クロンシュタット反乱

 (最新見直し2005.12.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、マルクス主義運動史をれんだいこなりに整理しようとし始めているが、ボリシェヴィキ10月革命後に起こった「クロシュタットの反乱」の歴史的意義の重要性が分かり始めた。しかし、れんだいこにはあまりにも知識が無い。そこで、宮地健一氏の共産党、社会主義問題を考えるの中の「クロンシュタット1921(P.アヴリッチ)」、「クロンシュタット1921年 ヴォーリン」を下敷きにする。今は只学ぶばかりです。

 2005.12.22日再編集 れんだいこ拝


【「クロシュタットの反乱」の諸事情】

 「クロシュタットの反乱」が引き起こされた要因を確認しておく。一つは、「内戦がもたらした荒廃からくる苦境」に対する批判であり、もう一つは、「革命政権の反革命政策」に対する抗議であり、後もう一つは、秘密警察チェカの圧政に対する抵抗であった。いずれにせよ、ポルシェヴィキ革命政権の統治体制に対する反乱の狼煙であった。 
 
 「内戦がもたらした荒廃からくる苦境」は次のように説明できる。

 3年におよんだ内戦の後に残されたのは荒廃した国土と破綻した経済であった。工業生産は大戦前の7分の1、穀物生産は5分の1へと激減していた。とりわけ1920〜21年は大凶作となり、500万人が餓死したと伝えられている。このことは、革命政権の失政にも負っていた。工業政策に於ける強引に国有化したこと、農業政策に於ける地主や富農を「打倒すべき階級」として銃殺もしくはシベリア送りしたことは余りにも通俗マルクス主義理解による教条主義的政策であった。

 「革命政権の反革命政策」に対する抗議は次のように説明できる。

 ボリシェヴィキが支持基盤とみなした貧農すら、余剰をすべて徴発されたため生産意欲を失ない、食糧を隠したり蜂起したりして抵抗した。政府は彼らを「暴徒」とみなして弾圧し、女子供、老人をふくむ村民全員を銃殺することもあった。慢性的な飢餓にさらされていた都市の民衆の間でも、ボリシェヴィキ独裁に対する不満は頂点に達していた。1921.2月、ペトログラードの労働者が民主化を要求し、ストに突入した。レーニンは赤軍を派遣してこれを粉砕した。「労働者と農民の政府」が、帝政以上に力ずくで労働者と農民を抑圧する体制であることが明らかとなってきた。

 「秘密警察チェカの圧政」に対する抵抗は次のように説明できる。

 ボリシェヴィキ10月革命を支持した多数の人民は、マルクス主義が提起する共産主義社会に「古いロシアのミール」を重ね合わせていた。従って、ソヴェトは「自由なソヴェト」として意味を持っていた。「すべての権力をソヴェトヘ」はそういうものとして支持されていた。しかしながら、10月革命の後権力を掌握したレーニン率いるボリシェヴィキは、鉄の規律を持った中央集権主義を強制し始めた。それは、マルクスが指針させた「プロレタリア独裁論」の生硬な実施でもあった。ソヴェトはしだいに党の統制に従属せしめられ、官僚制が生み出されつつあった。

 この経緯の中でチェカが創設され、ボリシェヴィキ式建国革命に抵抗する者に容赦ない弾圧が加えられ始めた。種々の抗議運動が抑圧され、首謀者の逮捕が続いた。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者は拘留された。「二月の最後の数日間に、約500名の反抗的労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てた。同様に検挙された学生、知識人、およびその他の非労働者はおそらく数千名を数え、その多くは反対政党およびグループに所属していた」と云われる。

 ペトログラートのメンシェヴィキ組織もチェカによって弾圧された。活動的指導者のほとんどすべてが監獄へ護送された。カズコーフとカメンスキーは労働者のデモを組織したのち、二月の末に逮捕された。ロシコーフとダンを含む少数の者は、一日長く自由の身でとどまり、夢中でかれらの声明やチラシをつくって配付したが、まもなく警察によって検挙された。「1921年の最初の3カ月間に、党の全中央委員を含む約5000名のメンシェヴィキがロシアにおいて逮捕されたと推定されている、と。それと同時に、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエス・エルとアナーキストが同じく検挙された」と云われる。

 「クロシュタットの反乱」は、こういう諸事情の中から引き起こされた。「クロシュタットの反乱」の史的意義は、詳細は省くがロシア10月革命を成功裏に納めた際の革命軍の一翼を担う数々の歴史的役割を果たしてきたクロシュタットが、いざ革命政権が樹立されると、当の革命政権側から弾圧されたという悲劇の歴史性にある。その要因はナヘンにありや、これを考察せねばならない。


クロンシュタット反乱の様子と経緯

 1921.2月、ペトログラードの国有工場でストライキ発生。労働者の集会は軍隊によって解散させられ、指導者は非常委員会に逮捕された。工場にはロックアウトが布かれた。これに呼応して「革命の英雄」と云われてきたロンシタット軍港要塞の水兵が立ち上がる。これを主導したのは、クロンシュタットのもっとも戦闘的な分子としての水兵左派であった。

 反乱者達は、クロンシュタットの民政および軍事問題を指導する臨時革命委員会を戦艦「ペトロバヴロフスク」で立ち上げ、市内にある人民会館へ移動させた。この短い期間に注目すべきタイプの革命的コミューンが委員会の指導のもとに樹立されている。

 1921.3.1日、フィンランド湾内に位置するバルト艦隊の軍港クロンシュタットで、二隻の軍艦の水兵ら1万5千名が反乱をおこし、要塞を占拠した。彼らの要求は、自由選挙・複数政党制・全政治犯の釈放・農地私有の保障などで、ロシア民衆が考える革命本来の精神を代弁するものといえた。

 
3.2日、委員会は教育会館における会議で5名議長団を選出し、組織系統を確立した。委員会議長としてペトリチェンコ、その補佐として副議長にヤコヴェンコとアルヒーポフ、書記としてキリガストが選ばれた。残りの委員のそれぞれには特定の責任分野が割り当てられた。すなわち、市政問題はヴァリクとロマネンコによって、司法はパーヴロフによって、また交通はバイコーフ(クロンシュタットにおけるかれの正規の仕事は要塞建設部運輸主任であった)によってとりしきられ、他方トゥーキンは食糧供給の、またペレピョールキンは扇動と宣伝の責任者とされた。この時の代議員は、200から300名の間を上下した水兵、兵士、および労働者によって構成されており、反乱の期間存続した。

 更に、3.4日夕方、クロンシュタットの工場と軍事単位から約200名の代議員が守備隊クラブに集まり、「勝利か死か!」の絶叫のなかで、15名からなる拡大革命委員会を選出した。

 3.8日、同11日、拡大革命委員会が開かれ、共産党の支配と統制から自由な、新しいクロンシュタット労働組合評議会を創設した。会議はクロンシュタット独特の「自由なソヴェトのひながた」的な議会形態を採用していた。議題はもっぱら防衛、食糧と燃料供給の問題で占められた。

