「戦時共産主義」政策、食物徴発令の経過と論理 |
(最新見直し2005.12.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
ボリシェヴィキが政権を掌握して最初に襲ってきたのが、外交でのドイツとの講和問題、内政での「食糧危機問題」であった。政権党になるということは責任与党になるということであり、この手綱裁き如何で政権が崩壊の危機に瀕する。ボリシェヴィキは如何にこの危機に対応し、その手際はどうであったのだろうか。 10月革命から国内戦の時期の3年数ヶ月、ボリシェヴィキが政権は、「マルクス主義的国有化理論」に基づく経済政策を押し進めていった。まず、国立銀行の掌握、私立商業銀行の国有化による「ソビエト国家によるあらゆる銀行事業の独占」から始まる一連の「マルクス主義?」的政策を実施していった。続いて、工業の国有化、生産の中央統制、農民に対する食糧徴発制(農産物の強制供出)、労働義務制、貨幣の意義の縮小等々。内戦期に革命政権が採用した諸政策は一括して「戦時共産主義」と称されている。 「戦時共産主義」を概念的に述べると、次のように規定し得る。
「戦時共産主義」はいざこれをやって見るとことごとく壁にぶつかった。これらの経済政策は失敗し、工業の機能不全、商経済の停滞、農村の疲弊を押し進めた。社会の全域から不満が高まった。特に、農民政策の失政が酷かった。農民は生活ぎりぎりの賄い部分を除いて生産物の現物供与を強制された。翌年用の種子まで奪取されることもあり次期の耕作に支障をきたした。農業のイロハさえ知らぬ党官僚により引き起こされた悪政であった。抵抗した農民は弾圧され、残りの農民は労働意欲を無くし、農業生産力は革命前よりも落ちるという最悪の結果に陥った。 以下、この経過を検証する。「宮地氏の共産党問題、社会主義問題を考える」の「ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り・1918年の困難な春」を下敷きにする。 2005.11.30日 れんだいこ拝 |
【食料統制政策導入前の事情】 | ||||
1917.3.25日、臨時政府の法令によって穀物専売制度が導入されていた。この穀物専売制度は、ペトログラードヘの穀物その他の供給が滞ったために暴動や革命が起こったことを踏まえ、カデット党所属の閣僚たちが推進したものであった。既に、1915年、帝政政府の下で穀物専売制導入が論議されていた。というのも、当時、国家による穀物買い上げ量は全収穫量の20%にもならず、1千万の兵員を抱える軍隊への食糧支給に困難をきたしていたからである。
1918.2月末のソヴィエト・ロシアの状況は、困難ではあったが絶望的ではなかった。講和条約が調印されて戦争が終わり、軍人の復員が始まっていた。ロシアは国民の80%が農民であり、都市部には2〜3百万人の大規模な工業企業労働者に対し1千万〜12百万人の手工業者と商人がいた。農村では春の播種が始まり、地主地の再分割が終わろうとしていた。秋から冬にかけてのペトログラード、モスクワ、さらには軍における状況は危機的であったが、春先には上向き始めた。1918年春、ロシアにはまだ本格的な荒廃はみられなかった。通信・交通・都市経済は比較的正常に機能していた。多くの企業が営業していたし、金融制度・商業制度は完全には破壊されていなかった。 ボリシェビィキは、早くも1918.1月以降、経済の多くのレベルで誤った政策を実施しはじめた。独占企業体や大銀行連合および一部大企業の国有化は、すでに「四月テーゼ」に謳われており、その他の企業に関しては労働者統制のみが課題とされていた。ところが、実情ははるかに複雑であった。銀行家ばかりかほとんどすべての大企業主がボリシェビィキ政府との協力を拒んだのである。そうした人々の多くは中立国であるスイスか、まだソヴィエト政権のないウクライナヘ去った。ロシアの企業の多くは外国資本のものであった。そうした工場はまったく生産を中止していた。そのため国有化は、余儀なくされた懲罰措置の性格をもった。
このユートピア的計画を実現することは、もちろんかなわなかった。 工業および交通の状況は、1918年の最初の数カ月間どんどん悪化した。もはや軍需品は不要であったにもかかわらず、戦争中増大した軍需生産を民需に転換するための計画も資金もなかった。巨大な工場でライターが作られたりした。そんな中で労働者および勤務者の賃金は形だけのものとなり、あらゆる商品の価格が急騰した。
