「戦時共産主義」政策、食物徴発令の経過と論理

 (最新見直し2005.12.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ボリシェヴィキが政権を掌握して最初に襲ってきたのが、外交でのドイツとの講和問題、内政での「食糧危機問題」であった。政権党になるということは責任与党になるということであり、この手綱裁き如何で政権が崩壊の危機に瀕する。ボリシェヴィキは如何にこの危機に対応し、その手際はどうであったのだろうか。

 10月革命から国内戦の時期の3年数ヶ月、ボリシェヴィキが政権は、「マルクス主義的国有化理論」に基づく経済政策を押し進めていった。まず、国立銀行の掌握、私立商業銀行の国有化による「ソビエト国家によるあらゆる銀行事業の独占」から始まる一連の「マルクス主義?」的政策を実施していった。続いて、工業の国有化、生産の中央統制、農民に対する食糧徴発制(農産物の強制供出)、労働義務制、貨幣の意義の縮小等々。内戦期に革命政権が採用した諸政策は一括して「戦時共産主義」と称されている。

 「戦時共産主義」を概念的に述べると、次のように規定し得る。
 「戦時共産主義」とは、1・マルクス主義の教条主義的理解に基づく革命施策であり、2・資本主義経済の無政府性、自然発生性を揚棄すると称しての「党の指導的役割」を通じての経済統制であり、3・国家が生産に直接関与し、生産手段の国有、集団所有化を促進させながら押し進める計画経済政策である。

 「戦時共産主義」はいざこれをやって見るとことごとく壁にぶつかった。これらの経済政策は失敗し、工業の機能不全、商経済の停滞、農村の疲弊を押し進めた。社会の全域から不満が高まった。特に、農民政策の失政が酷かった。農民は生活ぎりぎりの賄い部分を除いて生産物の現物供与を強制された。翌年用の種子まで奪取されることもあり次期の耕作に支障をきたした。農業のイロハさえ知らぬ党官僚により引き起こされた悪政であった。抵抗した農民は弾圧され、残りの農民は労働意欲を無くし、農業生産力は革命前よりも落ちるという最悪の結果に陥った。 

 
以下、この経過を検証する。「宮地氏の共産党問題、社会主義問題を考える」の「ロイ・メドヴェージェフ1917年のロシア革命食糧独裁の誤り・1918年の困難な春」を下敷きにする。

 2005.11.30日 れんだいこ拝


【食料統制政策導入前の事情】

 1917.3.25日、臨時政府の法令によって穀物専売制度が導入されていた。この穀物専売制度は、ペトログラードヘの穀物その他の供給が滞ったために暴動や革命が起こったことを踏まえ、カデット党所属の閣僚たちが推進したものであった。既に、1915年、帝政政府の下で穀物専売制導入が論議されていた。というのも、当時、国家による穀物買い上げ量は全収穫量の20%にもならず、1千万の兵員を抱える軍隊への食糧支給に困難をきたしていたからである。

 臨時政府が施行していた1917年の穀物専売は、穀物を没収するのではなく市場価格に近い価格で買い上げることを想定していた。しかしながら1918年春の時点では、都市と農村間、県間、あるいは県内での自由な商品交換による方が、禁止や制限をそのままにしておくよりも早く経済状況を安定させることができたであろう。国民の大半が、戦争と革命が終わって自らのおかれた状況や労働が楽になったと感じる必要があったのである。他の諸問題を「自由市場」に委ねれば、国家が以前の穀物買い付け量のレベルを回復することは十分に可能であった。そのことを理解していた一部ボリシェビィキの提案は、思慮に富んでいたばかりか、当時の状況下では唯一正しいものであった。

 1918.1.25日、ペトログラード・プラウダ紙にミハイール・カリーニンの論文が掲載された。当時ペトログラード市ドゥーマ議長でのちに市経済人民委員部長となった人物である。彼は荒廃した市生活を短期間で大いに改善した。しかし、ボリシェビィキの犯した数々の過ちが頭から離れなかった。論文は「小ブルジョアジーとプロレタリアート独裁」と題され、多くの冷静で適切な提案がなされていた。

 カリーニンは書いている。

 概要「私の考えでは、我々は共産主義の基本原理を侵すことなく、資本主義体制が与えた以上のものを小ブルジョアジーに与えることができる。わがソヴィエト政府は小規模所有権を保証すべきである。国際情勢に鑑みれば、我々は小ブルジョアジーと長期にわたり結束せざるをえず、長期にわたり結束を強化することができるのは、経済をおいてない。政府は農民、手工業者、小規模野菜農家、小規模商人、牛乳販売人らに労働組合の管理下で雇い人を抱えることを許可すべきである。小ブルジョアジーはかつて一度もそれ以上のものを有したことがなく、また望みもしていないのだ」。