 組織、立案、および宣伝の諸問題で、水兵は最初からイニシアティヴをとり、またその短い歴史を通じて運動において指導的役割を演じ続けた。兵士はひとりとして(まして士官は)臨時革命委員会に議席をもっておらず、民間の労働者と雇用者はその構成員のほんの小さな少数派を形成しているにすぎなかった。だが、もし水兵が先頭に立ったなら、クロンシュタット守備隊――周辺の砦と砲台に配置されていた「軍事専門家」と赤軍兵士――はただちに同調し、そして町の住民もまた、その職業がかれらを密接に接触させていた水兵の影響につねに敏感であったところから、積極的な支持を申し出たのであった。またたくまに、クロンシュタットはその無関心と絶望のなかから揺り動かされた。反乱の絶頂期にこの島を訪れたフィンランドの一新聞記者は、その住民の「熱狂」によって、目的と使命についてのかれらの更新された意識によって感銘を受けた。

 蜂起の最初の数日間に、午後11時以降の外出禁止令が課され、市の内外への移動は厳重な統制下に置かれた。学校は以後通告があるまで閉鎖された。それと同時に、革命委員会はクロンシュタットの政治機構にふれる一連の布告を発した。

 「ペトロバヴロフスク決議」の第7項目にしたがって、委員会は要塞の政治部を廃止し、守備隊クラブでの新しい教育プログラムを発足させた。現地の労働者および農民監督部は労働組合代表者委員会によって置き換えられた。これは「ペトロバヴロフスク憲章」の第14項目において規定されていた「巡回統制局」のモデルとして意図されていたようにおもわれる。そのうえ、どの公共機関、労働組合、工場、および軍事単位にも、革命委員会の指令を現場レヴェルで遂行するため革命トロイカが―共産党員を混えずに―選出された。

 「ペトロバヴロフスク決議」の第9項目。差別食糧配給制は廃止された。特別割り当ては病院と保育所にのみ与えられ、また超過食糧は医師の処方箋にもとづいて病人に施された。それ以外では、クロンシュタットにおける食糧は平等の原則のもとにクーポン券と引き換えに発給された。配給は、革命委員会の厳重な監視のもとに、ふたつの既存機関、ゴルコムナとゴルプロドコムによって取り扱われた。ときどき、配給地点が反徒の新聞、臨時革命委員会の日刊紙『イズヴェスチヤ』紙上で報道された。委員会はまた、町の住民へ特別声明を放送するためまた外部の世界と交信するため、「ペトロバヴロフスク」のラジオをも使用した。


【クロンシュタット綱領について】
 クロンシュタット綱領は、当時のボリシェヴィキの戦時共産主義諸政策と極めて対照的であった。一つは、「内戦がもたらした荒廃からくる苦境」に対する批判であり、もう一つは、「革命政権の反革命政策」に対する抗議であり、後もう一つは、秘密警察チェカの圧政に対する抵抗であった。いずれにせよ、ポルシェヴィキ革命政権の統治体制に対する反乱の狼煙であった。 具体的に、ソビエトの改選、言論・出版・結社の自由、政治犯の釈放など民主主義的なスローガンを掲げていた。

 
次のようにボリシェヴィキを批判していた。
 「共産党支配はロシア全土を未曽有の貧困、飢餓、寒気、およびその他の窮乏におとしめてきた。工場と作業場は閉鎖され、鉄道は崩壊寸前にある。農村は骨まで搾り取られている。われわれはパンも、家畜も、土地を耕すべき農具ももっていない。われわれは衣服も、靴も、燃料ももっていない。労働者は飢えかつこごえている。農民と町の住民はかれらの生活の改善のためのあらゆる希望を失っている。日ごとに、かれらは死へ近づいている。共産党の裏切り者は諸君をすべてこのような状態に零落させたのである」。

 クロンシュタット綱領は、
武装徴発分遣隊による食糧の奪取を激しく糾弾した。ボリシェヴィキ政権の「新しい農奴制」と批判した。クロンシュタット「イズヴェスチヤ」は概要次のように述べている。
 「なにごともみなまったくすばらしい――土地はわれわれのものだが穀物はきみたちのものだ、水はわれわれのものだが魚はきみたちのものだ、森林はわれわれのものだが木材はきみたちのものだ」、「政府の略奪を阻止したいかなる村人も、かれらがいかに貧困化し絶望しているかにかかわりなく、『クラーク』とか『人民の敵』とかいって非難されている」、「国営農場の設置は、農民からかれらがかれらの正当な所有物とみなしているものを奪ったのみならず、帝政時代におけるように雇用労働と変わるところが無い」。

 「イズヴェスチヤ」は、自身の労力によって自身の利益のために小規模耕作を営むための農民の権利を擁護した。国営農場は「新しい地主――国家――の所領」にほかならなかった。次のように述べている。
 「これこそ、農民が、かれらの新たにかちとった土地の自由な使用の代わりに、ボリシェヴィキの社会主義から受け取ったところのものである。徴発された穀物と没収された牛や馬と交換に、かれらはチェカの急襲と銃殺隊を得た。労働者国家におけるすばらしい交換制度――パンの代わりに弾丸と銃剣だ!」。

 工業においても、同じ理由によって、反徒は労働者と小手工業生産者が自身の運命を統御し自身の労働の生産物を享受するための自由を欲した。生産の国家統制をともなった工業の国有化をも承認しなかった。クロンシュタット「イズヴェスチヤ」は概要次のように述べている。
 「『労働者の統制』のもとで生産を破壊したのち、ボリシェヴィキは工場と作業場を国有化することへ進んだ。資本家の奴隷から、労働者は国営企業の奴隷へと変えられた」、「それと同時に、労働組合は、工場を運営し労働者の教育的ならびに文化的前進を助ける代わりに、無益なペーパー・ワークへと零落せしめられた、『中央集権化された共産党の殿堂』になってしまった。新選挙だけが組合を労働者の『広範な自決権』のための自由な機関へと転換させることができる。職人と手工業者については、かれらはかれらが雇用労働を用いぬかぎり完全な自由が与えられなければならない」、「『革命的クロンシュタットは』、異なる種類の社会主義のために、生産者自身が唯一の主人でありかれが適当と認める仕方でかれの生産物を処分することができる、勤労者のソヴェト共和国のためにたたかっているのである」。

 共産党を批判し、クロンシュタット「イズヴェスチヤ」は次のように述べている。

 概要「ボリシェヴィキは、権力を失うことのみを恐れ、またそれゆえ、『あらゆる手段――中傷、暴力、虚偽、殺人、反徒の家族への復讐――を許されるもの』とみなしている。革命の意味は戯画化され、労働者と農民は屈服せしめられ、国土全体は党とその秘密警察によって沈黙させられ、監獄は反革命分子によってではなく労働者と知識人によって満たされている」、「『旧体制の代わりに』、恣意、横柄、えこ贔屓、窃盗、および投機の新しい体制、ひとがパン一切れごとに、ビスケット一片ごとにその手を当局に差し出さなければならない恐ろしい体制、ひとが自分自身にすら属さない、ひとが自分の労働力を処分することができない体制、奴隷根性と堕落の体制が確立された。・・・・・・ソヴェト・ロシアは全ロシア強制収容所となってしまった」。

