革命政権の布石、ブレスト・リトフスク講和 |
(最新見直し2006.1.1日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ブレスト・リトフスク講和」前のロシア−ドイツ関係」を確認しておく。10月革命を成功させたポルシェヴィキは、建国当初より戦争政策廃棄を掲げていた。戦争政策廃棄は革命前の公約であり、戦争継続は革命政権の社会主義政策と馴染まなかったからである。それはドイツとの平和交渉を意味していた。ボリシェヴィキの主張は戦争の即時終結だったが、問題はいかにしてそれを実現するかであった。「全交戦国に対する民主的講和」の呼びかけは、連合国にはまったく無視された。英仏からすると、ロシアの革命政権の平和政策は、対ドイツ共同戦争からのロシアの脱落でしかなかった。ドイツはこれを好機と見て、交渉に応じた。ロシアとの和睦は、東部戦線を終結集結させ、英仏との西部戦線戦闘に兵力を集中させることができるからであった。 しかしドイツは、ロシアとの講和において威圧的であった。一つには軍事的優勢であったこと、もう一つの理由としてポルシェヴィキ革命政権基盤の脆弱さを見抜いていたからであった。ドイツは、ポルシェヴィキの唱える「民族自決権の尊重」を逆手に取り、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、クールランドのロシアからの離脱を促し、事実上ドイツの保護領化せんと目論見つつあった。 こうして、10月革命からその翌年にかけて、ソビエト・ロシアと帝政ドイツとの間の講和問題が懸案化した。ドイツ帝国による革命政権の揺さぶり策であったが、レーニン指導部はこれに如何に対応したかが「ブレスト・リトフスク講和問題」である。 |
【ブレスト・リトフスク講和交渉始まる】 |
1918.1.7日 レーニンは和平を要求し、ブレスト・リトフスクで独露の講和会議がはじまった。ドイツの講和条件は高圧的であった。ポーランド、リトアニアなどすでに占領している地域の割譲を要求した。「無併合・無賠償の講和」というソヴィエト政権の呼びかけに反する事態であった。 ロシア内に強い愛国的憤激が生じた。ボリシェヴィキ首脳部の反応は混乱を極めた。ブハーリンらは、講和会議を打ち切って「革命戦争」を戦い抜くべきだと主張した。そのうちにドイツでも社会主義革命がおこって、「民主的講和」が可能になるだろう、と考えたのである。 この時、戦争を続けるための軍はロシアになかった。兵士の厭戦気分はすでに頂点に達していた。しかも農村では「土地に関する布告」に基づいて土地の分配がはじまっており、兵士たちは故郷で分け前にあずかるために続々と脱走していた。その数は200万に達したといわれる。 |
【ブレスト・リトフスク講和を廻るボルシェヴィキ党内の見解の対立】 | |
ブレスト・リトフスク講和を廻り、ボルシェヴィキ党内は見解が対立した。抗戦派と中間派と和睦派の三派に分かれた。ブハーリン派が抗戦を唱え、講和に反対して革命戦争論を主張した。クィヴィシェフ、ヤロスラフスキー、ブブノフらが賛同した。トロツキーは、ドイツ革命に期待しつつ「戦争も講和もせず」という中間の立場に立った。ジノヴィエフ、スヴェルドロフらは、一刻も早く講和調印すべきだと主張した。講和派は少数派だった。レーニンは、講和を主張したが珍しく旗幟鮮明でなく、トロツキーの外交交渉に委任した。カーメネフは、トロツキーとレーニンの見解を移り気していた。
採用されたのは、「戦争もしないが講和もしない」、つまりダラダラと交渉しつつドイツ革命を誘うというトロツキーの案であった。ソビエト政府はトロツキー外務委員を代表におくった。トロツキーは事前に講和なしの停戦で臨むと公言した。ドイツはキュールマン外務次官が代表したが、実際はホフマンが参謀本部の指示ですべて決めていた。会議はトロツキーの演説ですべて始まりすべてが終わった。1週間進捗がなかった。トロツキーは、交渉引き延ばしをはかった。 |
【ブレスト・リトフスク講和交渉経緯】 | |||