(私論.私見) カリーニンの提言について

 「カリーニンの提言」は、本来のマルクス主義に照らせば有益な提言であった。ところが、当時のポルシェヴィキのマルクス主義は、レーニンも含め教条主義的であった。為に、「カリーニンの提言」がかき消されていくことになった。ここから、「貧困な理論に基づく政治の貧困」という法理が導き出される。

 2005.12.14日 れんだいこ拝

 1918.2月末のソヴィエト・ロシアの状況は、困難ではあったが絶望的ではなかった。講和条約が調印されて戦争が終わり、軍人の復員が始まっていた。ロシアは国民の80%が農民であり、都市部には2〜3百万人の大規模な工業企業労働者に対し1千万〜12百万人の手工業者と商人がいた。農村では春の播種が始まり、地主地の再分割が終わろうとしていた。秋から冬にかけてのペトログラード、モスクワ、さらには軍における状況は危機的であったが、春先には上向き始めた。1918年春、ロシアにはまだ本格的な荒廃はみられなかった。通信・交通・都市経済は比較的正常に機能していた。多くの企業が営業していたし、金融制度・商業制度は完全には破壊されていなかった。

 しかし、レーニン率いるボリシェビィキは正しい問題解決策を見出せないでいた。むしろ逆に、カリーニンの提案を断固拒否する方向に舵を切っていくことになる。当時のボリシェビィキはレーニンも含めて、通俗的マルクス主義に基づく国有化理論の生硬な適用こそ真紅の革命路線と勘違いしていた。

 農民すべてに身近な自由商業のスローガンを擁護したのは左右両派のエスエルであり、ボリシェビィキは自由商業に反対し、穀物のみならず全商品の売買に対する国家独占の維持・強化を訴えた。ボリシェビィキ中最も過激な者たちは、貨幣廃止や、さらには都市と農村の間で直接おこなわれる物物交換の準備を始めた。左派エスエルの指導者マリヤ・スピリドーノヴァが、「レーニンはロシアにプロレタリアート独裁ではなく『理論独裁』を確立しようとしている」と語ったのには、十分な根拠があった。

 ボリシェビィキは、早くも1918.1月以降、経済の多くのレベルで誤った政策を実施しはじめた。独占企業体や大銀行連合および一部大企業の国有化は、すでに「四月テーゼ」に謳われており、その他の企業に関しては労働者統制のみが課題とされていた。ところが、実情ははるかに複雑であった。銀行家ばかりかほとんどすべての大企業主がボリシェビィキ政府との協力を拒んだのである。そうした人々の多くは中立国であるスイスか、まだソヴィエト政権のないウクライナヘ去った。ロシアの企業の多くは外国資本のものであった。そうした工場はまったく生産を中止していた。そのため国有化は、余儀なくされた懲罰措置の性格をもった。

 早くも1918年初頭には、ボリシェビィキにより創設されたばかりの経済運営機関は数百に上る大小の工場、銀行、鉄道、倉庫、鉱山をめぐる問題の解決を迫られることとなった。党にはまだそのような仕事のための経験も人員もなく、強制措置は効率が悪かった。周知のように、ロシア中央銀行は革命初日に国有化された。10.25日早朝、近衛陸上海兵団の水兵部隊により占領されたのである。一カ月後、あらゆる民間の商業銀行と株式銀行が政府の管理下に入り、その資本が没収された。国の金準備、通貨とその発行が政府管轄となつた。

 しかし、この巨大な経済を処理する能力はボリシェビィキにはまだなかった。ロシア貴族たちの私有の金庫を没収した水兵たちは、その中に保管されていた金製品のみを国庫へと没収し、ダイヤのネックレスは持ち主に返した。庶民である水兵たちの目にはそれらの「石ころ」には一文の価値もないと映ったのである。それでも国有化は速度を増しながら続いた。

 1918年の工業調査資料に基づく計算によると、3月にはすでに836の工業部門の大企業が国有化されていた。同時に中小企業の国営化もおこなわれた。後にこれは「資本への赤衛隊的攻撃」と呼ばれるようになる。全国民を強制的に協同組合に加入させる試みもなされた。製品の管理や集計、分配および生産の便をはかってのことであった。レーニンはメモにこう書いている。

 「はじめには商業を国家独占とする。つぎには、商業を、ソヴィエト権力の指導のもとに商工業職員組合がおこなう計画的=組織的な分配に、完全に、最後的に代える。――全住民を消費=生産コンミューンに強制的に組織すること」。

 このユートピア的計画を実現することは、もちろんかなわなかった。

 工業および交通の状況は、1918年の最初の数カ月間どんどん悪化した。もはや軍需品は不要であったにもかかわらず、戦争中増大した軍需生産を民需に転換するための計画も資金もなかった。巨大な工場でライターが作られたりした。そんな中で労働者および勤務者の賃金は形だけのものとなり、あらゆる商品の価格が急騰した。