企業では横領の件数が増えた。工場経営者となつた労働者たちは、働くのは文字通り自分のためであり、倉庫にある在庫を仲間うちで分配しても構わないとさえ考えるようになつた。このような状況では、労働者による統制ばかりか労働者自身に対する統制、さらには生産現場にレーニンの書いている「鉄の規律」を、強制手段によるものを含めて導入することを考えなければならなかった。 |
【食料統制政策】食糧独裁 | |||||||||
十月革命勝利直後レーニンは、労働者に対しても農民に対しても何らの強制も考えていなかった。支持者たちに「土地に関する布告」について説明しながら、彼はこう述べた。
数日後、レーニンはさらに説明している。
ところが、新政権が都市と農村間の自由な商品交換に反対であることが明らかになると、農民と都市住民は自ら自由取引をはじめた。すでに戦時中生まれていた個人による小規模商売、すなわち「闇取引」が広がりはじめた。 1918.3月、「担ぎ屋」、「闇屋」、「ペテン師」らに対する弾圧が強まりはじめ、農村へ穀物を買い出しに出かけた何百万という都市住民や、「固定」価格で穀物を売るのがいやで自ら都市へ売りに行った何百万という農民が、当局や急ごしらえされた「阻止部隊」の攻撃に遭った。この自然発生的な交換をやめさせることは困難だった。「闇屋」たちが阻止部隊の数の何倍もの立派な武装団を作って自衛したからである。都市と農村間で直接の物物交換をおこなおうとする食糧人民委員部の試みも失敗に終わった。農村に必要な商品もなければ、経験もなかったのである。
権力奪取の6カ月後、飢餓解決策・農村への革命拡大などいくつかの目的に基づいて、食糧独裁令が発令された。これとともに、レーニンの呼びかけで、国内に何千もの「食糧徴発隊」が作られ始めた。農村に貧農委員会が設立され、食糧徴発隊が派遣された。その任務は、農民から「余剰」穀物を強制的に没収することであった。ソヴィエト・ロシアに悪名高き食糧割当徴発制度、および食糧人民委員部による、いわゆる食糧独裁体制がしかれた。 1918.5.13日付け全ロ中央執行委員会および人民委員会議の法令には、この点に関し以下のような記述があった。
大多数のボリシェビィキでさえ、この法令を極めてしぶしぶ実行した。5月末には食糧徴発隊全体でも五〜六千人の人員しかおらず、余剰穀物の徴発と都市への食糧供給の任務を果たすことはできなかった。 この措置は、当時、レーニンやボリシェビキによって、一時的な非常措置ではなく、マルクス主義的イデーに則った「共産主義的な分配」にすすむ直線コースだと位置づけられていた。その際のマルクス主義的イデーとは、私有財産制の否定という観点からの市場式商品経済制度の否定にあった。いわば社会主義化へ向かう施策として「闇取引」の禁止、食糧および余剰穀物の強制徴発政策、企業の国有化が導入された。「戦時共産主義政策」と云われているが、むしろ生硬なマルクス主義政策の導入とみなすべきであろう。この試験的効果の功罪が歴史的に総括されねばならないにも関わらず、未だに未考察のまま経緯している。
ボルシェビキ政権による食料独裁体制の実施により、農民は余剰作物を強制的に没収された。これにより農民の耕作意欲は著しく減少した。結果的に、ロシアの農村経済が破壊され、ロシアの人口の八割強を占める農民の生活を窮状化させた。1921年に起こった大飢饉により、500万人にものぼる餓死者が出ることとなった。
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【食料統制政策の惨状】 | ||||
こうして、「各地で1500件近い流血事件が起き」(森本良男著「ソビエトとロシア」、講談社現代新書、127頁)、多数の聖職者が犠牲になった。犠牲者の数は、和田春樹著「ロシア史」(山川出版社)や下斗米伸夫著「ソ連=党が所有した国家」(講談社選書メチエ)は8000人という数字をあげている。
ところが、ことは全ロシア中央執行委員会の会議上での舌戦ではすまなかった。1918.5.19日、ロシア共産党中央委員会の会議において「一定の犯罪に対し死刑判決を実施する」決議が採択された。中央委員会の議事録には、その点について次のような記録がある。
つまりロシア連邦における死刑廃止法令は、1918年春に廃止されたことになる。この決議により、ロシア各地で「怠業者」や「闇屋」の銃殺が始まった。食糧徴発隊は、富農を人質にとって穀物を駅まで運ぶよう要求するようになった。今や農民と労働者の平等や「人民大衆の自由な創造力」などすっかり忘れられてしまった。自らの財産を守ろうとする農民と、応戦する武装した労働者双方の放つ銃声が鳴り響いた。
抜き取り調査によると、1918年半ばには大都市住民は消費食糧の70%を闇屋から買っていた。小都市では、住民は全食糧品のほぼ90%を自由市場で手に入れていた。「歴史の諸問題」(1994年、2号、43頁)は、次のように記している。