「クロシュタットの反乱」者達の思想について

 クロンシュタットの反乱の主力となった水兵たちは、1917年の革命時には興奮の中にあり、自身を「コミューン人」になぞらえていた。彼らが彼らの運命をボリシェヴィキに投じた4年前、彼らはボリシェヴィキが同じ目的を分かち合っていると考えていた。それまで、ボリシェヴィキは全く仲間の革命家であり、圧政と不正を除去し勤労者の自由なソヴェト共和国への門戸を開く大衆的大動乱の使徒であった。

 その頃のレーニンは、次のように述べていた。

 概要「社会主義は、上からの命令によっては創り出されない。国家=官僚主義的自動性はその精神とは異質なものである。社会主義は生きており、創造的なものである――人民大衆自身の創造物である」(1917.11月時の宣言)

  「クロシュタットの反乱」者達がボリシェヴィキと共同戦線化していたのもむべなるかなであろう。

 しかし、革命政権は、ソビエトの改選でボリシェヴィキ一党化させ、秘密投票を復活させ、言論・出版・結社・集会の自由を制限し、反政府活動で活動家を逮捕し始めた。「クロシュタットの反乱」はこれらの「反革命政策」に対する抗議と抵抗であり、ボリシェヴィキ共産党独裁統治体制に対する反乱の狼煙であった。次のように説明されている。

 「続く月々に、しかしながら、中央集権的独裁制の出現を目撃し、水兵は裏切られたと感じた。かれらは、かれらがそのためにたたかってきた民主主義的諸原則が新たな特権的エリートによって放棄されてしまった、と感じた。国内戦の期間、かれらはボリシェヴィキに忠誠のままでとどまっていたが、革命をその当初の道へ引きもどそうと決意した。そして、ひとたび白軍の危険が除去されるや、かれらは一〇月の誓約を取りもどすべく立ち上がったのである」。

 「クロシュタットの反乱」者達は、その中核は水兵であったが、ここへ至ってボリシェヴィキによる「革命の転倒」に対して立ち上がった。水兵たちは、10月革命に「勤労者の共和国」という夢を重ねていた。しかし、革命後のロシアに立ち現れたのは事実上ボリシェヴィキの独裁にほかならなかった。これをプロレタリア独裁と云う用語で正当化していたが。「勤労者の共和国の夢」を見ていた者達は、ロシア10月革命によって労働者・農民の言論、出版、および集会の自由は当然に確保され以前よりもより保障されるものと考えていた。そういう意味では、「革命前のソヴェト制のもっとも頑強な支持者」であった。ボリシェヴィキによる一党支配を予定していなかった。

 1917年のボリシェヴィキのスローガン、「すべての権力をソヴェトヘ」を支持したが、ボリシェヴィキ一党支配による政党と国家の混同的「プロレタリア独裁」まで支持していた訳ではなかった。「クロシュタットの反乱」者達は、全左翼組織(エスエル、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、アナーキスト、マクシマリスト)の合議制的ソヴェトを要求していた。

 その背景事情が次のように説明されている。

 「クロンシュタットの一水兵が1918.1月、憲法制定会議の解散を指導したことは象徴的である。3年後も、水兵は憲法制定会議あるいはいかなる類似の機関にも断固反対する立場にとどまっていた。かれらの眼には、国民議会というものは革命によって追い払われた同じ分子そのものによってではないまでも、新たな特権的少数派によって必然的に支配されるであろう、と映じていた。かれらは代議制政府にはなんの効用ももっておらず、自由なソヴェトを通じての一般人民の、一般人民による直接大衆民主主義を欲していた。「憲法制定会議ではなく、ソヴェトこそ、勤労者の堡塁である」、と臨時革命委員会の機関紙は宣言していた。反徒にとって、要するに、議会とソヴェトは正反対の政府形態であって、一方はブルジョワジーの、他方は勤労者の優越をともなっていたのである」。

 この思いは、決起時の声明「イズヴェスチヤ」の冒頭のモットー「すべての権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」で明らかである。3.6日の「ペトロバヴロフスク」ラジオ宣言は次のように断じている。

 概要「われわれの主張は正当である。われわれは、権力をソヴェトヘ、だが政党ではなくという立場に、勤労者の自由に選挙された代表制という立場に立っている。共産党によって奪取され操作されているソヴェトは、われわれの要求と必要の一切につねに耳を閉ざしてきた。われわれがこれまでに受け取った唯一の回答は発砲である」。

 反乱は、単一政党ないしグループによってかきたてられたものでもなければ、仕組まれたものでもなかった。その参加者は、体系的なイデオロギーも注意深く練り上げられたいかなる行動計画ももっていない、さまざまな色合いの急進派――エス・エル、メンシェヴィキ、アナーキスト、共産党卒伍――であった。いくつかの革命的傾向からの諸要素を複合した、かれらの信条は曖昧で、よく規定されておらず、首尾一貫した建設的な綱領というよりむしろ、苦情のリスト、逆境と抑圧にたいする抗議の叫びであった。明確な提案、とりわけ農業と工業におけるそれの代わりに、反乱者は自由に選挙されたソヴェトを通じて機能する、クロポトキンが「大衆の創造的精神」と呼んだものにたよるほうを好んだ。

  かれらのイデオロギーは、おそらく、一種のアナルコ=人民主義としてもっともよく描かれよう。そのもっとも深い衝動は、農民と労働者が、下から組織された完全な経済的ならびに政治的自由をもって、調和のとれた協力のうちに生活する、自治共同体のゆるやかに結び合わされた連合体についての古代の夢、「土地と自由」派ならびに「人民の意志」派の旧ナロードニキ綱領を実現することにあった。

 気質と見解において反徒にもっとも近かった政治的グループは、革命的スペクトルにおける地位をエスエル左派とアナーキストとの間に占めながら両派の要素を分かち合っていた、エスエルのちっぽけな超戦闘的分派、エス・エル・マクシマリストであった。ほとんどすべての重要な点で、反徒の『イズヴェスチヤ』で述べられていたような、クロンシュタット綱領は、マクシマリストのそれに一致しており、機関紙の編集者がマクシマリストであった(ラマーノフという名の)というソヴェト側の主張に信用をかしている。マクシマリストは全体革命の教義を説いていた。かれらは憲法制定会議の復活に反対し、代わって中央国家権威を最小限にとどめる、自由に選挙されたソヴェトに基礎を置く「勤労者のソヴェト共和国」を叫んだ。政治的には、これはクロンシュタット人の目標と同一であり、そして「権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」は最初マクシマリストの結集の叫びであった。

