内政撹乱、外国の干渉、ボルシェヴィキの対応

 (最新見直し2005.11.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 十月革命前のレーニンの見通しは、政権に就いた後賢明な政策をおこなえば、誰もが恐れる内戦は回避できるだろうとの見解を示していた。次のように述べている。

 概要「もちろんブルジョアジーはソヴィエトに抵抗するだろう。しかし、この反抗が内乱にまでなるには、戦闘能力とソヴィエトを打ちやぶる能力とをもった、なんらかの大衆がいなければならない。しかし、ブルジョアジーは、このような大衆をもっていないし、またどこからもそれを手に入れることはできない」(レーニン全集第26巻、24頁)。
 概要「したがって、革命の敵の抵抗をおさえるのは困難ではないだろう。それには五十人か百人の銀行王と銀行資本のお歴々〔・・・・・・〕を数週間拘留しておけば十分であろう」(レーニン全集第25巻、50頁)。

 だが、この予測は当たらなかった。外国勢の凄まじい干渉が始まり、これに呼応する勢力との内戦が始まり、1917年から1922年の間に、約1300万の人口を減少させるほどの苦難を強いられた。犠牲者のほとんどは市民だった。双方の軍人の死者はおよそ250万人に及んだ。150万から200万の人々が、彼らの祖国を去った。残ったひとびとは、飢え、欠乏、流行病、双方のテロルに苦しんだ。この悲劇のごく一部を「体験」するためには、かのパステルナークの「ドクトル・ジバゴ」を読めばよい。

 
問題は、最終的に権力を掌握したのが、外国勢の干渉、内戦に力戦奮闘したレーニン派、トロツキー派ではなく、これに功の無いスターリン派であったことである。これについては別章で触れ、ここでは「内政撹乱、外国の干渉、ボルシェヴィキの対応」を考察する。

 2005.12.12日 れんだいこ拝



 3.6−8日、ボリシェヴィキは、第7回党大会を開き、1・レーニンの提案にしたがって、ドイツとの講和条約を大多数で可決した。2・党名をロシア社会民主労働党からロシア共産党(ボリシェヴィキ)とすることを決定した。この新名称は、党が共産主義社会の実現を最終目的にしていることを表現していた。
 3.10−14日、首都をペトログラードからより奥地のモスクワに移転した。

 ドイツとの講和で革命政府の立場が安定したわけではなく、国内には西欧諸国の支援を受けて、革命政府を打倒しようとする旧ロシア帝国の将軍たちが「白軍」(反革命軍)を率いて革命政府を包囲していた。トロツキーを中心に赤軍編成を進めるなど、新体制づくりをはじめた。

 1918.3.13日、トロツキーが、ブレスト講和ののち外務人民委員を辞任し、軍事人民委員に就任し、国防の先頭に立ち赤軍建設に着手した。各種軍事機関の指導に当たる最高軍事評議会議長をも兼任した。トロツキーは、スクリンヤンスキーを副人民委員を選んだ。

 3.12日、首都がペトログラードからモスクワへ移転された。中世期の城壁と数知れぬ円頂閣のあるクレムリンは、革命的独裁の城壁となった。この時代のレーニンとトロツキーの関係について、トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。
 「レーニンと私は廊下で日に10回は出逢った。そして、互いに意見を交換するために、代わる代わる相手の部屋を訪れた。この訪問は時に10分から15分にもー当時の我々としては貴重な時間だが及ぶこともあった。レーニンは、この時代、むしろおしゃべりであった。だが、勿論、彼の基準での話である。我々の廻りには為さねばならない新しいことや、前には未知のことがあまりに沢山、山積していた。我々は自分を初め、他の人々をも、新しい世界に基づいて改造しなければならなかった。その為にこそ、我々は特殊から一般へ、一派から特殊へと移る必要を痛感していた。プレスト・リトウスクの会談に於ける我々の不一致の際に、二人の間に生じたかすかな曇りは、跡形も無く消え去っていた」。
 「レーニンとトロツキーの不一致に関する今日の文書は虚偽の記録で書き換えられている。勿論我々の間にも不一致はあった。しかしそれよりも、電話で一寸言葉を交わすか、それどころか、互いに意志を疎通させもしないのに同じ結論に達した場合の方が比較にならぬほど数多かったのである」。一つの問題に同じ方法で我々が対処していることが明らかとなった場合、彼も私も、必要な決議が採決されることを疑わなかった。レーニンは、彼の提案に対して、或る人の側から重大な反対が起るおそれのある時には、私に電話で呼びかけてくるのだった。『会議を欠席しないでくれたまえ。君に最初に発言を指名するからね。私は数分間話すのが常だった。私の話の最中、レーニンし一、二度、『その通リだ!ーーー』と云う。するとそれで必要な結論に達するのだった」。

