レーニンの「新経済政策(ネップ)」への転換

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 「戦時共産主義」については、「戦時共産主義政策、食物徴発令の経過と論理」で検証した。「戦時共産主義」はいざこれをやって見るとことごとく壁にぶつかった。ボリシェヴィキ革命政権の経済政策は失敗した。この現実を客観化させ、マルクス主義的教条からの転換に向ったのが、トロツキーとレーニンであった。まずは、トロツキーが「戦時共産主義」の改良を目指した。レーニンは、この時点では「戦時共産主義」の転換を迫るトロツキー論を排斥している。但し、その後のレーニンはトロツキーよりも柔軟に「戦時共産主義からの政策転換」を目指すようになった。レーニンの晩年は、「戦時共産主義からの政策転換」を廻る理論的創造が課題となっていた。しかし、歴史は、これらの苦悩を引き受けなかった。レーニンを後継したスターリンは、前二者の労苦を斟酌せず「戦時共産主義」体制に差し戻した。この流れを見ておくことにする。

 2005.12.23日 れんだいこ拝


【「戦時共産主義」政策に対するトロツキーの気づき】

 トロツキーは、1919ー20年の冬の数ヶ月を経済行政を指導しながらウラルで過ごしていた。ウラルに於ける農民の生活条件を観察した後、1920.2月、戦時共産主義が真っ盛りのこの時期、中央委員会に、次のような「食糧政策と土地政策の根本問題 (ロシア共産党(ボ)中央委員会に提出された提案)」提案をしている。それは、「食糧ノルマにもとづく均等徴発や、供出の際の連帯責任制、工業生産物の平等分配といった現在の政策が、農業を衰退させ、工業プロレタリアートを分散させるものであり、国家の経済的生命を決定的に台無しにするおそれがあることは、明白である」と見立て、従来の戦時共産主義政策からの転換を迫る大胆な提案であった。

 「トロツキー著作集第17巻、トロツキー研究第3号より」を参照すると、次のような内容の提言であった。

 地主の土地は農民に引き渡された。あらゆる政策は、多くの馬を持ち広い播種面積を持つ農民(クラーク)に対立している。他方では、食糧政策は、(消費基準量を越える)余剰の没収にもとづいて立てられている。これのおかげで、農民は自分たち自身に必要な規模でしか土地を耕作しない方へ追いやられている。とくに、3頭目の雌牛を余剰として没収する法令は、実際には、雌牛の密殺、肉の投機的な投げ売り、酪農の荒廃をもたらしている。その一方で、都市の半プロレタリア分子は、いやプロレタリア分子でさえ、農村に住みつき、そこで自分たちの食糧生産を始めている。工業は労働力を失い、農業では自給自足の食糧生産の数が増大している。まさにこれによって、余剰の没収にもとづいた食糧政策の基礎は掘り崩されているのである。今期における食糧の調達がかなりの成果をおさめているとすれば、それは領土の拡張と食糧調達機構のある程度の改善によるに相違ない。ところが一般的に言えば、食糧資源は枯渇のおそれがあり、いくら徴発機構を改善しても、それを食い止める助けにはなりえないであろう。経済のこうした崩壊傾向との闘争は、次の方法によって可能となる。
 播種面積の拡大や耕作の改善がやはり利益をもたらすよう、余剰の没収を、一定の比率での控除によって置き換えること(ある種の累進所得現物税)。
 郷や村のレベルにおいてだけでなく、個々の農家のレベルにおいても、農民へ引き渡される工業生産物の量と農民が供出する穀物の量とがいっそうよく照応するようにすること。

 地元の工業企業をそれに引き込むこと。農民が供給する原料や燃料や食糧の支払いとして、部分的に企業の工業生産物をあてること。

 供出量に対する義務割り当てを、播種面積や耕作規模全般に関する義務割り当てで補うこと。

 ますます広範に、ますます正しく手際よく、ソフホーズを建設すること。

 最初の2つの項目は、クラークに対する圧力を若干弱めることを意味する。われわれはある限界内に彼らをおいておくが、食糧生産を行なっている農民の水準までは引き降ろさない。 

 最後の2つの項目は、その反対に、農業集団化への傾向を強化することを意味する。

 しかしながら、これらの政策の間には矛盾はない。ソフホーズと共同耕作とが食糧政策の中心となることができない間は、ソフホーズと割り当て制にもとづいて土地の共同耕作を強化しつつ、われわれは農民の上層部により慎重な態度で接するのである。

 豊饒な農業地域(シベリア、ドン、ウクライナ)では、最初の2項目によって決定された政策をとることがぜひとも必要である。

 中央の諸県では、最後の2項目の政策が優勢となりうる。

 トロツキーのこの提案は、ネップ政策の先取りといわれている。食糧生産が衰退しつつ穀物徴発制度が行き詰まりつつあり、農民の不満が高まりそれが危険な水準に達しつつあったのに、ボリシェヴィキの中央幹部はこのことに目を閉じて、これまで通りの方策を支持していた。その中にあって、各地方を実際に回って見聞していたトロツキーは、深刻な事態を感知し、徴発制をやめて累進所得現物税に置きかえる提案をした。それは、「戦時共産主義の諸組織が、それ自身力を枯渇し尽くしており、経済復興の為には、ぜひとも、私的利潤の要素が再び導入されること、言い換えれば、或る程度の国内市場を再建することが必要だ」という趣意を提言していた。