 経済的分野における平行も劣らず著しい。農業では、マクシマリストは穀物徴発と国営農場の設置を非難し、すべての土地が農民へかれらの妨げられることのない使用のために引き渡されなければならないと要求した。工業では、かれらは「生産の社会的組織化と勤労人民の代表によるその体系的指導」に賛成して、ブルジョワ行政官にたいする労働者の統制を拒否した。マクシマリストにとって、反徒にとっても同様、このことは工場の国有化と中央集権的国家管理体系を意味しなかった。それどころか、かれらはたびたび、中央集権化はただちに「官僚主義」へと導き、労働者を巨大な非人格的機械におけるたんなる歯車におとしめることを警告していた。「国家管理と労働者の統制ではなく、労働者の管理と国家統制」が、計画と調整の任務を遂行する政府とともに、かれらのモットーであった。生産手段をそれらを使用する人民へ移管することが、要するに、絶対不可欠であった。これこそ、「すべての土地を農民へ」、「すべての工場を労働者へ」、「すべてのパンと生産物を勤労者へ」という、あらゆるマクシマリストのスローガンの趣旨であった。

 「われわれの反乱はボリシェヴィキの抑圧を除去するための原初的運動である。ひとたびそれがなされるなら、人民の意志はおのずから明らかになるだろう」。このように、ペトリチェンコは、フィンランドでのアメリカ人新聞記者との会見において、三月蜂起を特徴づけた。たった一行の文章で、かれは反乱の精神を伝えた。というのは、クロンシュタットのきわだった特徴はその自然発生性、それが同じ時期の農民一揆および労働者騒擾と分かち合っていた特徴、であったからである。単一の現象とみなすとき、これらの運動は、水兵がコサックとストレリツイの役割をみたしただけで、ラージンとプガチョーフの伝統における大衆の反乱を構成していた。組織された専制にたいする突然の爆発へのその傾向を、かれらは完全な規模で相続していたのである。この同じ伝統はまた、プーシキンが一八世紀のプガチョーフシチナを描いたように、古典的な「盲目で無慈悲な、ロシアの反乱」の新版として、一九一七年にみずからを表現した。アナーキスト、マクシマリスト、およびその他の左翼急進主義者にとって、「社会革命」がついに到来したのである。かれらはかれらの運命をボリシェヴィキに投じた。そのいくつかをサンジカリストとエス・エルから借用した、ボリシェヴィキのスローガンは、かれら自身の気分と熱望に合致していた。「土地を農民へ! 臨時政府打倒! 工場の統制権を労働者へ!」 革命的綱領としては、これはマルクス主義よりナロ−ドニチェストヴォに一層近く、そしてロシアの人口の教育を受けていない分子のアナルコ=人民主義的本能に強いアピールをもっていた。

(私論.私見)
 れんだいこが観るのに、「クロシュタットの反乱」者達の目線こそ本来のマルクス主義運動ではなかったか、と思われる。本来、マルクス主義運動は、彼らの願望こそ永続革命していくものであると思う。「クロシュタットの反乱」者達は、革命的民主主義者の目線よりもなおマルクス主義的であった。「自由」に対しても労働者・農民の階級的利益という観点を保持していた。彼らの「勤労者の共和国」思想は、いわゆるブルジョワ民主主義のそれではない。

 2002.12.22日 れんだいこ拝

「クロシュタットの反乱」者達と反ボリシェヴィキ左翼党派との関係に就いて

 「クロンシュタットの反乱」には反ボリシェヴィキ派の左翼政党との共同戦線化の動きが見られた。メンシェヴィキ、エスエル及びアナーキストは既にボリシェヴィキの権力独占と戦時共産主義制に抗議していた。反ボリシェヴィキ派は、1・全ての社会主義政党が代表される連立政府、2・自由なソヴェトと労働組合、3・労働者と農民の市民的自由、4・テロルの廃止、5・不当に逮捕されている社会主義者とアナーキストの釈放を要求していた。

 次のように述べている。

 概要「我々は、ソヴェトにおけるすべての政党の社会主義政府を形成することが必要だという立場をとっている。我々はこれ以外には、政治的テロルの手段による純粋なボリシェヴィキ政府の維持という、たったひとつの道しかないことを主張する。我々はこれを受け入れることはできないし、受け入れるつもりもない。我々は、これが無責任な体制の樹立へまた革命と国土の破滅へ導くであろうことを予見している」。

 後の経過から観て、この指摘は全て当っている。

 「クロンシュタットの叛徒」は思想的にアナーキズムに近接していたように思われる。この関係は次に述べるとして、先に「クロンシュタットの叛徒」とエスエル、メンシェヴィキの関係を見ておく。

 「クロンシュタットの綱領」は、エスエル綱領の1・農民と小生産者の必要、2・大規模工業の意義の過少評価という点で気脈を通わせていた、。だが、尊敬されていたエスエル指導者のヴィクトル・チェルノーフによって申し出られた援助の受け入れを拒絶した。エスエルの憲法制定会議の復活への要求にも裏書きを与えなかった。これらのことは、エスエルが反徒の運動の内部で優越的影響力をおよぼしてはいなかったことが明白である。

 「クロンシュタットの叛徒」とメンシェヴィキの関係はどうであったか。メンシェヴィキは、1905年におけるその最初の出現以来ソヴェトの第一の擁護者であり、そのソヴェトと深く関わってきた「クロンシュタットの叛徒」は影響を受けていても良かったが、若干の活動的メンシェヴィキが町や造船所における職人と労働者の間に見出されるぐらいであった。ソヴェト側の資料がメンシェヴィキとして確認している革命委員会の二人の委員はヴァリクとロマネンコで、ともに労働者であった。
蜂起のバックボーンになった水兵におけるメンシェヴィキの数は無視しうるほどであった。


「クロシュタットの反乱」者達とアナーキズムの関係に就いて
 「クロンシュタットの叛徒」は、アナーキストの影響を強く受けていた。艦隊の内部でつねにかなり強力であった。但し、この時点に於いては、卓越したクロンシュタット・アナーキストはもはや現場にはいなかった。憲法制定会議を解散した勇猛な若き水兵・アナトリー・ゼレズニャーコフは白軍との戦闘中に殺されていた。1917年における人気のあった錨広場の雄弁家・イ・エス・ブレイフマンは反乱の二、三カ月まえに死んでいた。そしてかれの同志で革命期間クロンシュタット・ソヴェトにおける指導的人物・エフィム・ヤルチュークはいまやモスクワにあって、投獄されていないときには、チェカによる厳重な監視のもとに置かれていた。ヤルチューク自身のクロンシュタット史は1921年におけるアナーキストに顕著な役割を割り当てていないし、その時代の他のいかなるアナーキスト資料もまたそうである。国内戦で死亡したか1920年代初期にソヴェト迫害の犠牲に陥ったアナーキストの徹底的名簿は、ゼレズニャーコフ、ヤルチューク、およびブレイフマン以外のクロンシュタット人を含んでいない。臨時革命委員会の委員のひとりだけが(ペレピョールキン)かつてアナーキストに結びつけられてきたが、そのときでさえ、ほんの間接的にであった。そのうえ、運動の機関紙は、『ペトロパヴロフスク』宣言のテキストを発表したとき、一度だけアナーキストに言及している。それは「労働者と農民、アナーキストと左翼社会主義政党への言論と出版の自由」を要求していた。