ドイツ参謀本部も業を煮やし督促した。その間、戦争の本質を知らしめて世界の労働者を怒らせようと、帝政ロシアが各国と結んだ数々の秘密条約が暴露された。軍の再建もはかられ、1月に志願制の「労働者と農民の赤軍」(赤軍)が創設された。しかし、志願する者はまだ微々たるものだった。 1.21日、革命政府は、集会でドイツとの戦争の是非を問い、票決した。その結果、革命戦争完遂を要求するブハーリン派が32票、中間派のトロツキー派が16票、戦争終結のレーニン派が15票となった。トロツキーの「我が生涯2」は次のように記している。
1.22日、中央委員会の最終的な会議で、「交渉を引き延ばし、ドイツ側が最後通牒を出した場合には、戦争終結を宣言する。但し、講和調印は拒否する。その後は、状況に応じて行動する」というトロツキー案が可決された。 1.25日、ポルシェヴィキ中央委員会と同盟関係にあったエスエル左派との合同総会で、トロツキー案が可決された。 1.28日、ドイツ側は最後通牒を突きつけドイツ案の調印を迫った。トロツキーは予定した最後の手段に出た。講和条約なくして戦争を終了させようと長演説をふるった。2月になると、ドイツ代表がしびれを切らした。これに対し、トロツキーは「理不尽な講和には応じないが、一方的に戦争を停止する」と演説し席を立った。 2.18日、ドイツ軍は攻撃を再開した。ホフマンを司令塔とするドイツ軍は直ちに東部軍を前進させバルト海沿岸に迫った。抵抗はなにもなく1週間で300km進んだ。キーエフを陥落させ、ヘルシンキを占領し、ペテログラードに危機が迫った。ロシア軍は総崩れとなり、無人の野を行くようにドイツ軍は進撃した。
その後、レーニンの見解は講和調印へ急速に傾いた。首都をペトログラードからモスクワに移転させた。新革命政府の焦眉の課題は、平和の実現となった。レーニンは、現実を踏まえ、ドイツ革命に期待するより現存する唯一の「労働者の国」を守ることが先決で、そのためにはすぐ講和に応じるべきだと主張し始めた。レーニンは、革命を救うには他に方法がないと判断し、「まず平和、何が何でも平和を欲した」。「講和を結ばなければ、政府と中央委員会から辞任する」とまで云い始め、講和を強く促した。「ウリツキー、ジェルジンスキー、ローモフ、ヨッフェ、ブブノフらは全てレーニンに反対した」が、ジェルジンスキーは最後の段階でレーニン見解に同調した。ソヴィエト政府はレーニンの方針をとって講和に応じざるをえなくなった。
トロツキーは、再度抵抗のあとの休戦を考えた。連合国に救助を依頼した。英仏は東部戦線におくる軍は当然ない。唯一イギリスの外相バルフォアが出したのが日本の支援だった。シベリア鉄道の範囲で、日本軍を駐留させるというのである。日本政府の了解もまだだし(軍部からはあったようだ)、ボルシェビキはまだ極東に関心がなかった。そしてこの話は当然時間切れになった。 |
【ブレスト・リトフスク講和条約締結】 |
レーニンは新政権はただちにドイツと単独講和の交渉を再開した。 1918.3.2日、新革命政府は講和条約にやむなく署名、ブレストリトウスク講和条約調印となった。ドイツ側の要求を無条件に受け入れた形で締結した。3.22日、条約は、ドイツ国会によって批准された。 ソビエト政権はこの時に無併合、無賠償、民族自決を主張したが、ドイツの要求に屈し、ロシアはドイツの占領する広大な西部地域(ウクライナ、バルト海地方、フィンランドなど国土面積の13分の1、人口の3分の1、耕地の4分の1、石炭・鉄生産の3分の2)を放棄放棄することになった。革命政府はロシアの6分の1の領土を失い、3分の1の人口、鉄と石炭の4分の3を失った。 こうして、ロシアは第一次世界大戦から離脱した。ロシアがこの戦争で受けた人的被害は戦死者250万人、戦傷者400万人、捕虜200万人、戦中の民間人の死者200万人と推定される。この数字は他のどの2ヶ国を合計したものより多い。 ところが、のちにドイツの敗戦によりこの条約は無効となり、失われた領土は回復されることになる。しかし、この時放棄した土地からバルト3国やポーランドなどの新興国が生まれることとなる。 |
![]() |
万事、物事には功の面と負の面が有る。レーニンのこの時の歴史的判断も俎上に乗せられねばならない。歴史は多面体であり複眼的に考察されねばならない。「レーニンはこれ以降もルーデンドルフの総力戦論をもちあげており、何かあった可能性がある」との指摘もある。 |
【トロツキーの述懐】 | |
1918.10.3日、トロツキーは、ソビエト権力最高機関臨時合同会議で次のように述べている。(「我が生涯2」)
|
(私論.私見)