 V・ノギーンのデータによれば、1918.3月にはペトログラードの労働者の賃金は1914年同月比で十倍に増えた。ところが、彼らのわずかばかりの食糧の市場価格はほぼ80倍になった。一部労働者、なかんずく操業を中止した軍需工場で働いていた人々が、親類を頼って農村へ去りはじめたのも不思議ではなかった。農村では、農民の所有となつた地主地で春の播種の準備が進んでいたのだからなおさらである。しかし、多くの労働者がすでに農村との結びつきを失っていた。失業者数が増え始めた。1918.3月には、ペトログラードだけでほぼ十万人の失業者を数えた。操業中の企業でも、労働生産性が大幅に低下した。

 1918年初頭、モスクワ労働組合ソヴィエトの議長であったミハイール・トムスキーは書いている。

 概要「現在労働生産性は、生産がすっかり崩壊し破綻する一歩手前まで下がった。つまり労働者は賃金以下、最低限の生活必需品以下の価値しか生んでいない状況なのだ。生産者は他人の稼ぎで暮らす国家年金生活者となりつつある。生産者が通常レベルを回復しなければ、現状では必ずや国全体が経済危機に見舞われるだろう」。

 企業では横領の件数が増えた。工場経営者となつた労働者たちは、働くのは文字通り自分のためであり、倉庫にある在庫を仲間うちで分配しても構わないとさえ考えるようになつた。このような状況では、労働者による統制ばかりか労働者自身に対する統制、さらには生産現場にレーニンの書いている「鉄の規律」を、強制手段によるものを含めて導入することを考えなければならなかった。


【食料統制政策】食糧独裁

 十月革命勝利直後レーニンは、労働者に対しても農民に対しても何らの強制も考えていなかった。支持者たちに「土地に関する布告」について説明しながら、彼はこう述べた。

 概要「ソヴィエト政権は、プロレタリアートと勤労農民という二つの階級の完全なる平等に基づき社会主義運動の発展方向を探求している。農民自身が、どこに真理があるかを理解してくるだろう。彼らは新生活を作り上げる上で労働者階級と対等なパートナーなのだ」。
 「農民は一方の極からこの問題を解決するがいい。われわれは他方の極からそれを解決していくであろう。実生活は、革命的創造活動という共通の流れのなかで、新しい国家形態を仕上げていくなかで、われわれをいやおうなしに接近させるであろう。われわれは実生活にしたがっていかなければならない。われわれは人民大衆の創造力に完全な自由をゆるさなければならない」(レーニン全集第26巻262−263頁)。

 数日後、レーニンはさらに説明している。

 「たとえば、都市と農村のあいだの交換はどうあるべきかを、経験が農民にしめすときにはじめて、農民は自分で、自己の経験にもとづいて、そのつながりをつけるものだということをわれわれは知っている」(レーニン全集第26巻466)。

 ところが、新政権が都市と農村間の自由な商品交換に反対であることが明らかになると、農民と都市住民は自ら自由取引をはじめた。すでに戦時中生まれていた個人による小規模商売、すなわち「闇取引」が広がりはじめた。

 
この「大衆による革命的創造」は弾圧によって応じられた。ボルシェビキ政権は、食料独裁体制を実施した。

 1918.3月、「担ぎ屋」、「闇屋」、「ペテン師」らに対する弾圧が強まりはじめ、農村へ穀物を買い出しに出かけた何百万という都市住民や、「固定」価格で穀物を売るのがいやで自ら都市へ売りに行った何百万という農民が、当局や急ごしらえされた「阻止部隊」の攻撃に遭った。この自然発生的な交換をやめさせることは困難だった。「闇屋」たちが阻止部隊の数の何倍もの立派な武装団を作って自衛したからである。都市と農村間で直接の物物交換をおこなおうとする食糧人民委員部の試みも失敗に終わった。農村に必要な商品もなければ、経験もなかったのである。

 首都その他の都市における食糧事情は悪化しつつあり、そのためレーニンは、次のようなアピールをおこなった。

 「労働者・農民の規律と自己規律を高める断固たるきびしい措置」をとること」。
 「工業と交換との国有化を徹底的に遂行すること」
 「社会主義への漸進的移行」(レーニン全集第27巻332頁)

 権力奪取の6カ月後、飢餓解決策・農村への革命拡大などいくつかの目的に基づいて、食糧独裁令が発令された。これとともに、レーニンの呼びかけで、国内に何千もの「食糧徴発隊」が作られ始めた。農村に貧農委員会が設立され、食糧徴発隊が派遣された。その任務は、農民から「余剰」穀物を強制的に没収することであった。ソヴィエト・ロシアに悪名高き食糧割当徴発制度、および食糧人民委員部による、いわゆる食糧独裁体制がしかれた。