 それでも伝統は生きている。クロンシュタットにおいてかくも強力であったアナーキズムの精神はけっして消散してはいなかった。ペレピョールキンは反乱指導者の間でただひとりアナーキストといわれた者であったかもしれないが、『ペトロパブロフスク』決議の共作者ならびに扇動と宣伝の責任者として、かれはその自由奔放な見解を広めるのによい立場にあった。運動の中心的スローガンのいくつか「自由なソヴェト」、「第三革命」、「コミッサール政治打倒」――は国内戦の期間アナーキストのスローガンであったし、「すべての権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」もまたアナーキストの響きをもっていた。他方、たいていのアナーキストは「権力」へのいかなる訴えも避けていたであろうし、水兵は水兵で、いかなるアナーキスト政綱においても中心項目であった、国家の完全な排除をけっして求めてはいなかった。

 「クロンシュタットの反乱」は、ロシア全土のアナーキストを鼓舞した。かれらはクロンシュタットを「第二のパリ・コミューン」として歓呼し、それにたいして軍隊をさし向けたことで怒りをもって政府を非難した。反乱の絶頂期に、アナーキストのチラシがペトログラートの街路に現われた。それは反徒に背を向けている、大砲の轟音がフィンランド湾に轟いている間沈黙を守っているといって、その住民を批判していた。水兵はきみたち、ペトログラートの人民のために立ち上がったのだ、とチラシは宣言した。きみたちは眠気を払いのけ、共産党独裁にたいする闘争に参加しなければならない。そのあとで、アナーキズムが優勢を占めるだろう。ベルクマンやゴールドマンのような、その他のアナーキストは、その間、紛争を調停し大虐殺を回避するためむなしい努力を傾けていた。

 アナーキストのロシア革命史については、「アナーキストとボルシェヴィキの結合分離」で考察する。

「クロシュタットの反乱」者達と亡命地のロシア人の関係に就いて

 要約すれば、亡命地のロシア人(メンシェヴィキという一部の例外をともなう)は蜂起に歓喜し、あらゆる可能な手段によって決起者を助けようとしたのである。このかぎりで、かれらにたいするソヴェトの非難は正当化される。だが、亡命者が反乱を操縦していたということは正しくない。それどころか、パリとゲリシンクフォルスにおける一切の陰謀にもかかわらず、クロンシュタット蜂起は始めから終わりまで自然発生的かつ自己充足的な運動であった。証拠が示すところは、反乱が陰謀の結果であったということではなく、発端となる策謀が在外ロシア人サークル内に明らかに存在したということ、そして策謀家が、現存体制への水兵の敵意を分かち合いながらも、実際の蜂起ではいかなる役割も演じなかったということである。国民中央部は勃発を予想して、それを組織することを助ける、またフランスの援助で、その参加者に食糧、医療品、軍隊、および軍事資材を供給する計画をたてていた。中央部の究極的な目標は、反乱の統制権を握り、クロンシュタットをボリシェヴィキを権力から駆逐する新たな干渉の跳躍台にすることにあった。のちに判明したように、しかしながら、これらの計画を実行に移すには時間がなかった。噴出はあまりにも早く、策謀の基礎的条件――氷の融解、供給線の創設、フランス援助の確保、およびウランゲリの散在する軍隊の反乱地付近への輸送――がみたされる数週間まえに起こったのである。

 カデットとエスエルが反乱をみずからの利益に転じようとしたことは驚くにあたらない。だが、最後まで、主導権を担っていたのは水兵とかれらの革命委員会であった。かれらは自身の実例が本土における大衆反乱を爆発させることを自信をもって予想していたので、情勢が絶望的になるまで外部の援助を訴えなかった。しかも、かれらは亡命者たちがかれらに供給しようと骨折っていた援助のいかなるものもかつて受け取らなかったし、また、三月一六日のヴィルケン男爵の訪問を別にすれば、かれらの自称支持者とのいかなる直接的接触も蜂起の過程ではほとんど起こらなかった。利用しうる証拠は、ちなみに、いかなる白軍陰謀においても協力関係のもっとも論理的な源泉となる、亡命者とクロンシュタットにおける前帝政士官との間のいかなる種類の連環も暴露してはいない。


【レーニンのクロンシュタット反乱者考に就いて】
 「クロシュタットの反乱」は、1921.3月の第10回党大会最中のことであり、ほとんど討議しないで新経済政策を可決し、「クロシュタットの反乱」対策に向った。「クロシュタットの反乱」者達は、平和的な選挙を呼びかけただけであり、武装蜂起したわけではなかった。これに対してボルシェビキ政権は、水兵たちの説得にあたったが、水兵たちは要求を取り下げなかったた。レーニンの解答は、武力による鎮圧であった。党官僚と赤軍兵は、徹底弾圧に向った。

 レーニンとかれの党は、下からの革命よりは上からの中央集権的革命へ傾斜していった。農民が、貴族を排除しかれらに土地を与えた「ボリシェヴィキ」と、国営農場を設置し農村へ徴発隊を送りこんだ「共産主義者」とを区別したのは、理由のないことではなかった。1917年の時点では、ボリシェヴィキはアナルコ=人民主義的千年王国を約束したが、ひとたび権力を握るや国家主義的原理を振りかざし始めた。

 一般に、革命には、古い秩序を革命的独裁によって置き換える中央集権的傾向と、アナーキストやエス・エルによって追求されようとしていた地方分権的な人民民主主義的傾向のものとに分かれる。クロンシュタットは、後者の革命を追求しようとしていた。水兵は、ボリシェヴィズムの選良主義的な国家社会主義に背を向けた。かれらは、実に、ボリシェヴィキ綱領が社会主義であることをまったく否定するところまでいった。叛徒にとって、バクーニンの主張していたように「個人的自由と自決権のない社会主義は、新たな形態の圧制以外のなにものでもなく、ある点ではより一層悪かった」。

 「クロシュタットの反乱」の根底に横たわっていたのは見解のこの相違であった。ボリシェヴィズムの本質的な特徴は大衆の自発性にたいするその不信感であった。レーニンは、かれら自身の工夫にまかせておけば、労働者と農民は部分的な改革にみずからを満足させるか、さらに悪くすると、反動勢力の犠牲に陥るかいずれかであろうと信じていた。かれの見解によれば、それゆえ、大衆は献身的な革命的前衛によって、「外部から」導かれなければならなかった。これこそかれの政治哲学の基本的教義であったのであり、そしてかれはそれをクロンシュタットにおける状況に適用した。