 3.14日、第4回全ロシアソビエト臨時大会を開催した。

 ロシア10月革命は、歴史上初めて誕生した社会主義革命であり、西欧列強帝国主義諸国を震撼せしめた。樹立されたソビエト政権は、帝国主義陣営から転覆策動され続け、生まれたそのときから苦難の連続となった。社会革命党左派は、講和反対の立場をとり、革命政権の連立から離脱した。大きな痛手であった。

 ドイツとの単独講和が他の連合国を激怒させた。1918.4月から1921年にかけて、共産主義に脅威を抱く資本主義諸国が共同戦線を形成してソビエト包囲と激しい武力干渉を始めた。イギリスでは、ボリシェヴィキ政権を倒して連合国側にたつ政府を樹立するために武力干渉すべきだという意見が強くなった。主要帝国主義連合軍は対ソ干渉戦争を開始し始め、この武力干渉は二方面から行われた。

 
一つは、西欧からの地続きとなる西部戦線で為されている。1918.3.9日、英仏対ソ武力干渉軍がムルマンスクに上陸して進撃開始。同時にフランス軍はアルハンゲリスクに上陸、進撃。一つは、極東及びシベリアへの侵攻が為されている。日本がその口火を切っており、1918.4月にシベリア出兵を策動し、日英がウラジヴォストークに軍艦を派遣し上陸している。

 5.25日、チェコ軍団がイルクーツク、シベリア鉄道を占拠した。チェコ軍団は帝政ロシアのときに、ロシア在住およびオーストリア軍捕虜のチェコ人を集めてつくられた軍団(兵力4万)で、シベリア鉄道〜ウラジヴォストーク経由でロシアを去ることがソヴィエト政権との間で合意されていたが、5月末にドイツ人捕虜との小競り合いからウラルで反乱に踏み切り、シベリア鉄道沿線一帯を占領した。この事件は干渉をねらう連合国に、「チェコ軍団救出」という格好の名目を与えた。この事件が、大規模な内戦の開始となった。(「内戦勃発」 )トロツキー、赤軍指導者として内戦を指導。

 ソビエト政権と単独講和を結んだドイツも、ウクライナ、白ロシア、クリミア地方に侵入してきた。英仏両軍がオデッサに上陸した。ソビエト政権は、食糧、燃料及び原料の供給ルートが遮断され、建国革命に大きな暗雲が漂うことになった。


 6.14日、全ロシア中央執行委員会は、労働者農民に武力攻撃を組織しようとする反革命集団との協力という理由 で、右派エスエルとメンシェヴィキをソヴィエトから追放する決議をしている(エス・エルはすでに戦時中に分裂しているが、左派エスエルは1917.11月に結成大会をひらいている)。

 だがその後、左派エスエルはボリシェヴィキが強行しつつあった食糧徴発政策とドイツとの単独講和に強い不満を表明する。ボリシェヴィキと左派エス・エルの劇的対立が始まった。