 この提案に対し、賛否両論となった。とりわけレーニンは強く反対した。スターリンも反対した。この提案が持つ萌芽的な自由市場の復活について批判が為され、トロツキーは自由取引主義者と批判された。中央委員会は、反対11対賛成4票で否決した。

 穀物徴発制の廃止は、結局、1年後の1921.3月の第10回党大会まで待たなければならなかった。1年間のロスは深刻な結果をもたらした。地方での大規模な農民反乱(とりわけ悲惨な結果をもたらしたタンボフ県のアントーノフの反乱)、そしてクロンシュタットの反乱をもたらし、ソヴィエト政権の政治的・道徳的権威を著しく下げ、政権の独裁的性格は不必要に強化されることになった。


【「戦時共産主義」政策に対するレーニンの気づき】
 「戦時共産主義体制」の観念性は、露呈内戦期には一定の根拠があるように見えたが、内戦終結後の「戦時共産主義体制」は矛盾関係に陥いることになる。

 レーニンは、「戦時共産主義」の限界を感じ始めた。1920年秋頃、レーニンは、「戦時共産主義」政策の修正に取り組み始めた。
 概要「熱狂の波を呼び起こした我々は、こんなにも大きな(一般的政治的な任務とも、又軍事的任務とも同じくらい大きな)経済的任務を、直接この熱狂に乗って実現しようと、当て込んでいた。当て込んでいたというより、次のように云った方が正しいかも知れない。即ち、我々は、充分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと、考えていたのである。実生活は、我々の誤りを示した。その『誤り』とはこうであった。直接に熱狂に乗ってではなく、大革命によって生み出された熱狂の助けを借りて、個人的利益に、個人的関心に、経済計算に立脚して、小農民的な国で国家資本主義を経ながら社会主義に通ずる堅固な橋を、まず初めに建設するよう努力し給え。実生活が我々にかく語った」。

 この「気づき」から、俗に、「右」へ偉大な転換の舵を切った。レーニンは、10月革命初期の段階では次のように考えていた。

 概要「国家資本主義とはまさに資本主義のことであり、このようにしか理解できないし、又理解すべきなのだ」。
 概要「国家資本主義は、我々の現在の経済よりも、経済的に云って、比較にならないほど高度なものである」。
 概要「ほら、もうここに恐れることなど何もない! 社会主義は、他でもない、全国民の為の国家資本主義的独占企業体のようなものである」。

 このように理解していたレーニンにとって、国家資本主義をうまく作り出し、それを社会主義建設のレールにおいて利用する方法乃至は能力如何が課題となっていた。その背景には、「資本主義は広い農民層のほか、農民の必要性に応えるべく商業を営まなくてはならないような個人資本家にとって不可欠であるからだ」との認識があった。次のように述べている。

 「資本主義的経営と資本主義的流通の通常の進行が可能であるように、物事を設定しなくてはならない。なぜならば、これは国民にとって必要であり、これなくして生活は不可能であるからだ」。

 これが、新経済政策ネップへの移行の背景であった。


【「新経済政策」(ネップ)の実施】

 「戦時共産主義体制」の観念性は、露呈内戦期には一定の根拠があるように見えたが、内戦終結後の「戦時共産主義体制」は矛盾関係に陥いることになる。

 1921.2月、ペトログラードの国有工場でストライキ発生。労働者の集会は軍隊によって解散させられ、指導者は非常委員会に逮捕された。工場にはロックアウトが布かれた。これを知ってクロンシタット要塞の水兵が立ち上がった。

 1921.3月、レーニンは、第10回党大会を前にして政治局に「戦時共産主義体制」からの転換政策案を提起した。強い反対にあったが、この時も、レーニンは辞意を表明することによって提案を貫いた。レーニンは、革命直後に於いては、マルクス主義的原則と理解して「戦時共産主義体制」を押し進めた。が、内戦終結後のこの頃、「戦時共産主義体制」は矛盾関係に陥いっていた。レーニンは、食料徴発をはじめとする経済統制策がもはや限界であり、このまま経済統制策を続けると政権が崩壊することを悟った。いわゆる市場性社会主義論の創造に道を開き始めた。

 1921.3月、ソ連邦共産党第10回大会が開かれ、クロンシュタット反乱の最中、レーニンの指示によって「新経済政策」(ネップ、New Economic Policy)を打ち出した。レーニンは、自由市場に道を開く農民に余剰食糧の自由販売を許し、私営商業も認めて疲弊した経済を甦らせようとした。