 レーニンは、第10回党大会で、次のように告げた、

 概要「この事件の政治的ならびに経済的教訓を慎重に考量しなければならない。それはなにを意味しているのか。ほんの少しボリシェヴィキの右に、あるいは多分ボリシェヴィキの左にさえあるとの外観を与えている、悪しき取り合わせの諸分子のある名状しがたい集塊あるいは同盟への政治権力の移行である――ひとは、クロンシュタットにおいて自身の手に権力を収めようと企てている政治的諸グループのその結合がきわめて無定形である、ということはできない」。

 レーニンは、「クロシュタットの反乱」を白衛軍の陰謀に帰して非難した。しかし、その真の意義に完全に気づいていた。次のように認識していた。

 「運動は、、小ブルジョワ無政府主義的自然発生性の反革命、すなわち、同じ時期の農民および労働者騒擾と密接に結びついた大衆反乱である。そのようなものとして、それはボリシェヴィズムの生存にとって極度に危険、デニーキン、コルチャーク、およびユデーニッチを一緒にしたものより一層危険であったのである」。

 他のなににもまして、レーニンは新たなプガチョーフシチナの勃発を恐れていた。かれはボリシェヴィキを権力につかせたその同じアナルコ=人民主義的潮がいまやかれらを深淵に巻きこむことを恐れていた。水兵をことさらに危険なものとしたのは、白軍とは違って、かれらがソヴェトの名において反乱した事実である。反徒は、ヴィクトル・セルジュが論評したように、心身ともに革命に属していた。かれらは人民の苦悩と意志に声を与え、そしてこのようにして他のいかなる反対運動がなしえたよりもボリシェヴィキ指導部の良心を突き刺した。

 レーニンは反乱の大衆的アピールを理解していた。かれはそれを、かれが四分の一世紀まえ人民主義者を共同体と手工業的協同組合の過ぎ去った時代へのかれらのロマンチックな夢のゆえに攻撃したのと同じ仕方で、「小ブルジョワ」ならびに「半アナーキスト」として攻撃した。そのような幻想はボリシェヴィキ気質にとって呪うべきものであった。それはたんに原始的で不充分であったばかりでなく反動的でもあったし、また中央集権化された国家と中央集権化された工業機械がいたるところで勝利を収めていた、二〇世紀においては生き残りえなかったのである。

 これこそ、なにゆえ、レーニンにとって、クロンシュタットが国内戦の白軍より一層危険であったかの理由である。それは、たとえ達成されえなかったにせよ、ロシア下層階級のもっとも奥深い衝動と符号した理想を表わしていた。レーニンは次のように推論した。

 だが、もしクロンシュタットがその道を突き進むなら、それはあらゆる権威と凝集の終焉および一千もの個々ばらばらな断片への国土の分裂、一九一七年のような、だがこのたびは新しい秩序に逆行する、混沌と原子化のもうひとつの時代を意味するであろう。やがて、ある別の中央集権化された体制――左翼というよりむしろ右翼の――が真空を埋めるであろう。というのは、ロシアは無政府状態には耐えられないからだ」。

 かくて、レーニンにとって、針路は明らかであった。すなわち、いかなる犠牲を払おうとも、反徒は粉砕され、ボリシェヴィズムがクロンシュタットにおいて回復されなければならない、と。


【クロンシュタット反乱者とボリシェヴィキの交渉経緯、武力鎮圧の様子と経緯に就いて】

 3.8日、ボリシェヴィキがその最初の攻撃に乗り出したときまで、反乱者は平和的改革を期待し続けていた。その主張の正当性を確信していたので、かれらは政府に政治的ならびに経済的譲歩を強いるうえで全国の――そしてとくにペトログラートの――支持を得ることに自信をもっていた。共産党の攻撃は、しかしながら、反乱における新たな局面を画した。交渉と妥協の一切のチャンスは突然終わりを告げた。暴力が双方の側に開かれた唯一のコースとして残った。

 同日、水兵は新たなスローガンを声明した。すなわち、かれらは全ロシア住民に一九一七年二月と一〇月に始まった仕事を完成させるべく「第三革命」においてかれらに合流するよう次のように訴えた。

 「労働者と農民は、そのブルジョワ体制とともに憲法制定会議を、またその絞刑吏の輪なわが労働する大衆の首にまつわりつきかれらを絞め殺そうと脅かしている、そのチェカとその国家資本主義とともに共産党の独裁をかれらの背後に残しつつ、着実に前方へ行進する。・・・・・・ここクロンシュタットにおいて、労働する大衆から最後の足枷を打ち落し、社会主義創造性への新しい大道を切り開く、第三革命の最初の礎石が敷かれたのである」。

 3.18日、ポルシェヴィキは、5万人の軍隊を出動させた。重砲や航空機を交えた総攻撃の前に反乱軍はやぶれ、蜂起した水兵の指導者はこごとく銃殺、数千人が逮捕続いて銃殺された。双方で数千人の死傷者を出しながら、政府軍の勝利に終わった。生き残った反乱水兵は収容所送りとなった。 クロンシュタット反乱はほんの二週間少し続いたにすぎなかった。


【クロンシュタット反乱者の犠牲者とその後に就いて】
 その狂暴さにおいて、クロンシュタットの戦闘は国内戦のもっとも流血の激しい挿話に匹敵した。人命の損失はいずれの側でもきわめて大きかったが、共産党側は、堅固に守られた防衛者にたいして開けた氷原を越えて攻撃することをよぎなくされたので、はるかに大きな犠牲を支払った。

 3.3日から21日までの時期に、公式の厚生報告によれば、ペトログラートの病院は4千名以上の負傷者と爆音衝撃症患者を収容し、そのうち527名以上がベットのなかで死んだ。これらの数字は、もちろん、戦闘中に倒れた多数を含んではいない。戦闘ののち、あまりにも多くの死体が氷上に散乱していたので、フィンランド政府は解氷期が訪れたときそれらが海岸に打ち寄せられて健康上の害毒を生むことを恐れてそれらを取り除くようモスクワに要請したほどであった。

 公式資料による控えめの推定は全共産党死者を約700名、負傷あるいは爆音衝撃症を、2500名としているが、あるボリシェヴィキ参加者は、かれひとりが六号砦で目撃したものによって判断しても、これらの数字があまりにも過少にすぎると記している。もうひとつの推定は赤軍の損失を死者と負傷者合わせて2万5千名としている。しかしながら、ヴイボルク駐在のよく情報に通じていたアメリカ領事、ハロルド・クォートンによれば、ソヴェト側の死傷者総数は約1万名にのぼり、そしてこの数字が死者、負傷者、および行方不明者すべてを合計したもののほどよい計算とおもわれる。第10回党大会からの代議員約15名がこの戦闘においてかれらの生命を失った。その他の倒れたボリシェヴィキと一緒に、かれらは3.4日、ペトログラートで催された合同慰霊祭において軍事栄誉礼をもって埋葬された。