 1918.5.13日付け全ロ中央執行委員会および人民委員会議の法令には、この点に関し以下のような記述があった。
 概要「農村の金持ち連中の頑固さに終止符を打たねばならない。解決策はただ一つ。飢えた貧民に対する穀物所有者の暴虐に、同様の暴虐で応えることだ。播種と次の収穫までの一家の食糧用に必要な分を除いては、農民の手元に一プードたりとも穀物を残してはならない」(「ソヴィエト政権法令集」第二巻、モスクワ、1959年、262頁)。

 大多数のボリシェビィキでさえ、この法令を極めてしぶしぶ実行した。5月末には食糧徴発隊全体でも五〜六千人の人員しかおらず、余剰穀物の徴発と都市への食糧供給の任務を果たすことはできなかった。

 この措置は、当時、レーニンやボリシェビキによって、一時的な非常措置ではなく、マルクス主義的イデーに則った「共産主義的な分配」にすすむ直線コースだと位置づけられていた。その際のマルクス主義的イデーとは、私有財産制の否定という観点からの市場式商品経済制度の否定にあった。いわば社会主義化へ向かう施策として「闇取引」の禁止、食糧および余剰穀物の強制徴発政策、企業の国有化が導入された。「戦時共産主義政策」と云われているが、むしろ生硬なマルクス主義政策の導入とみなすべきであろう。この試験的効果の功罪が歴史的に総括されねばならないにも関わらず、未だに未考察のまま経緯している。

 旧ソ連時代の反体制歴史家であるロイ=メドヴェージェフ氏は、次のような見解を披瀝している。

 概要「ボルシェビキによる(れんだいこ注・当時の一般的理解であったマルクス主義イデー的な)厳格な経済政策こそが、内戦を引き起こし、食料徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせたのである。つまり、ボルシェビキ政権は、都市と農村間で物々交換を行うことを目論んだものの、これが失敗に終わり、都市で食料不足が深刻化すると、ボルシェビキ政権は、武装した労働者からなる食料徴発隊を組織し、これを農村に派遣し、余剰穀物を強制的に没収したのである。これが悪名高い、食料独裁体制のはじまりである。農民たちは、食料独裁体制に反対し、反乱を起こし、こうして内戦が始まったのである」。

 ボルシェビキ政権による食料独裁体制の実施により、農民は余剰作物を強制的に没収された。これにより農民の耕作意欲は著しく減少した。結果的に、ロシアの農村経済が破壊され、ロシアの人口の八割強を占める農民の生活を窮状化させた。1921年に起こった大飢饉により、500万人にものぼる餓死者が出ることとなった。

 この時期、ボルシェビキ政権は教会財産を没収し、その財産を海外に売却するべきだと考え、レーニンは次のように命じている。

 「富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない」(『あらかじめ裏切られた革命』岩上安身著、講談社文庫、374頁)。

【食料統制政策の惨状】

 こうして、「各地で1500件近い流血事件が起き」(森本良男著「ソビエトとロシア」、講談社現代新書、127頁)、多数の聖職者が犠牲になった。犠牲者の数は、和田春樹著「ロシア史」(山川出版社)や下斗米伸夫著「ソ連=党が所有した国家」(講談社選書メチエ)は8000人という数字をあげている。

 食糧独裁、および余剰穀物の強制徴発政策は、非常に重大な経済的結果をもたらした。しかし、政治的損失はさらに大きかった。ボリシェビィキは急速に農民大衆の支持を失った。多くの郡で暴動が始まった。食糧徴発隊には死傷者が出て、全滅する隊すらもあった。右派エスエル党は、武装蜂起も含めボリシェビィキとの闘争をおこなう旨の決議を採択した。全ロシア非常取締委員会(ヴェー・チェー・カー)や、形成されつつあった赤軍においてもなお有力な位置を占めていた左派エスエルは、ボリシェビィキ政府に対し断固たる闘争をおこなうと表明していた。ボリシェビィキと無政府主義者間に激しい対立が起こつた。

 メンシェヴィキは、新聞・雑誌やソヴィエトの会議の席上でボリシェビィキに反対を唱えた。。レーニンとともに「労働者階級闘争同盟」(1895年)を創立したこともある人物で後に作家となったK・パウストフスキーは、「K・パウストフスキー著作集」第3巻(モスクワ、1957年、629−630頁)の中で、次のようにL・マールトフの演説の一つを回想している。