 しかし、強い反対にあった。反対派の意見は、マルクス主義的理論に基づく計画経済からの撤退は社会主義の夢からの裏切りであり、資本主義の復活であり、下部構造の資本主義復活はやがて上部構造へ及ぶという見解に基づいていた。 その批判は、戦時共産主義下で強制された単独監督制、労働組合の権利制限、行政組織や大衆組織での党官僚制についてのノーコメントに反発していた面もあった。彼らは、党内民主主義とソビエト民主主義の復活を要求した。この時も、レーニンは辞意を表明することによって提案を貫いた。党大会最終日、レーニンは、党内分派活動禁止提案し、分派形成者の党からの除名を措置した。

 レーニンは、厳しい統制を前提とした戦時共産主義政策の農民政策について転換させた。農民から穀物を強制的に取り上げる食物徴発令即ち農産物の強制供出を廃止し、穏健な累進性の現物食糧税(後に金納制)に替えようとするものであった。「徴発→配給」という現物経済から、「市場と貨幣」を媒介とする経済への転換がはかられた。これにより農民は余剰穀物の自由販売が認められ、ある程度の地方的商業活動が許容されることになった。農民は現物で税を払った後は余剰穀物を自由に販売できるようになったことにより、効率よく働き、労働に見合った配分を受け、勤勉に働く者が奨励され、労働生産物を市場で交換できる商品流通のメカニズムを導入した。商業を通じて農村と都市が結びつく道が切り開かれたことになる。いわば部分的な市場経済の導入であった。ある程度の地方的商業活動も許容された。こうして、農民や中小企業に自由な経済活動を認め、市場経済に道が開かれた。

 土地の私有・貸与貸借も認められた。外国貿易、銀行、大工場は「管制高地」として国家に独占されていたが、基幹産業をのぞいた中小企業は民営化され、貨幣が再導入された。外国資本の導入も認められた。このことは追って自由市場の復活、土地の貸借、雇用労働、資本家の復活を生み出すことが予見された。外国貿易、銀行、大工場は「管制高地」として国家に独占されていたが、それさえも商業的な自由競争に洗われることになるであろう。 

 しかし、この道は資本主義経済への回帰でもあった。追って自由市場の復活、土地の、雇用労働、資本家の復活を生み出すことが予見された。それさえも商業的な自由競争に洗われることになるであろう。レーニンは、こうした政策転換によって疲弊した経済を復活させようとした。レーニンは、ネップの導入は農民と和解するための一時的な「後退」であると考えていた。しかし、レーニンが発作で倒れるまで後半年の期間しか残されていなかった。以降生没するまでの期間は一年半も無かった。

 レーニンは、次のように述べている。
 「今では、国の管理下にある自由売買と資本主義が許可され、発展しつつあった。その一方で、国有企業がいわゆる独立採算制へと移行され―つまり、かなりの度合いで商業的・資本主義的原則を取り入れるようになったのだ」。
 「我々はこの資本主義を受け入れねばならないし、又受け入れることができる。そして我々は、それに一定の制限を課することができるし、又そうしなければならない。それが膨大な農民大衆と、農民の必要を満たすことが可能な商業にとって必要だからである。我々は、資本主義に特徴的な経済の正常な作用と交換の型が可能になるように、ことを按配しなければならない。それは人民の為にそうでなければならないのである。そうでなければ、我々は生きていくことができないであろう。彼らにとって、それがまさしく絶対的に必要なことなのだ。その他のことに就いては、彼らは何とか我慢するに違いない」。

 M・レヴィンは、「レーニンの最後の闘争」の中で次のように述べている。

 「レーニンが為しつつあったことは、歴史上稀にしか見られないことであった。彼は、『その他のこと』と交換に、つまりポルシェヴィキの手中に政治権力を残しておくことと引き換えに、農民が資本主義の強い薬を一服のむのを許しつつあった。確かにそれは有利な作戦であったが、同時に危険な作戦でもあった。多くの闘士たちは、このような改善策は患者にとっては有益であっても、医者には命取りになるかも知れないと考えていた」。

 メリニチェンコ氏は、「レーニンと日本」の中で次のように記している。

 「1921年から1923年の間、レーニンは、次から次へと今後の国の経済発展に関する構想面で新しいアイデアを極めて明確に、一層粘り強く打ち出している」。

 レーニンは、これを「直線路の湾曲部」と見なしていた。次のように述べている。1921.11.5日、レーニンは次のように訓示している。

 「経済建設の根本的問題で、『改良主義的な』、漸進的な、そして慎重で遠回りな行動方法を取る必要があるということである」。
 「我々はこの革命に対して極めて多くの重要なことを為し遂げ、勝利は決定的であり、このことは全世界の知るところである。故に、動揺したり、神経質になる必要は全く無い」。

 レーニンは、「古い社会・経済制度、商業、小経営、零細企業活動及び資本主義を破壊せずに、商業や零細企業活動、資本主義に活気を与え、活性化の方策に関してのみ国家により統制を加える」という知見に達していた。1920.11.20日の最後の公の場での演説では、次のように述べている。