 
6.28日 一般的国有化の布告。戦時共産主義の開始。

 この頃、政権内の闘争も激化した。7.4日、第5回全ロシア・ソヴィエト臨時大会が開催され、議席の3割を占めるエスエル左派が食料徴発と対ドイツ講和に抗議した。この大会開催中に、エスエル左派のチェカメンバーが、条約の破棄を意図してソビエト駐在ドイツ大使ミルバッハを爆殺した。7.6日エスエル左派が、これを契機にモスクワやその他の地方都市で武装蜂起し、権力を奪おうとした。「エスエル左派の反乱」が公然化した。

 蜂起は迅速に鎮圧され、エスエル左派の大会代議員は逮捕され、エスエル左派は非合法状態に置かれる事になった。チェカ員たる左派エス・エル党員13人は、銃殺となり、1918.7.29日、全ロシア 中央委員会の決議は、大量的テロルを政策として採用することを明示した(溪内 謙著『現代社会主義の省察』 岩波現代選書)。共産党による実質的な独裁が開始された。地下にもぐったエスエル左派の反撃も凄まじ く、テロは続いた。エスエル左派のヴォルダルスキー、ウリツキーが暗殺された。


 こうした政権内の抗争と干渉軍に呼応して、反革命白衛軍が結成され、ソビエト政権を攻撃してきた。トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。
 「白軍は、赤軍内に於いて扇動する際に、反ユダヤ思想を利用しようと試みたが、全然成功を収めなかった」。
 「私がユダヤ系の出であるという問題は、私に対する政治的迫害が始められた時、初めて重要性を持つようになったのであった。反ユダヤ主義は、反トロツキズムと同時に台頭した。その両者とも、同じ源泉ー即ちプチ・ブルジョアジーの10月革命に対する反動から生じたのであった」。

 ソヴィエト政権に不満をもつ勢力の活動が活発化し、内乱と内戦を引き起こした。コルチャック提督は、オムスクにロシア帝国の復興を目指して政府を樹立し、チェコ軍と合流しつつ皇帝一家が幽閉されているエカチェリブルクに向かった。

【皇帝ニコライ2世一族の銃殺】
 かっての皇帝ニコライ2世一家は臨時政府に監禁された後、ボリシェヴィキ政権によってエカチェリンブルクに移されていたが、革命と反革命の両勢力、そして外国の干渉も絡んでややこしい内戦状態になる中、ポルシェヴィキ政権は、皇帝ニコライ2世一族の処分を決定した。

 7.16日、皇帝ニコライ2世一族幽閉の地に白軍が接近したためポルシェヴィキは、一家が反革命軍の手に奪還されるのを恐れて銃殺した。これにつきレーニンは、「イギリスとフランスでは、何世紀も前に彼らのツアーリを処刑したが、我々はわが国のツァーリについては遅れていた」(レーニンの貧農委員会大会演説)と述べている。「皇帝ニコライ2世一家殺害」は、ボリシェヴィキの暴虐性を示すものとして喧伝された。

 1991年、ソ連崩壊直前、ニコライ一家のものと思われる人骨が発掘され、1998年にDNA鑑定の結果、「本物」と認められた(この際にいわゆる「皇女アナスタシア」はやはり一緒に死んでいたことが判明した)。遺骨はそのままサンクトペテルブルクのペトロパブロフスク聖堂に歴代皇帝とともに葬られた。正教会の総主教はDNA鑑定の結果を信用できないとして埋葬式に出席しなかった。


 8月、トロツキーが特別の軍用列車「革命軍事列車」を編成し、全国を走り回った。「革命軍事列車」は、良き指導者を揃え、数十人の老練な闘士、十何人かの献身的な共産党員、自主的に参加してくる一般兵士の為の長靴の調達、浴室設備、エネルギッシュな宣伝活動、食料、衣類その他の全てを揃え走り回った。

 トロツキーは赤軍の規律を整え、戦意を昂揚させていった。次のような内務命令を公布し、全隊員に周知徹底させていった。

 「私は次の通告をする。もしある軍隊のある者が許可なくして退却するならば、まず第一に別働隊の委員を、次に指揮官を、それぞれ銃殺する。指揮官の地位には、勇敢な兵士をつかせる。卑怯な者、自分の身を大事にする者、裏切り行為をする者は、やはり銃殺する。このことについて、私は全赤軍の前に責任をとる」。