 「議場が身震いした。私には、すぐには何が起こったのかわからなかった。演壇から壁を震わせてマールトフの声が鳴り響いていた。激しい怒りのたぎる声だった。体の前で両の握りこぶしを振り回し、喘ぎ喘ぎ叫んでいる。『裏切りだ! 諸君は、モスクワとペトログラードから不満を抱いた労働者全員を追い出そうとしてこの法令を思い付いたのだ――プロレタリアートの精華たる彼らを! そうすることで労働者階級の健全な抗議をおさえ込もうとしているのだ!』。

 しばしの沈黙の後、全員が席を蹴って立ち上がった。怒声の嵐が議場中に広まった。『そいつを演壇からひきずりおろせ!』『裏切り者!』『いいぞ、マールトフ!』『よくもそんなことが言えたものだ!』『真実は耳に痛し!』。スヴェルドローフはマールトフに静粛を求めて激しく鐘を鳴らしていたが、マールトフはさらに激しく叫び続けた。発言を禁じられても喋り続けた。三度の議会への出席を禁じられても相手にせず、ますます辛辣な非難を浴びせ続けた。スヴェルドローフが警備員を呼んでようやくマールトフは演壇から下り、口笛と足音と拍手の中議場を出て行った」()。

 ところが、ことは全ロシア中央執行委員会の会議上での舌戦ではすまなかった。1918.5.19日、ロシア共産党中央委員会の会議において「一定の犯罪に対し死刑判決を実施する」決議が採択された。中央委員会の議事録には、その点について次のような記録がある。

 概要「現在、大量銃殺刑は理にかなわぬことだが、幾人かを銃殺することには反対はないものと定める。スヴェルドローフに、同志ストゥチカ(法務人民委員)と相談の上、まず中央委員会において、その後人民委員会議および中央執行委員会においてしかるべき法令案を準備するよう一任する。この問題に関する中央執行委員会の会議は大きな宣伝の役割を持つものとなるよう組織すべきである」(「ソ連共産党中央委員会通報」、1989年、4号、147−148頁)。

 つまりロシア連邦における死刑廃止法令は、1918年春に廃止されたことになる。この決議により、ロシア各地で「怠業者」や「闇屋」の銃殺が始まった。食糧徴発隊は、富農を人質にとって穀物を駅まで運ぶよう要求するようになった。今や農民と労働者の平等や「人民大衆の自由な創造力」などすっかり忘れられてしまった。自らの財産を守ろうとする農民と、応戦する武装した労働者双方の放つ銃声が鳴り響いた。

 ところで都市部では、飢餓がひどくなる一方で、闇市が全国に猛威を振るっていた。レーニンの知人でその客観性を評価されていたカデット党の時事評論家N・ウストリャーロフは数年後、次のように書いている。

 「徴発と没収の政策はあらゆる方面での本能的な抗議を、商業の禁止は万人の不服従を、それぞれ呼び起こした。共産党の法令に従うと決めた者は、その決意の二、三週間後には餓死してしまったことだろう。なぜなら「合法的には」、有名な、どうしてもパンには見えないもの一かけらと腐ったジャガイモ入りの薄くてまずいスープ一皿以外何も手に入らなかったからである。共産党員たち自身を含め国全体が共産党の法令に反して生活し、全ロシアが「闇取引をしていた」のだから、各人を「罰する」ための表向きの理由に事欠かなかったのは当然である」(N・ウストリャーロフ「革命の旗の下に」、ハルピン、1925年、80頁)。

 抜き取り調査によると、1918年半ばには大都市住民は消費食糧の70%を闇屋から買っていた。小都市では、住民は全食糧品のほぼ90%を自由市場で手に入れていた。「歴史の諸問題」(1994年、2号、43頁)は、次のように記している。

 「ソヴィエトの統計資料によると、食糧人民委員部の全機関が1918年に調達することができたのは、農村にあった余剰穀物の約11%であった。ヴオルガ川東岸諸県ではソヴィエト政府は、1916年に帝政下の農業省が調達した穀物の十分の一しか調達できなかった」。

 一部の歴史家は今日でもなお、1918年春にボリシェビィキがおこなった穀物独占と、食糧政策とを正当化しようとしている。食糧独裁をしかなければ混乱を招き、交通機関が正常に機能しなくなり、最貧層の都市住民は一日2百グラムの配給食糧さえ受け取れなかっただろう、というのである。しかし、これらの論拠には説得力がない。ヴォルガ川沿岸の諸県およびヴャトカ県では、当局は自ら固定価格と穀物独占を廃止した。闇取引の猛威と闘う手立てがなかったからである。しかしそれらの地域では、1921年のネップ導入時と同じく、いかなる破局も起こらなかった。穀物独占の廃止は、国家が完全に穀物市場から手を引き最貧層の労働者および勤務者への食糧配給をやめなければならない、ということでは全くなかった。他ならぬ穀物独占こそが混乱を生み、国内における矛盾を増していたのである。クールスク県だけで20万人以上の闇屋が公式に登録されていた。

