補足 ボルシェヴィキとメンシェヴィキ、エスエルとの様々な論争

【ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの対立発生】 
 1903年夏(7―8月)、ロシア社会民主労働党の第2回大会が開かれた。当初はブリュッセルで次にロンドンに会場を移している。76の社会民主主義組織が代表を送り、この大会がマルクス主義政党の実質上の創設大会となった。初めてマルクス主義的な党綱領が採択された。この時の綱領で、党の当面の任務として民主共和制の樹立(最小限綱領)、最終目的として資本主義の打倒、プロレタリア―ト独裁の樹立(最大限綱領)が掲げられた。

 この時、党規約を廻って対立が発生している。のっけから党規約第一条の党員資格に関する規定をめぐって見解が齟齬した。いわゆる「党員の資格論争」であるが、レーニン案とマルトフ案が対立した。
レーニン案 「党の綱領を承認し、物質的手段により、又党の一組織に自ら参加することによって党を支持する者は、全てロシア社会民主労働党の党員とみなされる」。
マルトフ案 「党の綱領を承認し、物質的手段によって党を支持し、党の一組織の指導のもとに、常に党に規則的な個人的協力を行うものは、全てロシア社会民主労働党の党員とみなされる」。

 これによれば、レーニン案は、党を「職業的革命家からなる中央集権的前衛党」として構想しており、党員資格を「党組織に加盟する職業的革命家」と規定していた。これに対し、マルトフ案は、「職業的革命家に援助・同調する者も党員として認めよう案」、つまり、党員資格を「規則的に自ら党に協力することで十分」だとしていた。党を「より幅の広い大衆的労働者党」として構想しており、西ヨーロッパ風の大衆政党的なものを考えていたことになる。


 議事録には、プレハーノフの「レーニンの話を聞くと、レーニンが正しいように思えるし、マルトフの話を聞くとマルトフが正しいように思われる」と冗談を飛ばしている。トロツキーはこのとき、マルトフ案を支持してレーニンと対立している。この規約第一条を廻って票決され、28対22、棄権1でマルトフ案が採択されている。

 更に、党組織における民族運動の位置付けを廻っても対立が発生した。ユダヤ人ブント達(ユダヤ人労働者の社会民主主義組織)は党を諸民族の連合組織とすべしと主張し、他方レーニンらは民族主義を排して国際主義的な中央集権的な組織にすべしとしていた。結局、党組織に関する民族主義的要求が拒否されたことにより、ブントが退場する事態となった。

 これにより、党指導機関の選挙では、レーニン・プレハーノフ派が多数となった。それが為、多数派=ボリシェヴィキと称することになった。マルトフ派は少数派(メンシェヴィキ)と呼ばれることになった。トロツキーは少数派につく。どちらも当初は少数のインテリの党派に過ぎなかったが、この呼び名は、その後の両派の争いで常にメンシェヴィキを不利な立場においていくことになる。こうして、早くも、ボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)の二派が生み出されている。

(私論.私見) ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの対立考

 いわゆる「党員の資格論争」を廻って、ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの対立が発生したが、我々はこれをどう評すべきか。案外とこうしたところが論ぜられていないように思われる。しかし、こういうところを意思統一しておくことが党派形成にあっては必須事項では無いだろうか。それを曖昧にするところから実りある運動が産み出されることは無かろうに。
 



【トロツキーの精力的な活動】 
 8月、トロツキーが『シベリア代議員団の報告』を執筆し、レーニンとプレハーノフを厳しく批判。しかし、出版直前に、プレハーノフがメンシェヴィキ側についたのを受けて、プレハーノフ批判の部分を削除して出版。

 1904年、この年、トロツキーが『われわれの政治的課題』を出版する。レーニンの代行主義を批判。

 2月、日露戦争勃発。

 パルヴスが「戦争と革命」と題する連続論文を『イスクラ』に発表し、トロツキーに大きな感銘を与える。

 3月、トロツキーの論文「われわれの軍事カンパニア」をめぐってプレハーノフと対立し、新『イスクラ』編集部から排除される。

 9月、トロツキー、メンシェヴィキからの離脱を表明。

 1905年、トロツキーが一連の評論『1月9日以前』を出版。自由主義を厳しく批判し、ゼネラル・ストライキ論を展開。



「ロシア社会民主労働党の統一問題におけるレーニンとトロツキーの対応差」考

 この頃、「ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂していたロシア社会民主労働党の統一問題」が浮上していた。トロツキーは、1907年のロンドン党大会での演説に始まり、1917年にいたるまで、党内では基本的に一貫した「党統一派」であり、とりわけ1914年の第一次世界大戦勃発までは、レーニンの分裂主義を厳しく批判する最大の論客であった。当時トロツキーは、この反動期に、党統一や党建設に関する数十本の論文を、自分が編集していた労働者新聞ウィーン『プラウダ』(1908〜1912年)やメンシェヴィキの機関紙『ルーチ』(1912〜1913年)や解党派の雑誌『ナーシャ・ザリャー』(1911〜1912年)、自分の編集していた党統一派の雑誌『ボリバ』(1914年前半)などに書いている。

 他方、この時期のレーニンの諸論文には、ことあるごとにトロツキーに対する攻撃的文言が見られ、これが後に、レーニン死後に大々的にトロイカやスターリニスト分派によって利用されることになる。

(私論.私見)ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの対立考

 「ロシア社会民主労働党の統一問題」は、この後も底流の覆水として流れつづける。結局、1917年にボリシェヴィキが旧ロシア社会民主労働党内の多くの潮流を統一することになる。トロツキーの「統一のための闘争」は、レーニン主義的方向で結実したことになる。それがトロツキーの意に反していたのか、両者練り合わせの高次な段階での統合であったのかが判断の分かれ道となる。

 確認すべきは、トロツキーらが「革命の大義」を優先させて、1917年の激動の革命情勢に呼応してボリシェヴィキ派に合流したという史実であろう。ここに見られるのは、党内対立を自己目的化するのではなく、この時期の論争が相互に有意義であったということであろう。

 実際、レーニンとトロツキーの革命論の違いは、相互に補完しあっていたように思われる。「レーニンの労農民主独裁論は、トロツキーの永続革命論に対立させる形で提起されていたとはいえ、その内的ダイナミズムは永続革命論へと成長転化する論理構造を有していた」。





(私論.私見)