 8月、日本軍がシベリア出兵。同時に英・米両軍もウラジオストクに上陸してチェコ軍と合流。英・仏軍は北部ロシアのカフカス(アルハンゲリスク、ムルマンスク、バクー)に進撃、南部のオデッサに上陸した。それとともに、旧帝政の軍人やかつての憲法制定議会の政治家らがシベリア各地に反革命の武装勢力をつくった。これらは「白軍」とよばれている。干渉軍はそれぞれに地方政権を立てて内戦を助長せんとした。

 こうして1918年夏、チェコスロバキア白軍とセミョーノフ軍の支援を受けた連合国列強による極東及びシベリアへの共同侵攻が為されている。地方ソビエトと衝突しつつ、シベリア鉄道と沿線都市を占領した。白軍のヴォルガ攻撃の頂点。ロシアは本格的な干渉戦争、そして内戦に突入した。 


 
この非常事態に、ソヴィエト政府は赤軍を志願制から徴兵制に切り替え、労働者と農民を動員しはじめた。その兵力は最大時で550万に達した。さらに、流通システムの崩壊、穀倉ウクライナの喪失などにより都市の食糧事情が悪化していたことから、食料調達隊を農村に送り余剰穀物を強制的に徴発した。工場もすべて国有化され、労働者の自主管理にかわって厳しい統制がしかれた。いわゆる「戦時共産主義」のはじまりである。これらの政策が稚拙であった為、農民と労働者の猛反発をよんだ。

 8月、ロシア帝国時代の将軍コルニロフとデニキンが北カフカスで蜂起して反乱軍を組織。ドン河周辺ではコサックの反乱軍が蜂起。これらの動きに抗して立ち塞がったのがボリシェヴィキの指導するパルチザンであり、それに連帯するロシア住民の闘争であった。

 8月、レーニンは、「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の外敵は、現時点において英仏帝国主義と日米帝国主義である」と記している。ソビエト政権は、これらに対抗するために赤軍を組織し、平和的解決の交渉を粘り強く行いながら、白衛軍との戦争を遂行し、反革命軍の鎮圧に向かう。


 革命後の国内戦に加え、これに連合国が介入をし始めたことにより、複雑な様相を帯び始めた。軍事人民委員に就任したトロツキーは、「赤軍」(革命軍)を率いて国内戦を戦った。彼は、数万の帝政下の将校・軍人を採用し、彼らを政治委員の支配下において活用した。専門的経験と知識が必要であったからである。

 白軍の主力は1920年の春頃までに壊滅し内戦が完了した。だが、国内戦の終結とともにメンシェビキやエスエルなどへの弾圧が強化された。
ボリシェヴィキはたびたび危機に見舞われながらも、反対勢力側の分裂に助けられ、遂に勝利を収めていくことになる。だが、国土は荒廃し、農業生産は戦前の半分に、工業生産は7分の1に激減した。農民は食料の強制徴発に反抗し、飢えた都市労働者の不満も高まった。(鈴木肇「ソ連共産党」参照)
 


 8.30日、レーニンが重傷を負っている。この日、ペトログラード非常委員会のウリッキーが倒され、モスクワ工場での演説帰りのレーニンがファニィ・カプランという名の女性テロリストにより狙撃されるというレーニン暗殺未遂事件が発生した。

 これらの動きに対して、レーニンは、「白色テロには赤色テロで応じる」と宣言し、徹底的な弾圧でのぞんだ。「ブルジョアジーと将校から相当数の人質をとる」ことが、各地のソビエトに指令された。中心となったのはチェカ(非常委員会:のちのKGB)なる秘密警察で、スパイと密告の網を張りめぐらし、「反革命派」とみなした人物を捕らえては裁判なしで処刑した。チェカの地方幹部が暗殺されると市民500人を銃殺して報復するというすさまじさであった。