 全ロ中央執行委員会メンバーのA・フリストフは、闇屋たちが大規模で本格的な武装集団を組織し、様々な食糧徴発隊や阻止部隊を撃退している旨、クールスクからモスクワに大慌てで報告している。クールスク県にあった15百万プード〔約24万6千トン〕の余剰穀物中14百万プード〔約23万トン〕が闇屋によって持ち出され、食糧人民委員部が調達できたのはわずか百万プード〔約1万6千トン〕であった(「クールスタ県におけるソヴィエト政権確立と強化の闘争」、クールスク、1957年、259、286、344−345頁)。ヴォルガ川では闇屋集団が、食糧徴発隊にもなかった機関銃を武器に汽船を乗っ取り、穀物を運び出していた。

 1918.5月末には、自らの食糧徴発隊から穀物を入手する望みを捨てた多くの工場が労働組合の指揮下、当時人々に「集団闇屋」グループと呼ばれた部隊を結成した。それらの工場委員会や工場食糧委員会はソヴィエト政府の命令をものともせず、穀物や食用油他の食品を、固定価格を大幅に上回る価格で買い込んだ。そうした個別の物物交換には工場の製品や備蓄原料が使われた(参照「食糧人民委員部通報」』、モスクワ、1918年、1号、8頁)。

 食糧人民委員部に属しているはずの種々の阻止部隊や食糧徴発隊が大規模な闇取引をする、ということもよくあった。この点で皆が皆、軍用列車で穀物をモスクワヘ運び届けたあと、クレムリンで栄養失調から気を失ったロシア共和国食糧人民委員アレクサンドル・チュルーパのように厳格であるというわけではなかったのである。


【貧農委員会と国および農村における分裂】

 1918.6.11日付けの法令により、大部分が富農および中農からなる農村ソヴィエトの活動は事実上打ち切られた。農村における権力は、そこに設置された貧農委員会に移った。この委員会は、国家と自らを利するための没収や徴発をおこなう権限を与えられた。この法令によって、わずか数カ月間で十万以上の貧農委員会が設置された農村は分裂した。わが国の歴史上初の「クラーク〔富農〕解体」が始まった。

 しかし、それによって富農が北方あるいはシベリアに強制移住させられたわけでも集団農場が作られたわけでもなかったが。だが財産の新たな再分割は、とてつもなく大きな規模で起こった。富農の所有していた農地八千万ヘクタール中、約五千万ヘクタールが取り上げられた。同じく富農のものだった役畜、雌牛、農具、製粉所の一部や家財道具が貧農の手に移ったり共同所有となった。

 レーニンは、国内に大々的に繰り広げられた穀物をめぐる争いを「社会主義的闘争」と呼んでいた。貧農委員会と土地の新たな再分割は、わが国の歴史学では長らく、農村における社会主義革命と呼ばれてきた。しかし実際には、そこには社会主義的なものなど何もなかった。ごく一部の農村で、もと小作人や貧農たちが協同組合やコミューンを設立したが、それとて全国の農業生産高の二%にも満たなかった。同時に、農民の最富裕層の撲滅はロシアの農村の生産力に手痛い打撃を与えた。最も市場性のある農民経営が一掃され、それにかわってごくわずかしか商品穀物を生産しない新しい中農経営が何百万戸も生まれた。ボリシェビィキは、目の前の問題の解決を優先させたためにより大きく重要な問題の解決を難しくしてしまったわけである。農村では何百万人という復員兵が働いていたにもかかわらず、1918年のロシアの作柄が前年を下回ったのも驚くにはあたらない。

 貧農委員会を設置したことで農村におけるボリシェビィキの政治基盤は拡大し、赤軍の編成も容易になった。しかし、それによってエスエルや人民社会主義者党、および無政府主義者の政治基盤もやはり拡大し、その結果、左派陣営における分裂が進んで、国内の政局は緊迫化した。ボリシェビィキの政策に対する不満が特に大きかったのは、ヴォルガ川およびドン川沿岸、シベリア、北コーカサス、中央ロシアの黒土地帯諸県、一部民族地区など、市場向け農産物の主要産地であった。ほんの少し火の粉が散れば内戦という大火が起こりうるような状況であった上、そうした「火の粉」には事欠かなかった。局所的な農民蜂起の波が全国に広がり、モスクワやヤロスラヴリ、ヴォルガ川沿岸の諸都市やクバンでは左派エスエルの反乱が勃発した。国内の広大な地域が蜂起した「チェコスロヴァキア軍団」に占領された。ドン・コサックは、クラスノフ将軍を軍管区司令官に選んで新しいコサック軍政府を選出し、またもやソヴィエトに叛旗を翻した。北コーカサスでは、コルニーロフとデニーキン率いる将校からなる義勇軍が、自らの部隊を編成し最初の戦闘をおこなっていた。