 反徒側の損失は信頼しうる数字は入手できないが、ある報告は死者600名、負傷者1千名以上、および戦闘中に捕虜となった者2500名としている。死者のうち、少なからぬ者が戦闘の最終的段階において虐殺されたのである。ひとたび要塞内に入るや、攻撃する軍隊は流血の饗宴のなかでかれらの倒れた同志のために復讐した。総攻撃の間に築き上げられていた憎しみの程度を測るものは、氷上を越えてフィンランドへ逃走する反徒に機銃掃射を加えるため飛行機が使用されなかったことへの、一兵士によって表明された遺憾であった。トロッキーと、かれの総司令官、エス・エス・カーメネフは反乱者にたいして化学兵器の使用を許可しており、そしてもしクロンシュタットがもっと長く抵抗していたなら、高等軍事化学学校の生徒によって考案された、砲弾と気球による毒ガス攻撃をおこなう計画が遂行されていたことだろう。

 クロソシュタットにおいては、その間、ボリシェヴィキは蜂起の痕跡を消し去るためあらゆる努力を傾けていた。パーヴェル・ドゥイベンコが、市から不同意分子と反逆思想を粛清する絶対権力を賦与されて、要塞司令官に任命された。復活されないクロンシュタット・ソヴェトの位置に、クロンシュタットのもっとも信頼されたボリシェヴィキ指導者の三名、ヴァシーリエフ、ブレグマン、およびグリボフで構成されるレフトロイカが、新しい司令官を補佐すべく設立された。

 3.18日、新しい新聞、『赤色クロンシュタット』が市内に出まわり始めた。戦艦『ペトロバウロフスク』と『セヴァストーポリ』は『マーラー』と『パリ・コミューン』へと改名される一方、錨広場は革命の広場となった。党の再登録がただちに実施され、その期間に約350名の党員が除籍されたか出頭しなかった。また、ある著者がそれを述べたように、「外科手術」がソヴェト海軍に執行された。信頼しがたいバルト水兵は黒海、カスピ海、およびアラル海へ、また極東におけるアムール河川艦隊へ分散させられる一方、すべての海軍部隊からその隊列内のいわゆるイヴァンモールイ――全部で約1万5千名――が追放された。最後の総攻撃に参加した赤軍兵士もまた、全国の遠隔地方へ分散させられた。かれらの指導者、トゥハチェフスキーがタンボフ地方におけるアントーノフのゲリラ活動を粉砕すべく派遣された懲罰遠征軍の指揮をとったのは、ようやく一カ月後のことであった。

 
クロンシュタットの捕えられた叛徒で公開の審問を受けた者はだれもいなかった。戦闘中に捕えられた2千名を越す捕虜のなかから、13名が反乱の主謀者として非公開(イン・カメラ)で裁かれるべく選ばれた。反革命陰謀という告発を補強するため、ソヴェトの新聞はかれらの社会的背景を強調することに骨折った。すなわち、5名が貴族の生まれの旧海軍士官、1名が以前の聖職者、そして7名が農民出身であった。かれらの名前は未知のものである。すなわち、だれも革命委員会には属していなかった。そのメンバーの4名
――ヴァリク、パーヴロフ、ペレピョールキン、およびヴェルシーニン――は政府の拘留のもとに置かれていたことが知られている。そのうえ、だれも蜂起において助言者の役割を演じた「軍事専門家」の間にはいなかった。それにもかかわらず、13名の「主謀者」は3.20日、裁判にかけられ死刑を宣告された。

 残る捕虜のうち、数百名がクロンシュタットでただちに銃殺されたといわれている。残りの者はチェカによってその本土上の監獄へ移された。ペトログラートでは、監獄はあふれんばかりにみたされ、数カ月の期間にわたって何百名という反徒が小集団ごとに引き立てられて銃殺された。それらのなかにはペレピョールキンが含まれていた。フョードル・ダンは、かれの監獄の中庭で運動していたさいかれに出合ったのである。処刑されるまえに、かれは蜂起にかんする詳細な説明を執筆したが、それがどうなったか、ダンは知らなかった。他の者は、白海における悪名高いソロフキ監獄のような、強制収容所へ送られ、強制労働に従事させられたが、それは多くの者にとって飢餓、消耗、および疾病からくるゆるやかな死を意味していた。若干の場合には、反乱者の家族も同様の運命に見舞われた。三月初めに人質に取られていた、コズロフスキーの妻と二人の息子は強制収容所へ送られた。かれの一一歳になる娘だけがそれを免れた。

 フィンランドへ逃走した反徒はどうなったであろうか。約8千名が氷上を越えて逃がれ、テリオキ、ヴイボルク、およびイノーにおける難民収容所に抑留された。逃亡者はほとんど全部水兵と兵士で、わずかの男性民間人、婦人、および子供が混じっているにすぎなかった。アメリカおよびイギリス赤十字がかれらに食糧と衣類を供給した。いくらかの者には道路建設やその他の公共事業において雇用が与えられた。だが、収容所における生活は荒涼としており意気消沈させられるようなもので、最初は土地の住民との接触を許されていなかった避難民は、適応するのが非常に困難であることを知った。フィンランド政府はかれらの他の諸国への移住を助けるよう国際連盟に訴えたが、他方ボリシェヴィキは武器とともにかれらの本国送還を要求した。特赦の約束に魅かれて、多くの者がロシアへ帰ったが、ただ逮捕されて強制収容所へ送りこまれるばかりであった。五月と六月、かれらのいくつかのグループは、強制労働と早期の死の未来へ旅立つ途中、ダンの監獄を通過したのであった。

歴史総括
 直後から、「クロシュタットの反乱」の性格と意義をめぐってボリシェヴィキと左翼反対諸党派との間に長期にわたって激しい論争が繰り拡げられてきた。この反乱をソヴェト・ロシアが戦時共産主義からネップへの移行の過程で当面した政治および経済上の諸問題という広範な背景のなかに据え、その意味を問うのが常道とされるべきであろう。ついで、反乱の経過、亡命ロシア人の連累、および反徒の綱領の内容の検討をせねばなるまい。**氏は、以上の考察を通じて、反乱の性格を歴史的にはプガチョーフ、ラージン以来のロシアの伝統的な反中央集権主義的農民反乱の系譜につながる、アナルコ=人民主義的志向性をもった、自然発生的民衆蜂起と規定している。

 クロンシュタット以後、艦隊内の権威を分権化したり軍事規律を緩和したりするいかなる問題ももはやなかった。それどころか、レーニンは、バルト艦隊は水兵が信頼しがたく艦艇の軍事的価値も疑わしいので解体されるべきだ、とトロッキーに提案した。だが、トロッキーは、そのような過激な処置が不必要である、とその同僚にどうにか説得することができた。代わって、ソヴェト海軍はすべての不同意分子を追放し、きたるべき年月に信頼に値する指導部を確保すべく海軍士官学校をみたしていた青年共産党員をもって、完全に再組織化された。それと同時に、赤軍内では規律が引き締められる一方、農民と労働者の志願者から選抜されることになっていた、民兵隊のための計画は永久に放棄された。