 9.2日、全ロシア中央執行委員会の決議は、「労農政府の敵による白色テロに対して、労働者農民はブルジョアジーとその手先に対する大量赤色 テロを以て応えるであろう」と宣言した。以後、チェカを中心とする赤色テロは、組織的計画的に展開される。だが、左派エス・エル全体が禁止された訳ではなく、「反革命活動に加わった連中はソヴェトから除名され、蜂起に参加した場合には 逮捕される。‥‥テロ活動に参与しなかった左翼エス・エルの連中の活動は何ひとつ禁じられなかったし、彼らに対する抑圧は限定されたものであった」(ベトレーム前掲書)といわれる。

 レーニン時代は後にくらべれば未だ柔軟な政策をとっている。「メンシェヴィ キやエス・エルの小ブルジョア党が、コルチャックとデニキンに反対行動をとっ た1919年の終わりには、これらの党の合法的活動はふたたび許された。メンシェ ヴィキとエス・エルの党の公然の活動は、クロンシュタット叛乱と、メンシェヴィキや、とくにエス・エルがもっとも積極的に参加したその他いくつかの反革命行 動ののちになって、不可能となったにすぎない。しかし、メンシェヴィキとエス・エルの非合法組織は、多年のあいだいくつかの都市と農村地区に存在していたのであり、ようやく30年代になって、国内では実際に完全に消失し、その活動をやめた」(ロイ・メドヴェーデフ著『社会主義的民主主義』 三一書房)と、いわれる。

 溪内謙氏によると、「政党のうちで共産党一党のみをプロレタリアート独裁の権 力体系の有機的構成部分として位置づける見解が指導者の発言や公式の文書に明 示されるのは、著者の知るかぎり1919年以降であって、それ以前には、そのこと を明確に否定する言明さえも発見することができる」(『現代社会主義の省 察』)と、一党制と党独裁の時期的関係を述べている。

 9.10日、トロツキー軍がカザンを奪回した。第5軍の指揮者イワン・二キチッチ・スミルノフの活躍が大きく貢献した。9.12日、トハチェフスキー率いる第一軍が、シンビルスクを占領した。

 
10月頃の極東における日本軍の総数は7万、総動員数12万人を超えていた。これに米英伊仏軍その他が参戦していた。

 11月、シベリアのオムスクでコルチャーク将軍が反革命政権を樹立。

 11月、待望のドイツ革命が勃発し帝政が崩壊、第一次世界大戦は連合国側の勝利で幕を閉じた。ソヴィエト政府はただちにブレスト=リトフスク条約を破棄したが、ドイツ占領地域のポーランド、ウクライナ、バルト諸国などはすでに独立を宣言していた。帝国主義間戦争におけるドイツの敗北が、結果的に革命政権を救うことになる。

 大戦は終わったものの、ロシア内戦はこれからが正念場だった。連合国は干渉に本腰を入れ、乱立していた白軍もコルチャック提督らのもとに大同団結がはかられた。対する赤軍は、トロツキーの方針により旧帝政軍の将校を(政治委員という目付役をつけた上で)大量に登用して規律を強化し、面目を一新した。これに対しては、ボリシェヴィキ内でも「専制的・農奴的」として反対が強かったが、赤軍が民兵的な組織から本格的な軍隊に生まれかわる上で必要な過程だったといえる。


 1919年は決戦の年となった。赤軍はウクライナ政府を崩壊させ、シベリア、黒海、バルト海各方面から進撃してきた白軍をすべて撃退した。この間、トロツキーが装甲列車で最前線を激励してまわったことは伝説的な逸話となっている。

 1919.1月、ドイツでローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺される。トロツキー、追悼の演説「カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク」を行なう。

 3.18日より第8回党大会。新綱領の採択。同じ頃、モスクワで、コミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)の第一回大会開催。各国共産党を支部とする国際共産主義運動が欧州でもアジアでも展開されていくことになった。