 概要「社会主義は今となってはもう、遠い将来の問題ではなく、又何か抽象的な絵でもなければ、聖像のようなものでもない。我々は社会主義を日常の生活へと引き入れた。そしてそれを理解するよう取り組まなければならない」。

  晩年のレーニンは、「協同組合について」口述筆記していた。それは「文化的な共同組合員制度」まで視野に入っていた。レーニンによると、「ロシアの条件下では社会主義と完全に一致するものである」としていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。

 概要「ネップは、初期段階の社会主義の『要素であり、小部分であり、小片』であった」。
 概要「ネップ支配の下での、ロシア住民の幅広く内容の濃い協同組合化は、『完全な社会主義的社会の建設にとって全ての必要なことなのである』」。
 概要「レーニンによれば、社会主義とは、ある一定の条件の下では、完全に資本主義と共存するだけでなく、資本主義から学び取り、吸収し、消化する能力がある(歴史的に見ると、実際には逆になってしまった。つまり、資本主義が社会主義のいい部分全てを取り入れた)。別の言い方をすると、レーニンは社会主義を『私営商業の利害』に対立するものと捉えたのではなく、共存するものとして、実際は市場型のネップ式社会主義、例えどんなに多くの人を驚愕させようとも、これは『現存する資本主義的関係を土壌として』成育し強化されていく社会主義であった。これぞまさしく社会主義の解釈における新しいレーニンの言葉であるのだ!」。

 レーニンが提起した「改良主義的行動への移行」、これが逆説的であろうとも、1921年から1923年にかけてのレーニンの最も重要な新しい理論的思想であった。こうして晩年のレーニンは、「社会主義に対する我々のあらゆる考え方の根本的変化」に辿り着いていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。

 「これは極めて輝かしい、偉大な、レーニン思考の高まりであり、未だ完全に理解され尽くしていなければ、十分な評価も受けていないものだ。レーニンの天才性の目がくらむような素晴らしい背景の前では、現在のロシア改革者達など影が薄く、惨めな半可通、ちっぽけな暗愚に映る」。
 概要「レーニンは、『新しいことを現実に遂行する際には膨大な苦労と抵抗が伴う』と述べている。レーニンの後に続く者の中で、実践しているかどうかまで問わないとして、せめて心中だけでも良いから、果たしてこのようなレーニンの提起した結論について熟考した者がいただろうか?」。

 ネップは、急進主義的な左翼共産主義者を幻滅させた。コムソモール(共産主義青年同盟)は2年のうちに半減した。これにつき、堀込純一氏は、「党 独 裁 論 か ら 党 ・ 国 家 官 僚 制 へ」で次のようにコメントしている。
 「戦時共産主義に理想をかけ、ネップに幻滅するという現象は、党指導部にも責任がある。広範な国有化・食糧没収・貨幣の廃止などの戦時共産主義を共産主義主義の実現とみるのは誤りである。これらの諸措置は内戦によって強いられた一時的措置などであり、あたかも共産主義が実現しつつあるかのような幻想が蔓延したのを指導部は放置した」。

【「新経済政策」(ネップ)考】
 ネップをどう見るべきか、ここが問われている。1・マルクス主義的経済政策の重大なる裏切り修正か。2・マルクス主義的経済政策の創造的発展か。3・マルクス主義的経済政策の読み誤りの訂正か。この3点が論ぜられるべきであろう。れんだいこは、「3」説を採っている。マルクス主義的私有財産制の否定論は必ずしも国有化論と接続していないのに、通俗マルキストは国有化論に立つ見地こそマルキストと読み誤り、ロシア革命政権もその俗説に従った結果、徒な社会的混乱を招いた。

 レーニンはやはり非凡であった。他の多くの者が戦時共産主義の更なる徹底に拘り続ける中、事態を冷静に分析し、戦時共産主義からネップへの転換を図った。不幸なことにこの時既にレーニンは晩年に位置していた。スターリンがレーニンのネップ政策を引き継がなかったため、ロシア革命からこの系譜が消えた。返す返すも残念なことであった。

 問題は、レーニンは、ネップ政策につき「2」説の見地より党内説得に努めていたのではないかと思われることである。れんだいこは、そこにレーニンの更なるマルクス主義理解の歪みを見てとる。時代の制約もあり仕方なかったとはいえ、それほどに通俗マルクス主義の病弊の根が深いと云うべきだろう。れんだいこは、ここを切開しない限りマルクス主義の豊潤さは生み出されないと考える。

 2005.12.14日 れんだいこ拝

【「新経済政策」(ネップ)の成果と新たな現象】
 ネップが導入によりロシア経済は回復基調に入った。1925年までに、農業は戦前の水準を上回り、工業でも4分の3を越えるまでになった。しかし、都市の工業は農村の必要とするものを供給できず、農村では富農が成長し、彼らによって穀物が退蔵される事態が生じた。このため、これ以上ネップを続けるか、それとも農村の犠牲において工業化を進めるかという問題が共産党内の論争問題となった。