 1918年夏、ソヴィエト・ロシアにはすでにボリシェビィキ政権と闘おうという人々が大勢いた。のちにレーニンは、実はまさに農民(シベリア農民、コサック、中農および富農)こそが「共産党員に対抗する最良の人材」であったことを認めている。中でも、1918年末まで農民による抵抗で決定的役割を果たしていたのは中農であった。何千万人もの中農がボリシェビィキの政策に反対を唱え、レーニンによればそれが「反革命的な運動や、蜂起や、反革命勢力の組織がもっとも大きな成功をおさめ」(九九)る決め手となつた。全ロシア非常取締委員会(ヴェー・チェー・カー)のデータによると、1918.7月から8月にかけてヨーロッパ・ロシアの20県だけで245件の「クラーク」蜂起が鎮圧されている(一〇〇一〇〇 M・ラーツィス『国内戦線における二年間の闘争』、モスクワ、一九二〇年、八五頁)。  

 ローザ・ルクセムブルクは、1918年、次のような見解を述べている。

 「レーニン主義的な農業改革は、地方に社会主義に対する大衆的な敵対者の新しい、強力な層を創出した。この敵の抵抗は、貴族的な大土地所有者の抵抗よりもはるかに危険で頑強なものとなるであろう」。

【食糧独裁令政策考】
 レーニンの著作に「戦時共産主義」という概念が登場するのは1921年になつてからである。この用語を最初に用いたのは、有名なボリシェビィキで哲学者、医者であり、レーニンの長年の論敵でもあったアレクサンドル・ボグダーノフであったと考えられている(一〇一 A・ボクダーノフ『社会主義の諸問題』より「戦時共産主義と国家資本主義」の章、モスクワ、一九一八年)。

 ソヴィエトの文献では長いこと、内戦と干渉こそが「戦時共産主義」や「赤色テロル」の政策を生んだとの説が定着していた。しかし実際はその逆だった。当時誰も「戦時共産主義」政策とは呼ばなかったボリシェビィキの極めて厳格な経済政策こそが、テロルや内戦を引き起こしたのであり、食糧徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせ、深刻化させたのである。実質的には内戦は、貧農委員会と食糧徴発隊による富農一掃からすでに始まっていたのである。

 著名なロシアの経済学者で農村に詳しいN・コンドラーチエフが証言しているように、「武力による弾圧に対し、自然発生的な復員を終えて帰還した兵士たちで溢れていた農村は、武力による抵抗といくつもの蜂起で応じた。だからこそ1918年晩秋までが、農産地である村の畑で悪夢のごとき流血の戦いが繰り広げられた時期であるように見えるのである」(一〇二N・コンドラーチエフ『穀物市場』、モスクワ、一九九二年、一二四頁。)。

 宮地健一氏は「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「(宮地注)、ロシアの農民革命とソ連における全農民反乱との関係」の項で次のように述べている。

 貧農委員会が半年で失敗すると、赤軍部隊・秘密政治警察チェーカーを農村に大動員し、軍事割当徴発を展開した。それは、ロシア政府の穀物国家専売よりもはるかに過酷な穀物家畜の収奪路線だった。

 これによって、クーデター政権と80%・9000万農民とは根本的な対立に突入した。なぜなら、穀物家畜の徹底収奪は、農民革命によって勝ち取った土地からの収穫物を全面剥奪し、共同の土地所有を事実上否定し去る性質を持ったからである。それは、80%・9000万農民が自力で成功させた農民革命にたいするレーニン側の反革命となったからである。レーニンの反革命にたいする農民側の抵抗・闘争がソ連全土における農民反乱となった。

 レーニンが誇張し、宣伝する「社会主義革命支持レベルの労農同盟」は、最初から存在していなかったというのが、ソ連崩壊後に証明された歴史的真実である。その詳細は私の「農民ファイル」と梶川伸一の「4つのファイル」で載せた。

(私論.私見) れんだいこの「食糧独裁令政策考」

 レーニン然り、この頃のポルシェヴィキは、マルクス主義の理論的教条を現実に押し付けることこそ革命的と勘違いしていたのではなかろうか。従って、例え現実から批判されようとも左派的な証としてますます食糧独裁令政策に固執していったのではなかろうか。通俗マルクス主義が生んだ悲劇と思われる。ネップ政策が導入されるまで、この悲劇に夢中になった史実が刻まれている。心せねばならないと思う。