 3月、第3インターナショナル創立大会開催。トロツキーの起草による第3インターナショナルの宣言を採択。

 3.31日、メンシェヴィキの大量逮捕。

 
7月、メンシェヴィキ綱領。「何を為すべきか」

 8月、ペトログラード北西部にユデニッチ将軍が反乱。

 日本軍の干渉は執拗で、干渉も逸早かったがその後の駐留も一番長かった。日本軍はその後も駐留し続け、むしろ4.5日深夜にはウラジオストーク、ニコリスク・ウスりスタ、ハバロフスク、シュコトフ、スパスクで革命軍に攻撃を仕掛けていった。このことは、日本軍が執拗に軍事干渉し続けたとことを物語っている。日本軍のこうした攻撃は革命軍によって阻まれたが、1920.4.30露日間協定により沿海州南部を確保したと同時に、サハリン北部及びアムール川下下流地方を占拠することになった。1920年の春にはロシアにおける日本遠征軍は、17万5千規模にまで膨れ上がっていた。
 

 一兵士としてシベリア戦争に参加した松雄勝蔵氏の著作「シベリア出兵日記」によれば、南京事件に匹敵する「兵と土民の区別無き」鬼畜的蛮行による虐殺の様子が明らかにされている。西原和海「なぜシベリア出兵を行ったのか?」は次のように記している。

 「そのやり口は、あたかもその後の15年戦争における、中国大陸での天皇の軍隊の悪逆ぶりを彷彿とさせる。その意味でシベリアの戦場は、日中戦争の予行演習みたいなものであった」。

 結局、日本軍の軍靴は、凡そ4年2ヶ月に及んだ。これほど長期にわたってロシアの大地と住民を蹂躙しながら、日本が得た戦果におぼしきものは何一つなかった。徒に人命と戦費を消耗させ、兵士のモラルの荒廃を胚胎させただけに終わった。

 11月、トロツキー、ペトログラード攻防戦を指導し、勝利に導く。


 1920.4月、ポーランド軍が西部からソ連に侵攻。ロシア・ポーランド戦争勃発。6月、赤軍がポーランド軍を打ち破り、その勢いを買って、赤軍がポーランド国境を越える。トロツキーはポーランド侵攻に反対。

 列強六カ国の外国干渉軍と国内六方面からの反乱軍との国内戦は五年間にわたり、千二百万人の犠牲を出したが、最後はソビエトの勝利に終わった。

 この間、正規軍同士の抗争に併行して、ロシア・ソビエト新政権は、国際的政商及び米英日各国の首脳や代表的資本家達と丁丁発止の駆け引きを繰り広げていた。詳細は省くが、レーニン及びその指導するソビエト政府は、その一つ一つの交渉を非常に効果的に処理していたことが今日判明する。

 ソビエト政権は如何なる戦略でこれを切り抜けたか。まず、「全注意力を西部戦線強化の準備に向けて集中しなくてはならない。シベリア及びウラルから西部戦線へ出来る限り全ての部隊を至急集結させるための緊急措置を探ることが不可欠と考える。対ポーランド戦に備えるとのスローガンを掲げなくてはならない」(1920.2.27日レーニンのトロッキー宛て電報)として、西部戦線の戦闘に全精力を注いだ。ソビエト政権革命指導部は、ヨーロッパ情勢を有利に切り開くために、「日本軍との戦争を如何にして先延べさせるか」を廻って、あらゆる角度から死活的討議を行っている。

 この時レーニンは、日本又はドイツの動きを注意深く分析している。その国際情勢論は次のようなものであった。

 「ソビエト権力の対外政策の諸任務を考慮する場合、現在、無謀な、あるいは性急な行動によって日本又はドイツの主戦派の過激分子の手助けをしない為には、最大の慎重さ、熟慮、堅忍不抜さが必要とされる。それというのは、これら両国における主戦派の過激分子が、ロシアの全領土を占拠し、ソビエト権力を打倒する目的でロシアに対する即時の又は総攻撃を主張しているからである」。