 その際、「ボリシェヴィキ独裁」という政治体制にはまったく変化はなかった。むしろ、党内では分派の禁止やその除名など締め付けが強化された。限られた党エリートが社会を主導するというのちのソ連の特徴が、すでにあらわれはじめていた。

【スターリンの復古政策】
 レーニン後を継承したスターリンは、社会主義の理論と実践に於けるレーニンの苦闘を一顧だにしなかった。穀物調達を廻るクラークとの利害衝突が発生し、その結果としての強権的にクラークを壊滅していった。

 次のように記されている。
 概要「スターリンは、農業の全面的な集団化を指針させ、農地、家畜、農具の大部分は共同利用とされ、農民は新たに編成された共同農場(コルホーズ)で働く労働者とされた。がむしゃらに進められた集団化によって、1935年には全耕地面積の94%がコルホーズとなった。その過程で、1000万人以上の農民が強制移住させられた。少しでも抵抗する農民は「富農」とみなされ、処刑されるかシベリアに流された。

 集団化によって、政府による穀物調達の効率は上がった。しかし、農民の生産意欲は減退し、農業生産そのものは落ち込んだ。その結果、1932〜33年、ウクライナの穀倉を中心ににすさまじい飢饉が襲った。にもかかわらず、政府は強制的に徴発を続け、被害を拡大させた。この間の餓死者ははっきりしたことは分からないが、600万〜700万ともいわれている。

 こうして得た穀物は外国に輸出され、その代金を投入することによってソ連の工業生産は上昇を続けた。1929年からの世界恐慌に苦しむ資本主義国にとって、この事実は大きな驚きを持って迎えられ、この新興社会主義国を「希望の星」とあがめる者も少なくなかった。しかし、この成果が農民の多大な犠牲の上になし遂げられたということはひた隠しにされ、ソ連崩壊までほとんど知られなかった。世界恐慌下でのアメリカで職を失った者は、ピーク時に1200万に達した。しかし、同時期のロシアで、抹殺・餓死などで命を失った者の数がそれを上回るのは確実とされる」。


 1930年代の初期、スターリンの論的の一人であったM・リュチンは、「(今やソビエト国家において)真のレーニン主義は非合法的なものへと移行し、研究が禁止されている」と嘆いている。

【レーニン的ネップ政策と戦後日本の相関考】
 レーニン的ネップ政策は、後継者スターリンがこれを継承しなかった為、地上から姿を消した。ところで、レーニン的ネップ政策は本当に消えたのであろうか。れんだいこは、否と云う。レーニン的ネップ政策は形を変え、戦後日本に結実したのではないかとの仮説を持っている。この観点から若干の示唆をしておきたい。

 日本は、大東亜戦争遂行過程で国家社会主義体制化させた。そのイデオロギーは、「天皇制下官僚社会主義」に支えられていた。このイデオロギーの下で「有能なる官僚による支配」が進み、資源と富の国家集中が押し進められた。その日帝は敗戦により解体されたが、主として軍部と財閥に向い、官僚社会主義システムは残った。戦後民主主義が導入されたが、官僚社会主義はこれを受付け、自由経済市場及び資本主義体制下での親方日の丸方式での国家再建を目指していくことになった。労資は抗争しつつ協調した。

 天皇制は象徴天皇制として生き延び、普通選挙で選出された代議士が国会で政策決定していく仕組みになった。権力を握ったのは、戦前土佐自由党の流れを汲む吉田茂であり、吉田に見出された池田、佐藤、田中であった。50年代から70年代半ばまでの25年余の間、ハト派系が戦後保守本流となり、タカ派と表見左翼を御しながら世界史上未曾有の戦後復興、引き続く高度経済成長へと導いていった。これは稀に見る善政であった。この間の国富の蓄積は、世界史に誇る事例となっている。

 レーニン的ネップ政策は戦後日本に花開き、マルクス主義の有能有効性を証した、ということになる。残念ながら、この観点からのネップ政策論が為されていない。故に、この観点からのネップ政策論が為されなければならない。

 関連サイト「日本社会主義論の一定の根拠考」、「戦後保守本流ハト派論について」、「田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考」 

 2004.5.13日、2005.12.12日再編集 れんだいこ拝

【「レーニンと市場経済論」について】
 不破は、「マルクス主義的市場経済論」に不破らしいアプローチを見せている。例えば、2002.9.4日付赤旗の「中国社会科学院での不破議長の学術講演(2002年8月27日) レーニンと市場経済」で何ほどか言及している。とてもそのままでは有害無益であるので、れんだいこ流に要点整理し直しする。

 マルクス主義はマルクスとエンゲルスによって創始されたが、社会主義社会の展望を述べたにとどまり、実際の建設に直面することはなかった。これに実践的に対応した史上初のマルクス主義者はロシア10月革命を遂行したレーニンの指導するポルシェヴィキ達であった。

