「秘密警察『チェカ』創設とその後の歩み」

 (最新見直し2005.12.22日)

【チェカ創設】
 宮地健一氏の「1917年〜22年のレーニンと赤色テロル」その他参照する。

 
1917.12.7(20)日、10月革命の成功より6週間後のこの頃、ボルシェビキ政権は、革命軍事委員会の内部に、非常委員会と云われる警察権力をこしらえることにした。「反革命および怠業(サボタージュ)、投機行為、破壊活動」を取締りこれらと闘うことを目的として設立した。フランス革命時の「ジャコバン独裁の公安委員会」、「治安委員会」を見習った秘密政治警察でありロシア語の略号で「チェー・カー」と呼ばれ、内外の敵に対して新政権を維持する為の政治警察となった。これは、「社会主義政権が保有した世界初の国家テロ・オルガン(機関)」となった。

 秘密政治警察チェカ」創設は、レーニンがこれを強く要請した。レーニンは、マルクスの「パリ・コミューンの機構分析」あるいは彼独自の「フランス革命がなぜ敗北したのか」という原因研究から、その結論の一つとして、少数派の暴力革命政権を維持する為には、「ジャコバン公安委員会」、「治安委員会」のような秘密政治警察機構とその強化、暴力行使をもっと強化するべきであったと教訓化していた。このことから、権力維持の為の超法規的な弾圧機関として秘密政治警察「チェカ」の創設を急いだ。10月革命が予想に反して「異常にたやすく与えられた」勝利となったのに比して、革命後に困難が訪れた事態に対応する暴力的国家機関であった。

 チェカの初代長官にはユダヤ系ポーランド貴族でレーニンと古い戦友であった当時党中央委員のフェリックス・ジェルジンスキーが起用された。副長官はエスエル左派党員であった。「チェー・カー」の要員には、帝政以来の政治警察官吏が登用されていった。ジェルジンスキーは、長官就任演説で次のように述べた。
 「正式の裁判など、私の知るところではない。私には裁判など必要ない。必要なことは、反革命と徹底的に闘うことだ。反革命を皆殺しにしてやる」(鬼塚英昭「20世紀のファウスト」35P)。

 創立時点では、反革命勢力の策略と闘うことにあったと推定される。いずれにしても、革命的公安の任務を民衆的ソビエトの手に委ねず、ボルシェビキ政権下に置いたことは問題であった。「チェー・カー」はやがて内戦がはじまると、逮捕状なしの逮捕、裁判なしの処刑、無制限の拷問を行うなど、超法規的な権限が与えられ、恐るべき弾圧機関となり、急速にそれ自身の監獄と武装組織を有する機構に育っていった。

 胚芽的なこの警察細胞から、やがて二十世紀の最も怖るべき抑圧機構、スターリン時代のゲーペーウー(GPU)(国家政治局)、MGB(国家保安省)を経て、1954.4月、閣僚会議直属のカーゲーベー(KGB)(国家保安委員会)が育ってくる。

【チェカのその後の猛威】
 「チェカ」は一旦創設されると次第に権力を獲得していくことになる。1918.1.27日、レーニンはペトログラードのソビエト幹部会で、ボリシェヴィキによるテロの意義を次のように述べている。
 「テロを活用し、反革命分子を摘発の現場で即座に射殺しなければ、我々は何事をも為し遂げることはできない」。

 2月には「反革命分子、スパイ、投棄師、強盗、無頼漢、怠業者などの寄生虫どもを撲滅するには、犯罪の現場で容赦なく処分する以外に方法がない」と宣言し、即決処刑への道を拓いた。3月、ソビエト政府がモスクワに移ったのに伴い、「チェカ」も本部を都心のかって全ロシア生命保険会社だったビルに移転した。これをきっかけに、規模も大きくなり夥しい数のスパイとエージェント(協力者、密告者)が雇いいれられた。一年もたたないうちに田舎の町や村にまで支部を置くようになった。

 こうなると、当初の反革命分子の摘発という意図を越えて、中央の人民委員や地方の指導者を監視するまでに至った。「人民委員会議は、チェー・カー議長の報告を承認し、現状においてはテロを手段として、ソビエト政権の背後を守ることが急務であるとみなす」と宣言している。

 8.30日、レーニンは、モスクワでの労働者集会へ出席した際に、女性テロリストに狙撃され負傷した。前後してペトログラードでは、政府高官のヴォロダルスキーと「チェカ」の地方長官・ウリツキーが暗殺された。レーニン狙撃の翌日8.31日、「チェカ」は、「ブルジョアの手先どもは、労働者階級の逞しい腕を感じなければならぬ」と警告し、これを受けて9.2日、ソビエト権力の最高機関・全ロシア中央執行委員会が次のような宣言文を発表した。