一部の歴史家は今日でもなお、1918年春にボリシェビィキがおこなった穀物独占と、食糧政策とを正当化しようとしている。食糧独裁をしかなければ混乱を招き、交通機関が正常に機能しなくなり、最貧層の都市住民は一日2百グラムの配給食糧さえ受け取れなかっただろう、というのである。しかし、これらの論拠には説得力がない。ヴォルガ川沿岸の諸県およびヴャトカ県では、当局は自ら固定価格と穀物独占を廃止した。闇取引の猛威と闘う手立てがなかったからである。しかしそれらの地域では、1921年のネップ導入時と同じく、いかなる破局も起こらなかった。穀物独占の廃止は、国家が完全に穀物市場から手を引き最貧層の労働者および勤務者への食糧配給をやめなければならない、ということでは全くなかった。他ならぬ穀物独占こそが混乱を生み、国内における矛盾を増していたのである。クールスク県だけで20万人以上の闇屋が公式に登録されていた。 全ロ中央執行委員会メンバーのA・フリストフは、闇屋たちが大規模で本格的な武装集団を組織し、様々な食糧徴発隊や阻止部隊を撃退している旨、クールスクからモスクワに大慌てで報告している。クールスク県にあった15百万プード〔約24万6千トン〕の余剰穀物中14百万プード〔約23万トン〕が闇屋によって持ち出され、食糧人民委員部が調達できたのはわずか百万プード〔約1万6千トン〕であった(「クールスタ県におけるソヴィエト政権確立と強化の闘争」、クールスク、1957年、259、286、344−345頁)。ヴォルガ川では闇屋集団が、食糧徴発隊にもなかった機関銃を武器に汽船を乗っ取り、穀物を運び出していた。 |
【貧農委員会と国および農村における分裂】 | |
1918.6.11日付けの法令により、大部分が富農および中農からなる農村ソヴィエトの活動は事実上打ち切られた。農村における権力は、そこに設置された貧農委員会に移った。この委員会は、国家と自らを利するための没収や徴発をおこなう権限を与えられた。この法令によって、わずか数カ月間で十万以上の貧農委員会が設置された農村は分裂した。わが国の歴史上初の「クラーク〔富農〕解体」が始まった。 レーニンは、国内に大々的に繰り広げられた穀物をめぐる争いを「社会主義的闘争」と呼んでいた。貧農委員会と土地の新たな再分割は、わが国の歴史学では長らく、農村における社会主義革命と呼ばれてきた。しかし実際には、そこには社会主義的なものなど何もなかった。ごく一部の農村で、もと小作人や貧農たちが協同組合やコミューンを設立したが、それとて全国の農業生産高の二%にも満たなかった。同時に、農民の最富裕層の撲滅はロシアの農村の生産力に手痛い打撃を与えた。最も市場性のある農民経営が一掃され、それにかわってごくわずかしか商品穀物を生産しない新しい中農経営が何百万戸も生まれた。ボリシェビィキは、目の前の問題の解決を優先させたためにより大きく重要な問題の解決を難しくしてしまったわけである。農村では何百万人という復員兵が働いていたにもかかわらず、1918年のロシアの作柄が前年を下回ったのも驚くにはあたらない。 貧農委員会を設置したことで農村におけるボリシェビィキの政治基盤は拡大し、赤軍の編成も容易になった。しかし、それによってエスエルや人民社会主義者党、および無政府主義者の政治基盤もやはり拡大し、その結果、左派陣営における分裂が進んで、国内の政局は緊迫化した。ボリシェビィキの政策に対する不満が特に大きかったのは、ヴォルガ川およびドン川沿岸、シベリア、北コーカサス、中央ロシアの黒土地帯諸県、一部民族地区など、市場向け農産物の主要産地であった。ほんの少し火の粉が散れば内戦という大火が起こりうるような状況であった上、そうした「火の粉」には事欠かなかった。局所的な農民蜂起の波が全国に広がり、モスクワやヤロスラヴリ、ヴォルガ川沿岸の諸都市やクバンでは左派エスエルの反乱が勃発した。国内の広大な地域が蜂起した「チェコスロヴァキア軍団」に占領された。ドン・コサックは、クラスノフ将軍を軍管区司令官に選んで新しいコサック軍政府を選出し、またもやソヴィエトに叛旗を翻した。北コーカサスでは、コルニーロフとデニーキン率いる将校からなる義勇軍が、自らの部隊を編成し最初の戦闘をおこなっていた。 1918年夏、ソヴィエト・ロシアにはすでにボリシェビィキ政権と闘おうという人々が大勢いた。のちにレーニンは、実はまさに農民(シベリア農民、コサック、中農および富農)こそが「共産党員に対抗する最良の人材」であったことを認めている。中でも、1918年末まで農民による抵抗で決定的役割を果たしていたのは中農であった。何千万人もの中農がボリシェビィキの政策に反対を唱え、レーニンによればそれが「反革命的な運動や、蜂起や、反革命勢力の組織がもっとも大きな成功をおさめ」(九九)る決め手となつた。全ロシア非常取締委員会(ヴェー・チェー・カー)のデータによると、1918.7月から8月にかけてヨーロッパ・ロシアの20県だけで245件の「クラーク」蜂起が鎮圧されている(一〇〇一〇〇 M・ラーツィス『国内戦線における二年間の闘争』、モスクワ、一九二〇年、八五頁)。