 2005.12.17日 れんだいこ拝


 メドヴェージェフが本書で行なったもっとも独創的な、実際の貢献といえるものは、革命後の情勢の分析、とりわけ、ボリシェヴィキが食糧危機と農業を処理するために採用した苛酷で挑発的な(刺激的な)方法に関する分析である。彼は、レーニンの土地政策を、その起源をなす(これはレーニン自身が認めている)エスエル党の政綱までさかのぼって非常にはっきりと調べ出した。また彼は、農村内のぞっとするほどのボリシェヴィキの弱さも明らかにした。人口の80から90%がまだ農村に集中している国で、4122人の党員からなる203の農村党細胞しかなかったのである。ドン地方の大部分やシベリアの穀物生産県の農民は、それまでボリシェヴィキのことを一度も耳にしたことがなかった。ほかのロシアの多くの地域でも同様である。

 飢える都市と崩壊した工業、脱走によっていとも簡単に溶解してゆく軍隊(出身は殆んどすべて農民である)とに直面したレーニンは、食糧や生活必需品を奪うために「食糧軍」を形成して、労働者から成る武装部隊を農村に送り込んだ。そうしたこととか、農村内に「貧農」委員会を形成したことの結果、内戦がひきおこされた。ロシア各地で農民反乱が起こった。エスエル党やメンシェヴィキ党、チェコ軍団兵士、白系将軍といったボリシエヴィキの敵の教唆による事例が時としてあったが、それよりも多くの場合、農民は、もっぱら自分の意志によって行動を起こしたのである。この点で、メドヴェージェフがレーニンやボリシェヴィキを非難するのは正しい。

 彼は結論として、次のように述べている。

 「ボリシェヴィキは余りにも遠くに進みすぎ、客観的、主観的な条件が存在していないような任務の解決を企てた。その結果は、わが国にとって苦痛な事態であり、とくに、内戦の再開、すなわち、『平和な息つぎの時期』の終りであった」。

 メドヴェージェフは、10月におけるレーニンの成功は、エスエルの土地政綱を吸収し、自分たちのものとしようとした彼の意思に多くを負うていると結論づける。1918年の春の彼の失敗は、農民が都市に食糧を供給すべきであるならば売買する自由を、すなわち、取引きする自由を農民にどうしても与えなければならないということを理解できなかったことによる、と。

 彼は、ボリシェビキが1918年以降につきあたった重大な問題を、1918年春のレーニンの失敗のせいにした。例えば1921年の恐ろしい危機やクロンシュタットの反乱やその他すべても党の農村の理解の欠如に由来するもの、と認めた。ボリシェヴィキの政策には悪意にもとづくものはなにもない、そうメドヴェージェフは確信している。階級としての農民層への反感ではなく、単に理解を欠いていたことが、ボリシェヴィキが「革命後の時期の経済問題に対するもっと適正な解決法」に到達するのを妨げたというわけだ。


【ボリシェヴィキの政策失敗が内戦を招いた考】
 宮地健一氏の「ロイ・メドヴージェフの『10月革命』前書き」(H.E.ソールズベリー、石井規衛東京大学文学部教授訳)を参照する。れんだいこ理解に基づき書き直した。

 1918年、ボリシェヴィキは、その時期に二つの決定的な過ちを犯した。一つが、憲法制定議会の強引な解散であった。これにより、ボリシェヴィキ革命権力は合法性を失い、強権政治に乗り出していくことになった。これが人民の信頼を離反させ、反ボリシェヴィキ勢力に憲法制定議会擁護の大義名分を与えることとなった。もう一つが、食料政策であった。ボリシェヴィキは、例えば、「直接的生産物交換」といった現実に照応していない、性急で空想的な政策を採用したことにより、不必要に社会に混乱を生み出してしまった。この「間違った」政策がエスエル左派との対立を決定的なものにして、革命政権の政治的基盤を著しく弱めた。農民ばかりか労働者の間にも不満を引き起こし、「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という事態を引き起こした。

 「反革命」勢力がそれらを利用して、内戦が本格化し、ボリシェヴィキ政権を滅亡の寸前まで追いやることになった。食料政策は後にネップ政策に転換する。当初よりこの政策を採用していたならば、革命政権の基盤は磐石だったのではなかろうか。そもそも大規模な内戦は起こりえなかったのではなかろうか。レーニンートロツキーの二艘建て指導期間がもう少し長期に及び、スターリン派に足元を掬われることもなかったのではなかろうか。

 一般には、内戦は、外国勢力の策動により引き起こされたと理解されている。それに対して、「ロイ・メドヴージェフの『10月革命』前書き」は、概要「内戦の勃発と本格化の責任の多くは、ボリシェヴィキ政権が自ら採った間違った政策にある」と主張している。ロイ・メドヴージェフは、「1918年春の失政」の意味はそれほど大きいと指摘している。ロイ・メドヴージェフ見解の当否は別として、この時期の、かくも批判的にして総合的な叙述は、欧米ではもちろんのこと、ソ連においても今にいたるまで存在していない。




(私論.私見)