 レーニン率いるロシア共産党中央委員会(ボ派)は国際情勢の動きを読み取り、この時、類稀なる決定を為している。起こり得る日本干渉軍との決戦からソビエト共和国を救う為、緩衝地帯的な任務を持つ「極東共和国」の創設というアイデアを生み出した。第8回全ロシア・ソビエト大会に向けてのロシア社会主義連邦ソビエト共和国外務人民委員会議の年間報告書には、次のように書かれている。
 意訳概要「ソビエト政府は、日本帝国主義がシベリア南部へ侵入する経路を断たれるような真の緩衝地帯を作り出す必要から、極東共和国創立へ向けて画策する。この時期、日本干渉軍の歓心を買う為の譲歩は致し方なく、それはそれで頃合を見てその後に日本軍を打ち負かせば良い」。

 現下の史実から消されている動きであるが、レーニン指導部は、極東共和国を創立せんとしていた。その狙いは、西部戦線に全精力を注ぐために東部戦線たる日本軍のシベリア出兵との摩擦を極力避け、むしろ「日本干渉軍の歓心を買う為の譲歩」により「限定的平和」を得んとしていた。極東共和国には、「ソビエト・ロシアと日本との間の中間的くさびの役割」を果たすことが期待されていた。その間、西部戦線での勝利を画策する、これがレーニン指導部の戦略・戦術であった。

 レーニンの凄さは次のことにも窺える。1920年初め、レーニンは国際時局を次のように読み取っている。

 「日米両国は形式的には互いに同盟関係にある列強であるにも関わらず、両国の間に、ますます競争や敵対心がはっきりと見受けられる」。

 この「日米間の不和反目」という歴史の低流を分析したレーニンは、次のような方針を生み出した。
 「この反目を利用してロシアを強化し、日米が反ロシアの協定を結ぶ可能性を遠ざけるようにすることを任務とするような政策のほかには、どんな政策も採ることができなかった」。

 メリニチェンコの「レーニンと日本」は次のように記している。
 「レーニンは、1920年の初めには既に『アメリカと日本は、じきに争いを始めるだろう』と述べており、同年末には『日米間の闘争は不可避である』と考えていた。レーニンの考えでは、これは地球の再分割の過程における客観的対立関係や『資本主義国同士の関係』から必然的に生まれてくるのだ。日本の諺にもあるように『商売仇』と云う訳だ」。

 かくて、1920.4.6日、極東共和国が樹立された。5.14日、ソビエト・ロシア政府は極東共和国の臨時政府を公式に承認した。極東共和国人民革命軍(HPA)が結成されている。極東共和国は、その史実的存在が隠蔽されているが、今日的に見て非常に興味深い政体であった。日本とソビエト政権の妥協の下で創出された国家であり、日本側の許容するブルジョア民主主義国家の体裁を保っていた。産業、土地、地下資源、森林及び水資源の国有化と併行して生産手段の私的所有、協同組合の存続が認められていた。A・M・クラスノシチョーコフ(1830−1937年)が政府執行機関の代表となり、H・M・二キフォロフ(1882−1974年)が閣僚会議議長に就任した。

 レーニンは、二キフォロフが極東共和国に出発する際、「さぁ、共産主義者がブルジョア共和国を組織し運営できることを全世界に証明しなさい」との送辞を送っている。レーニンは、ソビエト・ロシアと極東共和国間の公式関係は友好を基盤とするべきだとした上で、極東共和国の自立化を牽制する様々な手立てを弄していた。この頃、極東共和国の党及び政治的指導を目的として、ロシア共産党(ボ)中央委員会内に極東ビュローを創設している。

 しかし、このレーニン的指導は必ずしも賛同を得なかった。根強い極東共和国創設反対派が出現していた。レーニンは彼らとの絶え間なく戦いを余儀なくされている。概要「覚えておくように、東方にあまり突っ込むのは犯罪になることを」(レーニンの赤軍第5軍団革命軍事会議宛て電報)、「緩衝国家反対派を猛烈に罵りつけなくてはならない。党の裁判にかけると脅し、シベリアにいる全員が『これ以上一歩も東へ進んではならない、軍隊と蒸気機関車の西進を早めるため全力を傾けるべし』とのスローガンを実践するよう要求すべきである」と強調し、極東共和国創設反対派を恫喝し続けている。

