリシェヴィキに支援を訴えた。各地のソビエトが臨時政府に協力して軍隊の進撃を妨害し始めた。その当時、労働者に配られた四万挺の銃のうち、かなりの部分はボリシェヴィキの赤衛隊に渡った。ボリシェヴィキ非合法化が解除され、ボリシェヴィキは、コルニロフと闘うためにケレンスキー政府と同盟を結んだ。 この時のことを、レーニンは次のように述べている。
ケレンスキーは鉄道労働者にストを指令し、さらにペテログラードにソビエトの活動家を核とする赤衛隊なる義勇軍を創設した。この反革命との闘争においてボルシェヴィキは指導権を握り、全国に檄をとばし赤衛隊を結成し防衛に努めた。鉄道労働者はロシアで唯一熟練工の組織で臨時政府に忠実だった。反乱軍は鉄道労働者のサボタージュによって立ち往生し、ソヴィエトの工作員の説得を受けて兵士たちは解散しはじめた。元々戦意の乏しいコルニロフの軍は行き場を失い、原隊に復帰していった。 9.1日、コルニロフの軍事行動は失敗し、コルニーロフは逮捕された。ケレンスキー自ら後任の総司令官となった。「コルニーロフの反乱」は、ケレンスキーと軍部との離反を表面化させた。首都ペトログラードの兵士たちは、無意味な戦争で前線に派遣されることを嫌悪した。「平和=ドイツとの単独講和・戦争終結」を唱えるボリシェヴィキを支持する兵士が増大した。臨時政府に3人が入閣して、戦争継続政策に賛成していたメンシェヴィキ、エスエルにたいする支持は、首都で激減し始めた。 ケレンスキー政府はコルニーロフの反乱を鎮圧することができたが、それはソビエトの力に頼ったものであったから、臨時政府の無力をあらわにし、政府に閣僚を出しているカデットやエスエル右派、メンシェヴィキの信用はがた落ちとなった。 鈴木肇・氏の「ソ連共産党」は次のように記している。
コルニーロフ事件は、ケレンスキーと軍部との決裂を決定付けたことにより重要な意味を持つ。軍部は政府に忠誠を保つのが慣わしのところ、将校団は、コルニーロフの下に結集することはなかったとはいえ、ケレンスキーのアピールに困惑し軽蔑した。将校団の間で人気のある指揮官への首相の対応や、その彼と共謀したと多くの傑出した将軍を告発し逮捕したこと、そして、左翼に首相が迎合したことが理由であった。ロシア10月革命時に、ケレンスキーが、彼の政府をボリシェヴィキから救うよう支援を軍部へ訴えたとき、彼に応えるものは誰もいないという結果を招くことになった。 |
【ボリシェヴィキヘの支持が急速に進展】 | |
8.31日、コルニロフ運動崩壊後、ソヴィエト代表のリコールと再選挙が無制限に行なわれた結果、首都の労働者および守備軍の間に感情の変化がつくり出され、ボリシェヴィキヘの支持が急速に進展していった。ボリシェヴィキは、コルニーロフ反乱の粉砕後勢いを増し、首都ペトログラードとモスクワを初めとするソヴェトにおいて、多数派となった。この力に押されてメンシェヴィキとエスエルは、カデットとの共同入閣を拒否する方針を決めた。
9.4日、「七月事件」以来投獄されていたボリシェヴィキ指導者たちが、トロツキーとカーメネフも含めて釈放された。この頃、社会民主党はメンシェビキの首領トロツキーがボルシェビキ寄りとなり、またジノビエフやカーメネフなどのボルシェビキが穏健化していたが、臨時政府打倒で統一がとれてきた。 |
【トロツキーを議長とする革命派の新幹部会が選出される】 | |
9.9日、ペトログラード・ソビエトの幹部会が改選されて協調派が権力を失い、出獄したばかりのトロツキーが議長に選出された。次のように記されている。
ボリシェヴィキを多数派とする革命派の新幹部会が選出された。ひき続き各地のソビエトは急速に革命化し、「全権力をソビエトへ」という決議が各地で採択される状況となった。 |
【「農民革命」】 |
宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「2、農民革命のデータ」を援用する。長尾久・氏の「ロシア十月革命」のP.146〜147、152、163を参照(目下は転載)する。 首都を中心として二月革命後最大の闘争が起った7月は、1917年の農民運動が最高の件数を記録した月でもあった。ミンツの表によると、6月の577件に対して、7月は1122件を記録している。農民運動は全国のほとんどすべての県で起っているが、そのうち件数の多かったのは次の県である。カザーン県75件、モギリョーフ県74件、サラートフ県65件、スモーレンスク県53件、ペンザ県51件、クールスク県47件、フスコーフ県44件、リャザーン県43件、オリョール県42件、キーエフ県40件。地域的には、ヴォルガ中流域が断然トップであり、中央農業地帯がこれに次いでいる。 全国的に見た運動の内容は次のようだった。所領奪取三六件、牧草地・草刈場奪取二四四件、森林区奪取二二件、農具・家畜奪取三二件、収穫穀物奪取五九件、強制借地二九件、森林伐採・搬出禁止三六件、労働者排除八一件、その他二三三件。(P.163) |
(私論.私見)