 「卑劣な極悪人どもが、我々が闘う手段を持っていないと考えるなら、間違っている。我々はそれを持っており、すぐにそれを見せるだろう。我々は反革命策謀の全ての根源を仮借なく、ためらうことなく打ち砕くだろう。(中略)人民の敵に対して我々は数百万の労働者、農民を差し向けるだろう。彼らは敵どもに人民のこぶしの力を知らせるであろう。全てのチェー・カー組織は、反人民テロリストを容赦なく逮捕し、投獄し処罰せよという厳命を受けた。革命の敵どもがソビエト国家の表面から消え去るまで、我々は一つリ目には百の目をもって、一つの歯には百の歯をもって報いるであろう」。

 こうして、ボリシェヴィキ政権は、白色テロに対抗する赤色テロを発動することに踏み切った。

 9.3日、ボリシェヴィキ政権は、ウリツキー殺害の報復として500人の市民がペトログラードで銃殺されたことが公表された。以下、チェカ週報は、数十名から数百名規模のいもづる式銃殺を報じていく。

 9.4日、内務人民委員部がブルジョア階級から人質をとり、仮借ない「集団テロ」を適用するむねを宣言した。

 9.5日、司法人民委員部が赤色テロに関する布告を発令し、この中でチェカは「階級の敵」を収容所に入れ、反革命に加担する者全てを処刑する権限が与えられた。

 こうして、チェカの権力は肥大する一方となり、その活動は如何なる制約をも受けなかった。党中央委員会の「全チェカの党員活動家への公開状」が出され、「チェカの組織は、党の指令及び監督のもとに、専ら党の機関として設立され、存在し、行動するものである」と明記された。

 しかし、さすがに権限の面で競合関係に立つ内務、司法両人民委員部からチェカの権力を制限すべしという意見が生まれ、1919.2.17日、チェカが扱った事件について宣告を言い渡す権限は新設の革命裁判所に委ねるという布告が出された。しかし、この布告はチェカの活動を制限することにはならなかった。チェカは、国家の機関たる革命裁判所の枠外で活動する機関としてフリーハンドな地位が保証されていた。

 10月には、革命裁判所は、チェカの下部機関になりさがった。この裁判所は、「専ら革命のの利益のみ」に従って活動し、「いかなる法律上の形式」に従う義務も免除され、その判決は上告を許されなかった。いわば、党権が国権よりも上位を占めた。

 初代長官ジェルジンスキーの精力的な指導によって、チェカは次第にその支配力の範囲を広げ、ソビエトの行政、経済の重要分野でチェカの査察を免れるものはなくなった。特に、交通・運輸・産業の部門に統制力を浸透させた。

 1921年、ソビエト国境の警備を担当し、正規軍の中に秘密警察網を確立した。チェカは「国家の中の国家」と呼ばれるようになった。1922.2月、廃止され、内務人民委員部の中に国家保安局(GPU)が新設され、翌1923年ソビエト連邦が結成されたのに伴いGPUは合同国家保安局(ゲー・ペー・ウー、OGPU)に改組された。その任務はチェカのそれを引き継いだものであり、長官にはジェルジンスキーが留任した。

 ジェルジンスキーは、国家保安機関を創設し、育成し、その権力を揺ぎ無いものに仕上げた後、次第に政治家としての関心を経済の分野に移した。1921年には既に交通人民委員を兼ねていたが、1924年.4月には政府の最高経済会議議長となり、ソビエトの経済部門を統括するようになった。

 そのジェルジンスキーは1926年に死んだ。彼が創り上げた国家保安機関は、スターリンとその配下の手に委ねられることになった。スターリンが多くの先輩や同僚を粛清して権力の頂点に登り詰め、その後の強権政治を可能にさせたのは、ジェルジンスキーが築き上げた国家保安機構に依拠できたからに他ならない。国家保安機関はその後も成長を遂げつづけ、ソ連の政治過程に深く入り込むことになった。

 ジェルジンスキーの死後、メンジンスキーがゲー・ペー・ウー長官に就任し、「メンジンスキーは、ゲー・ペー・ウーに於けるスターリンの忠実な影になった。メンジンスキーは単にゲー・ペー・ウーの長官であるばかりか、中央委員会のメンバーにもなった」。

 「秘密政治警察チェカ」は、スターリンに拠れば、「それは革命の不眠不休の番兵、プロレタリアートの研ぎ澄まされた剣」であり、後のKGB(国家保安委員会)に至る国家保安機関となった。

 
(木村明生「秘密警察チェー・カーの誕生」参照)


【「チェーカー週報」】
 当時、チェーカーが自ら発行していた「チェーカー週報」では、その具体的な戦術を次のように明らかにしている。
 「エスエル(社会革命党)右派の党員はただちに逮捕せよ。ブルジョアからは数多くの人質を確保しなければならない。わずかでも反革命の動きがあれば、人質は即座に銃殺せよ。我々の指導者一人の命が奪われれば、人質一〇〇人の頭を吹き飛ばせ」(「社会主義の20世紀 第6巻」日本放送協会、193頁)。