 ロシア10月革命遂行直後のレーニン達は「マルクス主義的国有化理論」を信奉しており、この理論に基づき革命後の経済建設にあたった。「市場経済」、「商売の自由」、「売買の自由」などは社会主義建設の敵、反革命のスローガンだとされ、市場経済の根絶こそが社会主義建設の任務とされていた。こうして「戦時共産主義」が導入された。この時、国有化理論に基づく諸政策が強行に押し付けられていった。小生産者の小規模な商品生産であっても、市場経済を認めること自体が資本主義の土壌となる。資本主義から社会主義へ転換させるためにも市場経済を認めるわけにはいかない、むしろ廃絶させるべきだというのが当時のマルクス主義者達の政策論理であった。ロシア10月革命を遂行したレーニンの指導するポルシェヴィキ達はこの教条に生硬に従った。

 しかし、市場経済否定政策は、クロンシュタットの反乱に象徴されるように人民大衆の不満を強めた。興味深いことは、市場経済否定政策そのものがマルクス主義を証左しているという見解にあったことである。従って、市場経済否定政策反対者は反マルキストとなり、当人達もそれを甘受していた。既に述べたが、広西理論によれば、この構図自体が間違いという事になる。そういう意味で、この間違いを早くより指摘した広西理論の価値は大きい。

 しかし、流石にレーニンは偉大であった。当初は「戦時共産主義」政策を遂行したが、その推移を見て、市場経済否定政策の政策的過ちを見て取った。こう理解したのは、当時のロシアの指導者のなかでレーニン一人であった。レーニンは苦悩した挙句「勇気と決断」をもって、1921.3月、新しい政策として「新経済政策(ネップ)」を導入した。「戦時共産主義」政策からの大胆な転換であった。ここにレーニンの非凡な能力を見るべきであろう。ネップの当初は、農民対策として、「生産物交換」つまり農村の生産物である穀物と都市の生産物である工業製品との物々交換を認めるという政策であった。

 しかし、この政策転換でさえ党内で喧々諤々の議論を要している。「レーニン全集」に、この時期のある会議の記録が掲載されている。それによれば、ある同志は、「われわれは牢獄(ろうごく)で商売のやり方など学ばなかった」と発言した。ある同志は、「商売のような不愉快な仕事を共産主義者がやれるものか」と発言した。これに対して、最後に結語に立ったレーニンは、「不愉快な課題に直面したからといって、それを回避したり、それに落胆したりするのは、革命家に許されないことだ」との批判を加えている。

 ほぼ半年の模索を経て、1921.10月、レーニンは、社会全域に市場経済を認める「市場経済を通じて社会主義へ」の道を提起した。ここに、自営業者の存在と彼らの営業(商売)の自由が保障された。私的な小資本資本主義が一定の範囲内で認めることになった訳である。真の意味は、大衆的自治を尊び、これに立脚する社会主義を展望したということであろう。それは、短期決戦的社会主義路線つまり「上からの革命」から長期展望的社会主義路線つまり「上下からの革命」へのレールの敷き替えであったように思われる。

 レーニンは、「市場経済を通じて社会主義へ」に当たって、社会の経済構成が1・社会主義部門、2・国家資本主義部門、3・私的資本主義部門、4・小商品生産部門などが並立して協力しあい競争しあう関係を良しとしていた。その道が、資本主義に逆転する道となるのではなく、社会主義に到達する道として構想されていた。その為に何が必要かということについて多くの独創的な提言を為している。

 レーニンのネップ政策は、社会主義部門が、市場での競争で資本主義に負けない力をもつようになること、その立場で、内外の資本主義から学べるものは学び尽くすべしとしていた。レーニンは公然と 「ヨーロッパ的に商売のできる一流の商人になろう」と呼びかけている。 「国有企業などの社会主義部門を、資本主義企業との競争で点検しよう」とも述べている。「工業と運輸の分野の生産手段の圧倒的な部分」を社会主義国家が握り、こうして経済全体の要をなす「瞰制高地」を確保し、舵取りをうまく為し、経済発展せしめることを良しとしていた。

 市場経済が生み出す否定的な諸現象から社会と経済を防衛することにも留意し、社会保障制度をはじめとするいろいろな社会的な規制を必要としている。拝金主義や各種の腐敗現象に対しては、公的機関そのものの自己規律、人民的な監督と点検という活動の重要性を声を大にして繰り返し強調した。そのためにも、国民全体の文化水準を高めて、国民一人一人がそういう役目をはたす力をもつようにすること、これがレーニン主義的「市場主義的社会主義論」の要諦となっていた。

 この政策は、「共産主義者の宣言」で、マルクス・エンゲルスが提起していた「革命の青写真」政策とほぼ一致している。ということは、もし、「共産主義者の宣言」が正しく訳され、その思想が伝授されていたなら、「戦時共産主義」政策が導入されずに済んだことを意味している。史実は、「共産主義者の宣言」の教条的理解により「私有財産制の否定且つ国有化制の導入」こそ共産主義との理解に基づき、革命政権の政策を直ちに実施していった。レーニンは、「戦時共産主義」政策の約3年有余の実績を見てその政策の根源的誤りに気づき、ネップ政策へ転換させていった。