 なお一層重要なことに、反徒の政治的要求はひとつとして成就されなかった。起こったのは、むしろ、独裁的支配の強化であった。ネップの譲歩は、実際、ボリシェヴィキの権力独占をことさらに強固にするためになされたのである。第一〇回大会への演説のための梗概のなかで、レーニンは、「クロンシュタットの教訓:政治学では党内における隊列(および規律)の閉鎖、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。経済学では中産農民を可能なかぎり満足させること」と記していた。したがって、民衆のイニシアティヴは麻痺し、自由なソヴェトは挫折した夢としてとどまった。

 国家は『ペトロバヴロフスク』憲章において要求されていたような、言論、出版、および集会の自由を回復することや、政治犯として糾弾されていた社会主義者とアナーキストを釈放することを拒否した。蘇生したソヴェトの連立政府へ引き入れられるどころか、左翼諸政党は組織的に弾圧された。憂鬱な一致として、三月一七日の夜、クロンシュタット革命委員会が氷上を越えてフィンランドヘ逃走しつつあったとき、ソヴェト・ロシアにおけるその種の最後のものであった、

 罷免されたグルジア・メンシェヴィキ政府は黒海のバトゥーミ港を発って西ヨーロッパ亡命に向かった。国内戦の期間、あらゆる側面で白軍によって脅かされていたボリシェヴィキは、連続的な苦悩と監視のもとで左翼の親ソヴェト諸政党に不安定な存在を許してきた。クロンシュタット以後、これさえももはや容赦されなかった。合法的反対派という一切の見せかけは、一九二一年五月、レーニンが対抗的社会主義者のための場所は、白衛軍と肩を並べて、被告席か亡命地だと宣言したとき、放棄された。新たな抑圧の波が、当局が反乱と共謀しているといって非難してきた、メンシェヴィキ、エス・エル、およびアナーキストのうえに落ちた。

 より幸運な者は移住を許されたが、何千という人間がチェカの捜査網で一網打尽にされ、そして極北、シベリア、および中央アジアへ追放された。その年の終わりまでに、政治的反対派の活動的な残党は沈黙させられるか地下へ追いやられ、そして一党支配の地固めはほぼ完成した。こうしてクロンシュタットは、権威主義的体制にたいするすべての不成功に終わった反乱と同じく、その目指したゴールの反対に到達したのである。すなわち、民衆的自治政府の新時代の代わりに、共産党独裁が国土のうえにこれまでになく強固に縛りつけられたのであった。

 ボリシェヴィキ支配の引き締めは、党そのものの内部の分裂を終わらせる衝動によってともなわれた。「党内民主主義」を許すどころか、レーニンは、もし政権が現在の危機を生きのびなければならないとすれば分派抗争はただちにやめなければならない、と声明した。「反対を終わらせるための、それにけりをつけるための時は到来した」、とかれは第一〇回大会に告げた、「われわれはこれまでに充分反対をもってきた」。レーニンは反対派を打って屈服させる棍棒としてクロンシュタットを使い、党政策へのかれらの批判が反徒を激励して政府に抗して武器をとらせたのだとほのめかした。かれの見解は聴衆の間に強力な支持を見出した。かれらも大衆反乱がかれらを権力から一掃するかもしれないとのかれの恐怖を分かち合っていたのである。

 「現時点において」、とある発言者は宣言した、「党には三つの分派があり、この大会はわれわれが党におけるこのような状態を今後も黙認するのかどうかをいわなければならない。わたしの意見では、われわれは三つの分派を抱えてコズロフスキー将軍にたち向かうことはできず、したがって党大会はそういわなければならないのだ」。代議員らは即座に呼応した。激烈な言葉遣いの決議において、かれらは労働者反対派の綱領をマルクス主義的伝統からの「サンジカリスト的ならびにアナーキスト的偏向」として非難することを表決した。

 「党の統一について」という第二の決議は、いかに党内論争が反革命諸勢力によって利用されるかの実例としてクロンシュタットを引用し、そして党内のすべての分派と派閥の解散を要求した。三年近く秘密に付された、その最後の条項は、中央委員会に不同意分子を党の隊列から追放する特別権限を与えた。その後まもなく、レーニンは信頼の置けない分子を排除するため「頂上から底辺まで」の党の粛清を命じた。その夏の終わりまでに、全党員のほぼ四分の一が除名されたのである。

 モスクワ裁判とスターリン主義的恐怖の治世の展望から、多くの者が反乱を、官僚主義的抑圧の勝利と社会主義の地方分権的ならびに自由奔放主義的形態の最終的敗北を画する、ロシア革命史における運命的な岐路とみなした。

 このことは、ソヴェト全体主義がクロンシュタットの鎮圧をもって始まったとか、あるいはそれは当時すでに不可避であったとかとさえ、いうことを意味しているのではない。「『スターリニズムの胚芽は最初からボリシェヴィズムのなかにあったのだ』ということがしばしばいわれている」、とヴィクトル・セルジュは論評した、「そう、わたしは反対しない。ただ、ボリシェヴィキはまた、その他の多くの胚芽――その他の胚芽のひとかたまり――をも含んでいたのであって、最初の勝利の革命の最初の数年間の熱狂を生き抜いてきた者はそのことを忘れるべきではない。生きている人間を、検視が死体のなかに暴く――そして、かれが誕生以来かれのなかにもっていたかもしれない――死の胚芽によって判断すること、このことはきわめて分別のあることであろうか」。

 二〇年代初頭の間には、いいかえれば、いくつかの異なる道がソヴェト社会にとって開かれていたのである。それでもなお、セルジュ自身強調したように、きわだった権威主義的傾向がつねにボリシェヴィキの理論と実践のなかに存在していた。レーニンの抜きがたい選良主義(エリーテイズム)、かれの中央集権化された指導部と厳格な党規律への固執、かれの市民的自由の抑圧とテロルの承認
――すべてこれらは共産党とソヴェト国家の未来の発展のうえに深い刻印を残したのである。国内戦の期間、レーニンはこれらの政策を緊急事態によって要求された短期の便宜的措置として正当化することに努めた。だが、緊急事態はけっして終わることがなく、そしてその間に未来の全体主義的体制のための機構が建設されていった。クロンシュタットの敗北と左翼反対派の窒息をもって、勤労者の民主主義への最後の効果的な要求は歴史のなかに過ぎ去った。それ以後、全体主義は、たとえ不可避ではなかったとしても、ありそうな結末であった。

 一九二四年、レーニンは逝き、そしてボリシェヴィキ指導部は激烈な権力闘争のなかへ突き入れられた。

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 (関連ファイル)

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』クロンシュタット綱領の検討

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁政策の誤り

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』

    中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    大藪龍介『国家と民主主義』ネップ導入と政治の逆改革





(私論.私見)