 「チェー・カー創設」にはレーニンが直々に関与しており、赤色テロルを命じた文書が残されている(「レーニン全集」に収録されている)。その幾つかを紹介する。
 1918.8.9日付け指示書「イェ・ベ・ボーシへの電報」(レーニン全集36巻、577頁)
 「貴電拝受。選抜された信頼できる人々で強力な警備隊を組織し、富農、僧侶、白衛軍人に対する仮借のない集団テロルをくわえ、疑わしい人間を市外の強制収容所に拘禁しなければならない。討伐隊をさしむけよ。遂行状態について打電されたい」。
 1918.8.9日付け指示書「ニジニ−ノヴゴロド代表ソヴェトへ」(レーニン全集35巻、376頁)
 「ニジニで白衛派の放棄が準備されつつあることは、明白である。全力をあげて、独裁官の三人委員会を編成し、ただちに大衆的テロルをおこない、銃殺せよ、兵士、旧将校、等等に酒を飲ませる数百の売春婦を追放せよ。

 一刻も猶予できない。全力をあげて行動せよ。大がかりな家宅捜索をおこなえ。武器の隠匿には銃殺を課せ。メンシェビキと危険分子を大量に放逐せよ。倉庫の警備隊を信頼のおけるものと交代せよ」。
 1918.8.20日付け「リヴヌィ執行委員会への電報」(レーニン全集35巻、382頁)
 「蜂起した富農の穀物全部と全財産を没収し、富農の首謀者を絞刑に処し、わが部隊のうちの信頼できる指導者のもとに、貧農を組織し、武装させ、金持の人質を逮捕し、それらの人質の郷で余剰穀物全部の集荷と収納がおわるまで、抑留しておくべきである。実行状況を打電せよ」
 次の命令書は、食料徴発の抵抗が激しかったペンザ市の党指導部に宛てたものであり、ソ連崩壊後に発見された極秘のものである。
 「五つの郷での富農の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。
 二、彼らの名前をすべて発表すること。
 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい」(『あらかじめ裏切られた革命』岩上安身著、講談社文庫、394〜395頁)。

 この命令書は、レーニンの非人間的な性格を表しており、その残虐な命令を想像しただけで「恐怖におのの」いてしまう。このタンボフの農民反乱に対して、ボルシェビキ政権は1921年4月に最強の軍隊を投入し、次のような残忍な命令をおこなったという。
 「反乱の中心地を占領し、『匪徒村』をとりだし、その村のすべての男子を革命軍事裁判所にかけると宣言し、家族を人質に取る。二週間の投降期限内に投降しなければ、家族は県外追放、財産は没収する。また軒並み家宅捜索を行い、武器が発見されれば、その家の年長者をその場で銃殺することも命令された」(『社会主義の20世紀 第4巻』日本放送協会、103頁)。

 赤軍司令官・トハチェフスキーの農民を毒ガスで虐殺するようにも命じた次のような指示書も残されている。
 概要「暴徒の残党が森に集結しつつある。直ちに森を掃討するために、毒ガスを使用し、ガスの雲を拡散させ、かくれている者を一人残らず抹殺することを命ずる」(『赤いツァーリ(上)』エドワード・ラジンスキー著、工藤精一郎訳、271頁)。

 1918年〜21年の間にロシアでは赤色テロルの嵐が吹き荒れた。赤色テロルの犠牲者数については、『KGBの内幕』(アンドルーほか著、福島正光訳、文藝春秋)が1918年から21年の間に25万人以上が処刑されたとしている。

 まずは、レーニンとの訣別を」(投稿者:社民精神)より一部転載

(私論.私見) 「レーニン指導の赤色テロル」考

 スターリンによる大粛清に先立ってかような赤色テロルが吹き荒れていた史実を検証せねばならない。それは、スターリンによる大粛清と無関係という訳にはいかない。

 2005.11.30日 れんだいこ拝


【革命政権の政敵弾圧政策考】
 1917.10月のロシアで最も人気のあった「すべての権力をソビエトへ」というスローガンは、瞬く間にソビエトに対するボリシェヴィキ党の支配権力へと変わった。「労働者管理」は、ただちに企業と労働者に対する「労働者」の名を詐称しての国家管理にとって代わられた。1917年を通じて労働界の一部に培ってきた信頼の大部分を、ボリシェヴィキは数週間のうちに失ってしまった。

 第三の食い違いは新権力と旧帝国の諸民族との関係だった。ボリシェヴィキのクーデターは、新指導部が当初支持したかにみえる遠心的な傾向に拍車をかけた。旧帝国の諸民族の平等と主権、それに民族自決権や連邦加入権、分離独立権を認めていたボリシェヴィキは、他の諸民族にロシアの中央権力から自由になるように勧めるかのように思われた。数カ月のうちにポーランド人、フィンランド人、バルト人、ウクライナ人、グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人が独立を宣言した。ウクライナの穀物やコーカサスの石油や鉱物などの確保といった新国家の死活問題の解決の必要性に迫られたボリシェヴィキは、少なくとも領土問題に関しては、臨時政府より旧帝国の後継者として、やがて諸民族の自決権をはっきり二の次にするようになった。




(私論.私見)