 しかし、レーニンは、この方針を確立して1年5カ月後の1923.3月に病気で倒れ、その後、政務には復帰できないまま1924.1月に亡くなった。レーニン没後、ソ連の党と政府の指導権を握ったスターリンは、この問題に対して全く無能であった。「レーニンの慧眼」を継承しようとせず、1929年から30年代初頭にかけて、「上からの革命」政策を強行していった。農業面での「集団化政策」、工業面での5ヵ年計画による重化学工業重視政策が導入されていった。スターリンの諸政策は「新経済政策」の事実上の終結宣言であった。以来、「市場経済を通じて社会主義経済へ」の方針は、ソ連には復活することがなかった。

 ソ連解体後の中国、ベトナム、キューバなどは「市場経済を通じて社会主義へ」を標榜し、開放政策に転換し始めた。これが、「かってレーニンが提起し、スターリンが捨て去ったもの」の復活か、資本主義の道への雪崩れか、これが見極めのポイントとなる。

 本来であれば、レーニンの「市場主義的社会主義論」は、これによって社会主義国が、資本主義国に対してあらゆる分野で優位性を発揮する為の経済政策であった。つまり、「市場主義的社会主義論」は、資本主義体制の転覆後の新社会建設理論として有効な観点として普遍的な意味と意義があるということである。この観点から「市場主義的社会主義論」を考究していくことに「市場主義的社会主義論」の意味がある。

 というのに、不破の「レーニンと市場経済論」は、はなはだしく社会主義諸国の経済遅滞ぶりを嘲笑し過ぎていやしないか。不破式市場経済論は、修正資本主義あるいは混合資本主義観点そのものでしかないのではないのか。「利潤分配をもう少し労働者側に傾ける資本主義改良論」でしかないのではないのか。資本主義に学ぶという言辞の裏で実は単に資本主義への投降を呼びかけているのではないのか。れんだいこのそれとはミソとクソほどの違いがある。この識別無しに同じ土俵で「市場主義的社会主義論」を論ずれば、混乱するだけだろう。

 問題は更に続く。史上の社会主義国家がその建設革命途上で陥った共通項として経済革命の失敗がある。その教訓を引き出し今後その轍を踏まぬ為には、既成のマルクス主義的理解、あるいはマルクス主義そのものまで含めてダイナマイトで爆砕せねばならぬのかも知れない。しかして、この場合マルクス主義の単純な否定ではなかろう、むしろまさしく高次的に止揚せしめたというべきでは無かろうか。

 2004.5.13日再編集 れんだいこ拝


【「レーニンと市場経済論」について】
 不破は、「マルクス主義的市場経済論」に不破らしいアプローチを見せている。例えば、2002.9.4日付赤旗の「中国社会科学院での不破議長の学術講演(2002年8月27日) レーニンと市場経済」で何ほどか言及している。とてもそのままでは有害無益であるので、れんだいこ流に要点整理し直しする。

 マルクス主義はマルクスとエンゲルスによって創始されたが、社会主義社会の展望を述べたにとどまり、実際の建設に直面することはなかった。これに実践的に対応した史上初のマルクス主義者はロシア10月革命を遂行したレーニンの指導するポルシェヴィキ達であった。

 ロシア10月革命遂行直後のレーニン達は「マルクス主義的国有化理論」を信奉しており、この理論に基づき革命後の経済建設にあたった。「市場経済」、「商売の自由」、「売買の自由」などは社会主義建設の敵、反革命のスローガンだとされ、市場経済の根絶こそが社会主義建設の任務とされていた。こうして「戦時共産主義」が導入された。この時、国有化理論に基づく諸政策が強行に押し付けられていった。小生産者の小規模な商品生産であっても市場経済を認めれば、それが資本主義の害悪の土壌となる。それを強めるわけにはゆかない故に市場経済を廃絶させるというのが当時のマルクス主義者達の政策論理であった。

 しかし、市場経済否定政策は、クロンシュタットの反乱に象徴されるように人民大衆の不満を強めた。興味深いことは、当時のマルクス主義理解そのものにあり、市場経済否定政策そのものがマルクス主義を証左しているという見解にあったことである。従って、市場経済否定政策反対者は反マルキストとなり、当人達もそれを甘受していた。既に述べたが、広西理論によれば、この構図自体が間違いということになる。

 しかし、流石にレーニンは偉大であった。「戦時共産主義」政策としての市場経済否定政策の政策的過ちを見て取った。こう理解したのは、当時のロシアの指導者のなかでレーニン一人であった。レーニンは苦悩した挙句「勇気と決断」をもって、1921.3月、新しい政策として「新経済政策(ネップ)」を導入した。「戦時共産主義」政策からの大胆な転換であった。ネップの当初は、農民対策として、「生産物交換」つまり農村の生産物である穀物と都市の生産物である工業製品との物々交換を認めるという政策であった。