 7月、極東共和国と日本の代表は特別暫定協定に署名し、「民主的原則に基づいた『緩衝』国家創設は、極東の平和樹立にとって最良の手段である」ことを確認した。レーニン発案のこうした外交指導により、7.17日停戦に関する協定締結へ向かい、同年10.15日までの日本軍のシベリア撤退へと漕ぎ着けることになった。日本軍には、沿海地方南部とサハリン北部の支配が与えられた。

 しかし、ロシア国内の極東共和国緩衝国家反対派によるソビエト化の動きは強かった。レーニンの再々度の警告にも関わらず、ロシア共産党(ボ)中央委員会シベリアビュローの支持を受けた極東ビュローは、「極東共和国緩衝国家の廃止」の方向へ動き始めていた。

 レーニンの情勢分析と戦略は見事に成功し、白衛軍主力を壊滅させる。 これにより、1920.4月チェコ、米国、英国を始めとする連合国干渉軍は対ソ封鎖を解かざるを得ず、撤退を余儀なくされた。赤軍勝利の背景には、ボリシェヴィキ政権の厳しい徴兵・食料調達にもかかわらず、農民の白軍支持が広がらなかったことがある。農民はボリシェヴィキの強硬手段に反発しつつも、貴族・地主の支配が復活することも望まなかった。

 7月、コミンテルン第2回大会。トロツキーが起草した第2回大会の宣言が採択。

 12月、労働組合論争が激しく行なわれる。


 1920年の春までに内戦の帰趨はほぼ決し、白軍を支援していた英仏米の干渉軍も撤退していった。11月、最後の白軍部隊がクリミア半島から撤退したことで、3年におよんだ内戦はボリシェヴィキの勝利で幕を閉じた。ただ、日本軍だけが1922年まで無為にシベリア駐留を続けた。

 1921.1月、引き続き労働組合論争。

 同月、第10回党大会が開催され、新経済政策(ネップ)が採択されるとともに、分派の禁止が決議される。

 2月、クロンシュタット軍港で反乱部隊が蜂起。

 クリミア遠征が、内戦の最後の闘いとなった。1921年に革命と、内戦、干渉戦に勝利したソビエト権力は、政治的に一元的な強固な国家となった。この内戦の終了によって、ロシア革命は終わりを迎える事になった。

 1921.1.4日、レーニンを議長とするロシア共産党(ボ)中央委員会総会は重ねて声明している。「極東共和国のソビエト化の承認は、現時点では無条件に許されない。それは、日本との条約を侵害する如何なる措置も許されないのと同様である」との決議を為し、「極東共和国緩衝国家の廃止」の動きを掣肘しようとしている。レーニンは、最後まで「緩衝的存在の極東共和国の果たす役割を高く評価」し、意義を認め続けていた。

 1922.11.14日、極東共和国の人民大会が開かれ、全ロシア中央執行委員会に対し、極東共和国のロシア社会主義ソビエト共和国入りと、同共和国にもソビエト憲法が及ぶよう要請決議した。その翌日、全ロシア中央執行委員会は、「極東共和国は、ロシア社会主義ソビエト共和国の不可分の構成単位である」と宣言した。つまり、干渉と内戦に勝利したソビエト権力にとって極東共和国の役目が終わり、日本との約束を反故にしたことになる。ロシアの内戦と外国からの武力干渉時代の終焉を語る象徴的な史実である。



 1922年夏ごろ、極東に片山潜がやってきて、日本軍のシベリア出兵に対する反戦運動を組織し始めている。日本兵へのアピール文において、十月革命の意義と兵士の厭戦、反戦気分を煽り、そうしたプロパガンダに止まらず実際に反戦兵士の組織化運動に一定の成果を収めている。





(私論.私見)