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【食糧独裁令政策考】 | |
レーニンの著作に「戦時共産主義」という概念が登場するのは1921年になつてからである。この用語を最初に用いたのは、有名なボリシェビィキで哲学者、医者であり、レーニンの長年の論敵でもあったアレクサンドル・ボグダーノフであったと考えられている(一〇一 A・ボクダーノフ『社会主義の諸問題』より「戦時共産主義と国家資本主義」の章、モスクワ、一九一八年)。 ソヴィエトの文献では長いこと、内戦と干渉こそが「戦時共産主義」や「赤色テロル」の政策を生んだとの説が定着していた。しかし実際はその逆だった。当時誰も「戦時共産主義」政策とは呼ばなかったボリシェビィキの極めて厳格な経済政策こそが、テロルや内戦を引き起こしたのであり、食糧徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせ、深刻化させたのである。実質的には内戦は、貧農委員会と食糧徴発隊による富農一掃からすでに始まっていたのである。 著名なロシアの経済学者で農村に詳しいN・コンドラーチエフが証言しているように、「武力による弾圧に対し、自然発生的な復員を終えて帰還した兵士たちで溢れていた農村は、武力による抵抗といくつもの蜂起で応じた。だからこそ1918年晩秋までが、農産地である村の畑で悪夢のごとき流血の戦いが繰り広げられた時期であるように見えるのである」(一〇二N・コンドラーチエフ『穀物市場』、モスクワ、一九九二年、一二四頁。)。 宮地健一氏は「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「(宮地注)、ロシアの農民革命とソ連における全農民反乱との関係」の項で次のように述べている。
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【ボリシェヴィキの政策失敗が内戦を招いた考】 |
宮地健一氏の「ロイ・メドヴージェフの『10月革命』前書き」(H.E.ソールズベリー、石井規衛東京大学文学部教授訳)を参照する。れんだいこ理解に基づき書き直した。 1918年、ボリシェヴィキは、その時期に二つの決定的な過ちを犯した。一つが、憲法制定議会の強引な解散であった。これにより、ボリシェヴィキ革命権力は合法性を失い、強権政治に乗り出していくことになった。これが人民の信頼を離反させ、反ボリシェヴィキ勢力に憲法制定議会擁護の大義名分を与えることとなった。もう一つが、食料政策であった。ボリシェヴィキは、例えば、「直接的生産物交換」といった現実に照応していない、性急で空想的な政策を採用したことにより、不必要に社会に混乱を生み出してしまった。この「間違った」政策がエスエル左派との対立を決定的なものにして、革命政権の政治的基盤を著しく弱めた。農民ばかりか労働者の間にも不満を引き起こし、「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という事態を引き起こした。 「反革命」勢力がそれらを利用して、内戦が本格化し、ボリシェヴィキ政権を滅亡の寸前まで追いやることになった。食料政策は後にネップ政策に転換する。当初よりこの政策を採用していたならば、革命政権の基盤は磐石だったのではなかろうか。そもそも大規模な内戦は起こりえなかったのではなかろうか。レーニンートロツキーの二艘建て指導期間がもう少し長期に及び、スターリン派に足元を掬われることもなかったのではなかろうか。 一般には、内戦は、外国勢力の策動により引き起こされたと理解されている。それに対して、「ロイ・メドヴージェフの『10月革命』前書き」は、概要「内戦の勃発と本格化の責任の多くは、ボリシェヴィキ政権が自ら採った間違った政策にある」と主張している。ロイ・メドヴージェフは、「1918年春の失政」の意味はそれほど大きいと指摘している。ロイ・メドヴージェフ見解の当否は別として、この時期の、かくも批判的にして総合的な叙述は、欧米ではもちろんのこと、ソ連においても今にいたるまで存在していない。 |
(私論.私見)