 しかし、この政策転換でさえ党内で喧々諤々の議論を要している。「レーニン全集」に、この時期のある会議の記録が掲載されている。それによれば、ある同志は、「われわれは牢獄(ろうごく)で商売のやり方など学ばなかった」と発言した。ある同志は、「商売のような不愉快な仕事を共産主義者がやれるものか」と発言した。これに対して、最後に結語に立ったレーニンは、「不愉快な課題に直面したからといって、それを回避したり、それに落胆したりするのは、革命家に許されないことだ」との批判を加えている。

 ほぼ半年の模索を経て、社会全域に市場経済を認める「市場経済を通じて社会主義へ」の道を提起したのは、1921.10月であった。ここに、自営業者の存在と彼らの営業(商売)の自由が保障された。私的な小資本資本主義が一定の範囲内で認めることになった訳である。真の意味は、大衆的自治を尊び、これに立脚する社会主義を展望したということであろう。それは、短期決戦的社会主義路線つまり「上からの革命」から長期展望的社会主義路線つまり「上下からの革命」へのレールの敷き替えであったように思われる。

 レーニンは、「市場経済を通じて社会主義へ」に当たって、社会の経済構成が@・社会主義部門、A・国家資本主義部門、B・私的資本主義部門、C・小商品生産部門などが並立して協力しあい競争しあう関係を良しとしていた。その道が、資本主義に逆転する道となるのではなく、社会主義に到達する道として構想されていた。その為に何が必要かということについて多くの独創的な提言が為されていた。

 レーニンは、@・社会主義部門が、市場での競争で資本主義に負けない力をもつようになること、その立場で、内外の資本主義から学べるものは学び尽くすべしとしていた。レーニンは公然と 「ヨーロッパ的に商売のできる一流の商人になろう」と呼びかけている。 「国有企業などの社会主義部門を、資本主義企業との競争で点検しよう」とも述べている。「工業と運輸の分野の生産手段の圧倒的な部分」(レーニン)を社会主義国家が握り、こうして経済全体の要をなす「瞰制高地」を確保し、舵取りをうまく為し、経済発展せしめることを良しとしていた。

 市場経済が生み出す否定的な諸現象から社会と経済を防衛することにも留意し、社会保障制度をはじめとするいろいろな社会的な規制を必要としている。拝金主義や各種の腐敗現象に対しては、公的機関そのものの自己規律、人民的な監督と点検という活動の重要性を声を大にして繰り返し強調した。そのためにも、国民全体の文化水準を高めて、国民一人一人がそういう役目をはたす力をもつようにすること、これがレーニン主義的「市場主義的社会主義論」の要諦となっていた。

 しかし、レーニンは、この方針を確立して1年5カ月後の1923.3月に病気で倒れ、その後、政務には復帰できないまま1924.1月に亡くなった。レーニン没後、ソ連の党と政府の指導権を握ったスターリンは、1929年から30年代初頭にかけて、「上からの革命」政策を強行していった。農業面での「集団化政策」、工業面での5ヵ年計画による重化学工業重視政策が導入されていった。スターリンの諸政策は「新経済政策」の事実上の終結宣言であった。以来、「市場経済を通じて社会主義経済へ」の方針は、ソ連には復活することがなかった。

 ソ連解体後の中国、ベトナム、キューバなどは「市場経済を通じて社会主義へ」を標榜し、開放政策に転換し始めた。これが、「かってレーニンが提起し、スターリンが捨て去ったもの」の復活か、資本主義の道への雪崩れか、これが見極めのポイントとなる。

 本来であれば、レーニンの「市場主義的社会主義論」は、これによって社会主義国が、資本主義国に対してあらゆる分野で優位性を発揮する為の経済政策であった。つまり、「市場主義的社会主義論」は、資本主義体制の転覆後の新社会建設理論として有効な観点として普遍的な意味と意義があるということである。この観点から「市場主義的社会主義論」を考究していくことに「市場主義的社会主義論」の意味がある。

 というのに、不破の「レーニンと市場経済論」は、はなはだしく社会主義諸国の経済遅滞ぶりを嘲笑し過ぎていやしないか。修正資本主義あるいは混合資本主義観点そのものでしかないのではないのか。「利潤分配をもう少し労働者側に傾ける資本主義改良論」でしかないのではないのか。資本主義に学ぶという言辞の裏で実は単に資本主義への投降を呼びかけているのではないのか。れんだいこのそれとはミソとクソほどの違いがある。この識別なしに同じ土俵で「市場主義的社会主義論」を論ずれば、混乱するだけだろう。

 問題は更に続く。史上の社会主義国家がその建設革命途上で陥った共通項として経済革命の失敗がある。その教訓を引き出し今後その轍を踏まぬ為には、既成のマルクス主義的理解、あるいはマルクス主義そのものまで含めてダイナマイトで爆砕せねばならぬのかも知れない。しかして、この場合マルクス主義の単純な否定ではなかろう、むしろまさしく高次的に出藍止揚せしめたというべきではなかろうか。

 2004.5.13日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)